前科者

満開の夜桜と男

 ケイゾウが桜の花びらに埋もれた男の倒れているのを見かけたのは、ほんの二日前のことだった。
 満開の桜の樹が、街灯に照らされていた。その見頃を迎えた白い花々が美しい。白く浮かび上がる夜桜の下で、男は赤い顔をして目を閉じていた。笑みすら浮かべたその顔は、満足そうに見えた。
 プロのボクサー志望のケイゾウは、大阪にあるジムの練習帰り、その男のそばを通り過ぎた。珍しい光景にしげしげと顔を拝んだ。道路に仰向けになった酔っ払いに見えた。春の陽気に誘われて、どこかで飲んだ帰りだろうと思い、笑いをこらえて通り過ぎた。
 それが昨日になると、同じ場所から男は姿を消した。外は雨だ。朝方から降り出した雨に濡れて体が冷え、酔いも覚めたのだろう。男のいた跡は、くっきりとハンコを押したようになっていた。そこだけ桜の花びらが少なかった。
 今日になり、まさかその男がケイゾウのアパートの玄関に立ち尽くしている姿を見るとは思わなかった。玄関の呼び鈴を押したのは確かにその男だ。二日前に桜の樹の下で散ったピンク色の花びらを布団にして眠っていた男その人だった。
「ちょっとすまんが、トイレを貸してくれんか?」
 男は、二階建ての鄙びたアパートの一〇三号室の扉を勝手に開け、ぶっきらぼうに言った。
「ええ、いいですけど」
 答えると、男はすぐに巨体を揺すってのしのしと木の床を踏みしめ、トイレに入った。しばらくして出てきた男は手を洗いこちらを向いてニタニタと笑った。
「ありがとう、助かったよ」
 男は無精ひげをあいかわらず生やしたままだった。長居されると迷惑だった。体臭が臭く、空気を汚した。できれば風呂に入ってほしいとケイゾウは思った。
 ケイゾウはふとあることに気づいた。この男、最近どこかで見かけたぞ。えらの張った顔つき、独特な太い眉毛。三白眼。
「あんた、もしや強盗犯じゃないのか?」
 少し身構えた。相手も、明らかに目つきが鋭くなった。
「そうだと言ったら、どうする?」
 一瞬、危険な雰囲気に包まれた。だが、ケイゾウは怯まなかった。
「やっぱりそうか。交番のビラに貼ってあった人相とそっくりだ。心配するなよ。見逃してやる」
 内心しめた、と思った。この状況を逆に利用してやれ。ひそかに企んだ。この場で、取っ組み合うこともない、安全な方法だった。ただ、相手が素直に従うかはわからない。「いい話がある。あんたを見逃す代わりに、五万払ってくれ。そしたら、会わなかったことにする。警察に突きだせば十万円の懸賞金をもらえるんだ。それに比べりゃ、安いもんだ。だろう? 抵抗するならこっちだって、ボクシングで鍛えた腕を見せるぞ」
「五万か」男は腕組みをしてうーんと唸った。「三千円だけ貸してくれ。手持ちがないから」頭を下げて両手を合わせた。時間をくれ、必ず五万円用意する。そう約束した。ケイゾウは、男の身分証を質代わりに預かり、泳がせた。逃げようものならそれだけのやつだと思った。そもそも強盗相手に信用などしていなかった。
 三時間たった。男は白い封筒をもって戻ってきた。どうやら金を工面できたらしい。男の眼に鋭さを感じた。慌てた様子もない。
「この封筒に五万円が入っている。確かめてくれ」
 ケイゾウは差し出された封筒を開けた。中身を確かめた。封筒には一万円札が五枚、言われたとおりに入っていた。
「ああ、確かにある」
「これで文句はないだろう」男は自慢するように顎を手で撫でた。
「よく集めたな」
「なに、ちょっと腕と運があっただけだ」
 ケイゾウは、男が駅前のパチスロに行き、稼いできたのではと思った。あり得ない話ではなかった。この駅周辺には複数のパチンコ屋がある。
「約束は守った。身分証はもらうぞ」
 男は預けた身分証をケイゾウの手からふんだくった。それもケイゾウには本物とは思えなかった。男はズボンのポケットからマスクを出すと、周囲を警戒したあと、アパートからさっさと逃げ出した。ケイゾウは姿を見送り、警察に電話をかけた。卑怯なやり方ではあった。しかし、犯罪の容疑者をのさばらせておくわけにはいかない。男にどう思われようと、一市民の知ったことではない。
 まもなく、警官が三人連れでケイゾウのアパートを訪ねてきた。指名手配の男のビラを見せて男の姿と特徴を訊ね、通報内容が捜査上の容疑者と一致しているのを確認すると、アパートを飛び出していった。
 警察が出ていってから、ケイゾウは頂いた五万円を財布に入れて、悦に入った。 何度目かの春に、いいことがあった。へへへ。舌を出して笑ってみた。

 白いマスクをして逃走中の男も、舌を出して嗤っていた。五万の金ぐらい用意できなくて強盗が務まるかよ。男は、金回りの良さそうな紳士を尾け狙い、カツアゲを犯していた。そんなことは朝飯前だ。犯罪に走れば、その程度の金はすぐに用意できる。強盗の前科が何件もある犯罪者だ。まっとうに金を稼いで返すのなら、そもそも犯罪に手を染めない。
 結果的に、ケイゾウと会ったことで、男の前科は一つ増えただけだった。

前科者

前科者

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-03-19

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