薫る箱の中

連作短編「一縷の巡り」シリーズとなります。
今回は、ひねくれた病人と軽薄な同級生のお話。

一縷の巡り──1話「薫る箱の中」

　午後二時、快晴の空が広がる。

　じりじりと照りつける太陽が肌を焼き身体から水分を奪っていく。近場だから平気だろうと暑さ対策をしなかった数分前の自分を恨む。目的地までそう時間はかからないが、なにぶん気候を考慮しなかったこともあり歩くペースは予定時間を軽く越していた。
　自宅から出て数分にも関わらず滲む汗は留まることを知らない。先ほどから襟首を手繰って雑に汗を拭うが、効果はさして見当たらないようだ。

「最高気温三十八度……？　……猛暑、真夏日。地獄の釜茹で……」

　あまりの暑さに現状から目を背けたくなる。
　片手で携帯端末を弄り、目に飛び込んできた数値に唖然とした。まだ季節は夏本番前だというのに、今年はなんだか早めの夏が到来したらしい。全くもって嬉しくないと、うだる暑さの中で波岾明(はやま あきら)は愚痴をこぼす。

「……うげ」

　蛙が潰れたような声が思わず飛び出る。
　液晶画面を開いたままにしていたら、一通のメールが届いていた。
　件名は「聞けアキラ」本文には短く「彼女の誕生日プレゼント選び完了」と簡素な文字が綴られ、同時に添付されていたのは優男が一人、ピースサインでどこかの店内で撮った写真。本文で指すプレゼントは多分そいつが掲げているであろう紙袋。

「リア充爆ぜろ」

　暑さでショートした脳内が打ち出した答えは、吐き出した言葉をそのまま文章にして相手に送信することになった。
　炎天下の中に見る内容じゃなかったと愚痴ったところで、襲い来る虚無感と苛立ちは消えない。波岾率いる非リアに対する嫌味か、嫌味なのか。と噛みつく気力も熱に奪われ。ただただ猛暑に情けない声を上げた。
　液晶の向こうにいる男はさぞ快適な空間に居て幸福な時間を楽しみ、尚且つそれを他人と分かち合おうとするのだから、いっそ眩暈を起こしそうだ。
　圧倒的な現在の環境差に歯噛みする、そんな昼下がりの午後であった。

　真夏の暑さを吹き飛ばしてくれる空調完備。外からやって来た者に対してこれほどの幸せは無いだろうと感じさせてくれる、出入口のドアが開いた瞬間の冷気。肌に張り付いていたシャツもようやく離れ、滲んでいた汗もやがて引いていく。
　クーラー最高。と、今しがた猛暑から帰還した波岾は設備の良さに感謝した。
　自動ドアを抜ければ見えてくるのは広い待合室。と呼ばれるそこは、本日も診療や検査を待つ患者で座席の半数を埋めていた。
　額に着けていたヘアバンドを一旦外し、軽く髪を整える。蒸れた額と髪はぴったりとくっつき、傍から見れば前髪だけぺしゃんこで笑いものだ。手際良く髪をセットし直せば、ようやく安心できる。
　何故波岾が病院に来ることになったのか。別に具合が悪いとか、怪我をしたとかじゃなく、単純に此処に居る顔馴染みに会いに来たからなのだが。如何せん彼は意志が弱いようでぶつくさと文句を垂れ流し、こんなことなら来なけりゃよかった。などと、のたまうのだ。
　しかし、またあの猛暑に飛び出る訳にもいかず。しかたなく受付にて用事を済ませようとしたところ、見知った顔がなにやら不安気に辺りをうろついているではないか。

「あれ、梶本さん？」
「あっ、波岾くん……」
「そんなところで挙動不審にして、どーしたのさ」

　同じ高校に通う梶本佐和(かじもと さわ)がそこにいた。
　彼女は波岾と同級生であり学年上位優秀者でもある女子だ。普段特に絡むこともなく、梶本が私用で病院に来たのなら波岾とて声を掛けるつもりは無かったのだが……。つかの間の休日である学校の創立記念日に、わざわざ学生服で受付の前に居たら気になるというもの。
　前髪で隠れた視線を彷徨わせ、こちらを伺う梶本は波岾の登場に驚いたものの、控えめに問題を口にした。

「実は、その……。　此処に入院してる、平束くんのお見舞いに来たんだけど」
「……梶本さんが？」
「ううん。私じゃなくて学級委員の倉橋さん。クラスを代表して来たの、私は副委員長だから付き添いでね」
「……ふぅん、もしかしてさ……。『ここで待ってて』とか言われた感じ？」

　文脈から読み取った疑問を口にすれば彼女の表情が途端に曇る。どうやら正解だったらしい。
　確かにあの二人が同じ部屋にいるとしたら気が気じゃないだろう。なにより、平束が絡む話ならなおさら。

