*星空文庫

美夏と夏月

ビターチョコレート 作

  1. 第一話 揺らめきの先で
  2. 第二話 蜘蛛~あたしと私~ <前編>
  3. 蜘蛛~あたしと私~ <後編>
  4. 第三話 調香師 <プロローグ>
  5. 調香師 <航海>
  6. 調香師 <白花の香り>
  7. 調香師 <エピローグ>

第一話 揺らめきの先で

花貴美夏(はなき みか)
番頭さん
静也(せいや)
耶麻(やま)


 一

 「美夏お嬢さん」
 障子を開けて庭園の望む回廊を歩いていた私は、番頭さんの声にすっと足袋の足で振り向く。
 古くから続くこの花貴酒造は、父の代で八代目。姉の旦那である冬壱(とういち)さんが将来は杜氏頭になる後継ぎを育て上げるために、現在私達の父と共に修行を積んでいる。甥っ子である耶麻(やま)は現在六歳。番頭さんの幼い息子さんとも同年で、よく座敷で二人で遊ばせている。奥様が息子さんを産んだ後に亡くなられたので番頭さんは若いながらの男寡。一人息子のために毎日必死に屋敷を駆け回っている。
「番頭さん」
 短く刈り上げた髪に手を当てて、恥かしげに微笑んでくる。彼は高校生の私にもいつでも頭を下げてくるので、私はどうしたらいいのか分からずにいつでもはにかむ。爽やかな目元はキラキラと光って、今は枝だけの枝垂れ桜や濃い緑の松、それにさらさら揺れる竹や、蕾をつける梅の木を背にして、それらがよく似合う人。
「こちらの匂い袋はお嬢さんのではなかったですか」
「あら、まあ」
 彼の大きな手に、小さな貝の匂い袋。紫色。
「どうもありがとうございます。これをどちらで?」
「へえ。玄関口、下駄の横に隠れてございまして」
「それはうっかりしていたわ。さっきね、御味噌を御用に頼まれて出ていたの。その時ね」
 それは微かに香る気品あるもの。手に受け取ると、帯に差し込んだ。
「すっかり、冷えて来ましたね」
「ええ。本当……」
 白石の敷き詰められた庭園は、今は陽が差し込んで玉砂利がキラキラと光っているけれど、吹く風の涼しさ。それは刻々と冬を告げて私たちの間も行き過ぎる。番頭さんの白い頬にも陽を射させて。
「息子さんも風邪を引きやすいから、もう温かくさせとかなきゃならないわね」
「ええ。あいつは女の子みたいに弱いから、もう少し大きくなったら野球でもサッカーでもやらせようと思ってるんです」
 息子さんは大人しくて真っ白い肌に真っ黒い瞳と揃えられた髪で、いつでもお行儀良くお手玉や手まりをしている。お歌を歌ったり、庭で三毛猫の背を撫でたりしている。その反面、利発でいたずらっ子な耶麻はたまに御爺様に呆れられるほどで、お神酒を飲もうとし始めたり、榊を振りまわして踊り始めたりなどするから、もしかして動物に憑かれてでもいるんじゃないかと、御婆様に連れられいそいそと出て行ったこともあったけれど、それを知るやいなや耶麻は大驚きして注射を嫌がる猫の如く御婆様を引っ張って戻って来たのだ。これは姉の旦那さんも手を焼いて耶麻の躾に泡を食う姿をよく見ている。
