Fate/defective ロンドン白書
この小説はyona氏(https://slib.net/a/7649/)の二次創作小説の三次創作となります。defective本編後のお話。
喪失者の系譜
アリアナが目を覚ました翌日。佑と那次は再びアリアナのお見舞いに来ていた。彼ら三人は聖杯戦争でひとつの敵を打倒すべく集まっただけの仲であった。本来ならば三人は敵同士で、聖杯戦争が終結したのであればその後再び集まることは普通は無い。しかし、三人は再び集まった。白く澄んだ病院の個室で、未来の話をするために。
そしてそれが一人の少年の系譜をなぞることになろうとは、集まった当初は誰も考えもしなかった。
佑は病室に備えられた硬い素材の丸椅子に腰掛けて、挨拶もそこそこに本題を話し始めた。那次も後に続き、佑の隣の椅子に腰掛ける。
本題とは三人の今後のことだ。佑はロンドンの時計塔で魔術の勉強と研究に励むつもりだった。佑に関しては聖杯戦争が始まる前から話が出ていたことだったので特別に問題は無い。
しかし問題はアリアナと那次の方だった。特にアリアナは先の聖杯戦争で、セイバーの神格を解放するなどという現代の魔術では到底不可能であるはずのことをやってのけた。もし魔術協会の目に留まれば封印指定を受け、良くて軟禁悪ければ標本としてホルマリン漬けにでもされかねない。
那次の方はというと、特別なことがないのが佑はむしろ気にかかった。軽く話を聞くとまた目的もないまま一人、誰も居ない賃貸アパートに戻るだけと言うではないか。佑は自分とそう年の離れていない二人の未来に不安が募る一方であった。そこで彼はこの問題を片付ける案を考えたのだ。
それは自分の向かう時計塔に、二人を弟子という形で同行させようというものだった。アリアナは魔術協会のお膝元に行くことになるリスクがあるが、“自分の弟子”という曖昧な立場を有効に使い、聖杯戦争とは何の関わりもない人間として入り込めば良いという作戦だった。此度の聖杯戦争は魔術協会も聖堂教会の介入も少なくあまり公にならないものだった。これならばアリアナの神霊の召喚も隠匿できるだろう。尤も、これらを考えついたのは佑ではなく彼に聖杯戦争を薦めた人が考えたものだったのだが。
「どう……かな」
人に提案することに慣れていない佑は遠慮がちに二人に問いかけた。話を聞いた二人はしばらく考え込む。病室の空気が少し詰まったように感じた。
「そうね……それが良いと思うわ」
アリアナは彼の話を聞き自分の危うい立場を初めて理解した。いやあまりに恐ろしくて考えないようにしていたというのが正しい。自分の前に“アリアナ”という存在を欲する者が現れる。それはいつかの親戚を重ねそうになるが、魔術協会はそれ以上に危険な存在だ。個の権利を尊重するのであれば。
足の自由も失った彼女にとっては願っても無い申し出であり、断る理由はないどころか感謝するべき幸運な話だった。
勝手に話を進めた、とか不満を言われてしまうかと不安な佑だったが、彼女の迷いの無い了承が聞こえたことで胸を撫で下ろす。
良かった、と息を吐いた佑の横で、アリアナとは対照的に唸るのは那次だ。彼の長い前髪のせいで顔まではよく見えない。
「弟子の話はわかった……けど」
一つ問題が、と言ったきり彼は口を噤んだ。頭の回転の速い普段の彼ならば、話を聴いている間に答えを出していることだろう。そうでなくても恐らく今回の申し出はアリアナにとってそうだったように、願っても無い話であるはずだった。
佑は聖杯戦争の最中のことを思い出した。アリアナと魔術師という存在について口論になっていたときのことだ。もしかしたら、時計塔や魔術協会のことをあまり好ましく思っていないのかもしれない。
声を掛けるべきか否かと佑が逡巡している間にアリアナは痺れを切らしたようで、那次に詰め寄る。ベッドから身を乗り出すようにしてくる彼女に気づいて那次は顔を上げた。
「何? 黙り込んで。らしくないじゃない。何か言いたいことがあるなら早く言いなさい」
