*星空文庫

椿の花に雪のふりつむ

玉置こさめ 作

  1. 第一章
  2. 第二章
  3. 第三章
  4. 第四章
  5. 第五章
  6. 第六章

風鈴師シリーズ 冬の話(仮)の草稿です。サンプルです。続きは電子書籍にて公開予定です。

フウリンーーー
それは魔的とすら表現される、前代未聞のテクノロジー。
その工法の秘密を明らかにすることは罪とされる。
そもそもの風鈴とは単音の楽器だ。楽器と見るならば、それはあまりに単調な器物であろう。しかし、人々がこぞってその軒先に風鈴を吊り下げ、夏の風物詩と称されるほどに浸透したからには、やはり秘密がある。
ただ単調な響きとも思えるその一音には、実のところ妙なる和音が蔵されており、それが人々の耳に快い響きとして残る。そして、涼しい、という感じを呼び起こす。
風鈴がもたらすのは、音であって、涼風ではない。肌に涼風を吹流し、暑さを直接慰めるわけではない。涼しさを耳の皮膚で感じるわけではない。鼓膜で覚えるのだ。
そもそも、涼しさとは何か。
本来的には、それは大体が肌の触覚で覚える感覚であろう。
だが、耳から入る風鈴の音も確かに『涼しいという感じ』を人に与える。
つまり、こう言い換えられる。
涼しさとは、肌だけではなく、耳で感じることもできる感触と言える。その上で、風鈴は確かに効果的な器となりえる。だからこそ、暑い夏にのみ、用いられる。
さて、風鈴は鳴るもので、それは音が響くということだ。風鈴は無人の場所でも風が吹けばちりんと鳴り響く。その場にたまたま人がいれば、その人は涼しさを覚える。
これが風鈴の効果だ。
フウリン士の道具はこれら風鈴とは異なる。だが、限りなく近いものとして、風鈴と涼しさの因果関係は前置きされる。
フウリンは効果する。
風鈴と同じように、空間に効果する。
そして、人にもーーー

第一章

リニア式の新幹線に乗って、北の山野に至るまでの車窓の眺めの移ろいは、同じ国でありながら、まるで異次元だった。都会育ちの少女にしてみれば、その景観が美しければ美しいほど、心細さの種となった。
新幹線は少女をその地方都市へ運び入れた。
列車を乗り換える。
急行から鈍行へ。
そして、広沢町に到着した。
あたりに行き交う人々と自分が別の生き物であるようにすら感じる。
少女は、制服だ。白い縁取りのグレイのブレザー。白いシャツ、白いベスト。千鳥格子のスカート。胸元にはえんじ色のタイがアクセントとして効いている。
式典用のその制服。気合をいれるために選んだのだが、どうやら浮いている。まず、人の行き来が少ない。少女のような制服姿は見受けられない。
薄いねずみ色の革鞄の取っ手を、強く握り締める。
道を尋ねた駅員や、弁当売り場のおばちゃんの優しさは、少女の恥ずかしさを見抜いての対応か。駅前の停留所でバスを待つ列に加わる。その間も、前後する人達の会話を耳にして、人の空気のなかにいると思えた。
ここが異国であるにしろ…
次第に心がほぐれてくる。
寂しくはあるが、これは人々の群れの谷間に感じる寂しさだ。(大丈夫)
と、思い直す。
だが、バスに乗ってからは、いよいよ人の姿が減ってゆく。町の人たちは自分の家のある停留所で降りていく。
最早、乗客は少女のみ。
終着地点に至る。そこで降りた。
山のふもとの町外れ。日暮れ前とはいえ、空気はしんと冷えている。
人里と山の頂との境界線にあるバス亭。「黒岩山」とある標柱を、しげしげと眺めた。
山の頂(いただき)を仰ぐ。舗装された道は登山口の手前で尽きている。常緑樹の木々がなす山林。わずかな間呆けていたが、意を決する。
地図上では点にすぎない距離だ。
周囲の山々に比べれば、穏やかな標高。しかし、その距離を侮ってはならない。
足の装備は革靴。旅慣れない少女に、山登り用のシューズの用意はなかった。鞄から櫛を取り出した。それまで防寒具としておろしていた長い髪を櫛で梳く。纏め上げる。腕に巻きつけていた、お気に入りの飾り紐で結う。一歩を踏み出す。とにかくも、歩きはじめる。
誰にも自分を止めることはできない。山頂は遠い。それでも、あと少しだった。
ここに至るまでの道程を思えば、こんな山は何でもない。
それは長い道のりだった。山に至る前から、この広沢町に至る前から始まっていた道。少女には、この山の頂へ進むべき理由があった。
ここに至り、鮮明になる。
復讐心。それだけだ。
それだけのために、歩きはじめる。



平沢市平沢町―――
北上盆地の南部に位置する、平沢鉄器の名産地だ。
町の西から東には、ゆるやかな勾配をもつ龍成川が流れる。
町は、その川の形成する扇状地の中央に位置する。
東には北上山地が遥かに見渡される肥沃な大地。
龍成川のふもとは古来より鋳物の名産地であった。
川の下流には流れによって岩鉄などの砂鉄が運ばれる。
そして、鋳物土と呼ばれる、鋳物業には欠かせない原材料を産出する。
砂鉄や粘土だけでなく、鋳物の仕上げに欠かせない漆や木炭なども、この川と土とが育む。
龍成川は平沢の町を豊かにする。
この町に鋳物業は深く根付いている。
時は正陽十三年。
広沢鉄器はそれまでのどの歴史にも似ていない新時代を迎えていた。
響きの良さから、鉄瓶に次ぐ名産品と呼ばれる広沢風鈴。
その音域を利用した用具『冬のフウリン』が世に輩出された。
フウリンとは、ある一定の素養を有する者だけに製造し得る、その効果によって、自然のバランスを調整する道具のことだ。『冬のフウリン』は、広沢の土によって製造される。
その効果を目の当たりにした者は、口を揃えて云う。
まるで魔法のようだ、と。
魔術ではない。だが、確かにフウリンは魔術にも匹敵する奇想天外な道具だ。
鋳物の伝統の歴史を紡いできたのはすべて男達だ。
しかし、フウリンの製作者は女性のみ。そして、彼女達の手によるフウリンの工法は公開されていない。
フウリンの製作者はフウリン士と呼ばれ、屋号を有する。
屋号は連綿と引き継がれてきた男たちの歴史との決別を象徴している。
フウリン士は自然に与する。
人間社会ではなく、自然に与する。
その決心のあらわれだ。
冬のフウリン士。
屋号は小雪屋。
本来の黒岩椿という名からかけあわせて、その通称を小雪屋椿という。
その人の邸宅が、少女の目指す山の頂にある―――



しかし、少女は、決して登山を楽しみに訪れたわけではない。
下ばかり見ながら息を荒くして登っていく。足取りの不確かさが自分でも信じがたい。山の傾斜のむごいこと。つい、毒づいた。
「じょうっだんじゃない…」
苛立ちを眉間に浮かべる。
膝が痛みはじめる。革靴は、何度も少女の足を立ち止まらせた。
汗が染みてきた。衣服が素肌に絡みつく。
目の前に横になった杉の丸太があらわれた。少し休もう。それを椅子代わりに腰掛ける。深く息を吐いた。
すっと涼風が吹きぬけた。
空気はからりと乾いている。
季節は秋。ふと気がつく。どれだけの道を歩いてきただろう。
振り返って、いかに盲目的にがつがつと歩いてきたかを思い知った。背後はもう平面の世界から離れ、高い景色を見渡すことができた。
「うわ…あ…」
平沢の町が一望できる。
不自然な体勢をやめて、丸太からおりた。正面から下界に向き直る。
青く澄んだ空を山々の稜線が切り取って、その盛り上がりはほのかな紅葉に淡く色づいている。
山間(やまあい)の町の屋根屋根は、横たわる龍成川に寄り添って集まっている。ところどころ立ち上る煙。その下にあるのはすべて鋳物の工房だ。これほどの広大な大地でありながら、無駄なものは一切無い。
山の木陰の静けさ。
生き生きと燃える紅葉の兆し。
木々の緻密で放埓な支度しあう呼び声が、栗鼠たちの囁きが聞こえそうだ。秋はどんな秋も山からくるのだろう。紅色に、黄色に、山すそまでが染め上がる季節。風によってでも、雨によってでもなく、自ずから生じる秋の呼び声。
孤独はもう感じない。そこはもう自然のさなかだった。
勇気を得て、また歩きはじめる。
黙々と、確かな足取りで。
やがて疲労が失せ、肩が軽くなってきた。ハイになっているのかもしれない。
紅いものが視界に入った。明らかに人の手を加えられた造形物。竹の一節をすっぱりと切った筒。それをぐるりと弦で囲んで、枝から提げてある。

竹筒には真紅の椿が一輪―――

少女は立ちすくんだ。自然のなかで、突如、人のものに出くわす。そのことに、何故か畏怖を強いられる。しかし、悪い夢から醒めたような心地よさも覚えた。
その椿の掛けられた木から向こうとこちらでは、様子が異なる。
慣らされた広い道が山頂へ向かって細くなっており、唐突に途切れている。代わりに、雑木林が視界を埋め、中央の木々は枝を払われている。その奥へと空間は続いている。その道は落ち葉と土の道だ。
躊躇せず、その隙間へと分けいる。小道をひたすらに歩いていくうち、芳醇な香りに包まれた。それは、この山が醸す土の香りそのものだった。天然自然の香りだ。山の裾野から頂へと吹き抜けてくる。道を通り抜け、大地から運ばれてくる。つまり、道そのものが仕掛けなのだ。
そこに人の意思を感じ取り、少女は足を止めた。
最初から。
この山の裾野に降り立った瞬間から、この仕掛けに導かれていたかのような錯覚。その居心地の悪さ。ずっと見られていたかのような、仕掛けに隠された眼差し。そして、林の尽きる空間が徐々に迫ってきた。
屋敷の門が向こうに見えた。
まだ藪のなかにありながら、少女はため息をついた。
それは本格的な和式の木造住宅だ。腕木門の引き戸の格子の隙間から、広い前庭が見える。
庭には椿の一木が花開いていた。枝にフウリンが下がっている。風が吹いた。

りーいいいいいん…

少女は、生真面目な兎が熊に出会ったかのように硬直した。
響いてくる、その音。
驚きに身を打たれる。
既視感。そして、衝動。
呼び覚まされる。
ああ、ここはもう世俗の地ではない。
(これが、小雪屋椿の家…)
それにしても、人の気配がない。
呼び鈴もない。表札すらない。
だが、思い切って呼びかけた。
「あの…すみませえん!」
返事はない。足音もない。
「すみませえんっ、たら!」
この頂に至るまでのダメージを吹き飛ばすようにして呼びかけた。恥じらいも忘れて。
ふと鼻先を刺激する、ある香りに気がついた。
「聞こえております」
人がいたのだ。
その人が声を発した。低い声だ。だが、淀んではいない。姿が見えず、少女は戸惑う。
「お入りください。鍵なんぞ、ございません」
少女は、格子の門を開いた。庭へ入ると述べ段があり、椿の一木をL字に囲んでいる。
草木の屋敷だ。二階建てで、一階の屋根は胴板。二階は瓦葺。庇が深く奥ゆかしい雰囲気を醸す。
雑木林に囲まれた庭の端には溜め池がある。そこにかかる小さな石造りの橋。その向こうに据えた縁台が、その人の居場所だった。
女は、縁台に胡坐をかいていた。
山の澄んだ空気に凛と鮮やかな銘仙の羽織。丈長い、その軽やかな裾が、渓流を思わせる木目の縁台に、無造作に打ち敷かれて広がっている。裾からその人の肩にかけて、所狭しと染めの椿が乱舞する柄。袖を通さずに懐手にしている。
縁台の下の置石には雪駄。鼻緒は太い。よく揉み込まれており、年季を感じさせる。和装を好むのかと思えば、臍から下は、藍色のローライズジーンズだ。それも作業着のように草臥れ(くたびれ)ている。
そして、その足指。特徴的だ。すっきりとあらわれた、足の甲の純白。それに咲いている紅(くれない)椿の花。刺青だ。婀娜な大輪。その枝葉は踵をめぐり、どうやらその上へと伸びている。
視線で辿ると、紅(くれない)色の手甲で隠れた部分はいざ知らず、その手指の先まで枝葉が伸びている。
女の傍らに、妙にきらきらした箱が置いてある。真四角の和風の宝箱に見える。その箱から、一条の煙が天を目指している。
女が、少女の姿を一瞥する。
何を思ったのか、しめやかに唸った。
「あなた様は菫の花ですね」
少女は、疲労から生じるいらだちを隠すことができない。
「…あんた詩人? 何の話?」
女はこう返した。
「ものの例えではありません。私にはそう見えるのです」
女の指が、その箱から先の曲がった長細いものを取り上げた。
それは煙管だった。
つと伸ばした人差し指。親指と、残る三つ指を支えにする仕草は手馴れている。
黒の手甲。その下に、紅椿の刺青の花弁がのぞく。
女は、ちょっと吸い口に唇をつけてkら、すぐに煙を吐いた。少女に、初めてまともな視線を向ける。それから、にこりと笑みを浮かべた。
驚くべき痩身。体の線というより、骨の線ともいえそうな体躯。
胸のふくらみは少女のようだ。それをサラシで押さえつけている。さらりと短い髪は銀色。前髪を丁寧にいくつかのピンでとめている。控えめな唇に、なだらかな鼻。頬の丘は清冽な乳白色。瞳は、夜のように藍を蔵する闇の色。
ここまで来た。
少女は動けなくなった。この女のいるところ、ここに来た。その思いが全身を支配して、その感情は皮膚を粟立てる。その壮絶な情動を皮膚の下に隠し、その火を瞳の奥に打ち消す。激しい衝動を心に仕舞いこむ。何も映し出さない瞳で、ただ向き合った。額に、先ほどまでと異なる類の汗が浮いてくる。
「あんたが小雪屋?」
少女の声はうわずった。
目をそらすことができない。足が震えるのは、疲労のためだけではない。

りーいいいん…

フウリンが鳴った。
問われた女は、しかし、返答の間を与えられなかった。目の前の少女が突然姿勢を低くした。その延べ段の冷たい石の上に膝頭もあらわに正座する。両腕を前に置き、深々と少女は頭を垂れた。
「どうぞ、あたしを弟子にしてください。そのために参りました」
女は、観察の眼差しを、その清廉な項に注いだ。
突然、足元に伏した少女。小さな背。あどけない旋毛を見つめる。常人であれば、可憐な少女の唐突な仕草に驚くところだ。道徳の教育を受けた者であれば、狼狽して立ち上がらせるかもしれない。だが、女はおっとりとその項を眺める。そして、手にしていた煙管を、その箱――煙草盆の上に置いた。
「フウリンが選ぶのは、ある特定の人種のみでして…。素質が必要です」
頷くこともできず、少女がその顎を上向けた。面には、疑問符を浮かべている。
「…培うことのできる土壌。体質とも言い換えられます」
言うが早いか、彼女はジーンズの尻から、文字ののった紙をとりだした。縁台に置いて広げて見せた。丁度、伏した少女の目線の高さにそれはある。
紙には、五十音が並んでいる。
フウリン士は奇妙な問いを発した。
「この紙の文字に色がついて見えますか?」
少女は目をぱちぱちさせた。
もちろん、墨の色がついて見える。なぜ、そんなことを問われたのかわからず、いらだちを覚える。
「何色に見えますか」
重ねて問うフウリン士。
謎掛けのような問いに、裏があるのではないかとは思う。だが、読めない意図は無視するしかない。
「墨の色でしょ!」
深く考えもせず、少女は答えた。
即答した素直さに、フウリン士は笑みを浮かべた。くるくると紙を巻いて、尻の隠しへと仕舞いこんだ。
「結構。あなた様には素質がございません」
この早い結論。否応なく宣告された返答。少女は、口を閉ざした。その沈黙を諦めとみなして、切り上げるためにフウリン士はこう言った。
「仕事がありましてね…失礼しますよ」
その残酷な響きに戦いて、少女は顔を上げた。
「でも、あんたには、あたしにフウリンを教える義務がある」
「それはそれは」
フウリン士は、少女を見つめ返した。自ずと、少女と女は額を付き合わせるように見合った。
フウリン士の瞳に、初めて感情と呼べるような潤いが増す。少女の本性のあらわれを目の当たりにして増した輝き。
「どういう意味でしょう」
「言わない」
即座に拒むと、女は可笑しそうに笑った。
少女は失望した。この女は何も知らない。そう思った。そう思うしかない。だから笑えるのだろう。自分がここに来た理由に気付いているなら、知っているなら、笑うという反応はできないはずだ。言葉にあらわせない程の憎悪を覚えた。
知らないだと?
冗談ではない!
指先に力が入って、石の上に置かれた手が震えた。
それを目にしたフウリン士は、すっと目を細めた。自分の軽率な笑いが怒りを誘ったと気がつく。頭を垂れてこう詫びた。
「…ご勘弁を。フウリンは教えるものではなく、生まれるもの。もうじき、日も暮れます。私は弟子をとらない。お引取りを」
怒りのあまりに返事ができない。五感は真っ白に染まる。硬直した客人を、フウリン士は見もしない。煙管を携え、ちょっと吸う。ふっと煙を吐く。その雁首を盆上の火落としへ当てた。かんっと小気味いい音。灰が叩かれる。
立ち上がる。その盆の持ち手を提げる。羽織が翻る。
ものも言わずにその場を後にした。それが答えだった。物盗りだろうと構わぬとでも言いたげな態度。あまりの無関心。
名前も問われなかった。
少女は、しばらくそこから動けなかった。伏したきり石の上の手を見つめる。
(こんなことがあっていいの?)
フウリン士は、自分を見ても、まったく何の反応も示さなかった。はいそうですかと引き下がれるはずがない。相手が忘れようとも、こちらは覚えている。
じわっと瞼の端に浮かんだ涙に驚いた。とうに枯れ果てたと思っていた。それなのに、この液体は何だろう?
ぱたぱたっと、石に冷たい玉の粒が落ちた。涙を手の甲で拭い去り、立ち上がる。
涙。そんなものは何になる!
少女の靴は述べ段を離れた。
切り落とし格子に擦り硝子の嵌めこまれた戸を、無遠慮に引いて屋敷内へと上がりこむ。
玄関土間には、既に女の姿はない。正面の中抜き板戸。それが、この屋敷の主の返答のように素っ気無く少女の目を塞ぐ。
靴脱ぎ石には、雪駄が揃えられてある。そこに革靴を脱ぎ捨てると、踏み込み板を一跨ぎにした。和室を大股で渡り、広縁へと急いだ。そして、見つけた。南へと面した硝子戸の向こう。鬱蒼とした林に囲まれた中に造られた庭園。
その一隅に、この屋敷と庭園にふさわしからぬ小屋があった。
そこに入る背を見た。
風が吹いた。

りーいいいいん…

門扉のそばのフウリンが響いた。
硝子戸を抉じ開ける。
履物は用意されていない。
構うものか。思い知らせてやる。
いいや。かなわないのなら。
(この場で殺してやる!)
靴下のまま、庭を突っ切る。スカートの裾を翻し、その粗末な小屋へ至る。引き戸を引いた。中へと踏みこむ。
そのつもりだった。だが、そこから先へ進むことはできなかった。そこには、間仕切りの無い空間があった。
純白の景色。その白い光が、少女の全身を雷のように射すくめた。風の音。氷点下近い気温。雪のつめたさ。目を射る澄んだ反射の光。その下に熟する真冬の大地の気配。
口をぽかんと開く。
膝を折ってへたりこんだ。
異質なるもの、その絶景。この山のなかに、また山。しかも雪山を見ることになろうとは誰に予想できるだろう?
視界が純白に染まる。一面の雪景色。大気も匂いも直に感じられる。絵空事の山ではない。空も、雲もある。
天も、地すらも、展開されている。
前方はるかに山々を見渡す、その位置。その麗しき峰、その雪の頂に立つ背。その背は、確かに少女の間近に存在していた。
艶やかな羽織姿。
そのまわりを舞う無数の雪片。
すうっと冷たいものが通る。
羽織の袖をはためかせ、吹き抜ける風は山おろし。
それに交わる煙管の煙。
背中が呟いた。真摯な声で。
「お断り申し上げたものを、しょうのないお姫様です」
小雪屋椿が振り向く。
「御覧にいれようとも言わなかったものを、随分な御無体ではありませんか」
そう言って、椿は、コップを手にして火鉢にざっと水を流した。
火鉢からたちのぼる煙を、水がかき消す。
その瞬間、世界が崩壊した。
入れ替わって、本来の景観が表出される。
ドラム缶。シャベル。積み上げられたコークス。斧に火かき棒。
冷たいコンクリート。
倉庫とも呼べそうな空間の、その中央には魔女の鍋のような、台形の釜を上下にあわせた形の奇妙な金物がある。
フウリン士の足元のそばには、火鉢が据えてあった。そこから煙が立ち上っていたのだ。その内観はいかにも殺風景だ。
それらを残してすべてが消えた。
けれど、清廉なつめたい香りが、その感じが残っている。
それまで、コップも火鉢も少女の目にはうつらなかったものを、どこから取り出したのだろう? 
だが、それらは最初からそこにあるものだった。
つまり、先ほどの、あれがーーーあれが、幻影だったのだ。
しかし、幻影と呼ぶにはあまりにも生々しい。
独特の喉の渇き、圧倒されて息詰まる緊張感…これは現実そのものではないか。
境界線がわからない。
そう。
まるで魔術だった。



「どうぞ」
「い、頂きます」
椿は、放心したきりの少女に、使い古された座布団をすすめると、水差しからうつしたコップの水を手渡した。水は、少女にすれば有難いものだった。だが、先刻の衝撃が尾を引いて、なかなか口をつける気になれない。
本邸の一室。付け書院の障子の下には地袋ではなく、ただの台が設えてある。簡素な杉の台には花瓶。そこへ、一輪の純白の椿が生けてある。
床の間に掛け軸がかかっている。これも艶やかな椿の花咲く絵だ。目が留まる。鮮やかだ。誰の目にも美しく映えるはずのその絵を、しかし、少女は激しい眼差しで見据える。
壁際には艶がかかった紫檀の文机。机上には、麗しい木地目漆の箱。先刻の煙草盆だ。傍らには雑然と置かれた何冊かの書物。
日常性を匂わせる一方で、いちいち人の背を正すような折り目正しさがある。奇妙な空間だ。
だが、最早少女は見てしまった。この屋敷の造りなんぞ笑い飛ばすような、恐ろしく静かに胸に迫る不思議を。あの作業場こそ、小雪屋の本来の居所だ。
少女を労わりはしたものの、椿はあからさまな不機嫌を隠さなかった。何も言わずに文机に凭れて、背を向けたきりだ。先刻とは様子が異なる。明らかに狼狽している。
しかし、少女もまた、何と言葉を発してよいものかわからない。聞きたいことが山程あった。ありすぎて聞けない。もちろん、少女も、驚きはしたのが…だが、あれで得心した。
あれは人の世の光景ではない。
恐らく、あれがフウリン士の言っていた『素養』のもたらす効果だ。なるほど、少女にはあんな光景を出したり消したりする能力はない。門外不出の業を目撃してしまった。
それは、この手ごわい相手に少なからずの動揺をもたらしているらしいと知る。
やおら、小雪屋は羽織の腰を探った。奇妙な形の革のケースが隙間からのぞく。ケースには、長細い筒が対になっており、双方を繋ぐ緒の真ん中に銀製の金具が光る。それがうまくジーンズの腰に引っかかっていた。女の手指がその筒をまさぐって、蓋を開く。中から取り出されたのは先ほどの煙管だ。吸い口と雁首は無垢の銀。羅宇は真っ赤な朱塗り。そこにも椿の文様が凝らされた徹底振り。
ケースの中から髪の毛ほどの太さの刻み煙草を摘み出す。それを指でくるっと丸めて、煙管の火皿につめる。そのまま盆の上の火入れの壷に近づけた。火が点る。煙がのぼる。
決意が固まったのか、椿はくるりと方向を変えて、あぐらをかいた。少女を見据える。
「先ほど、私は弟子をとらないと申し上げましたね」
少女は反感をあらわにする
「説明になっていない。さっきのは何?」
「いいですか。あなたは勝手にここにいらして、勝手に弟子を願い、断りをはねのけて、勝手にここまで踏み込み、私の秘法を暴いた。その上、今度は説明を要求していらっしゃる。ご自分の立場をどう思われますか」
言われてみればその通りだ。返す言葉に窮する。
椿はようやく気を取り直した。相手を観察する。このまま追い返すこともできる。既に、こんな面倒な事態を招いてしまった。きっぱりと断りをいれた時点でおしまいだったものを。
しかし、こうも考えていた。この娘が、言葉で説明すれば引き下がると感じさせるような手合いだったろうか? 
いいや。
この屋敷から送るなり、泊めるなりの優しさを見せるべきだったろう。そうすれば、怒りを煽るようなこともなかったろう。
いいや。そうではない。
そうではないのだ。
どうやら自分はいらだっていた。ようやくそこへ思い至る。
いや。いらだちとも異なる。
焦っているのだ。この少女を一目見たときから。
だが、この娘には何の罪もない。
それが恨めしく思えるほどに…
何の罪もない。
ここへ訪れるような暴挙を犯せる時点で、少女は無辜なのだ。
「私の弟子を願う理由は?」
「フウリンをつくりたいの」
煙管からたちのぼる煙が四辺を満たす。フウリン士は笑みを浮かべる。少女は、目元を真っ赤に腫らし、怒りと恥ずかしさを堪え、膝の上の拳を握り締める。
「ほしいのは、あんたと同じ人に眠りをもたらす音よ。深く深く、ひとりの人間を冬眠させてしまうほどの強いフウリン!」
それを聞いたフウリン士の顔に、陰りがさした。
「無い袖は振れない」
それは、変えることのできない結論だ。だが、少女は無理解な瞳を返す。まっすぐに。
視線が絡む。
少女の目の奥に、激しい光を椿は見抜いた。ああ、この娘は。
やはり。やはり、そうだ…
フウリン士は、確信した。
だが、何も言わずにおいた。無い袖は振れない。言い放ったフウリン士自身が、自らの言葉の真摯さを吟味する。少しも、この問答を楽しめない。
「…あたし、見ちゃったんだから、ばらされたくなかったら…ばらされたくなかったら、弟子にしなさいよね!」
少女の健気な思いをも断ち切るように、女は再び煙管を取り上げる。束の間吸って、ふっと吐く。雁首を打ち付け、灰を叩く。
「脅迫なさるとは」
優越を込めて放たれた一言。
その声音。恐ろしいほどに透明な声に屈しそうになって、少女は反射的に怒鳴った。
「人聞き悪いこと言わないで。取引よ!」
「しかし、このフウリン士の秘奥を目にしたこと、その内容を流布されることは商売の妨げとなる」
「…嫌なら弟子にしなさいよ」
「私の技は唯一無二で、伝承が不可能です…あなたのおっしゃる『取引』の意味の恐ろしさをご存知ないから持ち出すんでしょうが、事の重大性を理解なさい」
「何言われても帰るもんか!」
そこへ至り、少女もまた変容を遂げた。狼の唸るような声だった。強い声だ。恨みのこもった声。わからず屋の声。そこにある不躾に、フウリン士は何よりも若さを感じ取る。自分にはもう訪れない衝動だ。突き上げてくるもの。
怨念。しかし、少女のその恨み節は、女から見れば、いっそ清清しいほどの青さを有している。
「面白いお姫様です」
フウリン士は破顔一笑する。
少女が、事の重大さを理解せずに強情を貫こうとしているようには見えないのも確かだ。
その指に携えた煙管の雁首を、少女の胸元に突きつけて、こう告げた。
「では、私の仕事を手伝うのはいかがです。深く深く誰かを眠らせるフウリンがほしいのでしょう? その代金で、お望みのフウリンを拵えましょう」
寂幕たる世界に、坊主の経文を唱えるような口調。それは厳かな誘惑だ。だが、まやかしを振り払うために、少女は頭を振った。強気に拒む。
「はぐらかさないで!」
対座するフウリン士は、それまでと異なった笑みを浮かべた。
それを目にした少女は凍りついた。不敵な眼差し。
氷のように冷たい…
冬のフウリン士。その目が彼女の存在そのものだ。その眼差しの奥に、少女は真冬を見た。
夜の色。恐ろしいほどの闇を宿している。引き込まれそうだ。
つめたい、つめたい。
くらあい、くらあい。
それは、人里離れた山奥にある、獣でしか知らない…いや、獣ですら恐れるほどの人知れぬ場所にある真冬。それをこの女は知っている。それをこの女は眼に宿している。
「そもそも、この小雪屋にフウリンを願うなら、それ相応のものを見せて頂かなければならない」
地底から響くような、低く深い声。その声には、嘲りよりも怒りがこもっている。怒りは少女の不躾に向かっている。
だが、少女は冷静さを保つ。どれほどの怒りを浴びせられようとも、理性で考えれば簡単なことだ。かぐや姫が、五人の男に無理難題を申し付けて諦めさせたのと同じ手管だ。
許せない。
つまり、このフウリン士は、体よく厄介払いをしようとしている。引き下がるわけにはいかないのだ。少女にこそ、怒りが突き上げてくる。
覚悟をみせろと?
お安い御用だ。
「鋏をちょうだい」
切羽詰って、少女は求めた。
少女が女の秘密に踏み込んだように、女が少女の心に踏み込んで覚悟を示せと要求するのは当然だ。応じるか、応じないか。
少女は応じた。
椿が机上の鋏を手にする。少女を睨みつける。刀傷沙汰は御免なのだ。だが、その暗い眼をまっすぐに射抜く、威嚇の眼差しが、そんな邪推は無用だと言っている。少女はただ獰猛な獣のように澄んでいた。
我を失って、それでも、恐ろしく澄んだ理性でそれを押さえ込んでいる。女の指が切っ先を持って、その黒光りする鋏を手渡す。そのまま少女がこちらの心臓に向けて腕を押し込めば、その膂力に今はかなわないかもしれないと椿は思った。
だが、道具を得た獣は、すらりとしたその腕を背後にまわすと同時に、思い切り良く髪を剪定した。結んでいた根元からざくりと一太刀だった。髪結いの紐が落ち、髪がほどける。足元にその長く美しい髪が無残に散った。耳の下までのざんばらな髪だけが残った。これでいいかと問うように、少女は目を上げる。フウリン士の口元に、微笑が浮かんだ。それは、ごく自然な優越から生まれる笑みだった。その微笑は許可証でもある。それにも関わらず、少女はしまったと思った。しまった。罠にかかった。一瞬、その散ってしまった黒髪を痛ましげに眺める。
覆水盆に返らず。
何でもないことのように、くつろいだ姿勢に戻って椿は肯定する。
「よろしい」
その肯定は、自分に異を唱える必要があるかといいたげな命令そのものだった。
「客が駄目。弟子も無理となれば、今日から、君の名は、せいぜいが毛虫というところでしょうね」
「け…けむし?」
「私は、君に人格を認めないことにしよう。だから、そう呼ぶ」
「そ、そういう…うじゃうじゃしたもの、あたし嫌い! ひどいわよ、そんなの!」
その文句が椿の口からのぼるにつけ、ぞわっとしたものが全身を打つ。身をすくめた。
だが、飄々と椿は告げる。
「なぜ? 椿につく虫だから毛虫。ふさわしい。うっとおしい今の君の立場そのものじゃないか。もちろん、即刻お帰りいただいても結構」
「い、いやよ!」
「ああ…もう日が暮れてしまう」
「え?」
目を転じた先、円窓の向こうに夕闇が迫る。さっきまでは仄かに明るかった山姿が一斉に闇を背負っている。
静かに迫る北の晩秋。
山の夕暮れは駆け足だ。
「部屋を案内しよう。しかし、何としてでもこう呼ばせてもらおう。毛虫、と。その代わり、私のことを名で呼んでもかまわんよ。小雪屋ではなく、椿と。喜んで頂きたいね」
少女には、もう返せる言葉はなかった。この女、能弁なのだと、今更になって少女は気がついた。



先刻駆け抜けた一階の和室を改めて案内される。無闇に広い十二畳がつづく。厳格さと柔らかさを同居させた床の間。椿は、その二間つづきの和室の奥の押入れをがらりと開いて、布団を示した。
「ここが布団。風呂と台所は勝手に使いなさい。私は仕事。あの庵にいるが、踏み込まないでくれ。料理はできるか?」
「得意よ」
「結構。私はいらないから、自分の分だけどうぞ。食材は足りてるはずだ。食って寝て明日の朝は早めに起きること。そうしたら、掃除だ」
「どこを?」
「うちを」
「う…うち?」
少女はぼそりと呟いた。
その座敷といわず、開け放たれた障子の向こうからのぞく広縁といわず、あたりに視線を巡らせた。
「このうちのなかの、どこを掃除しろっての?」
フウリン士は、赤松の柱に寄り添い、腕組みして、少女の面を見つめた。充分に焦らした末、唇の端に意地悪な笑みを浮かべた。
「全部」
毛虫は耳を疑った。ぜんぶ、と聞こえたように思う。この、一階室ですら全容の知れない屋敷を全てと。そう聞こえたように思うのだが、空耳だと願いたい。
「ぜんぶ!? 全部ですって!? あんた、何考えてるの!? じょうっだんじゃない!」
しかし、翻された羽織の背に、その叫びは空しく捨て置かれた。去り際、その薄い肩が小刻みに揺れているのが見えた。
小雪屋椿は笑っていたのだ。
世話人を用命されたからには、従うしかない。
怒りに震えつつ、覚悟を決めて、その屋敷を改めることにした。一部屋一部屋、障子を開いていけば、この落ち着かない気持ちもどうにかなろう。鞄を置いて、まず洗面所を探す。広縁を渡り、玄関土間へ戻る。
土間の右手には下駄箱。その後に、月を雲が隠すようなかたちの欠け円(かけまる)窓。下駄箱の上の花器には、恐らくは今朝落ちたであろう椿の花が夥しく(おびただしく)浮かべられている。
左手の手前には瓶が二つ。一つには、無造作に傘がいくつか差してある。もう一つには、やはり水が張ってあり、そこにも、桃色、白、赤、とりどりの椿の花が敷き詰められていた。
先刻は気付かなかった花の鮮やかさに視線を奪われる。
雪駄をつま先に掛けて出る前の椿がいる。思わず睨み据える。その激しさが、却って腹をくすぐるのか、フウリン士はにやついて見せた。それから、告げた。
「訂正してやろう、毛虫。二階は私が自分でしよう」
「え? 本当?」
ぱっと、毛虫の表情が輝く。
「単純だな」
「う、うるさい!」
つと、その手が少女の首のあたりに伸びてきた。
「いいことだよ、褒めたんだ」
「え…」
短くなった髪の毛先に、その指が触れる。それは、その手の甲が、少女の頬に触れそうな距離に迫るということでもあった。
「おいたわしい髪になっちまったな」
「あ…」
その指の冷たさを、触れていないううちから間近に覚えた少女は立ちすくむ。
藍を蔵した瞳。それが、こんなにも間近い。
望んでここを訪れたのは自分だ。確かに、自分なのだ。けれども、こちらこそ、挑発されているように思えた。言葉を失う隙に、指が離れた。羽織姿が背を向ける。一気に緊張のとけた少女は、その反動からこう罵った。
「あ、あんたのせいでしょう!」
「おや」
小雪屋の足がとまる。その目が、今度はいささか厳しい光を帯びて振り向いた。
「君もそれを言うのか。私のせい、私のせい…小雪屋のせいだと罵る輩は世に多いが、まさか、人間のみならず毛虫ごときにまで罵られるとは」
「馬鹿にするんじゃない!」
あくまで人格を認めないつもりか。怒りにかられて怒鳴っておいて、少女は、ふと考え込む。
『君も』とは何か?
だが、その問いを発する前に、少女の目先で引き戸は閉ざされた。