 私は、また葵、ユキノシタの横から出て来た三毛猫を見ていると、番頭さんが体を私に向けて来た。縁側には私たちだけ。猫は見てきてから、また向こうへ歩いていく。
「俺はお嬢さんに……」
「………」
 瞬きを続ける私は手をもたれていて、今に自分の瞬きの音まで聴こえそうだった。微かに風が吹き上げて、鼻腔に匂い袋の香りがくゆる。
「す、好おかぱぴぷあ」
「へ、へ……?」
 いきなり彼はずるっと滑って縁側に倒れ、その彼の横にあった青銅の吊るし行灯が、不気味に、焔をくゆらせた。
「……え」
 彼の手を握ったまま私は崩れた番頭さんから震えつつ行灯を見て、動けなかった。脚は震えて、そして蒼く燈る行灯の光りが一瞬大きくなる。向こうの青空と同じ色味の光りで。頭では番頭さんを助け上げなければと思っているのに、明りから目もそらせないし、視野の下方に映る番頭さんは私に手をがっしり握られたまま、まるで生まれたての山羊かのような体勢だった。
 行灯の明りはうつろいはじめると、ゆらゆらと行灯から離れ始めた。そして空の色とは交わることもせずに、庭をゆらゆら、ゆらゆらと流れていく。三毛猫はただ一度見上げただけで、何ごとも無く歩いてそして柘植の木の向こうに隠れた。柘植の向こうには椿があって、その先にはここからは見え無いお社がある。猫はよくそこにいて、番頭さんの息子さんもそこにちょこんとしゃがんでいるのだ。
 私はその息子さんの顔が浮んで、ようやく体の強張りが解けてしゃがみ、番頭さんの頬に手を当てた。横顔は眠っていて、凛とした眉は潜まれてもいない。
「どうしたの?」
 おちゃめな声に振り向くと、耶麻がいた。
「え!」
 すぐに驚きの声を上げて、手に持っていた竹トンボを握り締めたまま走って来ると、番頭さんを見る。
「おーい!」
 ばしばしと背を叩いて起こそうとするけれど、私よりも声が大きいのに目を覚まさない。
「!」
 一瞬、視野の向こう、庭の奥であの蒼い光りが強くなって、私は無意識に二人を隠すように腕を掲げた。なんなのかしら? 光りはゆらめいている。
「パパ!」
 ぐーぐーイビキをかきはじめた所で番頭さんの息子さん、静也(しずなり)くんが三毛猫を抱えてやって来た。
「パパ!」
「うーうん」
 番頭さんが目を覚ますと、ぼんやりと静也くんを見た。三毛猫がいきなり番頭さんの顔面に前脚でとんっと降りて彼が「フギャ!」と言ったので、皆してつい声を出して笑ってしまった。
 庭を見ると、あの蒼い光りは消えていた。
「………」
 行灯も、ただ静けさを湛えている。

