渋谷の黒い猫

渋谷の黒い猫

黒猫幻想小説です。PDF縦書きでお読みください。


 紙野(かみの)貝土(かいと)は作り終えたばかりの作品を抱えて千歳烏山のアトリエを出た。これから銀座の画廊に届けなければならない。ミジンコの木彫りである。ちょっとコミカルだがそれが彼の持ち味である。洗練された怖さを持った作品を作りたいと思うのだが、たいていこういうものが出来てしまう。それでも画廊においておくと売れるのだから不思議である。銀座の画廊のオーナーも結構気に入ってくれており、一つか二つ必ず置かしてくれる。いいか悪いかわからないが癒し系の木彫りという評判である。オーナーは売れると次の注文をしてくれる。今回も、海胆をモチーフに作った木彫が売れたのでまた何か置いてくれということであった。
 みゆき通りのはずれにあるビルの三階にある青(あお)神(がみ)画廊は二つの部屋に分かれており、常設のコーナーと個展のコーナーがある。
 常設コーナーに作品を持っていくとオーナーの一人である神山が言った。
 「いいねえ、見ると、どうしてもにこっとしたくなる」
 不思議な感想だがそれでも買っていく人がいる。
 青山が隣から顔を出した。神山が常設コーナーの担当でもう一人のオーナーである青山が個展コーナーの担当である。
 「作品がたまったら、個展を開いたらいいのに」
 「貝土さんのは作る端から売れちゃうからね」
 神山が笑った。
 「何かのテーマで作りためたらいいのに」
 青山の顔は本気である。
 貝土にしてもやってみたい気はあるが、自分にぴったりくるテーマがなかなかない。
 貝土は売れた代金を受け取ると、「がんばります」と当たり前の返事をして画廊をでた。彼にはいつも現金でくれる。
 銀座の帰りに、渋谷道玄坂の友人を訪ねることにした。東方(ひがしかた)見聞(みきき)は大学で民俗学を教えている。父親が有名な民俗学者であることは彼の名前からして想像できる。フランスやイタリアの風習や歴史を調べているようだが、貝土には難しくて分からなかった。
 渋谷の駅をでると、酒屋でボルドーを一本買って、東方のマンションに向かった。
 彼の家は道玄坂から文化村通りにはいり、その終わりの東急よりさらに先にある。場所的には松涛という地区になる。八階建てのマンションが彼の家である。東方の部屋は六階であるが、貝土はエレベーターを使わず階段を上った。
 なかなか凝ったマンションで、中に入ると吹き抜けになっており、天井の明り取りのガラス窓から、自然の光がこぼれている。らせん状の階段には木がふんだんに使われていて、昔のヨーロッパの屋敷の雰囲気である。そんなところを東方が気に入ったのだろう。
 貝土が階段を上っていくと、白っぽい服装の女性とすれ違った。その女性は貝人を見ると軽くお辞儀をした。六階にたどりついてから振り返ってみると、もう彼女の姿は見えなかった。
 呼び鈴を押すと、見聞が顔を出した。
 「よお、待ってたんだ、調度ちょっといいものをもらったとこだよ」
 貝土が入ると、居間のテーブルに、見事な料理が並んでいた。
 「どうしたんだいこんな立派な料理」
 「下に住んでいる人が作ってくれたんだ。料理の研究家だよ。試しに作ったから食べてみてくれと持ってきた」
 「さっき階段ですれ違った女の人がいるが、その人かな」
 「そうだろう、貝土が来るちょっと前に下に降りたから」
 「一緒に食べたかったのじゃないかな」
 「そう言ったのだが、自分の家でも人を呼んでこれから試食会だそうだ」
 「それじゃ、見聞をそこに呼べばいいのに」
 「女性だけの集まりだそうだ、僕のところにわざわざ持ってきたのは、イタリアの古い料理のレシピの本を訳してあげたからだよ」
 「すごいね、ほら、ワイン買ってきた、ちょっと金が入った」
 「そりゃいいタイミングだ。なにか売れたのかい」
 「海胆だ」
 「ああ、あの棘のないやつか」
 「海胆の殻だ」
 見聞はワインの栓を抜いた。
 蛸と烏賊にいくつかのキノコ、それに何種類ものハーブの入ったオリーブ油をかけたサラダ、胡椒を利かせたラム肉を煮込んだもの、卵とモレーユのちょっとしたおつまみ、自家製のパン。取り合わせは当たり前えだが、きっと味付けが由緒あるものなのだろう。
 「これは、俺が訳した古いイタリアのレシピの料理ではないんだ。俺が訳したのは秘儀に使う料理で気味の悪いやつさ。蛙やナメクジの蒸し焼きまで載っていた。それに猫も使うのだとさ。本当にあったのかどうか分からんがな」
 見聞きは説明しながら、ワインをグラスに注いだ。
 貝土は椅子に腰掛けると「いただくよ」とワインを一口飲んだ。
 その時、貝土の足に何かが絡みついた。
 驚いて足元を見ると真っ黒い子猫が貝土のズボンの裾にじゃれついている。
 「猫を飼ったのか」
 貝土はちょっと驚いた。見聞が猫好きなことは知っていたが、一人暮らしでもあり、ヨーロッパへ調査旅行に行くことが多いことから飼うことができないと言っていたからだ。
 「いやね、ちょっと事情があったのと、まあ、こいつが可愛いかったのでな」
 見聞が抱え上げると、黒猫はニャーと鳴いて青い目をくりくりさせた。
 「名前は」
 「メフィスト」
 「悪魔かい」
 「黒猫は幸運をよぶ悪魔さ」
 メフィストが貝土を見上げた。目じりが下がり気味でとても悪魔には見えない。
 「最近、アイラに行ったら、カウンターにいるマスターの従妹が猫の子が生まれたからいらないかというんだ」
 「あの占いをやる女性か」
 アイラは渋谷にある見聞行き着けのスコッチバーである。貝土も何度かお供したことがある。カウンターしかないこぢんまりとした店で、とても落ち着く。狭いが珍しいシングルモルトを備えている日本でも有数の店である。マスターの大川は若いのにウイスキーの世界では名を知られている人だということである。
 「うん、真っ黒いのが八匹も生まれたそうだ。最初は断ったんだ。ところがちょっと面白いのが一匹いて、他の七匹と全く反対の行動をするのだそうだ。食事の用意をすると、七匹はいっせいに走ってくるのに、それだけは、反対に走っていってしまう、だから、そいつだけはごはんを別の器にいれて用意しなければならないとのことだ、彼女に言わせると絶対面白い猫に育つというのだ、それを聞いて飼うことにした」
 「ほー」あらためてメフィストを持ち上げてみた。メフィストは足をダラーんと下げ、貝土を見下げた。他の猫とどこが違うのか分からない。
 すると、見聞が笑い出した。
 「どうしたんだ」
 「やられたよ、彼女に、来る客にみんなに同じことを言って、すべての子猫を引き取らせたのだそうだよ、大したものだ、大川さんに後で聞いたんだよ、でもまあ、かわいいからいいか」
 「はははひゃはは」
 貝土も思わず大笑いした。
 占いの彼女の本当の名はわからないが、モイラと呼ばれていて、素人ではあるが、かなり感性の強い女性のようだ。
 「モイラがこんなことを言っていたな、最近、渋谷の町がわけのわからない空気に覆われているのだという、空気の顔といっていたが、ともかく、いつもとは違うのだそうだ、いろいろな国から占い師たちが集まってきているとも言っていた」
 「まるで、ホラー映画だね、ゴーストバスターズだ」
 「いや、そんなのではなく、感性がどことなく他の人と違った人、簡単に言えば霊感が強い人が占い師になるそうで、その人たちをひきつける何かが今渋谷にあるということらしい」
 「ふーん」
 メフィストがあいている椅子に飛び乗った。
 「留守する時はどうするのだい」
 「それを、貝土にお願いします」
 見聞が頭を下げた。
 「そういう魂胆か、居る時ならいいけどね」
 「たのむよな」
 「ああ」もう一度メフィストを抱き上げてみた。
  メフィストがきょろっと貝土を見た。

