*星空文庫

処女宮

石田大燿 作

 それは多分、恐らく、ランナーズハイというやつだった、気がする。
 なんだか進んでいる途中で、自分の心臓の音さえ、聞こえるような気になって、それ以外の音はだんだん、どうでもよくなっていたような気がした。
 上下する視界の中で、僕はなんだか、生きていること自体が、ごく自然なことに思えてきて、このままだと、ぴゅうっと飛んでいきそうな気さえ起きていたような気さえする。
 スペースシャトルとか、何でもいいけれど、どこともなく飛んで行って、揚力とかそういうものを自然と体が受け入れていって、飛んでいくような感じ、そんなことを想像して、足を動かし続けると、なんだか自分の体すらないような気さえ起きてくるようだった。

 結局僕という人間が、普段、絶対走ろうとか、思いつきそうもない人間が、意味もなく走り出そうと思ったのは、ただ単に、電車に間に合わなそうになかったからだった。
 それをしている途中に、嬉しいとか悲しいとか、そう言う感情は、何もなかった。
 なんだか、ふっと頭から自分が抜けていきそうな感じ。

 じんちゃんは、弦の伸びきったギターを弾く。
 「そんなギターで何かを引いても、音楽らしく聞こえない。」
 と僕はじんちゃんに言った。
 けれどもジンちゃんは目隠ししていて、耳栓までしていたから、こっちの話などは全く聞こえていそうになかった。
 僕はそのじんちゃんの姿が目から離れなかった。何日過ぎても、何処か目のおくに焼付いてしまったみたいだった。
 それはどこか、人生そのものみたいな気がしてならなかった。

 その数分前くらいに、僕はいつの間にか、周りに僕自身しかいないのを感じた。さらにその数十分前に、ジンちゃんが病院で息を引き取ったと連絡が入った。
 僕はお悔みを申し上げるでもなく、ただ、黒い風みたいに走った。タイムリミットはもうすぐそこまできて、僕が電車に乗ることを、拒むみたいに、ざわざわと木々が揺れ続けているけれども、なんだか体の芯が火照っていて、自分でも鳥肌が立つくらいに、早く走っている気がした。

 街灯が揺れる。
 遠くの方で踏切の叫ぶ音が木霊みたいに反響して、左右に揺れている。
 多分明日僕は死ぬ。そんなことを予感めいて感じていて、なんだかあったかくなってきて、もうジャンパーも要らないくらいぬるく湿っていて、遠くのビルが放つ小さな光の数々が、どうしようもなく銀河系に見えて来た時に、僕はなんだか未来の宇宙飛行船になったような気がした。
 僕はおそらく光速も越えて、時間さえも逆行し、前進している、そんな気がした。

 「お前は死んだらどこに行く?」
 じんちゃんは相変わらずギターを弾きつづける。目隠ししているのに、どこでどう引くのかが、分かっているかのように、取り乱すことなく、ゆっくりと、ひたすらに、弾きつづける。
 お前は死んだらどこに行く?
 それが少し、反響して、反射して、ノイズがかかって、高架下のトンネルの中でひび割れている。
 「この先には多分ある」
 じんちゃんはギターを弾きつづけている。流星群が夜空の中で滑り落ちていくのに、じんちゃんは目隠しをしているから、それに気づかない。


 そんなことを、所謂あの世で繰り広げているような気のするじんちゃんを思い出しながら、僕は駅のホームの階段を駆け上る。
 両手をあげてゴールテープを切りたい気分だったけれど、そんなことをしようと両手を挙げた瞬間に、僕の両手はがっしりと、吊革に繋がっていた。
 ふっと、自分の体の中に自分が帰ってきたような気さえ起きてきて、電車はいつものように空気を吐き出しながら扉を閉める。
 生まれて初めてみた流星群は、遠くにある電波塔の影に隠れて消えていった。

『処女宮』

『処女宮』 石田大燿 作

教説を転じて迷いを破砕する

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-03-14
Copyrighted

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