海茸薬

海茸薬

茸短編小説です。PDF縦書きでお読みください。


 夏ももう終わろうとしている。秋の気配の雲が青空に薄く筋を描いている。
 そんな土曜日の午後のことである。
 彼はいつものように、防波堤に腰掛けてのんびりとハゼ釣りをしていた。
 手元のアイスボックスには海水しか入っていない。まだ一匹も釣れていなかったのである。
 遠くに見える「異の島」がやけに赤っぽく煙って見える。
 異の島は無人の小さな島である。島には幾つか洞窟があり、その昔、不思議な人々が暮らしていたという言い伝えがある。今では、理由は分からないが立ち入りは禁止にされている。ある老人の所有している島だとも噂されているが、すべて噂、噂で本当のところは分からない。島に近づくと、黒っぽい舟が忽然と現われ、注意をするという。今では誰もいこうとする者はいない。
 正式な島の名前は聞いたことがない。その大昔、流れ着いた異人が住んでいた島だったからという説や、江ノ島のような島影からそう呼ばれたという説もある。
 その異の島が赤く燃えるように見える。大気の関係なのであろう。
 彼の目はぼーっと異の島を見ていた。
 そのとき、竿をもつ手が微妙に震えた。きた、だけどハゼの感覚ではない。
 彼はすっと竿を持ち上げた。
 赤いものが宙を舞った。大きなごみか。
 ところが、ひゅっと手元に飛んできたのは赤い茸だった。
 子猫ほどもある大きな茸が手元に飛び込んできた。
 海に茸が生えていることはないだろうし、何処からか流れて沈んでいたのが引っかかったのだろう。だが、赤い茸を手に取ってみると、みずみずしく、採り立てのように張りがある。
 針の先の餌のゴカイはなくなっている。
 ままよ、と、茸を堤防の上にころがした。
 また大きめのゴカイを付けて糸を垂れた。そのとたん、いきなりぐいっと引きがきた。これもハゼではない、もっとでかい魚だ。
 彼はハゼ用の細い竿が耐えるかどうか心配になった。ぎゅうっと竿が曲がった。ポチャンという音とともに海面に水の輪ができて、魚があがってひらひらした。
 なんと平目だ。その後は、嘘のように魚が喰いついてきた。おかしなことに、ハゼ釣りの仕掛けで、鯵や烏賊までもあがってきた。こんなにいろいろなものが釣れるのは奇妙だ。クールボックスの中はずいぶんにぎやかになった。
 さあ、これで引揚げようと、最後にあげた釣竿の先には、なんと、大きな赤い魚がひらひらと躍っていた。鯛である。しかも鯛はサザエも咥えている。鯛とサザエを同時につかまえてしまったのである。
 不思議なことだ。
 地平線に浮かぶ異の島が夕日に映えてさらに赤く光っていた。
 アイスボックスをのぞいてみた。鯛はまだぴちぴち跳ねている。
 彼は腰を上げると堤防に転がしておいた赤い茸もアイスボックスに放り込んだ。
 今日は久しぶりにビールでも飲もうかという気になってきた。

 防波堤から歩いてほんの十分ほどのところに彼の家があった。
 父親は漁師だったが、彼が大学在学中に海難事故で亡くなり、その後、母親も心筋梗塞であっけなくいなくなった。大学を出た彼は市の職員として地元に戻った。一人っ子の彼は両親の残した小さな家に一人で暮らしている。
 アイスボックスを担ぐと堤防を下りて、道路を横切った。倉庫の脇を歩いていくと、なんとなく、後ろから何かがついて来るような気がして振り返った。
 夕日を浴びて倉庫の白い壁が橙色に染まっている。特に何もいない。野良猫でもいたのだろうか。
 彼はしばらく歩くと、漁師さんの家が立ち並ぶ一角にたどり着いた。そこに彼の家もある。