那次は返事に窮する。アリアナが少しでも高圧的ととれるような態度をすると、すぐに喧嘩腰の口調で彼女と相対する彼が、今日はとても静かだった。前髪と火傷痕の隙間に見える瞳は二人の顔を交互に見て、溜息を吐いた。きまり悪そうにしてぼそぼそと二人に告げる。
「僕は……パスポートはおろか、恐らくだが戸籍もない。偽装するにしても少し手間だ、だから……」
「えっそうなの?どうしようか」
再び黙ってしまった那次を見て、ロンドンへ行くのが嫌なのが理由ではなかったのだと、佑は場の空気とそぐわない感想が脳裏に浮かんだ。隣で同じく那次の言葉を聞いていたろう彼女に比べたら、佑は那次との付き合いが長い。驚いた反面、やはりと思う自分もいた。
彼の顔や体の痛々しく消えない火傷痕から、事の詳細は分からずとも何やら他人の触れてはならない事情があるんだろうと察していた。佑は細かい事情は置いておくとして、彼の直面する問題の解決の方へと頭の中で話の舵をきったのだった。
しかし、そういった深い事情を無かったことに出来ない人が横にいることが、何より今の状況の混乱を引き起こすことになった。佑の落ち着いた態度にアリアナは「待って」と叫んだ。
「何冷静に答えてるの!? とんでもなく重要なことじゃないの!?」
二人はアリアナと出会って短い期間で、彼女の白黒はっきりさせたがる性質をなんとなく理解していた。佑も那次も「やはりそうなるか」という微かな呆れを隠そうと努めた。
「アメリカじゃ戸籍って制度はないけど、戸籍って産まれたら普通勝手に作られるものでしょ?」
「勝手じゃない。届けを出す」
「わかってるわよ。イチイチうるさい! とにかく! そんな重要な証明書がないなんてありえないでしょう!?」
いつもと様子が違う那次だったが、迂闊にもアリアナの言葉に訂正をいれてしまったことで彼女は疑いと怒りとをない交ぜにして捲し立てた。それに釣られて那次も語気を強めていく。
「そりゃあっただろうさ。でも今は多分、戸籍上僕は死んだことになっているはずだ」
「だから、簡単に死んだことになんて」
「偽装されたんだろう」
アリアナは那次の肩でも掴んでしまいそうな剣幕で、那次は病室を出て行くのではないかと思うほど彼女に反発してそっぽを向いた。その態度がまたアリアナの琴線に触れるであろう事が佑には分かった。二人の間に佑がいることが事態の悪化を防ぐ結果になっていた。
そろそろ止めに入らなければ。弟子の提案をしたのは佑であるし、この二人を諌め宥めることができるのは七種を除けば佑しかいない。アリアナは事情があるとちらつかせて黙り込んだ那次の態度が、どうしても気に入らないのかもしれないが、彼の繊細な問題をまだ知り合って二週間も経たぬ他人が暴いて良いものではない。
「それが何故って訊いてるのよ私は!」
「アリアナ。人には話せないことだってあるし」
まあまあ、とアリアナを宥める。微かに咎めるような言い方になってしまったのは仕方がない。そして振り返って、腕組みをしている那次を見る。
「那次も。理由は訊かないから、どうしたら一緒にロンドンに行けるか考えよう? ね?」
「……」
振り返って合った視線は、少しだけ見知らぬ他人を見ているような乾いたものだった。やはり、踏み込むべき話ではなかった。佑は哀しくなるような寒気に身を震わせた。
静まり返って時の止まったような病室で、アリアナの声が部屋に響く。それは苛立ちでも疑念でもない彼女の本心だった。
「……今はいい。何とかしてロンドンに渡れるなら。でもその先は?」
居心地の悪そうな那次を逃がさぬアリアナの視線は、彼を射抜いて離そうとはしなかった。
アリアナは人との距離感を知らない。どこまで近づいたらいいのか。どこまで踏み込んでいいのか。何に触れてはいけないのか。
那次のこの話題は恐らくは触れてはならないものに当たるだろう。それはわかっていた。けれども、それと同時に痛みを共有したかったのかもしれないと思った。喜怒哀楽を共有できる人間は両親を亡くしてからは佑や那次、七種が初めてだ。そしてセイバーはそれらを与えてくれた。
