透明な檻
浮いている、と思ったときは、だいたい、地面から数ミリ浮いているのだと、きみが云う。
いやなことがあったら、海を見に行くのは、別れた恋人がそうしていたから。赤信号を無視して走り去ってゆく、オートバイの爆音。深夜の街に余韻を残して。
きれいに焼けたホットケーキに、無感動でナイフを入れるきみが、笑うよ。あしたが、もし、みえたら、つまらないねって。
氷点下二度の日、むかしの恋人がかならず、ぼくの目の前に現れる。まぼろしだ。ぼくの吐く息は白く、恋人の吐息は無色透明で、空から舞い落ちてくる雪はすぐにとけて、きえる。
水族館が好きだよ。
魚たちはみな、ぼくに無関心だからだ。
コーヒーよりも紅茶が好きだから、きみが淹れるコーヒーをさいごまで飲めないのがときどき、狂おしい。
眠れない夜は、好きなものをひとつずつ、丁寧に数えるといい。ひつじを数えるように。寂れた無人駅にあった青いベンチ。紫色に光るスナックの看板。おんなのひとが吸うスリムでもロングでもないたばこ。学校のかたすみに落ちている上履きの片方。図書館の誰も借りないような本が並べられた棚のぎちぎちした感じ。
そういえば、きみのはなしをしようか。
ふつうのひとにはみえないものがみえるのが、ぼくだとしたら、ふつうのひとにはみえるのにみえないものがあるのが、きみだ。
オムライスのなかみは、チキンライスよりバターライスがいいのも、きみで、カレイとヒラメの見分け方がわかっているのも、きみだ。
もちろん、ゆうれいがみえるのも、きみだった。
残響。
ヘッドフォンのむこう。
海の上で踊る、髪の長いおんな。
いままでの恋人たちは、みんないなくなり、そして、きみだけが、残った。
透明な檻