ネムの花

白鳥 路緒 (しらとり みちお) 
白鳥 貴堵 (しらとり たかと)路緒の姉
上条 誠也 (かみじょう せいや)貴堵の彼氏
青羽 瑠那 (あおば るな) 貴堵の恩師
黒谷 波子 (くろたに なみこ)路緒の彼女
碧峰 カレン (あおみね かれん)路緒の妻
北山 りょう (きたやま りょう)カレンの後輩
白夜 (びゃくや) ペットのサモエド犬

1 カレンと路緒 現在
ネムの木 見つけた 暮れ時に
その葉に触れれば 静かに綴じる
そっと瞼を伏せたみたいに 乙女がその手を握ったように
白と紅色 ぼんぼんみたい 幾方にも伸ばした雄蕊
樹木の間に見え隠れ ネムの木 ネムの木 見つけた
覗いた枝花 橙の陽に照らされて
夕陽に光ったネムの花 まるであの子の頬紅のよう……

 ネムの花の妖精は女の子。閉ざされた葉の裏から顔を覗かせて、人が歩いていったのを見送る。
 黒い七部の背は大きくVに開き、紐で交差され白くなだらかな背がのぞいている。白いフレアのスカートは微かな陽に染まり、黒の細いトレンカの脚はリズミカルに歩いていく。黒のバレエシューズで。
 ネムの花の妖精は微笑んでその女の人の夢まで紡ごうと思った。
 妖精は緑色の葉の衣裳をまとい、頭にネムの花の帽子をかぶっている。そのぼんぼんは手の甲と足の甲にもついていた。妖精がウインクすれば朝と共に葉は開き、夕方と宵に静かに歌えばその葉は閉ざされる。どこからか風の声がふいに聞こえたら、それは彼らの小夜曲かもしれない。
 女の人、白鳥カレンは自宅のフェンスをくぐり、左右に様々な低木や中木の植えられる庭を進む。明るいレンガの路が蛇行して家まで続いていた。こじんまりとした洋館は窓の上部が色ガラスが嵌められており、そのあたりはフランク・ライト・ロイドを思わせるものがある。それでも家自体は明るい色調であり、壁にはツタが張っていた。
「ただいま」
 真鍮のノブを手に葡萄のステンドグラスが丸窓になるドアを開ける。今の時間は真っ白いサモエド犬が彼女を出迎えた。
「ただいま、白夜」
 白夜と名づけられた白く毛足の長い犬は笑顔で彼女を見上げて横を歩いていく。
「今日はね、ご近所さんでネムの木を見つけたのよ。時には普段通らない路も出歩いてみるものね」
 彼女はアイアンのフェンスがカーブを描く階段を上がって行き、白夜も続く。
 青いガラスに月とプレイアデスのステンドグラスが丸くはまるドアを開ける。カレンの部屋だ。
 彼女は先ほど近所のおばさんからいただいたカップ咲の秋薔薇をベッドに置いた。滑らかなレースのカーテンを開く。扉窓を開け、夕陽が先ほどの淡いピンク色の薔薇の花を透明に染め上げた。白夜の白い毛も。ベランダのアイアンフェンスは葡萄の房と蔓葉がモチーフなので、それらが床に陰となって黄金色に伸びている。カレンがそこを進んでいく。
 ここからはあのネムの木が生えた果樹園は少しだけ見えるけれど、ネムの木は隠れていた。その果樹はオレンジが植えられたところだという記憶がある。その路側にネムは咲いていた。まだ高木にはなっていなかったから、植えられて長い年月はたっていないのだろう。外気は風もなく静かだ。小鳥が空を翔けていく。
 ベッドに戻ると、薔薇の横に座って微笑みその薫りを楽しんだ。甘い甘い薫りがする。乙女の薫りだ。
 カレンは花の薫りを楽しむことが好きだ。時に薫りのない花もあるけれど、どの姿も可憐で美しい。ネムの花の薫りは不明だった。柵の先にあったから。
 ネムの花は好きで彼女は花の絵付けのされたティーカップをセットで持っていた。それは四季毎にシリーズとなったもので、繊細なネムの花の描かれたティーセットもある。彼女はキャビネットからそのセットを出し、紅茶を飲むことにする。
「ね。白夜。夜、散歩に出てみましょう。今宵の月は明るいわ」
 月齢カレンダーでは2,4。時期的に月が明るい。
 彼女はプレートにカップアンドソーサーをいれ、部屋を出た。一階のキッチンで紅茶を入れるのだ。
 キッチンに来ると、棚から紅茶葉の入る陶器を出して、ポット、銀器の葉濾し、ティースプーンを出す。お湯を沸かし始めるうちに、甘いお菓子を用意する。お皿に盛りつけた。用意が整うと紅茶もいれて運ぶ。テラスに出て涼しい宵に彼が帰ってくるまで紅茶をいただいた。白夜は水を飲む。
 ソーサーを持ち上げカップを傾ける。庭は静かだ。暗くなり始めるこの時間はいつでも空気が変わる。漂う薫りも透明度が増す。
 彼女はしばし黄金に光る宵の星を見上げ、時を過ごした。ティーカップのネムの絵も、夜色に染まっていく。

 今日、路緒(みちお)は帰ってこなかった……。
 カレンは漆喰壁でドーム型になったリビングの白いソファで白夜を腕に抱え頬を寄せながら、帰りを待っていた。だけれど、彼は帰ってこない。
「………」
 彼女は紫色のストールを引き寄せ、静かに目を綴じた。白夜がその蒼白したように色味のない頬に鼻先をそっとつけた。白夜も眠りに入る。
 カレンは夜の庭を歩いていた。青い光りがいくつも不思議と飛んでいる。
 様々な低木の間を歩いていっている。
「あたし、彼の帰りが遅くなるなら白夜と夜の散歩に出るつもりだったわ」
 独り言をいいながら歩き、彼女は庭の木々の向こうを見た。
「あら……」
 その奥には、この庭には無いはずのネムの木があった。それはあの淡い夕暮れに見た木と同じ。彼女は歩いていく。
 いきなり肩を引かれ、驚いて暗いなかを振り返った。
「……?」
 そこには見た事のない男性が佇んでいる。ゆったりした袖の白いシャツと白っぽいパンツの男性で、静かだが精悍な顔立ちをしている。
「カレン。一人で出歩くのなら俺を呼んでくれなければ」
「まあ。白夜ったら」
 カレンは不思議にその男性があのサモエド犬の白夜なのだと分かった気がした。ここが夢の世界なのだと分かっているわけでもないのに。その男性は緩く髪をまとめており、白い毛の帽子を被っていた。彼は雄犬で、家にいるといつでもカレンの横にいる。そして可愛い笑顔で見上げてきているのだ。うれしげに尻尾を振りながら。
 彼はカレンをエスコートして夜の庭を歩いた。
 ネムの木は近付く。そうすると、彼女は何かに気づいた。先ほどからネムの木が黄金にところどころ光っていると思ったら、それらは乙女の妖精達だったのだ。ふわり、ふわりと浮かんでいた。
 カレンはうれしくなってそっと近付いていった。
「愛らしいわ」
 そっと言い、彼女の白い頬に光りが広がる。柔和に。
「今晩は。またお会いしましたね」
 カレンは妖精を見た。とても愛らしい妖精を。
「元気が無いのね。涙をふいて」
 カレンは泣いてはいなかったけれど、純粋な妖精には心の涙が透明に光るのが見えていた。
 ネムの花の妖精は優しく微笑むと、そっとネムの花で出来たチークブラシでさっと彼女の白い頬に淡紅色を乗せる。
 カレンは頬に触れ、白夜が彼女の顔を見て微笑んだ。
「うん。魅力的だ」
 カレンは照れて微笑んだ。
「笑顔が素敵」
「笑顔は優しい心」
 妖精たちが言い、宙で輪になって回る。
「少し、夢のなかにいたいな……」
 庭にある大きな木の根っこはとても複雑な形をしている。そこに二人で座って、ネムの花の柔らかさを見つめながら聴く。彼女達が歌う小夜曲を……。