その夜、毛虫は夢を見た。
それは小さい頃の夢だ。



少女の母は、異様なほどに美しい。とはいえ、幼少期には、なんとも思っていなかった。ただ、『母』という生き物は、皆がこのように美しく、そして優しいのだと思っていた。けれども、成長し、幼稚園を卒園して、小学校にあがる頃には、『それは少し違うのかもしれない』と、うっすら思うようになった。
あれは入学式だった。桜の舞う青空の下、母と手をつないで初めての登校の日だった。
少女は真新しいサテン素材のワンピースを着せてもらい、それだけでも誇らしかった。それは、桜の下でよく映える愛らしいピンクだ。
胸には純白のシフォン素材のリボン。その上から赤い花のコサージュ。髪にも赤い花の飾りをつけてもらって、満たされた気持ちで学校に向かった。
誇らしいのは、自分だけではない。手をつないでいる母の姿も完璧だった。桜の小紋が奥ゆかしい縮緬の着物。高めの位置で締めた帯には、錦糸で大輪の花が縫い取られてある。白足袋にエナメルの草履の品の良さ。深めにあわせた襟から覗く半襟と、帯から綺麗にのぞく帯揚げの純白。柔らかな桜色に、きりっとした白が映えて初々しい母親の姿。
手に提げている絹のクラッチバッグだけが、母と娘でお揃いだ。手をつないで歩いているだけで、充分に嬉しかった。
共に歩く父も、誇らしそうだった。学校の門へ到着すると、写真を撮ろうと彼は言った。桜舞い散る校門は、父兄達が集う最初の場でもある。同じように撮影をする家族が場所を譲り合いながらシャッターを切っている。その群れへと、彼らは入った。
この親子…特に母親への周囲の反応は独特だった。彼女を見た若い母親達は、どんなに着飾っていようとも、どんなに化粧していようとも、その造型美の前に一瞬で顔色を失う。そして、どのように健全な父親であろうとも、彼は、彼の妻の前で一瞬たりとも彼女を直視することを避けた。じっと見てしまえば、妻の嫉妬を買うのは明らかだった。
子供達はもっと正直だった。撮影を終え、入学式が終わる。そして、父兄の歓談会がはじまり、教室では、ようやく子供達だけの世界がはじまる。
幼いクラスメイトたちは、口々にその賛辞を呈しながら少女に近づいてきた。大人の世界に、その不敵な美しさは非常識とすら映る。だが、子供達には関係なかった。美しい母親をもつ少女に羨望の目を向けたし、少女もそれを嬉しく思った。
そのおかげで、友人にも恵まれた。そして、自然にはぐくまれる感情…大きくなったら、自分も母のような美人になるんだという少女らしい矜持も育まれた。
それは幸せな記憶だった。



その青い晴れやかな空を覚えている。子猫の無垢な瞳のような、深くて澄んだ青い空。透明度の高い湖にも似ていた。
あれは五月。
「アイスを買ってらっしゃい」
庭でモンシロチョウを追いかけて遊んでいた少女は、母が庭に面した居間から呼ぶので、振り向いた。
「なあに?」
母は、優しく少女へ微笑んでいる。その名を呼ぶ。うふふと、少女は笑った。無邪気に駆け寄る。すると、視線の高さがあうように、母はしゃがみ込んだ。そのエプロンの裾にしがみつくようにして抱きついた。
「なあに? ママ」
まだ幼かった少女の、柔らかなほっぺたを、その両手がやんわりと挟み込む。母はまたその名を呼んだ。
「アイスを買ってきてほしいの。ひとりでおつかいできる? ほら、あの角のお菓子やさん」
「つる屋さん?」
「そうそう」
近所にある菓子屋の名を上げると、いとおしげに、母は頷いた。
けれども、ひとりでおつかいなんて、許してくれたことはなかったのに…
「大好きよ」
怪訝に思う少女の心を察したのか、不意に母がそう言った。
あのときの彼女の瞳を忘れる日はなかった。
慈しみをたたえた眼差し。
けれども、どこかに悲しみを蔵している。少女は急に悪い予感を覚えた。気が急いて仕方ない。
「あのね、あのね。あたしもママが好き!」
そう言って、精一杯、両腕をのばした。自分のものとするように。応じて、母は身を屈めた。抱きしめやすい高さに。
「大好き!」
「ママも大好きよ」
そう呟いて、そっと少女の名を呼んで、抱擁を返してくれた。
あの感触を忘れたことはない。
あたたかい。優しい。
怖くない。あの感じ。
それなのに。それなのに…!
あのとき、母のしゃがむ居間の向こう、入り口の戸口には客人の足が見えた。抱きしめる母の左右はレースのカーテンに仕切られ、五月の風にはためいて、そのせいでよく見えなかった。
「お客さん?」
と、少女は尋ねた。けれども、母は笑って答えず、そのエプロンから小銭入れを取り出した。絞り染めの紫のがま口だ。それを丸ごと少女に持たせてくれた。
少女は、自分用に持っている、ピンクとビーズの財布があるのに、と思った。おとなのさいふだ、とはっきり思ったことを覚えている。
「いいの? ママのおさいふ、使っていいの?」
少女の財布に入っているのはビー玉だけだ。お菓子屋さんで一緒に買い物をするとき、母は、『大人の財布』のなかから、丸い百円玉を少女に手渡してくれる。それをまるごと預けるとは、幼子にとっては天変地異だ。
「さ、行きなさい」
「いいの? バニラとチョコ、どっちにするの? いくつ買うの?」
「たくさんよ。たくさん。バニラとチョコ。イチゴもね」
少女の頬が興奮でぱっと明るく染まる。目がらんらんと輝く。
「はあい。行ってきまあす!」
転げるように駆け出す。

その小さな背。

あれは私だ。

ああ。

だめ。

行っちゃだめ。

だめよ。

違う。

違う。

何かがおかしい。

喉が息づまる。

恐ろしいほどのさみしさ。

あんなにも人を安心させる腕を持つ人なのに、いつでも母はどこかさみしかった。それはあの日へ続く兆しだったのかもしれない。今ならわかる。母の面影に陰りがあったから、あの昼が訪れたのではない。あの昼の訪れを母はどこかで知っていた。
今ならわかる…
あの美しい面に陰りを与えていたもの…
そうして、その予感にとらわれながら、自分は。

(あたしは…!)

第二章

薄明るい光が夢を終わらせる。
さみしい夕餉の記憶が蘇る。
簡単な夕食をつくって、風呂を借りて、与えられた部屋で眠った。そうだ。ここは広沢町。
フウリン士の邸宅だ。
瞼の裏に、澄んだものがおりてくる。光だ。毛虫は、ぱちぱちと瞬きした。その頭に、枕元に、弛緩する掌に、まばらな木陰の隙間から射してくる朝の光。庭の梢が揺れる。頬に、着慣れない浴衣の襟元から除く首筋に、鎖骨に、陽光が踊る。
その光を遮る人影があった。障子が開かれている。ぼんやり、そちらへと目を向ける。与えられた部屋の障子が開かれて、そこに立って自分を眺めている姿。正気づいて、がばっと跳ね起きた。
小雪屋だ。部屋には入らず、座敷の入り口付近の松の柱に寄り添って、眺めるともなしに眺めている。柱を支えに肩で凭れ、腕組みしているが、その姿は昨日会ったときと代わりの無い、しゃんとした印象。姿勢が良い。羽織は、昨日と異なる派手な装いだ。紅色の大輪の椿が、生地全体にあしらわれている。
まだ早い時刻。寝顔を何も言わずに眺めているとは不躾だ。文句を言う。
「見てないで起こせばいいでしょう!」
無感動に眺めていた椿は、それを聞いても大した反応を示さない。
「元気で結構。起きるのを待ってみたんだ」
威勢のいい少女に、淡白な評価をくれるだけで、眉ひとつ動かさない。すっと、指が少女の胸元を示した。
「それじゃあね。起こすか否か、悩ましい姿だろう…」
目覚めたばかりの毛虫は、自覚していなかった。胸元のあわせがはだけている。肩からゆるんで広がった襟から、豊かな乳房が半分ほど見事にのぞいている。布団は足元から跳ね上がっている。無防備な下半身を覆うものはない。帯で閉じられた腰はともかく、臍から下にかけて覆っていた生地は捲れあがり、少女の無垢な足は腿から爪先まであらわな姿を晒していた。借り物の浴衣だ。慌てて裾や襟を直しながら、毛虫は抗議する。
「み、見てんじゃないわよ!」
「起きるのを待っていたと言ったろうに。警戒心のないお姫さんだね」
恥ずかしさと怒りから、少女は睨みつける。だが、椿はにべもない。
「さっさと支度して掃除しな。毛虫」
目覚めを誘う声だ。
「うう…」
その名に慣れず、うぞっと背を気持ちの悪いものが這った。文句を言いたいのを堪える。自分を毛虫と呼ぶと決めてから、フウリン士の接し方は、きっぱりと変わってしまった。その冷ややかな横顔に、無関心を読み取る。無論、少女は受諾した話だ。だが、決然とした態度を決め込まれ、その控えめな声も、心の距離も、遠のく一方では埒が明かない。
それにしても。少女は、いざとなって、改めて吐息をつく。
磨きぬかれた松の柱に広縁。破れの無い障子。塵ひとつない畳。襖と障子の眩しい白。清廉なよい香り。どこを掃除しろと?
昨日は、慌てて駆け込んだから、殆ど目もくれなかった。だが、玄関土間からはその内部の広さは伺えない。客人が本格的に驚くのは、その中抜き板戸を曲がってからだ。昨日の小雪屋の応対から考えるに、大概の客は玄関までで帰されるのではなかろうか。その奥行き、広さを知らされないままに。
(改めて、すごい家―――)
この地方の木材を存分に生かした設え。栗、杉、そして南部赤松。それら銘木を外見の楽しみに腐心させることなく、すっきりとバランス良く配置させた内装。
西へつづく広縁。その廊下の右の並びを埋める障子の数は只事ではない。その底知れぬ障子の壁の廊下を挟んで向かい合わせには、明るい硝子戸が南に面して居並んでいる。あたりを丈高い山々に囲まれているため、この地の日暮れは早い。採光と防寒は山奥の屋敷の命題だ。
それにしても、がらんどうだ。あっけないほどに、この本屋敷の一階には何もない。
そして、庭に設えられた庵。
(あの庵…)
そこが、椿の居所なのだ。
では、この屋敷は何であろう?
(この広い屋敷に、ひとりきりで暮らしてるの?)
心細さを覚えた。贅沢と言ってしまえばそれまでだろう。けれども…さみしくないのだろうか? そんな考えに陥り、毛虫は我に返った。
(だめだめ! 同情なんか!)
今は目の前のことに集中しよう。まずは自分の布団をあげる。それから、まだ見ていない方角を目指す。和室をぐるりと囲む廊下を横切ると、洋風の扉に行き着いた。扉を開くと、それまでの光景と違い、洋風のソファが置かれた、やさしげな一室。
(こ、こんな部屋もあるのね…)
更に、食堂、台所、洗面所、浴室が待ち構えている。
途方もない。だが、やるしかない。少女は浴衣を脱ぎ捨てて制服に着替えた。私服もあったが、そちらの方が気合が入る。替えのシャツを持ってきていてよかったと思った。
磨きぬかれた松。その廊下を、フウリン士が、あの汚れた足袋で無造作に渡るであろうことにも内心戦く。毛虫のポリエステルの靴下では、その滑らかさに足を取られそうになる。普段なら、滑走して遊ぶという悪ふざけを起こすところだが、ここは少々の無礼の許される逗留の宿ではない。
鬼の住処だ。少女にすれば、それほどの存在感で迫ってくる。靴下を脱いで裸足で掃除することにした。そうすれば、きめ細かな畳の目にも、磨きぬかれた松にも足をとられることはないだろう。台所から、バケツと雑巾を引っ張り出した。
小一時間を経て、その作業を終える頃、庵から椿の戻る気配があった。小雪屋は、少女の姿を見て一言放った。
「汗だくだな」
あんたのせいでしょと、またもや少女は思った。
「シャワーを浴びておいで。出かけよう」
「え?」
「お供しますとおっしゃい。毛虫」
死んでも言いたくなかったため、
「行ってあげる」
と、渋々頷いた。



冴えた大気。
晴れ渡り、山の裾野を紺碧の画布のように縁取る空。朝の光がすべての世界を輝かせる。山の美しい朝だった。けれども、毛虫の心は穏やかではない。
黒岩山の裏手に走る私道は舗装され、小雪屋の庭から山のふもとまで、それは直結していた。そこを車で降りると小雪屋は言い、裏の駐車場にある電気自動車に同乗することになった。
丸いカタツムリのようなシルエットの車だ。そんな道があるなら、何故、わざわざ昨日あのような思いをしなければならなかったのだろう…と思うと、穏やかならざるものを覚えずにいられないのだ。
峠道から登山口に至ったとき、看板が目に入った。
『ここより私有地』
と、淡白な表示だった。
「もしかして、この山って…」
毛虫は、恐る恐る尋ねた。しれっとしてフウリン士が返す。
「私のものだ」
よく見れば、車内のインテリアもいちいち品が良すぎる。尻がむずがゆくなってきた。革張りのシートの座り心地は抜群だ。タイヤが山道の砂利に削られても、振動も響かない。だが、どうにも居心地が悪い。
椿の端正な面構えと対峙すると、少女は腹立たしさを覚える。だが、ただ並んで座っているのも、気持ちのいいものではなかった。
フウリン士は煙草フロントグラスの手前に放り出してある煙草を一本くわえた。Tシャツにジーンズ。移動中は、格好にも煙草の嗜好にもこだわらないらしい。髪も無造作に垂らしているだけだ。その素っ気無さに妙な色気がある。つい魅入られそうになる。毛虫は急に静けさに耐えられなくなってきた。
「どこ行くの?」
なるべく静かな声を発する。不安を悟られないように。その取り繕いの虚勢の心を見抜いて、意地悪せずに、運転手は答える。
「藤沢風鈴堂」
「ふじさわふうりんどう?」
車の向かう先について、小雪屋はこう語った。
「私の商売上の屋号は小雪屋というんだがね」
フウリンといえば、今や泣く子も黙る魔的な道具。毛虫も、それは知っている。だが、その情報を取り入れる手段は限られていた。小雪屋となれば、当然この地方のガイドブックに刻まれている。それほどの名人だ。
名人。しかし、ただそれだけだ。その商売も、その技法も、何ひとつ詳らかにされた資料はない。
「実質、私はね。店と呼べるような店は持たない。あるにはあるが、表向きの看板は藤沢風鈴堂。金屋ってのは鋳物づくりの工場で、藤沢ってのは…」
椿が綴る説明は、外の世界では語られることのない内情であった。
フウリン士へのフウリン製作の依頼ルートは二つある。ひとつは、フウリン士本人への直接連絡。常連客であれば、それが可能だ。
一方、最初の依頼の窓口は、藤沢風鈴堂に設けられているという。
小雪屋は単独で商売している。
フウリンの顧客は個人ではない。
フウリン製作は、法人契約によって依頼される。その前準備や打ち合わせ、実地調査の段階の庶務作業を任せる事務所が必要だ。それを、その老舗に間借りしている。椿はそう明かした。
「小雪屋の名がひとり歩きしているが、運営しているのは、有限会社藤沢といってね。実質、これは、私の兄弟子とそのお姉様であられるんだ。もとは藤沢姉弟の店だ。私は軒先を借りているにすぎない」
藤沢家は伝統工芸品・広沢鉄器の製作を代々担う一族だ。
もともと、椿はその風鈴堂での鋳物製造を手伝っていた。
兄弟子どころか、実の兄弟もいないひとりっ子の毛虫には実感の伴わない話だ。
「じゃ、あんた末っ子なの?」
「いや。兄弟子といっても、これは、鋳物を造る上での話でね。彼らは私の従兄弟だよ。もともと藤沢の家は鋳物作りの家系なんだ。にいさんは先代の嫡男。彼も私も、叔父を師として仕えて、鋳物土の扱いから火の扱いから、すべて教わった。私は、その家に養子として籍を置いた。だから、はじめさん…ああ、これがにいさんの名なんだが、義理の兄ともいえるから…まあ、末っ子といえば、そうなのかもしれんがね。少し違う」
「えっ…でも…」
少女の戸惑いは自然なものだ。
(養子縁組?)
どういうことかと聞いてしまえば、興味があると思われそうだ。
なるべく無関心を装う。
椿は構わずに続ける。心なしか、その表情が柔らかいことに毛虫は気が付いた。
「にいさんは、組合の貴重な幹部だ」
「くみあい?」
反復しておきながら、さっと毛虫は俯いた。なんでもかんでもオウム返しにしてしまう。わからないことだらけだ。
だが、椿はお茶を濁す。
「まあ、それはね…いいのさ。それより、はるかさんに遊ばれるかもしれないな、君は。まあ…我慢するこった」
「はるかさん?」
『はるかさん』は難しい用語ではない。はっとしたが、もう遅い。可笑しそうな目を毛虫に向けてから、こう返した。
「義理の姉だ。にいさんは職人だが、主な業務を取り仕切っているのは彼女でね。まあ…会えばわかる」
またからかわれるかと思っていたが、まともに返事してくれたのは親切心だろう。けれども、少女はやはりむっつりと黙り込んでしまった。調子が狂う。
そのとき、車は鬱蒼たる木立の下へとさしかかった。フロントグラスは陰に覆われて光を失う。その暗がりに映る運転手の表情は、にやけている。少女の所在のなさを見抜いた上で楽しんでいるのだ。
いやな奴めと、毛虫は思った。



駅周辺の市街地。その大通りには、広沢鉄器の店が軒を連ねている。藤沢風鈴堂は、その界隈で知らぬ者のいない老舗だ。
世間では、広沢鉄器といえば冬のフウリンの代名詞と流布されている。だが、もともと広沢の鋳物師たちは、日常において用いられる工芸品の製造を得意としてきた。
分けても、広沢鉄器の特徴と味わいを最大限に引き出した広沢鉄瓶が有名だ。その鉄瓶の厚みと重みは、そのまま北国の厳しさと温かみを伝えてくれる。鉄となると錆が心配だが、独特の製法「金気止め」のおかげで錆にも強い。この鉄瓶でわかした湯には存分な鉄分が抽出されるため、至上のまろやかさを舌に与えてくれる。
この地方の鋳物業の発端は、平安時代まで遡ることができる。この国の伝統工芸品に関わる法律が発布された際、最初に伝統的工芸品として名を連ねたことからも、その易からぬ歴史が知れる。
さて、藤沢風鈴堂の扱いは幅広い。鉄瓶に、鍋、フライパンといった日用品から、本来の風鈴としての広沢風鈴まで手広く工芸品を並べる品揃え。
風情ある瓦屋根に漆喰の店構えは古く、正面にかかる暖簾から、その出格子からも相当の年月が感じられる。暖簾をくぐると、外観の歴史を忘れさせる、すっきりとした内装。壁をぐるりと囲んで設えられた杉の板の商品棚。天井から真っ直ぐに低い位置へ提げられたガラス照明はオレンジ色の光を優しく保ち、鉄器類の漆黒とあいまって内部を繊細に演出する。
店の正面には天然の木の風合いを生かしたカウンター。その向こうはやはり暖簾で覆われている。これは目隠しの役割を果たすものだ。
カウンターには、従業員らしい青年が腰掛けていた。椿を見るとさっと立ち上がる。
「おはようございます!」
きびきびと一礼した。
「おはよう」
椿が返して、青年の退いたカウンターの裏手へとまわる。毛虫も、慌てて付いていく。暖簾をくぐると、右手に四畳半の和室、左手にトイレといった簡素な空間で尽きている。店員の休憩室だ。そこを抜けると、渡り廊下が中庭を巡る邸宅がある。
廊下の囲む空間の中央に、やはり椿の一木。しかし、それには、緑の艶やかな葉が茂るのみ。その中庭に、今しがたこちらへ渡ろうとしていたらしい女将の姿があった。手には葡萄を山と載せた盆を携えている。
藤沢風鈴堂といえば結句、溌剌とした若女将にその魅力を集約される。万筋(まんすじ)に、藤の花模様の織り出された淡い紫の綸子(りんず)。半襟と足袋は清潔感のある白。茜色の大柄な椿の花の刺繍帯。帯揚げと帯締めは帯の茜より深い紅。清楚な地色の着物を華やかな帯で明るくし、濃いめの帯締めがきりりと纏(まと)め上げている。
明るい栗色の髪をくるっと櫛かんざしで纏め、襟足から覗く項が涼やかだ。仕草は若やいで、大正時代の少女のよう。
「おはようございます、悠(はるか)さん」
椿が挨拶する。
「あら、まああ…おはよう、椿ちゃん。その子は?」
そのやさしげな人が、きらきらと澄んだ眼差しを毛虫に向けた。どんどん近づいてくる。
「まああああああ」
見る間に間合いを詰められて、悠の顔が目前に迫る。毛虫は気圧されながらも挨拶した。
「は、はじめまして」
搾り出された声は、マイペースな歓声にかき消される。
「かあわいいい!」
たまりかねたのか、椿にその盆を手渡すと、少女の両の頬を包みこむ。そのあたたかな手に、真正面の薄い色素の目に、毛虫は凍り付いてしまった。だが、悠は至って無邪気だ。
「この子だあれ?」
「世話人ですよ」
さらりとフウリン士は自分に都合のいい回答を返す。毛虫は即座に訂正した。
「弟子志願です!」
その反応の良さが琴線に触れたのか。悠はますます頬を火照らせた。もう抱きつかんばかりの勢いだ。
「お名前は?」
毛虫はたじろぐ。本名は椿にすら明かしていない。だからといって、椿が私的感情で付けたあだ名を通称として明かすのも癪に障る。
「え? えっと…」
おろおろと窮していると、切り込むようにして、
「毛虫」
と、椿が答えてしまった。しかし、悠も動じない。
「あら、お名前まで愛らしいのね」
椿は肩をすくめる。毛虫は、あまりにのんきな反応に呆れてしまった。
「ねえ、どうしたの? どこで拾ったの?」
人形のように、髪をぐりぐりされて、さすがに毛虫は弱りきってしまう。助けを求める視線を椿に向けた。しかし、椿は、落ち着き払ってこう告げた。
「好きで拾ったわけじゃございませんよ。それより、髪がざんばらでしてね。しゃんと整えてくださいませんか」
その言い草。まるで、人形扱いだ。少女の腹のなかに、いらだちが生じる。けれども、どう伝えていいのかわからない。この場では、嫌悪感をあらわしたくない。悠が椿の近親者だからというわけでもなかった。そのために感情が制御できるほどの大人ではない。ただ、悠の無心な雰囲気がそうさせる。
(きっと育ちのいい人なんだろうな)
ぼんやりと思う。
「ふふ。もちろんよ。さあ、こっちへいらっしゃい」
頬をすりすり撫でられた。
最早(もはや)抵抗する気力を失い、毛虫はされるがままだ。諦めの漂う背中を見て、椿はいっそ感心してしまう。悠が美少女をちやほやする癖は先刻承知だ。
だが、この反抗的な毛虫の意気も挫いてしまうとは。
苦笑いする。
「今日はどうしたの? 珍しいじゃない。大きなお仕事があるときは、あのお山から下りてこないのに」
毛虫へのすりすり行為はやめないままに、悠が椿に問う。
「ああ…立花ですよ」
「しつこいわね、あそこも」
「しがらみですね」
「まあ、難しい話は後でね。椿ちゃん、本当にこの子好きにしていい?」
「ねえさんのお気に召すままにどうぞ」
そう言い置くと、椿は中庭を突っ切って、渡り廊下から中へ入る。
「え、え、え。ちょ、ちょっと…」
この美人と二人きりにされてしまっては、緊張する。置いて行かないでほしい。縋るような目を見せた毛虫に、悠が言い放った。
「まあ、椿さんになついちゃって。本当にかわいらしいのね」
「なついてません!」
それだけはきっぱりと毛虫は否定した。



悠は、玄関口で革靴用の靴べらを渡してくれた。平生、そんなものを用いて着脱する習慣はない。だが、この場では渡されるがままに用いるしかない。どうにか、しおらしく靴を脱ぎ、石の上へ揃え、靴べらを戻した。
まずは髪を整えましょうと悠が言った。彼女にとって、少女の身なりを自由にコーディネイトすることは、実に心浮き立つ作業であるらしい。毛虫は観念する。
藤沢家の玄関は天井までの吹き抜けが明るい。それが悠の人柄を感じさせる。一見、本格的な和風住宅だ。けれども、設えの木材は椿の邸宅と共通していながら、こちらは風通しのいい仕立てで、それが少女の緊張を紐解いた。けれども、通されたのは、やはり畳の一室である。どうやら、これからはじめる『美容院ごっこ』のためらしい。
あたりに新聞紙を敷いて、その中央に椅子を持ってきて、毛虫をそこに座らせる。悠は店の従業員らしい青年に、どこからか大荷物を運ばせてきた。
大きなつづら。
中くらいのつづら。
そして、小さなつづらだ。
何が入っているのか気になる毛虫は、横目でちらちら見遣る。その仕草に気付いて、悠はやわらかく笑った。
「ふふ。ほっぺが真っ赤よ」
「え?」
ぷにんと頬を人差し指で突っつかれた。
「あなたは素直な女の子なのね。だから、そばに置くのかしら…珍しいことなのよ。まあ、椿ちゃんの考えはいつもわからないけれども…」
悠からはいい香りがする。
「ねえ。毛虫ちゃん、お願いね。椿ちゃんを嫌いにならないであげてね」
涼やかな声でお願いされて、毛虫は押し黙った。それはわかりません。いや、とっくに憎んでいるのです。そう言うことはできなかった。
母親のそれとも、生物の雌としての香りとも違う。清廉で華やかで、月夜のような静かに人を落ち着かせる香りだ。
椿への反感。この人には悟られないようにしようと強く思った。
(キレイな人…)
椿はこんな人とすごしてきたのか。平和に。穏やかに。
その幸福を思うと、腹の奥に生じる反発を押し隠す。ただ、ひたすらな衝動。
自分にあるのは、それだけだ。
他人に怒っても仕方ない。
手際のよい悠のおかげで、髪は短いボブヘアに仕上がった。
覗かれる項が、清潔な印象を見る人に与える。悠はつづらを開くように促した。
「さ、どうぞ」
大きな漆黒のつづらは何も声を発しない。少女は、背筋の伸びるのを感じた。
まるで『すずめのお宿』だ。
椿の庵といい、この屋敷といい、どうにも世俗との隔たりを感じさせる。
「え、ええと…じゃあ、小さいつづらを…」
半ば本気で毛虫は指定した。
「大丈夫よ、毛虫ちゃん。大きいの選んでもお化けは出てこないから…」
天然の返しをする少女に、悠はしっかり突っ込んでから、いきなり大きなつづらの蓋を開いた。
少女は仰天する。
「えっ。着物!?」
中には、滑らかな光沢を有する着物が収まっている。
「広げてみてちょうだい」
またしても胸のあたりで手をあわせて、悠は瞳を輝かせる。
「でも、こんな高級そうな…」
既にして、毛虫の手は震えている。おっかなびっくりの少女に、いきなりがばりと悠は組み付いた。何が起こったのかわからず、毛虫はしばし呆然とする。
「はい、ばんざーい」
その隙に毛虫の両腕を天に向けて持ち上げて、制服のブレザーの釦を外し、すらっとその腕から引き抜いた。
「さ。脱いで脱いで」
タイを引き抜かれる。まっさらな純白のシャツブラウスの釦の襟に、その美しい手がかかったとき、初めて少女は正気づいた。
「きゃあああああ! ひとりで脱げます!」
ようやく、じたばたと手足を動かして、せめぎあいの末、少女は貞操を死守した。
「あら、残念。でも、いい? シャツも下着も脱ぐのよ」
「ええええええ!?」
少女には、ブラを脱いでその上に衣服を纏う習慣はない。
だが、着物とはそうしたものだと説明を受ける。
最初は半信半疑だった毛虫だが、悠の指導のもと、ひとりで襦袢を身に着けることを了解した。悠は、少女を部屋の全身鏡の前に立たせた。緋縮緬の襦袢。明るく軽やかな柿色の足袋。体つきは華奢だが、豊満な胸。おしりは小さく、アンバランスな雰囲気。
着物は袷の銘仙だ。生地は、クリーム色がかった白地の綸子。草花模様が全体に小さく散らすように染めてある。
毛虫は、言われるままに、薄紅色のぽったりとした唇に腰紐をくわえる。清廉な歯列が覗く。その歯の白さはそのまま彼女の年齢の素直さをも映し出す。
背中心が背中の真ん中にくるように着物を羽織る。びっと背筋を伸ばした。襟先から少し手前の部分を持ち上げる。引きずらないように、裾を踵のあたりへ丈をあわせた。そして、着物の脇の線と、体の真横を合わせる。
右手側を胴に沿って巻き込む。上前を重ねる。おはしょりを残して、口にしていた紐を手にし、手早く、器用に、きっちりと腰骨のあたりで締める。部屋に、衣擦れの音が静かに響いた。
まるで儀式だ。所作を連ね、次第に形が整っていく。
部屋には静寂。毛虫は、黙々と自分の指と姿見を見比べながら、すべてを身に纏う。
おはしょりを整えて、腰紐を結ぶ。
中くらいのつづらの蓋を、悠の手が開いた。収まっているのは、深いターコイズの帯だ。
さすがに帯を締めるのは二人がかりだ。反襟と同じ色で愛らしい帯。帯上げは襦袢と同じく、鮮やかな緋色。
それから、小さなつづら。そこからは、真っ赤なとんぼ玉が出てきた。帯留めだ。加えて、つまみかんざし。
立ち居姿が、その鏡に映し出される。耳のあたりに、つまみかんざしをつける。化粧を施されて、鏡に映った己を睨むようにして見つめる。そして、瞬きする。
まるで別人だった。
「さ。できあがり! ああ。本当にかわいいわー……」
うっとり眺める悠に、毛虫はどう返していいかわからない。すかさず悠は部屋を出て、大声をあげた。
「椿ちゃん、椿ちゃん、見に来てー! かわいいのー!」
当然、毛虫は血相を変える。
「ちょ、ちょっと…や、やめて…!」
やめてくださいと言い切れずに、手のひらは空を切った。
歯止めのかけようがない。