「どんな事情なのか知らないけど、時計塔で私やあんたに何かあったらその責任は佑に行くのよ? 弟子になったら私たちは師の管理下ってことになるんだから」
きっとこれは私たち三人が未来を歩むために必要な一歩なのだとアリアナは信じて疑わなかった。だからこそ、訊かなければならない。不安や不信を抱えてずるずると引き摺ってしまう荷物は今ここで精算すべきだと。いつものように喧嘩腰になってしまうのは止められないが、努めて苛立ちを抑えるようにして。
「佑にまで迷惑をかけるつもり?」
「……僕は」
アリアナの真摯な目が眩しい。那次は一瞬何を言いかけたのかすら忘れてしまった。彼が生きている証明がつかぬ事情を二人に話せない理由など、いくらでもある。あったはずなのだ。
那次が戸惑っているのは話したくないことを尋問されている所為ではない。事情の説明を拒む理由など聖杯戦争を乗り越える前であれば。「他人に話す道理はない」からとか。「話すことが苦痛だ」とか。過去を見つめることも見つめられることも、耐えられなかったからだと断言できた。
しかし今は。彼が話すのを躊躇するのはそんな自分本位な理由ではないことが、彼自身を困惑させていた。
那次の顔を見つめる二対の目。その純粋な瞳が、過去を曝すことで憐れむような情で染まることが怖かった。二人の顔に陰を落とさせるようなことはしたくなかった。
ライダーと出会って、自らの過去を客観的に冷静に向き合うことができるようになった。それにより視界が開けたように感じる反面、交流し始めた人たちとの微かな壁があるかのような錯覚に囚われ始めた。
那次は視線を追ってくる四つの瞳から目を逸らす。瞼を閉じれば先ほどのアリアナの言葉が再生された。
この先何があるかなど誰にもわからない。自分が巻き込まれた事の詳細を、二人に話さないことで起こる悲劇など存在しうるか。対処不可能な事件が起こらないと言えるか。
……絶対にありえないなんて、言える訳がなかった。ならば。
「……別に話すことを厭う理由は、ない」
「ならさっさと話しなさいよ。私が納得できるように」
まるで腹の探りあい。否。互いに互いを気遣いながらも、本音だけはぶつかっている。
「面白くもないし、気分がいいものじゃないから」
「別に面白さとか何も期待してないから心配いらないわよ」
アリアナは変に気を遣っているらしい目の前の男の言葉を、強い口調で跳ね返した。いつもは遠慮を知らない傲慢な子供のようなのに、何故今日はこんなにも煮え切らない態度をしているのか。先ほどの発言を真実と取るならば、那次は過去を曝すことよりも、こちらの気を悪くすることが重大だと考えているらしい。
何を今更。とアリアナは鼻で笑った。今度はこちらが傲慢すぎたかと消えぬ火傷を背負った彼を見るが、眉を寄せた硬い表情から特に変化は見られなかった。
話は平行線のなか、気まずい空気を溜め込んだ病室に、新たな風を送るかのように部屋のドアが開いた。入ってきた人物は白衣にさっぱりした黒髪の、モノトーンを主張するアリアナのかかりつけ医とも言える四季七種だった。本人が聞けば「本業は薬剤師だ」と否定が来そうなものだが、口に出したことはないので彼女には知られていない。
「ほらほらお茶の時間だぞ~学生たちよ」
七種は三人と同じく先の聖杯戦争を生き残った人間で、バーサーカー討伐に失敗した際には、「敗者がこれ以上は関わるまい」と話をさっぱりと切り上げる冷静で無駄を嫌う性質だと記憶していたが、最後にはアリアナを助け、このように世話を色々としてくれる優しい人だった。
七種がベッドに備え付けられたテーブルにティーカップを人数分置いていく。中身は鮮やかに反射する紅で、爽やかな香りが緊張していた部屋の空気を解していく。
「ハーブティーか」
那次の答えに七種はうんうん、と頷く。弧を描く口元が彼女の自信を表していた。タイミングといい、チョイスといいパズルがはまるように完璧といえよう。