 路緒とカレンは六年前に出逢って結婚した。互いが現在二十五歳で、結婚四年目の夫婦だった。子供は作らない主義と決めているので夫婦水入らず、サモエド犬の白夜と暮らしている。だが、半年前から路緒は帰りがとても遅くなった。朝に帰ってくることさえある。お酒も飲まないし、娯楽もたしなみは無い。趣味はカレンとの美術館巡りや白夜をつれた遠出の公園巡りだったり、林の散策などで、性格も優しくて素敵な人だ。それだからずっとこの半年間も信頼しきっていたのだが、この所はちょっと、寂しい。
 彼が帰ってきて理由を聞くことは今まで無かった。彼は帰ってくると優しく微笑み彼女の頬や額にそっとキスを寄せ、「ただいま」と言う。それが深夜でも、朝でも、夕方でも、今までの通りに。
 彼は幼児から少女までの服のブランドを持っていて、実に可愛らしい西洋デザインの服が個人店には取り揃えられている。そのデザインの関係やモデルの子たちが決まったあとのカメラマンとの打ち合わせなど、今の時期は春物のコレクションのことで忙しいこともあるから特に仕事の話はしない。彼の部下には女の子もいないし、彼のお店の横にあるバーはジャズバーで、初老から落ち着き払ったおじさま、おばさま方の憩いの場だ。だから何か疑うべき陰などは無い。
 カレンがふと目を覚ますと、夜だった。
 夢を見ていた気がしたけれど、気のせいかしら。ソファで寄り添う白夜は背を丸めて眠っている。
「カレン」
 暗がりの奥から彼が歩いてきたのが分かった。
「路緒さん。おかえりなさい」
 彼はカップを持ち湯気を立たせて歩いてきては、ここまで来ると彼女の背後から射す眩しいほど明るい月光に姿を照らされ、微笑んで言った。
「ただいま。カレン」
 そして膝を付き、彼女の額にキスを寄せる。彼女も微笑む。
「おかえりなさい」
 彼はカップを差し出した。
「あなたのでしょ? いいの」
「いいんだ。僕のはまたいれるから」
「ありがとう」
 彼女は受け取り、路緒は白夜の向こうに座った。
「さっきね、夢を見たわ」
「どんな?」
「ネムの木を散歩していて見つけたの。それが庭にもあって、黄金に光ってた。その夢」
「あの花、可愛いからな」
 カレンは白夜の毛並みを撫でてから言った。
「ね。ネムの花の絵が描かれたドレスワンピース、可愛いんじゃないかしら。葉をアールデコに描くの」
「そうだな。可愛い。オフホワイトの生地に淡い色彩で」
 彼女の髪を撫でる。
「……いつも遅くなってごめんな」
「あなた」
 カレンは彼の横顔を見た。
「何かあるなら、何でもいいの。言って」
 彼ははにかみ、小さく頷いた。
「力になりたいわ」
 彼の指輪のはめられる手の甲に細い手を置いた。
 その時、何か思い出した気がした。ええ。夢のこと。こうやって、優しく頬に触れた。それはキスみたいに。ネムの花の妖精が淋しくて泣くカレンの夢に現れてくれて、そして元気を出してと頬に紅を乗せてくれた。あの愛らしいネムの花で。
 彼も何かがあって落ち込んでいたのかもしれない。カレンがずっと淋しがっていることと同じで、何か他の理由で。

 「ヨーロッパに?」
 カレンは横に支柱から釣る下がり揺れるランタンに明かりを灯してから彼の横に戻り、聞き返した。
 四方を青いガラスで透かし、下方を透明なガラスで覆われて二種類の色の明かりが周りには広がっていた。
「僕のブランドを気に入ってくれた人がいてね、一年を通したコレクションを判断してヨーロッパでも販売をしてみたらどうかと言ってくれたんだ。ただ、店を出すまでには難しいから、あちらのセレクトショップに置かせてもらうことや、インターネットでの販売をしてみたらって。それで、次期春夏コレクションが終ったら判断してくれる。それでいろいろと最近は半年間デザインやパタンナーとかに時間が持っていかれていてね」
「素晴らしいことね路緒さん!」
 カレンは頬が染まって路緒を見つめた。
「あなたのロマンティックなデザインはもちろんヨーロッパの可愛らしい女の子たちにもとても似合うはずよ」
「どうもありがとう」
 彼の青い鳥と黒い鳥篭をモチーフにしたドレスワンピースはカレンの七歳の姪っ子もとてもお気に入りだった。彼のリアリティのある描写も人気のもとだ。
「君が言うように、ネムの花はとても可愛いよ。それらのデザインを取り入れてみようかな。花のシリーズで」
 カレンが頷き、そこで白夜が起き上がって大きな欠伸をした。
「おはよう白夜」
 白夜はくうんと鳴いて二人を交互に見ると、いつもの様に一度ご主人様である路緒の手の甲をなめてからソファから降りた。
「今から夜の散歩に出ない?」
「いいね。月の夜に着想を得てデザインが浮かぶかもしれない」
 路緒とカレン、白夜は夜の散歩に出る。
 月はやはり明るい。
 月や星座や星をモチーフにしたら、意外に夜のアンティークローズも似合うかもしれない。
「この路の向こうよ。ネムの木を見つけたの」
「へえ。僕が子供の頃よくみんなで通っていたけど、気づかなかったよ」
 二人は歩いていき、白夜は道の端の草花の薫りをかぎながら歩いている。なので二人の歩調もゆっくりだった。
「………」
 彼等は街路灯の届かない果樹園の奥を見た。柵の内側にあるネムの木は、今の時間では見当たらない。まるで夕時に見たかげろうか幻だったかのように、夢で会った妖精の気配さえ。
「月明かりが冴えるまえ
 星明りが静かな内に
 そっと眠りにつきましょう
 夢の世界を訪れるため」
 カレンは妖精達の歌を口ずさんだ。
「素敵なメロディだね」
「ふふ。ええ」
 それはまるで彼女が好きな妖精の世界に流れる歌に思えた。
「朝には銀の滴を抱いて目覚めるの
 夜に染められた色も打ち消し」
 ネムの木は妖精は静かな闇の内側で眠っていた。誰か、寝ぼすけがむちゃむちゃと歌っているのだろうか? 宵の歌が聞こえる気がする……。
「まあ。思い出したわ」
「何か?」
 くすくすとカレンは微笑んで言った。
「白夜がね、人になって夢に現れたの」
 「え?」と彼は首をかしげて横を歩く白夜を見下ろした。白夜は同じく首をかしげて彼を見上げながら歩く。そんな彼らを見てカレンは不思議におかしくて、くすくす笑った。