居間では中年男性が掘り炬燵に寛いでいた。炬燵の上には新聞紙、眼鏡ケース。煙草と灰皿。それから、広沢鉄器の急須に、湯飲み茶碗。
もう何十年もそれしか知らないのではと感じさせるほど、作務衣がぴたりとはまっている。
黒髪黒目。背丈は随分とある。肩も腕も顎も丸みを帯びており、独特の親しみやすさがある。飾りのない顔立ちだ。頬に豊かさと深みを有する人のよさそうな男。藤沢基(はじめ)。椿の兄弟子だ。
開きっぱなしの襖の手前に正座して、椿は声をかけた。
「おはようございます」
深く一礼する。
「うん、おはよう」
新聞紙を畳みながら、挨拶を返して、基は椿に目を向けた。
「君宛に郵便がきてたよ。今日は立花のところに行くって?」
その問いに含まれる懸念を汲み取りながらも、椿の返事は短い。
「ええ」
言葉を尽くしたところで、基の懸念は拭えないことを知っている。彼女は、机上の封筒を取り上げ、中を改める。待ちかねていた通信だった。
「…何かわかった?」
「ええ…」
厳しい視線を紙面に置く椿の返事は言葉少なだが、さして基は気にかけない。
二人の間には了解があった。
立花一族は広沢鉄器の伝統を今に伝える一族だ。藤沢も、また同じ。立花が椿をしきりに勧誘することについて、椿は何も言わない。基も言わない。
基が椿の前に出て矢面に立つこともできる。だが、それこそ相手の思う壺だ。藤沢家も、立花家も、この界隈への影響力は大きい。両者の対立は、組合の問題として表立った皹を入れる。
だから、椿本人が、あくまで個人的な問題として片付けようとしている。立花の執拗な誘いに対して、その都度丁重な断りを入れる。それよりほかに事を荒立てずに済ませる手段はない。
だが、どちらとも繋がりのある藤沢基にすれば、懸念は尽きない。椿が心配だ。だからこその提案をしてみる。
「無視したっていいのじゃないか」
やんわりと彼は言う。無駄と知りながらの気遣いだった。
「にいさん、ご心配には及びませんよ。無視でもしようものなら…」
椿は語尾を濁す。
無視でもしようものなら、埒もない嫌がらせをされるに相違ない。そう言いたいのだが、あからさまな表現は避ける。
「まあ、そうだな…」
基が湯飲みに手を伸ばす。渋い表情を浮かべたのは茶の味のせいではない。
「あれも、悪い奴じゃなかったんだがね…」
その言葉に、椿は内心で苦い思いを抱いた。
「にいさんは、人がいい」
あれとは、立花清則のことを示す。藤沢基と立花清則はかつて同級生だった。とはいえ、少年期を友人として過ごしたわけではない。基は学業よりも家のなかでの仕事の手伝いを優先するよう仕込まれた。一方、立花は優等生として学内で認められていた。互いの交流はなかった。立花は家業を継がないのだろうと思っていた。
だから、学校を卒業し、組合の会合へ初めて顔を出したとき、立花と遭遇して驚いた。それ以降、鉄器製作に携わるためのさまざまの会合で顔をあわせた。少年期よりも、成人してから親交を持つようになったのだ。一時は会合のあとの宴で酒を酌み交わしたこともある。
他人ではない。
しかし、先代が椿を藤沢家に擁すると決め、彼女の品が世に出回るようになってから、立花は変わった。組合への出席をせず、連絡にも応じなくなった。そして、ある騒動が起きた。その直後、立花の二人の息子のうちのひとりが姿を消してしまった。
立花が椿への業務提携を申し出る頃と前後しての出来事だった。
実の兄弟の力量の育つのを待たず、椿の才能へ縋った父への失望。そのことが原因であったと見なすのはたやすい。だが、原因は誰にも知れない。
長兄は書置きひとつ残さずに消えたのだ。この間、基は為す術なく見ているしかなかった。けれども、しみじみと無念を覚えた。椿はそれを承知している。しかし…それとこれとは別だ。
「私が甘い顔をすれば、ご迷惑をおかけすることになりますでしょう…」
「椿…そんな言い方をしないでいいんだ」
基は寂しそうだ。椿は、この兄弟子の優しさに、居心地の良さと、いたたまれない気持ちを同時に覚える。
立花の長兄・立花則人の行方知れずが原因で立花がおかしくなったのではない。則人の行方知れずこそ、立花がおかしいことの結果なのだ。
立花は既に報いを受けている。
基は、立花の愚行を自分の愚行であるような罪悪感を覚えている。全くそんなことはないのだし、彼が弱る必要は無い。それでも、そのように感じてしまう連帯感のなかに、椿は彼の男性性を見る。
(私にはないものだ…)
そのまじめさ、そのかたくなさに触れるにつけ、言い知れない心地になる。感謝であるような、違和感であるような…恐らくは、もどかしさだ。
ただ、それは嫌なものではない。忌避すべきものではない。この家に住むとは、基と接することと同義だ。この家が基そのものだとも言える。そのもどかしさを感じる日々が、椿の日常でもあった。
悲鳴が、沈うつな空気に陥る二人の上空を駆け抜けた。
「きゃあああああ! ひとりで脱げます!」
毛虫の悲鳴だ。椿は顔をこわばらせた。なんという声をあげるのか。その声に、基が小首を傾げた。常日頃接している従業員のものではないらしい。沈黙ののち、
「…女の子?」
と尋ねた。
椿は、捨て猫を拾って押入れに隠しておいたのを見つけられた小学生のように額に汗する。
「ええ、まあ、その」
気まずい。
この店の一切を取り仕切るのは藤沢の夫妻であって、椿もそれに任せている。彼女が従業員を自ら斡旋することはない。弟子志願の無謀な少年少女が訪れても、固く断りをいれるように平生からお願いをしてある。その立場にありながら、どこの馬の骨とも知れない少女を、この家に連れてきたこと自体が気まずい。
悠の反応は予想通り。受け入れてくれた。だが、基には、きちんと説明しておくのが礼儀と、今まさに明かそうとしていたのだ。その矢先の嬌声だ。
(ぼけむしめ…)
椿は内心舌打ちする。だが、フウリン士の焦りとは裏腹に、基の反応はのんびりとしたものだった。
「珍しいこともあるもんだねえ。君が連れてきた?」
暢気な問いかけに、椿は言い訳する機会を与えられる。
「ええ…手伝いをさせるつもりでおります」
椿を眺め、それから、彼は湯飲みの面を眺める。黙って考えているその横顔に、椿の心に焦りが生じる。
冷や汗が浮かぶ。
「…しかし…どういう変節だ? 椿。家出人はいつも追い払うじゃないか」
その問いかけに、椿は愚直とも呼べそうな情けない表情を浮かべた。こののんびりとした男は、雰囲気に背いて観察力が鋭い。
フウリン士は口を噤む。言いたくないのではない。言い訳を考えようにも浮かばないだけだ。何を言っても悟られると思った。その沈黙のうちに、基は答えを感じ取る。
「もしかして…」
もう彼は見抜いてしまったようだ。椿は目を閉ざす。
基は、おろおろと湯飲みを手にしたまま、目線を泳がせた。
「ああ、何てことだ…なんてことだ、何故、君…」
片手を口にあて、狼狽を浮かべる。基は勘がいい。だが、見抜いた相手の心理そのものに対しての反応がいいわけではない。そのまじめな性分が、己の勘のよさを裏切って、かえって困る羽目に陥る。
それでも、感じ取る能力に長けた基に自分は救われている。椿はそう思う。
「君…君は…平気なのか?」
返る言葉は、基を絶句させた。
「正直なところ、動揺してます」
「椿…」
悲痛なその声に、基は目頭を押さえた。
「けれど…仕方ありません」
それを聞いた基は顔を覆った。頬から首から、耳までが真っ赤に染まっている。
激した感情を堪えている。
「…もう決めちまってるんだなあ。いつも、そうやって…少しは僕に相談してくれたっていいんだよ。弱音はいてくれたっていいんだよ」
彼は両の掌で、顔をごしごしと拭いた。魚の姿のように禁欲的な瞼の端に涙を浮かべ、震えた。彼は椿が悲しいのだ。
椿のその心が悲しいのだ。
そのときだ。場違いに朗らかな声が届いた。
「椿ちゃん、椿ちゃん、見てー!」
悠だ。
「かわいいのー!」
続いて、少女の制止する声。
「ちょ、ちょっと…や、やめて…!」
こちらは必死だ。それらの嬌声に、しめやかな空気は払拭された。基が、ぽかんとする。
ふっと、椿は笑みを浮かべた。
「はいはい、今行きます!」
彼女は、向こうへと返事をしてから、基に向き直り一礼する。
「…いい子ではあるようだな」
呆然としながら、基は呟いた。
「さあ、どうでしょう」
さっと立ち上がり、椿は返した。
「わかりません。しかし…あれはただの娘です。ただの、どこにでもいる娘ですよ」
その決然たる口調に、基は、涙の収まるのを覚え、乾いた喉にお茶を流した。



顎に手をあてて、まじまじと少女を眺める。最初眉間に皺寄せていた椿だったが、何か心に響くものがあったのか瞬きする。
「何よ」
むっとして、少女は、そちらを睨み返した。
「いえ。かわいらしい。眩暈がする」
「う、うっさい!」
完全にからかいの言葉としか受け取れない。毛虫は頬を赤くして怒った。しかし、椿は満足そうに何度か頷く。
「うん…まあ、いいだろう。君もおいで」
「え?」
「さっき言ったろ。立花のところさ」
「たちばな? で、でも」
ここで、椿は奇妙なそぶりを見せた。目頭を押さえて、軽くふらつくような足取りをした。
それを見て慌てたのは悠だ。
「椿ちゃん、大丈夫?」
立ちくらみを起こしたのだ。悠がその腕をとって支え、その場にすとんと座らせた。
「水を持ってくるわ」
「な、なんなの?」
毛虫は、急激な変化をいぶかしんで、そっと椿の顔を覗き込む。
「あんた、体弱いの?」
「…いや。あまりに…」
ふと椿が顔を上げたので、二人は間近に向かいあった。無防備な少女の眼差しに、椿は笑みを浮かべる。少女は不思議に思う。何がおかしいのだろう。こんなにも蒼白なのに。
「あんまり、君がまぶしくって」
「へっ?」
最初は咄嗟に反応できなかった。
だが、次の瞬間、真っ青になり、それから真っ赤になった。無論、恥じらいではない。怒りの炎だ。
「からかうんじゃない!!」
毛虫が怒鳴る。椿は堪えきれず、くつくつと笑った。そこへ、悠が冷たいお茶を運んできた。受け取ると、それを口にして吐息する。それから、
「本当だよ」
と、呟いた。
毛虫は口をきいてやる気もなくして、ただ睨むだけだった。

第三章

平沢の鋳物業の歴史は平安後期までに遡る。
当時から、この国には鋳物師―いもじ―と呼ばれる職業があった。
元々、この土地の鋳物産業は『歩き筋』と呼ばれる鋳物師により伝承されてきた。
彼らはある土地での鋳物の需要が満たされると、移動して、別の新たな土地で必要量に応じて鋳物製作を行う。そして、また移動を繰り返す。明確な根拠はないが、それはライバルである同業者との鉢合わせを避けるためでもあった、と。そのように伝えられている。
それまでの鋳物業は、自然的な需要に応じて育まれた産業であった。
しかし、近世。戦乱の時代を終え、江戸時代。世の中は茶の湯文化の隆盛を迎える。
広沢の藩主はその城下町の良質の鋳物土に目をつけた。
広沢藩には、元より、お抱えの釜師たちがいた。それに留まらず、各地方より鋳物師及び釜師を招へいした。立花家は、その招へいされた『御釜師』を祖とする一族だ。
立花一族は茶の湯釜の製造を得意とした。
もっとも、この土地に、そのような流れをもつ家系は一筋ではない。
藤沢の家もまた同じだ。藤沢は、寺の梵鐘を主とする仏具製作に携わっていた。しかし、ある時を境に、時代の流れに従い、鉄瓶を含めた日用的な鍋釜製作へ移行した。これは、かつて世界的な規模で生じた大きな戦争を境としている。
戦時下では、「銑鉄物製造制限規則」が施行され、平和的な日用品の製作が禁じられたのだ。そのことによる影響は大きかった。武器製造のために資材を奪われ、鋳物製造に携わるべき人材もまた、兵役へと向かう。鋳物業は衰退した。そして、敗戦。この国はその舵取りを洋風化への波に押された。人々の嗜好も著しく変化した。鋳物業は更なる窮地へ立たされた。
その時代、藤沢はそれまでの伝統を保ちながらも、市井の人々のための日用品製作へと方向性を変えたのだ。立花もまた、業務の幅を工業用の鋳物製作へと広げた。だが、結果として、立花家の経営は縮小された。両者の変遷には多少の差がある。
世間的な見解では、多少の差にすぎなくとも、当事者にしてみれば大きな差だ。
現在、広沢町の郊外に、立花の家はある。
小雪屋がそこを訪れるのは、かねてからの業務提携の申し出を断る返答のため。それだけの用件だ。そして、その問答はもう何度繰り返されているか知れない遣り取りだ。
彼女にすれば、憂鬱な仕事。しかし、欠かせない仕事でもあった。
因果だ。ただ、断るだけの用件だ。だが、この二つの家の間を行き来する上では、さまざまの背景事情をよく理解していなければ角が立つ。
そこへ、何も知らぬ少女を伴う真意が容易に解せない。
悠が疑問の声をあげたのは、そのためだったのだ。
しかし、それとは知らず、少女毛虫は、よちよちと―――慣れない着物の裾さばきに苦心しながら、椿のあとをついてその門をくぐった。
その邸宅は、田畑つづく郊外において何とも言えない容貌を呈する。奇妙な構えをしている。
奇妙。そうとしか言えない。和洋折衷。それとも違う。毛虫は、何と言うべきか考えあぐねた。椿や藤沢の家が真新しいのに比べて、その家は、そう。時代錯誤だった。
もっと言うならば。
(あ、悪趣味―――)
だった。
総タイル張りの洋館も、切妻造り(きりづまづくり)の瓦門も、それぞれを個別の建造物として見ればこれらは立派な建造物だ。それが正面と奥とに配置されると、こんなにも響きあわないものかと呆れるばかりの不協和音。
インターフォンを通して椿が自分の名を告げる。
あらわれた使用人の姿も時代がかったものだ。ベルベット素材のワンピースに、エプロンドレス。ヘアタイや靴下のおびただしいフリル。
門をくぐってから、玄関までの花壇の花は薔薇だろう。今は花ひらいていない。五月にはきっと華麗なさまを見せてくれるのだろう。その花壇からそう離れていない囲みに桜や楓、いちょうなどの庭木が所狭しと植林されていなければ…心落ち着く庭となっていたはずだ。
あるものすべて詰め込んだような庭だ。豪勢ではある。
ひらひらのフリルに誘われて入った玄関土間は、やはりタイル張り。つづく廊下は赤絨毯。
正面の金箔屏風絵。アーチ型の廊下にはシャンデリア。その突き当たりの窓は趣向を凝らした櫛型窓。毛虫は目がくらくらしてきた。
どれもこれも、それ自体を個別のものとして見れば趣向を凝らしているのだが…
羽織の背が前にある。小雪屋は一向動じず歩いていく。街中では見につけないのかと思われた羽織だ。コート代わりでもあるのか、出かける直前に、小雪屋はそれを肩にかけた。その足取りに遅れないようについていく。不意に、その足が歩調をゆるめた。毛虫の傍らへ並び、その腰に手をまわす。
「博物館だと思えばいいさ」
その仕草の軽やかさに、手馴れたものを覚える。毛虫はびくりと震えた。目を上げる。
縦長の窓に嵌められた硝子から、神無月の一切穢れない青空が映えて光がさしている。その銀色の髪が透明な明るい光に照らされて、どうしようもないほど純粋な銀の髪にそれらが宿る。湖の表面が輝くように、それは輝いた。水であるはずが、まるで硬質な宝石のように煌く。毛虫は口を噤んだ。確かにこの女の美しさは否定しようがない。けれども。
ちょっと睨んで、腰にまわされた手をぴしゃりと打った。
「平気よ」
このくらいで気遣われるのは、御免だ。
通されたのは、古城の客間のような暖炉つきの一室。ビロードのソファ。その上には、ミンクのソファーカバー。何の動物かまではわからなかったが、毛皮であることは毛虫の目にも確かだった。ついに違和感は嫌悪へと転じる。
メイドが銀の盆に白磁のティーポットをのせて入ってきた。続く一人は、ティーカップを運んでくる。そして、更にもう一人。彼女は、椿のためだろう。漆塗りの煙草盆をお供え物か何かのように掲げ持ってきた。至れりつくせりだ。
しばらく待たされたのち現れた商談相手の若さに、毛虫は驚いた。
十代後半から二十前半だろう。これが工芸品をつくる家の息子であろうか。切れ長な目。薄い唇。尖った顎。細い指には、こまかな細工の銀製の指輪。癖のある髪の隙間から見える耳にはピアス。海外有名ブランドのスーツに絹のネクタイ。職人というよりは、俳優で通る華美な空気感。洗練された身のこなし。まるでこの屋敷の家具と同じように磨きぬかれている。
名を立花遊清。
立花清則の次男だ。
少年は、毛虫を一瞥した。何事か、驚いたような顔をする。恐らくは、椿単身での来訪を予想していたのだろう。毛虫はそう思った。恐縮するべき場ではないとも思った。
「待たせたな、小雪屋」
「いや、特に」
椿は立ち上がらない。招待への礼も言わない。握手を求めることもない。無礼千万だ。示威運動か、両の掌を腹の上にあわせて置いて足を組んだ。腰に提げていた煙草入れから煙管を取り出す。刻み煙草を器用に丸め、それを詰める。用意された煙草盆の火入れではなく、自らのマッチで火を点す。ここに至って、椿は毛虫を一瞥した。苦りきった笑みを浮かべる。
「初めてご紹介いたしますね。毛虫といいます。これは人でない。虫みたいなものです」
その言い草もどうだろうと、毛虫は思う。悠に見せてやりたい態度だ。
これが本心なのだろう。軽く睨みつける。けれども、少女は椿の言うに任せた。
「お招き頂いたことについては御礼を申し上げる…いつも、上等な灰皿に、念の入ったお出迎え。結構です。しかし、私もそろそろこの馬鹿げた商談を打ち切りたいところでしてね…」
「そりゃこっちの台詞だ!」
遊清は忌々しげに舌打ちする。二人の真正面に深々と腰を下ろした。
王子様だと少女は思った。こうした生意気な少年に日々接するのが椿の常か。
「ふ」
椿は、露骨に嘲りを浮かべる。それから、急に生真面目に正面へ向き直った。
「で、今回はどういったご注文を」
問いかけに、いくらか気を取り直して、少年は返した。
「…今日こそ、何としてでもやってもらう」
「でないと、パパに怒られる?」
その言葉に含まれる軽蔑に、少年は耳まで赤らめた。なるほど、少年にはこの椿の相手は荷が重いようだ。毛虫は、青白くなった少年の面を間近に眺めた。
やはり、この少年は、お飾りにすぎないようだ。少年の『パパ』への従順さは、彼が両親への反抗期を迎えれば終わるのではないだろうか。それを椿は知っているはずだった。
それならば、椿がこんな馬鹿げた子供のお守りをする狙いは何だ?
毛虫は初めてこの談話に耳を傾ける気になった。
スーツの隠しから、少年が煙草とジッポを取り出す。一本くわえると、火を点した。換気してくれないものだろうか、と少女は思った。煙の上へと立ち上っていくのを見て天井に目を凝らした。天井の、はめ込み式のファンがゆっくりと回転している。
このとき。
何故かはわからない。
この屋敷の造りがどうなっているのか妙に気になった。
「ダイヤモンドダストを知っているか?」
少年が紡いだ言葉に、少女は向き直った。
小雪屋は相手を睨むようにして片目を細めた。
「まさか、それを作れと?」
「ああ。てめえのフウリンで作られるダイヤモンドダストを売り物にして、人を呼ぶ」
「それが依頼か?」
「てめえも知ってるだろう…七色(なないろ)が森(もり)のスキー場跡は」
かつて、この国には何度か熱狂的な好景気の時代が訪れた。そのなかでも、最も虚ろな景況であったと名指しされる時代。その折、この国の人々は、それまでに類を見ない程の消費文化を築き上げた。
そして、痛ましい痕跡を、己の国の美しい海山に残した。
ゴルフ場とスキー場の乱立。そして、その無謀な計画に基づく森林伐採。
実際に無駄な伐採をしておきながら、中断された工事。工事は完了したものの、見向きもされなくなり閉鎖された施設。この平沢の町を擁する山々のいくつかにも、その傷跡は残る。
その全てを買い上げて、新たな施設として立て直す、と少年は述べた。
「馬鹿な」
椿は歯牙にもかけない。
「馬鹿かどうかはやってみなけりゃあわからねえ」
「お話にならないと言っている」
「てめえが力添えしてくれりゃあいいんだ。いいか。環境破壊はもう為されちまってるんだ。そこを再生させるための緑と氷の楽園を築く。総合施設だ。その資金で、森を再生させる…そう銘打ちゃ、人は集まる!」
「人を集めてどうする? 儲けを企むなら、もっとましな案におし」
処置なしと言いたげに、椿は吐息した。置いてあった煙管を取り上げた。吸い込む。煙を吐き出す。それから、カンと灰を叩いた。
「請け負うことはいたしかねます。立ちなさい、毛虫。帰るぞ」
「え。え?」
もう? と確認するのは、おかしいような気がした。だが、あまりに礼節のない返答だ。少女は慌てる。携えてきたバッグを、慌てて手にする。
遊清もまた立ち上がった。
「待ちやがれ!」
青筋立てて怒鳴りつける。
「フウリンは遊びの道具ではない」
「そうかい、てめえは、この広沢鉄器の産業なんぞはどうでもいいってんだな?」
そう問われて、椿は初めて口を噤んだ。
理不尽に感じて、毛虫はむっとする。そんな言い方は卑怯ではないのか?
藤沢の家の鋳物製作に携わっていたことを考えれば、それなりの貢献はしているのではないか。
毛虫は、初めて声を発した。
「ちょっと! そんな言い方って…!」
だが、その口を後ろから塞がれた。
「むぐ…!」
真後ろから抱きすくめるように引き寄せられた。羽織の囲い、その胸のうちへと取り込まれる。
「むう! むうううう!」
何すんのよ! と言いたい。だが、それすら吃音に変わってしまう。
「ええ。だいそれたことは、私にはできません」
椿がこう返答した。その従順さは、それまでの傲岸不遜さとは別物だ。少女は怪訝に思い、ふと黙る。その答えに遊清が激昂する。
「てめえ、開き直りやがって…!」
その時、椿が少女を袖の囲いから解放した。
「あんたね! 黙って聞いてりゃ、随分我侭なんじゃないの!?」
「な、な、なんだ…てめえは! お、女は黙ってろ!」
「なあんですってえ!? 恥ずかしくないの!?」
低俗な言い争いの火蓋が切って落とされた。侃侃諤諤、やかましい少年少女の背後。椿がするりと羽織の裾の袂を探った。そのときだ。ものものしい足音が響いてきた。
扉が開いた。やはりスーツ姿の若い男たちが入ってきた。だが、鍛えられた肉体は労働者のものではない。ずらりと、椿と毛虫の並ぶソファのまわりを取り囲んだ。
少年は助力を得て息巻いた。
「今日こそ判を押してもらう。力ずくでもな!」
椿は、しかし動じない。毛虫の堪忍袋の緒が切れた。遊清に向かって怒鳴りつける。
「卑怯者! あんた、本当にあの藤沢さんちと同じ仕事してるの!?」
遊清は、その言葉にかあっと顔を赤らめた。ぱくぱくと口を開いては閉ざす。反論したくても、できないようだ。
「何とか言ったらどうなの? この、腑抜け!」
「こ、こ、こ、このっ…! ……!」
どうにも様子がおかしい。椿に向けて畳み掛けるような、あの上っ面の調子のよさが出ないようなのだ。毛虫が怪訝に思う。椿は、遊星の様子を見て、口の端に笑みを浮かべた。それから告げる。
「毛虫、口と耳を塞げ」
「え?」
手繰られた羽織から、その片手が抜き出される。そして、その掌が開かれる。
少女は目の当たりにした。
「それ…!」
形は花。
中は空。
芯は円。
それは。
それこそが。
ああ。
やはり。
(あんたが原因で…!)
少女の目が赫怒に染まったのは一瞬のことだった。


りーいいいいん…


清廉なる響き。その花の音が四辺に響いた。
一音で効果する。
魔的な道具。フウリン。
少女の意識が白濁する。必死で椿を睨もうとした。しかし、その瞼は閉ざされる。足は地へと縫いとめられる。崩れ折れる体を、羽織の内側から抱きとめる白い二の腕。
続けざまに、その空間にいる男たちがどさどさと倒れこむ。
遊清が咄嗟に耳を塞ごうと両手をあげたが、そのまま前のテーブルに突っ伏した。
その唸りを、その微細な振動をかもすフウリンを指で押さえて止める。
小雪屋は、胸のうちに抱きとめた毛虫を呆れた顔で眺めて呟いた。
「耳を塞げといったのに…」
馬鹿げた商談だった。
それ以上に馬鹿げた考えを抱いているであろう少女の愚かさを知っている。
「馬鹿な子…」
全身弛緩して、眠り落ちてしまった毛虫。椿は、そのあどけない頬に触れてみる。やわらかで、張りがある。指が離れるときの方が弾力を感じる。なんという気取りのない肌。
これが少女の肌だ。その柔らかさのうちに、どれほどの熱烈な怒りを蔵しているのか、知っている。
だが―――
そっと頬を撫でる。
そのとき、突っ伏していた少年が俄かに立ち上がろうとするのをフウリン士は見た。彼は虚ろな視線を寄越したが、よろめいて、ソファに再び倒れこんだ。だが、面を上げて、きっと椿を睨み据える。
「ふざけやがって…何が遊びの道具じゃねえ、だ…充分てめえのために用いているじゃねえか…!」
「ふふ。ご無礼致した。しかし、仕掛けてきたのは、おまえさん方だ。私個人の事情で用いることはあるが、遊びでお相手したつもりもないよ」
そのフウリンの名は『一休』。
短時間だが、聞いた者に眠りをもたらす効果がある。その音を知覚してから、睡眠を強いるまでの速さにおいては、彼女の有するフウリンのうちでも最速だ。
椿は臆する素振りも見せない。平然と笑みを浮かべる。愉悦すら感じさせるその表情。
一方の遊清は険しい顔をする。だが、あくまでも抑えた声音でこう述べた。
「…ご無礼がいつまでも許されると思うなよ…フウリン士」
「手勢は眠りおれ」
そうは言ったが、椿は内心面白くない。
立花清則は何を考えている?
年端もいかない、こんな少年に跡を継がせようというのか。
(恐ろしい力をもつのはいつでも『普通の』人間だ…)
(遊清。おまえはそれを知らない…)
しかし、フウリンを持ち出すこといなるとは思わなかった。
黒服の男たちの突っ伏する様を見下ろす。なるほど、立花は切羽詰まっている。それは確かだ。
「そうだ。マッチを頂こうかね」
フウリン士は図々しくも煙草盆の上のマッチを取り上げる。少年は、それすら非難することもできない。
遊清は沈黙する。
毛虫の、その両足の膝の裏に肘をいれる。軽々と、椿は少女を抱き上げた。少年の瞼が完全に閉ざされるのを確認してから、立花邸を後にした。



車は黒岩山への帰路につく。
助手席に寝かされた少女は、そのまま目を覚まさずに夢を見ていた。
振動はほとんどない。それでも、車のなかはどこかゆりかごに似ている。
半ば目覚め、半ば夢を見る。そんな心地だ。
夢は不思議だ。体は現実の安寧のうちにあるのに、意識だけがはっきりと目覚めている…

ああ、電話を。
電話をかけなくちゃ…

どこかで、あの音を聞いた気がする。
実際、自分は耳にする機会をえることはなかったのだ。
それでも、自分は知っている…
知らないはずはない。
(ママ)
ママが。
鳴らした一音を、知らないはずがない…

「ただいまぁっ! ママぁっ! 買ってきたよぉっ! あのね、バニラとね。チョコとね。いちごなの。ちゃんと、おつかいできたの!」
正面の玄関ドアの取っ手に背丈の届かない少女は、庭先へまわって、そう呼びかけた。いつも、ひとりで家の中へ戻るときは、庭先のガラス戸からと決まっていた。少女は、喜び勇んで『おかいもの』から凱旋した。きっと、ママは喜んでくれる。初めてのおつかいを、ちゃんと言いつけを守れた自分を。
たくさんのアイスクリームを買い込んだとき、商店のおばさんは褒めてくれた。
『えらいのね。ちゃんとママのお手伝いできるようになったのね』
褒められて、嬉しかった。自分はもう一人前だ。大好きなママのお手伝いを、もっと、もっとできるようになる。おばさんが、小さなその手にも持ちやすいように、浅くしばってくれた袋。中にはカップアイスがぱんぱんに詰まっている。
けれども、返事が無い。少女は、ガラス戸の隙間から、その小さな頭をのぞかせる。部屋の中はしんとしていた。何かがちがう。視界に、ソファに座る母親の足が見えた。
力なく弛緩している。
「ママぁ? 寝てるの?」
少女はたちまち不機嫌になった。すぐに褒めてくれないといやなのだ。足元にアイスの袋を置いて、うんしょとお尻を跳ね上げて中へ入った。それから、振り返って、袋を引き上げる。
母は眠っていた。足は床におろした状態で、ちょっと横になるといった体勢でソファの上で眠っていた。
「ママぁ…」
頼りなく少女は呼びかけた。母の静かな眠りを妨げるのがよくないことだと、わかっていた。それでも、自分の引きずっているアイスの袋が気にかかる。本当は、すぐにでも食べたい。それに、冷凍庫にいれないと溶けてしまう。小さな指が、母のスカートの裾を引っ張った。起こすつもりで。
「ママぁ…買ってきたの…アイス…」
くんくんと、少女はそれを何度も引っ張った。
しかし―――何かがちがう。
ぎゅっと、少女はそのスカートを両手で握り締めた。それは反射的にそうしたのだ。不安から。その幼子の握力、それだけの力で、母の体はソファから滑り落ちた。
「わああっ! ママ!?」
少女は恐怖にかられた。崩れ折れてくる大人の体は少女にとっては巨大なものだ。
けれども、このまま落ちては、ママが頭を打ってしまう。
思考回路と体の反射との導いた結論は、自分が下敷きになればいいという無謀なものだった。そうすれば、自分が緩衝材になって母は怪我をせずに済む。そして、きっと起きてくれる。健気な幼児らしい、怖いもの知らずの発想。けれども、それは裏切られた。
鈍い衝撃を背中に覚える。幼女はその身体の下敷きになった。その瞬間、ごんと鈍い音がしたのを聞いた。惨事には至らなかった。咄嗟の判断で、少女は、頭だけは床にぶつけないように自らをかばったのだ。けれども、このとき、少女の全身は痛みよりもはっきりとした違和感に支配された。確かに受け止めた、その全身。母の身体は、少女にのしかかり、床に伏した状態で倒れた。その胸の柔らかな弾力に肩から下を塞がれる。少女は仰向けに倒れた。重いとは感じたが、痛みはなかった。自分からその身体の下へすばやく潜り込んだからだ。けれども、母の身体が心配だった。どこか怪我はしなかっただろうか。
母の頭まではかばいきれなかった。先刻の鈍い音から予想できることだ。母こそ頭を打ってしまったのだ。大丈夫だろうか。怖いくらいに不安になる。けれども、上体に縫いとめられた体勢で、母の頭部までは確認できない。重みで動けないままに、少女は身じろぎした。
何かがおかしい。母に呼びかけようとして、その違和感のために動けなくなる。
母の起きる気配がない。こんな状態に陥っていながら。
「ママ…?」
自分に覆いかぶさる、その胸の鼓動。柔らかな肉体。それは、数え切れないほどの抱擁を与えてくれた母の身体だ。穏やかな鼓動が伝わってくる。
それでも、この状態でこんな穏やかさを保っているのは異常だ。
規則正しい呼吸が聞こえてきたとき、少女ははっきりと恐怖した。
―――眠っている。こんな自体に陥っても、なお眠っているのだ。
どうにかして、その身体の下から抜け出す。そして、母の顔を確かめた。頭には異常なかった。だが。
「ママ!?」
母の面は穏やかで、まるで赤ん坊のように眠っている。眠り続けている。
「……ママぁ! 起きて! 起きてよぉ!」
自分の考えの及ばない異常な事態に、幼子は涙をこぼした。
揺すっても、叩いても、起きる気配はない。
「きゅ」
何をすればいいのか。
「きゅうきゅうしゃ…」
涙で霞む視界。
ぼんやりと呟いた。
幼稚園で習った。救急車だ。こういうときは、一も二もなく救急車だ!
本能的に、そう思った。

