幽玄の女


 それは幽玄な女だった。美しい目元はいつも哀しげで、閉ざされた口元は儚げだ。ゆらりと、まるで今にも消えてゆく幽霊の態で。線の細い繊細な顔立ちをしたその女は世を嫌っているのか、それとも憐れんでいるのか、息さえもすることを半ば拒みたく思っているのか、存在が不思議な空気に包まれている気がして。
 障子からは月の明かりが染みている。蒼く鮮明に。蝋燭などは要らないほどだ。真っ黒い陰は畳にも伸びており、ゆっくりと姿勢を変え、流れた髪は一瞬女を艶やかに、優美にした。そろりと腕が伸びると髪をかきあげ、そしてだらんと落ちては力尽きてこうべを垂れる風情が、椿の花に似ている。
 浮世絵師はその女の姿を和紙に筆に走らせていた。何枚もそれを描き、一番に美しい女の姿を映し出せとの主からの命令だった。主というのはこの女の主人であり、浮世絵師の依頼人だ。
 病弱な態の女は背を上に腕に口元を埋め、こちらを見ては咳をして顔を見えなくした。器官でも弱いのか、時に苦しげにうなだれる。どんな態でも見逃せないほどの美しさを醸すのだからどうしようもない。
 まるで妖魔の様な女。あまりにも白い肌は陽を知らない。実際、女は夜も明ける前に屋敷の奥へと連れて行かれるのだから。もしかしたら昼の光りを知らずに、月光や蝋燭の明かり以外を見たことが無いのではないだろうかと思わせる。
 浮世絵師のまだ若い男は息を呑み、心を偽りつつも筆を走らせる。和紙につっと墨を垂らすごとに描かれていく女はまるで和紙の上では魂をどんどんと宿っていくかのように魔性を覗かせるのだ。危険だ、と、男は思う。女の美貌に雁字搦めにされていくのがよく分かる。もしも、自分が日本画家だとしたら自分の魂を持っていかれるのではないかと恐れた。現に、以前彼女の絵を描くように依頼された日本画家は去年の冬に気を狂わせでもしたのか、夜道に一人倒れていた。真っ白い雪は彼の回りを顔料で染められていて、それらは群青の夜で横たわる彼女を囲った日本画と同じ顔料だった。その縦軸と同じく、群青に囲われ絶えていたのだ。
 その日本画家は女に魅せられた結果、手を出しかけたらしい。それを見張り役の下男に阻止されなければ主様の囲っている彼女は手を染められていたかもしれない。それが原因で夜道を襲われたのではとも言われていた。
 だが見ろ。青いほどに白い、まるで妖狐の様に美しい女の姿は限りない絶壁を彼女と浮世絵師の間に心の内に作っているというものを、今にも手に触れてしまいたくなるほどだ。陰と影ですらも触れさせたいほどだった。
 しかし、実感の無い。
 昼に女を見たことは無い。夜にしか現れない。屋敷の奥に幽閉でもされているのか、近くの人間でさえ彼女の存在は知る人ぞ知る程度の籠の鳥だった。
 まさか、この女は幽霊なのか。ともいぶかしんだ。主は幽霊でも愛して匿っているのかと。分からない。
 咳を一つ、二つする。それごとに現実に引き戻され、可笑しな疑いを晴れさせる。
 男は筆を一時置くと、息をついてから女を見た。名前も知らされてはいない女を。
「さあ。今宵はここまでとして、どうぞゆっくりなさるといい」
 女は頷き、姿勢をまた変えた。
 男は早々に立ち上がり、静かに歩いていくと廊下へ出る襖を開けた。
「お茶をいただこうかな」
 廊下に座る下男が頭を下げ暗がりの廊下を歩いていった。その向こうに灯篭が灯っている。
 男は振り返ると、机と座布団のところへ戻った。女は目を綴じている。
 机の上の和紙には女が描かれ、畳の上には数枚。硯の墨は今だ黒々として女を描きたがる生き血のようだ。筆は今は感情も無いかのように転がっている。
 ちらりと女を見る。
「………」
 あの主から奪ってしまいたい。何度も思うことだ。呼ばれて屋敷へ来て、通された間にいた彼女を見た瞬間から。
 その時、彼女は黒と白の縦縞に立派に青紫のリンドウが描かれた着物を召していた。黒に刺繍の帯を締め、長い髪は片方に流され変わった形に編まれていた。白く細い手は白粉かと見まごうほどだった。鋭い眼差しは真っ直ぐ男を見据え、細い顔立ちは艶の黒い瞳をしていた。床の間に生けられた花を背後に正座をするその姿は何かにとりつかれたかのようだった。横に座る主は強欲な男などでは無かった。教養のある知識然とした男であり、静かな態の男であり、南蛮の渡来品を扱っていた。
 だが、その美丈夫な女の態はその日だけだった。それもあまりの気の張り詰めようで恐くなっていただけで、緊張も解ければ立ちくらみを起こして主に支えられた。いくら主が静かな態の男とはいえ、浮世絵師さえ知っていた。実はたいそうな剣豪であり恐ろしいほどの冷静な鬼になりうる程の静寂の雰囲気を持つ。やはり、主には一切の隙などが見られなかった。下男も腕に覚えがあれば主もやはりそれ以上で、女は守られているのだ。
「先生。お茶でございます」
 夜間は物を食べないので、当初共に持ち込まれた甘味は女のものだけだ。
「今の時期だけですから、茶に柚子を浮かばせました」
「風流だ」
 男は感謝し、女も体を起こさせた。
 女の声を聴いたことは男には無かった。咳は聴けど、話した事すらない。声を掛けても頷くだけだ。だが、もしも歌えばさぞ美しいことだろうとは思う。