 二

 床について私はずっとあの蒼い光りのことを考えていた。
 一体、あの光りは何だったのかを。
 暗がりで天井の木目を見つづけていると、襖を叩く音が聴こえて顔を向ける。
「どなた?」
「僕だよ」
「あら。いらっしゃいよ」
 甥っ子の耶麻が襖の間からくすりと笑った顔を覗かせて、それでから戸をしっかり開けた。その向こうに広がる畳に一面の障子から蒼い月明りが鮮やかに差し込んでいた。
「見てよ! 父さんも母さんも起きてくれないけど、凄いでしょ! 僕、明るくてすぐ目を覚ましたよ!」
 私は肘をついて起き上がって、体が勝手に動いていた。すぐに布団を出て耶麻の腕を引いてこちらにこさせる。後ろにやると、肩に羽織りを掛けて寝襦袢で立ち上がった。
「どうしたの?」
 まだあどけない声で見上げて来て、腕に両手を当てて来る。
「綺麗ね。けど、お外に誰かいないか見て来るわ」
「もうちょっと見てようよ」
 確かにとても神秘的なのは確かだ。何だろう、崇高な物を感じるわ。だから、それほどに……恐い。
「僕、お話聞いたんだ。お庭に青いちょうちょが出て来るって」
「誰に?」
「静也だよ!」
 うれしげに言う。蒼い光りは強さを増して、ここまで届いて私の白襦袢や、それに耶麻の無垢な笑顔の頬も染め上げる。やはりどんなにやんちゃでもまだまだ純真な子供なのだ。だからこそ、守らなければ。その正体の分からない何かからは、今は。
「静也ちゃんはいつも、夜は叔母さんのおうちへ戻るものね。きっと、もっとお庭で遊びたいのよ」
「じゃあ、一緒にお庭に出よう」
 手をぐいぐい引っ張って来る。
「……え」
 私の手を引っ張って前を行く耶麻の背に、尻尾がうねった。
「なん」
 強く握られる手に、私は恐れをなしてその場に座る。
「どうしたの?」
 振り返った耶麻は、やはり三毛猫の耳が生えていて、そして黄色の鋭く大きな猫目に、鋭い口許、そしてひげの生えた猫鼻……。
 声が出ずにがたがた震え、障子が向こうで開かれた。自然に。
 私はぞくっと震えて、その先を見る。
 青に充たされる日本庭園が、雪に包まれていた。寒くて自然に震えて、そしてきらきらと美しく青い月に光る雪がやわらかな曲線を描き、広がっている。松も、竹も、静かな雪を乗せている。吐息が白く凍え吐かれて、そして蒼い光りがふらふらと移動していく。それに気付いた。それは、蒼い蝶。とても美しくて、蒼い鱗粉をキラキラ舞わせながら舞っている。
 耶麻を見上げた。「ニャア」と言って、そして手を引っ張って来る。耶麻の大きさの浴衣を着た三毛猫が。
「耶麻、なの? なんで猫の尻尾が生えてるの?」
「一緒に早くお庭に行こうよ」
 ぐいぐいと引っ張られて、膝手を突きながら引っ張られて行く。畳まで出ると、その畳はひんやりとしていて、私は立ち上がった。
 歩いていくと、縁側の前まで来る。
「まあ……」
 庭では、何人かの……、何匹かの、耳と尻尾のある白襦袢の白髪達が、とん、とんと跳びながら舞っていた。ちょうちんを手に、とん、とん、と、雪の薄く積もる部分に。真っ白い耳と大きな白い尻尾。誰も雪のように白い頬をして、とん、っとんと跳ぶ毎に白髪も艶を受けて揺れる。
 一斉に、地面に片脚で降り立った彼等が私を見て来た。
「………」
 既に耶麻が私の手を繋ぐその手は六歳児のものでは無い、猫のものになっていた。
 耶麻猫が手を離して歩いていく。それで、その彼等の先に、お社だけが浮かぶ様に雪をかぶってはおらず、そして蒼い光りが灯っていた。
 耳と尻尾の生えた彼等が歩いていく。それは、誰もが純白の猫の耳と尻尾だった。
 私は用意されていた雪駄に足を通して、雪の日本庭園を歩いた。その途端、見上げる闇の空から白い雪が降ってきた。風にあおられて斜めに。
 髪を押さえて、羽織りを引き寄せながら歩いていく。
 お社の左右に彼等が立ち、私は背が高いと知った彼等をそれぞれに見上げてから、蒼い光りを見た。
 それは雪にも広がっている。
 こうやって見ると、とても優しげな光りをしている。とても、とても。
 いつでも耶麻がまるでまたたびを得たかの様に執拗に遊ぶ榊が左右にいつもの様に飾られている。いつでも本物の三毛猫もここにいて、静也くんもここにいた。柔らかな猫の背を撫でながら。
「静也が生まれたのも、こんな雪の日だった」
 何処からとも無く、声が振って来る。私は見上げると、誰もが目許の隠れているから、誰が声を発したか分からない。
「白椿様が社に戻られたのも、その日だった」
 私は静也くんのお母さん、椿さんの名前に、それを言った人を見た。
「蒼い蝶や、青の光りに姿を代えて、いつでも見守ってた」
「ゴロゴロゴロ」
 耶麻が三毛猫の顔で手の甲で頬を撫でていて、尻尾をうねらせていた。
「椿さんは……」
 何者だったの。その言葉は、まるで雪が降り積もるごとに見えなくなっていく言葉のように、体の底へと沈んでいく……。
 視野がまるで眠りの淵から夢を見るときのように、揺らめき始める。雪は吹雪き始め、どんどんと社もうっすらと雪を纏い始めて、そしてなおも、優しく光りがその先からぼうっと光る……。