電話だ。
ああ。
でんわをかけなくちゃ…



空気の温度が変わった。
肌が冷えている。けれども、不快ではない。
井草の匂い。
「ん…」
瞬きする。
眩しさを覚えたが、太陽の光ではない。狂おしいほどの冴え冴えとした光。純白の光。これは月の光だ。
その黒い睫が揚羽蝶のようにぱちぱちと瞬きして、瞳が開かれる。少女は唇をぽかりとひらいて、新鮮な空気を吸い込んだ。胸に流れ込んでくる清涼な空気。
障子が開いていた。
硝子戸を開放した広縁。庇に切り取られた藍色の宵の空。
遥かに輝く満月。煌々たるその光の照らす白い障子。松を刷いた廊下。その羽織。肩から背中は深い藍色だ。その裾まわりの椿は鮮やかだが控えめな印象を与え、宵闇によく映える。傍らの煙草盆に煙管。雁首からのぼる煙。
月見する薄い背。煙管。
見慣れてきた、その背中。
わけもなく、毛虫は泣きたいような気持ちになった。どうしてかはわからない。
キライなのに。
憎しみをしか感じない。
今、この静けさのうちに、殺してしまいたい。そうしてしまえるのに。
あんまりにも無防備に背を向けられるから、何も言えなくなる。
身を起こす。
「起きたか」
毛虫は不服を覚える。
眠らせたのはそちらだろうに。
「…何だったの?」
椿には答える義務がある。
だが、彼女は肩を微かに揺らした。
笑ったのだ。
「済まなかった。咄嗟に耳を塞いでくれると期待したんだが」
そう言って、煙管に手を伸ばす。俯いたとき、月光のもと、その横顔が闇に透けて見えた。
「あんたが馬鹿なのよ」
「本当にそうだな…私は馬鹿なんだ」
と、妙に殊勝なことを言う。
毛虫は布団の端を握り締めた。
「何であの場で鳴らすの? あたしがいたのに」
小雪屋は、肩をかすかに痙攣させた。これは驚いた仕草だ。
しばし沈黙する。
正直に彼女はぼやいた。
「いやあ…もう、面倒で」
「あんたね…」
毛虫は呆れた。
うん、と伸びをする。
いつの間にか着るものが変わっている。浴衣だ。裾から風が入って気持ちがいい。
「あんたが着替えを?」
「ご不快だったかね」
「…すごく」
立ち上がる。毛虫は、椿の脇に並んで座った。
椿は、どこか苦々しい表情をその面に浮かべる。毛虫の頭に、ぽんと優しく手を置いた。
あまりの仕打ちに、毛虫は反応すらできなかった。赤く腫れた瞼。頬を涙がたどった軌跡。その跡をいとおしむように、すうっと指が辿った。霧か霞かというほどの軽やかな感触だ。口をぱくぱくさせる。気安く触るなと怒鳴りたい。何をするのだと言いたいが声が出ない。反感を覚えたとき、もうその指は離れていた。
「悪い夢でも?」
「そ、それこそ、あんたのせいよ」
ぎっと睨みつける。
思い出すと、改めて腹が立つ…
眠らされたために、あのような夢を見た。あの夢を見たから、確信ができた。やはり、この女なのだと。
この女だ。
だが、傍らの女は、睨まれても、さみしそうに笑うだけだった。その目が、俯いた角度のために前髪に隠される。引き結ばれた唇に覇気がない。
しおらしい態度だ。
毛虫は、いたたまれなくなる。
小雪屋椿は、一目で人を魅了する魔的な容貌の主だ。端然たる横顔。指で煙管を携える仕草。その額に、その柳眉に、けれども一抹の影を宿している。明るい銀の髪。その光を冠していながら、相反する陰りを湛える眼差し。
月光のもと、池の面が明るく反射している。それが、障子に変幻自在の影絵模様を描き出している。しかし、その池の底にも暗闇がある。
毛虫は、その美貌にも見慣れつつあった。だから、わかる。椿の目鼻立ちのよさは、その魔力の一端ではあるが全てではない。内から溢れる印象強さ。この女の内面。それが人を魅了する。
どうにも落ち着かない。
最初見たときから、ただの人物ではないとわかった。この髪といい、刺青といい、お飾りではない。常人との差異化を視覚的に求められるような立場の人物ではあるのだろう。あのような尋常でない効果をもたらす道具の造り主が、一筋縄ではいかないことも了解した。
だが、彼女のそばに置いてもらうことを、もっと単純なものと見縊って(みくびって)いた。嫌いな相手に心を動かされるはずなどないと思っていた。それなのに。
この美しいもののそばにいて、それを見過ごせるものなどいるだろうか。近くにいると、くすぐったいものを心に覚える。だが、意識的にその喜びを噛み殺す。馴染んでしまいました、では済まされない。
それは、ある種の裏切りだ。
それは、ひとつの忘却だ。
忘れてはならない。目的と事実を。
俯いた少女に、椿は気がついた。そして、何もかもをたやすく見抜いた。少女の心のうつりかわりを。
この時、フウリン士の心に生じた思いは、ほとんど加虐趣味に近いものだった。毛虫の片意地はあまりに無垢で純粋だ。自分に正義があると信じている。
(私にもそんな時期があった)
(しかし、まさか)
(君が)
この少女が、その頃の自分を記憶から引き出してくれるとは、何と言う皮肉だろう。
あまりに頑な(かたくな)な態度。その意地っ張りを、どこまで見せてくれるのだろう。不意に試してみたい誘惑にかられた。どうせ心を開いてもらえないなら、見せてほしいものだ。その徹底振りを。いつまで耐えられる?
しかし、傍らの少女の華奢なことに気付いてしまって、椿は黙る。月明かりのもと、少女の面は白い。
今は―――まだ子供だ。
幸せな生い立ちの子供だ。
携えた煙管の吸い口に口をつける。
その唇がふっと煙を吐く。
「昼はご苦労様だったね」
「…何なの? あいつら」
「もともとね。私は藤沢家にいたんだ。鋳物造りの手伝いをしていた…」
かつて、小雪屋椿を称するより前。
黒岩椿は組合に身を置いていた。
広沢鋳物協同組合。それが組合の名だ。構成員は、ほとんどが高齢者ばかり。広沢鉄器の伝統工芸士は、継承者不足に直面していた。
鋳物業の組合名簿に少女の名を連ねることには前例がなかった。伝統工芸士として活躍する女性は珍しくない。しかし、鋳物業は火を扱う。力を要する作業過程もある。まして、女の立ち入り自体を良しとしない向きもあり、彼女の参入に異を唱える者もいた。それでも、継承者不足に喘いでいるこの業界において、性別を問うのは最早無意味だった。活性化につながるだろうと期待され、登録が許された。
だが、少女には目算があった。己の異能を自覚していた少女にとって、伝統工芸の学びはその力を己がものとするための修練の一端だった。その能力は、才能という言葉で片付く代物ではない。工芸士としてではない。人としての異能だ。
「通常、工芸品は何十もの工程を経て生産されるものだ。たくさんの人が、一人ひとり、自分の業に磨きをかけて…それで、やっと一つのものをかたちづくる。私は、まあ、それをすっ飛ばしちまう。すべての工程を省略してしまう。フウリン士の名はお蔭様で知れ渡っているが、随分煙たがられたもんさ」
「あんたが?」
「見たろう。君も。私は普通ではないのだよ。しかし、普通でないからと、仕事をしないでいいはずがない。だが、私にはただの仕事はできない。フウリンを作ることしかできないんだ。組合の一員として、伝統工芸に携わることができれば、それでよかった。だが、その作業を行うことができない…だから、抜けたんだ」
組合に籍を置く以前から、反対の声はあった。フウリンの生成方法を己がものにしたことを契機に、椿は組合を抜けた。技術は日々の修練によって研鑽される。だが、椿の風鈴は革命的にすぎた。そもそも、フウリンの存在価値は伝統工芸品の規格とは遥か遠いところにある。
和解的な脱退だった。
「このフウリンの存在が世に知れるにつれて、それを生み出した風土…広沢もまた、一層にその名を広めた。一時、相乗効果で広沢風鈴はその売り上げが倍増した。最初は万々歳だった。けれど、一時的なものだろうとは皆噂していたんだ。小雪屋のフウリンと広沢風鈴は別物だ。鉄器風鈴に魔的な効果はないってね。皮肉も僻みも頂戴したが、随分感謝もされたものさ。私もようやくこの土地に恩返しができたと思った」
恩返し?
妙な表現だと思ったが、毛虫は口を挟まずにおいた。
「立花の目が眩(くら)んだのはその頃だ」
やがて、ある運動が起きた。優美な花のかたちをした風鈴の製作をはじめ、従来の平沢鉄器の重厚で落ち着いた佇まいを一掃せんとする動きだった。花びらの一枚一枚をより薄く、あでやかに。広沢鉄器の重厚さと対極をゆく製品が作られた。
発端は、立花鋳造。あれよあれよという間に、フウリンの模倣品が出回った。もちろん、フウリンと等しい効果は無い。あからさまな模造品だったが、縁起物と銘打たれた。椿のフウリンに魅了された買い手がつく。何の価値もなかろうとも、偽物であっても、フウリンの価値にあやかるように代用品は売れた。元来、フウリンにつく値は庶民の手に届くものではない。しかし、その英雄的な効果は話題の的だった。
人は偶像を求める。
従来の広沢の重厚さを無視する模造品の生産を疑問視する声のあがるなか、椿は、そのムーブメントを一過性の流行とみなして放置した。立花鋳造は、模造フウリンの製作にその後も力を入れ続けた。独壇場の売り上げを築いた。
聞いているだけで、毛虫は胸が悪くなってきた。
「私はね、何も言わず、見ざる聞かざるを決め込んだ。組合を抜けることで、従来の鋳物業を離れたことへの後ろめたさも手伝ってね」
そう打ち明けられた毛虫は、複雑な表情を浮かべる。正しいとは思えない。けれど…間違っているとも言いづらい。
「模造品をつくる前から、手助けのしようがないところまで立花の業績は悪化していたんだ。起死回生の策だったんだろうさ」
「でも、そんなのって卑怯だわ」
「ふ」
椿は笑った。
「素直だな」
真っ直ぐな瞳を見つめて、そう評する。馬鹿だといわれている気がして、毛虫は言い返す。
「あんたがおかしい!」
「…彼らは、私の能力そのものに縋ったわけじゃない。この力は、私とともに消えうせる命運。ただ、その形を真似ただけだ。技術は意志そのものだ。何を作ろうと自在だ」
「でも」
「でも…そうだね。確かに、彼らが自身の流儀を貶めてしまう前に、私は抗議していれば良かったのかもしれない。鉄器風鈴は、あくまで品物だ。売れれば売れるほど、立花は儲かる。けれど、それだけだ。いずれ、本来の鋳物業に戻るだろうと思っていた…けれど、駄目だった。立花は…まぜものをした」
「まぜもの?」
「…広沢鉄器は、真土(まね)と呼ばれる龍成川の運ぶ土砂が原料でね。けれども、その真土ではない、まがいものの安い材料を入れて混ぜたんだ」
まぜもの騒動。
毛虫はつい声を上げた。
「あ。知ってるわ」
広沢鋳物儀表示事件。
立花鋳造。
謝罪文の全面広告。
知識人たちの見解。
そして、扇動的に批判する批評家達。
あの事件は…いくつのときに起きたものだったろう?
あらゆる媒体を通じて、世間を賑わせた偽表示事件。広沢鉄器の不良品が出回っているという苦情が続々と消費者センターへと寄せられた。鋳物に使用される原料に、表示のない安い原料を混ぜていたことが発覚に至ったのだ。経営の実態は腐敗しきっていた。
情報で記憶していても、連鎖して思い出せるかといえば、そうではなかった。この土地に至って、これがそうですと言われたところでようやく思い出した毛虫だ。昨今、製品の偽造問題は珍しいことではない。
だが…一度思い出されたその内容は詳らかなものだった。
「確か、資源の枯渇が背景にある…だったわよね」
「へえ。よく覚えてるな」
椿は感心したが、咄嗟に毛虫は俯いた。そうではない。忘れていた。だが、広沢鉄器…そうだ、それに関連する事件だからと、発覚した当時、関心を寄せていた。
「どうせなら、真土の減少を公表して、易い素材もきちんと明示すればよかったんだろうさ。だが、まあ…体質だろうな」
椿が初めてシビアなことを言った。
毛虫は言葉を失う。広沢鉄器の流れを汲むものには許せない行為だろう。諦めを、やるせなさを感じさせる声だ。だが、椿が心のうちに抱えるものは、表面からは悟れない。
「因果応報?」
「そう…でも、それがいけなかった。元々、私のフウリンを模倣したのが原因だと考えたのか…逆恨みを買ったようでね」
「え?」
「傾いた経営を立て直すために、立花は私との業務提携を持ちかけている。そのために躍起になっている。表向きは仲良くやろうなんていっているが、底にある考えが…どうにも見えない。今日の商談のようなのを、我々は繰り返しているってわけさ」
「そ、そんなのムシが良すぎる!」
皮肉めいた椿の笑みが、こちらに向けられる。
「ご同情痛み入るね」
毛虫は、はっと我に返った。
ご同情。確かにその通りだ。同情どころか、共感しきって、腹を立ててしまった。
(何怒ってんのよ、こんな奴のために!)
いっそ、喝采を送るべきではないか。
椿の不幸なら、笑ってやるべきだ。それが獣の行為と呼ばれようとも。けれど、毛虫は胸がむかむかしてきた。
「そんなんじゃないけど…でも、あんた、そんなんじゃ…」
黙っていられない。
「あんた、そんなお人よしじゃ、生きていけないわよ」
椿は、その言葉に目を見開いた。
少女を見つめる。
けれども、すぐに視界を転じた。
(まただ…)
眩しい。
この少女は、眩しすぎる。
まっすぐな性格。まっすぐな言葉。
けれども、それだけではない…
静かに月を仰いだ。
その唇はこんなことを提案した。
「いい夢を見れる方法がありますよ…お手伝いしましょうか?」
その眼差しが毛虫へ向けられる。
どうやら魘される姿を見られていたのだ。毛虫は、その気遣わしげな表情から悟る。心配されても当然だろう。けれども。
(今、あんたの心配してるってのに)
そんなことすらなかったかのように、自分を心配している。
(馬鹿なんじゃないの、こいつ…)
ぼうっとなった。
その眼差しに取り込まれてしまう…それを恐れて、毛虫は突っぱねた。「いらない!」
「…そうですか」
あっさりとフウリン士は引き下がった。その淡白な態度。毛虫は訝しく感じる。自分は弟子に依願した者だ。その自分がここまで意地を張ることについて、椿は疑問に思わないのだろうか。
「あんたさ…」
口を開いたが、どう聞いたものかわからない。そのとき、廊下の奥に向けて椿が何か呼びかけた。
「六花、おいで」
「ろっか?」
誰かいるのか?
椿の振り返った方向を見ると、暗がりから、真っ白く、ところどころに薄い茶色の斑がかすみのようにあらわれた猫が歩いてきた。
「ね、ねこ?」
長い尻尾を揺らしている。
瞳は緑がかった黄色。ピンク色の鼻先にも、ちょんと薄茶の斑がかかっている。おっとりとした仕草の、品の良い猫だ。六花と呼ばれたその猫は、主である小雪屋を見つけて擦り寄ってきた。腿に全身を押し付けて甘える。椿の指がその丸い背を撫でる。
肩越しに月。
羽織の下の腕は細い。
不意に、あの雪山を思い出した。あの雪景色はこの腕のかたちづくったものだった。そのせいか、その小さな猫の存在すら、自然が凝縮されてつくられたもののように見える。
「君はよく泣くね」
不意を突かれて、少女は動揺する。
「う、うるさい。泣いてない!」
「どうだか」
ようやく椿がからかいの言葉を紡いだ。そのことに安堵する。そんな自分が妙だと毛虫は思う。ひょいと細い腕が六花を抱き上げた。目の高さまで持ち上げた。
にゃあ。
六花は愛想よく鳴いた。椿がその猫の鼻面に軽く口付ける。そして、その鼻面を、毛虫の側へ向かせた。そのまま、鼻面を毛虫の唇にちゅっと押し当てた。
「えっ…」
驚いて毛虫は声を失う。真正面に迫る猫の口がぱかっと開いて、欠伸するのが見えた。
関節キスだ。
「よく眠れるようにおまじない」
カンと、煙管が煙草盆に打ち付けられた。二の句を継げない毛虫の目前で、ひらりと羽織が翻る。立ち上がる後姿。
「おやすみ。お姫様」
ようやく毛虫が正気づいたのは、その足が廊下を渡り、部屋の角を曲がり、階段へ差し掛かったときだった。
「な…な…な…何すんのよーーーー!!」
怒号が月夜に響き渡る。ようやくそれが聞こえてきたとき、椿は、肩を震わせてくつくつと笑った。
「な、な、な、なんて女なの…!」
頭のてっぺんまでかーっと熱くなる。
(大嫌い!)
むかむかしながらも、少女の腕はさっと六花を捕らえていた。
猫に罪は無い。
(大嫌い!)
六花はおとなしい。
されるがままだ。
火照る頬を、ぎゅっとその柔らかな毛に埋めると、にゃあんと六花は愛想良く鳴いた。抱き締めたまま、部屋のうちへと引っ込む。それから六花を畳におろして、障子を閉める。六花は、勝手に布団の上へと歩いていく。
毛虫が布団へ潜り込むと、隙間から入り込んできて、腕のなかへぴたりと収まった。
六花の毛並みには自然を感じた。
この山の木々の匂いがする。
逆上していたにも関わらず、その小さな生き物に身を寄せられると、不思議な鼓動に昂ぶった気持ちが消されていく。
少女は、いつしか再びの眠りに落ちていった。悪い夢も見ずに、ぐっすりと。


(つづく)

第四章

その夜。
立花邸の、最も余人を寄せ付けにくい一間の前に、遊清は立っていた。
立花清則の書斎だ。彼は、父親に椿との交渉が失敗したことを報告しにきた。
遊清は、今、苦しんでいる。
父の期待と兄の不在の狭間で苦しんでいる。もともと、兄への劣等感の強い少年だった。しかし、この家が最も厳しい状況に立たされたとき、長男は姿を消した。
世間の向ける辛らつな批判に対し、遊清の父は涼しい顔で挑んだ。
遊清は、それまで何も知らずにいた。フウリンの模倣が陰で何と噂されていたのか、それすら知らずにいた。少年がまだ幼かったためだ。何も知らずとも仕方の無いことだった。だが、その少年の最も多感な時期に、まぜもの事件は起きた。
まぜものの一件の謝罪後、立花は表面上の反省を示すに留まった。社内では、これを契機に事業の拡大へつなげると豪語するなど、一向改善の余地は見られない。そんな父親の姿に、疑問を抱くようになった。
連綿と、その間違った行為は重ねられてきたのだ。幼い遊清は気付かずにいた。家業がおかしな方向へ向かっているなどとは。
けれども、事は露見した。
それを『事件が起きた』と感じるか、『露見した』と感じるか。他者と内部の当事者たちでは見え方も異なる。遊清にすれば、それは唐突に『起きた』ことだった。それまでは自家の生業が正しいものと信じていた。それをいちどきに覆された。存在の根源から揺るがされたようなショックを受けたのは、何よりも、純粋に、父の、兄の背を見てきた遊清だった。
だが、その激しい荒波に揺れる心を置き去りに、その先の指針を託すべき兄は姿を消した。
清則は、遊清に、こう言い放ったことがある。
『おめえは、職人には向かねえ』
中学生の頃。進路指導のはじまる時期だ。
『営業のが向いてるだろ』
遊清は、兄の則人の実直すぎる性質に比べて、社交的で友人が多く、また先生の覚えもめでたかった。清則は、そんな遊清の性格を美点だと褒めたのだ。だが、当人にすれば忸怩たるものがあった。則人の、無口で、職人肌である性質こそ、確かに鋳物業に向いている。
恐らく、父は少年の気性を否定したわけではなかった。経営の手腕も一種の才能だ。だから、決して気に病むことではないと遊清は思った。
だが―――誰しも、どうしても越えられない壁がある。遊清の心に劣等感として築かれた壁は、兄の不可解な失踪を経て、いよいよ深まった。今の清則のフウリン士への執着ぶりは、遊清にとって残酷とも呼べる振る舞いだ。その架け橋役を遊清に任せているのだから、荒れて当然だ。荒れるというより、いっそ混乱している。
(おとなしく、あのフウリン士が、うちの申し出を許諾しててくれりゃあ…)
そうすれば、まだ悩みは小さかったろうか。
(いや…そりゃ、おれの考えることも、大概おかしいぜ)
そう思い直す。それは恐らく違う。フウリン士が業務提携を受け入れたところで、遊清の悩みはその質を変容させるだけだ。その苦しみは変わらない。
則人が戻らない限り。
(冬のフウリン士か)
父・清則が執着するのも当然だ。
この立花に出入りする以前、彼女が藤沢の家で修養を積んでいる頃から、黒岩椿の名を知らない者はいなかった。
その仕業は神がかりと言える。
(だが、こっちゃあ人間なんだよ)
第一、フウリンは商売道具ではない。確かに、その一個につく値(あたい)は、日用品とは遥か異なる。だが、それを世俗の市場へ引き下げようという発想そのものが誤りだ。
その誤謬を正すことができる人物がいるとすれば、兄の則人だけだと遊清は思う。まぜものの一件以降負った借金を返済するべく、清則の目が眩んでいるのも詮無いことではあろう。だが。
(おれたちだって、努力してんだ…親父)
恐らく、則人は気付いていた。
遊清にすれば、まぜものの一件は事件。しかし、兄にとっては…どうだったのか?
失踪そのものが答えなのだと…薄々ではあるが、遊清は感じている。
遊清は、もどかしい思いで立花の家長の私室を見据える。今、立花清則のするべきことは、フウリン士を取り込むために躍起になることではないはずだ。則人の負った傷を直視することではないのか。
すると、その視線を受け取ったかのように、遊清の名を呼ぶ声がした。
少年は震えた。
だが、しっかりとした手つきで、ドアノブを回す。
扉を開くと、そこは清則の書斎だ。
中央ユーラシアの古代王朝を偲ばせる派手な絨毯。煌びやかな金屏風に、花鳥風月の書画骨董。
まったく統一性はないが、骨董屋としてなら成立しそうな書斎だ。
樫の机に向かい、西陣お召しの袷の着物に、ウール素材の羽織を着込んだ男が座っている。吝嗇らしい薄い唇。狡猾に光る猛禽類のような目。そして、我の強そうな鉤鼻。重ねられた手の甲にも、顔にも寄せられた皺は、油断無く積み上げられた年月を感じさせる。
ただならぬ気迫を背負う痩身。
彼は、すでに還暦を越えていた。
だが、その冷徹な印象は老いるほどに磨きがかかっていくようだ。
書斎机の前に据えられた低い机とソファがある。そのソファの一隅に、遊清は身体を縮めるように腰掛ける。
焦燥から、彼は自ら問いを発する。
「わかってんだろ、親父。だめだった」
「ふん。息子の不出来は承知だ。てめえが交渉を纏められるはずがない」
「…すいません」
しぶしぶと、少年は謝った。
その様子に、清則は興ざめといったように低く笑う。そして、引き出しから、細身の葉巻を取り出すと一本くわえた。
マッチを擦る。火を点す。
独特の甘い香りが漂う。
「で、てめえは? 何の用だ」
問われて、遊清はびくりと肩を震わせる。だが…言わねばなるまい。
「親父。あの業者、どうすんだ?」
「まだそんなこと言ってんのか」
少年は、声を張り上げた。
「そんなことって! 親父、わかってんのか!? 今、俺たちがしていること! こないだ、仲介業者から苦情が寄せられたこと…買い手だって馬鹿じゃねえ。前の在庫があるってのに」
現在、彼らのもとには、新しい型番と古い型番の製品の差が無いという苦情が寄せられている。新製品のカタログを過去のものと比較して、前の製品との差がないと気付いた業者があったのだ。それなら、新商品として打ち出す意味が無い。
これは当然の話だと思われがちだが、こうした差異に気付かないままに、メーカーから卸された品を鵜呑みに受け入れる業者が大半だ。
それは信頼ではなく怠慢だ。
だが、そのような売り手を選ぶことそのものが、立花の現在の経営方針となっている。
「その業者とは取引を打ち切るしかねえだろうな」
そんなことを言いたいのではない。そう訴えたいが、遊清は口を噤んだ。上っ面から否定しても無駄だ。根本から、この老人と少年の認識の間には隔たりがある。それをどう正すべきか。いざとなると、遊清にはわからない。
だが、間違っている。
眉間に皺寄せて、遊清は己の父親を睨んだ。
「親父。俺たちはまだいい…俺たちや、うちの社員はまだいい。覚悟の上でやってんだ。けどよ。業者まで圧迫してんだ…たいして性能のあがらない器具の型番を変えて、業者に詳しい説明をすることなく営業させる…そんなやり方で納得するわけねえよ!」
「不満があるか?」
その声。
遊清は、その恫喝にどうしても頬が強張る。指先が凍てつく。この父親の心臓には、自分と同じ血は通ってはいないのではないか。そう思わせるほどの、隔たりを感じる。
つい憎まれ口を叩いた。
「兄貴がいなくなってから…親父、おかしいよ」
遊清を見る清則の目が、一瞬闇に染まった。そう思った瞬間には、額で火花が上がった。激しい衝撃。鋭い痛み。清則が灰皿を投げつけたのだ。己の息子の額へ向けて。そして、それは的確に彼の頭部を直撃した。
「あの阿呆のことを口にするんじゃねえ!」
一喝されたが、遊清は強い眼差しで睨み返す。
ぐっと睨み据えた。しかし、少年の熱意は、彼の父の冷徹さを上回ることは無い。
何事もなかったかのような、怜悧な光を取り戻して、清則は己が息子をじっと見つめる。
遊清は、目をそらした。
何を言っても無駄だ。
「てめえの仕事がある」
「今度は何だよ?」
「まあ、見てみろ」
清則の指が机上に置かれた台形の操作盤を叩いた。すると、遊清の正面に掛けられた映像シートに、録画映像が再生された。
映し出されたのは、暗闇。その視界が不意に明るくなった。そして、使用人の部屋が写された。簡素な畳敷きの部屋に和机。その視界が上方へうつる。廊下へと移りかわる。そして、この部屋の客間へと入ってゆく。
そこに座っている艶やかな羽織と可憐な着物。どちらも顔は映りこんでいない。だが。
「これは…」
遊清は絶句する。
視界は、羽織へ急激に近づいて、その柄の一部を接写する位置に固定された。そして、天井の隅に提げられた拡声器から、響いてくる声。
『待たせたな、小雪屋』
姿は映らないが、紛れもない、遊清の声だ。
『いや、特に』
応じるのはフウリン士椿の声。
つまり、これは盗撮―――いや、立花がその家の内部を撮影することについては、その表現ははまらないだろう。だが、隠し撮りであることには相違ない。
咄嗟に、遊清は、清則に視線を送る。しかし、清則は、平然と画面に注視している。
「親父、これァ…」
「何だ? おれが、防犯上、客間に仕込んだレンズに、たまたま客がうつっちまってるだけだろうが」
この不遜な態度。
しかし、この態度があったから、立花鋳造は危機から免れたのだ。
遊清は、この映像をどうとらえていいのかわからない。その目前で、清則は画面を早送りさせた。ある箇所で、標準の速度へ戻した。
拡声器から、複数の男たちが部屋へ入ってくる足音。少年と少女の罵りあう声。そして―――

りーいいいん…

フウリンが響く。
その後は、遊清も詳しい流れに至る。
『そうだ。マッチを頂こう』
この声を限りに、画面が暗転する。
「あっ…」
思わず遊清は声をあげる。
「相変わらず、抜け目ねえ女さ」
清則はぼやいた。
暗転。確かに、画面は暗闇に変わっている。だが、これは電源が切れた暗さではない。正確には黒く塗られていた。その証拠に、画面いっぱいに拡大された跡は指紋だ。その指についた炭を、ちょっとレンズに塗られていた。
「おれァ、マッチまでくれてやるように支度させた覚えはねえんだ。恐らく、小雪屋が拝借したように見えたマッチはもともとあの女が持ってたんだろう。それを取り上げるふりをして、墨つけやがった」
苦い顔をする清則に、遊清は、呆然とした目を向ける。つまり、隠されたレンズに気付いているという印だったのだろう。カメラを壊していないのが、また嫌味だ。
遊清はそこにマッチがあったか否かも覚えていない。
何という観察力。
思わず、口に手を当てて動揺を隠す。
しかし、遊清に目もくれず、清則が告げる。
「遊清。おまえ、あの女を調べろ」
「椿を?」
「馬鹿。この女だ」
彼は、映像を巻き戻した。
このような遣り取りを再生させた。
『あんたね! 黙って聞いてりゃ、随分我侭なんじゃないの!?』
『な、な、なんだ…てめえは! お、女は黙ってろ!』
『なあんですってえ!? 恥ずかしくないの!?』
遊清は呆気にとられる。
これは、椿の連れてきた美少女の声。そう。確か、椿は『毛虫』などと、ひどいあだ名で呼んでいた。何故、この少女が関わってくるのか。さっぱりと理由がわからない。
だが、至って慎重な面差しで、清則は続ける。
「名前から出身地から、調べられることはすべて調べて来い。いいな?」
「何でまた…そりゃあ、かわいい子だったけどよ」
遊清が肩をすくめる。
「阿呆」
大音声ではない。だが、遊清の肩を掴んで揺さぶるような恐ろしい声が発せられた。
「かわいいなんてものじゃねえぞ、これは…いいか、黒岩椿に悟られずに調べて来い」
思わず頷きそうになったが、まったく理由がわからない。椿ならまだしも、無関係な少女を調べろとは何事か?
さすがに遊清は堪りかねて、立ち上がった。
衝動的に、猛然たる怒りがせりあがってきたのだ。
彼はつかつかと書斎机に歩み寄ると、ばん! と勢いよく机上をぶっ叩いて凄んだ。この父親を睨むのは恐ろしい所業だ。だが―――黙っていられない。
「親父! 何だって、あんな女に執着するんだ! おれだって…いや、この際、おれはいい! ちょっとでも、兄貴の心配したことがあるのか!」
眉間に皺寄せて激しく噛み付いてくる遊清を、子犬を見る眼差しで清則は見返す。そして、口の端に笑みを浮かべた。皮肉で傲岸な笑みを。
「てめえはいつまで、則人にしがみついてやがんだ。一人じゃ何もできねえか?」
ぐっと遊清は唇を噛んだ。
清則は不敵な笑みを浮かべる。
「…わかったよ!」
煮えくりかえる腸をどうしてくれよう。しかし、遊清は言われるままに部屋を出た。
思い切り、大きな音を立ててそのドアを閉ざす。それくらいしか、抗議の手段はなかった。
(何だってんだ、畜生!)
小雪屋との交渉のみならず、その連れ合いを調べろとは何事か?
そして、あの無関心。
『息子の不出来は承知だからな。てめえが交渉を纏められるはずがない』
残酷な言葉が、遊清の胸に去来する。
あの男の、自分の息子への仕打ちは、最早異常だ。
たまらなくなって、遊清は、屋敷を後にする。
そのまま、夜の闇へと紛れた。





眠りが深かったためか。
毛虫は、早い時間に目が覚めた。食事の支度のために台所へ向かうと、既に椿が起きていたので驚いた。朝食が用意されている。きんぴらごぼうに、麩の味噌汁。玄米の飯。
シンプルだが完全な朝食だ。
毛虫に食べるように言い、彼女は握り飯を拵えた。
どうかしたのかと尋ねるのも妙な気がして、ありがたく頂戴したものの、何か目論みのある気がして油断ならない。案の定、椿は言った。
今朝は掃除はいい。
支度をしたら山登りだ、と。
「山登り?」
それだけで、毛虫はいやな予感がした。そもそも、椿邸に至るまでが山道だったものを、更に登れとは何事か?
「いやなら、この山から下りてくれてかまわんよ。使用人」
まったく、遊ばれている。
眉根をきつく寄せて睨んでから、毛虫はこう返した。
「ええ、ええ。どんな山だろうと、谷だろうと、よろっこんでお供しますわ、椿様!」
皮肉のつもりだったのだが、小雪屋は満足そうに笑った。
そして、部屋へ戻った彼女が再びあらわれたとき、毛虫はある疑惑を抱いた。
Tシャツにジャージの上下。それまでの気障とも呼べそうな程の洒脱なスタイルをもかなぐり捨てた、その実際的な装い。
「さ、行くぞ」
一体、どこへ行こうというのか。
しかし、あれよあれよと電気自動車に連れられて、到着した山は、毛虫の想像を遥かに上回る標高の山だった。その山の登山口に車をつけられたとき、疑惑は確信に変わった。
少女は制服姿のままだ。
「こ、これ…のぼるの? 足で?」
厚手の靴下。首にタオル。頭には日よけ帽。完全な登山スタイルのくせに、爽やかな顔つきで、椿は言い放った。
「安心しろ。君の分のジャージもある」
どう安心しろというのか?
町全体を取り囲み、静かにうずくまる山々の沈黙。その独特の気配が、ざわりと少女を脅かす。
山に目鼻のあろうはずがない。
口のあろうはずがない。
もの言うはずがない。
それでも、確かにそこには表情があった。そして、その心は決して読み取れない。不気味さを感じる。自然とは、そういうものなのだと、初めて実感する。
このような自然の合間に暮らす人々と、都会から訪れた自分とでは、生き方も、ものの感じ方も違うのかもしれない。改めて、異邦人である己を感じる。
しかし、おとなしくジャージに着替えるよりほかに為すべきことは残されていなかった。





修験者の山。
原野から入山して間もなくして、この山がそう呼ばれていると椿は語りはじめた。
そして、実際に、ここはかつて修験者が修行をするための場であったのだ、とも。
「修験者?」
「そう。だから、昔は女人禁制だったようだね。今は平気だが。修験者ために用意された艱難辛苦の登山道を正規のルートとして整備しちまったもんだから、この山は人気がないんだ。垂直の岩石がごろごろしていて、そこを鎖や鉄梯子で登るんでね」
「ちょっとー! 聞いてない!」
「平気さ。私たちは別の道を行く。なだらかな稜線を辿る、伐採の作業場の跡があって、そちらのが距離はあるが穏やかなんだよ。そちらへ行く」
いやに椿の肩は強張っている。だが、緊張とは違う。彼女の全身が漲っている。いっそ、リラックスしているようにも思えた。
毛虫には、それが喜んでいるようにも見えた。真剣な声音から、油断を許さぬように感じられる。けれども、その背が、四肢が張り切っている…山へ立ち入ることを嬉しいと全身であらわしているように見える。生き生きと。
おずおずと、毛虫は尋ねた。
「あ、あのさあ。熊が出たりする?」
それを聞いて、椿は足を止めた。
肩越しに振り向いて、にやーっと意地悪な笑みを浮かべた。
「どう思う?」
「ど、どうって…あんたに聞いてるんでしょ!」
「そうじゃないさ。君がどう思うかと聞いている」
「え…」
そんなことがわかるはずはない。山登りの初心者なのだから。
そう言おうとした。
けれども…
松や杉の木立。
明るい光がさしてくる。
椿の立つ、その向こうから水の流れる音がしてくる。その上に、丸木で組んで作られた橋が見えた。
沢の流れ。
「…水が流れてるの?」
「水? ああ」
問われて、椿が振り向いた。
何故かはわからない。
鳥居。杉の木立。明るい光と水の流れ。けれども、それだけではない…
この山はどこか穏やかだ。
その直感の訪れは、毛虫本人にとっても、理不尽だった。うまくはあらわせないが、確かに、わかる。
その流れを感じ、あの林を見る。
写真ではない。この足に感じる山肌。
「出ない感じがする」
「何故?」
もどかしげに、少女は答える。
「だって…そんな感じがするの」
椿は唸った。
「ご名答。向こうの沢は、昔、馬をつないでいた場所があって、そのあたりを囲むように流れてるんだ。それに修験者だって、鉄砲は持ってない。熊が出たりするようなところだったら、おちおち修行もしてられないだろうし…」
「そうなの?」
「明確な根拠はないけれどもね。しかし…よくわかったな」
「なんとなく」
「…なんとなく、ね」
フウリン士は、難題を突き付けられた幼児のように、考え深げに眉根を寄せた。簡素すぎる、その少女の言葉を受け入れないとでも言いたげに。それは毛虫にとって不可解な反応だったが、特に感想は持たなかった。
踵を返して、椿は再び歩き始める。二人は、丸木橋の上を渡った。
名も無き沢の水の流れが耳にさらさらと響く。
「…でも、山頂まで結構ありそう」
「山頂まで歩く予定は無いよ」
「本当? 良かったァ」
心から安堵してそう言ったが、椿は答えない。
「あ! べ、別に、山頂まで歩くのがきついってんじゃないけど!」
慌てて強がりを付け加える。
しかし、それにも椿は返事をしなかった。
ただ、ひたすらに歩を進める。
まだ歩き始めたばかりだ。
ばててしまったようには見えない。
その背は静かだ。
何を考えているのか。
果たして、この女との付き合いが短すぎる己を自覚する。
急に置き去りにされたように思える。
確かにこんなに近くにはいても、まだ、知り合って間もない。そのことを急に実感させられる。その距離感。
(な、何よ…)
付き合いが浅い。そんなことはわかりきっている。
毛虫は、尚も、何か言おうとした。
けれども、何を言うべきかわからない。
しばし、二人は沈黙のうちに歩いた。
あたりの空気は澄んでいて、木立からの木漏れ日は美しい。
確かに整備されてはいないが、松や杉の林の間はきちんと道になっていて、ここを外れなければいいとわかる。
沢を越える丸太橋をいくつか越えるうちに、軽く汗ばんできた。
最初は気まずかった沈黙が、やがて気にならなくなってくる。
やがて杉の木立が、伐採跡、と称された若木の雑木林へと変わる。
そして、ブナの木が目立つようになってきた。林床に、鮮やかすぎる色の茸が生えている。ところどころ、小さく可憐なピンク色の花がある。
花の名を問おうかと思った。
けれど―――何故か、気恥ずかしい。
空気を肺いっぱいに満たす。
清らかな場所。
けれど、寂しい場所。
そうだ。ほかには誰もいない。
今なら。
(椿)
その背に、少女は呼びかける。
(今なら、あんたを…)
その肌は、ふと、今までにない静けさを捉え(とらえ)た。
「…水場があるの?」
口をついて出た問いかけ。毛虫は、はっとする。
静けさに、堪えきれなくなって発されたかのように聞こえたのではないかと。事実、そのような聞き方だった。だが、椿はすぐに答えた。
「ああ」
短く答えた。
問われるのを知っていたかのように。
しばらく行くと、水の落ちる力強い音が響いてきた。
前方に、切り立った崖。
そして、激しく白い飛沫をあげる滝があらわれた。
あたりに燃えるような色を感じた。いつしか、ブナの木々は色づいていた。紅葉の山奥へと入っていたのだ。
そして、滝の手前の岩場には、丸太で組まれた小屋があった。煙突から煙は出ていない。
その隣に、もうひとつ、高床式の小屋がある。
滝つぼの手前にある岩に腰掛けて、二人は身体を休めた。
しばし、その光景に見入っていた少女に、椿がこんな問いを発した。
「どう見える?」
「え?」
「この風景。君にはどう見える?」
いつか問われたような気がする問いだった。
けれども、意味がわからなかった。
椿が背負っていたリュックを下ろして、中の水筒を少女に差し出した。
初めて気がついた。少女は手ぶらだ。
「あ、あんたが先に飲んでいいわ」
そう言うと、椿は笑う。
声を立てて笑った。
その笑い声は快く滝の水の落ちる音にこだました。
「平気さ。私の分もある。それは君のだよ」
そう言って、もうひとつの水筒を取り出した。では、すべて、二人分の荷物を椿が背負っていたのだ。
少女は何も言えなくなる。おとなしく水筒を受け取る。栓を外して、喉へ流した。こんなにおいしい水は初めて飲むと思った。
「どう見えるって言われても、そのままよ」
素直に答える。
「紅葉が綺麗。滝も綺麗」
「ふふ」
「詩人じゃないもの。何とも言いようがないわ」
「詩で表現する必要は無いね。でも、私には精霊のようなものが見えるよ。あの滝つぼのあたりに、透明で優しい光のものが飛翔している。林の上の方にも、ずっとね。いい場所にはそういうものが飛翔するのが見える。花もすべて輝いて見える。いや…花のある場所はあらかじめ光っているから、そこに花があるのがわかる、という方が正確かな」



りーいいいいん…



椿が言い終えたとき、その音は響いた。
少女はあたりを見渡して、その小屋の軒先に提げられたフウリンを見た。
「…どういうこと?」
それは、椿の言葉と、この場に掲げられたフウリンの存在そのものへの問いかけでもあった。
「文字について質問したのを覚えてるか。私にはあの文字に色がついて見える」
「あ」
毛虫に思い出されたのは、初めて会ったときのことだ。そうだ。この女は自分にこう尋ねた。

『この紙の文字に色がついて見えますか?』

あれは…どういう意味だったのか?