2 カレン 17才
 碧峰カレンはセイントブルー学園に通う女学生である。
 白いシャツにタイトな黒のカーディガン、プリーツの無い黒い膝上スカートが制服であり、黒いタイツのつま先はローファーだ。
「碧峰先輩」
 彼女は後輩を振り返り、北山りょうは颯爽とそこまで来る。サックスのケースを提げて。
「今日の午後、練習に付き合ってもらえますか?」
 りょうはアルトサックスを、カレンはソプラノサックスを担当している。秋の鼓笛隊で行事の決まりごとであるこの学園の歌にあわせて演奏行進をするのだが、アルトのパートが難しいのだ。ソプラノが先行してリズムを取る部分があるので、カレンは快く頷いた。
「ええ。いいわよ。本日は充分に時間があるから」
「助かります! ありがとうございます」
 二人は共に廊下を歩いていき、噴水がある中庭に来た。
「何なら、今の休み時間でも練習に付き合うわ。持ってくるわね」
 カレンはこの庭から比較的近い部室から自身のソプラノサックスを持ってくるために歩いていった。緑が多いこの庭は適度な昼の陽が差し込む。
 りょうは木々を見回しながらカレンを待ち、ネムの木のところへ来た。
 彼女はじっとその花を見つめる。不思議な花で、とても細い針のような白と淡いピンク色の線を扇状に広げているのだ。触れるとふわふわしているので、触れがたきものを感じる。まるで乙女の秘密かのように。両側に整列する葉は規則正しく、触れると恥らうかのように綴じてしまう。
 見つめていると、その花と葉の向こうになにかが動いた気がした。
「りょうちゃん」
 彼女はびくっとして茶色の目で振り返り、カレンを見た。
「ネムの花、好きなのね。あたしもよ」
「はい……」
 りょうははにかんだ。
「こちらにいらっしゃい」
 カレンは手招きして、そのネムの木の裏側、他の木々も並ぶ内側に歩いていった。りょうはどきどきしながらついていく。
「ここに、紫式部もあるのよ。あたしも始めは気づかなかったんだけど、ネムのピンクと、紫式部の紫の小さな房実が重なると可愛いでしょう?」
「あ、本当」
 その向こうには大輪の白い薔薇も咲いている。
「さっき、誰かと目があった気がしたんです。ネムの花を見つめていたら」
「まあ。時々現れるタビーの猫かしら」
 学園には数匹猫がいる。毛足が長い猫と、短くてがっしりした猫。どちらもタビー柄で灰色の猫だった。一年生でこの前は白い猫も見たと言っていた。何匹が住み着いているのかは分からない。幼稚舎の方では長老と呼ばれる大きな黒猫が出てくるのだが、なんとカレンが幼稚舎にいたときもいたし、もちろんりょうもその黒い猫のおばあさんのことを幼児時代から「魔法使いの猫さん」と呼んでいた。
「猫だったのかも」
 りょうもカレンもサックスの準備を始める。
「母が趣味で妖精に関することを調べてるんです。イギリス出身だからそれらには詳しくて。先輩、もしかしたら、ネムの木の妖精だったかも」
「え?」
 カレンは彼女を見て、お茶目に横目で見てきた。
「先輩も妖精の絵画展、今度休日に観にいきませんか?」
「へえ。それは楽しいでしょうね。森のギャラリー?」
「はい」
 溌剌とした性格のりょうなので妖精という言葉が出てきて少し意外だったものの、昔から見知っている彼女のお母様はやはりロマンティックな人だ。父親は馬やセスナを乗り回す渋い人なのだが、どうやらそちらに似たらしい。行動的でサックスも力がある。将来は成人したらロイヤルエンフィールドに乗りたいらしい。
 楽譜を広げると、二人でチューニングを始める。
 ネムの木の裏から、悪戯好きの妖精がくすくすと現れて可愛らしい顔を見合わせてから二人の背を見た。二人とも真剣な顔をして楽譜に向き合い、サックスのマウスピースを加えている。
 ふうっと息を吹きかけるとネムの雄しべがふわふわ揺れて、あら? と女学生の驚いた声がした。
「一瞬……、マウスピースが細い細いピンク色の線になったかと思ったわ」
 妖精は笑って周り手を叩くと彼女達の楽器の周りにネムの花がぱっと花開いて消えて行き、彼女たちを瞬きさせた。
 ネムの木の幹に猫がやってきて尻尾をからませて、妖精たちは顔を見合わせてぱっと姿を隠した。
「にゃあ」
 カレンが足元を見ると、毛足の長い猫がいた。
「猫よ」
「本当」
 さきほどのは幻だったのかしら……。
「あなた、何かを見た?」
 猫に確認をとってみると、ただただ一度鳴いてからごろごろと足に擦り寄った。彼女達は微笑み、柔らかな顎を撫でてあげた。

3 路緒 17才
 「今日も夜は出かけるの? 路緒」
 部屋から出ると母が欄干から見える路緒に玄関ホールから呼びかけた。彼女の背後には葡萄を模したステンドグラスが幽玄に光っている。元々神秘的な雰囲気を持つ母はどこかに何かを宿している風だ。
「うん。近くの公園に天体観測に」
「あたたかい紅茶を水筒に持っていくと良いわ」
「どうもありがとう」
 母は紅茶にこだわる人で、その器が何種類もキッチンの棚に並んでいる。
「銘柄は何が?」
「任せるよ。今日はちょっと勉強に根を詰めすぎたからリラックスするものがいいかも」
「分かったわ」
 路緒は感謝をしてから廊下を進み、突き当たりの部屋に来た。そこには姉がおり、ピアノを奏でている。母に似て美しい姉だが、金縁の黒の装いにブロンズの蛇ネックレスを合わせる人なので、その美しさは彼女の性格通りに魔性を秘めていた。ピアノは彼女が作曲家なのでヘカテーに捧げられる系統の崇拝曲らしい。庭に木々を増やしたのは姉で、元々は母が結婚してこの洋館に着てからは薔薇が主流の庭だった。今は様々な低木や中木の間に薔薇があり、女性的な庭からどこか男性的な庭へと変貌している。それまでは母の嫁いでくるまではレンガの敷き詰められた噴水の庭だったらしい。それを義母の許しを得て薔薇を植えるためにレンガを移動させ土を出したらしい。
 父は元々出張が多いので家にいることは少なく、そのためもあり母は薔薇に没頭し、近所の人たちにイタリア語講座や紅茶を教えていた。姑との仲も比較的良い。今その路緒の祖母は友人達と湯布院に旅行している。
「姉さん。公園に行くんだけど……」
「天体観測?」
 姉、貴堵(たかと)は旋律を響かせながら瞼を綴じている。
 公園というのはこの辺りでは開放された大きなボタニックガーデンのことで、そのセンターに広場があるのだ。植物園は広大で、迷路のようになっている。その広場をこのあたりの人間は公園と呼んでいた。
「あたし達は今宵は向かわないわ」
「分かった」
 姉達が向かう日とかぶると広場に近づけない。彼は月齢とかそういったものには詳しくないので、新月が遠ざかった今は儀式のときでは無い事も知らないのだ。
 路緒はしばらく窓下のベンチに座り、演奏を聴いていた。彼の背後を月の明かりが照らす。薄いレースの向こうをぼんやりと光っていた。それでも強い明かりではない。時間帯によって傾く月は今度は星明かりの時間へと移り変わって行くのだ。
 本日の姉の様子は落ち着いているらしいから良かった。彼女は神経質なところと、愛に狂うときがある。その時は男の自分には何も分からないので近付くことも出来ない。少女時代の彼女は薔薇にとぐろを巻く蛇の様であって、鋭い針を持つ蜂かの様だった。路緒は姉が恐かった。人との愛を知った後の姉は、あまりにものめりこむ危うい性格に陥った。路緒は安心した。と心で思って彼女を見ていた。三ヶ月前に別れたという恋人とのことも収拾がついたのではないだろうか。心身ともに。姉の恋人はよくデートに路緒も呼ばれたが、少し変わっていた。魅力的なのは変わりなく美男美女の恋人達だったがどこか人としては変わったものがあった。結局は何が原因で別れたかは不明だったが、果たして二人がもし婚姻を結んだとして自分がその人を義兄と呼ぶことが出来たかと言うと、不明だ。何か見てはいけないものの気がしていたのだから。
 路緒自身の現在の彼女はとても柔らかな雰囲気の子で、将来の路緒のデザイナーの夢を応援してくれている。撮影時のモデルもしてくれていた。一年前に自作で作っている衣裳のモデルを探していて友人に紹介してもらったお嬢さんで、短大生だった。年上の彼女だ。姉、貴堵の二つ年下でもある。家に連れてくると付き合い程度には姉は彼女と話を交わすのだが、結局のところは価値観の違いで深くは話さない。それに大体は彼氏がいて精一杯になっているか、精神がおちついて神秘的な力に傾向しているときが多いので、行動時間が重なることも多くは無い。
 危険な人形遊びをしなくなっただけましだった。人形を黒い崇拝にかけて薔薇園に囲まれていた時は呪いでもかけているのでは無いかと本気で思っていた。姉が五歳で路緒も生まれていなかった頃からお人形遊びは始まっていた。猫が彼女に持ってくる小鳥やねずみの屍骸が円陣の人形の周りには置かれており、黒い蝋燭は音を立て、水の入った金の杯、西洋の詞の本、それらは薔薇の花もちらばっていた。その前に座って少女の頃の姉は何か唱えていた。小さな路緒が邪魔をするといつでも恐ろしい顔で何かを振り回してきて大泣きをさせられた。高校にもなるとようやくそれはなくなった。ただ、形を変えただけで崇拝は続いていた。その頃から庭は樹木が増え始めることになった。そしてその自然関係の崇拝を始めてから、彼女のヒステリーは成りを潜めてくれたのだった。
 路緒は水筒と天体望遠鏡を持ち、夜道を歩く。夜は肌寒くなってきたものだ。
 路緒の他に今は出歩いている人はまばらで、夜の犬の散歩、健康のための夜のジョギング、静かにギターを鳴らして練習する男の人、恋人と二人で歩く者達、すれ違っていく。
 路緒の彼女は天体観測には興味が無いらしかった。普通に夜空は見上げ星座は見たりはするらしいのだが。
 望遠鏡で覗いていると、幾つが流れ星……。
 どこかで何かを誰かが願っているのだろう。今の時間も……。
「こんばんは」
 路緒は声に気づき、望遠レンズから目を外して声の主を見た。
「何か見えますか?」
 女の子が夜空を見上げている。
「ああ、えっと……今は適当に。流れ星とかを」
 女の子は路緒と同年代ぐらいだろうか、クラシカルな感じの子だった。
「良かったらどうぞ」
「まあ。ありがとう」
 彼女は微笑み、静かにレンズを覗いた。綺麗な子だ。路緒は心なしかぽおっとしてしまっていた。
「あ。本当、流れ星」
 しばらくして女の子は美しく微笑んで路緒を見た。
「どうもありがとう。あたし、カレンって言います。親戚のお姉さんに連れてきてもらって、ここは本当に素敵な所ね」
「僕も大好きな場所なんだ」
 路緒は胸のときめきを押さえきれずにまごつき、自己紹介した。
「僕は路緒。この街に住んでる」
「高校生? あたしは17歳」
「同じだね」
 取り止めも無い話から、二人は星を見上げながら会話が続いた。
「カレン」
 声の方向を見たカレンはきっと親戚の人なのだろう、彼に手を振って走って行った。
「またいつか」
「うん」
 路緒はしばらく、彼女が溶け込んで行った闇を見ていた。その闇はどこか、星の夜空にも似て思えた。
 何故か、流れ星が重なった。
「………」
 付き合っている彼女がいるのに、正直先ほど初対面のカレンとの何かの雰囲気を拭い去れなくて、彼は望遠鏡を見て気を紛らわした。将来彼女と結婚する、そんな恋の予感に耳を染めながら……。

