村雨

 一人の男が蓑を高い背にまとい、こうべを垂れて歩いていた。激しく降りしきる村雨は、先ほどまで竹林を歩いていた折には微塵も感じることのなかったものだった。しかもこの時期の冷たい雨には極力ぬれたくなかったためにまとっている蓑や笠でさえも横から吹く風に雨はさらされ、ぼろの着物はぬれてしまった。
 旅人である男は息を抑えて口を締め一歩一歩水のはね続ける地面を見ながら進んでおり、遠くをいかずちが幾つも轟き駆け抜けていく。視線だけを笠から覗かせ向けると、霧煙る遠くの山々の上を大蛇のようないかずちが走っていくのだ。ざんざんと降る雨。いきなりの事だったから、今に雷神様の気も治まれば止んでくれることだろう。
とにかく、ここは少し急ごうか。わらじをじゃぶじゃぶとさせながら男は小走りで路の先にある木の下へと向かっていった。一、二軒ある農家の間を走り抜けながら。

 娘は既に軒から干してあった柿をざるに乗せ仕舞い終えており、木の戸を雨が入らないように閉めたところだった。
「すぐ止むじゃろうか……」
 少し隙間を空けて灰色の空を見る。腰で支えるざるの上の柿はまだ昨日干し始めたばかりだった。この民家の横にある柿の木にはこの風に煽られて一、二個の柿の橙色の実がごとりと落ちたところだった。そちらから顔を戻し、もう一度空を見てから戸の横にある瓶の上にざるを置き、しっかりと戸を再び締めようとしたときだった。
 見かけない背の高い男の影が疾走していく。
「!」
 娘はひいっと叫んでとたんに戸をびったりと締めた。
「あ、ああ、」
 背を震わせたまま、ごくりと息を飲み口を引き締める。
「どうした」
「うわあ」
 娘は土間から父のいる背後を振り返った。必死に首を振り、見間違いだと言い聞かせる。

 大きな樫の木の下に来た男はようやく一息つき、固い葉の裏から空を見上げた。外には誰もおらず、どこか淋しい村だ。人っ子一人他の旅人さえすれ違わなかった。確かに、どこか秘境の湯治場があるでもない、都を結ぶ村でもない、どこにでもある穏やかな村だ。
「………」
「いいですかな」
 男が背をつける大木の裏から声が聞こえた。男は蓑の水気を払いながら振り返る。
「いやあ、驚くほどいきなりでしたな」
 どこか上品な顔をした男が現れ、彼も随分と濡れそぼっていた。どうやら男とは逆の方から走ってきたらしい。のんびりとした山々がその背後に広がっている。
「ああ、本当に」
 男も小さく口端を上げて微笑み、笠も取って足元に置く。
「すぐに止みましょう。村雨でしょうから……」
 妙に白い肌が目につく。男も頷き、しばらく二人は雨を見ていた。

 この村ではこの時期の村雨には妖かしが出るといわれている。そのためもあり突然の雨が降り始めると誰もが屋内へ引っ込み、静かに過ごした。
 娘もそれを当然の如く知っているわけだが、先ほどの様に誰かを見たことは初めてだった。向こうのところの若夫婦の夫には到底思えなかったし、蓑をまとってどこか不気味だった。曇ってたからだろうか?
 夕餉をつくる刻になる頃にはすっかり止んでしまうだろう。井戸から水を汲んでこなければならない。納屋にも大根を取りに行かなければ。娘は柿を屋内につる下げながらそれらを考えていた。
 村雨に現れる妖かし。それは村人から怖がられていた。正体も分かりはしない何者かの影は、雨音に紛れてやって来て見たものを闇へと引きずり込むという。

 旅人は自分よりは少しは若いだろう青年がほっかぶりを取ると、随分長い髪をしていると知った。どこかの宮司だろうか。神聖な風も先ほどから感じるが、まるでその目は鋭くてただただ雨を見つめている。
 男がこの木の下から見える農家を見渡した。路をはさんで二軒ある。どちらも硬く戸は閉ざされていて、一瞬戸を叩こうと思ったのだがどうも隙が見られなく陰鬱な気持ちになってきた。寒くて震えるし、先ほど竹林で通った村で買ったヒエ饅頭を食べてしまったばかりだった。竹の水筒の茶でも飲もうと思ったが、横の青年を見上げる。
「もし。あんた、都のものかい」
「いいや。わたしはここの者だ」
 そろりと青年は見てきて、まるで鈍い銀の様に黒いはずの瞳が光った気がした。男はその能面の様に冷たい顔をみてぞくりとし、前を向き直った。
 どこか不安になり男は民家へ向け早足で歩いていった。

