*星空文庫

北城 玲奈 作

 隣の席に親子がいる。高校生くらいの娘と、母親である。二人して父親のことをさっきからずっと、わるく言っている。気が立っていたので、殴りつけた。お前らはひとの悪口を言えるほど、出来た人間なのか。出来た人間だとして、お前らは、お前らの範囲を出ることはできない。ひとの悪口を言うということは、ひとの範囲のなかに侵入するということだ。侵入すれば、一蓮托生である。その覚悟がお前らにあるか。それがないのなら、お前らは、われわれは、沈黙するべきなのだ。沈黙しろ。黙るのだ。
 そんな調子のことを並べ立て、それでも腹の虫がおさまらなかったので店を出た。外では太陽が遠くで照っていて行く当てを探そうと小休止した身体にうすぼんやりとあたためられた空気がまとわりつく。
 あれと思う。やけにぬるい。まだ三月である。そういえば、なるほどきょうはブラインドから差しこむ光がいつもよりも強かった。鋭く切り取られた陽が砂糖びんのふちに突き刺さり炸裂し私の目を一瞬間くらませたことをいま、思い出す。ものをよく覚えていなかったのをあざ笑われているようで気温が憎々しく感じられた。振り払うために、とりあえず歩こうと右を行った。

 別段なにもなくても、どうしようもなくむしゃくしゃする日というのが、ある。嗚呼!いらいらしていらいらして、どうしようもないのだ。何がそんなに気に食わないのか、いろいろ考えてみる。しかしそういう日は、石でも蹴り飛ばしたい衝動が私という私に巣くっているのだ。考え事に充てる余白はない。原因不明の苛立ちに侵された身体を引きずってうろつくよりほか、ないのである。

 ここから少し進んだところに日本語学校があって、そこから出てきた女生徒たちが騒ぎ立てる声が聞こえる。思うに、若い女の声というのは三種類に分けることができる。まず細くとってきた金属の線をくねらせて形成したような声、次に削ってからすこし経った鉛筆でうつしとられたような声、最後にヘラでボウルにこすりつけられたなにか生地のような声。それら三つがなんだか判然としない高音のまとまりになってこちらに向かってくる。
 まとまりときょうの生温い空気とは非常に親和性が高い。それら二つはみるみるうちに融合し巨大な有機体を成し、その前進には意志が生まれはじめた。人間を軽視すると決めたらしくそれは、行き交う人をものともせず悠然と空間をのみ込んでいく。ほら、あのスーツ姿の、私の少し前を歩く男、彼もたったいま有機体の一部になった。

 気に食わなかったのでそのあたりを睨めつけた。有機体は目に見えぬ。したがって、睨む際には、あたりをつける必要がある。このひと手間がまた気に食わぬ。
 いらいらしているときいんと耳鳴りがし、私は思わず眼をつむり、手で耳を覆った。すると甲高い音は弱まったのである。手を外すと、またきいんと鳴る。これは外部からの音なのか。そろそろと見ると、私は周囲と渾然一体となってぷかぷか浮かんでいる。女の声と、空気とに飲み込まれたのだった。さっきのサラリーマンの姿は既になかった。私と同じように、無色透明になったのだろう。生暖かいまとまりに包まれていると心地よく、さっき怒鳴り散らしていたのが我ながら不思議である。音にもすぐに慣れた。昼寝でもしようと有機体にもたれる。

『衆』

『衆』 北城 玲奈 作

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-03-09
Copyrighted

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