4 貴堵 24才
 「ねえ。なんで?」
 大学の講堂でグランドピアノの椅子に座った青年は、貴堵(たかと)の顔を見ずに鍵盤に指を置いたまま俯いていた。白い頬に黒い前髪がかかり、瞼は伏せられている。
「あなたなら出来るはずじゃない。何故諦めるの?」
「僕には到底無理だよ」
 立ち上がりステージを見上げる貴堵を見ることも出来ずに颯爽と幕裏へ歩いていってしまった。貴堵は唇をきゅっと結び、目をきつく綴じ感情を抑えた。
 今はあの彼女からまるで責められる様な声で言われたら崩れてしまうだろう。彼女は完璧にこなせるしその努力を惜しまず捧げる。ピアノに対しての並々ならぬ感情は素直なほどだ。それは恋愛に関しても硝子さえ透かして自身が傷つきながらも真っ直ぐにやってくる。その愛とピアノの狭間に置かれて彼は彼女からの全てを自身から一度切り離そうと思った。
「せっかくの話だというのに」
「僕は」
 幕から声が聞こえた。彼は後ろ手にその幕を掴み暗がりの横を指してくる明かりが足元を照らす様を見て続けた。
「君の力で進みたいわけじゃ無いんだ。OBの君が間に入れば僕の小さな実力は色眼鏡にかけられる」
「………。本気で言ってるのね。馬鹿みたいだわ」
「男らしくないとでもどうとでも言えばいいさ」
 踵を返して裏へ進んでいった。
 貴堵も踵を返し、講堂を出て行った。黒髪が長引いていく。青い空は青いというのに二人の心は陰鬱だった。陰を見ながら歩いていき、ふと顔を上げ緑が輝く木々の幹に手をあてた。
「彼の音楽は素晴らしいのよ。そんなにあたしはプレッシャー掛けてるつもりも無いのに」
 いつも気持ちだけ空回りしてしまう。愛する人だからこそ追い込んでしまうらしい。
「………」
 木々の向こう、ネムの花が咲いていた。あの優しい花の様に自分は柔らかくなど無い。重荷に思われて去っていってしまう。
「まあ。白鳥さん。大学に来るなんて珍しいのね。彼氏に逢いに来たの?」
 彼女は恩師、青羽瑠那の声に振り返る。
「青羽先生。ごぶさたしておりますわ」
「ええ。あなた、元気そうで良かった。少しはお肉もついたのね」
 大学時代はやつれていたというほど神秘的な危うさがあった。今でも黒を身につけて西洋ゴシック調の雰囲気がある。美しい子だ。
「ふふ。お肉だなんて、先生ったら」
 身長173に対して52キロという痩せ体質だったが、今は56キロはある。
「上条君、最近気難しいわ」
「選考の掛かった時期だもの。無理は無いわ」
 きっと貴堵が追い討ちを掛けたのだろう。
「しばらく放っておいて上げたら?」
 貴堵は溜息をつき空を見た。
「彼はまるで白い花のようだわ。こわいほど純白な。ツツジの白を見てるよう。光りが射せば繊細で乙女が宿るようなのに、夜には何にも染まらずに気高い。あたしの様な女ではただ乱暴に摘み取ってしまうだけに思える」
 青羽は微笑んで腕に手を当てた。
「ふふ。あなた、茨と言われていたものね」
「まあ。先生は、お肉のついた茨を想像してね」
 おちゃめに笑いはしたが、青羽はまっすぐと貴堵を見た。
「彼の存在にはあなたの様な人も必要なのよ。今まではただ忠実で穏やかだった彼の弾きかたはそれだけでは何の味も見出せなかったわ。刺激を受けることで純白の花だって劇的な薫りを漂わせるようになるものよ。この大学に入ってまず彼は自身の平坦な才能を思い知ってそこに甘んじようとしてたけど、あの子の素質をあなたが見つけて飴と鞭を強いたのが良かったのね。苦難はいくらでも用意されたほうが成長できる」
 「今もね」と青羽は付け加えてからウインクし、回廊を歩いていく。
 貴堵は講堂の方を見た。扉は貴堵が閉ざしたまま。今も彼はステージ裏で思い悩んでいるかもしれない。
 彼女の携帯電話が振動した。メールを見下ろす。
『しばらく実家に帰って静かに練習をするよ。自分を見つめなおしてみたいんだ』
「………」
 貴堵は相槌を打った。
「こちらにどうぞ。白鳥さん」
「ええ」
 彼女は顔を上げゆっくりと歩いていった。
 緑に左右を囲まれた壁なし廊下を進んで、その先は講堂の横に丸い広場がある。青銅の噴水があり、青い小鳥の細工が飾られている。その向こうに、見たことが無かった花があった。彼女は青羽についていくまでもなく、花に導かれるかの様に進んでいた。
「……綺麗」
 彼女は進み、その前にまで来るとそれを見下ろした。
「カリアンドラ・ベッラ」
 貴緒は青羽を振り返り、指に触れた。
「真っ白いネムの花は初めて見ました」
 それはまるで季節を変えて降りてきた雪のようで、ふわりと咲いているのだ。
 そして、驚いたことにその向こう側の見え無いところに、薔薇のような紅色のネムもあった。
「この低木種のカリアンドラ属の白いカリアンドラ・ベッラと紅のカリアンドラ・ベルミーリャはね、厳密には高木種であるネムノキ属とは違うわ」
「どちらも素敵」
 青羽は繊細だが強い印象の彼女の横顔を見た。
「あたしはね、あなたは茨というよりも、このカリアンドラ・ベルミーリャで、そして彼はカリアンドラ・ベッラなのではないかと思うわ」
 背後が深い陰で、濃い緑と花が闇に浮くように咲く二つの品種はどこかすぐにそちらに連れて行かれそうなのに、それでもそれぞれは強く印象つけてくる。
「他を受け入れずにいたけれど染まり始める白すぎる上条君、情熱が底から沸き上がる白鳥さん、どちらも繊細なこの綿の様で、それでも支えられて美しく咲いている。危なっかしいのにとても印象的で、彼は真っ白に心を閉ざしてしまってはあなたは血潮をめぐらせるように咲く」
「狂ったように……」
 貴堵はぽつりと言い、その花を撫でた。
「あなたも、気を張り詰めすぎないで」
 微笑んで青羽は見た。やはりカリアンドラ・ベルミーリャを背後に、カリアンドラ・ベッラを横に置く植物の緑にいる貴堵は美しかった。すぐ向こうの葉が作り出す闇にそのまま持ってかれそうな危うさ。
「あたしも彼と同じなのね。この花の様に」
「花も植物も太陽と冷気、水と空気が必要よ。支えあうこと、大切なこと」
 青羽は貴堵の頬にそっとキスを寄せ、肩にこめかみを乗せ白花と紅花を見つめた。彼女だけでも自分のいる奥底へと引き寄せてしまいたくなる……。そして引き合って二人も堕ちてくる……。