「リラックス効果はばっちりだろ? それと、アリアナ」
口元の笑みはそのままに白衣の彼女はベッドの住人に話しかける。口調は明るく弾むようなのに、そこに混じった諌める音は隠せない。先ほど佑に掛けられた声音に似ているとアリアナは思った。
「私だってお前の一切を訊かなかった。彼にだって同じようにしてやれよ。な?」
一体どこから聴いていたのだろうか。彼女は盗み聞きをするくらいなら、病室に入ってきて堂々と話を聴く性格であるとアリアナは考えているので、恐らくこの病室の空気があまりに異様で人を寄せ付けなかったのだろうと結論付けた。軽く口を付けたハーブティーがあまり冷めていないのもその証拠だろう。簡単な前後の会話で読み取ったとみた。
七種の諭す声と温かな紅茶でアリアナの心は落ち着きを取り戻す。一方で那次は紅茶の水面をぼんやりと見つめている。アリアナは彼の目の揺らぎが消えていくのを視た。
「……構わない。話すよ」
己の過去を話すか否か。躊躇いを振り払って那次は顔を上げた。
「ただの後継者争いの話だ。だけど魔術師が絡んでいる以上、確かに時計塔で何もないとは言い切れない。それに……」
三対に増えた、これからも那次の人生の中心に居続けるだろう者たちの瞳。数瞬だけ瞳が憐憫に染まったように見えたが瞬きをする間に消えて、那次は感じた視線が自分の恐れからくる幻だと悟った。
「お前らにまで気を遣われるのは……いやだ」
彼らとの関係は一体どのようなものを理想とすれば良いのだろうか。ずっと考えていたことだった。敵だった。協力者になった。では今は? 一体何になるのだろう。那次にとって少なくともここまで近しい他人はいない。今までに出会ってきた人は皆一様に自分の顔の火傷の痕を見て、気を遣って腫れ物を触るようにするのだ。
三人にだけはそんな扱いをされたくない。
様々な思いが浮かぶなかで那次は、唯一つの本心を見つける。それと同時に抱えてきた過去の重さに、自分が耐え切れていなかったことを知った。
今はいない命の恩人のおかげで、胸は少しだけ軽くなった。けれども、また押しつぶされないとは限らない。だから、打ち明けることを許して欲しい。
彼は語り始める。話すなら、最初も最初。天陵那次という存在の系譜から。ほつれた糸を解くように。
那次の生まれた家。「天陵家」は古い魔術師の家の分家で、本家の魔術刻印の一部を受け継ぐ、最も本家と血筋の近い家だった。本家の姓は「千陵」と言った。
ここで前提として貰わなければならないのは千陵家の状況だ。優秀であったのに古い流儀を守り続け、繁栄するには弱くなっていた。そして、家を永く存続させるためにと次々と分家や系統を同じくする魔術師の家を増やし続けたことで、取り纏めるのは困難になっていた。
那次も本家について知るところは少ない。彼が知っていたのは、本家の当主は「千陵家」に属する者の中で最も若い男子が継ぐということだけだった。
「典型的な男尊女卑。しかも魔術刻印はどうするのよ」
話を聞き始めて数分。話の節を見てアリアナは呆れたように呟いた。那次も同調それに同調する。
「否定はしないし、魔術刻印の件も僕だってよくわからない。……当時の当主は女だった。何度か会ったことがある。でも重要なのは当主じゃなくて」
幼い那次が当主だと聞かされて顔を合わせたのは、中学生になるかならないかといった年の女の子だった。そしてその当主には弟がいた。
「それが僕の従兄弟」
頭の中で話を整理していくうちに、アリアナは眉を寄せていく。ついには首を傾げて那次に問うた。
「それってなんか変じゃない? 若い男に継がせるなら、女の子じゃなくて、その弟さんに」
「あの男はその当主より年上だ。確か二十歳かそこら。見た目の話だけど」
「え……?」
想像していた人物像が崩された佑は思わず声を漏らした。
「……当主は何十年もの間、千陵家をまとめてきたという。意味はわかるな?」
なるほど。アリアナは合点がいったようで頷いた。
「魔術で年を若く見せていたのね」