　そもそも、平束と呼ばれるのは波岾と同級生の少年だ。数年前からこの病院で療養しているのだが、簡潔に言えば極めて口の悪い男で有名だったりする。それはもう、何人の女の子が泣かされ、男だって涙を流したことか……。記憶が定かであれば意喚起した教師を言い負かして泣かせたこともある。それ位、遠慮も容赦も無い男なのだ。
　それを踏まえても、学級委員である倉橋結(くらはし ゆい)が一人で平束の病室へ乗り込むなんて正気の沙汰じゃない。例えるなら人間が装備無しに猛獣に立ち向かう──精神的な即死待ったなしの事態になりかねない。
　受付の周りで梶本が不安気にしていたのは、一人で平束に会いに行ったのを心配しての事だったのだろう。

「理由も教えてもらえなくて……。倉橋さん大丈夫かな」
「まぁ、そりゃ心配になるわな。もしよかったら一緒に様子見に行かない？　ちょうど俺も平束の見舞いに来たところだし」
「え？　で、でも……。倉橋さんから、」
「俺の付き添いで来たならセーフってことで、んじゃレッツゴー」
「え？　えぇ？？　まっ、待ってよ！　ちょっと、波岾くん？！」

　悠々と面会受付の欄に自身の名前を記入した波岾は、そのまま流れる動作で梶本の手を取ると、平束と倉橋が居る一室へと急ぐ。
　病院内は走り厳禁なので早歩き程度に道を進む。事態を一変させた張本人になすがまま動かされる梶本は、もはや抵抗にも諦めが滲んでいた。

「思い違いだといいんだけど、嫌ァな予感すんだよね～……」

　ぽつり、と零した波岾の言葉は誰にも拾われず消えていった。

♢♢♢

「残念だったな、期待通りに事が進まなくて」

　十階西病棟。一○四回。
　エレベーターで、できる限り早く現場に向かったのだがどうやら些か遅かったようだ。
　エレベーターを降りてすぐ、右の突き当りに足を向ければ、開けっ放しにされた扉から漏れ出る声。

　その声はやけに皮肉染みて、波岾の予想を裏切らなかった。

「頼んでもない責任感の押しつけどーも。見舞いなんて来たい奴が足運べばいいのに、わざわざクラスの代表なんて銘打って顔見せに来るあたり、矮小さと自尊心を満たしたいだけの欲が悪目立ちしてるな」

　つらつらと綴られた言葉には棘と悪意と嫌悪しか見当たらない。
　波岾の嫌な予感が的中した。声の主は一○四号室の住人である平束幸(ひらつか ゆき)に間違いない。
　隣で息を潜めていた梶本もどうやらそのことに気付いたらしい。それさえ分かれば自ずと事態の劣悪さも手に取るように理解できるわけで……。次第に青ざめていく同級生を横目に、部屋へ立ち入ることはせず、そっと様子を伺う。
　目に映るのはベットから起き上がるも、歓迎しているとは言い難い目つきで窓際に立つ少女を見据える平束の姿。対照に少女、倉橋は目を丸くしてぎこちなく笑みを浮かべたまま、固まっている。
　窓から差し込む陽が近くにいた倉橋を照らす。黒に近い茶髪が光に当てられ変色して見え、逆光で表情が隠れる。夏場にも関わらず長袖を着用しているのは日焼け対策だろうか、見ているこっちは暑苦しくて堪らない。
　窓際に飾られた植木鉢とそこから伸びる百合の花が清廉に白く色づいていたのが、印象に残る。

「え、っと……。幸くん？　なんでそんなこと言うの？」
「なんでもなにも、アンタのせいで気分を害したと遠回し教えただけ。まさか、それすら理解できないなんてな。会話にならないわけだ」
「ちょっと、それ、失礼でしょっ！」
「先に失礼をしでかした奴に無礼で返すのを悪い事とは思わないけど。自分を棚に上げて、ぬけぬけと他人を指摘する様も見苦しいな」

　控えめにとっていた態度も皮肉屋の前では形無しらしく、倉橋の言葉は次第に熱を持ち始める。それに対して、平束は、ただ淡々と、坦々と。感情をなおざりにし、普段から語る言葉を適当に並べて彼女を非難した。
　カーテンがはためき、風に煽られた百合の香りが廊下まで届く。その匂いは強く、この空間では異質に思えた。