5 瑠那 37才
 青羽瑠那は一年前まで貴堵の音楽学校の恩師だった。
 瑠那は久し振りに白鳥姉弟にホームパーティーに呼ばれた。その席には実家に戻るという前の生徒上条誠也、そして貴堵の弟である路緒の恋人だという黒谷波子がいた。瑠那が波子に会ったのは初めてだ。ダイニングからテラスを越え緑と秋薔薇の庭が望むホームパーティーは午後の三時から始まった。日が傾きかける内から。どこか誠也もこの前の今日でリラックスできているらしい。
 瑠璃は美しい貴堵を横目で見た。まっすぐと前を見てそこまで表情は無く、白のワイングラスを滑らかに回している。どうやら波子とはあまり関わり自体が無いのか、雰囲気によそよそしさを感じる。その時の貴堵はやはり棘を持つ茨のようなのだ。だが、どうやら波子の恋人である路緒もはにかんでばかりだった。思った以上に冷静沈着な目元をしている可愛らしい顔の波子に対して。
 会話は和やかな話題だし、極力ピアノの話は誠也の手前は避けてもいる。波子は時々ちらりと瑠那を見てきた。時に微笑んで貴堵を見つめる横顔を。
 五時にもなると宵が星を掲げ始める時間帯が近付いてくる。夕陽は恐ろしいほどに眩く、やけに波子は赤のワインに飲まれて行った。夕陽で創られる、夜より深い闇の先に歩いていく波子を路緒は追い、少し涼んでくると言って誠也は庭の暗がりへ歩いていった。
「どうして?」
 廊下へのドアの向こうから波子の涙を含んだ声が聞こえ、瑠那は振り返った。
「良くは行ってないみたい。仲を取り持とうとあの子も呼んだんだけれど」
 貴堵が白ワインのグラスを回しながら言った。それはまるでめらめらとした夕陽が乱暴に揺れ宿り、それを傾けた貴堵の真紅の唇を見た。
「………」
 腕を立て、瑠那はその唇にキスを寄せていた。離れて行った瑠那を見る。夕陽を背に完全な黒い陰になる瑠那を。
「青羽先生」
 貴堵は俯き、グラスを置いた。
「夕陽は魔物ね。白鳥さん。愛を誤魔化す事が出来なくなる」
 瑠那は透明度の高い橙色に染め上げられたテーブルクロスを見つめた。
「私は自分が何色にも染まらない、そうね、まるでティボウキナ……紫紺野牡丹のようなら良いのにと思うわ。その紫の花は一日で花を落とすの。それでもどんどん花はなり続け、心がどんどん巡っていくかの様に愛情もすぐに他の人に向かえばいいのに、あたしは淡く咲かせて色付いて顔も上げられないブルージャカランダみたい」
 貴堵は横顔の瞳を暮れて行く夕陽に一瞬光らせた瑠那が、年上の女性だというのにいじらしくて可愛らしくて仕方なくなった。
 瑠那は闇へと落ちていく空と庭を見る。
「時々ね、悪いことを考えてしまう。グランドピアノに必死になる上条君はどんどんあなたに感化されていくと言ってあたしを嫉妬させる。あのまま、闇に包まれていけばいいのにって、思うのよ。そこは安堵とする場所なのよって、でも、生徒だから言えない。けれど分かっているの。あなた達は闇に浮くように美しいカリアンドラ。本当は純粋に柔らかくて、時に情熱的で繊細なネム。触れたり夜気に包まれれば弱くも心を閉ざしてしまう様な」
 庭の奥で、誠也は夕時の音を聞いていた。木々に囲まれ目を綴じて、時々線を引くように橙の陽が斜めに幾重にも降りてくる。葉を黒く透かしている様を見上げて、瞼さえ透かして染まる視界。深い視線を感じた。青羽先生から愛する貴堵に。あんな目をする先生は初めてだった。大学でも、もちろん二人で話している時でも。実家に帰る一週間を確実に不安なものにさせる空気。夕陽は魔物だ。それらの陰の部分を照らす。月でさえも暴かないような女性の心を。
「?」
 ざざっという音で誠也は振り返った。
「波子」
 路緒の声が続き、いきなりドンッと柔らかな身体にぶつかって誠也はきっと波子だろう彼女を支えた。
「ごめんなさい……ぶつかったわ」
「大丈夫?」
「もう嫌なのよ。あたしを見ない路緒のカメラの目線なんか、もう」
 うまくいってないのだろうか。確かに元気が無かった。
「あたし、帰るわ」
 波子が走って行ってしまい、濃い暗がりでは分からずに誠也は手を差し伸べたままですぐに路緒が現れたらしかった。波子は闇の内側では不安気だったが、路緒はよく分からない雰囲気をまとっていた。
「申し訳ないです……僕のせいだ」
「追ってあげたほうが良い」
「はい。失礼します」
 だがその手首を掴んだ。
「僕が言うのもなんだが……、はっきり言ってあげたほうがいいよ。君のお姉さんの様にとは言わないけど」
 小さくはにかんだ声が聞こえ、「ええ」という声を残し走って行った。遠くへ行くとその白いシャツの背は夕陽に照らされて去っていき、また静かに戻った。
 僕等はどうなるのだろうか。それは自分達で決めることだし、恋愛が関係してピアノの選考が左右されてもいけない。自分は本当に弱いな。誠也は思いながらも空を見上げた。木々の葉から覗く空は、紫紺めいていく。

6 カレン
 カレンは女学園の後輩北山りょうと共に妖精の展示会へ来ていた。
「可愛らしい」
「碧峰先輩に似ているわ。背中までの黒髪に、凛とした顔してるもの。青い花弁の衣装がとてもよく似合う」
 それは確かに顔立ちがカレンに似ていた。
 向こうには日本の在来の花を妖精に例えた物が集められているが、こちらはまた国が違った。これはティコフィラエア・キアノクロクスという高山植物だという。どこか気高くて静かに微笑んだ顔立ちをしていた。
「まあ。どうもありがとう」
 頬を染めてカレンは言い、元気いっぱいなりょうにそっくりな妖精は橙色と黄色の花で、妖精は笑顔の丸顔が愛らしく、目元に悪戯なものを含ませていた。何かしでかしそうな顔である。きっとカマキリなどの昆虫が現れたらちょっと大きく葉の腕を動かして驚かせるのではというような。カレンはくすくすと微笑み、りょうは上目で笑って彼女を見た。
「妖精って何にでもいるんですよ。日本にも全てのものに神様が宿るって言われてるでしょ? あたしが使い続けるものはどういう神様がいるのかしらって思うの」
 横に飾られた妖精の顔とりょうの顔がマッチしてカレンは言った。
「きっとあなたの元気な唇をつくるリップにも宿っているのね」
「先輩ったら」
 女の子二人が会話をしながら個展を回った。
「椿の妖精ですって。ミステリアスね」
 日本の花の場所に来ると、洋物の花弁ワンピースの妖精もいれば、着物にその花の絵柄の妖精もいた。どこか顔立ちはハーフを思わせるものが残るのは、これらの作品の産みの親自体がイギリス人だからであり、日本の自然に惚れ込んで移り住んでいる女性だからだ。着物の勉強も良くされているらしく、とても合っている。
 雪の妖精……。以前、カレンはクラシックバレエを習っていた。コンサートではクルミ割り人形の雪の妖精を踊ったものだ。今見ているエーデルワイスの妖精はその姿をどこか思い浮かばせる。
「………」
 額に雪の結晶をいただいて、雪のなかにそっといる。こちらを見ていた。
 星の夜に出逢った少年を思い出す。少し寒かった。秋の夜は彼が紅茶をすすめてくれてどれぐらいかの間を二人で見上げた。白い花に夜の色のような髪。涼しげな目元はこの妖精と似ていた。カレンのなかでどくどくという静かな鼓動を感じる。
「りょうちゃん」
 向こうで他の国の花の妖精を見ていたりょうは振り返った。
「あたしね、恋したみたいなの」
「え?」
 エーデルワイスの妖精を見つめるカレンの横顔は頬が染まっている。ソプラノサックスを吹くときのカレンはいつも男前な女性で、憧れてきた。普段はとても優しい物腰の先輩で美しい。
 いきなり失恋を叩きつけられた気がしてりょうはまたカレンに似ているガクアジサイの花の妖精を見ていたのを背を伸ばした。
「誰にですか? どのクラスのかな」
「え? ふふ。違うわ」
 りょうは横目でカレンを見て、女学園外の男であるという充分な間に口を閉ざした。
「夜空の綺麗な日に出逢ったの。天体観測が趣味でね、この街じゃないんだけれど、素敵な雰囲気の人だった」
 一気にりょうは不機嫌になって顔を背けた。
「りょうちゃん……?」
 彼女が近付いて肩から顔を覗かせると、泣いていたので驚いた。顔は怒っている。
「りょうちゃん、どうしたの?」
「今日は先輩とのデート楽しみにしてたのに」
 カレンは瞬きをしてりょうを見た。
 りょうは一人でどんどん歩いていってしまい、カレンは追いかけた。
 飾られた妖精たちが微笑んでいる。二人を見守るように。
 りょうは振り返ってカレンの腕をつかんで背伸びをした。睫が伏せられそっとキスが柔らかく寄せられて離れていった頬が染まって走って行った瞬間のりょうの口元はよろこびに微笑んで震えていた。頬を押さえながら走って行ってしまう。カレンはただただ呆然としてその場に立ち尽くしていた。りょうに似ていた妖精の悪戯な顔立ちが浮かんで脳裏に焼きついた。