「おそらくな。兄さんは養子だったんだと思う。男がなかなか生まれなかったから」
男の性格は魔術師にしては平々凡々な気質の持ち主だった。次期当主としてもてはやされたことも理由の一つだろう。男はまるで普通の人間の如く権力を欲し、自己顕示欲の強いだけの「魔術使い」に成り下がった。それでも次に当主の座に就くのは男……“当主の弟”のはずだった。
しかし、産まれてしまった。那次という最も千陵家と血の近い後継ぎが。そうなれば血の繋がりのない養子など意味をなさない。男は那次によって名誉も価値も失ったのだ。
「ウチはよく本家に顔を出していたし、反対に当主がコッチに来ることもあった。だからあの男ともよく顔を合わせた」
会えばよく那次の相手をしてくれていたが、向けられた笑顔はおそらく作り笑いだった。男の暗い感情に気づいたのは千陵家の当主が亡くなった後だった。
「十年前。千陵家の当主が亡くなった。死因はわからない。ただ……」
那次がこれを思い出したのはつい最近だった。幼い自分が参列した葬儀。それが十年前だったこと。別れ際に覗いた棺は空っぽで、そのまま火葬されたこと。
那次の口からぽつりぽつりと零されていく十年前の記憶に、アリアナは顔色を蒼くした。十年前、魔術師たちの世界では自分の命までも危険に晒す魔術儀式が行われた。そして、つい先日までこの病室にいる彼らもその儀式に巻き込まれていた。
「それって……まさか」
「ああ、おそらく聖杯戦争だ。千陵家の当主は聖杯戦争に参加し、死んだ」
アーノルドは理想のために、十年前の聖杯戦争で多くの犠牲者を聖杯にくべたという。当主がその聖杯戦争に参加していたというなら、遺体も遺品も残っていなかったとしても不思議ではなかった。
「那次も十年前の聖杯戦争の関係者だったってことか……」
佑は呆然と呟く。彼は重大なことを聴いてしまった重みを感じていたが、当の本人は実感が薄いようで首を傾げていた。
「関係……しているといえばしているのか。あくまで推測だけどな」
それから数年は静かな日々が続いた。当時六歳だった那次に当主の後釜など務まるはずもなく、彼の母親が一時的に千陵家をまとめていた。
「よくもまあそんな状態で続いたものね。それにあんたに務まらないなら、それこそ養子の男にやらせればよかったのに」
「僕が知るか、そんなこと。……でも分家も、魔術系統が同じだからと手を組んでいた家も、それぞれ好き勝手にしていたらしいし。もう名ばかりの集まりだったんだろうな」
那次が本家について知るところなど少なく、「今後お前がまとめていく家だから」と母から座学の一つとして少し触れられた程度であった。
そして日々が慌しく過ぎ行くなか、突如事件は起きた。後継ぎの座を盗られた男は、那次の家を放火したのだ。乾いた風の吹く冷たい冬の日だった。穏やかな昼寝の最中、目を覚ました那次は男と鉢合わせ、歪んだ笑みと炎が網膜と脳とに焼きつけられた。彼に遺されたものといえば体中を這う火傷の痕くらいなものだ。当時那次はまだ十歳だった。
「僕だけが助かった。落ち着いてから調べても火事のニュースは一家三人が亡くなったと言っているし」
どのようにして偽装されたのか。そのあたりは那次の知るところではない。しかし、本家の人間であり今まで次期当主として持ち上げられてきた男だ。死体の偽造も何もかも、上手く手を回したのだろう。そういう知恵と金を動かす力ぐらいはあるだろうというのが、那次の見解だった。
「だから戸籍の上では死んでるだろうって話になったわけだ」
長くなったな。と那次はすっかり冷めたハーブティーを飲み干した。最初は分からないところを質問責めにしていたアリアナも、話が進むにつれて静かになっていた。那次もその変化に気づいていたが、話を止めることはなかった。静か過ぎる病室に居心地が悪くなって那次は声を上げる。
「……なんだよ」
「……えっと、なんていうか」
