Fate/defective Extra edition 2

獣月の黙示録 (後)

 三月のロンドンは寒い。おまけにその日、三月四日の夜は雪が降っていた。
 キイチはコートの襟を詰め、ポケットに両手を入れながら、御代佑の後ろを歩いていた。ぱらぱらとまばらに降る雪が、ロンドンの長引く冬の夜の路面に落ちては消えていく。
「そういえば、彼女はどうしたの?」
 佑がふとキイチの方を振り返った。
「知らん」
「暗号は解けたの?」
「どうでもいい」
「拗ねてるんだね」
「……」
 佑が買い忘れたものがあるから付き合って、夜なら顔も見られないよ、というから渋々付いてきたのに、この有様だ。キイチは深くため息を吐いた。白い小さな霧が生まれ、すぐに空気に溶けて消えていく。別に拗ねてなどいないし、いなくなったらいなくなったで、どうでもいい事だ。
 そう言うと、佑はバゲッドの入った紙袋を抱えてくすくすと笑った。
「でも僕は少し寂しいよ。あの子がいると、みんなが笑顔になるし」
「あれは面白がってるだけだ」
「そう?」
「そうだよ。お前、そういうところ本当に鈍いな」
 他愛のない会話が交わされる夜の通りには、寒さと雪のせいかほとんど人がいない。二人が口を閉じると、風と、時折道路を通り過ぎる車の音しか聞こえなくなった。キイチは何気なく、反対車線の歩道を見やった。ところどころに街路樹の植えられた、極めて平均的なロンドンの町並みが見える。三階建てから四階建てほどの建物の窓から漏れる暖色の明かりが黒く濡れた路面を照らし、マンションや、ホテルや、それ以外の何か、それらの扉はぴったりと閉じられている。
 だが、キイチが何気なく眺めていたホテルと思しき建物の扉の一つが、唐突に開いた。
 何のことはない。雪の中でも外出する人間はいるし、別段珍しくも何ともないのだが、キイチがその開かれた扉から出てきた人間の姿を見た時、軽く驚いた。
 他の誰でもない、スネグラチカその人だ。
「……」
 声を呑んだ。前を歩く佑が気付いた様子はない。だが道の反対側で、今まさにホテルの玄関を出て、階段を降りようと足を踏み出したスネグラチカは、何かに導かれるように顔を上げ、こちらを見た。顔は見えないが、はっきりと目が合ったことを確信する。
 スネグラチカはそのまま、固まったように動かない。
「キイチ?」
 はっとして佑を見る。今、声をかけたのは佑だ。彼は立ち止まって、眼鏡越しに心配そうな視線を投げかけてくる。
「どうしたの? 何か―――」
「なんでもない。寒いから、帰ろう。早く」
 うん、と再び前を歩きだした佑の後ろを歩きながら、一瞬だけホテルの玄関に目を向ける。
 少女は階段の上から、キイチの方を真っ直ぐに向いていた。顔は見えない。ちらつく雪の中、少女と彼の間を通り過ぎたバスに釣られるように、キイチはスネグラチカから目を離した。



 数日前まで疎んでいた人間を、逆にこちらから探すというのは、不思議な体験だ。
 結局、夜のロンドンでスネグラチカを見た翌日の午前も午後も、彼女がキイチを追って研究室に来ることは無かった。教授に釘を刺されたせいだろう。だが夕方になって、キイチが佑より早く帰り支度を始め、研究室を出ていつものように回り道をしても、スネグラチカがやってくることは無かった。
 姿を見なかったから、この街にいない物ものだと思っていた。
 だが、いるのに会わない、というのは腑に落ちない。自分からあんな問題を出しておいて、一体どういうつもりなのか。この数日、微妙にやきもきしてしまった時間はなんとすればいいのか。彼女を見なかったこの数日、あの不穏な予感が的中するのではないかと、認めたくはないが―――心中は穏やかでなかった。
「……くそ」
 考え付く限りの遠回りを繰り返した後で、とうとう辿り着いてしまった自室のドアの前、独りで悪態をつく。
 これでは、まるでスネグラチカに会いたいとすら思っているようではないか。
 違う。佑やアリアナが言うような、甘ったるい感情ではない。ただ押し付けられたものを清算しなければ気が済まないだけだ。
 キイチは辿り着いたドアの前で回れ右をする。実に不本意だが、これ以上待つことは出来ない。解いた謎の答え合わせを四日も待ったのだ。もう十分だろう。
 彼はコートのフードを久しぶりに目深にかぶって、宵の街に繰り出した。