 なだらかな項から肩にかけての白い肌は、珍しく結い上げられた女の髪の陰が降りていた。いつもは白い襦袢姿だが、友禅を纏った女の美しさたるや言葉も出ない。なかば着崩されて黒字に金の帯は波の様に棚引き白足袋は揃えられている。肘掛に両下腕をしなだれて肩越しに視線を落とす姿は実にそそった。紅を差された口許は今にも泣きそうだ。
 何度、美しいと口に出しかけただろうか。それでもその日は主が腕を静かに組み座って彼らを見ていた。黙々と男は女を凝視し、描いていく。もしも主がいなければ自制が利いたかどうかさえ分からない。
 主は女を慈しむのだろうか? 分からない。
 その日は襖に囲まれた場所だった。絢爛な襖絵が描かれている。女の横に一対、南蛮渡来のカラクリ時計が置かれている。足元にはビードロも二つ、一つは転がり、一つは置かれていた。
 意外に屋敷には主が卸している南蛮渡来のものはあまり見かけない。変わった趣向のものではあるが、日本の寝殿造りにもよく似合う。
 染料を細かく下絵に記していくと、顔を上げて一息をついた。
 部屋の四隅に蝋燭が灯されている。和紙が末広の筒型に明かりを囲っている。
「今回、話があります」
 男は主を振り返った。先ほどと変わらないままの姿で主は正座をしており、男は体を向けた。
「こちらへ」
「はい」
 主について歩いていく。一度主は襖の前で肩越しに女を見た。その後、男は歩いていく。廊下を進んでいった。
 他の間に来ると、座布団が用意されており促されそれぞれが向き合う形で座った。
「あなたは彼女の何かには気づかれたか」
「……はて」
 まさか幽霊か妖魔か何かなのかというわけにもいかない。
「青い炎の様な空気……」
「え?」
 浮世絵師は首を傾げて主を見た。
「日本画家は以前、彼女の体をうっすらと覆う青い炎のようなものを見たと言っていた。置き鏡を横たわり見つめる姿を描かせていたのだが……」
 男は蒼い月光に照らされていた女を思い浮かべていた。それは障子から満遍なく染みこんでいた明かりで畳にも降りていた。神秘的なあの姿を思い出すと、どこかあまりのことにぞっとするほどだ。
 男はうっとりと目を開き、気を取り直して言った。
「いいや。奥方はまさか鬼でもあるまい」
「鬼……か。ははは。それはまた」
 主が珍しく笑い、首を横に振った。
「よもや我が妻がよく分からなくなる事もある。時に覗かせる目は、刀を振るものは判る何かがある。闇と月光の間に潜むかのような……」
「昨年、冬に日本画家が夜路に倒れたようですね」
 主の顔がいつもの無表情に戻った。
「あれは実に残念だった」
 それだけを言い、遠くを見ただけだった。