「第一、俺とアンタに接点なんかないだろ。仮に同級生で同じクラスだからって、今まで顔も合わせたことないんだからな。不自然さに磨きがかかってるとでも言うべきか？」

　わざとらしく顎をしゃくって倉橋を睥睨する。平束がよくみせる行動の一つで、相手の言葉を促す時にする仕草なのだが、人を煽るのには打ってつけだ。
　平束が放った言葉は不信感からくるもので、しかし相手側からすれば失礼にも程があるというもの。現に、倉橋の相貌は初めに見た時とは別人のように怒りに満ちている。眉間に皺を寄せ、平束を睨みつける姿からは普段の明るい学級委員長の面影が欠片も見当たらない。

　「ど、どうしよう。このままじゃ喧嘩になっちゃうよ……！　私が一人で倉橋さんを行かせたから……っ」

　一部始終を盗み見ていた者としても、この状況が最悪なのは手に取るようにわかる。梶本は自責の念に駆られているであろう、泣き出しそうな表情で波岾を見つめた。
　しかし、頼みの綱であるはずの波岾は一向に反応を示さない。あの場に躍り出て二人を仲介させる気も、少女を手助けする様子もなく、ただ事の成り行きを見定めているのみ。

「手ェだしちゃダメだよ。アレは二人の問題で、俺にも、君にも。関係ないことなんだから」
「そんな……！　それじゃ倉橋さんが可哀想だよ！！」

　小声ながらも波岾の対応に抗議する梶本は、脳内で浮かぶ最悪の結末を想起しては、無理やり打ち切ると、切羽詰まる胸を抑えられずにいた。もし倉橋が泣いてしまうような事態に発展したら……。そこまで想像しているのだろう、波岾の目に映る少女は肩を震わせていた。
　倉橋が心配だったから波岾も同行すると言ったのだと、少しばかり安心していたのに。ものは言わずとも視線で訴えかける梶本。なんてヒドイ人だろうと声に出さずに呟けば、茶褐色の瞳と視線がかち合う。

「本当に可哀想なのは誰だろうね」

　そう問いかけた彼だけが、この場にいた誰よりも愉快そうに唇を歪ませた。

　そうして意識を外側へと向けているうちに、事件は起こる。
　パァンッと、唐突に響く。乾いた音。
　廊下から確認できたのは、平束の頬に自分の手の平を打ち付けた倉橋の姿。
　振りかざした手をギュッと胸の前で握り、怒りに震えている。その様子を、さして気にするわけでもなく。赤い痕を左頬に付けたまま、平束は倉橋を見た。

「……なにすんだよ」
「ありえない、本当に噂通りいけ好かない奴……ッ！！」

　喉の奥から絞り出された激情は、並々ならぬ感情が込められていた。蔑み、屈辱、不満。それすら無視して、抑揚のない声が場を一掃する。

「逆切れか？　俺、最初から言ったよな。『残念だったな』って、現実逃避をするのはいいが、アンタが夢見たままの価値観を押し付けるな。虫唾が走る。俺の言葉が理解できないなら踏み込んで来るんじゃねえよ」

　鬱陶しい。と吐き出して、平束は倉橋から視線を外す。そして、二度と目を合わせようとはしなかった。
　ピンと張りつめた空気が室内一帯に満ちる。迂闊に近寄ればその均衡は瞬く間に崩れ去るようで、遠巻きに様子を見ていた波岾と梶本は息を呑む。泣くどころかあの平束に一発食らわせるだなんて、想定外もいいところだ。

「ちょっと顔がいいからって！　人を下手に見るのも大概にしてッ！！　アンタなんか一生 此処から動けない癖に……！」
「…………」
「生きてる間に花を渡して貰えるのは今日で最後なんじゃない？　せっかく私が声を掛けてあげたのに、無下にするなんて。そんなことしてるから誰もアンタに寄り付かないし傍にいてくれないのよ」

　嘲りを含めた指摘が倉橋の口から何度も飛び出す。その度に、学校での姿とは全く別物の、異質な存在に思えてならない。
　梶本は、ただ目の前の光景に絶句する。見舞いにきた者から入院する患者に向けてこのような罵倒を投げつけるなど、今まで見たこともなければ、そのように他人に配慮しない人間が身近に居たことがないのだから当然だ。もし、仮に倉橋の言っている内容が事実であり本心であっても、相手を思いやる気持ちが決定的に欠けている。
　これ以上は聞いていられないと、身体が自然と、二人の空間に割り込む。

「く、倉橋さん！」
「……何、来たの？　待ってて。って、言ったのに」

　どいつもこいつも予定通りに動かないんだから。と、戦慄く唇を噛みしめる倉橋に梶本は茫然とする。これが、あの、明るくて人当りのいい少女？　現状を把握する梶本の思考を塗り潰すのは目の前の彼女の言葉。
　梶本の乱入に心底嫌そうな表情を全面に押し出すと、倉橋は取ってつけたように一度笑みを張り付けた。