 目をパチッと覚ますと、私は床に就いていた。
「……夢?」
 起き上がると、横で耶麻が眠っていた。また猫の様に丸まっているので、微笑んで布団をかけてあげた。
 静かに布団を出ると、襖を開ける。
「朝」
 明るい陽射しが射していて、障子は閉ざされたまま。
 振り向くと、猫では無い耶麻がむにゃむにゃ言っていた。まだ眠りたい時間だろう。今日は幼稚園は休みだから、また厳しく躾の時間が始まるまでは寝かせて置いてあげよう。やはり叔母心なのか、甥っ子が可愛くてついつい甘やかしてしまう。
 静かに襖を閉ざすと、畳を歩いた。そして、障子を開ける。
「あら。おはようございます」
 番頭さんがいつもの様にお庭をホウキで掃いていた。まだ秋も深まった冬間塚のこの季節。昨夜、一瞬雪になったのは幻か。とても美しい、えにいわれぬ夜だった。
「おおはようございます。美夏お嬢様」
 少し噛んだので、私のほうがつられてはにかみながら庭を見渡した。この時期は朝露がきらきらと光って、庭を飾っていた。爽やかに笑う番頭さんも、白い歯を光らせている。
 今になって襦袢姿に気付いて、すぐに口許を羽織りの袖で押さえた。私ったら、こんな姿で。
「それでは、私はちょっと……」
 すぐに引いていき、襖を閉ざすと額に手を当てて「しまったわ。はしたなくも私ったら」
「美香ちゃーん」
 欠伸をしながら起き上がった耶麻を振り返ると、こちらを眠り眼で見て来た。
「僕、厠に行ってくるー」
「ええ。行ってらっしゃい」
 とことこと歩いていく、その背に、一瞬尻尾がうねった気がした。瞬きすると、すぐに普通の耶麻に戻って錦の掛けられた鏡台の角の間口へ見えなくなっていった。
 私は身支度を終えると、既に庭は掃除を終えている時間だと分かっているので縁側に出て回廊を歩いて母屋へ向うことにする。女衆は朝食の準備だ。
 障子を開けると、やはり番頭さんは次の仕事に移っていた。耶麻はいつもそのまま両親のいる場所に向かい、既に起きている祖父と祖母の部屋に三人で挨拶に向かい、そのまま躾の時間に入るので、ここへは戻って来ない。
 庭を見渡す。きよらかな庭。
 ここからは見え無いお社。
 小さな頃、お婆様から聴いた事があった。私が、あれは誰が祀っているお社なの? と。
『あのお社にはね、緒猫様が祀られてるのよ』
 すると畳に『緒猫様』と指で描いてくれた。
『むかしむかし、三代目が絹の緒に絡まれた純白の猫を酒蔵で見つけたというの。鼠捕りにしては細いし、珍しいので、絹に絡まれて動けなくなっているのを助けてあげたのね。そうしたら、その白猫は感謝の気持ちか、その時代はまだ小さかった小川から銀魚をとってきたり、鼠をとってきたり、蛇をとってきて三代目の前に置くの。あんまりに綺麗な糸だったから、それを奥方が結って紐にしてあげて、それをいつき始めた猫の首に結わえてあげたのよ。それでから、白猫は酒蔵の猫になって、よく鼠を捕らえてくれるようになったのね。三代目も奥方も大層その猫を可愛がって、あまりに綺麗な毛並みに惚れ惚れしていたの。招き猫だったのか、花貴の酒はその年から地主様にも大いによろこばれるまでになって、城にまで献上される程になったわ。彼等はとても白猫に感謝をしていたそうよ』
 それで、白猫のための社が建てられたのだという話を聞いた。
 朝の明るい庭を見つめながら、しばらくしてハッとした。
 椿の木の下から三毛猫が現れて、歩いていく。
「おまえ」
 猫は声に気付いて私を見た。
「おいで」
 猫がやってくると、私を見上げてくる。
「おまえ、耶麻にもしかしてとりついてなどいないわよね?」
 三毛猫はまるで呆れ返ったような顔をして目をいつもの様に伏せさせ、歩いて行った。骨太でがっしりした三毛猫なのだけれど、いきなり二本足であるくこともせずに向こうへ行く。スズメを見上げて耳をぴくぴくさせ、じっと見始めた。なので、私は「まさかね」と言って、急いでお勝手へ向った。