 料理も美味いし、彫刻も売れたし、その日は話がはずんだ。
 貝土は夜遅くなり彼のマンションをでて渋谷駅に向かった。
 文化村通りから道玄坂にはいったところで思わぬことに出くわした。
 若い娘がわき道から飛びでてくると、勢いよく貝土の前に走ってきたのである。息を切らしている。
 色の白い目の細い娘は貝人を見た。長い黒髪を無造作に束ねている。
 この界隈は若い女の子が夜遅くまで集まっている。呼び止められることは珍しいことではない。だから驚くことではないのだが、なぜか貝土はその娘にその辺の子と違う雰囲気を嗅ぎとっていた。
 「あ、おじさん、あたいの占いどう」
 小柄な娘は真っ黒な長いドレスを身にまとって黒いサンダルを履いている。
 貝土は女性との会話は苦手なほうだ。ちぐはぐな返事をした。
 「どこから逃げてきたの」
 貝人はこの娘がてっきり誰かに追われてきたのかと思ったのである。
 娘は首を横に振った。
 「ううん、向こうの飲み屋で、友達と飲んでたの、そしたら、急に捕まえろって、頭の中で何かが叫んで、あたしここに走って来たの、そしたらあんただった」
 「占い師さんか」
 「うん」
 「どこで占うの」
 「飲み屋にもどらなきゃ、道具も置いてきた。一緒に来て」
 貝人は空気の糸で引っ張られるようにして娘の後をついていった。
 娘は道玄坂を神仙のほうに歩いていくと、わき道にある一軒の店に入り、臙脂色の皮のカバンを抱えて出てきた。
 「いこう」
 「友達はいいのかい」
 「うん」
 娘はそのわき道から文化村のほうに向かった。ホテル街のほうだ。
 「どこにいくの」
 「あたしんち」
 「そこで占いをやってるのかい」
 「うん」
 「何を占うのかな」
 「あんたの未来、面白そうだから」
 たくさんのホテルがひしめきあう場所を通り抜けると、いくつかのアパートが集まっている通りがあった。その中の一つに彼女は入った。アパートといってもずいぶんしゃれた建物でアールヌーボー調の飾りがいたるところについている。階段にも手すりには葡萄の彫刻がある。東方あたりが好きそうだ。二階に上がり、彼女はアーチ型の木のドアの鍵をあけた。
 電気がつくと玄関と客間がつながるような構造になっておりすべて見渡せた。部屋には椅子が数脚置いてあり、正面には祭壇があり、黒い布で覆われている。
 彼は靴を脱ぐと部屋に上がった。
 「椅子に座って」
 そう言うと、彼女は玄関の鍵を下ろし、上にあがった。
 「占いはいくらかかるの」
 「いらない、あたいが占いたいと思ったから」
 「占いなんてやってもらったことがない」
 「怖いんでしょ、あたしは、つばき、あんたの名は」
 「貝土」
 「面白い名前、芸術家さんでしょう」
 「そんなもんかもしれない」
 貝土はちょっと照れた。芸術家という言葉が恥ずかしいのだ。
 そんな貝土を見てつばきは笑った。
 つばきは正面の黒い布を剥ぎ取った。木製の祭壇が現れた。磨かれた祭壇の上には、黒いビロードの布の上に動物の頭の骨が一つ置いてあった。
 それを見た貝土はぞくっとした。
 「そうでしょう、やっぱり、ここに何かいるのがわかるのでしょう」
 つばきは急に大人のようなしゃべり方をした。
 つばきは祭壇の前に椅子を置くと、貝土の前に座った。
 臙脂色のカバンから、木を丸く削った玉を取り出した。臙脂色の木の玉はまだらに染まっており、所々どす黒くなっているのが人の血のりがこびりついているようにも見える。
 「水晶の玉を使わないのだね」
 貝土が聞くと、
 「透明だと未来が見えると思わせる道具なんてまやかしに過ぎないの。この木の玉は私の家の大黒柱を削ったものなの。あたし力がないからまん丸にならなかった。あたしとこの木は共鳴できるの、だから感覚が強まるわ。岡山の私の家は台風でつぶれたの。
 「その血の色はなに」
 「これは、家の庭に育った五メートルにもなったヤマゴボウの実の色」
 ヤマゴボウは一見葡萄のような実をつける。赤紫の汁が白い洋服などに付くととれずに大変である。子どものころは葡萄に見立てて遊んだものだ。
 「木はなかなかヤマゴボウに染まらなかったの、何度も浸けてみたら、このように血飛沫を浴びたような色になったの。そうしたら、もっと共鳴感度がよくなったわ。
 さっき友達と飲んでいるとき、この木の玉が大きく揺れたのを感じたの、そしたらなにかが頭の中で早く捕まえろとどなったのよ、あなたから何が出てくるか分からないわ、今日だけでは終わらないと思うの」
  つばきは立ち上がり隣の部屋に行くと氷を入れた水差しとコップを用意してきた。
 「好きなときに、飲んでください、私は始めたら何も口にもしません。あなたは楽にしていてくれればいいの。ただ、もしわたしが何か聞いたら正直に答えてください」
 つばきは一度、貝土の目を覗くと、木の玉を両手の中に包み瞑想にはいった。
 時間の経つのが遅く感じられる。
 貝土は水を飲んだ。
 つばきが言った。
 「今悩みも何もないでしょう。珍しい方」
 確かに、大きな悩みは何もなかった。そこが悩みどころでもある。芸術家は眉間にしわを寄せて思索に励み、考え、悶えなければいけないのだろうが、貝土はそこが欠落していた。逆にそれが取柄でもあり楽しい彫刻が出来あがる所以でもある。
 また瞑想が続いた。
 「喘息があるわね、二つのときから」
 彼はうなずいた。二歳のときにかかった百日咳の後に喘息が起こるようになった。今でも直ったわけではなく、薬は持ち歩いている。大人になり、喘息がコントロールできるようになると喘息に対する悩みはなくなった。友達のようなものである。小さいときから喘息があったおかげで我慢をする力は人の数百倍はあるだろう。
 「何が一番好きなの」
 貝土はなんだろうと自問した。あらためてそう聞かれるとすぐにはでてこない。
 つばきは目を開けて、貝土を見ると、もう一度同じ事をたずねた。
 「みじんこ」
 と、ついつい貝土は口に出してしまった。子どものころから好きだったのだが、一番好きなのかどうか分からない。きっと、ミジンコの彫刻をこしらえたばかりだからであろう。
 つばきの後ろにおいてある動物の頭骨がカタカタと音をたてた。
 見ると、頭骨が口を開けて、というか、下顎骨ががくがくと動いて歯を鳴らして笑っている。
 「あー、黒猫笑っている」
 つばきが大声を上げた。
 「あの骨、黒猫の骨なの」
 貝土はなぜ骨が笑ったのか不思議に思うより、なぜ黒猫の骨と分かるのかが気になったのである。
 「あの骨が客の言ったことに反応することなどなかったのよ。おっかしい、あなた気に入られたのよあの骨に」
 「どうして君はあれが黒猫の骨と知っているのかな」
 貝土がまた聞いた。
 「私が作ったからよ」
 「作ったの、本物じゃないの」
 「本物よ、黒猫をぐつぐつ煮て作ったんだもん」
 貝土はまた、ぞくっとした。
 「生きたままかい」
 「まさか、死んだ猫ちゃんよ」
 それでも、気持が悪い。
 「近くに、大山稲荷神社っていうのがあるの、そこの椿は見事なのよ、見に来る人も多いわよ。
 去年の夏の真夜中にね、その神社に行ったら椿の木の根元に氷がころがっていたの、それでね、氷の中にね、真っ黒い猫が入ってるじゃない、驚いたわ、その時誰もいなかったの、重かったけど一人で部屋まで運んできたの、黒猫がほしかったからちょうどいいと思ったのよ。
 ここにもってきて、バスタブにお湯を入れて、その氷をいれたの、そしたら、黒猫ちゃんがでてきて、しかもお風呂の中で生き返って泳いだのよ、びっくりしたわほんとに、それであわてて引っ張り上げて、バスタオルにくるんだの、そしたら、ニャーって鳴くじゃない。
 ミルクをやったら、おいしそうに飲んだわ、でも、その後にまたニャーと鳴いて倒れて死んじゃったの。
 うそじゃないわよ、死ぬ前に私の頭の中で、黒猫ちゃんが使っていいよって言ったわ、黒猫のエキスと頭の骨が欲しかったの、猫ちゃん知ってたのよ、私には必要だったの、霊感をもっていても、それだけでは占いは無理なのよ、共鳴してくれるもの、とか、違う世界との通路になってくれるものなんかが必要なの、黒猫の頭の骨は違う世界の放送を受信する装置みたいなものなの」
 「それで、猫どうしたの」
 「次の日に、死んじゃった猫ちゃんを鍋に入れて煮たの、不思議なのよ、水酸化ナトリウムを用意していたのだけど、それを入れる前に、黒猫ちゃんは頭の骨を残して溶けちゃったの」
 「水酸化ナトリウムってなにするの」
 「骨格標本を作るのに使うのよ。骨以外を溶かしちゃうの、水酸化ナトリウムを入れておくと、煮なくても時間がかかるけど骨以外は溶けちゃうのよ。
 大学では生物学をやってたの、だけど、動物たちの声が聞こえすぎてやめちゃった、ミジンコだって歌うのよ、顕微鏡でプランクトンの観察してたら、うるさいっていったらありゃしない。あの子たち、歌うことしか能がないんだから」
 つばきは黒猫の頭骨を手にとった。
 「きゃ」
 いきなり、頭骨を放り出した。つばきの手が真っ赤になっている。
 「熱いの、この骨燃えている」
 テーブルの上に放り出された真っ赤な頭骨の下から煙が上がった。板が黒く焦げていく。貝土は飲むように用意してくれた水差しを傾けた。
 頭蓋骨はじゅうと蒸気を上げて真っ黒になった。
 つばきの手にもかけた。赤くはなっているがひどくはなさそうだ。
 貝土は骨に触ってみた。もう熱くはない。
 猫の頭骨を手にとってみた。小さなものだ。ハンカチをとり出して拭いた。こすると黒光りをした。今にも何か言いそうな黒光りのする頭蓋骨になった。つばきはエネルギーを使い切ったようで脇のソファーでぐったりと目を瞑っている。
 貝土は言った。
 「今日はこれくらいにしようか、また来ていいかい」
 つばきはうなずいた。
 「電話の番号を教えてくれるかい」
 つばきは携帯に自分の電話番号を表示して貝土に見せた。
 貝土は手帳に写し取ると、「この骨ちょっと貸してくれないか」、といってみた。だめというと思っていたが、案に反してつばきはうんとうなずいた。
 「早く返してよ」
 「占いができなくなると困らないのかな」
 「もう、しばらくそのエネルギーはないわ」
 つばきの手の平をみた。真っ赤にはなっているが、心配はなさそうである。貝土は黒猫の頭骨をハンカチに包むと上着のポケットに入れてつばきの家を出た。