「ねぇ、梶本さんも同じように思うでしょ？　こんなところで延命治療したところで、どうせ死ぬくせにって。きっと誰も悲しまないから早く居なくなればいいのに、って」

　きゃらきゃらと笑う倉橋に梶本は瞠目した。
　どうして、と。震えながら口をついて出た疑問が相手に届く。
「……理由なんていらないでしょ。私が、そう感じただけじゃない」
　悪びれなく、臆せず、倉橋は言い切る。
　ようやく波岾の言わんとしていた事が理解できた。こんな状況にならなければ、どちらが「かわいそう」なのか、見当も付かなかったであろう。梶本は同級生であり、学級委員長である少女を見据えると重い口を開く。

「謝って」
「……はあ？」
「平束くんに、謝って。倉橋さんがいってることは身勝手で非道だよ。そんな人に同級生のお見舞いなんか、してほしくない……ッ」

　俯きながらも、抗議する梶原の台詞は熱がこもる。我関せずと視線を外していた平束も僅かに反応を示した。
　その発言が面白くないと言いたげに、キツい猫目が僅かに見開かれると、さらに吊り上る。やってしまったと梶本が気付いた時には倉橋は目の前まで距離を詰めていた。
　苛立ち気に眇められた双眸が普段の倉橋とは打って変わって、並々ならぬ怒気と威圧感を発っする。元々、倉橋に反発することが無かった梶本からの否定的な意見に、自分の玩具が突然動きだしたかのような、勝手に意志を持つ姿を見せつけられている感覚に陥った倉橋は、あからさまに舌打ちをした。一言で表すならば、とてつもなく不愉快だ。と、対峙する梶本を睥睨する。

「アンタ、何様のつもり？　なんで、平束の肩を持つの。そんなに私の言ってることが可笑しい？　アレの方が、先に私を馬鹿にしたのに。私は黙って聞き入れてろって言うの？」
　感情を抑え込んだ、それでいて底冷えのする声色で倉橋は問う。
「そ、れは……」
「大体、アンタも目障りなんだよね。真面目ちゃんぶってつまんないし、先生の頼みだから仕方なく付き添いに来たんでしょ？　無関係な人間は黙ってろよ」

　最後の台詞は本音と共に吐き出された。反論をねじ伏せる圧力に梶本の口内が渇き、舌が張り付く。肌がピリつく程の緊張をはらみ、それでいて言い様のないわだかまりが胸の辺りに溜まっていく感覚。無関心な少年から、自分の手を煩わせる少女へと、言及する標的を変えた倉橋の目には青ざめる梶本しか映らない。
　そんな二の句が告げない彼女に代わり、言葉を介したのは今までだんまりを決め込んでいた波岾だった。

「はぁーい、そこまで。病院内はできるだけお静かに……って、今更か」
「明……居たんだ」
「勿の論。俺はずぅっと見てたからねー」

　ヘラリと薄っぺらい笑みを張り付け波岾が登場すれば、否応なしに倉橋の表情が苦いものに変化する。

「っていうか、さ。倉橋さんはそろそろ帰った方がいいんじゃない？　君の彼氏が心配するよ。男は嫉妬深くて面倒なんだから、早く安心させてやりな」
「っ、なんで、アンタが」
「『なんで知ってるの』とか、言わないでよ。いくら馬鹿でも頭働かせりゃ分かるって。平束を彼氏にしたかったんでしょー？　保険は必要だもんね」

　言葉を一つ、交わすたびに異変が起きた。
　二人だけが話の内容を理解して会話を進めている。流れに置いて行かれた梶本は、未だに呆然としながらその奇妙な光景を見つめるだけで、口を挟む余裕は無いようだ。
　妙に焦りだす倉橋を観察しながら波岾は続ける。彼女が態度を急変させる理由を。これまた簡潔に、迷いなく。

「君の彼氏さんからメールがあってさ、倉橋さんに用事があるのに家にいないから何処か行きそうな場所知らないか、って。聞かれたんだよね」
「……な、んて……なんて、答えたの」
「えーっと『病院で男に言い寄ってます』って。答えたよ、勿論。写真付きで詳細を返信したからそろそろ返事が……あっ、もうすぐ此処に迎えに来てくれるって！　良かったじゃん」

　優しい彼氏だね。と言って、笑う少年に倉橋は息を呑む。
　次第に大きく見開かれた瞳は涙で滲み、おろおろと視線を彷徨わせる。口論にて上昇した肌は、赤々と血色がよかったのに対して、今では瞬く間に血の気が引いてしまっていた。
　狼狽える少女の異変に疑問を抱く。梶本が声を掛けるより先に波岾の嘲笑を含んだ声が場を攫った。