「脳の話をしよう」
水の落ちる音すら消えるほどの、あたりを支配する、その声。
初めて会ったときから感じていたことだ。
不思議な声だ。
森閑たる森にも、その滝の響きにも似つかわしい。
すべてを包むような、叱るような、けれども、少しも不快を与えない響き。その振動。
「これはね。幻でも白昼夢でもない、この感覚は概念でも哲学でも妄想でもない。私の脳に実際に起きる現象…知覚現象だ」
「ちかくげんしょうって、なに?」
その問いを受けて、椿は眉間に皺寄せる。
その渋面から椿の言いたいことを読み取って、少女はあっさりと告げる。
「あたし、理系じゃないもの」
「いや…」
これは、文系だから、で済まされる事態ではない。相当にお勉強嫌いの発言と思われる。いっそ、文系なら、言語から意味を想像するのは得意ではないのか?
だが、その言葉を濁す。根気良く彼女は説明した。
「五感のことさ。見る聞く味わう、ふれる、嗅ぐ…通常、君は花の匂いを『かぐ』。だが、ある人はこの匂いを『か』いで、そして『見る』」
「見る? どうやって?」
「どうやって? とは…難しい問いだが、とにかく『映像を認識する』。ひとつの刺激に対して、反応する感覚はひとつであるというのが大多数の人たち。けれども、ある人々は二つの感覚で反応する。私の力の礎としてあるものだよ。例えば、『砂糖は甘い』。だが、砂糖を味覚で感じるから、そう思うんだ。砂糖という刺激ひとつに対して、味覚だけではない…そう、例えば聴覚が同時に刺激される現象が起きる人がいるとしよう。その人はこう感じるかもしれない。『砂糖の音はソの短音を発する』とかね」
そこまで至って、少女は、ようやく口をぽかんとあけた。
「どういうこと?」
「ひとつの刺激に二つの知覚が働く感覚だ。もっと複雑な感覚を有する人もいる…この感覚の発見を記録上で遡ることができるのは十九世紀から…だが、時代を遡れば遡るほど…そう、例えば、サルとの分岐をなす頃には、もっとあたりまえにあったものじゃないかと推測されているらしいんだがね。けど、この現象についての定義は、未だに確立していない。あまりに多種多様すぎてね」
「…本当に? 本当にそれ…」
「らしい、というのが、私の知っているすべてさ。すべては、かつて私を検査した医者の受け売りでね。少なくとも、この知覚の発露を見られなければ…フウリンを教えろといっても、無理な話さ……いや、フウリンをつくるには、この感覚をもっているだけではだめなんだ。だから、私はこれを感覚と称するのをためらう…感覚はあくまで受動にすぎない。しかも、不随意に訪れるもので制御ができない。当人の意思は関与できないんだ。この感覚については、稀ではあるが多数の保持者がいる。いや、誰もが赤ん坊のときまでは、この分化されない感覚を保持していると考えられている。それが成人するまでの過程で失われていくのだよ。その分化の過程を辿らなかった保持者がいる…つまりは、その意味では障害者とも呼べるのかもしれないが、しかし、『障害』と呼べるほど、日常に支障はきたさず、いっそ、そのおかげで日常を豊かにしてくれる例も多い。他方では日常生活を送るのが困難な者もいる…。当人は己の感覚を周囲の人々ももっていると思いながら育ち、それが他人と異なることに気付かないまま、ある時点で相違を知らされてショックを受けることもある。あるいは、相違すると生涯気付かないまま死ぬ人もいるかもしれないね…」
そこまで語ると、椿は水筒の口から水を喉へ注いだ。
「ただ、その人たちと決定的に違いがあってね…私の、これは…能動の能力。私よりほかにこの力をもつものは非常に稀で、私は自分以外にそれを可能とする仲間をこの世に一握りしか知らない。その数は現存するフウリン士の数に等しいんだ。そして、…この能動の力は『夢感覚』とか『感覚の表出(ひょうしゅつ)』と名付けられている。私はこの名を気に入らないがね…学者連中は、私の見えるものを『夢』の視界と定義した。その上で、その表出を見せる『感覚』と言い表した。だが、この能動性は『感覚』などとあらわせるものじゃないのさ。れっきとした物理の力だ」
女は、腰に提げていた煙管を取り出す。もう見慣れた仕草だ。
それに煙草を詰めて、火を点す。
だが、少女はそれから目を離すことができない。
「出会いがしらに…何と言ったか覚えているか?」
そういえば、何と言っていただろう?
「あたしが菫の花みたいに可憐だとか何とか…」
「いや、そうは言ってないが…」
平然と返すフウリン士に、少女は、いささかむっとする。だが、女はあくまで恬淡としている。
「世辞だと思っておいでだろうが、それは違う」
煙管の吸い口に口をつける。そして、煙管を箱の上に置いた。
「御覧にいれよう」
ふうっと息を吐く。
少女は、自分の周りに煙のめぐる箇所にだけ透過される菫を見た。
その煙は、少女の体を取り巻くように流れた。
菫の花が足元にあって、まわりはコンクリートで埋められている。その隙間から菫の花が顔を出しているから、踏まないようにしなければならない。それから、ずうっと、水の流れがする。だが、それは滝の音ではない。その音と、冷たいような感触がものすごい。いちどきに襲ってくる、水の感触。その流れと岸の泥の合間の小さな飛沫。そこは滑りやすくなっているから足元に気をつけなければならない。
近寄りたくない…近寄ると、踏んで壊してしまいそうだ。
そして、その水にも、菫を感じる。
菫の花の色。
そして、花弁の放つ清らかな香り。
「……!」
少女は瞳を瞬きさせる。
煙そのものが見せる幻影に、眩暈がした。
この世ならぬものを見る。
それはこういうことか…!
しかし、不意に頭の奥に靄がかかるような心地がした。
その水の流れが肌をすべる感触がたまらなく心地いい。
ゆったりと揺らぐ世界。
瞼が重くなる…
だが、ふっと世界は消えうせた。
見ると、その煙管から、灰が叩き落されていた。
そして、少女は、目前に迫る本物の滝つぼの湛える水に肝が冷えた。
いつしか立ち上がり、ふらついていたらしい。
自分の腰を抱え上げて、しっかりと水際に留める腕。椿が後ろから抱き寄せていた。
「これだから危ない…」
耳を打つほど近くに響く、その声。
本能が働いて、少女はもがいた。
わからない。
どうして、こんなに焦るのか…!
「は、離して! 大丈夫だから…!」
「動くんじゃない! 大丈夫だというなら、おとなしくしろ」
ぐっと、その腕が岩場の方へ少女を引き寄せ、本当に安全と思える位置へ戻されてから、ようやくその腕は離れた。
少女はその場にくたくたと、崩れ折れた。
「言わないことじゃない」
その目線の高さへしゃがみこんで、椿は気遣わしげにその顔を覗き込む。
「平気か?」
だが、その気遣いすら届かないのか、少女は女に取りすがった。早口で問いかける。
「今の…! 今のは何なの?」
「名を問うなら、『夢感覚』。言っただろう? だが…本質を問うのなら、わからない、が答えだ」
その答えは闇にある。
「わからないんだ、私にも。だが、ここにある…今のは視覚化された夢感覚の第一の過程『受容』の表出。これは第三の過程『励起』にも直結しているんだがね…。だが、あの世界は…私を含む何人かの夢感覚者が見る世界だよ。そして、その風景は複雑すぎて、説明がつかない。だから『夢』と称されている。先ほど、二つの感覚を同時に喚起される人たちのことを言ったね。その人たちは共感覚者というんだ。その人たちの受ける感覚は、十人十色で、もっと単純である場合も多い。あれほどに複雑な光景を描いたりしないのが通例らしい。どんな認識でも、物理的に脳の中身を完全に再現するのは困難だ。もちろん、人は、言葉にしたり、絵であらわしたり、音で再現して他者へ伝達させることが可能だろう?」
「…というか、普通はそうでなければ伝わらないわ。まさか…あんたは違うっていうの? さっきのが…」
「共感覚の保持者なら、そんな具合に、己の受けた感覚を他者へ十全に伝えるだろうさ。一方、私たちは、自分の認識した通りのことを完全に余すところなく他者の肉体へ伝播させる。フウリンでないなら、煙管の煙を通して伝えるのが私は得意だが媒体は何でもいい。いや、基本的に媒体は肉体でいい。肌と肌のふれあいで伝えられるんだ。だが、それをすると、非常な労力を費やす上、問題も多いからね。果たして、この物理の力が何を示すのかはわからない。いいか、毛虫。共感覚は君にもかつてはあったと言えるはずなんだ。いや、誰もがその素養を有している。だが、その表出は大人になるにつれ失われていく。共感覚の保持者は、その意味で、普通の人々と変わりないんだ。そこまでは明らかだ。しかし…この感覚…この物理の力は、未だに出所がわからない」
「……」
「夢感覚の保持者でなかったとしても、あんな具合に脳の中身を他者へ伝播させてしまう物理の力が何なのか…脳のどこの部分を用いれば可能なのか明らかにされていないのだよ。歴史にも類を見ないらしいからね…。共感覚は確かに哺乳類の脳の機能の一環だが…私たちのこの物理的な表出の力の源泉は何か? 私たちの認識する感覚を忠実に再現するが、その光景はまるで白昼夢でね…だからこそ、夢と称されるのさ。そして、今のところ、私だけが人を眠らせる効果を与える物理の力を保持している。これが…冬のフウリンの仕組みだ。それは私の身体能力…いや、私の身体そのものと言ってもいいのだよ。毛虫」

りーいいいん…

風が吹いた。
フウリンが鳴った。
毛虫の耳にかかる髪が、さやかに揺れる。
少女はフウリン士の面を見上げた。
何故…?
何故、この女がフウリン士であらねばならなかったのか?

『フウリン士の名はお蔭様で知れ渡っているが、随分煙たがられたもんさ』

『私は普通ではないのだよ』

『しかし、普通でないからと、仕事をしないでいいはずがない』

『だが、私にはただの仕事はできない』

『フウリンを作ることしかできないんだ』

『組合の一員として、伝統工芸に携わることができれば、それでよかった』

『だが、その作業を行うことができない…』

だから、抜けたんだ。

思い出される、いくつかの言葉。

フウリンとは。

フウリンは教えるものではなく、生まれるもの。

あれは、そういう意味だったのか…

「あんたは…望んでフウリン士になったわけじゃないってこと?」
「…難しい質問だな。だが、いい。そうだ、と言ってしまおう。でも、一体、自分の望む通りの職業に就ける人がこの世に何人いるのか…それを思えば、仕方のないことではあるね。私にしかできない、そして、私にはこれしかできない。望ましくはないが…今じゃ充分気に入っている仕事だよ」
明快に黒岩椿は答えた。
だが、それだけではない。
それだけではない何かが、その寂しげな声の響きに含まれていた。
そのとき、山小屋の扉が内側から開いた。
「きゃ…!」
思わず、毛虫は声を上げる。
それは恐ろしく不精な姿の大男だった。



熊は現れないと聞いていたが、それは熊のように背の高い青年で、あらわな胸は日に焼けていた。
手入れされていない髪に無精ひげ。目元も髪に隠されて暗い。古代の人のようないでたちになずなは怯えた。麻の着物を低い位置の帯で留めているが素足だ。第一が汗をかいていて、表情は茫洋としている。
「こ、こんにちは」
おずおずとなずなは挨拶する。
幻想を見るかのようにこちらに視線だけをくれて、椿をも見たが何も言わずに出て行く。
なずなは、むっとした。
「邪魔するよ、紅葉」
ふらふらと歩くその背に椿は声をかけた。
頷いたようにも見えたが振り向きもしない。
声も発さない。
「ほら、入って。毛虫。荷物を置いて」
「え…? いいの?」
「勝手知ったる、だから。いいんだよ」
仕切りのないその部屋の中央には布団が敷かれていたが、足の踏み場がないわけではない。
北側に詰まれた多くの鋳物は不ぞろいな形をしており、鍋や鉄瓶もある。けれどもそのもの言わぬ器具たちの製作者が彼であろうとはなずなにも伺えた。
東の明るく広い窓の下には簡素な机がある。机と言おうか、細い丸太を切って板を載せただけの代物だが恐ろしい正確な水平が広がっている。その上に置かれた工具は手入れが行き届いている。
西側に衣類の山。
入り口の付近に簡素な水道の流し台と調理台があったが妙に綺麗だ。
流しの脇に荷を置く。
「疲れた?」
全然、となずなは首を振る。
強がりではないが疲れたなどと言いたくない。
「見せたいものがある」
戸口から日の光が差し込む。振り向いたフウリン士の表情はやけに誇らしげだ。眩しい。
付いていくと、すぐ脇の小屋に椿は入っていく。
「え…」
円筒の箍でとめられた土の型がいくつも積み上げられている。その小屋の中央にある大きな焼却炉のような装置に少女は面食らった。
「なあに、ここ…ゴミの焼却場?」
「ふふ」
椿は笑った。
「キューポラとかこしきとか呼ばれるもので、ゴミを燃やすためのものじゃない。鉄を溶かすのさ、ここで。ひとつ、持ってごらん」
円筒のひとつを両手で掲げてなずなに差し出す。
木でできているようにも見えたその筒が重くて、なずなは驚いた。
「土だから重いんだよ。平沢鉄器の成型のための工法は、焼き型法。型の中に鋳溶かした鉄を流し込む成型する工法で、鉄は「湯」と呼ばれて千五百度を超える高温で溶かされる。それをここでやるんだ、さっきの奴…紅葉はね」
「あ、じゃあ、今の人も…」
「工芸士だよ、私よりも遥かにちゃんとした」
自嘲するように椿は肩をすくめる。
「普通なら年に何度もやらない鋳込みを、あいつはここでしょっちゅうやってるんだ。危険な作業を何度もね」
「それだけ注文が多い人なの?」
「注文なんか関係なしにやっているんだよ。本来なら決して開けてはならないものだけれども、特別だ」
低い作業台と板が敷いてある。
「隣においで」
呼ばれてなずなは椿の隣に腰をおろした。
円筒は雪だるまのように上部と下部がそれぞれ違う大きさで重なっており、それぞれにしっかりと箍がはまっている。地面に置くと軽く足裏で押さえて、椿は箍を外した。それから雪だるまのような上部を外す。
「わ…」
輪になっている型のうちに丸い粘土のようなものが挟まっているのが見えた。
「これは鉄瓶の型だ。鉄器はこの型をつくるところからはじまり、それが作業の大半を占めている。例えば、鉄瓶をつくるにはこの通りの三つの型が要る。胴型、尻型、そして鉄瓶の本体の中身、空洞を作るための「中子」と呼ばれる型だ」
蓋のように見えたそれを尻型と呼び、円筒の外側を胴型、中の丸いものを中子として椿は指差した。
「胴型は鉄瓶の上部をつくり、尻型は下部を成型する。実型という円筒形をした素焼きの型がもともとで、この円筒は二つに分かれるようになっているんだよ。今はそこまで分解はしないけれども…この隙間に湯、つまり鉄をいれるんだ」
「…すごく薄いのね?」
それを聞いて椿は何故か眉根を寄せた。
「これはね」
と、そっぽを向いた。
その不貞腐れた調子の意味がわからず、なずなは首を傾げる。
「とにかく…この外側の内が鉄瓶の表面になる。実型(さねがた)とか木型とか呼ばれるんだけれども、この内部に川砂や粘土、埴汁なんかをつける。その土が重要でね。胴と尻をあわせて外側の型をつくる。やはり高温の炭火で乾燥させて、中子をいれる。その隙間に鉄を流すんだ。、中子と胴型、尻型との隙間がそのまま鉄瓶の厚みになる。本来、この土地の…平沢の鉄器はその厚みが要で魅力でもあるんだが、これをやたら薄くしようとしているのがさっきの奴なんだ」
単純に聞こえるが、実際は容易ではない。椿はそう付け足した。
「どうしてわざわざ薄くするの? 薄くしたら、なんていうか…よくわからないけど、中のお湯がすぐに冷めてしまうんじゃない?」
「その通り」
椿は吐息した。
「重厚で保温性が高く機能的、これが平沢の鉄器の魅力でそれ以上に求められることなんかないのに、わざわざ薄くして見た目のいいものを作り出そうとしている」
「どうして…」
「……誰もしていないことをしたい、と言ってね」
椿は小屋の外に視線を転じた。
「とにかく伝統工芸品はすべて容易に作られるものはない。平沢鉄器もそのひとつだ。実型の中に川砂、粘土を貼り付けて鋳型となすにも、『荒挽き』『中挽き』『真土(まね)挽き』。実型に貼り付けた粘土を「馬」という独特のへらで余分の土をそぎ落とす。埴汁を塗り仕上げるまでが荒挽き。これを乾燥させて、次が中挽き。ざらざらした型の表面に荒挽きで用いられるより目の細かい川砂と粘土を貼り付ける。それから絹のふるいにかけた細かい川砂と、真土(まね)を挽く。それが真土挽き。この真土があってこそ、平沢鉄器は艶のある地肌を得るんだ。この土地にしか為せない品だよ」
「…なんか、面白そう」
図工の講義を受けているような心地で、なずなが呟く。
「観光で体験もできるけどね。この技を手にいれるのは容易じゃない。単純に「挽く」といっても、水平に同じ力で木型を回転させなければ、形や地肌が荒れる。この繊細な力加減を器械ではなくて人の手に任せて為される品なんだ。乾燥された胴型には紋様を施す。とにかくたくさんの工程が待ってる。例えば鉄瓶は上部全体に均一な丸い紋様が施されているのが大半だけど、あられ紋様と呼ばれて鉄瓶の特徴でもあるんだよ。真鍮の棒で横線に従い、ひとつひとつの丸い穴を順番に押していく。全体の配列を見ながら穴を均一に押していくんだよ。気がゆるみ、不当な穴をあければその型ひとつがだめになる。相当の気力を要する仕事さ。桜や風景といった絵入りの鉄瓶もあるが、絵をつくるには「絵引き」や「絵杖」と呼ばれる独自のヘラを用いて、薄紙の下絵を水筆で胴型に貼り付けてその絵にあったヘラで描く。ここに至ると初心者には無理だね」
「失敗したらそれが駄目になるから? 土がそれだけ貴重ってことなの?」
「まあ、資源云々もあるけれども単純に時間も無駄になるだろう? 人の手に依るってことは無駄が出せないってことだよ。挽いた後には「肌打ち」をする。少量の埴汁に砂を加えて団子状に固めたものを胴型に押し、ざらつきをあらわすんだ。筆で胴型を軽く叩いて肌の調子をだすこともある。これは紋様付け同様に神経をつかう。できた鋳型には中子をいれて型を組み立てるというわけ。で、この隙間に鉄の湯をいれて成型」
開いた型を直して再び箍を嵌めながら話を続ける。
「乾燥させて、再び木炭の火で鉄を熱してさび止めする。「金気どり」というんだが、その後にまた着色のために加熱する「火色返し」もある。その合間にも乾燥や研磨、最終的に漆の刷毛が製品の上でひらめいて仕上がりを得るまで手間がかかる…本来はね。だから、分業が成立する…それぞれが己の業を高めていく。だから素晴らしいものができる。しかし、あいつ…紅葉は全部一人でやろうってんだ。変人だ」
「…あんただって一人でやるんじゃないの?」
「ま、私は…別なんだよ」
第三次産業のさかんな都市部で育った少女にとって、家業の営みについて耳で聞いてもしっくりこない。
その様子を見た椿は微笑する。無理解をそのままに、よくもこのような山村の奥までやってきたものだ。そういう微笑だった。それを悟って、少女はますます押し黙る。嘲笑ではない。椿の微笑に、軽蔑が含まれていないことは確かだ。むしろ、好意的にすらとれる優しい笑みだ。黒岩椿は、少女を軽んじることはしても、嘲りを見せはしない。
それに気付いて、ますます、いたたまれない。
「私の業はね…それらの工程を一息に省略する」
「……」
椿が異常とされるのは、椿が異常なのではない。大多数の人にとってすぐできないことが、より正常に近いというだけだ。誰もが一息にこの過程を省略することができたなら、椿の能力が異能とはみなされない。
「君はまだ若いから工芸の作業のひとつに関わることはできるかもしれない。けれどもそれを修得しにきたわけじゃないんだろう? だから弟子は無理だと言うんだよ。素直に私の客だと言い張ればいいんだよ」
「…本当に私の言うことを聞いてくれるの? そんなにあっさり?」
「もちろん取引の対価はお支払い頂きます」
「つまりそれ家事をしろってこと?」
「ご明察」
「それじゃあ今までと同じじゃないの…!」
「その方が理にかなっているんだよ」
ざあっと風が吹いた。
遠くない林の奥から聞き覚えのある鈴の音が聞こえた。
耳聡く、なずなはそちらへと視線を向ける。
「ここにもあんたの道具があるの?」
「そう。明日の朝にでも見に行ったらいい。今日はここで泊まろう」
「え…さっきの人は?」
「あの調子なら麓の温泉じゃないかな」
立ち上がり、尻についた砂を払うと椿はこしきの向こうにある炭火ストーブを開いた。慣れた仕草でそばの棚からマッチを取り上げて、火をつける。
ストーブの上には薬缶がある。鍋もあるが、空だ。
「あいつ、やっぱりあまり食べてないな…」
「ごはんはどうするの?」
「珈琲も鍋の食材も持ってきているからリュックから出しておいで」
「そ、そうじゃなくて…さっきの人ってどうしてるの?」
「今はレトルト食品があるからね。あとはまあ山の幸も」
「えー。それじゃ栄養が偏っちゃう…」
椿は物言いたげになずなを見つめる。
「な、何よ…」
「面白いね、君は。あんな奴の場所に止まるのが嫌だとか思わない?」
「え、だ、だって…あんたがいるでしょ?」
「……」
小屋の隅に薪と一緒に置かれているいくつもの黒い墨の袋があった。黒い蹉跌の詰まった袋も。それをいくつか、椿は手にした。
「今日はこれを持って帰ればそれで終わりで、君がいなければ確かに私はこのまま夜道を降りることもできるんだけれどもね…怖くないか? 山の奥にこんな具合にいきなり連れてこられて」
「え…」
「あの男が私と手を組んでいる悪党か何かだとしたら?」
「そうなったら返り討ちにすればいいだけのことだわ」
この奇妙な空間に不安を覚えないはずがない。けれども、覚悟を宿した目で少女が女を見返す。椿は目を伏せた。
「…冗談です」
「あんた、冗談が下手すぎる!」
「恐らくあいつは仕事を終えたばかりだから今日は戻らないかもしれないし」
「尚更どうして私を脅すだけの悪い冗談を言ったのよ…」
ただ、ひとつだけ、聞いておきたかった。
「ねえ。温泉って言ったけど…温泉あるの? お…お風呂…はどうするの?」
「ああ。安心しろ」
当然問われる質問だとわかっていたように椿が振り向いたので、ほっとした。フウリン士は裏手へ少女を連れて行き、あるものを指し示した。それを見て、毛虫はがくりとうなだれた。
「まさか…この世に、こんなものが現存するなんて…」
「趣があっていいもんだぞ」
高床式の小屋の裏手には、トタン板で囲われたドラム缶がひとつ据えてある。そして、脇に詰まれた薪。つまり、それは、自分で水を汲んで、火を起こして、わかして入る…ドラム缶風呂だった。
だから、どう安心しろというのか。
問い詰める気力も起きなかった。





小屋には客用布団があった。板張りだ。そこで寝るという。またしても、毛虫は文句を言いたくなった。だが、椿は荷物をといて、毛布を引っ張り出した。恐らくは、それが一番かさばった荷物だったろう。それを見たら、何も言えなくなった。
紅葉は、作業場ではなく、平生から、あのテントに寝泊りしているから構わないという。それに比べれば、屋内で、ベッドがあるだけましだ。
風呂の準備は、それはもう大変な作業だった。
滝の水を汲んできて、ドラム缶に注ぐだけでも骨折った。
当然、椿は作業を手伝いなどはしてくれなかった。いや。彼女は彼女で飯をつくるという作業に徹していたのだ。野外だろうがなんだろうが、どうも料理にはこだわりを見せる。肉体労働に奔走する毛虫は、多少恨みがましく思ったものだが、作業小屋の炭や薪を利用した鍋は絶品だった。
そのせいで、簡単に機嫌を良くしてしまった。
しかも、食後、椿は本格的に湯を温める作業を手伝ってくれた。
薪に火を点してそれを充分燃え上がらせるのも、風が邪魔をする。汲まれたお湯はたちどころに加熱されて、地獄の釜のように熱されてしまう。それに少しずつ水を加えて加減する。
正直言って、面倒なこと、この上ないが…実に慣れた手つきで、フウリン士は作業を進めた。
そして、毛虫が風呂に入る間も、薪を加えたり、水を加減したりと気を遣ってくれている。
「湯加減は?」
「う、ううーん…」
いい、のが腹立たしい。
いっそ清清しい。労働のあとの爽快な疲れといおうか。身体を倦怠感と温かさが浸して心地いい。
ただ、問題は…
胸を覆うタオルしかない状態の自分のまわりを、この美人がうろうろしていることだ。
「湯加減はいいけど、あんたのせいで落ち着かない…」
「しょうがないだろう。ドラムのなかに二人は入れないからな」
「そんなこと求めてないわよ!」
とんちんかんな回答をする椿に、毛虫は本気で怒って立ち上がってしまった。タオルに濡れた身体の稜線がくっきりと闇夜に浮き上がる。たっぷりとした胸が揺れて、その腰のしなやかさもよくわかる。
湯気に、その火照りを帯びた柔らかな肌があらわれて、椿の目には眩しいほどだ。
「全部見えるよ」
「もーっ…!」
恥ずかしくなって、毛虫は、おとなしく缶のなかに戻った。
「うん、まあ、これでしばらくは温度も安定しそうだから、もういいだろう。ごゆっくり」
散々からかって満足したのか、椿は羽織の背を向けた。
「えっ」
放っておかれたら、それはそれで参る。毛虫は声をあげた。
「何だ?」
「え、え、えっと…」
困る。
困るのだ。
本来はここは紅葉の仕事場だ。そこを間借りする身なのだから、こんなことを言うのは気が引けるが…
「覗かれたり…しない?」
そう尋ねると、何故か椿の失笑を買った。それは、もう大笑いだった。
「な、何がおかしいの? そんなにあたしの身体に見るべきところがないっての? ばか!」
いらだちから、少女は、椿へ向けて湯をざばんとかけた。
しかし、それを軽くかわして、椿は笑いながら答えた。
「そんな心配、いらない」
「え?」
「あいつはね。女に…いや、こう言っちゃ誤解が生じるな…とにかく、あいつに、そんな危険性はないんだよ」
「どう…して?」
快活な笑いを収めた椿は、すっと目を細めた。
「さあ? どうしてだろうね…」
「お…お…女に興味がないって言いかけなかった? その…じゃあ…お…お…男の人…が…?」
「いや…。あいつは確かに変人だが、そちらの側ではない。…しかし、どうだろうな…」
はっきりしない回答に、毛虫は半泣きになった。興味がないなら覗かれる恐れはない。だが、男に興味があるからという根拠だとしたら、それはそれで嫌な答えだ。
「とにかく、そこにいてよ!」
「ああ」
それもわかっていた要求であるように、椿は薄い板の裏手から返事する。
「ここにいるよ。紅葉はともかく、今夜も星が綺麗だ」
そう言われて、少女は空を見上げた。
「わァ…」
降るような星空が広がっていた。
広大無辺の――空。
人の営みなど、あざ笑うかのように天を星が満たしている。
一切の穢れない光。
自ら輝く星も、その光を受ける星も、闇のなかでその姿をあらわにする。
そして、天の川。
真っ白く流れるその姿を、生まれて初めて少女は目にした。
空が明るい都会では決して見ることのできない純白の大河だ。
少女は、瞼を閉ざした。
まるで、その光を、その輝きを、その広さを受け入れきれないと言いたげに。
瞼を閉じると、肌に、鼻先に、つめたい大気を感じる。
そして、ずっとこの森に響く鳥の鳴き声。
「夜も、鳥って鳴くの?」
「フクロウはね」
ホウホウ、と鳴くのだと思っていた。けれども、もっと長くつぶやくような鳴き声が響いている。
この音も、椿には何か影響するのだろうか。そして、あの星の光も。
ぼんやりとそんなことを思う。
もののかたちから、音を感じる。
音階から、色を感じる。
そんなことをずっと生まれてきたときから経験しているのなら…今こうして近くにいる自分はどう映っているのだろう?
聞きたいと思った。
けれど、それは明らかに好奇心だ。
そう思うと、素直に尋ねることはできない。
しばらくして、全身が火照ってきた。
これはまずい。
急いで、風呂から上がる。
作りつけの台に置かれたタオルで身体を拭く。下着を身に着ける。椿が…これも、彼女が背負ってきたらしい、真新しい浴衣を羽織った。悠の指導のおかげか、帯を締めることに手間取らなかった。
すると、外から声がかかった。
「君も覗いてくれるなよ? 毛虫」
「あんたって、本当、失礼」
椿が入れ違いに入ってくる。それを睨みつけ、ぷりぷりしながら、毛虫は中へ戻った。
高床式の小屋のなかは静かだ。
毛布に身を収める。
そうだ。
これはチャンスではないか。
二人きりだ。
(今なら)
今なら…できるかもしれない。
…復讐の機会ではないか?
確かに紅葉なる青年はいるが、あの青年に危険性がないというのなら…
この機会に、椿に…
(待ってて、ママ…)
かたきを。
とるから。
しかし、その毛布は意外にも心地よく、湯によってあたためられた少女をたやすく眠りへと導いた。労働の疲れもあって、その瞳は閉ざされた。

朝の光が窓から差し込んでくる。
「ん…」
ぱちぱちっと瞬きしてから、毛虫は跳ね起きた。
(ね、ね、寝坊した…!)
既に、隣の毛布はもぬけの空だ。
またからかわれては、たまらない。慌てて浴衣を直して梯子を降りる。
外へ駆け出ると、全身を澄んだ空気が包む。
辺りを見回したが、椿の姿はなかった。
代わりに、昨日の青年…紅葉がいた。さっぱりとしているが、やはりツナギだ。林の向こうからこちらへ歩いてくる。
朝もやのなかから立ち現れるその姿が、着物を纏っているわけではない。そして老人であるわけでもない。それなのに、何故か、まるで仙人だ、と毛虫は思った。
仙人はにこりと笑みを浮かべた。
「いいもの…見る?」
「いいもの?」
答えを待たずに、青年が背を向ける。
不安にならないではなかったが、彼は害意を感じさせない。その直感を信じることにした。
朝は冷える。
だが、ずんずん歩く青年を追ううちに、すぐに体温があがってくる。
どこまで行こうというのか。
その林を抜けると、くぼ地があった。
そのあたりの岩肌の隙間に、挿し木がしてある。
それら一木にあたり、ひとつずつのフウリンが掲げられていた。
ざっと見渡せる限りすべての木々に。
風がさっと吹く。
フウリンが一斉に鳴り響く。


りーいいいいん…


ぽかんと少女は口を開いた。
「ふわ…あ…」
その涼やかな音。
一音だけでも美しいが、重なるといっそ芸術の域だ。
花のかたちのフウリン。その姿も、音も。
「綺麗……」
素直に、その言葉が口をついて出た。椿の不在が少女を無防備にさせる。
「フウリン…このフウリンは…何なの?」
「春…を…遅らせる…」
「…え?」
「この山の…春…くるの…早くなった…そうすると…花…草…木…咲くの…早い」
たどたどしい言葉で、紅葉はそう伝えた。
「早く…春…くる…でも…動物は…眠い…冬眠…目覚めない…」
春の訪れが早まると、山肌の木々は開花を促される。だが、体内時計に従って冬眠する動物や、渡り鳥はその春の訪れを知らぬまますごす。
「鳥…熊…みんな…春…間に合わない…」
すると、どうなるか。
得られるはずの若草や、木の実、花といった食料にありつくことができない。目覚めたときには、春はすぎている。冬眠や海を越えるために疲労しきった身体は、春の次第の気温上昇によって温められる。だが、その気温も既に相当に上がっている。それは彼らの身体を苛む。
生きていくことができない。
「飢えて…死ぬ」
簡単な言葉で表されるその結末に、少女はどきりとした。
「大きい生き物…死ぬ…中くらいの…生き物…増える…」
捕食者である熊や猛禽類は単体行動の生き物だ。それらの数が減ると、鹿や狸といった下層の動物が増える。それらが増加すると、需要と供給のバランスが崩れる。草木が食い荒らされ、小動物の個体数が減る。
小動物の糞尿を肥やしとする昆虫類や植物の数が減る。
そういったことを、少しずつ、紅葉は少女に伝えた。
「それ…それを…このフウリンが治すの?」
「だから…椿さん…冬の…フウリン士…」
「冬の…フウリン士…」
「春を…遅らせること…誰もできない…でも…冬を…長引かせる…」
「…あ」
そうか。
納得できた。
もともとの原因を正せば…因果律は調整される。すべてに影響させる必要はないのだ。
毛虫は思い出した。
あの銀嶺。
庵に結ばれた、恐ろしく遥かな雪の山々。あの光景が関係するのだろうか?
それにしても。
なるほど。
これは、人のために用いられるべき業だ。
アミューズメントパークで披露される手品とは違う。
「…あ」
『いい夢を見れる方法がありますよ…お手伝いしましょうか?』
もしや、咄嗟に突っぱねた、あの言葉は…そういう意味だったのか?
もっと別の方法だと邪推した自分を急激に思い出した。もっと、直接的で肉体的な手段を、この少女は想像していたのだ。そのときのことを思い出して、少女は頬を染める。
「ねえ…気になるんだけどさ。椿は…世間に背きたくて背いているわけじゃないわよね? やりたくっても、その変な能力が邪魔して普通にできないだけで……でなきゃ、はるかさんや、あんたが仲良くするとは思えないもの」
「椿…さん…すき?」
椿のことが好きか。そう問われたのだ。あまりに大胆な問いに、毛虫はむっとする。
「ば。ばか言わないで! ただ、なんか…だって…あいつ…こんなことしてる奴だなんて…」
知らなかった。
「…き…嫌い?」
「椿…椿のこと…あたしは…」
嫌いだ。即座に答えようとして、口を噤んだ。
嫌いだ。
それは確かだ。
けれども…知らない。
よく知らない。
知る必要がなかったからだ。
善人だろうと、悪人だろうと…
毛虫は結論を抜かして、正直に告げた。
「わかんない…まだ知り合ったばかりの相手だし…」
咄嗟に放った言葉の方が本当であるように思えてくる。
どうしてだろう?
大嫌いだ。
けれども、あの女とは確かに知り合ったばかりだ。一切を知らない。
善人か。
悪人か。
わからない。
けれども…少なくとも、自分にとっては犯罪人なのだ。
そうでないのなら、どんなに根が善良であろうとも、悪役を務めたことがあるのは確かだ。
自分の生をぐちゃぐちゃにしたのは本当だ。
虫と言われようが、お姫様と言われようが同じだ。
ただの来訪者としての扱いが変わらない限りは、望みは果たせない。
その懐に入らなければ、こちらが見切りをつけて引き下がる日まで、このままだ。まるで空気と同様の扱い。こちらを見ようとしていない。いや、見ても、いないものとして扱うような恬淡な接し方をしてくる。
認められていない。
何でもいいと言ったのは確かだが、張り合いがなかった。
この復讐の心を、怒りをぶつければ、相手はこちらを見るだろうか?
だが、それは違う。
心をぶつけるために訪れたわけではない。どんなに相手が冷め切っていようとも、構ってほしいのではない。
もとより、少女にとって、椿は嫌悪の対象だ。だから、決然とした態度を貫くのはたやすいことだ。
ペースに巻き込まれないことだ。
熱情をぶつけることは、目的ではない。
復讐そのものが、為すべき振る舞いだ。今だ、と思ったときにはもう彼女を屈服させているべきだ。
それが必然だった、と言い切れるときには、もう果たしていなければならない。
そのときまでは隠していなければならない。
けれど…腑に落ちない。
何かが、むなしい。
それは、この場所のせいだと思う。
このように人里から離れた山奥にいるためだ。
そのせいだ。
だが…本当にそれだけだろうか?
仙人のような青年が言った。
「けむし…は…いい子」
それを聞いた毛虫は、カッとなった。
「よして! そんなんじゃない!」
声を荒げた。
(こんなに椿を憎んでいるのに)
いいこ、なんて。
(知らないから、言えるんだ…)
既に経験した感覚だと思う。そうだ。調子が狂う…
この町の人たちは、優しくて、この山々の大気のように澄み切っていて調子が狂う。
口にしてしまった言葉に自らに囚われるほどに。
わからない、と。自分の言った言葉に呪いをかけられてしまった。
殺したいほど憎んでいる。
それなのに…
「…ほんとに、いいこ」
その大きな掌が伸びてきた。ぽん、と少女の頭に置かれた。大雑把な手つきで撫でられる。いい子などと称されるのは理不尽だ。けれども、その掌は不快ではなかった。
いい子ではない。
尚も、そう言いたがる自分をきっと彼は知っている。
それでも…いいこだと称するのだろう。
毛虫は、ちょっと目を上げた。
青年は優しく笑う。何も言えなくなる。代わりに、こう尋ねた。
「そういや、椿は…どこ?」
「椿…さん…伝言…」
「へ?」
ツナギのポケットを探って、紅葉は書状を少女に差し出した。
四つ折に畳まれた紙を開くと、そこにはこう記されていた。

『先に山をおりる。2.3日はそこにいろ』

これを見て、少女のうちで何かが途切れた。さっきまでは見直しかけていただけに、尚更だ。芽生えかけた尊敬の念も覆される。だまされた、と。
「…あの女ァ! 置き去りか!」
紙をぐしゃっと握り締めて叫ぶ。少女の声が山にこだまする。
あたりの兎も鹿も逃げ出すほどびりびりと殺気立った少女に、青年は尋ねる。
「や、山…おりる?」
「とうっぜん! 厄介払いされるなんて、御免だっての!」
「き、気、つけ…て…。ほ、ほんとは…だめ…言われた。でも…毛虫…椿さん…そば…いる…いい、思う。ぱ。パン…杖…お茶…ある。持って…く、と…いい…」
彼なりに気遣っていると伝わってくる懸命な態度。何という親切心。椿とは大違いだと思った。身のうちから癒される感じがして、思わず、少女は青年に抱きついた。
「ありがとう! あんた、いい人!」
青年は、少女の体重を受け、よろよろと後ろへ倒れて尻餅をついた。毛虫の表情のくるくる変わるのを、憧憬を眺める眼差しで彼は見つめ、にこりと笑った。
都市に比べれば、山野は穏やかで何もないように見える。
人の波のかわりに、広がる山の裾野があり、車の行きかう大通りのかわりにゆったりとした大河がある。
人々のなす、異様なうねりをもたらす町並みと違い、ここに住む人たちは、それぞれの家のなかで、独立した空間のなかで、大きく呼吸している。それなのに、どこか控えめだ。
ずうずうしさがない。
少女にとっては、何をそんなに遠慮深くしたものか理解に苦しむ。
だが、人と人とのしがらみがないではないのだろうと、何となく察せられる。
いや、もしかしたら、都市部よりも密接なつながりが、ここにはある。それがよいことか悪いことかを判断するのは一筋縄ではいかない。
その差異を学ぶ必要はありそうだ。



鞄の携帯電話を探った。
父に電話しようとして。
だが、少女は、野生の猫のように全身を強張らせた。
何かがおかしい。

父は何をしているのだろう?
当然、会社にいて、仕事をしているのだろうが…本当にそうだろうか?