 屏風の先から帯が掛けられた。それは紅色の帯であり、向こうからは蝋燭の明かりが広がっている。黒塗りの間柱や銀箔の壁にもその灯りは反射している。屏風は数匹の黒い仔猫と孔雀であり、松が見事で苔むす岩の間をせせらぎが蛇行している。なので、まるで帯が突然訪れた夕闇かの様に濃い茜を射したようだ。ゆらゆらと幕の様に広がる灯火色の夕陽を背後に。
 それほどにこちらの空間は薄暗くなり、屏風の先へと心が連れ去られた。
 浮世絵師は固唾を呑んでいた。
「いや。こちらの方が良い……お前にはよく」
 落ち着き払った主の声がする。しゅるしゅるという着物の着付けられていく音が先ほどから響いていた。黒い帯が次に斜めに掛けられ、さっと群青に金雲の模様の友禅が屏風の上部に舞って見えなくなった。まるで一瞬蝶が舞ったかのように。
 男は耐え切れずに正座の膝に俯き現実逃避を試みた。美しく着付けられていくのだとう女。あの主の手に寄って帯や袷や簪など、装飾されていくのだ。女のそんなときの姿が見たい。整う前の姿も、その時どんな表情をしているのかも。
 ふと横を見る。
 筆が漆の箱に何本も揃っている。それの一本が錐に見えた。
「………」
 愚かな考えは感情を盲目にさせる。筆箱の底に刃物を仕込むなどと。主からあの美貌の女を奪ってしまいたい。
 顔を上げると、困惑して男は現れた女を見た。横には主が佇み、その瞬間強い敵意が芽生えた。完璧な主は幽玄の女を所有し、浮世絵にしろという。
 長く尾を引く髪はまるで黒い大蛇のようだった。彼女は微笑みを称えていた。それは妖しげな程に男の冷静さを失わせた。女には男を狂わせる何かがある。
「お待たせを。さあ、夕餉に御呼ばれを」
 この日の夜は屋敷に数名が集った食事の会が開かれる。浮世絵師も呼ばれ、女の表情が見れると思った。
 食事の間に呼ばれ、近くの庄屋の主や奥方、それに琴の先生や花道家元がいる。
「お待たせをしたね」
 客人たちには既に余興を行う者達が日本舞踊を魅せていた。彼女たちは引いていき、彼らも席に着く。
 柚子と三つ葉を浮かばせた蕪の澄し汁や、ショウガの乗る白だしの白身魚のつみれ、紅葉や扇子の生麩が添えられた肉の西京焼など、赤漆の器に美しく料理が楚々と咲いていた。菊の花弁が添えられた枝豆の豆腐や鶏のにこごりなども美味だった。
 酒が酌まれ、それが進む。女は主の横で皆の話を静かに聴いていた。杯を美しく傾けると、頬がそっと染まった。だが二口傾けたのみでその後飲まなかった。浮世絵師は花の浮世絵も頼まれた折に顔なじみの花道家元との話もしながらも声を、女の声を聴きたいと羨望した。彼女の艶の瞳は蝋燭に揺れる。友禅の金糸も、主が傾ける杯の酒にも。



 浮世絵師は闇に蝋燭が揺れていることに気づいた。
 いきなり手首を強く掴まれたことで顔を上げ、意識を戻したのだ。
 目の前には闇に浮く、恐ろしくきつい顔の主があの冷徹な瞳を蝋燭に揺らめかせており、まるで妖魔のようだった。
 視線を向けると女がいた。白く浮かんで、まるで今にも消え入るようだった。ふっと主によって蝋燭が吹き消されると、今気づいた左右の障子からの灰色の月光が射した。そこは目が慣れると床の間で、鏡台と生けられた花の他は何も無い。どうやら酒に酔った自分は女の床へ来てしまったようなのだ。
 困惑して静かに俯く女は白い襦袢を崩していた。まるでこうべの落ちた椿の様にうなだれている。
 銀に何かが光り、ぞっとして女から主の腰元からぬらりと抜かれた小刀を見た。
「主様、わたくしに免じてお許しください」
 その意外に低く落ち着き払った声は女のもので、一つ、二つ咳をした。
「わたくしは彼に是非ともかきあげて貰いたく思うのです」
 主の静かだが底の無い程深い殺気は鋭く男を射抜くままに見ていた。銀に鈍く光る刃は鞘に収められ、手首を掴む手は緩んだ。浮世絵師はその事で手元から筆が落ち、墨を伴って女や白い絹に黒い斑点が落ちた。周りをそこで見下ろすと、何枚もの和紙が散らばっていた。それらには女が美しく描かれていた。どれもが魂が宿ったかのような、どこか生きて喋りだしそうな不可解なものも感じる。