 その日から一週間ほどアトリエにこもって木を掘り続けた。黒猫の頭蓋骨を前にしていくつも同じものを作った。似ているものはできるのだが、これだというものが作れない。十三個目に、やっと、自分なりに満足するものができた。貝土はその一つに黒漆を塗り磨いた。
 黒猫の頭蓋骨の脇に木で彫った頭蓋骨を置いた。
 猫の頭蓋骨がかたっと動くと、すーっと、作った頭蓋骨の前に来て向かい合った。
 貝土はぞくっとしたが、認めてもらったようで嬉しかった。
 残りの十二個の失敗作には胡粉を塗り白く磨いた。友人達への土産にと思ったからだ。そこが彼の芸術家ぶっていないところなのだろう。有名な芸術家たちは作っても気に入らないのはつぶしてしまうという話をよく聞くところである。
 できた猫の黒い頭蓋骨を箱にいれ、十二個の白い頭蓋骨は袋に入れてリュックにつめた。借りた猫の頭蓋骨も箱に入れた。
 画廊と見聞のところに寄ってからつばきのところに行くつもりであった。
 青神画廊に来た貝土は、神山に白い猫の頭骨を彫ったものを手渡した。
 「これ、記念です、差し上げます」
 神山は、「おっ、いくらで売るんだ」と声を上げた。
 「いや、あげようと思って」
 「なぜ」
 「失敗したやつです」
 「これで、失敗かい、面白いじゃないか」
 「でも、本物とはだいぶ違う」
 「本物に似てなくても、感じることができれば芸術品だよ、貝土さん」
 「そうですけどね、やっぱり僕としては、作ろうと思ったものと違えば失敗作ですね」
 「まあいいや、ところでこれは何の頭の骨なんだろう」
 「猫」
 「ふーん、これは十万で売る。すぐ売れるぜ、三割いただき」
 そこに、青山が顔を出してそれを見た。
 「いいじゃない、膨らむイメージがある。今までのとはずいぶん違うね」
 貝土は、袋から十一個の白い猫の頭骨の彫刻をテーブルの上にだした。
 「ひゃあ、こりゃ、すごい、個展をしなきゃね」
 「これ、友達にあげるんです」
 「なに言ってるの、個展してよ、頭蓋骨の彫刻をしよう、紙野さん」
 「でも友達にあげたいので、二つほどとっておく」
 「じゃあその分以外は個展にとっておこうよ」
 「それはいいけど」
 神山は、「でも、売れたら売ってしまっていいよな」と言った。
 貝土はうなずいた。
 「どうしてこれをみんなにあげちまおうと思ったんだい」
 「まあ、記念かな、気に入ったものが作れたんで」
 貝土は箱を取り出して開けた。
 「これはすごいね、よくできてる」
 箱の中を覗いた青山と神山は大きな声を出した。
 青山が箱から取り出すと、黒猫の頭骨の彫刻はきらっと光った。
 「これが本物」、貝土は黒猫の頭骨をだした。
 「ふーん、貝土さんのはそのものだね、いやそれ以上に何かあるぞ」
 「それで、この満足したものをどこにもってくの」
 「黒猫の頭骨を貸してくれた子に見せようと思って」
 貝土はつばきとの出会いを話した。
 「それじゃ、見せたら、個展用にとっといてよ。これらから動物の頭の骨を彫るといいよ。いい作品になる」
 「はい」貝土は素直に返事を返すと、画廊をあとにした。