7 波子
 大学の屋上から見渡していた。心はむなしかった。風は吹かれるだけ吹かれて体と精神を分離させてどこかへ連れて行ってしまうようだ。
 何がいけなかったんだろう。彼と恋人になって彼はのびのびと服をデザインして、裁縫してそれをこの身体に合わせてくれて撮影して、モデルとしてだけじゃなかったのに、もう彼のフィルター越しの目は自分など見ていない。波子は年下の彼氏と言う感覚よりも大人として向き合ってきたし、それなりに年上の女として了見良くもしてきたつもりだった。彼を子ども扱いもしなかったし対等にやってきたし、第一何の波風も今まで立ってこなかった。仲もよかった。なのに何故? 彼の静かな瞳の奥に放熱を見られるのは衣裳を身にまとったそのドレスにだけ。ふと彼女の顔を見る目には、逃れられない何かがあった。
 それで言われたのだ。他に好きな子が出来てしまった。
 何がいけなくて心が移っていってしまったのだろう。分からない。
「波子」
 彼を紹介してくれた友人が彼女の肩に腕を回して頭を引き寄せた。
「ごめんね。あたしが紹介したばっかりに、こんなに泣き濡って」
「仕方ないわ。学校だって離れているし、土日にしか逢えないと心の変化なんてわからないものだわ。でも分かってるの。彼が見てたのはずっとあたしだったんだっていうこと」
「波子」
 彼女を思い切り抱きしめてあげて共に風景を眺めた。
「元気になるまで一緒にいるわ。元気になっても一緒にいたし、これまでだってずっと一緒にいたんだから」
「うん……ありがとう」
 髪を撫でてあげてから二人しばらく風を受けた。
「あなたがいてくれて良かった」
「友達じゃないの」
「うん」
 波子は微笑み、涙をぬぐった。また流れてくるけれど流れるままに目を綴じた。
 きっとしばらくは忘れられないかもしれない。路緒のことを。もしかしたら何も無さ過ぎたのかもしれない。分からなかった。
 波子は休みの日に気分を変えようと薔薇苑を訪れていた。
「あら」
 波子は一人で出歩いている誠也を見つけた。暗い庭でぶつかったことを思い出す。倒れそうに見えてけっこうがっしりして思えた。
「あなた、よくここを訪れて?」
 誠也は振り返り、路緒の可愛い恋人を見た。とはいえ、薔薇たちの間でも顔色が沈んでいるので別れ話をされたのかもしれない。
「路緒くんから聞いたことは無かった?僕の実家なんだ。この薔薇苑」
「え?」
 ここはよく路緒が連れて来てくれたところで、彼の裁縫した衣裳の撮影で使うこともあった。
「それは知らなかったわ。話ではピアノを専攻しているのよね。お姉さんと同じで。美しいチェンバロがこの薔薇苑のホールにはあるけれどあなたも弾いて?」
「うん。時々はね。ただ練習用では私宅のピアノ」
「あの人ったら、言ってくれても良かったのに」
「はは。僕自身が路緒君とそこまで親しいわけでも無いしあまり顔を合わせないからね。貴堵さんがいる時間帯と彼が帰る時間帯は違うんだ」
 波子は相槌を打ち、薔薇を見回す。
「この場所、好きなの。一人出来たのは初めてよ」
「そっか……。案内しようか?」
 波子は淋しげに笑い、ついていった。
「恋って僕も不安だよ」
「誠也さんも?」
「青羽先生は魅力的で、僕も確かに心惹かれることもあるし男子生徒からも人気があるんだ。でも、なんていうのかな、いつも恋や心豊かな彼女の演奏が素晴らしいのに恋人の話も聴かなくて、不思議でね。もしかしたら……」
 波子はホームパーティーで初めて会った貴堵と誠也の先生だというあのどこか官能的な目元をする青羽瑠那を思い出した。紫が似合う女性、という雰囲気を感じたのは初めてだった。とても上品でいて深く妄りに堕ちて行ってしまいそうなものを感じた女性は。なので、音楽大学の恩師という言葉は浮遊して思えた。それに路緒自身の感情を読み取ることに必死になっていて、結局はワインを飲みすぎてしまった。でも、覚えている。あのエロティックな瞳でじっと捉えていたのは他でもない、貴堵さんだった。
「実家はあなた達の大学から随分離れているのね」
「ああ……。あの時は言わなかったんだが、しばらく頭を冷やそうと思ってね。閉じこもって猛烈な練習さ。しっかり先生はついてくれるんだけれど」
 貴堵の目は時々恐い。それは波子も感じる。とはいっても今までも数えるほどしか会ってはいないし、一度などは路緒に連れて行ってもらった夜の公園での妖しげな儀式と鉢合わせたときだった。路緒はすぐに踵を返して戻っていったのを覚えている。崇高さを感じはしたのだが、女達が集まって行っていたのだ。詳しくは分からなかった。なので余計に不思議な人、という雰囲気はぬぐえない。あの彼女に何か言われたら確かに自信に満ちた性格でもへこんでしまうかもしれない。路緒はへたなことは言わない主義だが、きっと貴堵さんは神経質なのだろう。時に恋人も戸惑うほど。
「薔薇苑で生きてきたなんて素敵ね。あたしもあなたの演奏、聴いてみていいかしら」
 ちょうど同い年の二人だが、音楽学校でピアノ専攻の誠也に対して、波子は服飾学校に通う生徒だ。モデルは趣味で十代の頃から続けている。
「どうぞ」
 彼女は薔薇苑の王子に促されて歩いていった。
 薔薇の季節は実に美しい。そして愛らしい。最近あったことを覗けば、心からやはり沸き上がるものを感じる。
 ホールにつくとチェンバロが弾き鳴らされ始める。甘い薫りが漂う。そしてチェンバロ特有の弾かれる音色も。
「………」
 静かに響くチェンバロの音……。扉窓から薔薇たちが咲き乱れる。
 哀しげで、波子は泣いていた。あたたかくも淋しい音色。それは、誠也も感じている彼の心を乗せた音色なのだろう。彼そのものの曲調なのだと。
 たまらなく悲しくて、淋しくなってきて波子は薔薇苑を見つめた。視界だけははなやぐ世界。
「一つの恋が、終ってしまった。でもまた始まるわよね」
 誠也は波子を見上げた。明るい薔薇苑を背に、抱きしめてあげたかった。だが自分はそれをしてはいけない。だがそれは自分の心を揺らがせることを恐れた自分本位のものなのではないだろうかともすぐに思った。彼女は今悲しんでいて、男として一時だけでも友人として慰めてあげるべきだ。
「波子さん」
「あ……ごめんなさい。あなたのピアノに感動してしまったの。心がマッチして」
「感動……?」
 誠也は驚いて波子を見た。
「誠也さんらしいなって。それを思ったら、あたしはあたしらしさがあったのかしらって思うわ。路緒さんは彼らしさに生きてあたしに投影してたけれど、あたしは受身だったのね。彼に何か影響させること、無かったのかもしれない」
「波子さん、充分君は素敵な人だよ」
「ありがとう……」
 誠也は立ち上がり、薔薇苑を見渡した。
「ここは心が癒される。僕はその世界で甘えて生きてきた。だから価値観が違う女性を愛することになって触発されたのは君と同じだよ。僕は彼女を何も触発できるほどの個性は無かった。僕達は僕達らしさを持ちながらにして、それを自分で芸術で生きるうえでは高める必要があったんだ。君のデザインだって、きっとほかの誰かを変えているはずだよ。僕の音楽に君が感動してくれたと言ってくれたみたいに」
 波子は淡いピンク色の薔薇の様に微笑んだ。
「なれるといいわ……」
 薔薇は薫る。複雑な薫りを乗せて、やってくる。