 家の木戸を開けると、庭で遊んでいた飼い猫の鮑(あわび)と蝦蛄(しゃこ)と昆布(こんぶ)が彼を見つけてかけよってきた。この三匹は野良猫が縁の下で産んだ子供である。親は子供たちがまだ小さい時に突然帰らなくなった。どこぞで自動車事故にでもあったのだろう。
 それがちょうど彼が家に戻ってすぐの頃であった。猫好きの彼は三匹を飼うことにした。みんな雄でやんちゃな猫たちだ。
 玄関の鍵を開け中に入ると、猫たちも後についてきた。
 「今日はいろいろ獲れた、わけてやるぞ」
 彼は猫に声をかけると、クールボックスから魚や烏賊やサザエ、獲れたものをすべて台所の流しに並べた。みごとである。赤い茸も摘まみ上げると流しに置いた。
 魚をボールに入れて洗い、烏賊と鯵は刺身にした。猟師の父親から魚のさばきかたは教わっている。サザエも折角だから焼くことにした。ご飯はすでに炊けている。鰈と鯛は新鮮でそのまま食べたいが明日だ、煮付と網焼にしよう。
 いつもは台所のテーブルで食事をしてしまうが、彼はちゃぶ台を庭に面した居間にしつらえた。縁側のガラス戸をあけると気持ちのいい風が部屋の中に入ってくる。庭の木々が風にそよいで涼しそうだ。
 刺身にした魚の残りを十分に食べた猫たちは、庭木の下で顔を洗っている。
 刺身や焼いたサザエをちゃぶ台の上に並べた。
 小さな電気ガマを脇にもってきた。
 彼はビールの栓を抜いた。
 酒を呑みたくなるのは久しぶりだ。一杯グーッと飲んだ。喉のところを細かな冷たい泡がすーっと通り過ぎた。ホップの香が鼻からふーっと戻ってくる。うまい。
 彼は声に出した。
 庭の草がゆらゆら揺れている。
 烏賊の刺身に箸をもっていった。口に運ぶ。烏賊の名前はわからないが、歯ごたえがあり、なんともうまい。新鮮すぎてとろみがちょっと少ない。
 サザエはいい味だ。ビールがすすむ。
 鯵の刺身に箸を伸ばしたとき、縁側の前に大きな動物がふっと現れた。どこぞの犬か、いやアザラシかと、びっくりして彼が見ると、上半身を露にした、長い黒髪を伸ばした女性が、犬のようにおちゃんこをして彼を見ている。
 彼は女性を見たまま固まってしまった。
 大きな眼をした女性は彼を見ると微笑んだ。小振りだがいい形の乳房が少し揺れた。
 晩熟の彼はやっと「えー」と、言って箸を置いた。
 女性はひょいと、縁側に飛び上がってくると、彼の前に擦り寄ってきて、白く細い手を伸ばすと、ビールを彼についだ。
猫の鮑も、蝦蛄も、昆布も彼女のそばによってくると、眼を大きくあけて見上げた。明るいのに、なぜか猫たちの瞳孔が真っ黒に大きく広がっていた。
 「かわいい」
 そういいながら彼女は猫たちを見た。髪の毛の先から水が滴り落ちて、畳を濡らした。
 彼は言葉も出ず、ビールを飲み干した。
 彼の眼には女性の下半身が映っていた。足がない。尾がある。鰭がある。
 なんだ、これは、幻覚か、人魚じゃないか。
 彼は人魚を見た。人魚はただ微笑んでいる。
 鮑が人魚の後ろにいくと、尾鰭に噛み付いた。
 「きゃ」
 人魚があわてて、尾を前のほうにしまうと、鮑の頭をたたいた。鮑はすごすごと彼のほうに戻ってきた。
 こんどは、蝦蛄が人魚の鱗をはがそうと前足をかけた。
 「痛」
 人魚はまたしても蝦蛄の頭をたたくと、彼のほうににじり寄ってきた。
 次は昆布の番だ。昆布は人魚の前に回ると、乳首に噛み付こうと飛び上がった。
 これにはさすがに、彼がコンブの頭をたたいた。
 人魚は両手で乳房を隠した。
 彼は、夢だ夢だと思いながら、そばに来た人魚を見た。
  人魚も彼を見た。
 「あたしの、大事なものを返して」
  彼は夢の中での出来事と思いながらも聞き返した。