 見聞のマンションにいくと先客がいた。
 見聞が紹介してくれたのは、前に来たときに食べた料理を作った女性であった。今回は真っ赤なワンピースに身を包んでいた。目の大きな彫の深い顔をしているが、柔和な面持ちは貝土のように人に接するのを臆してしまう人間にとって安心できる。
 「美鈴(ミレー)菜(ナ)さんだ」
 「先週、料理をご馳走になってしまいました。とても美味しかった」
 「そうですの、ありがとうございます。いろいろな香りのものを混ぜてみましたの」
 「彼は彫刻家の紙野貝土」見聞きが紹介した。
 貝土は白い猫の頭骨の木彫りを見聞に渡した。
 「ほお、新しい作品か。面白いね、今までのとはだいぶ違うが、どうしたの」
 彼は占いの娘との出会いのことを話した。話し終えると、美鈴菜が言った。
 「つばきさんでしょう」
 「そうです、よくご存知ですね」
 「このあたりでは有名な占いの人なの。不思議な人で年はわからないし、どうやって生活しているのかも分からない。占いやってもお金を取らないのよ。だいぶ前になりますけど、私、買い物をしに渋谷の駅に行って、帰りに道玄坂を歩いていると、声をかけられたの、占うからこないかって」
 「僕も同じです」貝土が言った。
 「彼女の部屋に行ったら、わたしが、料理をすることを当てたし、好みもみんな当たったの。しかも、新しい料理のヒントまでくれたのよ。お礼をと思ったら、いらないって、その時、古い崩れそうな本を持ってきて、訳せるかって言うの。私がイタリア人のハーフだってわかったみたい。でも私はイタリア語全くできないの。それで、イタリア語のできる人を知っているといったら、訳してもらえないかというから、東方さんにお願いしたというわけですの」
 「そうだったのですね。美鈴菜さんが作る料理のレシピかと思ってびっくりしたのですよ」
 見聞もはじめて聞いた話しらしい。
 「あの本には、人の生き死にのことが書いてあって、それを操るための料理というか、霊薬というか、そんなものが記されていたのですよ」
 見聞は訳したときの覚書をもってきた。
 アメーバの入った藁から、海綿、水母とイソギンチャク、プラナリヤ、ホヤ、鮫、ガマガエル、カナヘビ、鴉、鼠、猫をつかい、それに様々な、植物の抽出物を加えていた。
 「気味の悪いものでしたね、でもただのお話と思って、つばきさんには東方さんの訳されたのをそのままお渡ししました。占いの雰囲気作りなのでしょう。東方さんには一方的にお世話になりました」
 「いや、僕にとっても面白いものでしたよ。あの本は確かに千六百年代のものでした」
 貝土は話題を変えた。
 「見聞に頼みたいことがあるのだが、いろいろな頭蓋骨の彫刻を作りたいのだけど、科学博物館に知合いはいないかな」
 「いるよ、うちの大学の生物の先生が亀の骨の研究をしていて科学博物館にはよく行くようだ。僕も翻訳をしていて生物の名前で分からないのは彼に聞くんだ」
 「よろしくお願いするよ」
 そこに、メフィストがやってきて貝土の足に擦りついた。
 「一週間でこんなに大きくなったのかい」
 貝土は目を見張った。もう大人の猫と同じぐらいだ。
 「不思議だな、やっぱり他の猫と違ってたのかもしれないね」
 見聞も驚いているようだ。
 メフィストは美鈴菜の膝の上にあがると、ごろごろと咽を鳴らして、顔に擦りついている。やがて丸くなって寝てしまった。
 「東方さんが留守の時、私もメフィストを預かることにします」
 美鈴菜も猫好きのようだ。
 紅茶を飲みほすと、貝土はつばきのところに行くのでと言って、その場を立った。
 美鈴菜が「つばきさんはちょっと怖いわ」と言った。