 三

 「あら。静也ちゃん」
 昨日の事が気になり、お社へ来た。今日も静也くんがおはじきを猫に見せてあげている。それを並べて、きらきらと太陽に照らされて、透明な影が落ちているのが眩しくて目を細める。
 静也くんも目を細めて太陽を背にする私を見上げた。私はしゃがみ、微笑んだ。
「おはようございます。美夏さま」
「おはよう。もうちょっとで、耶麻もお習字のお時間が終るわ」
「はい」
 静也くんはこくりと頷き、猫の背を撫でる。
「でもこうやって遊んでるから」
 それが、まるで普段は耶麻に乗り移っている三毛猫と遊んでいるから、という風に聞こえたのは、私の思い凄しだろうか。
 私は今は彼岸花が揺れる先にあるお社を見上げた。
「?」
 蒼い光りが、扉の向こうに揺れた気がした。静也くんが立ち上がり、その前まで来ると私を見上げた。まるで、蒼い光りを守るかのように。
「何もしないわ……」
 私はつぶやき、まっすぐと、そして睨むように見上げてくる静也くんを見た。
「僕たちは、美夏さまが相手でも、負けないもん」
 いきなりそう言った静也くんは、大きな目に涙を浮かべて猫を抱きかかえて走って行ってしまった。
 咄嗟に振り返って、秋の庭に走って行く小さな背を見た。抱きしめる三毛猫の尻尾がうねったのではない、白い尻尾がうねって影を落として柘植の木の向こうへ走っていってしまった。
 背に温かい感覚を感じて振り返ると、青銅で出来た鏡が蒼い光りを灯らせた。その鏡の前には、古びた絹の緒が置かれている。
「静也くんのママは、白猫なの……?」
 誰にとも無く言ったのでは無い。光りに問い掛けていた。緒は蒼い光りを染み渡らせていた。格子先のそれらは、現実にあるものなのに全ては青の色味が幻想を導く。それが揺れて格子を越えて、私の横を揺らめく。着物を染めて、そして庭を行く。私は追いかけた。
 静也くんを探しに行くんだわ。あの光りは。
 離れを横切り、蔵を横切ると母屋まで来た。廊下を歩き、陽の伸びない暗がりを蒼い光りを追いかける。床にも反射するその色を。漆喰の壁をぼうっと染めて。
 角を曲がって、その先に青銅の重々しい扉がある。横には箱庭。獅子脅しがいきなりカンッと鳴り、私はビクッと肩を震わせた。扉の前にいる静也くんの背を見る。茶室障子とこの廊下に囲われた小さな庭の軒先に吊るされた青銅行灯に蒼い光りは入り、静也くんが振り返った。
 驚いて、その顔を見た。猫の顔だった。
「パパに言っちゃ駄目。ママが、椿という名前のひとが、猫だったんだって」
 蒼い光りがぽうっと強くなると、常緑樹の揃う箱庭に女性が現れた。白い着物。それは、椿さんだった。
「椿さん……」
 明らかに透けている。静かな笑みを湛える顔立ちは変わらないまま。私に絹糸で刺繍を教えてくれたり、あやとりを教えてくれた人。お世話になった人。それで、ずっと番頭さんの好意を私は避けつづけた。
「怒っているの?」
「いいえ」
 変わらぬ鈴声で、椿さんは言った。
「静也くんを心配しているの?」
「ずっと、見守っているの」
 すーっと、ここまで来た椿さんは蒼い光を宿して、胸がきゅっと苦しく成る程美しい。私はずっと彼女に憧れていた。
「私は、美夏様が静也によくしていただいていることを見てきていたのです。彼があなたを好いてらっしゃるなら、それでいいんだけれど……けれど」
 私は俯いて、床を見つめた。
「私はまだ、恋というものは知りません。番頭さんが寄せてくれる好意も、何も」
「お顔をおあげになって」
 透けた足袋がここまで来ると止まった。白い長靴下の静也くんの足も並んだ。
 蒼い光りの影は、床に二人の白い尻尾の陰を落す。
 私は顔を上げると、静也くんだけだった。尻尾も、白猫の耳も生えていない。蒼い光りも姿を隠したかのよう……。
「行こう。美夏さま」
 静也くんが手を繋いできて、廊下をまた歩いた。
 青銅の扉を引く。
 暗がりが暗澹と広がる。左右箪笥に囲まれ進んでいき、階段を上がっていた。意識がそこから言う事を聞かないと気付き始めながらも。