 「大事なものってなに」
 「茸」
 「え」
 「島に生えていた私の大事な茸が、いじめっ子のイズ頭に引き抜かれて海に流れてしまったの」
 ああ、あの赤い茸かと彼は思い出し、立ち上がると、忘れたまま流しにころがっていた赤い茸を持ってきた。
 赤い茸を受け取った人魚は、茸を抱きかかえるように胸に押し当てた。
 「ありがとう」
 人魚は、尾を左右に降りながら、大喜びで庭先に下り、
 「さよなら」と木戸から出て行ったのである。
 何が起きた。夢で無くて何なのだろう。彼は猫たちの頭をなでた。それしかすることがなかった。
 ちゃぶ台の上を見た。鯛の刺身がのっている。鯛を刺身におろすのは大変なので明日焼いて食べようと冷蔵庫に入れたと思ったのだが。冷蔵庫をのぞいてみると鯛がなくなっている。
 二本目のビールがちゃぶ台の上に出ている。いつの間に。あの人魚の仕業なのだろうか。
 ともかく、夢でも何でもいいから、とビールをついでクーっと飲むと、やっぱり旨い。
 刺身を口に運ぶ。なんと新鮮だろう。歯ごたえがあって味がある。
 その日は、夢の中の気持ちで布団に入っていた。
 
 次の朝早く気持ちよく目覚めた。日曜日で仕事は休みである。天気もよさそうだ。起き上がると、風呂のスイッチを押した。いつも朝風呂である。この風呂場は家の割りには作りが大きかった。死んだ親父が風呂道楽で、大きな桧の湯船があった。それに戻ってきた彼が、今風のガス風呂沸かし器を設置したのだ。
 出始めたばかりの梨をむいて、紅茶の用意をする。テレビをつけてニュースを見ていると、風呂の沸いた声がする。新しくしつらえた風呂は沸くと湧きましたと女性の声が流れる。
 彼がパジャマを脱いで、風呂場に入って、はっと、前を隠した。
 人魚が赤い茸を胸に抱いて風呂に浸かってニコニコしている。
 「お風呂ってはじめて、気持ちがいい」
 人魚が彼に向かって微笑んだ。
 彼はあわてて、脱衣場に戻るとパジャマを着た。
 「一緒に入ろう」
 人魚が言うのが聞こえた。
 彼は着たパジャマをまた脱いだ。何をやっているのか自分でも分かっていないのだろう。目がうつろだ。
 タオルで前を隠して湯船の前に立った。
 人魚の前でどうしようかと立ちすくんでいる彼の前に手が伸びた。
 人魚の手がタオルを取り上げてしまった。
 赤い茸は風呂の中でぷかぷかしている。
 人魚が彼の前を見た。
 「なあに、これ」
 大きくなったものを見て、人魚が不思議そうに言った。
 彼は手で前を隠した。
 「入ってきて」
 人魚が言った。
 大きな風呂桶なので、二人でもゆったり入れる。
 彼は湯に入った。人魚が尾鰭を前に折り曲げて彼の尻の下に滑り込ませた。彼はお尻を上げると人魚の尾鰭を下に敷いた。人魚をまたぐような格好になった。目の前に色白のぽっちゃりした人魚の顔がある。
 赤い茸がぷかりぷかりと、彼の顔のところに漂ってきた。
 人魚はかわいらしい口を開くと、彼の顔に、はあーと白い息を吹きかけた。
 彼はそれを吸い込むと、いきなりからだが緊張して振るえ、頭がキューンと気持ちよくなって、風呂の中に放精した。すると、人魚が尾びれを細かく震わせた。人魚の前のほうから白い泡が湯の中に立ち湧いた。放卵したのだ。
 人魚の顔に恍惚の表情が表れた。
 しばらく二人ともぼーっとしていたが、人魚が大きな目を彼に向けて言った。
 「そーっと、お風呂から出て頂戴」
 彼はゆっくりと立ち上がると洗い場に出た。
 人魚は赤い茸を残して、ゆっくりと立ち上がると、湯船から出てきた。
 彼はタオルで人魚のからだを拭いてやった。乳房を拭いてやると、人魚はまた恍惚の表情を見せた。彼もまた放精してしまった。二人でシャワーを浴びた。