 彼のマンションを出ると、つばきに電話を入れた。つばきはいつでも来いと言った。
 貝土がつばきの部屋の戸を押すと明るい光が目をさした。前より照明を明るくしたようである。
 「こんにちは」
 つばきが出てきてうなずいた。つばきはこころもち痩せたようだ。 
 「黒猫の骨、ありがとう」貝土は骨の入った箱を渡した。
 「あがって」
 声のトーンがかなり低い。
 貝土は占いの席に座ると、もう一つの箱をだした。
 つばきは黒光りしている猫の骨を台の上に戻し、振り向いた。
 「それ作ったの」
 箱の中の木彫りの骨を見た。
 貝土が取り出すと、みせてとつばきが手に取った。
 「感じるわ、大変、黒猫の骨より強いわ」
 木で彫った骨を猫の骨の隣においた。
 そのとたん、猫の頭蓋骨が動いた。まけずに貝土の木の頭蓋骨も動いた。ぶつかった。宙にまった。落ちた。台の真ん中では貝土の作った木の頭蓋骨がこちらを向いていた。猫の頭骨は少し後ろにさがっている。
 「ちょうだい、これ」
 「個展をするときに使いたいんだ」
 「その時には返すから」
 「うん」
 つばきは占いの席に座った。
 「すごい、二つの振動があたしの頭の中で響いている」
 つばきは黙想に入った。
 かなりたったときである。
 「あなた、科学博物館にいくのでしょう」
 突然大きな声を出した。
 「そうだけど、それがどうしたの」
 「倉庫の隅に猫の骨があるわ、出所不明の札ついているの。大昔にいた猫で化石になった頭の骨なの、存在すら誰も知らないもの。その猫がもし進化の原点になっていたら、今の人間に取って代わっていたでしょう。人間にはない脳の進化があったと思うの。声に出すことなく他と通信できる能力を持った脳だったわ。頭骨を振動させ、それが直接相手に伝わる仕組みがあった」
 「そんな動物がいたんだね」
 「そう、その頭蓋骨をあなたが彫ると占いの世界が大きく進歩するわ」
 「ふーん」
 饒舌なつばきの二つの瞳が真ん中に寄っている。今つばきはつばきではないことを貝土は感じていた。猫の頭骨がしゃべっている。

 しばらくしたある日、青神画廊から電話があった。白く塗った猫の頭骨の彫刻はすべて売れてしまったということだった。購買した人の中には名刺をおいておく者も多く、見ると占い師、霊感師、精神科の医師などがいるとのことであった。五十個ほどの注文を受けた。
 それから、一週間かけてとりあえず十二個の猫の頭蓋骨を完成させて画廊に届けた。
 個展担当の青山が言った。
 「来年の五月二十日がこの画廊の二十周年になるのだけれど、その記念展をしようと思うのだが、どうです、貝土さんの個展をしませんか」
 とてもありがたい申し出である。
 「これから、頭骨を彫ろうと思っています。それでいきたいと思いますが」
 「それはいいですね、是非お願いします。来年五月二十日から二週間やりましょう」
 貝土は忙しくなることは嬉しいことではなかったが、楽しみなことも事実である。