「家とは、それすなわち呪いのようなものだね」
 その男は煙草に火をつけながら言った。
「俺も、あんな魔術師の家に生まれていなかったら―――と思うことはあるさ。でもねぇ、生まれたからには仕方ない。その時、一番為すべきことを為した者だけが、次の世代へと呪いを引き継いでいく。これは、そういう先代からの一生懸命な呪縛レースなのさ」
 高級な調度品で整えられたホテルの一室に、煙草の煙が揺蕩う。私は煙草が得意ではない。緩慢に死んでいく葉の臭いは、いつになっても好きになれなかった。それでも私は、黙って窓辺に立っている。
 その男の言葉は驚くほど心に響かなかった。男は沈黙を守る私の顔をじろりと見た後、まだ長い煙草をあっけなく消す。そしてその屍のように長い指で、私の頬を絡め取るように捕えた。
「可愛いスネグラチカ。何も怖がることはない」
 私に、魔力の掛けられた宝石の微小片を赤ワインに紛れ込ませて飲ませた時も、この男はそう言った。本当に馬鹿だ、と私は思う。だけど私は、その言葉を胸にしまいこんで、媚びるような視線を男に向けた。
「そうでしょうとも。わたくしは貴方のことを恐れたことなどありませんわ」
 気味の悪い手が髪の隙間に滑り込む。私は粟立つ肌を悟られないように男に身を寄せる。
 ああ、私はこうして、『スネグラチカ』になっていく。
 生きていくためには、とこの手を取った。死と狂気の瀬戸際にいた私を引き上げてくれたこの手。だがその先は、更なる奈落でしかない。その時から、自分が理性のある獣なのか、狂気に呑まれた人間なのか、常にその間を揺れ動くしかない日々を送っていた。煙草のように、緩慢に殺されていく毎日だ。
 誰か、私の背を押してほしい、と望み続けた。決心を躊躇う邪魔な良心を、諸共に崩して、一息に私を狂気の奈落へ落としてしまえばいい。
 




 夕闇が深くなった頃、キイチは「何故これほど必死になってスネグラチカを探さなければならないのか?」という至極当然の結論に至った。先日彼女を見かけたホテルの玄関口に立ってみたり、時計塔の研究室をのぞいてみたり、鉱石科の学棟の方へ足を向けてみたりしたが、その努力もむなしく、彼女の姿をちらとも見かけることは無かった。
 何をしているんだ、僕は。
 夕陽がすっかり落ちて空が藍色に塗り替わる頃、キイチは呆れを通り越して腹立たしくなってきた。そもそも、何故僕がこれほどまでにあの女を探さないといけないのか。少し前に歩いた、高い塀に囲まれた裏道を歩きながら憤慨する。空にはもう月が昇っているし、空気は秒読みで冷たく凍っていっている。息が白いし、頬は氷のように冷たくなっている。荒い足取りで段差を上っていたキイチは、突然足を止めた。
 あ、馬鹿らしいな、これ。
 呆れたり、憤ったり、なぜ僕が彼女にここまで情緒を揺さぶられなければならない?
 そんなことをしていた自分が突然滑稽に思えて、キイチは立ち止まる。夜の空気のように冷え切っていく頭で、ああもう帰ろう、ときびすを返した時だった。
「探しましたわ、キイチ」
 鈴を転がすような少女の声に、彼の踏み出しかけた足が留まる。少し間をおいて、キイチは声の方を振り返った。
 高い塀に挟まれた、人一人分の幅がやっとの狭い道に、銀髪のスネグラチカは立っていた。黒い修道服のようなワンピースを纏い、月を背にしている彼女は、いつものように無邪気な笑みを浮かべた。
「昨夜、お見かけしたのですけれど、ご友人と連れ立っていましたから。けれど今日は、見つけるのにずいぶん時間がかかってしまって……。それより、こんな夜に、おひとりで?」
 キイチは黙っていた。スネグラチカを探してうろうろ歩き回っていたのだ、とはとても言えない。言ったら、きっと調子に乗るから言わない方がマシだ。
「別に、何も」
「そうでしたの。よろしければ表通りまでご一緒しませんこと?」
 彼女は数歩段差を降りて、キイチに歩み寄った。その様子は驚くほど普段と変わりない。あんなメッセージを送りつけておいて、もうとっくに興味が無くなったような振る舞いで、いつも以上にいつも通りに、彼に向かって歩いてくる。
 キイチは目を細めて彼女を見た。
 気に入らない、と思った。それでも、謎の答えは明かされなければならない。きっと後には引けないだろう。人間の本性は、好奇心で暴いていいものではないと知っていた。一度知ってしまえば、その人間の人生に責任を負うことになる。そしてスネグラチカは、あの暗号のメッセージでそれを強要してきたのだ。
 自分の人生にすら責任を負えないのに、何故、この少女の人生に横槍を挟まなければならないのか。
 彼女がそれを望んだ答えを聴くために、僕はメッセージに従うように、その問いを投げかけた。
「――――お前、名前は?」