8 路緒
 「自分を取り戻しながらも変わって行く?」
 ピアノを奏でる貴堵の背を見て路緒は反芻した。
「彼が言うのよ。あたしからしばらく離れたいってね。あたし、自分を彼に押し付けすぎたのよ」
「………」
 路緒は自身の足元に視線を落とした。自分はどうだったのだろうか。波子に対して自分を押し付け、そして自分は自分の世界に彼女をおいて満足をしていた。自分の作り出す世界、それに見合った波子の愛らしくも美しい自分だけの人形。写真の彼女は本物の人形の様に完璧で、そして大人だった。そして夜はどこまでも魅惑と官能の人だった。全てに惚れ込んでいたはずであって、彼女の全てに感化されて自分は彼女に服をデザインして来た。彼女に着せてあげたかった。波子がよろこぶ顔がとても神々しくも思えていた。だが、星空の下で出逢った少女は全く違う性質だった。何故だろう。感化し合ってきたはずの波子があの一瞬で遠くに感じてしまったのだ。星空の彼女は目の前で乱舞して踊り、波子の存在をどんどんとヴェールの先の人に変えて行く。それは、男の勝手。心変わり。出逢ったときの瞬間から出逢うまでの時の経過をさかのぼって行って薄幕の向こうに彼女を隠すかのように、友人に連れられレトロなバーに来て、逆戻りで扉が閉ざされ階段を戻っていくかのように。波子が知り合う前のような波に重なって遠くなっていってしまう。悲しくもあった。波子に申し訳なくも会った。でも、もう誤魔化せなかった。
「あなた、やっぱり別れたの?」
「うん……」
 旋律が成りをひそめ、肩越しに貴堵が見てきた。
「あたしの感覚からでは、しばらくは波子さんのためにあなたも同等に悲しむ時間を持つのね」
 貴堵は愛に、全てに必死になり本気で打ち込む。軽率を嫌うのだ。心移りして恋を終らせることは確かにあることだが、彼女としてはそれは許されない事柄なのだろう。
 射抜くような目は何の曇り気も無くなっすぐすぎて恐い。愛に本気になるということは全力で傷つくという事だし、ただ、それを今までもちろん価値観を強要してきたことなどは無かった。きっと今貴堵は怒っているのだろう。
 だがそれ以上は何も言わずに再び旋律が響き始めた。貴堵は滅多に慰めてくる、ということは無い人だ。彼女自身が不器用だからでもあるし方法が分からないからなのもあり、彼女いわく自分はそこまで強くは無いからだと言う。それでも一本気でもある生き方の貴堵が嫌いなわけではない。変わり者ではあっても。
「戻ってきてくれるといいね」
「あたしは彼を愛してるから、信じるほか無いわ」
 路緒は相槌を打ち、目を綴じ旋律を聴き続けてその美しい音色で今は空っぽなのか殻なのかあの星空の彼女でいっぱいなのか分からない身に詰め込んでいった。
 細い窓が連なり筒型になるこのホールを欠け続ける月が照らす。
 彼は貴堵の言葉も分かっていながらやはり行動は止まらなかった。望遠鏡を持って夜、出かけていった。その様子を窓から貴堵は見て「愛に必死になる性分はあの子もね」とつぶやいて見送った。波子にも必死だったし、それに今度は新しい子に必死になり始めているのだ。
 路緒は寒空を見上げた。星が薄い雲に隠れていく。先ほどまで月が現れていた空も、今の彼には星は見えなかった。ただただ、誰も、ましてや街の違う彼女が来るはずも無いこの場所で暗いだけの夜空を見上げていた。目を綴じる。
「波子……ごめん」
 夜風が掠める。