 見聞の紹介から科学博物館で頭蓋骨のスケッチを始めた。貴重なもの意外は特別に貸し出しもしてくれた。科学博物館とアトリエの往復は一月ほど続いた。その間にいくつかの猫の頭骨を彫った。想像を交えた頭骨も作るようになった。
 ある日つばきの言ったことを思い出し、科学博物館の学芸員に、倉庫に変わった動物の骨がないか聞いてみた。学芸員は探すとあるかもしれないから一緒に見てみますかと、未整理の骨や剥製が保管されている部屋に連れて行ってくれた。
 あまりにもたくさんあって、どのように探していいか分からなかったが、猫の骨がありますかと聞いてみた。さすがに科学博物館で、動物種に分けて整理されており、猫関係の骨が一箇所にまとめてあった。
 貝土はそのなかからつばきが言った出所不明の頭骨をみつけた。蜜蝋色をした頭骨で猫の骨に似ていたが、どことなく変わっているようにも見える。
 「これはなんですか」
 貝土はたずねた。
 「猫の仲間なのか、誰かが細工を加えたものかよく分からないので、ここにおいてあります、骨そのものというより化石に近いものです」
 学芸員はそう答えた。
 「これをスケッチしたいのですが」
 「どうぞ」
 貝土は科学博物館の一室で入念にスケッチをした。しかし、スケッチでは生の感触をつかむことができない。
 貸し出しを願いだしたところ、本来なら無理ですが、ご紹介者の補償があれば結構ですということで、借りることができた。
 貝土は、その頭骨の彫刻を始めて七体を作ったところで、なかなか上手くいかないことに珍しくいらだった。
 そのようなある日、つばきから電話があった。猫の頭蓋骨がやけに騒ぐので、一度来てほしいということであった。

 つばきの家に行くと、玄関の戸のところから、がちんがちんと激しい音が聞こえた。ドアを開けると、猫の頭骨と貝土が彫った頭骨がぶつかっていた。
 目を赤くしたつばきがそこに座ってほしいと椅子を指差した。
 貝土が椅子に腰掛けると頭骨たちは静かになった。
 つばきは瞑想に入った。
 一言、ポツリと言った。
 「あなた、一年後の今日、五月十八日に死ぬわ」
 貝土はぞくっとした。なんと怖いことを平気で言うのだろう。それでは個展が開けない。
 「どうやって死ぬのだろう」
 「朝になると、首をつるわ」
 そういわれても今の貝土には実感がわかなかった。
 つばきはそれ以外何も言わず、奥の部屋に入って出てこようとはしなかった。

 物事に頓着しないさすがの貝土でも、五月十八日は頭の中でひっかかったままとなった。
 それは逆に彫刻へエネルギーを注ぐ力にもなった。貝人は忘れるためにも木を彫った。おかしなことで、その時から作るものすべてが端から端へ売れるようになった。動物の頭蓋骨の木彫は美術誌にも取り上げられた。わざわざ外国から買いに来る占星術や霊感の大家もいた。
 彼の名前は日本だけではなく世界にも知られるようになったのである。
 個展のためにためておいた頭骨の彫刻もかなりの数になった。しかし、あの名前の分からない猫の骨はまだ完成していなかった。
 あまり長く借りておくことはできないこともあり、骨は科学博物館に返してた。たまに見に行くと女性の学芸員は不思議そうな顔をしてその骨をもってきた。
 「この骨のどこが面白いんですか」
 貝土はつばきが言った脳が特殊化していた可能があることをを伝えた。
 学芸員は驚いた顔をした。
「どなたが言ったのか知りませんが、今までそのようなことを考えたこともありません、そうであれば私も大変興味があります、調べてみますので、私の机に保管しておきますから、見たいときにはいつでもいらしてください」
 その後、何とか出来上がった不思議な猫の頭骨の彫刻をもって科学博物館を訪ねると、学芸員は頭骨を調べた結果を教えてくれた。
「この猫の仲間の骨は細工などされていない自然のもので、まだ名前の付いてない種類のもののようです、頭蓋骨の頭の部分は普通ですと、五つほどに分かれるのですが、三十八に分かれています、こんな頭の骨を持つ動物はおりません、この間お聞きした、骨を振動させて音をだす構造を構築するには、このように細かく分かれていてたほうがよいのかもしれません、ですが脳が残っているわけではないし実証できません、SFの世界になってしまいます、その仮説はおいておいても形としてとても面白い骨です、どのような猫だったか復元してみようかと思います」
 彼女はとある大学の人間科学部の大学院を卒業した博士さんだった。脳の研究で学位をとったそうだ。名刺を見ると名前は曽我魂子(たまこ)とあった。
 貝土にとって、その話はどうでもよいことであった。机の上のその骨の脇に自分で彫った頭骨を並べてみた。
 魂子はそれを見て、
「よくできていますね」と言って席を離れた。
 魂子が部屋から出て行くと、机の上の骨と彫刻が小刻みに振動し始めた。ブーンという音が貝土の頭に響いてきた。
 彫刻は完成している。
 そう思った貝土は彫刻をしまうと科学博物館をあとにした。

 もうすぐ死の予告をされた日がくる。あの日以来、貝土はつばきの家に行っていない。見聞だけにはその話をしたが、彼は笑った。
 「そんなのは嘘だ、お前が首をつるなんて考えられない、自分でもそう思わないか」
 そう言われて、貝土は大きくうなずいた。
 しかし彫刻をしている間は死の日のことを忘れていても、やはりふっと気持ちのよくないものが頭よぎることがままあった。
 今では猫だけではなく、多種多様な動物の頭骨と想像の動物の頭骨がアトリエにところ狭しと置いてある。ずいぶん作ったものである。これだけの数の頭の骨に囲まれていると楽しくなってくる。
 そんな中で、ふと貝土はおかしなことに気がついた。人の頭骨がない。人も動物じゃないかと貝土は大きな忘れ物をしたような気分で奇妙にあわてた。
 貝人は自分の頭の寸法をいろいろな道具を使って測定した。頭の各部分の長さ、眼窩の形や大きさを割り出し図面をひいた。それをもとに木を彫った。出来上がったと机の上の頭骨を見て、自分の頭は小さくて細長いなあと思った。
 個展に出すものがすべて完成すると、五月十八日が再び頭に浮かんできた。明後日である。もし占いがあたっても木彫りの自分の頭骨は動物の頭骨に囲まれてどこかに保存されるのかと思うとちょっとほっとするところでもあった。
 貝土はすべての骨をエアキャップでくるみ、ダンボールに詰め、いつでも運び出せるようにした。十九日には青神ギャラリーがまわしてくれた搬送車がくる。果たして自分はその時に立ち会えるのだろうか。気にしないといってもやっぱり気になるのはしかたがないことだろう。