 階段を上がり、床に立ち尽くす。
 猫。みんな白い。同じ顔をしていて、私を振り返った。静也くんが白い子猫になって、そちらへ行く。
「静白様は、白椿様のお子だ」
 夢で聞いた声が響く。とても静かに。
 屋根裏は明り取りから秋のよく晴れた青空が覗く。
「白椿」
「三代目にお世話になった白猫の末裔だよ」
 一匹が、昨夜夢に現れた青年になった。
「僕らは代々、このお屋敷にいる人間と僕ら白猫の間に生まれてきた」
 また違った猫が人に変わった。
 そして二人の、顔が同じ女性が現れた。
「白猫からは白猫しか生まれない」
 その四人が夢に現れ舞っていたのだと分かった。
 そして、細身の猫が子猫を抱き上げた椿さんになった。
 唯一、彼等に囲まれた猫だけが猫のままだった。
「彼女も三代目の夢枕に女性の姿で現れ、子猫を宿し、我々を生んだ」
 その白猫は、首元に絹の緒を巻いている。静かに私を見つめて来ていた。
「静也くんはいずれ、猫に戻るために番頭さんの前から去ってしまうの?」
 椿さんは首を静かに横に振った。
「我々は妖猫。ご安心を」
 子猫のふわふわの頭を撫でながら椿さんが続けた。
「元々、わたくしは彼の元を去るつもりでいたの。何故なら、魂を宿した我々は力を地階果たして人の姿でいられなくなるから。しかし、こんなに愛らしい子が生まれて、彼を見つけた甲斐があったわ。わたくし、あんまりに彼が不憫だものだから、あなたが彼と静也のところへと来てやくれないかと見ていましたけれど、どうも恋愛にはあなたは疎いようで」
 私は頬を染めうつむいた。恋愛だなんて、そんな大それたこと。
「私は、番頭さんを素敵と思うけれど、恋愛には行かないわ」
 椿さんが微笑み頷いた。やはり安心する微笑み。姉のように慕っていた。だから、とても哀しかった。
 私は耐え切れずに彼女の白い肩に泣きついていた。髪を撫でられて、言葉もなくずっとしばらくそこにいた。

 四

 「お嬢さん」
 番頭さんが汗を腕で拭いながら笑顔で釜から顔を上げた。蔵は熱気が渦巻いていて、向こうでは父が冬壱さんと共に巨大なしゃもじとうちわで、蒸しあがった白飯を返している。
「お昼の用意が出来ましたよ」
「ありがとうございます」
 私ははにかみ、番頭さんが奥の人たちにも声を掛けて皆が笑顔を向けて来た。
 明り取りから湯気が流れていく。その先は蒸気煙る先に緑。
「!」
 目を丸くして、そのゆらめく先に三毛猫の耳が生えた悪戯顔の耶麻くんがパチンコを持っていて、冬壱さんにぴしっと草玉を当てた。
「ん?」
 すぐに引っ込んで見えなくなって、冬壱さんは首を傾げて向き直った。
「さ、さあさあ、まだ料理のあたたかいうちに」
 私は彼等を促し、父がさらしをご飯にかけたところを引いていった。
 私は庭に来ると、祖父に耶麻が首根っこを猫の様に掴み上げられ運ばれていたので、つい口許に手を当てた。むこうでは祖母がくすくすと微笑んでいる。縁側まで運ばれた耶麻が降ろされた。パチンコを手に持っている。
「大人しく飯を食べてきなさい」
「はい!」
 急いで耶麻は走って行き、二人はやれやれと言った。
 母屋にあるこの庭は、いつでも御爺様が手入れをしているので、すぐに異変に気付くのだろう。足許に草玉がたくさん転がっていた。私もくすくす微笑んで一つ拾う。
「今に蛇でも捕まえてきかねないわい」
 耶麻が蛇を振り回す姿は容易に浮び、きっとこの庭にもいるでしょうからきょろきょろ見回した。
 私たちも三人でみなの所へ向う。
 もしかしたら、薄々と二人は孫が猫に憑かれて悪戯をしていると気付いているかもしれない。
 戻って来ると、既に静也くんの横で耶麻はお行儀欲ひざに手を置き、御爺様が席につくまでを待っていた。お婆様も座る。みなが手を合わせると、静かな食事が始まった。その時だけはしっかりしつけられた耶麻は静かに食べる。花貴家の食事はお喋りは厳禁だ。
 何度か、番頭さんが遠い席から私をちらちらと見て来た。
 これはしっかりいわなければならないという意味なのではないかしら。
 きっと私が半端でいるから、椿さんも静也くんも私の気持ちを確認しておきたかったのかもしれない。もしも私が自分の気持ちを伝えたのなら、彼は静也くんのためにも他の新しい女性を探すかもしれない。
 お社の前でいつも静也くんがいたのは、きっと椿さんの魂があったからでしょう。
 私は一度、番頭さんを見た。慌てた番頭さんは咄嗟に顔を戻し、静也くんは静かに食べつづけていた。