 虚を突かれて、スネグラチカは一瞬表情を失う。
 もうどうでもいいと思っていたのだろう、彼女は。そして僕が、もう期限を過ぎたから、という理由で無かったことにしたと踏んだのだろう。
 本人がそのつもりでも、僕はないがしろにする気など毛頭なかった。
 スネグラチカはその問いを耳にして、初めてあの無邪気な笑みを完全に消した。代わりに浮かび上がってきたのは、あの疲弊した表情だ。微笑みの一つすら浮かべず、足元を見つめる目には生気が一切無い。銃弾に倒れた人間がゆっくりと血を流しながら死ぬ間際に浮かべる、そういう表情だった。
 僕はこの顔をよく知っている。
 長い時間をかけて、ゆっくり生気というものを搾り取られてきた顔だ。死んでいるのか、生きているのか分からないし、どっちでもいいという顔。スネグラチカという偽の面を剥ぎ取った下から出てきたものは、予想通りといえばその通りだった。
「……わたし、ナディアっていうの」
 彼女はそう口を開いた。今は、スネグラチカではない。スネグラチカのたおやかでよく教育された面は霧散し、彼女の「本性」が姿を現す。
「そうか」
 僕はそれだけ言って続きを待った。指先が石のように冷たくなってきたが、それは彼女も同じだろう。寒空の下、暗い裏道で、僕らは向かい合っている。
「わたし、結婚するのよ。許嫁が……いるから」
「……それで?」
 スネグラチカはそこで初めて僕の顔を見た。
 疲れ切った目の色が、突然糸をきつく縛ったように変わる。死の瀬戸際で水面に浮かび上がっていた魚が、ぱっと息をふき返して尾びれで水面を激しく叩くように、スネグラチカの目は唐突に意識を取り戻した。
 その異常なまでの意志の強さを肌に感じ、僅かに慄いた瞬間、彼女が先に口火を切る。

「相手の人、千陵地景っていう魔術師なのだけど、知っているかしら」



 心臓が跳ね上がる音が聞こえたかと思った。
 静かで冷たい夜に、自分の心拍だけが響いているような錯覚に陥る。冷たい汗が身体から噴き出し、僕は身を震わせた。
「――――知らないな」
 一瞬で嘘と分かるような、下手な演技だと自覚していた。それでも、今、僕は彼女に対して偽名を名乗っている。千陵や、天陵のことは何も関係が無い、ただの一人の青年として振る舞わなければ。―――だが、スネグラチカは容赦なく言葉を続ける。
「そう。私ね、その人に本当に酷い扱いを受けたのよ。でも仕方ないの。父も、跡継ぎの姉二人も、発狂して死んじゃったんだから。頼れるのは、その男だけ。
 その男は、魔術師一族の当主になりたいが為に、跡継ぎの子を殺しているのよ。
 まだ、小さい、十歳の子供だったのに――――」
 その言葉を聞いた瞬間、眩暈がした。
 脳に繋がる血管を、地面から伸びた手が引っ張っているような激しい眩暈が襲ってくる。息が切れる。もう「知らない」などという嘘は、小さい子供の戯言と同じだ。それでも目の前のスネグラチカは、言葉を止めなかった。