 彼は湯船を見た。無数の小さな卵が表面に浮かんでゆらゆらしている。
 「しばらく、お風呂に入らないでね」
 人魚はそう言って、風呂場から出た。湯上りタオルで自分のからだを拭いている。彼がまたしてもぼーっとしているうちに、廊下のガラス戸を開ける音が聞こえ、人魚が帰っていくのがわかった。
 彼ものろのろとからだを拭くと、パジャマを着て、また布団に入って寝てしまった。
 それから、彼が目を覚ましたのは昼過ぎであった。
 人魚と風呂に入ったなどというのは夢しかない、頭の隅でそう思っていた彼は風呂場をのぞいた。
 桧の湯船にはメダカほどの魚がたくさん泳いでいる。
 目を近付けてみると、メダカの顔が彼に似ている。人魚に似ているものもいる。この人魚の子供たちは赤い茸に群がって突っついている。赤い茸は子供たちの食べ物のようだ。赤い茸は穴があけられ、ぼろぼろになっている。
 自分もまだ朝食をとっていない。たしかにお腹がすいた。昼と兼用だ、そう思って、キッチンに行くと、テーブルの上に目玉焼きと、コーヒーとトーストが用意されていた。人魚がつくってくれたのだろうか。彼はテーブルにつき、用意されているものを食べた。とてもおいしい。
 食べ終わった彼は洋服に着替えると、また、風呂場に行った。
 人魚の子供たちはもう金魚ほどの大きさに育っている。成長が早い。赤い茸の頭はもうなくなっていた。
 その日は不思議な気持で、何をして良いのやらわからず、ただボーっとすごしていた。いつの間にか夕方になっている。庭を眺めていると、木戸が開いて、人魚がにこにこしながら入ってきた。
 彼はもじもじしながらも顔は綻んでいる。
 縁側から上がってきた人魚が包みを差し出した。
 「おみやげよ」
 「あ、どうも、いや、ありがとう」
 彼が受け取って包みを開けると、本物の鮑と蝦蛄と昆布が出てきた。
 彼の家の猫の鮑と蝦蛄と昆布は人魚のそばに駆け寄った。
 人魚が猫の頭をなでた。猫たちは人魚に擦りついた。
 「元気かしら」
 人魚は尾鰭をたて、からだを前後に揺らしながら風呂場に行った。湯船の中では金魚ほどに育った人魚の子供がゆらゆらと湯の中で揺れている。
 人魚が湯船をのぞくと、子どもたちは一斉に人魚を見た。
 「元気ね、今海に放してあげるわね」
 人魚は子供たちに声をかけた。子供たちもうなずいている。
 人魚は後ろを振り向いた。
 「手伝ってね、クーラーボックスお願い」
 彼がクーラーボックスを持って風呂場に行くと、人魚が、
 「優しくすくってくださいな」
 と洗面器を渡した。
 彼は湯船にゆっくりと洗面器を入れると、その中に何匹、いや何人かすくい取り、それを静かにクーラーボックスに移す。
 人魚の子供たちは、赤い茸を食いつくし、お腹が減っているようだ。
 クーラーボックスには三、四十匹しか入らない。海まで何回か往復しなければならないだろう。
 彼がクーラーボックスを肩に掛け、揺らさないように気をつけて海に向かった。人魚も一緒に出たのだが、姿が見えなくなった。人に見つからないような道を知っているのだろう。
 漁港の浜辺に来た。いつの間にか後ろに人魚が追いついて、海の中に滑り込んだ。「放して下さい」
 人魚が海面から顔を出して彼に促した。
 彼はクーラーボックスの蓋をあけると、斜めにして子供たちを海に放した。
子供たちは海の表面をぷかぷか浮いて彼を見た。彼にそっくりな一人が「パパ、ばいばい」と言った。
 みんなも
 「パパ、ばいばい」
 と声をそろえた。
 たくさんの亀が浮いてきた。