 五月十七日の夕方に貝土は見聞に電話をし、行くことを伝えた。やっぱり一人だとなんとなく不安だった。ポケットに古代猫の木彫りの頭骨を入れアトリエを出た。
 渋谷の彼の部屋の呼び鈴を押すと見聞がドアを開けた。
 貝土をみると「何だ、浮かない顔をしてるな」と言った。
 「つばきに言われたことがやっぱり頭にあるんだ」
 「そりゃそうかもしれないが、貝土らしくないな、いや、らしいのかもしれないな、普通の人じゃもっとパニックになっているかもしれないからな」
 「そうかもしれない」
 貝人が見聞きの部屋の中に入ると奥のキッチンからコップと氷をもって女性が出てきた。
 貝人はその女性を見て目を丸くした。
 「あ、あ、あ」
 としか言えない貝土を見て見聞きが笑った。
 「曽我魂子だ、知っているだろう」
 貝土はうなずいた。科学博物館の学芸員だ。
 魂子も笑った。魂子は博物館にいるときとは違って緑色のロングスカートをはき、髪は長くたらしている。こんなにきれいな女性だとは思っていなかった。
 「こんにちは」
 魂子は澄んだ声を出した。博物館のときとは全く違う。
 「ど、どうして」
 貝土が突っ立ったままなのを見聞きが椅子に座らせ、魂子がその前にグラスを置いた。
 「貝土が見つけた科学博物館の古代猫の骨がイタリアあたりから出たものらしいということで、彼女がイタリアの文献をあたっていてね、イタリア語が分からないから教えてほしいという依頼を科学博物館から受けたのだよ」
 貝土がうなずいた。
 「お世話になりました」やっと声を出した。
 「いいえ、むしろこちらからお礼を申し上げますわ、あんなに不思議な骨があるなんて知りませんでした、あれから私が夢中になって調べているのです」
 「貝土が熱心に骨のスケッチをしていたことを聴いたよ」
 「うん、おかげで、いい個展が開けそうだけど、十八日が気になってね」
 「明日過ぎれば笑い話だよ」
 魂子がスケッチブックをもって来た。
 「これがあの古代猫の復元図です」
 頭だけであったが猫の顔がいろいろな角度からスケッチされていた。今の猫とそんなに違いがないが、頭がもっと大きくドーム状に丸くなっている猫であった。毛の色は分からないので黒くしてみましたと、黒猫の顔になっていた。いまの猫より、もっと頭でっかちで可愛かったかもしれない。
 見聞きがちょっと照れながら言った。
 「いい話をしてやろうか、魂子と婚約してね」
 貝土はまたびっくりした。
 「ええ、いや、そりゃ、おめでとう」
 貝土は魂子を見た。ちょっと頬を赤くしている。
 「今日は、ゆっくり飲んでくれよ、好きなウイスキーも用意しといたから。魂子もウイスキーが好きで強いんだよ」
 「うん、ありがとう」
 「泊まっていけよ、明日の朝は一人じゃないよ、心配するな」
 見聞の配慮だった。
 玄関の呼び鈴が鳴った。
 「美麗菜さんだわ」
 魂子がドアを開けに行った
 美鈴菜が料理を抱えて入ってきた。
 「貝土さん、個展もうすぐですね、楽しみですね」
 彼女は料理をテーブルに載せた。
 「わー、おいしそう」
 魂子が、声を上げた。
 貝土は笑顔の美鈴菜をみてほっとした。気持の休まる笑顔だ。
「ありがとうございます」
 「さー、飲もうや」
 見聞が声をかけると、魂子が、貝土のウイスキーグラスにラガブーリンをそそいだ。
 「黒い猫ちゃんどうしたの」
 貝土が聞くと
 「それがね、メフィストはこの二、三日帰ってこないんだ」
 見聞が心配そうに言った。
 それから四人して食べて飲んでイタリアのことや猫のことを遅くまで話した。
 貝土はいつ寝たのか覚えていなかった。