 「お話というのは、何でございましょう」
 私は番頭さんを近くの茶屋に誘い、個室でお茶ときな粉蕨もちをいただいていた。
 甘い物が好きな番頭さんは抹茶アイスに小豆を乗せたものをいただいている。
 同じ様に緑茶から二筋の湯気が上がっている。漆塗りの上のお菓子はあでやかだ。
 私はどう言葉を選ぶべきか、悩んでいた。変なこちら側の勘違いならいいのだけど。
「来年は耶麻と一緒に静也ちゃんも小学生ですね」
「へえ。準備もいろいろ忙しくて」
 笑いながら背を伸ばして言う。
「入学式の時、泣いちゃうかもしれません。妻も草葉の陰で見守ってくれてることでしょう」
 うつむきはにかむ番頭さんはしばらくして、顔を上げた時には真剣な顔になっていた。
「俺は、お嬢さんのことを正直、気にかけています。まだ十六という年齢でいらして、将来のことはまだ考えていなくてもしょうがありませんが、静也の奴も懐いてることですし、是非、将来共になることを考えて、大旦那様と旦那様にもお許しをえられないかと思っている所存です」
「………」
 私は真っ直ぐの目に気圧されて、目を反らせずにいた。ただ、どうすればいいのか分からないだけで、適当な音場が浮ばない。
 そんなこんなで、しばらくはただテーブルを挟んでいたものの、ふと言った。
「アイスが……」
「あ、これはいけない」
 慌てて番頭さんがアイスを食べて、既に湯気も上がらないお茶をぐっと飲んだ。確かに、彼には支えになってくれる女性が必要だろう。しかし、私は見合わない。そう思う。
 冷静になっても考えはどうしても変わらなかった。
「……できる限り、私たちで協力はいたします。静也ちゃんや聖さんのためにも。しかし、申しわけ無いのですけれど、私はあなたの言葉には応えられなくて……」
 今に脳天から何かが湧き出してしまいそうな程だったけれど、言ってしまった。
「なので、ごめんなさい」
 深く頭を下げた。しばらくして、声が聴こえた。
「あ、その、ああ、いや、分かってたんです……」
 デタラメに上擦った声で番頭さんが言って、顔を上げた私は互いに困惑して、互いにまた俯いた。
「どうか、気になさらないでください。俺も無理を言ったんです。いきなり子持ちの男に言われたら、それは驚きますよ」
「いえ、静也ちゃんのことは私も大好きなんです。それに耶麻もとてもあの子を可愛がっているわ。だから、どうか謝らないでください」
 はにかんだ番頭さんが段々といつもの顔に戻って言った。
「お嬢さん。俺達を気遣ってくださってありがとうございます」
 彼が深く頭を下げて、私も慌てて深く頭を下げた。

 五

 高校の宿題が手につかずに、私はパソコンから視線を障子に射す光りと葉陰を見た。
 溜め息が漏れて、ぼうっとしてしまう。
「美夏」
「はい」
 姉の声に私は入ってもいいことを言う。姉が三毛猫を抱えて入って来た。
「聖さんと何かあったのね。ちょっとしょんぼりしながら階段を拭いてるわ」
 きっと姉は気付いていたのだと分かって、私は頬を染めた。
 猫が下りると座布団に丸まった。