「家に火をつけて、一家皆殺し。それで当主の座に就いて、珍しい血統の女魔術師を許嫁にして、本当、酷い話だわ。もしその跡継ぎが運悪く生き延びていたとしたら―――あの男、どうなるのかしら。ああ、でも、その子、きっと酷い火傷を負っていて、顔を見ても分からないかもね?」

 冷酷な笑みを浮かべ、まるで明日の天気の話でもするように飄々と言ってのけたスネグラチカを見て、確信する。
 彼女は、僕がその跡継ぎであることを、とっくのとうに知っているのだ。
 無邪気な顔の裏で、内心、嘲笑っていたに違いない。ずっと、僕がその無様な姿を隠しているのを見て。
 僕は突然冷静になった。ああ、初めから嘲笑されていた相手になら、もう何も必死になる必要は無い。今まで身内に存在を気づかれないよう身を隠していた努力も、佑やアリアナ達との平穏な日常を守るための工夫も、最初から全部水の泡だ。
 だから、見ているだけで良かったのに。ただの傍観者で良かった。見ず知らずの誰かに、無条件に好かれるわけないと、拒否し続けてきたはずなのに。
 もう何もかも遅い。僕は腹を括って彼女に聞いた。
「それで、どうするんだ? 僕をあの男に売るのか」
 だが、彼女は意外にも首を横に振った。

「いいえ、何を言っているの? そんなことしないわ。
 だって私、これからあの男を殺しに行くんですもの」



 灰色の雨に肩を濡らしながら、私はいつまでもその墓標に向かって祈っていた。
「もういいだろう。行くよ、ナディア」
「……」
 後ろに立つ男の言葉を無視して、私は一層深く墓標に祈り続ける。男は苛立ち、革靴で霊園の砂利を蹴り散らした。
「さっさとしろ、愚図! お前は今日から俺の許嫁だ。もうお前の家は没落したんだよ。いい加減、認めたらどうなんだ?」
 私は肩を震わせて、黒い喪服の裾を握りしめる。その右腕には、父と姉たちを狂気に陥れて殺した、呪いの紋が刻まれている。
「……たい」
「は?」
「帰りたい、帰りたいの! あんたの所になんか、もう行きたくない!」
 私は足元の砂利を掴み、思いきり男に向かって投げつける。雨水の混じった砂利が、男の黒い服に染みを作った。私はその間に走って逃げようとしたが、髪を掴まれ、引き戻される。
「帰りたい、だなんて。お前は何歳になったんだ? 十四だろう。いつまでも子供みたいなことを言って、大人を困らせるもんじゃない」
「痛い、放して! いやだ!」
 もがく私の頬を、その男は殴った。地面にうつ伏せに倒れ、顔を強く打つ。
 髪を握られ、無理矢理男の顔を見上げさせられる。私はその目を激しく睨み付けた。
 男は言う。
「そう喚くな。当主の許嫁になるんだぞ、お前は。何、そう悪い暮らしではない。当主に歯向かわなければ、それなりの扱いをしてやろう。賢く従順な人間として俺に従うか、愚かでどうしようもない人間として犬畜生のように生きるか―――それは君が決めればいい」
 睨み付ける私が、それでも何もしないのを見て、男は満足そうに笑った。その手で私の身体を起こし、服の泥を払う。
「そうだ。ナディアという名前は良くない、昔のことを思い出して寂しかろう。そうだな―――スネグラチカ、という名はどうだ? 可憐な雪娘の名は、君に相応しい」