「誕生日だってね、今日。おめでとう！　彼氏さん、プレゼント買ってたよ。君の為に選んだみたいでさ？　――――首輪(ネックレス) きっとお似合いだよ」

　揶揄う表現でプレゼントの名を明かせば、事実を告げられた少女の表情が抜け落ちていく。
　ひゅう、と。か細く鳴る呼吸。波岾を見つめたまま視線を外さない。いや、逸らせないといった方が正しいであろう状況に梶本も驚く。
　どれだけ平束に辛辣に扱われても泣かなかった彼女が、初めて涙を流したのだ。それも、一筋じゃなく嗚咽混じりに。しゃくり上げて、倉橋は泣いたのだ。
　――――順序立てて今までの言動を当てはめていく。倉橋には元々彼氏がいて、それでも平束と付き合おうとしていた。しかし、ここで行われていた出来事が倉橋の彼氏にバレてしまった。自業自得としかいえないのだが、それでも何故そこまで彼女が泣きじゃくるのか。……いっそ怯えているのか。誰も尋ねることはしなかった。
　歯の根が合わないのか、身体の震えによる振動と共にガチガチと歯がカチ合う音が聞こえる。必至で息を整えているのか、しかし荒い呼吸はちょっとやそっとじゃ収まりそうにない。

「く、ら橋さん……？」
「……だ、やだ。ヤダヤダごめんなさ、ごめんなさい、ちがう、ごめんなさっ」
「倉橋さん！　ねぇ、ちょっと、大丈夫なのっ？」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

　壊れたラジオが何度も同じ個所をループするみたいに謝罪の言葉を紡ぐ。両手で頭を抱えて、子供が癇癪を起したように、綺麗に梳かしていた髪を振り乱している姿はなんとも狂気的だ。

「早く帰りなよ。それとも、このまま彼氏と鉢合わせしたいの？」
「っひ、う」

　呆れた風に投げかけた波岾の言葉で正気に戻ったのか、倉橋は大げさに肩を震わせ勢いよく病室から飛び出した。梶本と波岾の間を走り抜ける際に身体が軽く接触したが、彼女はそんなこと気にも留めず、バタバタとせわしない足音をたてて、姿を消す。
　足音が次第に遠くに聞こえてくる辺りで、波岾は残った面子を見渡し、事態を呑み込めずに呆然としているであろう梶本に視線を留め、シニカルに笑う。

「いやぁ、大変だね。愛されるってのも」

　ちっともそんなこと思ってない表情で語るのだから信憑性が薄い。しかし、彼の言葉によって倉橋は異常なまでに取り乱したのだ。いったいどういう事だと問い詰めたい気持ちもあったが、何よりも。
　あの圧迫された空間から解放された。その事実の方が追及よりも上回り、言葉を紡げずにいた。
　吐き出した溜め息は深く重い。誰かに反抗するといった事を、そうそうしてこなかった梶本にしてみれば、今日ほど心臓に負担を掛けた日は無いだろうと思う。
　無駄に力を入れこんでいた身体が今更、情けなく震えた。気を張っていたこともあり梶本の手は汗を掻き、湿っているのが嫌でも分かった。

「梶本さんは健気だねぇ～～お友達の為に説教まで出来ちゃうんだから、さっ」

　息をつく梶本を観察して、波岾は楽しげに告げる。室内に置かれていたパイプ椅子を悠々と拝借してこちらを見るもんだから思わず、むすっと頬を膨らませた。

「……説教とか。そういうのじゃ、ないよ」
「じゃあ、平束が可哀想だったから？　だから“白百合の植木鉢”を渡したのかな」
「えっ？」

　拍子抜けするほどに、間抜けな声が口から零れる。

「え、っと……ソレ、どういう意味かな」
「ああ、じゃあいいや。簡潔に言ってあげるから、知らないフリは無しね。いちいち弁解するの、面倒でしょ」

　――あのお見舞いの花を贈ったのは君で、最初からこうなることを予想してたよね。

　爽やかな笑顔が視界に入る。梶原の視線の先にいる人物はこの事態を茶化しつつも、否定だけは許さないと言いたげにこちらを見据えていた。
　ポカンと開いたままの口から一変、小刻みに肩を震わせたかと思えば。少女は可笑しいと腹を抱えて笑い出す。

「っあはは！　えー？　なぁに、どうして？　いつ分かったの？　やっぱり百合に鉢植えはやり過ぎたかなぁ」
「いやぁ～流石にね。バレちゃうでしょ？　ま、倉橋さんは気付かなかったみたいだけど、っていいうか……君が気付かないようにさせた。ってとこかな」
「ふふっ！　そう、そうなの。だって倉橋さんマナーもなにも知らないんだもん、びっくりしちゃった。お蔭で予定通りに進んだのは良かったけど、危うくシリアスなシーンで笑っちゃうトコだったよ」