 亀たちは子供たちを取り囲み、沖のほうに泳いで行った。
 「また持ってきてくださいね」
  海中から人魚が顔をだした。
 彼はすぐにクーラーボックスに一杯の子供たちを運んできた。同じように海に放した。そのたびに、亀が浮いて出てくると連れて帰った。三回ほど往復すると、湯船には人魚の子供がいなくなった。
 最後の一人をクーラーボックスから海に放すと、人魚は笑顔で、「ありがとうございました、また来ます」と亀とともに海の中に消えていった。
 こうして日曜日が終わった。あまりにも不思議な出来事である。
 
 その日は市役所のイベントがあり、休みではなかった。それどころか仕事が忙しく、家に帰るのは夜になった。
 玄関を開けると、風呂場のほうがなにやら賑やかである。にゃにゃ、にゃにゃとへんな猫の鳴き声がする。
 電気をつけて風呂場をのぞくと、人魚が三匹の猫と一緒に風呂に入っている。
 「お帰りなさい、パパさん」
 人魚が彼を見て笑った。
 見ると、人魚と猫の間に大きな茸がぷかぷか浮いている。今日は青い色をした茸だ。
 人魚は三匹の猫たちに、はーっと、白い息をかけた。鮑がニャーオウと長く啼いたと思うと、蝦蛄と昆布もニャーオウと長く鳴き、風呂の中に放精しているようだ。人魚も昨日と同じように、恍惚となって放卵した。しばらくすると、三匹の猫は風呂から出てきて、からだを震わせ、水を切ると、彼を見上げてニャアといつものように鳴いた。
 人魚が湯船からあがると、タオルで猫たちのからだを拭き、自分も拭いた。
 「お風呂お借りしました、朝までそのままにしてくださいね、夕ご飯用意しておきました」
 と帰っていってしまった。
 キッチンには刺身や海藻の料理が並んでいた。殻つきのウニまであった。冷蔵庫を開けると見知らぬメーカーの缶ビールが入っている。猫の皿にも刺身がおいてあった。
 彼は着替えるとテーブルについた。
 一緒に食べていけばいいのにと思ったが、人魚はこういうものを食べないのかもしれないとも思った。
 日曜日の朝、起きるとすぐに風呂場をのぞいてみた。メダカほどに育った人魚が青い茸を食べて、風呂桶の中でうようよ泳いでいた。
 よく見ると人魚ではなかった。みんな顔は猫だった。猫魚だ。猫魚がうじゃうじゃいた。
 人魚がやってきた。
「夕方になったら、また、海に放してくださいな」
 彼がうなずいたら、人魚はすぐに戻って行ってしまった。
 夕方になると、大きくなった猫魚をクーラーボックスに入れ、漁港の砂浜に持っていった。鮑、蝦蛄、昆布、三匹の猫がついてきた。
 浜辺に来ると海の中から人魚が顔を出した。
 「こっちに放して」
 彼はクーラーボックスを傾けて、猫魚の子供を海に帰した。
 三匹の猫がよってきた。猫魚の子供たちは猫にむかって小さな梅の花のような手の平をあげて、
「にゃああ」と鳴いた。三匹の猫がニャアアリと長く鳴いた。また亀が海から現れると子供の猫魚を連れて海に潜っていった。
 彼は何回か往復するとすべての猫魚を海に放った。
 「ありがとう」
 周りに人がいないのを見て、人魚が浜にあがってきた。
 「私、あと一回しか来れないの、昨日はあなたがいなかったから猫ちゃんたちにたのんだの、次の土曜日はどうかしら」
 次の土曜日は仕事を休むと彼は約束をした。何がなんでも休むぞ。
 「何処に帰るの」と彼が聞くと、
 人魚は異の島を指差して嬉しそうに戻って行った。

 次の土曜日、朝早くから人魚は大きな黄色い茸を二つ抱えてやって来た。
 「今日はずーっとお風呂に入りましょう」
 人魚は、風呂の中にざぶんと飛び込むと顔を湯の中に沈めた。
 「はやく」