 それからは、奈落の底のような日々が続いた。
 好きでもない男に、媚を売って生きる毎日。その男が喜ぶしぐさ。その男が喜ぶ言葉づかい。賢く、従順な、人間の皮を被って生きていた。自分の根底にあるのが、激しい憎悪と、いっそ殺してほしいという願望であっても、それをひた隠し、愛想よく、気に入られるように振る舞ってきた。私の血統でしか私に価値をつけない男に、形だけの寵愛を得るために。
 最初に男が言った言葉だけは本当で、従順になればなるほど私は『それなりの扱い』を受けられるようになっていた。自分の唯一の価値である魔術を習得するため、制約付ではあるが時計塔にまで通えるほどの立場を得た。
 獣が芸を覚えることに満足を覚えていくように、私はその生活に満足することで、自分にまとわりついた呪いと、希死念慮を忘れることが出来た。
 そうして一年が過ぎたころ、私は一つの話を聞いた。


『あの男は、本家の血筋じゃない。前当主の弟と名乗っているが、実は、余所から来た養子にすぎない』
 そして養子である自分が当主になるため、年端もいかない子供まで殺したのだと。
 私はその時、はっきりと絶望したのだ。
 ―――――今まで、私は何をしていたんだろう。
 利己的に子供を殺すような男に生かされ、媚まで覚えて。それに満足して、一人前の面をして勉強などをして。今までの生活が、突然滑稽に思えて仕方なかった。誰かから奪って得たものの上に平気でがらくたを築いて、一人前の人間のような顔をしていたのが、哀れにすら思えた。
 その時から、自死という言葉が頭から離れなくなった。
 寝ても、醒めても、常に死の願望は後ろをついて回る。何度も実行に移そうとしたが、その度に阻止され、監視の目が一層強くなるだけだった。
 私の希死念慮は、すぐに男への憎悪の再燃につながった。
 ――――そもそも、あんな男が生きているから悪いのでは?
 そうだ。そうに違いない。私は悪くない。あんな人間が世に憚っているから、みんな不幸になるのだ。その子も、私も。あの男は、誰もを不幸にする。矮小で卑劣で傲慢な、権力に溺れたただの魔術使い。
 彼が死んで、誰が困るというのだろう?

 その覚悟を決めた日だった。「キイチ」と名乗る、不思議な匂いの青年と偶然出会ったのは。



 冬に咲く花があるとしたら、こういう匂いだろう。私は、もうすっかり良く知った匂いを夜の冷えた空気と一緒に吸い込んで、いまだに興奮冷めやらぬ肺を満たした。
 目の前に立つキイチは呆気にとられている。私の言葉の真偽を推し量っているのか、それともただ呆然としているのか。いずれにせよ、彼が口を開いたのは、私が何度目かの深呼吸をした後だった。
「――――――殺しに行く? どうやって」
 キイチの声は酷く掠れていた。まるで何年も使っていなかった機械を、無理矢理動かしているかのように。
「難しい事ではないわ。あの男は今、ロンドンのホテルで会食をしているもの」
「それでも―――」
「ねえ、お願い」
 私は震える唇で、その先を続ける。
「お願い、どうか……一度だけでいいのです。貴方の本当の名前を、わたくしに教えてくださいまし。それだけで、それだけでわたくしは―――」
 右腕の刻印が、脈打つように熱くなった。
 それだけで、私は、きっと、あの男を殺せる。何のためらいも無く。愚かでどうしようもない畜生とやらに、成り果ててみせる。小我に呑まれた人間か、理性ある獣か、揺れ動いた余韻も無く。きっぱりと、完璧に狂ってみせる(・・・・・・・・・)。 
 彼の唇が動いた。



「………天陵、那次だ」



 スネグラチカは、肩を震わせて大きく息を吸いこんだ。それだけでビリビリと空気が揺れるような威圧さえ感じ、那次は一歩後ろによろめく。
 長袖のワンピースの袖から、浅葱色の光が漏れる。尋常ではない量の魔力が彼女に集中していた。
「……ありがとう」
 スネグラチカは言った。
 それから、ぎゅっと目を瞑り、次の瞬間には厳しい声色で那次に叫んだ。
「走って! この道を抜けて、大通りまで!
 決して私を振り向かずに、決して私を追いかけずに―――」