 「へえ。なんだぁ?」
 囲炉裏から顔を戸へ向けた娘はトントンという音に応えた。
「もし」
「………」
 父は娘と顔を見合わせた。
「もしもし」
「?」
 どうやら相手は二人いるらしい。
「どうやら違うらしい。とっちゃん」
 妖かしが二人ということは今まで聞いたためしは無かった。父は首をしゃくり娘は頷いて框から草履を引っ掛け戸へ来た。
「へえ」
 どこかの旅人が雨に困ってるかもしれない、と思いながら戸をあけた。
「………」
 娘は低い背から暗い陰を見上げた。さっきの気味悪かった陰だ。
「あ、ああ、」
 だが、その蓑の大男は青ざめた顔をして、横を見ていた。
 男はすぐ横にいた青年を見て、その本人は灯りの漏れる屋内を感情の無い顔立ちで見ていた。
 男はこの農家の娘を見ると、その奥にいる老人を見る。
「実は、いきなりの雨に打たれてしまい寒くて仕方が無い。申し訳ないが、どうか身体だけでも休ませてはもらえないだろうか」
「まあまあ、それは大変でした」
 娘は二人をぎこちなく迎え入れた。
「ただいま夕餉の支度もしとりますだで、あがってくんなまし」
 男と青年は土間から上がった。
 父は元が無愛想な顔なのでじろりと二人の旅人を睨みはしたが、追い返すほどの性格ではない。彼も立ち上がり背を向けると瓶から漬物でも取りに行って小皿に乗せて出した。娘は沸いた湯で茶を淹れて出した。
「どうもありがたい」
「充分温まってくだされ」
 男はようやく落ち着き茶を傾け笑顔になり、しかし青年は微動にもせずに見下ろしているだけだった。

 雨は止んだが今日一日休んでいかれるといいとの好意の声に、疲れていた旅人は感謝して床を借りることとなった。
 夕餉のときも、父との晩酌のときも男は陽気な性格だと知って父子はすっかり安心しその話にまで至ったのだった。だが、依然青年はというと無口なままだった。
 木の戸の少し開けられた格子からは、窓の向こうを三日月が明るい。横になる青年の白い顔はすでに青白く思えた。とても静かな夜で、男は朝が明けたらとっとと逃げるようにでもこの村から離れようと思った。既に久し振りの旅人によろこんではしゃぎ酒に酔った娘は眠っていたが、しっかりものなのだろう、父の方は目を綴じながらも起きているらしい。
 男は故郷に帰るまでに初めて立ち寄ったこの村の名前さえ知らない。ただ路を聞くうえでこの場所があり、越えてから路を左にそれて真っ直ぐ行くといいと聞いたので通った村だった。
 男は旅の疲れもあり、結局はうとうととし始めてしまった。

 娘は暗がりをどうやら歩いているらしかった。竹林はよく通る場所であり、その先には小さな社があることを知っている。だが、暗闇に沈みかけるここを歩いていてもどうもたどり着けない。昼にはよく遊んできた路で陽が笹から射すと明るいのだが、夜だと怖いのはどこも同じだ。月もあまり明るく照らしてくれないが、おかしい。あんな形にまで月は充ちていただろうか?
 ふと気づいた娘は振り返った。
「旅人の方」
 あの面白い旅人の男がわらじで歩いてきていた。だが、ちょっと惚れてしまいそうなほど顔表の良い若い人の方はいなかった。面白い旅人様は気強くてどこか恐い顔をしているが、豪快に笑うと血色の良い顔になったものだ。
 だが、おかしい。確か器も洗ってしまったら杯も下げて皆で床に入ったというのに出歩いているのだなんて。
 そしていつもとどこか違う竹林の様子に、もしやこれは夢なのじゃないかと気づいたのだった。