 彼も風呂の中に入った。
 人魚と彼は何度も放卵と放精を繰り返し、風呂の湯の中ではたくさんの卵が浮かんでいた。真ん中に黄色い茸が二つふらふらと揺れている。
 気がつくと、もう夕方になっていた。お昼も食べずに風呂に浸かっていたのだ。
 その日、人魚はいろいろな料理を作った。見たことのない蟹や海老がテーブルの上に並んだ。
 帰ろうとした人魚に彼が聞いた。
 「君は食べないのかい」
 人魚は黒い目を彼に向けて、
 「私はもう死ぬまで食べないの、人間は食べないと死んでしまうでしょう。人魚は一歳まで茸を食べてないと死んでしまうけど、あとは何も食べなくていいの、八百歳になると死んでいくの」
 風呂場では初めての時と同じように、人魚の顔の子供と、彼の顔をした子供がうようよと泳いでいた。
 黄色い茸が突っつかれて半分ほどぼろぼろになって浮いている。
 「明日、この子達を海に放してくださいな、私はこれから、今までの子供たちの世話に戻ります」
 「あの子たちはどこにいるの」
 「異の島の洞窟の一つの奥に海水湖があって、そこで育っているのよ、茸が周りに生えていて、私がそれを採ってあの子達にあげるの、でも余り生えない貴重な茸なの」
 「イズ頭ってなんなの」
 彼はそいつが茸を採っていってしまったと人魚が言っていたのを思い出した。
 「イズ頭は悪い海坊主、海坊主も親切なのと意地悪なのがいるのよ、イズ頭は悪さをするのでみんな困っているの、でも、今はあの亀さんたちが守ってくれているのよ、それではお願いします」
 そう言い残して人魚は帰った。
 彼は人魚にもっといて欲しいと思ったが、口に出せなかった。

 あくる日の日曜日、夕方になってから、茸を食べて大きくなった人魚の子供をクーラーボックスに入れて漁港に運んだ。
 人魚がすぐに現れて手を振った。
 「こっちよ」
 彼はクーラーボックスを傾けて、人魚の子供を海にいれた。
 子供たちは彼を見上げて、パパ、ばいばいと小さな手を振った。
 彼もばいばいと言って、次の人魚の子供たちをとりに戻った。
 最後のクーラーボックスを傾けると人魚がそばまで寄ってきて言った。
「ありがとうございます、私たちは一生に一時だけ、子供をつくることができるの、その時に、動物たちと出会わないと子供ができないの、あの島にいた人魚はみんな死んでしまい、私一人が残されていたの。今年私は七百歳になって子どもを産む歳になったの、だから人と出会いたいと海岸に来たらあなたが釣りをしていたの。それでお家まで付いて行ったのよ。でもおかげで、子孫を残せました。あの島はこれからあなたの子供と、猫ちゃんの子供の島になるわ。あなたと猫だけは遊びに来れるのよ、いつか来てください、私は後、百年は生きることができます。子供たちと一緒に待っています、さようなら」
 人魚は手を振った。
 彼も手を振るしかなかった。言葉が出なかった。
 彼は家に帰ると風呂場をのぞいた。湯船には一人の人魚の子供が残っていた茸をつついている。彼女にそっくりな一人を、彼は残しておいたのだ。
「茸が無くなったら、この子には何を食べさせたらいいのだろう」
 彼ははじめて未来を心配した。子供を持ったからだろうか。
 不思議な三週間だった。

 それから三日目のことである。知らない人から電話があった。大事な話があるので家に来たいということだった。ちょっと躊躇したが、きちんと名をなのり、電話番号も明らかにした。その上、話し方が丁寧で切羽詰った感じがひしひしと感じられたので、仕事が終えてから家に来てもらうことにした。
 夜になり、やってきたのは、痩せていて、しかし、生真面目そうな風貌の老人だった。