父が母に危害を加えた可能性がある、と何故か思った。

まず警察に知らせるべきか?
薬品か何かを嗅がされたのだろうか。
あるいは、侵入者がいるのか?

そのために母が深い眠りに落ちたとしたら。

もしもここに、見知らぬ人物がいたのなら…

本能的に危機感を覚えて、さっと立ち上がった。
あたりを見回す。
テレビの上に、ガラス製の一輪挿しがある。
それを震える手で引っつかんだ。
そんなもので太刀打ちできようはずがない。
だが、この聡明な少女は、『犯人』がいたら、そいつに投げつけて一度この場を離れよう、と思った。それしかない。
もしも、もっと重くて硬い器物を今手にすれば、相手を殺してしまう、と思った。
自分の本能が恐怖に支配されている自覚はあった。そして、それを凌駕する怒りで、そいつを殺してしまうだろう。
そうなったら、復讐ができない。
殺すことは復讐にならない。
こんな目に遭わせた奴は見つけ出して、一生辱めてやらなければならない。
そして、それは、父だ、という気が強くした。
何故かは…わからない。
だが、犯人が男だ、という感じが強くしたのだ。
花瓶を後ろ手にして、そっとドアから出ようとした。
違う、と強く全身に訴えかけるものがあった。
視界に入ったもの。
そのものが原因だと、すぐにわかった。
何がなんだかわからなかった。何が起きているのか?
それは桐の箱だった。
それは蓋が開いていた。
そして、中から取り出されていた道具は、母の手元からそう遠くない場所に落ちて転がっていた。
それが何かは一目でわかった。
どこにも継ぎ目の無い鉄器。
形は花。
中は空。
芯は円。
それはフウリン…と呼ばれる魔的な道具だった。
紙のように薄く薄く鍛造された扇形の丸い花びらの銀素材が何枚も中央に向かって重ねながら広がっているが、中は空洞である。その根元は、しっかりと花の額の形に鍛造された銀の台によって支えられている。台と見える額は、実は持ち手であり、その花を下に向けて持ち上げると、それは軽い。そして、空洞の真ん中には、額からぶら下がる、丸い銀の玉。それは花芯のようにも見える。
だが、これは花ではない。
道具だ。
音を鳴らす道具である。

フウリンーーー

椿の花を型とするフウリンは、冬のフウリンと呼ばれている。効果はさまざまあるが、人物を対象とするものは眠りをもたらす。そして、これは母に効果を為したのだ。
冬のフウリンの効能が人体に及ぶ場合、それは対象を眠らせることができる。
テレビの特集で見たことがある。
【ちょうど、贋作が出回っていた頃】
何しろ、フウリンひとつの値が、数百も数千万もする代物なのだ。
与えられる小遣いのなかで暮らしている少女からすれば、それは別世界の出来事だった。何かは知っていた。
だが、それが自分の家の物置の奥に隠されていようとは思いも寄らない。
少女の頭の中で結論する。
これは人為的な事件ではない。
手にした花瓶の意味は無い。
それを机の上にそっと置いて戻す、といったことはできなかった。
その花瓶は手から滑り落ちた。
幸い、その程度では割れなかった。
だが、中に挿してあった母の好きな薔薇の一輪は水と共に床へと半ば放り出され、蔑ろにされながらも、その花と葉は床に摩擦して、花瓶がそれ以上転がるのを防いだ。
これは事故だ。
だが。
事故を引き起こしたのは自分だ!
あ た し だ!
自分が悪いのだ!

あの箱。

それだけだ。けれども、充分だった。
最初は、母を誰かに奪われたと思った。
けれど、違う。原因はひとつきりだ。唯一。これだけだ。これしかない。
母を眠らせた原因と考えられるものはこれしかない。
その時、少女の脳裏に真っ先に浮かんだのは、さまざまの想像しうる展開の中で最も恐ろしい想像。
少女は、母を愛するように父を愛していた。母を愛する同志として。
だが、これが自分のもたらした結果なのだとしたら、どうなるだろう?
母の美しさも異様なら、父の、母への耽溺ぶりも異様だ。この頃の少女はそう感じはじめていた。
父は美しいから母を愛しているわけではない。それだけの理由なら、自分は、母の身代わりにされる恐れを抱く理由もあるだろう。この時期の少女は、自分の面影が母ばかりを受け継いでいるわけではないことに悩んでいた。恐らく、うりふたつと呼べるほどに、母と少女とは似ている。だが、内面が、まったく異なる。気付きはじめていた。
母の遺伝子を内面を含めてそっくり受け継いでいたとしても、父は自分に見向きもしないだろう。
父の母への執着は異様なのだ。

第五章

小雪屋椿の邸宅。
その前庭に据えられた縁台に、主は胡坐をかいている。
空は冴えて、秋も深まるこの季節。
実りの季節だ。そして、それは、長い冬への備えとなる。
フウリン士は、瞬きする。
その睫に、冷たい空気が触れる。
やがては、ここも雪に包まれる。
冬がくる…
毛虫を山に置き去りにした椿だ。
時間がほしかった。
考える時間が…
今、立花が何を考えているか。椿にはよくわかる。そして、少女が何のためにここへ来たのかも…理解している。
しかし、わからない。
己の気持ちが定まらない。

『鋏をちょうだい!』

あの鮮烈な印象。
(あの人そっくり…いや…あの人以上に、あの人の印象そのものだ)
(あの人の魂の象徴だ…)
相手の放った言葉の意図よりも、表面から感じ取れる印象をしか感じられない自分がいる。これは一生変わらない。椿はひとり、苦く笑った。
相手の言うことの意味を考えるよりも早く、相手の言葉のもたらす色が見える。その声の響きのもたらす映像が見える。意味が脳にたどりついた頃には、それは音律と変化する。
まともな会話すら困難だった幼少期はとうに終えている。
それにも関わらず、引き戻されてしまいそうだ。
あの抗いがたい強い引力。
(引き込まれる…)
あの少女の印象は強すぎる。
それは自分だけが覚えずにいられない既視感か? 
それとも、この感覚が、何がしかの強烈さを彼女から透析させるのか? 
そうだとしたら、相対的なものか?
絶対に覚えずにいられないものか?
考えるだけ無駄だ。
『この感覚』の所有者に統計から算出される平均的事例など、ありえない。
知覚現象は十人十色、千差万別。
もちろん、大多数の共通性は存在する。
だが、知覚現象が他者と同一である保障などない。
雪の結晶がすべて同じ形をしているか? という問いと同じだ。
あれほどの数に結晶される雪のうち、完全に何もかも等しい結晶がないとは言えないだろう。
しかし、誰にそれを証明できる?
それと同じように、相対も絶対も、その存在を言い切ることはできない。
椿の感覚が唯一無二と証明することは不可能に近い。それは地球上のすべての人間の感覚を過去から未来に渡るまで調べ上げなければわからないことだ。
そして、『感覚』そのものが何であるかという定義が確立しない限りは調べようもない。従って、「平均」的な感覚など割り出せない。
他の感覚者とすら比べようが無いものだ。相対的か絶対的かという問いは、問いそのものが誤りだ。考えるだけ無駄だった。
…わかっている。
他人と比較し、推測をすることは、刺激の発生源である少女を実験材料とみなすような冒涜だ。
そして、感傷的になるべきではない。
わかっている。
(どうすればいい?)
この感覚があろうとも、なかろうとも、あの少女の前では隠し立てできない…この感情の名は混迷。
(ああ、ご老体。無理をしてはならないな…)
その気配を感じる。
それは、生来の感覚の及ぼす予感ではなかった。
五感ではない。
この山にこもることで、後天的に備わった力だ。魔的というなら、これこそが魔的な力だと椿は思う。
そして、これは誰もが持っている感覚だろうと思う。
足音が荒い。
何人かの若者を伴っている。しかし、闊達な足取りで、彼はこの山を登ってくる。
呼べば迎えに行くものを。
彼自らやってくるとは。
(いても立ってもいられない、といったところか…)
やがて、その年齢にそぐわぬ紅潮をその頬に浮かべた老人が、供の者たちに支えられて上ってきた。
業を煮やして小雪屋の邸宅を訪ねた立花清則だ。
門の前に立ち、フウリン士は出迎える。
「これはこれは…立花様」
清則は息を弾ませている。
五つ紋の黒い羽織に、袴。赤松の杖。
その格好で山を登ってきたことにも驚いた。下手をすると倒れてしまうのではないか、と見る者を不安にさせる。その呼吸の荒さは演技ではなかろう。しかし、同情を引き出そうという狙いはありありと見えている。
「葡萄はお好きですか」
間の抜けた口調で椿は問いかける。
「…は? ぶどう?」
その問いに、老人は、思わず顔を上げた。
だが、椿は、真剣そのものの表情だ。
立花こそ、真剣な請願を申し出にきたところだ。しかし、まるでそれと同等の真剣さを返しているとでも言うようだ。
「喉が渇いておりますでしょう。葡萄がありましてね…」
穏やかな声だ。
その丁重さは、かえって、相手を不安にさせる。許しというより、命令のように聞こえた。決して有無を言わせない強制力が辺りを支配する。
「ほう。そりゃ、いいですな」
老人は怯まない。お愛想を述べる。
ふ、と小雪屋は笑みを浮かべる。
「しかし…あなたにお出しするつもりはございませんよ」
きっぱりとフウリン士は言い放った。
老人のその面に、初めて、感情が走るのが見えた。その頬がいらだちに痙攣するのを、優越をもって椿は眺めた。
「ご足労頂きましたね」
既に、椿の面から笑みは消えている。
「ご用件はわかっておりましょうな。小雪屋」
「伺いましょう。こちらへ」
切り落としの格子の戸をくぐり、老人を奥の洋間へと通した。
対面式のソファと、低い台机の傍らに、火鉢が置いてある。
洋風の部屋に、それは異物とも言える代物だ。だが、革張りのソファの側に、そのずっしりと重い質感のあるものは、不思議によく馴染んでいる。火鉢には灰かき棒が突っ込まれたまま、墨は黒く真新しい。
フウリン士は、ジーンズの尻を探り、薄手のマッチを引っ張り出した。
それから、にわかに屈みこむ。台机の下にある新聞紙を引っ張り出して、適当に何枚かを抜き出すと、手早く丸めて火を点じて炭の山の中へ放り込んだ。
一人用の対座椅子に腰を据える。
清則はソファの中央に深々と陣取る。背後には、いかにも鍛えられた黒服の若者二名が肩を並べている。
まるで暴力団の元締めだ。
「何度もお断り申し上げているご用件でいらっしゃいますね」
椿は断りも入れずに、煙草を丸めて、煙管に詰めた。足を組む。
「何でお断りされるんでしょうなあ」
老人がいけしゃあしゃあと疑問を投げかける。そのときだ。
遠くから、フウリン士は色を感じた。菫の花に、明るい光の混じる色が断続的に、痙攣的にやってくる。
(この色、は…)
足音だ。
(どうする?)
近づいてくる。
「フウリンは工芸品ではありません」
フウリン士は、火鉢から煙管へと火を移した。
そもそも、伝統工芸品とは何か。
この国には『伝統工芸品産業の振興に関する法律』が存在する。その第二条によれば、伝統工芸品とされる製品には条件がある。
主として日常生活の用に供されるものであること。
伝統的に使用されてきた原材料が主たる原材料として用いられること。
一口に『伝統的』といっても、それを称する場合の条件まで定められている。
伝統的と言うのなら、それは100年間以上の継続を意味しなければならない。そして、少なくとも産業と称するには『ある程度の』規模の製造者があること。『ある程度の』規模とは、10企業以上または30人以上が想定されている。
最後には、地域産業として成立していること。
「私は一度は組合を抜けた者です。工芸品をつくる手習いも途中で放擲した者です。そんな私に何を致せとおっしゃるのですか? 私の参入は、いっそ、この広沢鉄器の工法を蔑ろにするものですよ」
まさか、法律を引き合いに出してまで煙幕を張らなければならないとは情けなくも思う。
法律なんぞは、後付された枠だ。囲みにすぎない。それが制定される以前から、それらの製品、それらの文化はこの土地において深く根ざしていた。
それを保持しよう、という規則でしかない。
その条件付けから外れようとも、続けていられることなら、続けていただろう。けれども、鋳物産業に携わることはできなかった。そして、もう、後戻りできない。
分業の一端を担うには余るほどの力を有していながら、その産業に携わることは生産性に偏りを与える。
今の立花にとって、これらの煙幕は有効であるはずだ。
いや。有効でなければならない。
社会的に糾弾された一件を経た今では。
フウリン士の透徹した瞳が、その老獪な面に注がれる。だが、その老人の面は笑みをかたどった。
「ですがなあ、小雪屋。私が求めているのはあんたの審美眼です。再三申し上げておりますでしょうに」
「審美眼?」
そんなものを働かせてつくられるフウリンは世に存在しない。
露骨に不快な表情をあらわした。
あるいは、笑ってやろうかと思ったのだが…実際、椿は呆れてしまい、返す言葉を失った。
いっそ憂鬱すら覚える。
椿の非難の表情を見なかったものとするかのように、老人は畳み掛ける。
「伝産法にはこうもありましょうな。従事者の後継者の確保および育成に関する指針。つまりは、いかがです。…いかがです、後継者の製造の一端をになってくださらんですかの」
ぴく、と小雪屋の眉がひくついた。
「どういう意味です」
長い松の廊下を踏みしめて走ってくる足音。
(…まずい…ぼけむしめ…!)
いくらなんでも来客があることくらいは察したろう。それを思えば、少しは控えてくださるだろうと予測した自分の愚かさを詰りたい。
足音は止まった。
つまりそれは、そこに少女が立っているということだ。
老人が声を発した。
「遊清と結婚し、子を為しませんかと」
バカを言うな。
と、言おうかと思った。
しかし、かなわなかった。外側から思い切りよくその扉は開かれた。
二人の黒服が緊張する。
だが、戸口に立っているのは、警戒するに値しないジャージ姿の少女だ。跳ね上がった髪のあちこちに、落ち葉や枯れた小枝が絡まっている。急いで下山して、こちらまでやってきたのだろう。怒りで鏡を見る余裕も得られないほどに。
「椿は、あんたなんかのためにつくったりなんかしないわ! フウリンも、子供もよ!」
いつも怒ってばかりいるな、と椿は思った。
怒らせてばかりいるのは自分なのだが…
「失礼を。立花様」
冷静に椿は立ち上がると、そちらへと歩み寄る。
「許さないわ、そんな…! それなら、あたしのがよっぽど作ってほしいのに!」
だが、椿はその口を塞いで、そのまま外へと引っ張り出した。老人の視線がこちらへと向けられる。その粘ついた視線を背に受ける。勢いのままに、少女の肩を壁に押し付ける。
「きゃ…!」
ものすごい力だった。
「何すんのよ!」
「何故戻ってきた?」
壁に追い詰められた毛虫は、ぐっと喉を詰まらせた。
「何で置いてったのよ!」
相手を睨み据える。
闇を抱いた藍色の目がそこにある。
そこに、いらだちよりも焦燥が宿っている。
それを目にした途端に毛虫は悲しくなった。何か言いたそうにしている椿の面差し。どんな秘密を抱えているのかは知らない。
けれど。けれども。
「ああまで言われて我慢するなんて、あんた、どうかしてる!」
視線だけで、椿は少女を威圧する。毛虫の薄い肩を掴む掌に力がこもる。少女の声は強い。きゃんきゃんうるさく感じることもあるが、青く限りなく澄んでいる。耳にしているだけで陶酔を誘われそうなほどに。
だが、椿の藍の眼差しは、何もかもを跳ね返す夜のように少女を射抜いた。
「君が子供だからそんなこと言えるんだよ」
子供。その言葉に、毛虫は顔を歪めた。
(やっぱり、そう思ってるんじゃないか!)
泣きたくなった。その瞳が見開かれ、実際、椿には泣くように見えた。
しかし、きっとフウリン士を見据える。その気丈さがいけない。
フウリン士は胸にいやなものを覚える。後ろに控えているのは遊清ではない。あの立花清則だ。
この怒りを抑えなければまずいことになる。それをわかっていながら、この場を収めずしてどうする?
しかし、このような生々しい感情にぶちあたるのは久々だった。
「悪かったわね、子供で!」
「毛虫。落ち着いてくれ」
椿の面は蒼白になりつつあった。
毛虫の肩をしっかりと捕らえて離さない、その指が細かに震えている。だが、膂力の衰えないために、平気だと思った。突き上げてくる怒りをぶつけることを許されないとも思わなかった。
少女は、その手を掴んで突き放した。
「あんたなんか、嫌い!」
ついには、そう言い放った。
闇色の瞳が青く染まるのを見た。
少女は呆然となる。
(え…?)
弾丸で撃ちぬかれたかのように、椿の掌が震えを大きくする。その足がわななく。
「つば…き?」
勢いのままに解き放った呪いの言葉は効果した。
椿の足は震えたが、その指はしっかりと毛虫の肩を掴んでいた。掴むというより、しがみつくような動作だ。やがて、その震えが小刻みになり、そのまま消えうせていくように見えた。それはせりあがってくる震えが回復されたからではなかった。
完全に、その刺激が椿の爪先までを支配したためだ。
自分の肩を掴んでいたフウリン士の指先から力が抜ける。そして、毛虫はその指から開放された。
自らを支えきれなくなった椿は、その場に足をついた。
「椿…?」
どこかで見たような光景だった。
そうだ。
藤原風鈴堂で、やはり彼女が膝を折ったことがあった。
自分が眩しすぎるなどと述べるフウリン士をふざけた奴だと軽蔑すらした。
しかし、あれが演技でないとしたら?
声が色となり、景色が音となるのなら、言葉はどうなる?
「そうかそうか…苦しいか、フウリン士…」
しわがれた声に、毛虫は打ち震えた。
振り向くと、見たことのない老人と屈強な体格の男が二人待ち構えている。そして、このような異常な事態を目にしても涼しげに眺めるばかり。
「良うござんしたな、小雪屋。これで、私の依頼をさんざ無下にしてくれる労苦から開放されましょうや」
この悪意。この、捻りのない物言いには覚えがあった。
「あ! あんた、立花家の人ね?」
どうにもいらだちを煽られる。毛虫に用があるのは、この冬のフウリン士だけだ。立花家の面々など、どうでもいい。しかし、どうにも気に入らない。その程度の認識しかなかった。だからこそ、敵意をあらわにした。
しかし、その少女の足首を掴む指があった。
最早、屈むだけでは済まず、フウリン士は横たわっている。
「つ…椿! 椿! 椿! やだ…! しっかりして! 何だっての? 何なの、あんた!」
いいから、と唇が呟いた。
息も絶え絶えに、その袖から取り出された薄いフウリン。
ほとんど指が動かないために、手首の力だけで袖口から押し出される。りりん、と細かに震えながら床に転がり出る。
「毛虫…これを鳴らせ…女には…効果しないフウリンだ…」
その効果の程は知れない。
もとは、この憎しみを育てた相手の危機だ。それでも、咄嗟に少女はそれを取り上げると老人たちに差し向かいに立った。
その指に掲げられたフウリンを見ても、しかし、彼らは動じない。


りーいいいいん…


その音は空しく響いた。
確かに、その音が鳴るのを、毛虫は聞いた。椿も薄れゆく意識のうちに聞いたのだ。
しかし、彼らは厳然とそこに立ちはだかっていた。
はっとして、椿は彼らの耳元に注視する。
単純なことだ。
この音を聞かない者には、効果は得られない。
だが、それでは、どうやって先ほどの会話はなされたのか?
毛虫が立ちすくむ。
「あんたのフウリンは厄介ですからな。交渉のこの日まで、苦労しました。読唇術、知ってますか?」
読唇術とは、その発声に頼らずに、相手の唇の動きから会話の内容を判断する技術だ。ただ、完全にその内容を把握するには至近距離で相手の唇を読む必要がある。この場では、椿の唇を読んでいたということだ。それにより、椿の発話内容を想定して対話に挑んでいた。そういう意味だ。彼の耳は栓で塞がれている。連れてきた対話に加わることはない二人の男も耳栓をしていた。
しかし、この場でこんな窮地に陥るとは思っていなかった椿だ。そして…立花こそ、千載一遇の機会を得られると思っていたかどうか。
今、この場で自分が膝を折らなければ、このような対立は生じなかったかもしれない。
いけない。どうにかしなければ。
(どうにか…)
保身のためでなく、椿は思った。
立たなければならない。
しかし、少女の背が自分の視界を塞ぐのを椿は見た。
声がかすれる。
やめろと言いたかった。
自分を庇う必要はない。
(立花の狙いは…!)
椿は、腕を持ち上げた。
伸ばそうとすると、その指は震えた。少女はまだ気付かない。
「くっ…!」
床に肘をついて、上体を反らし、腹に力を入れて椿は怒鳴った。
「逃げろ、毛虫!」
その一喝に、少女は瞠目する。
「え…?」
冷徹な老人は、その抵抗を最早許さなかった。
「もらっていきましょう」
少女が振り向いた隙に、その背後に迫る男たちの腕。
自分の喉が締め上げられる痛みと、そして、客体とされているのが己である驚き―――
恐怖は、一拍遅れてやってきた。
(え?)
そして、抗うという発想すら及ばない速さで口元を塞がれる。
「つ…うう…!」
椿の名を呼ぼうとした。
できなかった。
どうしてだろう。
どうして。
さらわれるのが自分でなければならないのか。そんなことは問題ではなかった。それよりも、心で真っ先に呼ぶ名が、憎しみを向けてきた相手でなければならない理不尽をどうしてくれよう。わからない。
「うううううー!」
少女の目から涙がこぼれる。
感情ではない。恐怖から生じる、本能の呼び起こす、生理的な涙だ。
ぐい、とその腹を圧迫される感触。
「ううう…!」
足が床を離れ、抱え上げられた。
立花には確かに準備が不足していた。
彼とて、この場で少女を誘拐する意図はなかった。
だが、もう手立てはそれしかない。
彼はこの幸運を奇跡とすら思った。
少女を黙らせるための準備があったわけでもない。しかし、喚き、抵抗する少女を抱えるだけの手勢があった。
そして、椿は足元に倒れている。
少女とフウリン士にとっての災いは、お互いがまだ目覚めているうちに引き離される、その暴挙だった。
遠ざかる足音と、少女の掠れた悲鳴。
フウリン士は、そちらを見据える力も失いつつあった。
強烈だ。それほどまでに、まだ深く根ざしている、ある影響力を…自覚する。これは自ら課した鎖だ。
しかし、少女に罪は無いものを。
「く、そゥ…!」
仰向けに転がり、女は呻吟した。
震えが収まるのを、しかし、待たなければならない。
間に合うか?
いや。
待ってなどいられない…
動悸する胸。震える指。その手を伸ばして、硬直したがる指を無理に開くと、そのフウリンを掴んだ。
フウリンの花芯は、風鈴における舌(ゼツ)と同じく、内側から鈴全体へ振動を与える。それは風鈴の種類によってさまざまな形をしている。
椿のフウリンについても、その花芯はさまざまだ。今、椿の手にしたフウリンの芯。それは、ダイヤのように鋭利な角を有していた。
震える指が掴んだのは、そのようなものだ。
手を傷つけることはできない。
手足は追跡に必要だ。
しかし、その指で細かな方向転換を調整することができない状態で、闇雲に目掛けることができる、そして、効果的に痛覚を得られる箇所のうち、手っ取り早いのは腹部だ。それしか思い当たらなかった。
彼女は迷うことなく、そちらへ、その芯を潜らせた。
そして、二分後。
フウリン士は、自分の屋敷の裏から車の盗み出されるのを、そのドアの破壊音で悟った。なるほど、時間との戦いだ。立花はすべてを放棄しての賭けに出たとみる。
時間を確認する。
午後十六時をまわったところだ。
今から山に登るのは危険だろう。
しかし、それでも行ってもらわなければならない…
今は一人でも味方が必要だ。
彼女は、旧式のアナログ回線の電話をダイヤルした。
携帯電話は、さまざまに脳への刺激をもたらすので忌避される。だが、間を置かずに回線はつながった。
電話の向こうの相手は藤沢悠だ。
急務であることと、用件を手短に伝える。その間にも、その腿を這い、衣服のうちから外へと赤いものが染みていく。足の甲へと一筋の赤い糸が伝っていく。
すべて伝え終えて、女は受話器を置いた。
息が苦しい。
だが、物理的な傷が、感覚的な痛み…すなわち、少女の与えた言葉の引き出した、脳の与える痛みの信号を凌駕している。この皮膚の上の実際的な痛みの勝るうちは、十分に動ける。





果たして、彼女は善人か悪人か?
善悪は立場ではない。
善悪を定めるのは観測者の審議だ。
毛虫にとって、そのフウリン士は大悪人に属する。憎悪の対象だ。
自分にとっての位置づけは明らかだ。それが世界にとっての位置づけと同じとは限らない。
改めて考える。
自分にとっての悪人が、世界に害を為すとは限らない。いっそ、その技術は人々に歓迎すらされている。
フウリン士に罪があるとするなら、それは、少女の世界における、ある法を破ったことだ。それだけで、世界における犯罪者だと名指しされるには至らない。
一刻も早くそのように糾弾を仕向けたいと思うのなら、近づくべきではない。警察に相談するなり、訴訟の手続きを踏むなりすればいい。
けれども、法律による裁きで収まりガつかないと判断したからこそ、ここに来た。
自分の手で、と。
けれど、もしも、フウリン士が善人であったら…周りの人にとって欠かせない善良な人であったら。
椿の実像を目の当たりにしたところで、動揺することなどないだろうと思っていた。他者が自分の心に動揺をもたらす可能性を考えていなかった。けれども、それは浅はかだった。
善人か、悪人か。
その判断を為すのは自分だけ。
自分の心は自在だと思っていた。
それは揺らぎかけていたのだ。車に押し込まれたとき、悠の言葉を思い出した。
『ねえ。毛虫ちゃん、お願いね。椿ちゃんを嫌いにならないであげてね』
今更思い出しても遅い…
恐らく…椿は、感覚に逆らえない。
それが彼女の弱点だ。
そう、彼女の感覚は表出されることで、周囲への影響を及ぼす。
それはまるで驚異的な威力でも有するかのようだが…その感覚から、椿自身は逃れることはできない。
結構ではないか。
揺らぎかけていた…
しかし、今、少女の心は怒りに燃えていた。この場を訪れる前に抱いていた復讐心よりも、もっと直接的な怒りに支配されていた。
こんな目に遭ったのはとにかくもフウリン士のせいだ。
次に合間見えたときには、ためらいなく、事を為す。
そうせねばならない。
元より、覚悟の上でここへやってきたのだ。
しかし、己が身体を代償とするほどの復讐は考えていなかった。
運転席に手下の一人が座り、そして、後部座席には毛虫を挟んで老人と、残る手下が座る。
挟まれる格好になったが、毛虫は何とかなるのではないかと思った。老人のしわがれた手はいかにも無力だ。どこか赤信号で停止したところで、機を見て内側から脱出するとすれば、この老人の側からだ。
「お嬢さん、あんた、椿とどこまで懇意にしてらっしゃいますか」
その枯れ木のような手が伸びてきて、少女の顎を掴んだ。
毛虫は恐ろしい形相でそちらを睨む。
からかわれて、はからずも立腹している自分に気が付く。
何をわざわざ腹を立ててやる必要があるのだろう?
椿がお人よしだからといって、どうなる?
椿が思いのほか馬鹿で不器用であることを知ったからといって、どうなるというのか?
自分には関係が無い!
不本意な怒りを打ち消そうと、毛虫は考え直す。
関係が無い。
フウリン士がどんな問題を抱えていようとも…役になど、立ってやるものか。
(でも…椿も嫌いだけど!)
この連中は、もっと気に入らない。憎しみ以前の問題だ。受け入れることができない。
「さいってー! あたしを人質にとって、椿に仕事をさせようっての!? あたしだってあいつは気に入らないけど、こんな遣り方犯罪だ!」
「ふん。あの女に夢中か?」
非難する少女の問いにも一切答えず、その傲岸な顔が近寄せられる。老人には時間が無い。その真実によって、若きものを威圧する。
だが、毛虫は怯まなかった。
「アホなこといってないで、おろしなさい!」
立花は着物の裡から、皮のケースを取り出した。その小さなケースを、毛虫の脇に座る男に渡す。
厭な予感がした。
「近頃、不安が多くて眠れませんですな。あんたのところのフウリン士のおかげです。だから、私はハルシオンを常備してます」
「は…はるしおん?」
少女の背後から、男の手がまわされて、その掌に置かれた錠剤は、その喉へと押し込まれた。
「……!」
突然の所作に、その手足は力を失う。
「睡眠薬です。あんたのところのフウリンは高すぎて手が届きませんからな」
含ませるところをたっぷりと聞かせてやったとでも言うような、その嫌味な声が耳にうるさい。
即効性の高い薬は、その瞼をすぐに閉ざした。
少女の身体は無力にしなだれ、老人の肩へそれを預けた。
老人は鼻先で笑う。
「似ておらんなあ…中身は」
その口の端には好色な皴が刻まれた。




フウリン―――
けれど、それがどのようにして作られるのか、どうしてそれが此処にあるのかもわからなかった。
それでも、希望はあった。
その道具は、椿のかたちをしている。
それが何かを知っている。
フウリン、と呼ばれるものだ。
一体、何がこの家に起きたのか。
何者が訪れたのか。
母の身に何が起きたのか。
それ以前にーー何故、フウリンがここにあるのか?
少女は、泣きながら、その花をじっと眺めた。
どうして、母は眠らされたのだろう?
いつになったら目覚めるのだろう?
わからない。
でも。
このままでは、母が可哀想だ。
その愛されてきた幼い子にとっては、母親がたった一人で怖い目に遭うことが、自分が危機にさらされるよりも恐ろしいことだった。
手がかりとしては充分だ。
色鮮やかに翻る、この花。
桐の箱が机の上に置いてある。
そして、母の足元に転がっているもの。
椿のフウリン。
この家に惨事をもたらしたもの。
この残酷な音色が母を眠りに至らしめた。
このようなものがなければ、何も起きなかったはずではないか?
恐らく、これは鳴らしてはならないもの。
だが、証拠となりうるのだろうか?
この花が母を眠らせた、と…
自分の証言が通用するだろうか?
証言?
誰に?
その考えそのものが、どこか間違っている。明らかな被害者である母の前にいて、どうして、あんなに強く罪悪感にとらわれたのか知れない。
それでも、母への憐れみと供に溢れてくる、ある恐怖。
自分がやったと思われるのではないか? と…
母は、いっそ、自分を逃そうとしてくれたものを、そのときは気付かなかった。その罪悪感は少女の心に強く根ざした。
「お、おつかい…」
アイスに浮かれた自分が悪い。
「おつかい…行かなきゃ…よかったよう…ごめんなさい…ごめんなさい…ママァ…」
ぼろぼろと涙が溢れる。
そして、涙にかすむ瞳は、このとき、ようやく真の解決策を見つけ出した。
フウリン。
その音の澄み渡ることは限りなく、あたりの人々を抗いようのない眠りに引き込む。
あるではないか。
ここに。
そうだ。
鳴らせば良い。
鳴らせばいいのだ。
そうすれば、誰からの糾弾も、罪悪感も、母の不在という恐ろしい現実からも、一瞬で逃れることができる。
ほとんど引きこまれるようにして、少女は、そのフウリンを手にした。