「去れ、那次!」
 



 那次は反射的にスネグラチカに背を向け、狭く暗い道を表通りまで走る。
 何故、と頭では考えていた。だが、従わなければならない、という強迫観念にも似た意思が、那次の身体を前に進めた。
 少しも走らないうちに、背後で遠吠えが聞こえる。
「……遠吠え?」
 考える暇も無く、那次は裏道を抜け、大通りへと転がり出た。眩しい街の明かりが、暗闇に慣れた那次の目を眩ませる。道をゆく人々は、突然息を切らして目の前に現れた醜いケロイドの青年を見て眉をひそめたが、その背後から飛び出したものを見て悲鳴を上げた。
「――――狼だ!」
「……は?」
 那次は後ろを振り返った。通行人が悲鳴を上げ、逃げ惑う夜の街に、馬ほどの背丈の銀狼が、那次が走り抜けてきた道からひらりと現れる。
 そのあまりにも非現実的な姿と、纏っている魔力の多量さに驚愕する間もなく、巨大な銀狼は那次に興味も示さず、街の中を一直線に駆けていく。
「まさか」
 騒然とする街の中で、那次は一人愕然として立ち竦んだ。
 彼は確かに見たのだ。
 あの狼の右前脚に、浅葱色の魔術刻印が刻まれていたのを。


 バン、と思いきりドアを開けると、まず鼻についたのが血の臭いだった。
 ホテルの職員の制止を振り切り、その宴会場に駆け込む。狼が、と大騒ぎする人々の間を押しのけ、野次馬の間を抜けると、その一角が見えた。
「―――――これは……」
 薙ぎ倒されたテーブル、散乱するワイングラスや食べかけの料理、テーブルクロスなどがまとめて血の海に沈んでいる。その中央付近に、スーツを着た男だけが倒れていた。狼の姿はどこにもない。銀髪の少女も見当たらなかった。

 少し、老けたのか。
 男はざっと見ただけでも、もう助からないだろうという致命傷を幾つも受けていた。何度も何かに打ち付けられたような打撲による内出血の痕が皮膚に浮かび上がり、腹は目も当てられない程に裂かれている。頭の齧られたような鋭い切り傷から、大量の血が溢れていた。
 生涯をかけて憎み、恐れていた人間が目の前で死にかけていても、何の感慨もわかないのか、と那次は思った。
「……あ、あ、おま、お前、あ」
 気丈にも、瀕死の男は、目の前に現れた那次を見て声を上げる。
 那次は感情のこもらない目でその男を見下ろした。
「あ、おま、おま……えが、あの……あれを……けしかけ、」
 もう、呆れて何も言う気にもなれなかった。
 何も答える必要は無いし、何も言う必要も無い。どうせ、この男は助からない。
 だが、その言葉は、気付いた時には口から零れていた。
「いいな、お前は」


「すぐに死ねるんだから」






 さようなら、悲運の人。
 
 家とは、それすなわち呪いであった。
 私にとっても、彼にとっても。私が受け継いだ獣性魔術という家は、私に価値を付けた。那次が生まれた家は、それもまた、彼に価値を付けた。私たちは、価値に翻弄され、家に縛られてきた。
 それでも、私たちがそれぞれ取った手は、全然違うものだったのだ。
 私が取った手は、更なる奈落への案内役だった。誰かを踏みにじって生きていた。媚を売って、恥辱も、屈辱も忘れて、飼い慣らされた生き物みたいに生きていた。
 那次が取った手は、きっと、本当の光の手だったのだろう。
 彼の景色は、一面、血と火の海だった。今は、それを静かな雪に覆い、高貴な一本の楔だけを宿して生きている。冬に咲く花があるとしたら、きっと彼のような香りがするだろう。惨憺たる景色の中で、彼はいったい、どんな気高いひとの手を取って、ここまで来たんだろう。
 
 那次を縛ってきたものを、ひとつでもいいから消してしまいたい。
 私は、那次の手を最初に取った、高貴な誰かのようにはなれない。彼を支えてきた、友人たちのようにもなれない。その資格が無い。
 ならば、せめて、彼の憎んだものを、これからは見なくてもいいようにしたかった。


 ――――わたし、那次の役に、立てたかしら。
 四つ足が、地面を駆ける。遠くへ。遠くへ。もう二度と出会わないほどに。
 遥か遠くまで、この獣の足で、駆けていく。

Fate/defective Extra edition 2

Fate/defective Extra edition 2

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-21

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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