 痛みで肩を抑えると、檻に閉じ込められて下男を見た。肩を越す程度の長い髪をかきあげると姿勢を正した。
 下男は血気盛んな目をして錠をかけた。頑丈な檻は寒々しくてくしゃみをするとぼんっと獣の毛皮が投げ込まれた。
「風邪でも引かれたら奥方に移る」
「かたじけない……」
 毛皮に包まって裸足の冷たい足を引き寄せた。石に囲まれたその場所は檻の向こうに蝋燭の灯る床の間がある。変わった花が生けられており、背を向けた主の背が見える。なにやら書をしたためているようで、羽根でそれをすらすらと書いていた。その横に長い間口は左右を美しい帯が下がって装飾されており、南蛮灯篭が下がっていてこの国の芸術と交じり合っている。
 この檻にも浮世絵が出来上がるまでの工程に必要な、下絵の数々と板、彫刻等、染料や顔料壺や筆、新しい和紙、馬簾が大き目の漆の箱に用意されている。
 何やらある字は一人書を確認するように声に出し読んでいるが、何語かはわからずに南蛮の言葉と思われた。特徴的な語尾を使っている。たしか主は阿蘭陀や西班牙という国から渡ってきた品物を扱っているらしい。浮世絵師は出島には行った事は無かった。
 何やらそれを折っていくと封に入れた。
 静かに立ち上がると主は横目で男を見た。自室の横に檻を設えているような人物だとは思いも寄らなかったが、この屋敷はどこか独特な雰囲気が拭い去れない。
「あなたも付き合うといい。その場にいても退屈だろう」
 その言葉に下男は檻の鍵を開け、浮世絵師は出た。主は踵を返し下男に文を渡すと歩いていった。男も歩いた。襖を開けると、そこは暗がりだった。床は板張りで、広い。どちらにしろ石床も板床も薄ら寒かった。
「お相手をして頂こうか。先生に竹刀を」
 まさか暇しのぎや日々行われるだろう主や下男の鍛錬に付き合わされるとも思わずに浮世絵師は口を閉ざした。主の部屋から漏れる明かりだけが伸び、その奥は闇がこずんでいる。主は竹刀を構え、氷の様な視線で真っ直ぐ見てくる。途端に恐ろしいほど無言の気迫でダッと迫って来た。避けることなど出来るはずも無く途端に打ち負かされていた。
「少しは訓練の足しになるかと思ったが……これでよく我が妻を浚ったものだ」
 酒の宴は深まった頃には覚えてはいない。声が遠のいていった。
 翌朝、気絶が助かってか深夜の寒さも感じることも無く目を覚ました。牢屋は朝の陽が降りている。横に細長い窓があった。箱は開けられたまま、彫刻刀の刃が光っている。牢屋の先を見るが、主はいない。床の間は違う場所にあるのだろう。道場のある左の間とは逆にある襖側から声が聞こえた。それは小唄であり、声は主のものだった。
「人と契るなら 
薄く契りて末まで遂げよ
もみぢ葉を見よ 薄きが散るか 
濃きが先ず散るものに候
そじゃないか」
 浮世絵師はその声に襖を見ているが、戸が引かれて主を見た。
「これは起きられましたか」
 襦袢姿で男に気づき、上に着物を羽織った。悔しいが風流のあるのは主も同じであり、どんな時でも様になる雅な男だ。浮世絵師としては女と主を花のなる木の下に座らせ共に夫婦仲を描きたくなるほどだった。
「朝餉を用意させますので」
 男が書院造の明り取りに設えられた昨日の机の上に置かれたものを手にした。リンという音が響くと、下男が障子を開けた。朝餉を用意するように申し付けられた彼は頷き引いていった。
「妻は日のある内は不在と思っていただきたい」
 浮世絵師は相槌を打ち、すぐに朝餉が運ばれてきた。先ほどから無意識に手にしている彫刻刀を見て主は口許に指を当て笑み、身を返し歩いていった。
「本日は先生の着替えを弟子の方にお持ちいただいた。晩には布団も運ばせるので」
 背は廊下を進んでいく。下男は背後を歩いており、男は頷いた。きっと根をつめて描かせたいと言ったのだろう。昨夜叩き打ちされた手前では檻から出してもらいたい言いづらい。朝餉も済めば戻されるのだろうが、何故檻などあったのだろうか……。
 浮世絵師から見たら、この夫婦自体が只者ではないのかもしれないといぶかしんだ。
 格子の向こうで主は横になり巻物を読んでいた。遠目からでもそれらは南蛮の工芸品が細密に描かれ文字で記された巻物であり、興味がそそられていた。
「それはどの南蛮渡来の工芸品の巻物で」
「葡萄牙だ。次の機会に仕入れようと思ってね」
「私も拝見したいのだが」
 しばらく主は黙って男を見たが、下男に錠を開けさせた。
「拝借します」
 浮世絵以外にも師に習って様々な技法の絵を得意とする男だが、どれも目新しい。あまりにじっくりと見ているので主は微笑しほかの巻物を出した。
「南の海を渡って来るこの者達が描いた変わったものもある。小さな島の髪が縮れた黒人や、海で見た魚や変わった動物の絵、花や木など。それに向こうの女の絵もある」
 畳に遠くまで広げられたそれを見て、男はじかにまじまじと見た。
「凄いものだ。見たことも無い」
「雲風殿」
 庭園は紅葉しておりさざれ石が今に夕陽に染まるだろう。
「下手を考えるといけない」
「………」