 青年は夢に誘き寄せた若い娘と旅人の男を闇の先から見ていた。もう既に雨は止んだというのに、男の足元にだけは水に浸されている。向こうを歩く旅人の股引も脚伴(きゃはん)も夢のなかでは乾いているというのに、青年の着る灰色の着流しの裾も黒い鼻緒も濡れていた。青年は喉を鳴らし静かに微笑み、美味そうな二人のところへ歩いていく。
 ゆらりと長く尾を引いて髪が流れて、歩くと共に足元の水溜りも移動していく。地面の上を。
 ずっと村雨のあの日に社に封印されてからというもの、腹をすかせ続けていた。それはもう何十年も。
 今だ美しい表をしたままの鬼は静寂を進んで行き、一寸闇の先から姿を現した。
 始めに男が振り向き、やはり青白い顔をして自分を見てきた。不気味なものを見るかのように険しい顔をして。
「なあに。案ずることは無い」
 青年は歩き、娘は振り返り男に肩をひかれて後ろへ連れて行かれたのを顔を覗かせた。
 微笑する青年を見る。それはどこか、人を離れた何かがありすぎた。

 父は静かに眠る娘や旅人の男、それに全く動きもしない青年の寝顔を目を開け見ていた。月光は滑っていく。娘は奥まった場に眠っているので明かりに眠気を邪魔されることなく安眠し、時々旅人は目元に月光が流れてくると寝返った。どうやら浅い眠りらしい。青年はというと、まともに明るい所にいるというものを氷の様に動くことが無かった。突然の雨にまだ体は冷えてでもいるのだろうか。
 彼が生まれるもっと前から伝わる言い伝えの内容を知るものは既にいない。なので、社と村雨の妖かしが繋がろうとも知る由もなく、道祖神か延命の類だと村人は思い団子や饅頭を供えて過ごしている。
 だが実際、人食い鬼が封じられた社である。その社が鬼から村人を護っている事は事実だった。
 今その社は現ではさやさやと揺れる竹林の先で月光と笹陰を受けていた。静かなものとして。だが、夢の足跡は近付いていた。

 遠い昔、平安の時代にさかのぼる。
 宮に使えていた神社の宮司がいた。その妖艶な男はただ正しい宮司ではなく、夜な夜な人を喰うのだという妙な噂が宮を占めた。あまりに神秘的な雰囲気はすぐに宮の者たちに気に入られはしたが、目をかけた者たちが姿を消していくという不気味なことが置き始めたので、疑われたのがその青年だった。
 若くして勤め上げる職務に青年はまじめに取り組む昼の顔を見せるが、裏では巫女達の手玉を取っているのだろうだとか品の無い噂が立ち始めると、ついには宮殿では青年をひとまずこの場から騒ぎが収まるまで遠ざけさせなければならなくなった。それでなければ放っておいていることで貴族達から怪訝の声が広がるばかりで宮の上に立つ人間でさえも繋がりをはばからずにいつのではと思われる。
 そんな濡れ衣を着せられた若き宮司は家系からも破門されるのではと懸念を持ちお上の方に弁明を試みたが、噂が強くなるにつけて攻め立てられる声が強くなり、ついには都すらも追い出されてしまった。
 青年は上等なものばかり喰う貴族共の肉を身近で食えなくなると分かり、都を暗い目で見ては去っていった。

 娘は暗い夢の先、青年を男の背後から見た。それはどこか今にも人をとって喰いたそうな冷たい顔をしている。表情もなく、薄い唇は閉じ、そして目元は感情なく見下ろしてくるのだ。
「お小枝。この者はどこか妖しい」
 娘は男の腕を掴み、いきなりざっと進んでくる青年を目を見開き見た。その目は静かに光り、そして夢と現がゆらめくのか厚い雲間からゆらりと月光が覗き始めた。早く満ち欠けが始まり三日月へとなっていく……。
 青年はあの時のことを思い出す。幾つも山を越え村に逃れてきたとき。鬼退治の男まで追ってきて空腹に耐え切れずここの村人を食べた。激しい風が吹いていた。髪がうねり顔に張り付き肩になにかを感じた。札の圧力を。そして、目を見開き鬼は人間を見たのだ。
「ひええっ とっちゃん助けてくろ!」
 青年がざっと妖しく微笑しそこまで歯が近付き、いきなり何かに腕を掴まれて娘は目をぎゅっととじて旅人の腕にしがみついた。
 うなされて叫んだ娘の腕を引っ張った。
「目を覚ませ!」
「うううー、」