　ころころと朗らかに笑う少女の様子は傍から見ればなにも問題はないだろう。しいて言えば、ある程度の悪意と策をもって、今回の事件を起こしたぐらいだ。
　倉橋が平束のお見舞いに来たのも、倉橋が嫌われるように仕向けたのも、倉橋に彼氏がいたことも、全部全部、最初から知っていたのだ。知っていて、彼女はそれを口にはしなかった。
　先ほどのやりとり全てが、計算づくの劇でしかない。

「そうだね、クラスの代表でお見舞いってのも無理があるって思ったんだけど、意外と通用するもんだね。倉橋さん、すっかり信じてたよ。私は先生に頼まれてもいないし、代表として此処に来るなんて、誰も知らないだろうしね」
「ま、知ってたら止められてたろうね。きっと」
「そうかもねぇ……。あ、そうだ。鉢植えを渡したのは残念ながら私じゃないよ。私はただ、花を選んであげただけだから」
「へー。そりゃまたご丁寧に、白百合の花を？」
「誰に宛てた物なのかは……想像にお任せするけどね」

　互いの視線を交え、腹の探り合いを彷彿とさせる言葉の攻防が静かに行われる。
　平束は相も変わらず真っ新な病室のベットで我関せずと明後日の方を向いていた。どうやら話に入る気は無いらしい。それもそうだろう、なにせ平束だし。と、主要人物であるにも関わらず一切の関与を拒否する姿を、適当に思考の端に追いやり二人は話を続ける。
　まず、梶本が興奮気味に事のあらすじを語りだした。
　彼女はかつて一人の幼馴染がいた。無論、いまでも縁は続いてるものの幼馴染の少年、彼には恋人ができたのだ。小学校、中学校と共に生活をしてきた仲は高校にてあっさりと見知らぬ女に奪われる。
　その女こそ、倉橋結衣である。倉橋と付き合っていたのは梶本の幼馴染であり、波岾の友達でもある少年。名前を矢島新(やじま あらた)といい、優男な印象を受けるが、誠実な奴だと波岾自身も記憶している。それがどうして今回の騒動で名を挙げられたかというと――――

「新はね、少しだけ過保護なの。自分を一番に見ていて欲しい、相手にもそれを知って欲しい。そんな考えを昔から持っていた」

　だから、と言葉を区切り。梶本は毅然とした態度を一変して、うっとりとした声色で少年を想い、恍惚とした表情を浮かべる。

「いつだって私は新を一番に想ってる。新だって、それを理解していた。私達はね、相思相愛だったの」

　いつだって一緒だったと語る彼女の言葉からは、熱っぽさまで感じられる。
　記憶の中にある様々な思い出を反芻しているであろう、梶本の様子は波岾から見ても一介の恋する乙女だとか、そのような人物にしか映らない。ただ、見ている姿だけが全てとは限らないだけで。
　おもむろに、制服の裾をたくし上げた梶本は言うよりも見せる方が早いと、一つの傷跡を晒す。
　右腹部にはしる、痛々しい痕は、数センチの縫い痕であった。

「これはね、初めて新が私を刺した痕。あの時は加減が分からなくて、思ったよりも深く傷がついた。血が止まらなくて、新も焦ってたの。懐かしいなぁ……」

　自身の指先で傷跡をなぞり上げる。慈しむように、凹凸の感触を味わい、懐かしい記憶に思いを馳せる。何度も似たような事件が起こった、それでも梶本が矢島という存在に抱いた感情は畏怖ではなく愛情だった。紛れも無く、梶本は矢島新を愛している。
　その発言に、光景に、誰もが言葉を発さなかった。異常であると、言及も追及もしない。無言を貫く部屋の主と、思わず吹き出してしまった少年がいた程度だ。
　その反応は予想外だったようで、一瞬目を丸くした梶本だったが、すぐに不服そうに眉を吊り上げると、捲っていた衣服を元に戻す。そもそも、自分と新、二人だけの愛情表現を理解してもらおうとは思っていない。ただ、馬鹿にされていい気なんてしない。

「なにが可笑しいのよ」
「だ、だって。いきなり服捲ったかと思ったら肌見せてくるし……っ。何を言い出すかと思えば、じ、自慢って……！　笑わずにはいられないって！　な、平束っ」

同意を求めようと隣に位置する平束に問えば、返って来た答えは肯定でも否定でもない鋭利なカウンターであった。

「気色悪いモノ見せられて笑える神経を疑うな」
「え、まさかのとばっちり」

　それすら可笑しいとでも言いたげに波岾は口元に笑みを浮かべ、喉の奥で込みあがる衝動をかみ殺していた。
　二人の様子が気に障ったのか、梶本はいつになく強い語調で彼等を責めた。