 あくる朝、貝土は見聞の寝室で目を覚ました。昨日はだいぶ飲んだ。いつの間にかパジャマを着ている。見聞のだろう。自分の衣類はそばにたたんであった。着替えて居間に行くと、テーブルに朝食が用意してある。白い器に山のように積み上げられている苺を魂子と美鈴菜が摘まみながら話をしている
 「おはようございます、歯ブラシ、洗面所に用意してあります」
 魂子が貝土を見ると言った。
 「私たちずーとお話していたの」
 美鈴菜が笑った。
 自分を見張っていてくれたのだろう。
 見聞きはと見ると、ソファーに丸まって寝ている。
 貝土は挨拶をしてから、洗面所に向かった。
 首をつろうなどという気持ちにはまったくなっていない。やっぱりただの占いだろうという気になってきた。
 歯ブラシを使っていると携帯の電話が鳴った。電話に出るとすぐに切れた。つばきからであることは分かった。
 歯を磨いてから居間に行くと、見聞も起きて顔も洗わずコーヒーを飲んでいた。
 「昨日はありがとうございました」貝土は改まって皆に礼を言った。
 「つばきさんから今電話があったのですけど、出る前に切れたんです」
 「変なことを言ってすみませんという誤りの電話じゃないか」
 浮かない顔をしている貝土に見聞が言った。
 その電話は貝土に何か今までとは違った不安をかき立てた。
 「ちょっと行ってみるよ、まだ朝だけど、これからぼくが首を吊るわけはないから、大丈夫」
 貝土は出かける用意をした。
 見聞は何かを言いかけたが何も言わなかった。
 「イチゴを召し上がってください。今コーヒーをいれますわ」
 美鈴菜がキッチンに行った。
 貝土はイチゴを数粒口にすると、コーヒーを飲み立ち上がった。
 「それじゃ、つばきのところに行って、後で様子を電話します」
 みなが玄関まで送りに来た。
 「行ってらっしゃい」
 「話が終わったらもどってこいよ」
 貝土うなずくと外に出た。つばきの電話の意味を考えた。何を言いたかったのだろうか。
 見聞とつばきの家は意外と近い。ちょっと歩くとポケットの古代猫の頭骨が振動し始めた。つばきの家の前に来るとその振動は激しくなった。家の中から頭骨と貝土が作った頭骨のぶつかり合う音が聞こえた。
 呼び鈴を押し、戸をたたいたが誰も出てくる気配はない。戸を引いてみると鍵がかかっていなかった。貝土は開けて中に入った。
 部屋の中は太陽の下のように明るく周りが輝いていた。余りの光の強さに貝土はのけぞった。
 光の中で貝土の目に異様なものが映った。
 部屋の真ん中で真っ裸のつばきが天井から吊る下がって揺れている。
 その下で黒猫の頭骨と木彫の頭骨がぶつかりあっている。
 貝土は足が震えた。
 そのとき、いきなり入口の戸が開いた。振り向くと大きな真っ黒な猫が入ってきた。
柴犬ほどにもなる大きな黒い猫である。黒い猫は青い目で貝土を見ると歯をむき出した。貝土には笑ったように見えた。
「つばきは死んだか、十八歳の処女が」
 黒い猫が言った。
 「十八歳だったんだ」貝土の口から声が漏れた。
 「そうだ、つばきは俺の頭骨とあんたの木彫りの頭骨との争いが聞こえすぎて、ノイローゼになった。それで首をつった。怒っていた俺の骨がつばきを攻撃しようとするのをあんたの作った偽物の骨は押さえようと懸命だったのさ」
 貝土はこの大猫をどこかで見たと思った。そうだ、見聞の猫だ。
 「メフィストなのか」、大猫はうなずいた。
 「あんたへの死の予告はつばき自身への予告だったのだ」
 メフィストは貝土に向かって言った。
 メフィストは、すーっと影のように大きく伸び上がると、つばきを床におろした。元に戻ったメフィストは、虎のように大きな頭になると、死んだ椿を咥えるた。そのまま風呂場に運んでいくと、バスタブに横たえた。貝土もついていった。
 メフィストは熱いシャワーをつばきにかけた。
 「この娘はわしが生き返ろうとするのをおぼれさせ、煮てわしの頭骨を取り出したのだ、猫のエキスが欲しかったためにな」
 メフィストが笑った。
 熱いシャワーはつばきのからだを溶かした。つばきの顔は溶け出し、小さな乳房も溶け、肋骨があらわになり、手の骨が残った。白い腹部が流れ出すと、骨盤と足の骨がバスタブの中に伸びた。やがて骨も溶けて、バスタブの湯の中に、頭骨だけがコロンと残った。
 メフィストはつばきの頭骨を咥えると、小さい頭だといいながら、祭壇の上にもっていった。
 黒い猫は足を前に投げ出して熊さん座りをした。貝土にも前に座れと目配せした。
 黒い猫は祭壇の下に置いてあった瓶を取り出した。
 茶色くにごった液が入っている。
 メフィストは瓶の蓋をとって貝土に言った。
 「コップにバスタブの中の湯をもってきてくれ」
 貝土はコップを持ってバスタブにいき、つばきが溶けている湯をを入れた。
 メフィストはそれを受け取ると、瓶の中にたらた。すると濁った液体がスーッと透明になった。
 茶色の澄んだ液体は輝いていた。メフィストは瓶を光にかざした。
 「きれいだ、完成だ、人間のエキスを加えればこの薬は出来上がりなのさ、イタリアの修道院で作り出された薬油だ、つばきはこの液を作りたかったのだ、よくあるさ、永遠の命を自分のものにしたかったのだ、お前を人間のエキスにするつもりだったのだぞ、それで連れ込んだんだ」
 メフィストは貝土を見て笑った。
 「お前の作る頭骨は占い師の羨望の的だ、よくできているな」と言いながら、メフィストは自分の頭骨を自分の頭の中にねじ込み、木で作った頭骨を貝土に返した。
 しかし、そこでちょっと考えたメフィストは貝土に渡した木の頭骨を取り返すと、片手を自分の頭にねじ込み、自分の骨を取り出して貝土の木の骨を頭の中に埋めた。本物の方を貝土に渡すと言った。
 「お前のをもらうよ、そのほうが性能が良さそうだ、俺のをやるよ」
 メフィストが占いの席に座った。
 「今度はお前さんの死ぬ日を占ってやろう」
 貝土はあわてて首を横に振った。
 メフィストは笑うと瓶をとった。
 茶色の液体をごくごくと飲んだ。少し残すと貝土に飲めといって差し出した。
 貝土は首を横に振った。
 「大丈夫だ、飲め」、とメフィストは青い眼を貝土にむけた。
 貝土は目をつむると渡された瓶から液体を飲んだ。ただの水の味がした。
 「少しだから、ちょっとばかり寿命が延びただけだ、安心しろ。わしが飲んだ量は死ななくなる量だ。もともと死なないがな、ひゃひゃひゃ」
 そう言ってメフィストは立ち上がった。
 メフィストはつばきの頭骨を咥えてドアを開けた。
 振り返ると、
 つばきの頭骨をいったん下ろして「死ぬまで元気でな」と目じりを下げた。
 再び骨を咥えると、尾をぴんと立てて、尻にある大きな二つの真っ黒な袋を見せびらかすように揺らしながら、のそりとのそりとつばきの家を出て行った。
 手の上の黒い猫の頭骨を見て、猫の頭骨をもう一度彫らなければと場違いの思いを抱くと貝土は立ち上がった。
 ポケットの中でブーンとうなってい古代猫の頭骨の振動が止んだ。
 貝人はふと前を見た。
 はだかのつばきがまだ天井からつる下がって揺れていた。

(「黒い猫」所収、自費出版 2015年 33部 一粒書房) 

渋谷の黒い猫

渋谷の黒い猫

黒猫と悪魔の幻想小説

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-02-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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