 男は青年の胴を蹴り退かして、青年はばしゃんとその場所だけ現れた水溜りに音を立てた。夢から引き起こされた娘は幻の先へと現を帰っていき青年は水溜りに身体を捕らえられて再び動けなくなった。
「………」
 男はその足掻く青年の向こう、竹に左右を囲まれた路の向こうに現れた石の社を見た。それは周りが水溜りになっておりだんだんと青年の半身の浸かる水溜りに近付いてくる。
 男は意味も分からずにただただ瞬きを続け見ていた。能面のようだった青年の顔は今どうにか抜け出すために腕を伸ばしたり見回しており、先ほどの一瞬の恐ろしかった陰も感じない。
「手をこちらへ」
 青年は男を見た。
「………」
 だが、その声よりも札のある社から伸びた水路の方が早かった。
「!」
 長い髪を引きつれ青年は社へまるで引き戻されていき水しぶきが舞い、男は驚いてカッと光った社を見た。
 巨大な山伏のような男が陰影となって一瞬現れ詞を唱えて竹が振動し、青年がその下の社の扉へ消えていった。
「………」
 不気味な風がゆるく流れて行き、何事も無かったように三日月を竹笹が撫でている……。

 社で青年は閉じ込められ、暗がりからじっと定規縁付扉の先を見上げていた。暗い目元で。
 竹がさやさやと幾重にも波の様な音となり社に響き渡る。それはすでに小夜曲ともなっていた。まるで水溜りの底に沈む音の様に。
 闇の内側で青年から鬼の姿へ、その姿から青年へ変わりゆらめき、格子から入る光りが照らす。
「………」
 幼い頃から社に花や団子を備えてきてはその社の前で走り回って遊んだり、トンボを追ったり、転んで泣いたり、肩車でつれてこられたり、おむすびをおいていったり、だんだん娘になっていくお小枝の姿が何故かその月光の先に浮かんで浮遊した。
『宮司様は本当、澄んだ目をしておられる』
 巫女がいつだか言っていた。食べようと目を光らせた刹那だった。意味不明なことを言ってきて命乞いかと思ったが、そこで宮の者に呼ばれ追放された。その巫女はどんと構えた目をしていた。他の者のように逃げなかった。意図をさぐる前に都を追われた。
『お社の神様は、どんな顔したお方じゃろか』
 澄んだ目をした小娘は太陽を背にたんぽぽをたくさん手にしていた。それを社に供えてきた。そんな喰えもしないものを。澄んだ目と言うのはあれをいうのだ。
 巫女の言った真意など知らん。ただただ、何かを真っ直ぐに求める瞳がそれを思わせたのか……ただ、青年はどうせこれから閉じ込められる日々が戻り、娘もだんだんに年齢を重ねていく風を見ていくのだろう。だがその娘の瞳が曇るなど一生無いのだろうとも、ふと思った。澄んだままに。

 夢から覚めると旅人は辺りを見回した。
 青年は見当たらない。父は娘の横にいて起き上がった男を見た。
「あの大蛇か何かの化身のような青年は……」
「あの若人かや」
 父が背後の明るいほうを振り返ると、何時の間にやら青年の床は空っぽになっていた。娘のうなされる方へ駆けつけ背を向けたうちに。
 男は完全に雲が流れて行き晴れ渡った夜を格子から見た。
「雨の幻だったんだろうか……」
 霧さえも流れていったのか鮮明だ。
 男は戸を開け、静かな外を見渡した。まだ地面は濡れている。それでも気配は無く遠くの山々はやはり月光がくっきり照らして霧の気配は去っている。
「この時期の村雨は妖かしと出くわす……」
 男は背後を振り返り、老人を見た。
「旅の方。次回ここを通るときは、充分気をつけなされや」
 男は頷き、再び美しい夜に挙がる月を見上げる。
 また明日の朝にでもこの村を発つのだ。
 たしか、ここの娘はほの字の目であの正体不明の青年を見ていたものだった。
 夢でははじめおぼろげだった月の様に男はおぼろげに思い、今は繊細な三日月を見上げている……。

2014.1019

村雨

村雨

降りしきる村雨に紛れて、黒い影が現れる。雨の日にのみ現れる怪かしが。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-27

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