 夜は冷え込む。雪でも降るのではないだろうかと思われた。長襦袢の上に丹前を着て首に巻き物をし、羽織の肩から毛皮を掛けて消し炭股引の足元は厚手の足袋を履いた。総髪撫付の髪を整えると、ようやく落ち着いて袂に腕を入れ正座をした。御座が敷かれ座布団が置かれている。
 向こうの畳に、女がいた。彼女は鬢付け髪をした髷を尾長に下ろしている。背から腰元、床に掛けて黒く流れるその髷髪は幽玄の態である。ゆったりと着流した着物の裾尾を引き佇んでいた。背後の開けられた障子は夜の庭園が広がる。
 彼女を見ながら男は筆を走らせた。だんだんとそれはとりつかれたかのように。懇々と。そして板を置くと、彫刻刀を構え一気に彫りはじめた。魂を吹き込むように。寒さなどいつの間にか忘れ一身に。
 庭園はその先に月が消えて行き天の川が流れ始め、繊細にして圧巻させられる天を背に女が佇む。息さえもすることを躊躇われるほどに彫り進めて行く。不動の女は息さえ聞こえず、本物なのかそれとも器なのか、不確かなほどだった。瞳は真っ直ぐ男を見てはそれでも弱弱しい。風が吹き始め、ゆらゆらと垂らした髷が揺れている。頬を撫で、着物を撫でて。それは冬も間近な薫りを乗せて男の下にもやってきた。
「………」
 男は目を見開き女を見て、ゆらゆらと彼女の体の周りを包んで揺らめく青い、美しい炎の様なものを見た。それは深い深い青であり、まるで昼下がりに主に見せて貰った南の海とはまた違う神秘の色で、彼女の横には六連星が光っていた。上品に。気のせいか、男は目をこすって再び見た。
 女の漆黒の瞳に吸い寄せられる……まるで万物の秘を閉じ込められているかのように。悲哀の瞳が真っ直ぐ見ていた。
 その瞬間に男は我を忘れて彫っていた。