 風呂敷包みをかかえた老人は「お邪魔する」と入ってきた。細長い顔に白いアゴヒゲが胸まで伸びている。
 居間に通すと、老人はテーブルの前に座り、風呂敷包みをといた。
 そこには、茸の形をした茶色い瓶があった。粉が詰まっている。
 老人が言った。
 「これは無粋に申し訳ありませんな、いきなり家に上がりこみ、こんなものを目の前に出すなど、奇妙に思われたことでしょうな」 
 そう言った彼は、自分から名乗った。そして、異の島の持ち主であることも明かした。
 彼の話はこういうことであった。千年もの昔、まだ、平安時代のことだそうである。その頃、人魚は一つの人種として、いろいろな島に住んでいたということである。文献こそないが、哺乳類は魚類から直接進化したということだろう。平安時代の貴族は、島の人魚たちと付き合っていたということである。老人の先祖は、平安時代に人魚との連絡をする役割を担っていた貴族だったそうである。
 その頃、人魚の一人が老人の先祖に懸想をし、子供を産んだ。しかし、子供を産むことのできる人魚がいても、産んだ子供はことごとく、海の魚たちに食べられてしまい、育つことはなかった。先祖が残した子供たちも、次々に死んでしまい、一人の娘しか残らなかった。それが、昨日、彼のところに来た人魚なわけである。たった一匹の人魚が七百年、異の島に生きていたのである。
 それを見守っていたのが、老人の家であった。もう十数代に渡り、異の島を管理している。あの人魚は先祖の残した子供であった。
 老人は言った。
 「あの島には、珍しい生き物もいるが、珍しい茸が生えますじゃ、それは人魚の子供の食べ物となります。それはご存知じゃな。もしその茸を人が口にすれば、寿命が延びるだけではなく、どんな病も癒えるほどの力を持つものなのですわ」
 老人は続けた。
 「その茸を年に一度、人魚が届けてくれましてな、わしはそれを乾燥させて、粉にして薬にしますのや、代々そうやって、海(かい)茸(じ)薬(やく)という名で売っております。それを飲みますとな、一服で癌などあっという間に治ってしまいますのや」
 彼は茶色い瓶を彼の前に出すと、
 「これで、百服あります。ぜひ、これをミルクに混ぜて、飲ましてやってください」
と頭を下げた。
 「え」
 彼は老人を見た。
 老人は目の脇に皺を寄せて頷いた。
 「わかっております、あの人魚、杏(あんず)と呼んでいますが、杏から聞きました」
 「なにをでしょう」
 「あなたが、自分のところに人魚の子供を一人残したことをです、杏はこの茸の粉を飲ませないと死ぬといっています。是非可愛がってやってください」
 彼はそれを聞いてあわてた、あの人魚は子ども一人残したことを知っていたのだ。
 老人が言った。
 「杏は一人足りないといっていました」
 人魚は子供の数を数えていたのだ。風呂場にいたのは長い時間ではなかったはずなのに、母親はすごいものだ。
 人魚の子供が何も食べず二日経っている。海に返そうかとも思っていたところである。彼は冷蔵庫から牛乳を取り出すと、小ぶりのコップに入れた。
「どのくらい、茸の粉を入れたらよいでしょう」
 「耳かき一杯です」
 老人が言った。
 彼はコップのミルクに耳かき一杯の海茸薬を入れた。
「こちらにいます、会ってください」
老人を呼んだ。
 老人はまた顔に笑みを浮かべ立ち上がった。逢いたくてしょうがないという顔をしている。
 風呂の戸を開けると、湯船から人魚の子供が顔を上げた。鯉ほどの大きさになっている。にこっと笑うと杏とよく似ている。老人を見て、
「おじいちゃん」と言った。