佑は言葉に困り果てた。一体なんて声を掛ければいいのか。相当の覚悟をもって話を聴いていたはずなのだが、途中から覚悟などどこかに消えていってしまった。那次に掛ける言葉に窮することこそが那次を傷つけることになるのだと、彼が始めに言ってくれたのに。気を遣われたくはないと。しかし簡単に笑い飛ばすようなことだってできるはずがなかった。
「どうやって……」
口を閉ざした佑に代わり、呟いたのはアリアナだ。それは那次に聞かせる言葉というよりも無意識に出ていったような音だった。声を出したことに後れて気づいた彼女は観念したように思っていたことを告げた。
「今まで、どうやって生きてきたのかと」
ごめんなさい。とアリアナは謝罪した。不躾な問いかけだとわかっていながらも、彼女がそう訊ねざるを得なかったのは。語られた子供の話と目の前の存在との間に生じる空白に確かな繋がりがあるのかを確かめたかったのか、アリアナ自身にもわからなかった。殺されかけたという少年が、例え身にその名残を残していようと生きながらえているということが奇跡だと思った。
そして大人の勝手さに憤った。微かに胸に込み上げたものは、かつて宿していた復讐の炎に似た何かだった。
迂闊に口にした質問への謝罪への反応を伺うと、那次は眉を顰めて腕組みをしていた。
「素直すぎて気色悪いな」
「こっちは気を遣って……!」
「遣うなって言ったろ?」
アリアナははっととして開きかけた口を閉ざした。彼はアリアナのいつもの通りの少しきついくらいの一言を望んでいるのだ。だからどうしたと笑える豪胆さを、那次は相手を通して自分自身に求めていた。
那次は微かに口角を上げて、先ほどアリアナに訊かれたことを語り出す。彼の表情は笑みを表しているようで、多分の自嘲が含まれていた。
目を覚まして状況を悟った那次はまず病院を抜け出した。彼は病室の前で人が今まさに入ってこようとしていることに気づき、それが家に火を放ったあの男だとわかったのだ。火事からどれほどの時間が経過しているかはわからなかったが、彼が目を覚ます前に男が現れていたら。那次は今この世に居なかっただろう。
病院を抜け出し、騒ぎにならなかったのは男が手を回したからだと幼い彼にも理解できた。自分に繋がれた点滴や医療機器がけたたましい緊急アラームを鳴らしていたというのに、危篤状態だっただろう彼の元にすぐに医師らが駆けつける気配はなかった。
出来る限り遠いところへ行かなければという強迫観念のままに、まともに動けない体に鞭を打って街を歩いた。抜け出したのが夜中だったこと。都会ほど人のいる町ではなかったことが幸いして、途中で人に見つかることはなかった。
夜明け頃、ついに力尽きた那次は孤児院の院長に拾われた。町のはずれにある小さな孤児院だった。病院服を着て治療の間に合っていない酷い火傷を負った子供など、すぐに救急車を呼ぶだろうに院長はそうしなかった。彼女は目が覚めてすぐに逃げ出そうとした那次に、「安心して下さい。救急車も警察も呼んではいません」と火傷の手当てをしながら言ったのだ。
院長は行くところがない那次を引き取った。本当に警察にも連絡しなかった。その孤児院には他にも多くの訳わりの子を引き取っていたらしかった。
「そんなところあるんだね」
「普通はありえない。院長はそういう奴らの逃げ場として作ったみたいだ。非合法なのは変わりないけどな」
ひっそりと誰にも見つからぬよう隠れ住むために作られた孤児院。つい数ヶ月程前まで那次はそこで過ごしていた。しかし、彼にはあまり良い思い出がなかった。火傷の痕のせいで、子供らや院長以外の大人には気味悪がられていたし、彼自身も精神的に参っていた。最初に受け入れてくれた院長でさえ、本心では気味悪がっているのだという疑心暗鬼に陥っていた。
「それで、今は一人でアパート暮らしってとこだ」
「一人暮らし? それだって身分証明はいるでしょう?」
アリアナの尤もな質問に那次は淡々と答えていく。
「身分証明とか、その辺りは院長が諸々やってくれた。それにアパートだって院長が大家だしな」
「その人、何者?」
「知らん……でも、善い人……だったんだろう」