「別に、貴方達なんかに理解できるはずもないわ。私と新だけが通じあって、互いに理解していたらそれで。だけどね、笑われる筋合いなんてない」
「ええー？　でも梶本さんが勝手に見せて自慢してきたんじゃーん」
「それとこれとは――」
「勝手に吠えてんじゃねえよ。期待通りの反応がこないからってこっちに難癖つけんな、とっとと出ていけ」

　悪びれも無く言い切る波岾に、さらに言い募ろうと口を開いた梶本を制したのは、今の今まで会話に参加しようとしなかった平束である。

「聞こえなかったか？　お飾り程度の機能してない耳なら削ぎ落してもらえ。加虐体質の男にでもな」

それこそ、梶本の怒りよりもドスの効いた表情で、声色で、退室を命じるのだから、梶本も言葉に詰まってしまう。

「っ……」
「アンタこそ、人様の敷居に土足で踏み込んで来るな。吐き気がする、失せろ」

　顔を合わせた当初よりも辛辣な言葉が次々と梶本を襲う。
　あーあ、と。どこからともなく呟かれる。波岾は二人の様子を一瞥し、仕方なしに重たい腰を上げるといつもの軽薄そうな笑みを浮かべた。

「ほーら、そろそろお暇しちゃえば？　後の事は任せてくれればいいからさ」
「……そうね。もう用は無いし」
「うんうん。賢明な判断に感謝！　それじゃ梶本さん、またね」

　ひらりと片手を振り、徐々に遠ざかる少女を見送る。最後に「もう二度と来ないから安心して」と囁かれた気がしたが、敢えてスルーしておく。残されたのは不機嫌極まりないといった平束と、未だ薄っぺらい笑みを張り付けた波岾のみであった。

「もうちょーっとは話に混ざっても良かったんじゃないの？　自分の話題もあったんだし、興味もちなよ」
「お前が関わる話題なんざ願い下げだ」
「手厳しいね」

　無言を貫いていた相手からようやく言葉が返ってきたかと思えば、相変わらずの憎まれ口である。波岾の軽い流しに、平束は眉根を寄せ、ここ一番の心底嫌そうな顔で彼をねめつけた。

「梶本さんも可哀想だよねー。多分一生、互いに解りあえない仲なのに、健気に信じちゃうんだもん」
「知るか」
「わはは。即答じゃん！　ま、平束はそもそも嫌いなタイプだろうね“愛は全てを許す”タイプは、さ」

　ぎしりと、パイプ椅子が再び軋む。波岾の軽い口調とは裏腹に、漂う空気はどこか重苦しい。梶本がいた時には語らなかった詳細を彼が知っているからこその言葉であろうが、平束には興味がなかった。

「いつまでもいつまでも練習相手であって、本物の彼女には成れないんだろうけど……梶本さんが、与えられるモノが愛であると信じている限り、どこまでも無意味なんだけどなぁ」

　まぁ、自分の気持ちばっかり強くて、相手の求める答えが解ってないんだから、仕方ないか。その結果が現状に繋がるといったところで、彼女は信じないだろうし。
　波岾は一つ大きく伸びをすると、未だ灼熱の温度であろう外を眺めた。
　窓の外から見えるコンクリートの道路には、ゆらゆらと陽炎がのぼっている。きっと、生温い風と、湿った雨土の匂いがどこからともなく漂うんだろうなと、帰路の様子を予測したところでこの部屋に充満している一つの香りに気付く。
　白い花びらに、中央の薄い黄色が映える、無垢な花。凛とした姿は強い香りを放ち、波岾の意識を奪う。
　そうしてパイプ椅子からおもむろに立ち上がった波岾は、窓脇に置かれている白百合の鉢植えを手に取る。その様子を視界の端に捉えた平束が、余計なことをするんじゃない、と釘を刺そうとした時、無垢な花は、無遠慮に根っこから引き抜かれた。
　根に付着していた土は衛生面に気を使っているであろう病室の床にぶち撒けられる。
　突然の奇行に言葉を失った平束だが、その眼差しはありありと軽蔑の色を浮かべていた。

「……嫌がらせなら他所でやれ。俺は暇じゃない」
「えー？　平束を楽にさせてあげようと思っただけなのに～～」

　ようやく静かにまった気を休めた矢先の波岾の行動。確かに、この男は何不利構わないタイプであると知っていたものの、唐突過ぎる。
　平束が新たに言葉を紡ごうとした矢先、波岾がぽつりと聞いてきた。