 老人は湯船に駆け寄ると涙を流した。
 「かわいいな杏そっくりだ。お前さんの子供でもござんしょう。わしの孫のようなものでもございます」
 彼は海茸薬入りのミルクが入ったコップを人魚の子どもにわたした。人魚の子供はコップを抱えると大喜びで飲んだ。
 「どうです、あなた、私の養子になって、あの島を守ってくださらんか」
 老人のいきなりの提案に彼はとまどった。
 「わしには一人娘がいて、杏といいました。それが婿をとって、あの島を守ってくれるものと思っておりましたら、なんと自動車事故にあい、あっけなく死んでしまいましたのじゃ、もう三十年も前のことになりますな、家内はその後、病で死ぬし、わし一人になりました。わしはときどき異の島に行きますが、人魚にはよく会いました。それで娘の名前を人魚につけたのです。
 人魚の杏は私の娘が死んだこと、家内が死んだことを知って、不憫に思ってくれたのでしょう、わしの家を訪ねてくれたのじゃ。そのとき、わしの家内が病気だと知っていたら早く持ってきたのにと言って、この茸をくれました。それを乾燥させて粉にして飲めばどんな病気でも治ると申しましてな。その後、年に何度か茸を持ってわしの家に来ましてな、料理などもしてくれるようになったのです。わしは茸を粉にし、薬として売り出しました。よく効くのでたいそうな値段で売れるようになりました。日本では薬は許可なしには簡単には売れません。知っている人だけが買いにきます。むしろ外国から注文が来ます。
 代々の大きな家は私一人では使いきれません。あの島はセキュリティー会社に委託しております。誰一人入れてはいけません、世間に知られると人魚が見世物になります。私は人魚という人種というかそういう種類の生きものが昔のように海に栄えて欲しいと考えています。杏はあなたの子供がたくさん生まれたと申しておりました。それに猫たちの子たちもです]
 彼は、そこで息継ぎをした。
 「あなた、わしの養子になって、海茸薬を売って、あの島を守ってくださらぬか、あの島はあなたの子どもだらけになるのですぞ」
 彼はうなずいた。
 こうして、彼は人魚の子供をつれて、彼の家に入った。もちろん三匹の猫も引き連れてである。
 海に面した大きな家でたくさんの部屋があった。異の島も見ことができる。人魚の子供用の風呂場も作ってくれた。
 人魚の子供がもう少し大きくなり、水から出て、陸でも動くことができるようになったら、一緒に杏に会いに行こうと思う。子どもを異の島に返すのである。
 彼は今、老人から茸の乾燥の方法、粉にして薬にする方法を教わっている。老人は彼に結婚をすすめている。この家が継承されるように願っているのである。
 彼はもし、自分が奥さんをもらうとしたら、杏が気に入った人にしようと、心に決めたのである。
 その前に、この人魚の子供の名前を考えなければならない。異の島にいる子供たちの名前も考える必要があるであろう。いっぺんに何十人もの子どもを持つ親になるのである。子供たちの名前も杏に相談しよう。
 明日にでも老人と一緒に異の島に渡ろう。杏も喜ぶだろう。
 彼は窓から見える異の島をながめた。
 三匹の猫がそばによってくると、一緒に、異の島を見ている。
 猫も一緒に連れて行かなければ、彼は三匹の猫の頭をなぜた。

(「海茸薬」所収、2017年自費出版 33部 一粒書房)

海茸薬

海茸薬

人魚と茸の物語

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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