院長は那次のことをよく気にかけてくれていた。孤児院を出たいと申し出た彼に住む家を与え、細々とでも稼げるような手段を色々と取り計らってくれた。両親の死に囚われ生きる希望を見出せていなかった那次は、過去の呪縛から解放されてようやっと院長の慈愛に気づくことができたのだ。
話が終わり、部屋には静寂が訪れる。時間にして一時間程度だったが、佑とアリアナはその中に込められた那次の十数年に息を吸うことも忘れそうだった。
誰から口を開くのかと睨みあいのような状況の中、空気を読んでいるのか読んでいないのか軽快に病室のドアが開かれる。入ってきたのは先ほどと同じく七種だ。手にはまた新しく淹れてきたのであろう、紅茶の入ったポットとカップが抱えられていた。
「話は終わったか。そろそろお茶もなくなる頃だろうと思って、第二弾淹れてきたぞ~」
「話、聞いてたな」
素早く紅茶の用意をしていく七種の手元と顔を目だけで交互に見て、那次は確信めいた口調で訊ねた。
「何でそう思うんだ」
至って普通の調子で答える七種には動揺は見受けられない。
「タイミングが良すぎる」
「ははは。タイミングには自信があるぞ? 盗み聞きとかしてないから、ホントに」
暗い雰囲気を笑い飛ばして、新たに淹れた紅茶を三人に渡した。先ほどのものはハーブの爽やかな香りがしたが、今度のものは白みの強い茶色。ミルクティーだ。
三人がカップにひとふたくち口を付けたのを確認して、七種は自分より十は年下の少年少女に思いを馳せる。今しがた口を付けたミルクティーぐらいに、甘く濁して薄めてしまえば良いのだ。過去のわだかまりなど。
彼女はまだまだ青い彼らに伝えた。
「君たちは色々考えすぎだな。私たちは魔術師だ。戸籍がないとかあるとか、そんなの些末な事だろ?」
「僕も佑も気にしてないけどな」
「えっ、いや。触れちゃいけないと思ったし……」
那次の話題になってからすっかり静かになっていた佑は、そういえば触れづらいとも口に出していなかったのを思い出す。そしてアリアナは那次の「僕と佑」という言葉に引っかかる。
「気にしてるのは私だけって言いたいわけ?」
「実際その通りだしな」
「普通気にしないほうがおかしくない……?」
「普通、ね……」
“普通”と言われたときに那次は、さっきまで考えていた彼らとの壁の答えが出た気がした。自分にはおそらく世間一般の“普通”がなかった。そして、“普通”を一度でも身に与えられたであろう彼らと自分には明確な線引きがされていると思っていたのだ。
しかしなんてことはない。「魔術師」で括ってしまえば三人も七種を入れた四人にしても、どこにも差はないのだ。世間一般の“普通”の線引きをしてみたって、魔術師は“普通”の枠には入らない。
「何よ」
口を閉ざしたきりアリアナの方を見つめていた那次は「いや」と小さく否定をしてまた黙り込んだ。
佑はミルクティーを飲み干し、自分のやるべきことに思い当たり席を立った。
「じゃあ、僕は那次の件を教授に話してくるよ。ロンドンへの推薦はその人がしてくれたから」
「ああ、面倒かけるが……頼む」
「何だかむず痒いような……」
「でしょ」
しおらしい態度の那次の返事に佑は苦笑いを零した。過去に何があろうと、出会った頃は敵同士であろうと、彼の本質は変わらない。食事前の挨拶を徹底したり、今みたいに頼み込むときはちゃんと礼と謝罪をしたりと、意外に律儀なところとか。佑が彼の過去を深く知ろうと思わないのは、そういった本質こそが大事なのだと知っていたからかも知れなかった。
ランサーが、佑が誰に何を言われようと佑らしく生きて欲しいと思ってくれたように。
彼が彼らしくあれるのであれば、そこに過去も何もないのだ。
佑は病室を出る直前、後ろを振り向く。そこには少し落ち着かなそうな那次と、いつもと違う彼の様子を面白そうに見つめるアリアナ。そして二人を暖かく見守る七種。
那次の顔が初めて会った頃よりも穏やかになっていることに気づいて、佑は微笑んだ。
Fate/defective ロンドン白書