9 貴堵
 闇に浮くのは、瑠那の言ったあの紅色の花だった。それが辺り一面に浮くように咲いている。
 名前……なんだったかしら。難しい名前だった。同じ色の長衣を引き歩く貴堵を彩る。
「カリアンドラ・ベルミーリャ」
 どうしてその名前がふと思い出されたのだろうか。ふと記憶の箱が開いたようだった。その花に囲まれて。
 自分の奏でる曲が遠くから聴こえる。その旋律に少しずつ彼のピアノも重なる……。それは心地よい世界だった。彼女は彼の奏でる曲が好きなのだ。元の素朴さも、複雑を極めていく態も、混迷しているときでさえ、追い詰めるほどに愛しくなっていく高揚、それを悟ることがある。彼は柔軟でもあって頑なでもあるから自由にならない。全てが欲しい。全てが欲しい。………。
 彼女の元を去っていったメールが彼女の身体を蛇のように長く繰り返される帯となって締め付けてくる。
「だから青羽先生もおっしゃったのだわ。あたしが彼を縛り付けてはいけない」
 そして強烈なものとなって広がった。瑠那のあの黒い瞳。光りを帯びてまっすぐっ見つめてきた……。
 ふっと、瞑想の先の意識から目覚めるとそこは儀式の場だった。自分は瞑想の姿勢をとっており、誰もが静かにそこにいる。いつのまにか精神は今抱える問題事へと捕まえられたのだろう。無心になった身体へと。
 脱力した感覚に浮かんだのは、あの闇に浮く印象的なカリアンドラ・ベルミーリャ。そして青羽先生の姿だった。
 翌日の夜、貴堵は瑠那に呼び出された。
 何故その場に向かったのかは、返事を出す為だった。
 どうしても自分は今彼氏である誠也を愛していて、いずれ彼を支えて生きたいと思っている。きっと彼女自身が分かっていることだろう。言いに行くことはあるだろうか? それでも向かっていた。
 黒髪を一部ゆるくまとめ、細い真紅のルージュ、黒のエレガントなジャケットとスカート。ヒールに黒のハンドバッグで進む。金の蛇の指輪が光った。紅いマニキュアが月光を受ける。
 瑠那の部屋は知っていた。生徒だった時代何度も訪れて彼女とワインを飲み交わした。
「いらっしゃい。どうぞ」
「ごきげんよう。お邪魔します」
 彼女が玄関をくぐると、瑠那はいつもと全く雰囲気が違った。エレガントなパーマが顔立ちを包み、深いブラウンの柔らかい素材は彼女の想像以上に美しい身体を見せ金の留め具が光り、長い足はゆったりと彼女に進んだ。一気に燃え上がる情熱を貴堵が感じた瞬間、飲み込まれかけたが意外に瑠那はにっこり微笑んで半身を返し、彼女を促した。
「久し振りだもの。ゆっくりしていってね」
「はい」
 眩暈を覚えて一度気を取り直して進んでいった。透明感のある香水をまとっている。こんなに素敵な瑠那は初めて見た。それでも、愛情とか恋心とかそれらの感覚ではなく、ただまっすぐに食べられたいという欲望なのかもしれない。
 ダイニングに着く。
「先生。ワイン、お持ちしたの」
「まあ。いつもありがとう」
 彼女は微笑み、ソファに互いが腰掛ける。全ての用意は毎回整っている。今日はいつもとは違い、真横に瑠那はいた。吐息や体の柔らかさも感じるすぐそこに。彼女の視線はなめらかに裸体にまとうだけのジャケットの胸部に注がれ、それでもさっと恥ずかしげに反らされてコルクをあける。可愛らしい年上の女性に貴堵はその横顔を見つめた。白ワインの栓が開けられる。グラスに注がれた。微笑み合って傾ける。
 瑠那は一気に飲み干し、その姿を貴堵は見た。
「貴堵ちゃん」
 白鳥さん以外の名で初めて呼ばれ、潤んでいるが鋭い目が射抜いてきた。
「恋ってね、理屈では無いのよ」
「………」
「強く惹かれてしまったものが充ちて行くのでは無く欠けていく、引き潮の月だろうと押し迫りたくなる無我夢中なものが恋」
 理屈に固める主義なのだろう、自分の愛は説明ばかりで、貴堵はただただすぐそこの瑠那の瞳を見ていた。ワインと香水の薫りが混ざり合う。テーブルの上のチョコレート。それに薔薇の菓子。どこからか微かに聴こえるピアノの旋律はレコードで、そしてそれに現実的なクリスタルの音色が重なっている。窓に掛けられたそのクリスタルが微かに煽られて、それは夜瑠那が鳴らす咆哮かの様に感じた。
「それが通じ合わなければ?」
 迫り来る瑠那が段々と押し倒してくる目はそれでも緩く微笑む。
「情熱が果たされるだけでは一方通行よ。分かっている。あなたを軽率に見てるんじゃないことだけは分かって欲しいのよ。五年間ずっと想いが止められなかった……講堂から出てきたあなたを見て、もう耐え切れなかったわ。不道徳なあたしを惨めな人だと言ってよ。昼にはあなたの恋人との復縁を言っておきながら、夕方には、そして夜にはどんどんと……」
 心にまで忍び寄ってくるそれが甘美過ぎた。貴堵はあまりにも麗しい瑠那に惚れ惚れし、大きな瞳で見ていた。唇の動き、頬の動くなめらかさ、陰の動くさま、鎖骨の陰、首筋や耳元に至るまで、髪の一糸にいたるまで。愛は魔力が宿る程に渦巻く。そして一瞬で牙を剥いてくる……。
「真紅に色付くあたしのカリアンドラ・ベルミーリャ……」
 かすれた声が囁き。彼女の唇に重なる。
「………」
 だが、貴堵は顔を背け黒髪が流れた。
「やはり体だけよ。高揚するのは」
「あなたにはそれが許せないのでしょうね……そこが好き」
 ふふと微笑み、瑠那は膝を進めてヌーディーば黒のストッキングの上から真っ白く鋭い太ももが覗き、ガーターベルトが装飾したが、彼女から離れていった。
「………」
 飢餓感。正直な。貴堵はキャンドルに瞳が光りその脚の残像に唇をなめていた。あちらへ行く瑠那。グラスにワインを注ぎ足し、銀器にチョコレートを取る。肘をついたまま貴堵は鋭く見つめ、狙っているのだと自分で気づいて背を起こし、彼女は薔薇の砂糖菓子を銀器に刺した。瑠那の唇に刺すかの様に感じた。あのピンク色の唇に。
「ね。貴堵ちゃん」
 背もたれに肘をかけ横目で微笑みながらチョコレートを口に運び、貴堵を見た。その向こうには鳥篭がある。だが瑠那自身が自然世界の動物から自由を奪うことをしない主義なので鳥篭はいつでも持ち主はいない。だからこそ貴堵には様々な瑠那の心が映って思えた。今は鷹かのような。
「あたしが何故上条君への接触をあなたにさせているか分かるかしら」
「それは……」
 愛の話から唐突に変わるとも思えなく、何か感情が絡んでいるのだろうといぶかしんだ。誠也にはしっかりとしたピアノの教師がついている。自分の存在はピアノに関してはスパイスに過ぎない。
「上条君は人に愛を向ける子では無かったらしいのよ。いわゆるノンセクシャル。ただ日常を優雅に過ごし好きなピアノを当たり障り無くこなして皆をよろこばせる、いわばそれはよい子の坊ちゃんが宴で褒められてよい子ねと頭を撫でられる感覚に終る。そしてあなたは愛にだけ直向だったわ。男性との全てを受け入れ拒絶し全てをピアノに感情を込めた。あたしの心に気づくことなく、そこで現れた無垢な少年を与えていれば何か化学反応を起こしはしないかって、不純なあたしの理由だけれど見事に上条君は逸材になりつつある」
 ワインが回る。
「それは見ていてとても美しく甘やかな変化だった」
 傾けられ、彼女の瞼は伏せられた。
「大丈夫よ。あなたを勝ち取るのは先にしてあげる……」

10 カレンと路緒 現在
 路緒がヨーロッパに一ヶ月滞在することになった。デザインが認められて呼ばれたから。カレンはしばらく遠距離から旦那の健康を祈ることになる。
「食事は大丈夫かしら」
「問題ないよ。心配しないで」
 初夏。既に春夏のショーも終えてヨーロッパ行きの準備も万端に整っていた時期だった。
 春の花々から初夏の花々に移り変わって緑が輝いている。
 空港へ旅立っていく路緒を見送る。
「………」
 タクシーは角で見えなくなり、しばらくは見つめていた。感慨深く。
 洋館へ戻るまでに庭を通って行く。緑が枝垂れて挨拶してくるかのようだった。
 ひとりになると、思い出した。今はサモエド犬の白夜がよろこんで草地に背を撫で付けている木々の向こうの少し開けた場所で、まるで女性の死体を見つけたかのようにカレンは叫んだのだ。黒いローブをまとって円陣を背に髪を広げ、黒い涙で頬を汚した女性が口を開き仰向けにいた。再び夜の公園で彼と再会し、そして付き合いを重ね始めて初めて家を訪れたとき、彼女は叫んだ。そして、すぐに駆け寄った時に女性が身体に何事も無いのだと知った。だが、明らかに心はズタズタにされて傷ついていたのだ。それも、それが愛にであって、そして自身で引き起こし心に巻き起こした混乱から来るものなのだと知った。その美しい女性は路緒に起こされ、崩れるほどの美貌に打ち震えたことを覚えている。それが路緒の姉である貴堵であり、そしてとある女性に本気になってしまった心が偽れずにもがき苦しむ日々だったのだとしばらくして後に知った。
 今、貴堵はこの街から離れた場所にある巨大な薔薇苑のある屋敷で過ごしてる。何か特別な関係が保たれているらしく、貴堵さんの愛する男性と、そして貴堵さんを愛する女性の三人で恋愛を続けているのだというのだ。その屋敷で。滅多に貴堵さんは実家に帰って来ないし、そして変わり者の二人の母はヨーロッパにいる。義姉さんの恋人達だという二人には会った事は無い。結婚式は身内のみで行った。
 安心している。貴堵さんとの初対面がああだったから、その原因でもある女性と今はしあわせにしているらしから。ただ、路緒の心配するには彼女のことだから三人の関係を天秤の様に均等に保ち続けたい黄金率が一瞬でもぐらつけば、もしかしたらあの薔薇苑で同じように仰向けに泣く時間があるのだろうことを。
 白夜は起き上がって尻尾を振りながら笑顔で草地の上を跳ねている。
 彼女は歩いていく。
「………」
 カレンはその低木を見て微笑んだ。
 正確には常葉合歓。低木のネムの花だ。ネムノキの様に高木になるのではなく、2~3メートルの高さで留まる品種。あの近所の果樹園にはどうやら三本植えていたらしく、一本を分けていただいた。花が咲く今年の秋が楽しみ……。
 足元に白夜がやってくる。ほおを撫で付けてきた。
「まあ。白夜。あなた、昨日の夢ではあたしの手の甲にキスをしてきたわ。どうしてかしらね」
 カレンは微笑み頭を撫で、再びネムを見た。
「秋に、夢に見た通りの花が咲くのね。その時にはあなたも、それに路緒も横にいるのよ」
 カレンは柔らかく微笑み、そっと咲く淡いピンク色のチークの頬を微笑ませた。
 彼女は知らない。彼らがカレンに出会うまでに、恋が生き、消え、生まれたのかを……。彼女はまるでネムの花のように柔らかい愛しか知らない……。
 それで、いいのだろう。りょうの淡い恋心さえ、今では昔の思い出。

2014.10.27

ネムの花

ネムの花

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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