「貴方は変わらない」

　抑揚のない声が一室に響く。

「白百合の花言葉。……“貴方は変わらない”それと併せて病室に鉢植えは“根付く”とされて、床に伏せったまま。って、不謹慎な意味合いを持つ」
「随分と俺に似合いの花を選んだもんだ。確かに、俺はこの場所からも、性格も変わらないからな」

　つらつらと語られる内容に皮肉染みた自虐が混ざる。平束は漂う花の香りに眉根を寄せながら、吐き捨てた。
　それに対して波岾は、一向に反応を示さない。焦点が白百合を捉えているものの、意識はどこか別の方へと遡っているように、彼らしさが消え失せている。軽薄そうな笑みも、軽口を叩く素振りも見せず、ただ淡々と、白い花を握りつぶしては、引き千切っていた。
　その光景に平束の半眼が見開かれる。それすら気づかぬまま、波岾は咲き誇る白百合を一つ一つ、裂いていった。
　花弁を摘まみ、ゆっくりと裂く。茎を掴み、微弱な力でそれを手折る。花粉が手の平や指先に付着しているのを気にもとめないまま、根から力を込めて分断する。
　鉢から零れた土は、根が引き千切られた衝撃で床にもシーツにも散らばっていた。芯の折れた茎は、皮一枚で繋がっているのか空中にぶらんと吊り下げられている状態に。唯一、一つだけ残っていた白百合は、握りつぶされた衝撃で何枚か花弁が裂き散っていた。

「――じゃあさ、そんな柵、俺が引き千切ってあげるよ」

　ようやく、平束の瞳を捉えた波岾の表情は、恐ろしいほどに澄んでいた。

「一生変わらないって言うならさァ。ひねくれた性格も、二度と戻れない過去への葛藤も、どうしようもない虚無感も。残らず無かった事にして、終わらせてあげるって」

　優しく問う。まるで幾度となく経験した言葉のように。見栄でもなく、虚勢でもない。本当に心からそうしてあげようとする意志がみえる。

「だって、そうしたら“変われる”んでしょ？」

　根が朽ち、葉が枯れ、花が散っても。――死という結果論でも。彼が“変わりたい”と願うのならば、自分は喜んで、その身に根付いた鎖を断ち切ってやろう。と、少年は宣言する。
　眼前に差し出された一輪の白百合。これを受け取れば、どうなるかは予測がついている。平束は思いやりが嫌いだった。押し付けられる優しさに辟易していた。皆が平束に与えるのは執着であり、彼自身を助ける慈悲ではなかった。
　しかし、波岾が示したのは人としてのの敬愛だった。
　醜く生き延びるくらいなら、いっそ自分が手を貸すから。だから終わらせよう。と、彼だけがそう言った。不思議な感覚だと思う。怒りは湧かない、むしろ驚くほど静かに関心していた。この男から、まさか労りの言葉が投げかける日がこようとは、夢にも思わなかった。
　それこそ、先ほど話題に出ていた梶本とは違い、波岾の敬愛は相手の真となる要望を理解した上で、受け入れ。相手が本当にそれを望むか問い、実行するものであった。
　しかし、だからといって。その言葉全てを鵜呑みにする気はない。
　差し出された白百合を勢いよく付き返し、波岾の胸に押し付ける。そのまま、花を握り潰し、衣服ごと掴み寄せれば瞠目した視線とかち合う。
　ベットが軋み、音をたてる。辺りはそれ以外の音を遮断していた。

「――一つだけ言っといてやる。俺は自分から“変わらない”だけだ。“変われない”訳じゃない。勘違いするなよ、偽善者擬き」

　握りつぶした花弁から、噎せ返るような強い香りが放たれる。思わず、その匂いに酔いそうになるも視線だけは外さなかった。
　互いの息遣いが感じられるほどの至近距離にて、さきに息を吐いたのは波岾であった。

「っ、くく……！　さっすが、性根までひねくれた男は言うことが違う」
「うぜぇ」

　小刻みに肩を震わせ笑いを零す。普段の笑みと比べて、どこか安心したかのような印象を受けたそれは、一瞬のうちに掻き消えた。

「ああ？！　ちょっと平束！　花粉が服に着いたんだけどっ。花粉って落ちにくいんだよ、知ってんの？！」
「自業自得。とっとと掃除して失せろ」

　静寂だった空気が嘘のように賑やかになる。
　床に散り落ちてしまった白百合が未だに香りを漂わせ、彼等の衣服に染み込む。
　その香りは強く、どこまでも記憶の淵にある得も言われない感覚を引きずりだしていくようで、波岾は落ちることのない汚れを見ては、溜め息をついた。

　また、消えないであろうシミが出来てしまったと。

閲覧いただきありがとうございました。