りーいいいいいん……

頭に響く、涼やかな音。

りーいいいいいん……

森閑たる部屋に、その室内に、一切を黙らせる音が響いた。





眩しすぎるシャンデリア。
真っ赤な絨毯。
深いソファ。
毒々しい装飾のその店は深夜から明け方まで営業している。
「ふざけるなァ!」
宮殿のようなフロアに、その派手な声は響いた。
華奢な外見にそぐわず、少年の拳は強力な殴打を繰り出す。
まともに食らった男が、そのガラスのテーブルに衝突して、諸共に吹っ飛んだ。
店員たちの悲鳴があがる。
渦中の人は立花遊清だ。
この店の常連だ。
遊び仲間と飲んでいたところ、気に食わない酔っ払いに絡まれた。
その少年の整った顔立ちは、同性をも惹きつける。不快な言葉を浴びせられて、溜まっていた憂さが爆発したのだ。
下卑た客たちが、威勢のいい野次を飛ばす。
「いいぞ、遊清!」
「もっとやれ!」
囃し立てられたためでもないだろう。少年の目は凶暴に光った。
鼻を折られた酔っ払いは、情けなく顔面に血を垂れ流す。やめてくれも、悪かったも、発することを許されない。涙目で、この容赦ない凶暴な相手を見上げた。
そのフロアのウエイトレスの一人、あだ名を蝶々という少女が金切り声を上げた。
「ちょっとォ、遊清! どういうつもり! 店のもの壊さないでよね!」
マーメイドラインのミニスカートに網タイツ。。グロスをのせた唇。放埓に耳を輝かせるピアス。指輪。店の内装にふさわしい、毒気のある格好だが、その少女のきりりとした声は、若さだけではない貫禄を感じさせた。ベテランの店員なのだ。
だが、遊清は目もくれない。
その拳が再度振り上げられる。
「やめてよォお!」
見ていられなくなったのか、蝶々が声を張り上げた。その肩に背後から手を置いて、そのまま横切る紅の羽織姿。
「ご無沙汰だね、蝶々ちゃん」
真紅の羽織に、純白の椿が花開いている。だが、羽織の背は殺気を帯びている。ウエイトレスはその背をきょとりと見送る。
振り上げられた拳が自由を失い、遊清はがくりと前につんのめった。
歯軋りして、その邪魔立てする者を見上げた。店の護衛であれば構わずに殴りつけるつもりで。しかし、それはできなかった。
蝶々は、不意に歓声をあげた。
「きゃああんっ! 椿さん、どしたのォ? めずらしいィ!」
「静かにしてくれ。蝶々ちゃん」
椿は振り向いた。
「あん。つれないのお」
つまらなさそうに、蝶々がいじける。
「フウリン士、てめえ!」
手首を強く掴んだまま離さない相手を睨んで、遊清は吠える。
「何の用だ!」
自分を捕らえた相手に向けて、そのままの勢いで遊清は殴りかかった。
しかし、それは紅色の羽織の裾にすら当たらない。闘牛士に操られる牛のように、その勢いは前へ向かい、少年はソファへ突っ伏した。
その背に、椿は文字通り跨った。
牛を制御して、項へナイフを突き立てる闘牛士のように。
のしかかられて、遊清は暴れた。
女に背中を押さえつけられる無様な姿など、この場にいる仲間にも、客にも店員にも見られたくない醜態だった。しかし、もとより椿の体重は見た目通りだとすれば、すぐに跳ねのけられるところだ。だが、この重圧感、この強力な制圧の力は何だ?
まごまごしているうちに、後頭部からソファに顔を押し付けられた。
「ぐえっ!」
少年は呻いた。椿は余裕の表情だ。いっそ、愉快に感じていた。少年は、それを見上げることすらかなわない。
「何を荒れてるんだ? 遊清」
「てめえのツラなんざ、見たくねえ!」
この言葉に、椿の面から、ふざけた余裕が失われる。女は沈黙したのち、その少年の背からおりる。それから、正面を向かせると、きっちりと締められた上等のネクタイを引っつかんで顔を近寄せる。
「そりゃ、こっちの台詞だ」
言うが早いか、相手の横っ面を殴りつけた。かわしようもない。少年は、自分の倒した男の上に重なるように、吹っ飛んだ。
椿が立ちはだかる。
殴られた衝撃で、頭がくらくらする。しかし、そのままではいられない。
少年は、上体を起こした。
だが、続く打撃はなかった。
遊清のへたりこむ高さへと目線をあわせるべく、フウリン士はしゃがみこんだのだ。
「遊清。おまえ、この町をどう思っている? この町…若い奴にとっちゃ、憂さ晴らしといえば、こんなおねえちゃんのいる店しかねえ町ってことさ。どう思う?」
彼はぐらぐらする頭を抑えながら、その問いに応じるだけで精一杯だ。気の利いた回答など、できそうにない。わかりきったことを聞くなと叫びたいがそれすらできない。問いに対して正直に答えなければ殴られると思った。少年は白状した。
「逃げてえ…」
小さな声で、そう呟いた。それを耳にしたフウリン士はこう返した。
「実のところ、私もそう思っているんだ。こんな夜は特にね」
「てめえがあ? 何言ってんだ。てめえ様は万々歳の人生送ってんじゃねえか…」
「パパが構ってくれないのが悲しいか? 遊清」
「…なわけねえだろうが! そんなんじゃねえ!」
「このフウリン士に嘘をつくな。それが無駄だとわかってんだろう? いいか。私の世話人がさらわれた。主犯は君のパパだ」
「!」
弾かれたように、少年は女の目を見返した。一気に酔いが覚める。
真向かいには、夜を招いて封じ込めたような藍色の瞳。
「思い当たることは?」
「……!」
少年は、固唾を呑んだ。そののち、一気にこうまくしたてる。
「親父は…てめえのつれてきた、あの子を調べろって…! フウリン士…単刀直入に聞くぜ。あの子…てめえの連れてる子だ、何もんだ? 妙に親父が執着してたんだ!」
その白い瞼が瞬きする。椿には一考の余地もない。
「ふん…やっぱりな」
顎に手をやり、立ち上がる。追いすがるように、少年は身を起こした。
「椿! てめえ、何を知っている!   親父は何を…! いや、てめえ! てめえは…!」
何を問おうとしている?
酔いだけではない。
次第に、少年の心に、冷ややかな湖のような真実が静かに溢れてくる。
これを聞くべきだろうか?
いや。これを、この女に尋ねてどうしようというのか。
この女は何をしてくれた?
何もしてくれなかったではないか。だが、それを…どうして、わかっていたように思うのだろう。このいらだちは、本来誰に向けられるべきものか…わかっている。
「椿…てめえは…何で、俺のところに来た?」
少年が問う。そこには、藍色の瞳があった。何故か、悲しいものに見えた。その問いを聞きたくなかった、というような。
だが、もう止まらない。
「あんた…椿…あんた…あんたは…」
何を考えているのか。
何故、己の父のことを把握している素振りを見せるのか。
だが、そんなことを問おうとしたのではない。
「あんた…なにもんだ?」
己の発した問いの残酷さに、遊清ははっとした。

何で、あんたは…

何であんたは、俺達の立場を貶めるんだ? とは…

聞けない。

何故…この時代、この土地に現れたのか?

小雪屋椿。
フウリン士。

ある一定の素養を有する者。
異能の存在。

だが、何故―――その存在が立ちはだかるのが、自分たちの前でなければならなかったのか?

「親父を駄目にしちまったのは…あんただとか…言うつもりはねえよ。でも…あんたは、どうしても、俺たちを無力にさせる…」
恨みがましい視線を送る。
「あんたに恨みはねえけれど…!」
恐ろしく静かな声が返事した。
「立場と感情は別物だと言い切れると思い込んでいるのか? おまえも」
しかし、それは明らかに人間の声だ。
「だが、それは間違いだ。一言、私が憎いと言っちまいな」
異能のものなど、いない。
「ああ、憎い!」
初めて、声に出した。
「憎いぞ、てめえが!」
腹の底から、喚いた。
「でも…! 憎んだところで、どうにもならねえじゃねえか!」
少年は怒鳴りつけると、拳をそのガラスの破片へ叩きつけた。向けようとして行き場をなくした力を、暴力を持て余すように。 
「ふ」
フウリン士が笑う。
その軽やかな笑みに、少年は一瞬視線を奪われた。
そして、無意識にこう呟いた。
「と、とにかく…け、警察に…」
それを聞いた椿は目を細める。
「てめえの親父のやり方が気に食わないんだな?」
「気にくわないどころか! あ、あ、あ、あんなかわいい子をっ…!」
「おや」
要らぬことまで口にした遊清は、ばっと口を塞いだ。
「あんなかわいい子を憐れんでくださるのなら…遊清。警察への連絡は我慢しな。毛虫は家出人だ」
そう言うと、椿は、腕を差し出した。
一瞬、眉根を寄せて睨みつけたが、しぶしぶ少年はその手を取った。勢い良く引き上げられる。
フウリン士が蝶々へ支払いを申し出るのを押し留めて、彼は財布の口を開いた。店を出る。椿の車へ乗り込む。いつも彼女が乗り回しているカタツムリ型の車ではない。流線の美しいクラシックな型だ。おかしいな、とは思った。そして、運転席の背もたれに血が滲んでいるのを発見するに至る。
「おいおいおい」
少年は冷や汗を浮かべた。
構わずに椿はアクセルを踏む。
「あんた、怪我してんの? 親父に何された?」
「私に刃物を向けたとか、殴りつけたというのなら、それをしたのはおまえであって、お父上は何もしてないよ」
事実だが、相当に辛辣な表現を選んで椿は申し渡した。無表情だ。その頬は磁器のように白い。
少年は押し黙った。加減をしてくれない、その女の面差しに陰りをもたらしているものが何かわからずに黙った。
「心当たりはあるか? 遊清…」
「森丘市だな」
「森丘?」
「親父がいるとすりゃあ、そこしかねえ。愛人のために買い取った別宅があんだよ。女そのものにはふられちまって空き家だが、まだ買い手がついてなくってよ。だから…手っ取り早い隠し場所ったら、そこだ」
「ふうん」
事もなげに椿は頷いた。
「そこまで知っておきながら口出ししねえのなら阿呆だな。遊清」
遊清は鋭い目つきを椿に向ける。しかし、何も言えない。未だに殴られた頬は痛む。いや、それどころか腫れてきた。
シートの肘掛に頬杖をついて、ぶすりとこう返した。
「兄貴のためだと思ったんだ。あいつが帰ってきたときに、俺と親父が喧嘩してちゃあよ…」
「……」
椿はポケットから、煙草を引っ張り出した。一本取り出して口に挟む。
「ん」
遊清はガスライターの蓋をあけて、その先端に火を点じた。
深く吸い込み、煙を吐いてから、フウリン士は告げる。
「おまえの兄貴は戻ってくる」
その名を聞いて、鞭打たれた馬のように遊清は身じろぎした。
椿の、その怜悧な横顔を凝視する。





小屋のなかは暖かな光に照らされている。
紅葉は、バンガローの製図台に向かい熱心に線を引いていた。
足元に散乱する図面。
高山植物の一輪。馬。羊。狼といった動物。
彼は何枚でも図面を描く。
それが実際に鋳物になろうとも、なるまいとも、とにかくも描いては足元に散らす。また描いては散らす。
それ自体が何かの罰でもあるかのように描く。
だが、その手は、指は、そしてその白い紙を見つめる眼にこもる熱意は、刑罰を受けた囚人のものではない。彼はそれが好きでそうしている。
小屋の空気は澄んでいる。
彼の鉛筆は、その紙の上にあって、自在だった。
空には月。
山は静かだ。
時折訪れる椿が、実のところ、紅葉は少しだけ怖い。緊張を強いられる怖さとは異なるが…慣れない包丁を手にするときのような、危なっかしい感じを与えられるからだ。
それでも、今は椿が一番の理解者だ。
そして、その椿がつれてきた少女の面差しを思い出してみる。
その手の鉛筆は、少女の輪郭を描き出した。
名前は毛虫。
しかし、それが本当の名前ではないことは明らかだった。
彼女が、自分に名を与えたように…
あの少女も、名を与えられたのだろうか?
青年にとって、椿は特別な存在だったが、それは恋愛感情とは遠く離れている。情愛の念を抱いているのかといえば、少し怖いと思うくらいだから、それも異なる。
しかし、とにかくも、必然だ。
椿の存在がなければならない。
それでも、あの少女が自分と椿の間に立つことに、少しも寂しさや不安を感じたりはしなかった。
むしろ、どこか嬉しかった。
あのフウリン士が、ひとりではなく、二人でいることが、無性に嬉しい。
毛虫は、真っ赤な牡丹だった。
色とりどりの花をすべて背負っていた。
その声が語ると、声は宝石になった。
すべていいものとなって、あらわれた。例え、椿をどう思っていようとも、あの声に偽りはなかった。
その偽りのないところがいい、と思った。
嘘をつく人間の声は、わるいものを生む。
あの少女は椿を憎悪しているかもしれない。けれども、それを隠さない点において、純真だ。
純真であることは大切だ。
椿のそばに、そのような少女がいることが、紅葉には嬉しかった。
彼の手つきはますます勢いを増した。
あたりの様子に気づかないほどに。
しかし、その小屋をのぼってくる足音に、その梯子の軋む音に、彼は瞼の裏に鋭いものを感じた。
面をあげる。
虫が鳴いている。
鳥も鳴いている。
けれども…人の訪れる時間ではない。
誰かくる。誰かが梯子を上ってくる。青年は怯えた。
しかし…
誰もが、いつかは第三者ではいられなくなる。
彼はそっとドアに手を伸ばした。
恐る恐る、それを内側から開いた。
「あ、あ、あ…」
青年は戸惑いの声を発して、後じさった。しかし、恐怖したのではない。驚いた。
「やあ。久しぶり」
夜に山を登るなど、危険極まりない。
それなのに、この御仁はわざわざこんな夜更けにここまで来たのだろうか? それを思うだけで、胸がいっぱいになってしまった。
疲れているのだろう。たどたどしい足つきで梯子をのぼってくるので、慌てて紅葉は手を差し出した。その大きな男を引っ張り上げた。
「もう風が冷たいねえ」
何ということはないように、のんびりと客がそう告げる。
「元気かい?」
「あ…う…」
「ああ、いいよ。無理しないでいい。今日は私の独り言を聞いてほしくてね」
フードを外して、藤沢基は人好きのする笑みを浮かべた。
そして、呆然とする青年を見据えた。
「な、な、なに…何か…何か…あった?」
察しのいい青年の問いに、基は沈黙する。
なるべく穏やかに…
そう思っていた。
けれども、そんな気遣いは無用なのだろう。青年が言葉を続ける。
「つ、椿さん…つれて…きた…女の子…毛虫…ここに置いてった…でも…毛虫…戻った」
「ああ」
基は頷いた。
「つ、次…基さん…来た。何か…あった…わかる…」
「…うん」
基には、どう言ったものかわからない。
「椿のフウリンには確かに、人を喜ばせる一面もあると思う」
どう伝えたらいいかわからない。
「でも、彼女一人だと、数が追いつかない。優先的に、より必要とされている顧客の順に製作しているものだから、今も予約が冬までに埋まっている…そうやって待たせた挙句に出来上がったものが、娯楽の玩具であっていいと思えない…」
青年は黙って聞いている。
「一方で、広沢鉄器が窮しているのも、椿はわかるんだよ…」
北風が冬を連れてくる。
こんな時期に、ここにいて、ひとりで冬を迎えようとする彼が切ない。
傷つけずに、どうやって伝えればいいかわからない。
「…僕なんかは、この生業、楽しいから、いいと思うんだけどね…立花はそれじゃ済まないんだろうなあ…いや、あれはもう立花の意思じゃなくて、もっとこう…脈々と続いてきた何かがあれに強いちゃってるんだねえ。ずっとずっと続いてきたものが途絶えるのは、悲しいことだから…」
「どうして…」
「え?」
「……」
青年はためらった。基が笑顔を向けると、勇気を得て、彼は口を開いた。
「誰も…親父を…怒らないの?」
それを聞いて、基の顔には喜色が溢れた。
「そうか…ふふふ。君は怒ってるのかあ…」
のんびりとした口調で返す。
「うん…誰も怒らないから…俺が怒ってる…」
基は、黙って、微笑しながら青年を見つめた。
「な…何?」
「いいや。嬉しいんだ。君が口をひらいてくれたことが」
「……」
紅葉は急に恐ろしくなってきた。
心を打ち明けてしまったことが。
青年は、もう黙ろうかと思った。
そして、このドアを閉ざしてしまおうかと思った。
けれど、基の問いがそれをさせなかった。
「君にはどんなふうにこの世界が見えているのかな…」
その問いに、青年は面をあげた。
そうか。
すべて了解する。
この御仁は、承知の上で、ここへ来たのだ、と。
「僕、は…」
たどたどしく、告げる。
「人が怖い…」
「うん」
「母が怖い」
「うん」
「父が…怖い」
「…うん」
ひとつひとつの言葉に、基は頷いてくれる。
「けれど、君…弟は? 弟も怖い?」
「おとうと…」
「あの子…困ってるよ」
空の月は満ちては欠け、次第に澄んでいく。
やがては雪がおりるだろう。
音もないほど、雪山の冬は静かだ。
けれども、その厳冬を、たったひとりで、この青年はここで過ごそうとしていたのか。それを思うと基は胸に熱いものと侘しさを覚える。
そうまで固い若者の決断を、こうして優しく砕いてやるのが善行だとは思っていない。しかし、それでも。
「ねえ…則人君。おうちに帰らないか」
基は彼の何も知らない目を見つめた。
まだ…役割があるのだ、と告げた。
「君がおかしいのじゃないよ…君に似ていた子を一人知っているよ…そうやって、口も聞けずにね…ある朝、僕の家に来てじっと僕を見た。僕は、ああ、助けなきゃと…この手負いの野獣みたいな子に何かしてあげなきゃと思ったんだ…」
ブナが黄色く色づいている。
その名は紅葉。
椿がその名をつけた。
山奥に引きこもった自分を、彼女はそう呼んだ。
青年は目を閉ざす。
『則人ではないのなら、紅葉』
ああ。あれは。
『そう呼ぼう…』
あれは許しではない。
許しではなかった。
何故?
青年は尋ねた。
フウリン士は笑っていた。
『名も無きものにすらなれないくせに…まだ生きようというくせに、名前を与えられないのは不平等だろう? だから、縛るために名をやるよ。紅葉。いい名だろ』
名も無きもの。
名を真に捨てるとはそういうことだ。消える…ということだ。
けれど、捨てきれないものがある。
だから、名を与えられた。
それは許しではない。
生きられないと思ったわけではなかった。
けれど…
もう生きられないと…
(椿は…そう思った?)
けれども、問うことはできなかった。
逃げ出した自分に、それを問う資格はなかった。

第六章

「まったく…黙ってりゃいい娘だが」
不快なものが頬を撫ぜてくる。
「?」
ぞっとする冷たい感触。
けれども、妙に熱を帯びたもの。
その肉感。
「ん…んん?」
そして、胸の隙間を通る固いもの。
オレンジの光。
(どこ…?)
低い天井。空気が冷たい。
人がいる。
少女は身じろぎして、目を覚ました。
「え? え? な…何? 何よ!?」
真上に迫る老人の顔に、少女はむかつきを覚える。その杖の先が、少女の胸の隙間をつっと撫でる。鼻先に生暖かいものがかかってくると思ったら、それは老人の荒い鼻息だった。頬に当てられているのは、その皺寄せられた指だった。
「は」
反射的に声が漏れた。
「離せええ!!」
自分の腹の上に跨っている清則の股間を、全身全霊の勢いで膝蹴りした。
「おおっ…! ううう…!」
急所を思い切り蹴っ飛ばされて、老人は、そのままベッドから転げ落ちた。
「こ、こ、殺してやる! くそったれ爺!」
威勢良く第二の蹴りをその喉元に…それこそ殺す勢いで叩き込むために起き上がろうとしたが、両腕が不自由に突っ張って肩が上がらない。
「何、これ!」
両腕が頭部を挟む姿勢で引き上げられた。だが、それは自ずからそうなったのだ。手首のあたりに、異質な金属の当たる感触。それは輪になっている。手首を慌てて振ると、鎖のこすれあう音がする。
(手錠!?)
毛虫は、起き上がれない体勢のまま、両手首をベッドに手錠で繋がれている己に気付いた。左右を見回した。
日常空間ではない。
石膏の像。間接照明。厚手のカーテンに、背中の沈むベッド。
息を呑む。それはマンションの一室だった。妙にいかがわしい造りの部屋だ。
(こいつ!)
椿の力をそうまでして欲するのか?
拉致監禁は犯罪だ。
だが、この時点で、だ…
この時点で、脱出できなければ、どうなる?
毛虫は顔色を失う。
だが、清則は腰をさすりながら、よろよろと起き上がった。
彼はスツールを引き寄せると腰掛けて、その杖に両手を重ねて少女へ向き直った。
彼の背の向こうにドアが開いている。その部屋にあるテーブルを取り囲むように、男たちが並んで座っている。それら後頭部は沈黙を保っている。不気味だった。
「……?」
暗がりに目を細める。
「娘さん。あんた、何でこの町にいらっしゃった」
「フウリン士の弟子になるためよ」
即座に答える少女の顔を、老人は覗きこんだ。
「何よ!」
「娘さん。昔話をしましょうか。わしの息子や娘さんの生まれる少し前の話ですな」
何をのんきなことを。
毛虫は、きっと睨み据える。
「ある町で女性のみに限られた集団的な失踪があった」
「へ?」
集団失踪?
穏やかならぬ言葉だ。
「いなくなった人々は、しばらく、この界隈の山奥の集落にいたことがありましてな。その一団が身を寄せる前から、既に廃村になっていた場所でしてな。もう誰も住んでおりませんでした…かろうじて車は通れるが落石や熊の心配のある場所でしてな。もう見捨てられてしまっとりましてな。その頃から、よく知らなん人たちを見かけるようになりましてね。旅行者かと思ってたんですが、そうではないらしいと。何だかおかしいなあいう話はありましたね。今は…立ち入り禁止になっている場所ですわ」
「失踪? どうして、そんな話、あたしに…」
「一方、鉄器の産業は、この町と切っても切れない仕事…」
少女は首を傾げた。
この事態に引っ張り出されるほど、緊急性のある話とは思えない。
「何? なんの話よ?」
「お子様には、まだ早いお話かもしれませんの…」
「子供じゃない!」
「それはようござんした」
椿に言われたことと、同じ言葉を言われたくなかった。毛虫が咄嗟に怒鳴りつけると、老人はにやりと笑ってみせた。少女は初めて怖気づく。
「子供でございませんでしたら、私どものお相手もお勤めいただけますな。何しろ、あのフウリン士は手ごわい」
「な…何の話?」
老人が外へと視線を向ける。
そのテーブルの一人の若者が、その目付きに応じて立ち上がる。すると、他の男たちも、同じように立ち上がった。
ぞろぞろと部屋に入ってくる。ものも言わない。
水を打たれたような静けさ。
毛虫の胸は早鐘のように鼓動しはじめる。
彼らは少しも笑っていない。
その顔つきは仕事に臨む顔つきだ。
そうだ。
金で雇われた集団なのだ、とわかった。
老人が口を開いて、少女の問いに答える。
「あんたさんの母親、閏の話です。わかりませんかな」
「……!」
その名を。
その名を、気安く口にするな。
「呼び捨てにするな!」
「在坂の娘が、何故、こんなところまで?」
「どうして…!?」
嫌悪と混迷のうちに、少女は強い眼差しで老人を見た。これが、初めて少女が清則を意識した瞬間とも言える。少女はようやく彼の狙いが今ではフウリン士ではなく、自分に定められていることを悟った。
「ふん。娘は母親についちゃ何も聞かされてないときたか。だが、あの女に生き写しだ」
老人の指は、今度こそ、少女の顎を捕らえた。
少女の澄んだ目に暗雲がかかる。
必死で考える。
「何の話をしてんのよ!」
間近に迫る老人のその面に、毛虫は、口のうちに溜まった唾を吐き出した。そして、こう言い放った。
「説明しやがれ、くそ爺! パパとママの名を、てめえなんぞが呼び捨てにするな!」
「ふっ」
老人は、若い男のひとりが差し出した白いハンカチで、唾棄された頬を拭った。すると、俄かに少女の頬を打った。
「いっ…!」
痺れが頬に走る。しかし、少女は歯を食いしばって耐えた。冗談ではない。泣いてなどやるものか。
その炯眼が目前にあった。
「いいですか、お嬢さん。『夢感覚』は生来のものでしてな…遺伝性のものだという説がありましてな。何世代も遡ると、祖先にその保有者が発見されます。一方、ある条件のもとで後天的に夢感覚を発露させるものがおります。あんたには夢感覚の素質がある。なおかつ、その条件を加えてやれば、あんたにもそれが発露するかもしれません。そうしたら、あんた、うちで働いてもらいましょう。あの冬のフウリン士の代わりに」
「条件ですって?」
「性犯罪の被害にあった女に、その発露が見られることがあるのですな。つまり、あんたをこれから大勢の男で犯してみます。だめなら仕方ありません。死んでもらいましょうかの。いい結果が得られたら、そうですなあ。どうやって、フウリンを作ってもらいましょうか」
言われたこと、その事実が理解できない。いや、理解したくない。
何と言った?
(性犯罪の被害ですって?)
冗談にしては生々しい。
(じゃあ、椿も…?)
目の前が暗くなる。
遺伝性、とはどういうことか?
自分にもその素養がある、とは?
(ママに…何があったっていうの?)
可能性と推測が一気に頭に溢れて、視界が暗くなる。
そうこうしているうちに、足首を捕まれた。
「おっさん、着物とはえれえ気がきくぜ」
男の一人が誉めそやした。
「脱がせるのが手間だけど、色っぺえなあ」
実際には、下着の役割を果たす絽の着物一枚に、足袋と帯。その生地から下には、本来には外されるブラジャーとショーツが透けている。
愚かな精神と凶暴な行為の度合いは比例する。ここまでの愚者と会話していたとは思わなかった。甘く見ていた!
毛虫は歯軋りした。
『犯してみます』とは何事か?
「リトマス試験紙じゃねえっつうのよォおおおお!」
怒鳴りつけて、手前のひとりの腹を蹴っ飛ばした。だが、その屈強な筋肉はびくともしない。
「!」
初めて、少女は思考する精神力を奪われる。何人かの手が、次々に少女の腕を押さえつける。
(…いや!)
その膚の触れあいさえおぞましい。
どうやって逃げればいい?
だが、その手立てが思いつかない!
もがく少女の上に、何人もの男の魔手が伸びる。
「い、やっ…! 椿! 椿! つばきのバカァああああ!! 助けないなら、のろってやるううううっ!」
その絶叫は、しかし、老人の神経を逆撫でした。
「ったく、二代揃って椿椿とうるさい親子め」
「!」
ぴたりと少女は静まって、老人を凝視する。
しかし、この事態に対して不自然なほどの完全な静けさに気付かず、老人はぼやいた。
「小雪屋もなあ…何を考えているのかわからん。気付いているんだろうに、哀れなこった」
そして、その五つ紋の羽織が立ち上がる。   
「終わったら連絡せい。わしは乳臭い娘っこの肉に興味ないからの」
老人の手がドアノブへ置かれた。しかし、同時に、差し向かいから伸びてきた腕が、その袖口を捉えた。
はっと、彼は向かいにある者を見上げた。少年の面には怒りも悲しみもない。ただ、そこには軽蔑の色が浮かんでいた。
「いい加減にしろ、くそったれ親父」
両の袖口を捕らえると、少年の柔らかな足首は回転する。その足が持ち上がり、老人の片足を跳ね上げた。
ゆっくりと、踊るように遊清は己が父の身体を宙に浮かせた。その戸口を越える前に、老人の踵はまたしても地を遠く離れた。彼らは水鳥の羽を広げるように軽々と跳躍する。しかし、軸足をきかせた少年の両の腕も足も、地に留まる。清則だけが、その応接間の床へ投げ飛ばされた。
それは、かつて彼が彼自身の息子に身をもって教えた柔術によって、投げ飛ばされたのだった。
派手にその身体が樫の木の丸テーブルの中へ投げ入れられる。その破壊音を毛虫は聞いた。小鹿を捕らえた狼の群れが、猟銃の発砲音を捉えたように、男たちも硬直する。
ドアの向こう、寝室の奥に、少年は毛虫を見つけだす。少女は、帯をとかれ、ひらかれた襟からは下着がのぞいている。着物そのものが、その下の膚を透かしている。あられもない姿だ。少年はそれを見て真っ赤になった。
「わああああ!」
悲鳴をあげて、戸口の向こうへ隠れる。
「あ…あんた、ユウセイ?」
「その。た…助け…助けに来たんだ、け、けむ…毛虫ちゃん!」
震える声が返事する。
打ち付けられた身体を痙攣させながら、清則は、尚も立ち上がった。
「き、貴様…!」
その目は赫怒に燃えている。
「いくら親父だって、許せねえんだよ! け、毛虫ちゃんに…!!」
怒鳴りつける。
「毛虫ちゃん、ごめん! 本当にごめん! すんませんっした…!」
戸口から遊清は姿を見せる。しかし、少女の姿を直視する前に膝を折った。少女の繋がれたベッドへ向けて遊清は頭を床へこすりつけんばかりにひれ伏して詫びた。
「親父も! 頭下げろ!」
少年は顔を上げる。その背後へ怒鳴った。しかし、男たちの筆頭である青年が、老人へと指示を仰いだのはそのときだ。彼らは怯まない。
「どうすんです、立花さん」
彼らの目的は金しかない。
仕事を中断させられては、それは得られない。人道的に見れば中断すべき場面ではあった。だが、この少年に対して、この手勢の数。暴力にものを言わせるならば、少年を脅迫するなどたやすいことだ。
しかし、指示が要る。だから、筆頭格の青年はおもねるような顔つきをする。そして、この追い詰められた老人は、既にして獣としての理性をしか残していなかった。普段からあれほど軽んじている次男から、軽蔑の眼差しを向けられた。そのために、彼の怒りは頂点に達していた。どちらが自分により有利か。決断は早かった。
「続けろ」
「親父!」
「そいつも黙らせろ!」
「ふざけるな!」
少年は立ち上がった。大概の武道ならその身に仕込まれた少年だ。喧嘩にも滅法強い。だが、このような玄人集団を相手どるのは初めてだ。
「いい加減にしろっつってんだろ、くそ親父がァ!」
殴りかかってくる男の拳をかわしながら、少年は叫ぶ。
老人が叱り付ける。
「たわけたことを抜かすな、遊清!
貴様、邪魔をしようというなら…!」
最上階のスイートルームへ直結している昇降機の扉が、今、開いた。そして、閉ざされた。
「邪魔をしようというなら、何だ?」
アルトの声が部屋に響いた。
真紅の羽織に、白抜きの椿。
銀色の髪。藍の瞳。
フウリン士が、その建物の最上階にようやく辿りついたのだ。
「遅いぞ、てめえ!」
少年が吠える。
車が乗り入れるが早いか、遊清は階段へと駆け出したのだった。制止する声も空しく響いた。諦めて、彼女は昇降機に乗ったという経緯がある。フウリン士はこう返した。
「私より先に到着するおまえの脚力が異常だよ」





