夜のピアノソナタ第8番

夜のピアノソナタ第8番

朝のノクターンの続きです。

悲愴

目覚めたのは午前十時半。長く眠っていたようで、実際は五時間ほどの睡眠だった。午前四時過ぎに消灯をしてから、気を失うように寝ていた。普段から夜行性なわけではない。どちらかといえば夜は弱い方だ。しかし昨日は特別で、友人との電話越しの会話があまりにも弾んだのだ。私が経験を物語にしようと決めたのは、彼女との会話のせいだった。実際に、私の経験は物語としては出来過ぎている。今日はそれについてを話す日である。私は彼女と、大学の友達と合流し、占いへ行く。
少し不気味なくらいの通りだった。真昼間の明るい時に、難しそうに漢字を並べて"占い"と書いてある。それは一軒だけではなかった。それらがびっしりと急勾配の坂に軒並み揃えている。ところどころ、タイムスリップでもしたかのように、懐かしげなお菓子を売る土産屋が見えていた。私たち4人は途中にある団子屋へ寄った。何度かテレビでも紹介されたらしい、有名な店だった。私はそこで迷うこともなく苺大福を選んだ。テレビで紹介されていたのは草餅だったらしかった。お茶と各々の茶菓子を乗せたお盆を持って、私たちは団子屋の向かいにあるベンチに腰掛ける。この季節ならばやはり苺大福に限ると、私は苺大福にかぶりついた。皆それぞれがおいしいと口々に言い、そして次に出た言葉は私に投げかけられた。
「で、何があったん。まず婚約ってどうゆうことなん。私らなんも聞いてへん」
もっともな質問であった。私は彼女たちに詳しく話していない。怒られることを知っていたからだ。
「最初っから話したら長なるで。一日がかりで話さんなんわ。でも、話さなあかんなとは思ってたんよ」
彼女たちは、大丈夫やから、と強く言い私を安心させた。


私の今年の運はどうやら悪いらしかった。占い師に占ってもらうというのは胡散臭いようで、案外素直に受け入れられるものである。去年も友達に誘われて行った。その時も東京オリンピックが終わるまでは運気が良くないのよと言われていたのを思い出した。占い師は、私のことをよく知ったらしく話した。身体が弱いこと、海外に行くこと、仕事は文学関係につくこと、男女関係や、大事にしているもの。おおよそでたらめに話している風ではない。ああ占いなんて馬鹿げている、そんなものを信じるなんてという人にはきっと理解しがたいのだろう。私は、机に置かれたベタに大きくて丸い水晶を見つめていた。しかし、占い師はベタに大きくて丸い水晶を使わなかった。代わりに複雑な文字を紙に書き並べ、そこから読み取るように話を続けた。占い師は私と彼の相性を占った。占い師は複雑に文字を書きながら眉をひそめ、この人は貴方の相手ではないね、と言った。

そして、ナニジンかと聞いた。

私は頭が真っ白になった。

彼についてはある程度知っているつもりでいた。しかし、あれから彼について信じられることがたったの一つもなかったのだ。もしかしかたら、日本人ではなかったのか。それすらも分からなかった。外国人と交際歴があることを知っている友人は、私に新しい彼氏ができるとナニジンかとよく聞いた。しかし、疑っても見なかった彼について、初対面の占い師は不安そうな顔をして聞いていたのだ。私は、わかりませんとだけ、小さく答えて、テーブルの上にあるベタに大きくて丸い水晶を見つめていた。水晶は歪んだ私の姿を見せていた。引きつった顔をしている。占い師は複雑な文字を書くのをやめて、眼鏡をくっと上げた。

「この人は秘密が多いわ。貴方はこの人と居ることを選んではだめ。この人と結婚なんて絶対にだめよ」

占い師は私が店を出る最後までそう念を押して、貴方はもっとハイスペックな人と付き合いなさいと言った。椅子の背もたれにかけた白いコートが、床についていたらしく、友達が私のコートを救ってくれていた。これでよかったんだ、婚約した彼はもう私の知らない人になっている。私の知っている世界には存在しない。そう思いながら、友達とお互いにどんなことを言われたとかこれからどうしたいとか、急勾配の坂を登ったり降りたりしながら言い合った。私は何度か泣きそうになりながら、笑った。本当に見えているのか、デタラメなのかそんなことは占い師にしか分からない。だけれどあの言葉は、食べた苺大福の苺の味が、とても酸っぱく感じるほどには胃のあたりを虐めた。


その夜、私はベートーヴェンのピアノソナタ第8番を聞いた。どの旋律よりも心地よく感じたからだ。"悲愴"と言われる曲である。しかし私にはどうしても悲しそうには聞こえない。序盤、終盤はそっと頭を撫でてくれるような柔らかさで、優しく低く、高く、気品あるピアノの音が私の黒と涙色でぐちゃぐちゃにされた心を溶かしてくれるようだった。中盤の力強さは私を励ます。これで終わっていいのか、もう前には進まないのか、まだ頑張りなさいよと言ってくれているようだった。もう泣かないよと息も漏らさず泣いた。暗くした部屋に気品あるピアノの旋律だけが音を立てて、私のそばにいた。この日は私にとってはとても濃く、短期間で起きた悪夢のような現実の輪郭をはっきりと見た。もうこれからは泣かなくていいんだと輪郭を忘れないよう何度も何度も心を虐めながら、ピアノの旋律が遠くに聞こえるまで考え続けた。この夜、私はベートーヴェンのピアノソナタ第8番と共に夢に堕ちた。

夜のピアノソナタ第8番

夜のピアノソナタ第8番

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-26

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