 主が朝方、牢屋の前に来ると男は倒れていた。
「………」
 下男を呼び、錠を開けさせる。
 周りには彫刻刀と碧の染料が広がり男を囲っている。そして、あの時の様にやはり美しい何枚もの浮世絵が完成された形で石の壁に貼り付けられていた。どれもが恐ろしいほどに妖美である。それは日本画家が縦軸を何枚も完成させ壁を埋め尽くさせ、突然夜に飛び出し翌日に青に包まれ雪の上見つかったときと同じだった。
 下男が頬を乱暴に叩き、まだ息があることを確認した。
「うぐ、」
 男が目を開くと主と下男が見てきていた。頭痛がして頭を抱える。
「昨晩、気が触れてぶちまけた……」
 小さく言いながら顔を歪め、しっかり起き上がった。あれは一体化したいという何がしかの危ない感情だった。あの青い炎、女の全てを手に入れたいと思った瞬間、視野が青に包まれた。何があったかは分からない。何にも形容しがたい深い悲しみが押し迫り混乱をきたしたのだ。
 男は壁に貼り付けにされた絵から主を見た。まるでそれはこの屋敷に雁字搦めに、その名の通り磔にされた女かの様に彼を取り巻きぐるぐる回って混乱させる。
「奥方を解放してあげてはどうか」
 主の顔が無表情になり、こんこん、と奥の襖から咳が聞こえた。
 どこか近くの場所にいたのだ。昼のひと目にも触れさせないところに。
「絵が完成したのだ。感謝をするよ」
 主は踵を返し歩いていき、牢屋を見回した。
『青い炎』と日本画家は言っていた。だがその青い炎を纏う女の縦軸はその時も無かった。最後の夜、妻は白の襦袢を纏っていた。それは日本画家がさせた事だった。青が際立つからと。
「最後の絵はどこにある」
 主は振り返り、浮世絵師を見た。青の顔料に囲まれる男を。
「それは……」
 コホコホという咳が響いた。
 男はそちらの襖と主を交互に見ては、口を閉ざした。この屋敷はあの正体の分からない女を囲っている。何か遥かな力でもあるのだろうか、それを抑えられているかのようで、主はそれを知っているのか、分からなく大切に娶っているのか。
 魅力的だった青の色の海。巻物に描かれていた。あの色は女の体を包んでいた青の色と似ていた。南の海を渡って南蛮から来たという渡来者達。
「奥方はどこの御仁なのか」
「この国の者だ」
 聴かれることを避けるように再び歩いていき牢屋から出て行った。
「南蛮から来た何かの呪いではなかろうか。青い炎を確かに見た。美しくも濃いものを。女は何かが憑いているに違いない。まるで青の海から取った染料の様な石の神が宿っているに違いない。海に帰りたがっているのだ、あなた様が私に見せたあの美しい海に、魂は」
 錠がガシャンと掛けられ、格子先の主の横顔を見た。
「違いますか」
 主は青に囲まれ、そして美しい妻の絵に囲まれた浮世絵師の青年を見下ろした。涼しげな顔をした青年で、切り揃えられた髪が今は乱れている。目元だけは強い光りを帯びて風袋は年齢よりも落ち着いて見える。今は青ざめて見上げてきていた。
「サフィーロとアグワマリーナという南蛮渡来の石がある。深い青と澄んだ水色の石だ。それは装飾された工芸品として私の手元に渡ってきた。銀の櫛として」
「それを奥方に……?」
「あの櫛で妻の髪を梳くごとに、彼女はどんどんと変わって行った」
 主は歩いていくと机の引き出しから何かを出した。それは封のされたものであり、彼はそれを広げる。
「訳せばこうしたためられている。西班牙で百年続く名家で令嬢に伝えられてきたサフィーロとアグワマリーナ、オニクスの銀櫛は所持するものに大いなる美貌を約束されてきた。それは黒の髪がきよらかな白髪となって後も梳かれ続け女性の全てを約束した。海と空から作り出されたとされる石であり不可思議なことに持ち主は青の光りに守られ長く生きた」
 主は静かに微笑みを称えた。
「それであなたは絵に収めようと。だが……」
 女の目を思い出していた。青の炎を引き換えに日本画家や浮世絵師に自身を描かせようとしている女は確実に解放を願っている。自身の姿を絵画に書き写させ主に自分の身代わりにさせたいが為に懇願してきたのではないだろうか。
「何故日の目を当てさせずに」
 主の背後を風が吹き、障子の先の紅葉が美しく舞っていく。黄色から橙色、紅色へと染まっている紅葉を陽が照らして浮き立たせるのだ。青の天に鮮明に。
「美しさを引き換えに体力を奪われていく。銀の櫛で髪を梳かなくなったが夜にようやく起きれるほどだ。私は彼女を暇させない為に多くのものを収集してきた。何よりも……妻は夜気がよく似合う」
 哀しげな声は女の命が伝承の様には長くは無いのではないかと云う畏怖があった。もしも病弱な女が外に出ればそのままたちまち幽霊の如く雪と舞って行ってしまうのでは無いかと。
 コンコンと咳がする。
 立ち上がり青の染料の床を歩いていき格子に手を掛けた。
「青は心に留めております。絵に起こすことが出来る。見事に仕上げて見せましょう」