男たちが初めて緊張をみせた。
賢明な判断を見せる男たちを鼻で笑って、その視線を清則へと転じた。
彼女は腕組みする。そして、袖口から、フウリンを取り出した。
「言うまでもないようだが…動かれないことです。どなたも、ひとりも。この花の名は『黄泉(よみの)銀(ぎん)花(か)』。これは今まで私が触れなかった者をその命尽きるまで眠らせることのできるフウリンです。遊清、毛虫。彼らには触れたことがある。しかし、清則様。それから、その人たちには触れたことはありませんね」
「そ、そんなものっ…」
老人は尚も抗おうとする。
「このフウリンの振動は鼓膜だけではなく、膚へ伝わった振動で効果するのですよ」
四辺に緊張が漲った。
アルトの声が支配する。
「毛虫はワケアリですからね…この一件について刑事訴訟を起こすつもりはないからご安心頂きたいが、今までの詐称的職務怠慢は、この遊清が証人となる」
「何だとっ…」
老人が喉を詰まらせる。
遊清の面差しは最早揺るがない。怒りよりも、義務感を負った顔つきで頷く。椿は、老人の正面へ片膝をついた。目線を合わせる。唇に愉悦を浮かべる。
「…今…つい先ほど、あなたが組合長を務める広沢鉄器協同組合の構成員の半数に脱退を要請し、了解を頂きました」
「な…な!?」
あまりの仕打ちに、清則は絶句する。
「その脱退者には、あなたのご子息、則人様も名を連ねております」
清則は、死者の名を聞いたように、息を呑んだ。椿はその表情を間近で眺める。
「のりひと…だと?」
彼女は、すぐには答えなかった。
さっと立ち上がり、尚も続ける。
「現時点での組合構成員の数は32名。しかし15名の脱退があれば、10企業以上または30人以上の「産業」条件は大きく外れます。さて、いかがいたしましょう」
「何をばかなことを言っているんだ、貴様! 則人だと! 死人の名まで持ち出すつもりか!」
フウリン士は懐手して、唸った。
彼女の背後の昇降機の、その位置を示す階数の表示が明滅しながら上昇移動しはじめた。椿は腰に提げた煙草入れの筒を開いた。煙管を取り出す。そこに、煙草を丸めて詰める。
「死人…死人ねえ…てめえがそういうなら、死んだも同様かもしれんな」
その明滅に、彼女は目をやる。マッチを擦った。
「ふ。ご到着だ」
最上階で、その信号は光って停止する。火皿から煙が昇る。ドアが左右に分かれた。
「何を…ま、まさか…」
「……! あ、あ、あ…兄貴…」
そこには、藤沢基と、立花則人が立っていた。
則人は伸びきった髪を短く剃り、真新しい和服を身に纏っている。黒髪黒目。すっきりと涼しげな目元に、迷いはなかった。
「やあ。遅くなったね」
椿は、のんびりと笑う基を一瞥する。
妙にこざっぱりとしている則人の風貌が気になる。
「…着替えを?」
「うん。せっかくだから、悠に着替えさせてから来たよ」
この非常時に…とは、椿には言えなかった。この姉弟の世間離れした心には逆らえたためしがない。
「の、則人? どうしたんだ、おまえ…どこへ…どこ行ってた?」
呆れる椿を尻目に、老人の困惑は深まり、その言動は狂態といえるほどの稚拙さをあらわした。
「貴様も、わしを貶めるってのか!?」
彼は、杖を大きく掲げて、その先端を則人へ向けた。
「何か言わんか、則人!」
「黙れ、詐欺師め」
椿がふっと息を吐く。唇から煙が吐かれる。
「な、なんだと、小娘!」
「ふ。散々持ち上げておいてくれて、途端に小娘呼ばわりとは、いっそ小気味良いこったな」
カン、と雁首を構わずに壁へ叩きつけて灰を落とす。
絨毯の上で燻るそれを踏みつけた。
「笑わせるな! こいつが生きていたからどうだというんだ! 倅のことを言いたくないがな。そいつは何の役にも立たん!」
「!」
雷に打たれたように、則人は立ちすくむ。椿は沈黙する。瞼を閉ざす。
「親父! 何ていうことを…」
呆然としながらも、遊清が呟いた。
椿は待った。瞼を開く。
しかし、その青年の面は蒼白なまま、唇は青ざめ、指先は震えている。
「……何も言わないのか?」
椿はその青年を見つめた。
「則人! 何も言わないのか?」
叱るように、そう促す。
青年はしばし眉間の皺をきつく寄せて黙っていたが、意を決して顔を上げた。
「お父…さん」
その声を聞いた清則は、それまでの威勢を失う。
「僕…できない…椿さん、みたい…できない…つくれない…でも…お父さんも…また…一緒に…」
たどたどしく、青年は言葉をつむぐ。
「何だ?」
「か…感覚…忘れて…つ…償う……伝統…守る…やりなおす…お父さんも…」
その言葉の意味するところを、彼は恥辱と受け取った。もはや、そのようにしか、他者の言葉を受け入れることができない。
「そ、それが…何だ!? それでやり直せとでもいうのか!? 阿呆か、てめえは! 情けないわ、我が息子ながら! 愚かしい…愚かしい奴め!」
老人の腕が振り上げられる。着物の袖から、その枯れた皮膚があらわれる。彼の杖は、勢い良く則人の頬へ向けられた。則人は避けることをしなかった。まともに、その打撃を頬に喰らった。
しかし、老体とはいえ、渾身の力だ。彼の足元はふらついた。
そのとき、その襟のあわせめから、小さな袋が落ちた。その袋を閉じる紐の結び目は緩かったため、その口から中身が飛び散った。それは砂鉄だった。
それを目にした清則は、狼狽した。
彼は呻吟した。
「う、うう…こ、これは…」
老人の目の前で、則人が慌てて床に這いつくばった。砂鉄をかき集めようとする。しかし、それらの細かな粒は、深く上等な絨毯の内へと吸い寄せられていく。
「あ…ああ…」
則人は、悲しげに声をあげる。その長い指の捜査も間に合わない。
「立花。てめえの息子の声が聞こえないのか?」
椿は老人を睨み据える。
「こいつが懸命に探していたものが何かわかるか?」
基が、則人の側にしゃがみこんだ。そして、その指の零した砂鉄をかき集めるのを手伝いはじめる。
「うう…」
「あの一件…まぜものの一件が露見したときから、則人は…必死で探していたんだ。そのために山に入ったんだ。もうてめえの親父が馬鹿をやらかさずに済むように、資材となる豊富な資源の在りかを求めて」 
則人の意思が、老人の心を揺るがしはじめていた。
「ううううう…あああ」
老人は唸る。その小刻みな震えは枯れた唇から、吐息とともに、漏れ出る。いらだちと、そして、逆らえぬ、受け入れきれぬ真実。それは、己の息子の器が、己を遥かに上回っているという真実だった。
「フウリンは、人々の『目に見慣れないもの』にすぎない。だが、『驚かせるためのもの』であってはならない…。その条件を、既に、あなた方の産業は備えている。餅は餅屋というでしょう。製品を穢してきたのはあなた自身です」
遊清は、固唾を呑んで、父と兄の姿を見つめる。兄の真意を知り、今、何も言うことはない。そして、競りあがってくる涙を堪えることができない。自分の無力さを思い知らされるのは屈辱だ。けれども、同時に、敗北は安心をも与える。
その感じは何度も兄によって与えられてきた屈辱と敗北感。
まただ、と少年は思う。
また、兄貴に負けちまった。
けれども、どうしてそれがこんなに嬉しいのかわからない。
「それだから、探したんだ。則人は…ただ、あなたのためだけに、この土を」
フウリン士は代弁する。
畏れに声を失った友人のために。
だが、老人の矜持はこのような文句をまだ口へとのぼらせる。
「則人…則人…本当か? おまえ…おまえ、何を…何を…じゃあ、なぜ、わしに…こんな恥辱を…!」
彼は、砂鉄を追い求める則人の背へ、その這いつくばる後姿へ近寄った。そして、その襟元へと両腕を伸ばすと、自分の側へと向かせた。
「則人…答えないか!」
青年は怯えきった眼差しを浮かべていた。
「言わずに済むなら済ませたかったがな…てめえのためじゃなく、則人のためにも」
フウリン士は、苦々しく、その真実を忌まわしいものであるかのように告げた。
「則人は性分化疾患です」
吐き捨てるように、そう言った。
「そして、夢感覚の保持者でもあります」
「なんだと?」
老人の手から力が失われる。
則人の襟元はそこから免れ、青年はがくりと膝をついた。
老人は呆気にとられて、立ち尽くす。
性分化疾患とは、性分化過程における障害、その症状をあらわす。男性半陰陽や女性半陰陽などと呼ばれることもあり、その症状、発生原因はいくつかに大別される。則人の場合は女性半陰陽という。
原因は副腎性器症候群。これが女児に起きた場合、その性器が肥大する。遺伝子診断を行い、早期治療を行えば女性としての生活を送ることは可能だ。しかし、気付かれずに男として育てられることもある。発覚された時点で、既に男性としての生活、社会的地位を既に確立されていることもある。その場合、治療そのものが当人にとって必ずしも幸福とは限らない。
だが、フウリン士は口を噤んだ。清則は訝しげな表情を浮かべている。それを見たくないとでも言うように、椿は俯いた。
「立花…」
押し黙った椿を見て何を悟ったのか、藤沢基が立ち上がる。則人が悲しげな眼差しで見上げる。その視線を包むように見返してから、清則に尋ねた。
「君、小さい頃、彼…則人君に、心理カウンセリングを受けさせたことがあるかい?」
「それが…それが何だというんだ? 藤沢。おまえに関係あるか!」
癇癪を起こした幼子のように、立花清則は吠える。しかし、基は悠然と構えて動じない。
「間違えてたんだ、立花。君は見せる医師を間違えていた。ただ、それだけなんだ。その医師は正しい判断を行っていた…医師を変えればよかったんだ。でも、君。君の息子の奇妙な言動を、君の遺伝じゃないかと恐れて、彼の精神の正常性を隠したろう。折りしも、君が業務を余計な方向へ拡張させ、負債を招いた頃に…」
記憶の底に埋もれていた出来事だ。しかし、確かにそうだった。
清則は思い出した。
「その頃から、則人は口をきかなくなった。そうだね?」
則人は目を伏せた。
覚えている。
夕暮れの眩しすぎる季節だった。
車での送迎。
病院から退出するときに、彼の父親はこう言った。
彼の精神が正常であることを医師に確認させた帰り道に、こう言った…『誰にも言うな』と。
正常であることを言うな、と。
その正常性を保ちながら、彼の息子の言動がおかしいことを世間に知られれば、それは奇行ととられるから。だから、言うな…と。
幼い則人は、それを忠実に遂行した。
だが、次第に声を発することが困難になっていった。
そこまでをこの場で明かすつもりはない。
けれども、則人も、清則もまた、その遣り取りを記憶から引きずり出される。しかし、それが分岐点であるならば。
それが苦しみの根源であるならば、目をそらしてはならない過去だ。
基は淡々と続ける。
「君の息子が山に入った理由、話すことをやめた理由すら省みなかった。でも、君の欲するものは、すぐそばにあったんだよ…いいかい。立花。則人君はね。現時点で椿の有する夢感覚を遥かにしのぐ複雑な夢感覚の保持者なんだ」
「……! な…なん…だと?」
驚きも度を越えて、恐怖すらその頬に浮かべ、清則は藤沢基を凝視した。
嘘ではないか。
叫びたい衝動を堪えた。
それくらいの理性なら残っていた。
「だから、今でも、日常生活を送れない…」
基が確認するような視線を則人に送る。だが、まだ、己の真実の露呈に耐え切れないのか、青年は目を伏せた。構わずに基は述べる。
「今のところ、それを生長させることも、励起させることもできない。受容するだけなんだ。椿に比べて優れているか劣っているか、そもそもそんな並びではかる価値もないけれども…君にとっては貴重な情報じゃないか?」
基は、脇に抱えていた封筒を――椿の元へ毛虫がやってきた日に到着した書類を、椿に手渡した。椿は、それをそのまま清則へと差し出した。それは、医師の診断書だった。簡素ではあるが、その明確な記述を老人の目は素早く読み取る。椿は補足する。
「共感覚は脳の辺縁系…人類が哺乳類であった頃の脳に宿るとされておりましてね。ただ、夢感覚は、脳のどの部分に由来するか、未だに研究段階にあるんですよ。だから、どの医者が専門医かといっても、それに呼応する医学機関そのものが成立されておりません…ただ、私の知り合いに則人の言動を知らせました。今のところ数少ない夢感覚の専門家の貴重な見解です。十中八九、間違いない。何なら紹介致しましょう」
「でもね、立花」
基は柔らかな声をしている。
基の声を聞きながら、椿は目を閉じる。
「産業の発展は、求める人々の数に応じる。僕は、それをいとしいと思う。所詮…求めるところに、求められるものが生じる。所詮、大勢の力は強い。僕はね。政治や何かはわからないけれども、あるものを、たくさんの人たちが求めるというのが、いとしくってならないよ」
実直な、その声。
「フウリンは広沢風鈴とは別物だが、素材は同じだ…その時点で…まったく、かけはなれた意味をもつものではないと思っているんだ。どこか根を同じくするところがある。それがわかれば…椿の…則人君の感覚が何かもわかるのかもしれない。椿は…僕らの仕事を軽蔑して外れたのではないんだ」
内心懐かしく思う。
こうして、諭されたことがある。
自分も、また。
「製品は純粋でなければならない。椿のフウリンは日用品ではない。けど、遊びの道具でもない。芸術品でもないよ。必然に基づいた、ただの道具で、日常的に用いられないというだけの話だ。その意味では鉄器風鈴と大差ない道具だ。そいつを、君の息子たちの方が余程理解しているよ。だから…君の姿が悲しいんじゃないか」
ついに絶句して、立花は崩れ折れた。
「夢感覚のことを打ち明ければ良かったものを、君という父親に否定された一言が、則人君にどれだけ絶望を招いていたかわかるかい? 立花」
「済まなかった…」
その一言は、そうして発された。
「わ、わしが…済まなかった…」
白状される。
「わしは…わしには、情熱がなかったんだ…藤沢…藤沢。おまえのような工芸への意欲が…そこへきて、フウリンがあらわれ…」
目が眩んだ。
そう結んだ。
「ああ。君は勉学がしたかったんだろう?」
基が問う。
清則は、声もなく頷いた。
フウリン士は怒りも悲しみも覚えることはない。
ただ、疲労だけが心を支配する。
(たった、それだけの…)
それだけのことのために。
己の理性を。
己の家族を犠牲にするのか?
基もまた、掛ける言葉が見付からないのか押し黙る。けれども、その面には、その眼差しには優しさが満ち満ちている。その目を知っている、とフウリン士は思った。
自分が初めて彼に会ったときにも、あんな目をしていた…
「このフウリン士の助力を請うならば…藤沢姉弟のご両名を通じて頂きたい。それでご勘弁願えませんか」
いっそ事務的に、女は尋ねた。
「いや…」
老人は、手をついた。
「小雪屋…申し訳ないことをした。…ご面倒をおかけ申した。今後、お世話になることはありますまい。すべては息子たちに任せ、この老いぼれは隠居することに致しましょう」
そして、深々と頭を垂れた。




少女の手首の錠を外す。
「…大丈夫か?」
吐息して、椿は、ひとまず、その乱れた着物の襟をあわせてやった。しかし、それで隠したことにはならない。羽織を脱いで、少女の肩にかけてやる。
少女は押し黙っている。先だっての遣り取りにつけても、黙って聞いているので妙だとは思ったが…
毛虫が口を開いた。
「…でしょう?」
「ん?」
小さな声だった。
「わかってるんでしょう?」
「毛虫?」
「あたしが…ママの子だって…在坂閏の娘だって!」
「!」
フウリン士は、弾かれたように目を上げた。少女は涙目で、椿を睨みつける。そして、ベッドを降りると、ふらつく足取りで立って、サイドボードの目覚まし時計をその掌にしっかりと掴んだ。
「ママを奪われた気持ちがわかる!?」
声をたてる間も与えられない。
「ばかにして…ばかにして…ばかにしやがって! 知ってたくせに、内心嘲ってたってのね!」
投げつけられた時計を、椿はさっと避けた。それはその背後の窓ガラスをぶち抜いて、外へと投げ出された。
少女は、椿の首筋へと両腕を伸ばした。そのまま、床へ押し付ける。両手に力が込められた。
「……っ!」
フウリン士は、その両手首を掴み上げると、首から引き剥がした。
「よさないか!」
異常を感じ取った遊清や基が駆けつけた。少女の狂乱を目にして二人はうろたえる。置物や花瓶を次々に手にしてフウリン士の方へ投げつける。起き上がったばかりの椿は、その物体を掌で払う。物体は壁へ、窓ガラスへと方向を転じられて、そこへぶち当たって壊れる。
さっとその部屋へ入ってきたのは則人だった。
「や…やめる…! だめ…! 毛虫…!」
強張った声を発し、戸惑った目付きではあったが、その両手はしっかりと少女の手を制するために掴み上げた。自由を奪われた少女は、強く叫んだ。
「うるさああああい!! 殺してやる!」
必死で押さえつける則人の膂力も跳ねのけんばかりの勢いだ。
憎悪の力だ。
「……!」
ただただ圧倒される遊清と基は、見守ることしかできない。
両手を奪われた毛虫は、尚も椿に掴みかからんばかりだ。その眼差しは獣のようだ。
「離せ! 他人に何がわかる!」
少女は、忌々しげに、則人を振り向いて睨みつけた。則人は、びくりと肩を震わせる。
「触るんじゃない! 触るなああ!!」
締め付けられた喉をさすって、椿は咳払いする。
「済まないことを…」
かすれた声で呟く。
「済まないことをしました」
そして、少女の足元に、肘をついた。
美しい女の頭を垂れる姿に、誰もが声を失う。だが、少女の怒りは収まらない。
「そんな姿を見せれば済むと思うのか!」
真っ赤になり、歯を軋ませる。
「なんなのよ、そのクソ芝居はああ…!!」
極度の興奮状態にある。
「あんたを! 恨んでいるってんだよ!」
少女は、自分の足元に跪いた女にそう毒づいた。片足が持ち上がる。自由にならない手の代わりに、白い足袋を履かされた足の甲で、その柔和な白い頬を叩いた。
だが、そのような屈辱にも、椿は何も言わない。
「冗談じゃない! 冗談じゃない! 謝ってどうなるっていうんだよ、卑怯者! ふざけるなああ!」
「け、毛虫」
則人が悲しげな声を発する。
少女のここまでの狂態を生じさせたものは何であろう。
怒りの正体は何であろう。
その少女から発せられる負の気配が、則人の喉を苦しめる。彼は泣きたくなった。
「そうよ、あたしはあんたを恨んでここまで…!!」
しかし、大粒の涙をこぼしたのは少女だった。
「ここまで!!」
その瞳から、涙が零れ落ちる。
「謝ってどうなるっていうのよ!! あんたが謝っても、ママは眠った
ままだ! 殺してやる…!」
抑えてきた憎しみ。
一切を解き放つ自分を、少女は自覚していた。
そして、どこかで、悲しいとも思っていた。それでも。
「殺してやる!!」
そんな言葉しか出てこない。
椿は答えない。
項垂れているきりだ。
それを認めた毛虫は、急激に怒りを失った。
皮肉のひとつも。
言えばいいのに。
何も言わない。
何も返さない。
抵抗しない。
それが本心か。つまりは。
返す言葉がないということか…
何故、こんなに責めてしまったのかわからない。実は、それが緊張の糸が切れたことによる興奮だと、見守る者たちには見抜かれていた。
だが、椿のその沈黙が、口出しを許さなかった。
少女には、それが悲しかった。
則人は、自分が押さえつけていた少女の腕から力が抜けるのを感じた。
少女は崩れ落ちる。
嗚咽がその唇から漏れた。
崩れ落ちた少女は、その足首を掴む掌を見た。
椿の掌だ。
その指は足袋を脱がせた。
何をされているのか、わからなかった。
見守る者たちのいる、その目前で、その唇が、自らの素足の甲に押し当てられるのを少女は見た。
その唇はかすかに開かれ、吸い付くように、その素足を愛撫した。
「やっ…ん…ばか! やめてよ! 何するの!」
ぞくっとするものを背に感じて、少女は全身を痙攣させた。
フウリン士が口を開いた。
「怒鳴って、気が済んだか?」
「うるさい!」
「さっき…ここに来る前、君のお父さんに連絡をした」
「……!」
何故、父の連絡先を知っているのか? 今更問うのも愚かしい。
「きちんとお話しよう。君はもう帰りなさい」
「勝手を言うなァあああ!」
荒ぶる神がおりてきたように、毛虫は聞き分けない。椿は苦しげに眉間に皺寄せる。
「聞いても納得できないなら殺せばいい!」
この場で聞かせたくはなかった、というような苦痛の表情で、そう怒鳴りつけた。
「な…!」
少女の目に、刹那、理性が取り戻される。
本気で言っているのか。
少女の激情に、その灼熱をすら凍てつかせる声が響いた。
「いっそ私をさっさと殺せばよかったろう」
何を言っている?
殺していい、だと?
何を…言っている?
詭弁だ。少女は信じない。舌足らずな言葉を返した。そうでなければ、自分を見据える眼差しに呑まれそうになる。厭だ。聞き分けてなんかやりたくない。
自分から母親を奪ったこの女を許せない!
「嬉しくない! 許可の下の復讐なんか!」
「嬉しくない? その程度か?」
問おうとしたが、できなかった。睨みつけると、その藍色の目が自分を見ている。そこにあるのは、何も映さない鏡。どんな虚像をも投影しない鏡だった。しかし、それは湖のように澄んでいた。
「怖いだけだろう? 望まないだけだ、人殺しなんか。そこまでの激しさがないのが、君の立場の限界だ。君は、所詮は…あの人の娘にすぎない。そうだから? だから、お姫様だっていうんだ…」
少女はその水底へと呑まれた。
深く。
暗い眼差し。
「憎しみってのは、そんなものじゃあ、ない…」
抵抗を許さない、支配する眼差し。
それは。
自らも同様に支配されたことがある者でなければ、為しえない威圧だった。残酷な冬を所有する瞳。
「つば…き?」
何故かはわからない。
恐怖ではない。決して、そんなものではない。それなのに、泣きたくなった。
復讐の対象に、何故、こんな具合に謗られなければならないのか?
次第に平静を取り戻す少女の耳に、ある嗚咽が響いてきた。すぐ近くから。
泣いている。
自分を押し留める則人の腕が震えていた。毛虫は振り向いた。
則人は、少女の背に額を押し付けて肩を細かく震わせ、泣いている。
「紅葉…?」
毛虫は正気づいた。
「け、毛虫…怒る…よくない」
喉から搾り出すような声で、青年は告げた。
少女は、はっとする。彼はまだ山から降りてきたばかりだ。そして、自分の表情が彼にどんな影響を与えていたのか知れない。
「椿、喧嘩…よくない。殺す…良くない」
そう訴える幼子のような声に気勢を削がれる。一拍の間が置かれた。すると、フウリン士は膝を折った。
少女はその姿にようやく理性を取り戻した。
「おい…椿?」
遊清が駆け寄る。その肩を支えて引き上げる。椿の面には疲労と、苦痛が色濃い。
(…あ)
毛虫はようやく了解した。
『大嫌い!』も、『殺してやる』も、恐らくは、このフウリン士には実際的な攻撃となりうる。言葉が凶器になる。比喩ではなく、実際にそのように認識される領域の住人なのだ。
そして、それは恐らく則人にとっても同様の効果を与える。振り向くと、青年の頭に手を置いた。
そうだ。
こうして慰めてもらった。
彼は。
ずっと優しかったのに。
「ごめんなさい…」
よしよしとその頭を撫でる。
すると、青年からその震えが収まっていく。少女は深く吐息する。
椿を一瞥する。
苦しげに顔をしかめていたが、その視線を受けてフウリン士は少女を見上げた。非難ではない。けれども、悲しい眼差しで、少女を見上げた。弱りきったその瞳に、少女は押し黙った。
何も言えなくなる。
ここまで助けに来てくれたのは本当だ。わかっている。
わかっていながら…
少女は目をそらした。
遊清は二人の様子を見て何か気の利いた言葉を発しようと思った。だが、何も思いつかない。
「椿」
温かい声。
その名を呼んだのは、藤沢基だった。
「後は僕に任せて、君はこの子と帰りなさい」
義兄の声に、椿は顔を上げる。
「けれど…基さん」
「そうなさい」
その意味するところを理解する。ただ帰るように言われているのではない。話すと言った、殺せとまで言った、それを実行しろとは基は言わないだろう。けれども、少女を巻き込んだ、その責任をとるように…そう言われているのだと、わかった。
その優しい強制に、椿は口を噤んだ。




帰宅後。
掃除を許されなかった、椿の私室…黒岩邸の二階に上がることを、毛虫は初めて許された。
山の上の『紅葉』も、相当な作業場を持っていたが、これは異常だと少女は思った。
まず、壁が見当たらない。そして、壁の代わりに、ぐるりと空間を取り囲んでいるのは積み上げられた書物だ。東の一角に文机がある。
近くに火鉢がある。
丸い、井草の座布団を二つ敷いて、その片方に椿は毛虫を座らせた。
フウリン士は、その向かいに対座する。
「閏を目覚めさせるのは、私にしかできない…」
二人の間には、湯飲みが置かれてある。
けれども、手をつけることはないだろうことは、お互いにわかっていた。
「毛虫。これは全部、私が、あなたのお母さんを…目覚めさせようとして調べたものだ。けれども、離れながら、対象を感じることはできない。遠ざかった私が、どうやって知覚しようにも…」
「ちょっと待って」
毛虫は片手をあげた。
「これって?」
「この部屋の書籍すべてだ」
あまりにあっさりと告げられたので、毛虫は驚愕をあらわす機を逃した。
この書籍すべてがヒントを与える材料だというのか?
問わないうちから察して、椿は苦く笑った。
「資料なんかないからね。この感覚についての研究ははじまったばかりでね。しかし…似たような現象を見せる史実があるのではないかと、心当たりを紐解くうちに、こうなってしまった」
「……」
少女は押し黙る。
では、やはり知っていたのか。
「君のことは知っていたんだ。娘がいることは。つらい思いを強いているのだろうとも。だから、早く…と…」
「早く? 早く!? 何年かかっているのよ!」
どれほどの不在を与えてきたのか知っているのか?
わかっているのか?
母の不在のうちに、自分はこんなにも成長してしまった。唇を噛んで俯く少女に、フウリン士は視線を定め、繰り返す。
「私が彼女を目覚めさせることができたら…殺してもいい」
少女は相手を睨み据える。
「もとより、死んでもいいと思っていた。あの人を目覚めさせることができるのなら」
「嘘つかないで…」
怒りで、どうにかなりそうだ。
しかし、あくまで静かにフウリン士は言葉を綴る。
「君が君の手を染めるまでもなく、自ら命を断ってもいい。それがかなうなら…もとより、君が望んでいるのは単なる謝罪ではないとわかっていたよ…一目見た時から。だが、ただ殺して頂こうにも心残りだ」
少女は瞠目する。
「許してくれ。閏の名を口にするのも、私には、憚られることなんだ。君のお母様は…私の……何よりも敬愛する人…」
「…そこまで言うくせに、あんたはママのことしか考えてなかったってのね? あたしやパパのことは考えず…! 姿も現さず!」
しかし、このとき、椿の眼の奥に残酷な光が閃いた。
「閏のことしか考えてないのは、君も同じだろう…」
「……!」
虚を突かれた。
確かにそうだ。
閏のために。
殺したいとすら思っていた。
いや。もっと悪い。母の不在を強いられた自分のために…そのためだけに憎しみを募らせてきた。
けれども、何故そんな目をする?
自分こそ傷ついているとでも言いたげな目を…
「ママが何をしたっていうの?」
ずっと聞きたかったことを、少女は尋ねた。だが、返事は発せられない。
「椿?」
少女は、その顔を覗きこんだ。前髪が目元を覆っているために表情が伺えない。
「…何もしてない」
シンプルな回答だった。
「好きだったんだ」
低く、しかし響きの良い声がそう告げた。自分へ向けられた言葉ではないものを、何故か、毛虫は脈が速くなるのを覚えた。
「何もしてくれなかった…」
皮肉や揶揄をしか知らないと思われた唇が、単純で、そして、どうしようもないその感情をあらわにする。
「本当に…君のお母様が好きだった。好きで…あの頃の私は気がふれていた」
そして、自嘲の笑みを浮かべた。
「君の目論見は達成してるよ。あの人と同じ顔で…あの人以上に、私に近づいてきて。そのくせ、私を憎んでいるんだから……充分すぎるほど、君の報復は成功している」
「……」
ざまをみろと言いたかった。はっきりとそう思った。そして、思った以上に自分が影響していたことに…功を奏していたことに快哉を叫んでも良かった。しかし、それがいかにちっぽけな策略だったことか。
真向かいの椿の腕が伸びてきて、上体が傾ぐ。少女の座る位置の脇に掌が敷かれて、間近に顔が迫ってきた。
「あんまりいじめないで…」
耳に吐息の触れそうな近くで、そう懇願する声が響いた。
「……!」
吸い込まれそうな夜の瞳がある。
毛虫は動けなくなる。
その様子を見て、椿は仕掛けたいたずらに満足したように、ぱっと笑みを浮かべた。
「と、思ってたよ。ずっとね」
けれども、それがあまりに無邪気だったので、少女は何も返せなかった。構わずに、椿は続ける。
「…済まなかった」
フウリン士は目を伏せる。
その従順な姿勢。
何かぞっとするものを覚えて、少女は相手を見つめた。透徹した、孤独の眼差し。深い深い、奈落のような、その目を見た。その奥にはいったいどれだけの悲哀を蔵しているのだろう。どれほどの想いを抱えているのか、など…
(考えたこともなかった…)
こうして対峙して考えるのは、初めてだった。今まで考えていた、頭のなかにいた小雪屋椿は、頭の中の人物にすぎない。自分の憎しみの対象としての人間で、それはとても単純な性質の物質だった。だが、椿も物ではない。脳があり、手足があり、目があり、口があり、手指がある。意思がある。心がある…
自分と同じように、考えたり、ものを食べたり、話をしたり。
(さみしがることも…)
あるのか…
その実感は、少女のつま先からやってきて、やがて手指の先々へ、そして頭のてっぺんへと、冷静な血のめぐりとともに到達した。風が大地に行き渡り、あたりの草を波打たせるように、少女の心臓を波打たせた。
同情はしない。
心に強く、そう楔を打つ。
けれども、見る者の感性に訴える、その優美な瞼が瞬きした。
「君がそばにいることで、閏を感じることはできる…」
それは、静かな声だった。
アルトの、語るだけで子守唄に等しい響きを与えるその声。それが優しく懇願するのを、少女は聞いた。
「ご協力願いたい」
刺激の源泉として。
「…そんなに影響が強いの?」
「ああ」

『大嫌い!』

あの一言で、倒れるほどに?
とは、もう確認するまでもない。
「…言葉も、刺激になるの?」
「通常は何ともないね。ただ、あの人からの刺激は…私の感覚に強く訴える。君の声はあの人によく似ているから…でも、思った以上だったな」
「それで追い返そうとしたの?」
軽蔑を込めて、少女が非難する。
それでも、椿の目は揺らがなかった。
「当たらずとも、遠からず。驚いたんだ。あまりに…」
「……」
「お母様に似ているものだから」
その言葉に、少女は失望した。
「矛盾してる」
「…そうだね」
落胆した自分に、同時に衝撃を覚える。それから、決して表にあらわしようのない、真っ青な冷たい何かが胸に落ちていくのを感じた。
椿の眼差しは自分を見ていない。
この女は。
(あたしのものじゃないんだ…)
それを知った。それは、自分にとって、むしろ具合のいい実感でなければならないはずだった。だが、なぜかもわからない震えが指に生じる。
(どうして優しいの?)
大嫌い、て、言ったのに…
殺そうとしたのに。
(そんなにママが好き?)
いちいち、従順な今の椿の態度も何だか気に入らない。
(この顔が…)
無性にいらいらする。
(この顔で苦しめるつもりだったのに…)
それは効を奏していた。
(それなのに…)
少女の心に迷いが生じる。
(あたし…どうして、こいつを殺したかったんだっけ?)
わからなくなりそうだった。
(どうして…)
どうして?
その少女の手をとって、フウリン士が立たせた。その書斎の向かいの和室に入り、押入れを開いた。
「手伝ってもらえるか」
「え? え? えっと」
押入れに収まっている布団を見ると、既に身体が反応してしまう。二人で布団を敷きながら、毛虫は尋ねた。
「それで、どうするの?」
布団をすっかりおろした押入れに頭を突っ込んでごそごそやっていた椿は、桐の箱を引っ張り出した。
何故か、布団の上で正座になっている毛虫の前にそれを置いて紐解き、蓋を開いた。
「これは古音(こいん)という」
箱から、真綿で包まれたフウリンを取り出した。一重の花弁に、控えめな輪を描いて咲くシンプルな型だ。
「これを聞くと昔のことを夢に見る」
「夢?」
「そう。記憶したことを忠実に再現する。本人の意識にも上らない、忘れてしまったような映像の断片までを夢に再現する。そこまで完全な再現をする時点で、夢の役割からは外れるんだが…とにかくも、この古音は、売り物にはならないんだ。造り手の…私の記憶においてのみ有効だからね。そして、再現される夢を他者と共有できる」
「共有? どうやって?」
「こうやって」
膝に置いた拳に、椿が掌を重ねた。
「……!」
どう反応していいのかわからない。毛虫は、警戒をあらわにする。
「君の膝の上の拳を見てるとね。頑固な子だと思えてくる。閏にそんな癖はなかったけど…閏の子だと…よくわかるよ」
「椿。あたし」
今更。
今更、怖いとは言えない。
けれども、怯えた眼差しを返す少女を許さないかのような厳しい顔つきがそこにあった。
奈落の藍色。
つめたい、つめたい。
くらあい、くらあい。
「あなたは…」
少女が問おうとする。
あなたは、どんな恐ろしいものを見たの?
そう問おうとした。
しかし、それを許さずに、強く椿がその手を握り締めて引き寄せる。
「あっ」
体勢を崩してそちらへと少女は傾ぐ。フウリンを提げた、もう片方の手が性急にそれを揺らした。

りーいいいん…

鼓膜に響く、その音。
部屋にその音が響き渡る。
まだ。
待ってほしいと思っていた。
けれども、隙を与えられれば、それだけ不安が募る一方だ。
観念したように、少女の瞼が閉ざされる。少女の身体がのしかかってくるのをその腕で受け止め、庇うように抱きしめた。椿もまた、瞼をおろした。
自分を受け止めるその胸。
瘠せた体に、毛虫も腕をまわした。
押し当てた肉から、その内側から鼓動が聞こえる。
フウリン士の鼓動が。
「君を追い出すのはどうしてもいけないようだ。それはもう、君の意思や私の考えを超えた頭上はるかなところでね…どうやら時間が来ちまったんだと…わかっていた…」
泣いているのだろうか、と毛虫は思った。そんなはずはない。
けれども、その声が少しかすれているから、そうなのかもしれない。けれども、見ることはかなわなかった。
二人は共に横たわる。

(椿…!)

泣かないで。
それはあたしの役割だから。
あんたが泣いたら。
あたし。
どうしていいのか。
あたし。
あんたが…



「椿。あたしたち…」



(ママの声…?)



「もう、私のそばにいてはならないわ。椿。あたしたち、お互いにどこまでも離れていくのよ」

幻想ではない。
しかし、今、確かにそこにある世界でもない。
その名は過去。
刻まれた時間。
記憶。
相反する二つのうねりによって励起された、椿の根源。
それまでに堆積された時間のすべてが開放される。
堆積された時間とは、それまで経験されたすべて。
椿の脳に刻み込まれた経験だ。
少女は、その激しい奔流に一筋の生を見た。
蘇るーーー過去。
扉がひらく。
すべてが剥がされていく。
はっきりと、毛虫は、爪先に液体の感触を覚えた。
誰もが一度は浸かったことのある水。
つめたいーーー
ぬるいーーー
そして、あたたかい。

(これは…何?)

風?

星?

波?

ああ、これは水。

何もかもが流れていく。
流れながら唸りをあげる。
微細な振動。
そのなかに生命が宿る。

爪先からは足袋が脱げて、纏っていた帯もとけ、するりと体が着物から抜け出る。

どこかで、時計の音がする。
いや。
正確だ。
時計よりも、ずっと、もっと、正確な…
(ああ、そう…)
それは鼓動。
心臓の音。
(そうなのね? 椿…)

(これは、あなたの)

子供時代よりも、もっと以前。

(お母さんのおなかのなかにいた頃からの…)

すべての記憶。
その頃の感覚から、はじめなければならないというのか。そこから再生されなければならないというのか。そんなものまで覚えているのか?
明晰にすべてを忘れ去ることが出来ないままに記憶されているのだとしたら、常人であれば気がふれてもおかしくはない。
だが、それを緩和するために、そのぶれは…夢は生じる。しかし、ストレスになるほどの記憶が累積する以前から、あらかじめ用意されているもの。
それが夢感覚。

(この爪先に触れるもの)

あたたかなもの。
やわらかなもの。
これは羊水。

隙間が無い。
境界が無い。

(これは?)

どこまでが自分で
どこまでが椿か
わからない。

わからない。

これでは何もかもが一緒くただ。

これでは。

(あんたの)

(君の)

名前を呼ぶ必要も無い。

言語すらもない。

空が見える。

青い空。

(おなかのなかから空が見える)

(こんなことってあるの?)

(理屈ではない)

まずは目。

皮膚を通じて、ではなく…

空が働きかけてくる。

そこにあることを。

だから、わかる。

触覚――視覚――聴覚――嗅覚――味覚

わかる。

感じ取る理由。

世界が働きかけてくる…

人は生まれることで不自由になる。

胎内にあるうちの、その自由。

ああ。

すべてが見える。

すべてが聞こえる。

すべてが味わえる。

すべてが嗅げる。

だが、すべてに触れるには…

生まれなければならない。

(不安だったとも…生まれるのは)

(すべてに触れることができるようになったとき、私が何をしたいと望んでいたかわかるか?)

(逃れたい、と)

それだけ…

愛憎を越えたところへ。

逃れたい、と。

穏やかでありたい、と。

その時知っていた、自分の身を守るためのものはひとつきりだった。
それによって世界を溢れさせた。


(つづく)

『椿の花に雪のふりつむ』

『椿の花に雪のふりつむ』 玉置こさめ 作

  • 小説
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  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-03-20
CC BY-NC-SA

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