 女は抑えきれない妖気を秘めて腕を抱えうずくまっていた。暗闇で、濃く青い光りが彼女を包んでいる。白い絹の襦袢から出る真っ白い裸足も、そして項や広がる髪も、頬も青くする。
 息をついで、咳をする。
 愛する碌衛門様を傷つけたくは無い。幼い頃からいつでも一緒だった。立派な方だった父様が母様と共に遠路遥々危険な航海で西班牙へと旅立たれてから頼りも消息も一切不明になり、孤児となった彼女はこのお屋敷へと奉公に来てからの碌衛門様との仲だった。広い屋敷は外に出ることは無くても暇などせずに、年上の碌様の身の回りのご用達で当てられ共にお庭でよく遊んで下さった。それでも武術の訓練だけは共には受けさせてもらえなかった。どんどんと強くなっていく碌様を彼女はうれしく思っていた。
 結納を結んだのは彼女が十七のときであり、碌衛門様は二十五のときで、すでに彼は家元となって先代の旦那様に変わり屋敷を引き継いでいた。彼は積極的に渡来人たちに関わり彼女がよろこぶものを揃えさせた。銀の櫛もその一つだった。彼女の両親が西班牙へ行ったまま姿を現さなくなったことを知っていたので碌衛門様は渡来語を学んで渡来品を扱うものになり、幾度もあちらへ手紙を渡し両親の消息を探すように封書をしたため続けてくれている。
 だが、銀の櫛を使い始めて四年目になるが体力がままならなくなってしまった。それまでは碌衛門様の身の回りをよく世話したし学問も好んだというのに……。
 何より、彼女は彼の見せるあの刀の闘志に深く、異様なまでに惹かれる心を騙せなかった。それはまるで自身もその刀となってしまいたくなる様な気持ちだ。それをきっと碌様は見抜いていなさる。時として自分を見る目はまるで妖かしでも見たような目をするのだから。その時ばかりは彼女の体は漲るような力が揺らめき、気が遠のく寸前ながらも足の力をしっかりもっていられた。その時は彼の周りに不可解なほどの美しい漆黒の炎が揺らめいて見えるのだ。まるで、あの銀の櫛に小さく光る黒い珠かのような色の。
 浮世絵師の雲風様は昨晩、とりつかれた様に恐ろしかった。なぜか自身を描く彼を前にじわじわと力が漲り、目の前をうっすらを青い光りが充ちてもいた。闇に沈んでいるときと同様に。日本画家が彼女を最後に描いたときと同様に。
「碌衛門様……碌衛門様」
 不安になって彼女は主人を呼んだ。
 いつでも少しでも明かりが射すと闇は崩れていく。青い炎は静かに体にしみこんでいく。
 あの青い石は何をしようとしているの? この体に、そして碌衛門様に。既に日本画家も倒れた。
 浮世絵師のあの強い眼差し。射止めてくる様な男の色香のある瞳。体は緊張せずに入られなかった。全て一時と逃さずに見つめてき続けた。毎夜毎晩絵に変えて。それも終わればふと元の目元に戻り、お茶を勧めてくださった。だが机に突っ伏すように浮世絵師は昨晩倒れ、そしてしばらくして立ち上がると恐いほどに真っ直ぐな目で自分を見てきた。格子先の彼はしっかりと炎の色を捉えようと手招きをしてきた。そして檻に近付いていき彼は何色かある青の顔料のどれをも交互に何度も何度も何度も見比べ続け、そして格子からいきなりあの逞しい腕を伸ばしがしっと手首を掴んできた。その途端に、彼はみるみる青ざめていって見上げてくると、足元の全ての青の染料をひっくり返して舞わせて背を向けた。「本日はここまでで……早く休まれると良い」とだけ言い残され、彼女は何故かとても哀しくなって青の顔料に囲まれる背を見てから「今宵も有り難う存じました」と声にならない声で言い引いていった。
 彼女はいつしか気を失い、眠りへと落ちていった。

 主が彼女の眠る場所へ来ると、蝋燭を灯した。
 まるで息が無いかのように眠っている。彼女は日の光を恐れるようになっていた。何かに怯え、夜気に包まれると安堵するらしく、体にしがみついてくる。
 目を覚まし、ゆっくりとまぶたを開いた。
「碌衛門様」
 彼女はしなだれしがみついた。目を綴じる。
「雲風殿が今お前の絵を描いてくださっている」
 彼女は何度も頷き、彼は髪をやさしくなで続けた。
「彼はお前が外に出たがっていると……」
「嫌です。日の光は怖い……わたくしのわずかな力も吸い取っていってしまうに違いありません」
 震えながら拒み、ただただ謎めいた不可解な力に怯えた。だが碌衛門様には何に怯えているのか分からない。瑠璃に光る炎を恐れているのだなんて、彼には見え無いものは話しようも無いのだ。
 彼を失いたくは無い。不安で仕方ない。両親さえも何処へいったままかも分からずに、愛してくださる主人様までも見失うのが恐かった。
「よくよく考えると、天道に当たらないのは病を起こすとも思えるのだ。出てみてはどうだろうか。昔はよく昼の庭で遊んだな……」
 彼女は顔を上げ、涙を流して優美な顔を哀しく泣き顔にした。
「よし、よし」
 そっと口付けをしてはずっと寄り添って長い髪を撫で続けた。
 浮世絵師が彼女といた時を思い出す。ふつふつとした殺意が闇に彼を捉えようとした。暗がりを睨み見つめ、目を綴じる。
 彼女はそっと目を開き、碌衛門様の黒い殺意を感じてしっかりした腕を見つめた。それが彼女の力としてなだれ込んでくる。蝋燭が明かりとなり青の炎は見えはしない。その黒い力が、彼女には恐かった。碌衛門様はまた心が静まったのが分かり、彼女は安堵として目を綴じる。
 両親の失踪の謎も、青と水色、黒の石が装飾された銀の櫛の不思議も、碌衛門様の闘志を自身が吸い取る不可思議も、今は眠りへと落ちていった。
「浮世絵師の青の絵が完成すれば、あの櫛は手放すべきなのかもしれない……。きっと、それが得策なのだ」
 主は静かに囁き、目を綴じる。



 白い絹の長襦袢の裾を引き、鬢付けの髷髪を長く長く足もとまで流した女が佇む絵は、深く青い炎が囲っていた。それは厳かであって不可思議なほど透明感がある。
 浮世絵師は美しく刷られた浮世絵を見て、思わず息を呑んだ。それは今までの彼女からは分からない活きたものだった。儚げも、消え入りそうな不安感も絵からは称えながらも感じるのは活きた魂だ。実にそれは不思議に均等が取れていた。
 彼はそれを掲げる。
「ここまで満足したものは初めてだ。なんという良い出来だろう」
 胸が高鳴り、手の届くところに魅せられ続けてきた女がいるのだ。無垢なほどの瞳が何度も揺れた。
 彼は乾いた絵の裏に自身の名と共に「藤條碌衛門殿の宵の方」と奥方の名を筆で走らせた。
 主からはそれを五十枚摩り下ろして貰いたいと言われていた。

 主は完成したという絵を浮世絵師から拝借し、感嘆の息を漏らさずには要られなかった。
「実に素敵だ」
 男は満足げに頷く。
「奥方の美しさが際立っております。青い炎というのはまるで六連星の宿ったかの様で」
「昴か」
 主は男の顔を見ると、言葉を続けた。
「渡来人の話によれば、希臘という古よりある国に星を見る者達がいたらしい。星は航海の時にも役に立つ方位を固定し、なにやら伝説もあるのだとか」
「南蛮人達も南の海を星を見て方角を見ていたと」
 男は海に浮かびながらも夜に星を見上げることを夢想せずにいられなかった。
「妻の絵を私は西班牙へ送るつもりでいる。これらの絵は実に妻の特徴を捉えたものだ。先の日本画家の作品と共に」
「南蛮人に売るのですか。それは初耳だ」
「人探しをしていてね……」
 主は袂をさぐり、小さな箱を出した。
「それは」
「先日話した銀の櫛だ。これを青の炎の妻の絵と共に、櫛の元の持ち主だった西班牙の名家へ返そうと思っている。他の妻の絵もともに送り、彼女の行方不明になった両親を探す手がかりになればと思っている。先ほども申したように、星の導きで進む船が行き先を違えて何年間も西班牙から帰ってこなくなったのかどうなのかは不明だが、妻は会いたがっているのだ。今も無事に生きていることを絵にして知らせたい」
「そのような事情があったとは」
 男は立ち上がり、全て数枚ずつ刷っておいた奥方の絵を揃えて彼に渡した。
「銀の櫛は受け継がれてきた女性の血縁の元に帰った方が確かに良いと思われる。青の炎というのは彼女には強すぎたのでしょう。奥方のご両親もいつぞや見つかるといいのですが……」

 女はビードロを鳴らしていた。咳を一つ、二つ、柱にしなだれてビコンビコンと音が鳴る。
 今宵は美しい月夜で、女の心は落ち着いていた。
 浮世絵師は役目を終えて帰っていき、むやみやたらに碌衛門様の殺気立つことは無くなった。まるで、連動するかのようなものだった。青い光りと、黒い光りが大きな力に寄って引き合っていたのだ。サフィーロと、ワグワマーリンと、オニクス。
 西班牙へ旅立つ船と共に、定期的な手紙と、何枚かの絵と共に銀の櫛は母国へ帰ってゆく。
 わたくしは達者で暮らしています。少し、不可解な石の力に惑わされたけれど、そのためもあり美しい絵は生み出され、一人の日本画家は美しさの妖かしに魅せられ過ぎてしまいもして、生涯に美しい絵を残して行った。二人の画家の絵画が海を渡る……。美貌を約束された女の絵が。
 少し、似ていると思うのです。母様の面影に。成人した私はやはり美しくも気丈だった母に顔立ちが似てきていて……。
 いつか元気になったら、私達夫婦で西班牙まで行けたらよろしいのに。そしてきっと櫛の持ち主であった女性たちは驚くのでしょう。青の炎に包まれた着物の女を見て、世の不思議を思うのでしょう。

幽玄の女

幽玄の女

江戸の時代、とある屋形主に妻の絵を描いて欲しいと頼まれた絵師。物悲しい雰囲気を醸す美しい女と対峙する絵師は彼女の不可思議な雰囲気に心奪われていく。 ※数年前の<作家でごはん!>での投稿作。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-06

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