 つづく

第二話 蜘蛛~あたしと私~ <前編>

泉花夏月(いずはな かげつ)あたし
花貴美夏(はなき みか)私



 十五の時、年齢を偽ってヨーロッパで蜘蛛のタトゥーを手に入れた。
 あたしはその時、その手の甲を見つめながら高揚していた。彫り師は専用の機械を構え黒い墨壺に針を沈め、そして手の甲にトレースされた蜘蛛の下絵の筋を、ジジジとなぞり墨を真皮層の下へ入れていく。まずはくすぐったさを感じて、そして骨張ったところに針がなぞると微かな痛みを感じた。タトゥースタジオは他のゲストのくゆらす紫煙がこもり渦を巻き、まるでドラゴンか大蛇が空間をのたうつようで、まだ若く半人前なあたしの体も未完成の蜘蛛も飲み込み食べ尽くそうとする様に感じた。その男をちらりと見て、私はニッと、微笑したのを覚えている。同じ笑みを、男が返したことも。まるで鏡を見るようにおなじに思えた。
 十五分もすると線の蜘蛛はあたしの手の甲に息づいた。それは足の一本一本、模様に至るまで。紅く腫れた肌を牙で刺している様だった。
 針の種類を変えた彫り師は黒い墨壺から蜘蛛に色味をつけていく。筋彫りの時とは違う感触は、肌の張ったところに今度は鈍痛を伴う。けれどどちらも心地良いぐらいの小さな痛み。
 濃淡がついていく毎に蜘蛛は血流を共にすべく熱を持ち始めて、あたし、泉花夏月(いずはな かげつ)と一体化しようとする。皮膚に入り込もうとする。蜘蛛があたしになろうとするかのように。余所からやってきて、体を制そうとする。
 三十五分すると、蜘蛛はあたしのものになっていた。手の甲という骨の格子越しに、私の体内を見つめ、狙っているような蜘蛛。
 肉体とは檻なのよ。白く美しい格子を有した檻。その内側で心臓がうごめき、臓器たちがそっと顔を覗かせているんだわ。主人のことを見ているのよ。そして頭蓋骨という白い独房で、人の感情を司る脳は思い悩む。主人が侵してきた様々なことがらをタナトスまでの刑期を生きながら、そこに鎮座している。あたしが世を静観する間も、脳は思い悩む。
 それを手の甲の蜘蛛は、あたしのものになった、とあたしが勘違いするそばで、見守っている。この手であたしが何をして行くのかを、看守のごとく見張る蜘蛛なんだわ。
 あたしの内面を監視する蜘蛛は、いつかはあたしに飛びかかって牙を剥くのだろうか。この瞳に、この唇に。


「美夏(みか)さん」
 私はN女子大学のキャンパスで呼び止められ、同じサークルの波子さんを振り返った。
「金曜日の夜七時から、サークルの飲み会を【bella luna】で開くの。今回も参加するでしょう?」
 それは毎回女子会ともいうべく飲み会の開かれる恒例のワインバー。ワイン蒸しの料理もおいしい。
「えっと……」
 私ははにかみ、すぐに応えていた。
「出るわ」
「じゃあ、伝えておくわ」
「どうもありがとう」


 あたしのことを「夏月(かげつ)を昼に見た」と知人から聞かされ始めたのはいつからだったか。
 夜の静寂をかき分けるように縫い歩き、あたしは生活してきた。だからそれらの情報はあたし自身にとって、不可解なものだった。夜の七時から深夜十二時までレコードショップで働いて、自分がデザインする服の制作費とアクセサリーデザインに当てて、深夜に突入すればバーに流れ着いてシェイカーを振ってきたあたしが、太陽が降り注ぐ昼に行動したのはどれほど前だったろう。十三の時、生き方に雑念をもつ同世代に辟易したあたしは馴染むことが苦痛となって、黒い部屋でバロック音楽ばかり聴いてきた。ゴシック系の裁縫は好きだったけれど、趣味を共有する友人はその時代見あたらなかった。数ヶ月して中学を中退してすぐに漂着したのは西洋ハードゴシックが専門のレコードショップだった。オーナーと知り合って始めは裏方のレコード整理をして働かせてもらって、オーナーと一緒にヨーロッパにレコードを買い付ける内に語学を学び始めた。まだ十代も半ばだった頭にはよく入っていった。ご飯付き、旅費はオーナー持ちでお小遣い程度だった給料も少しずつ年齢と共に上がってくると、自分のデザインした裁縫服やアクセサリーの小さなブランドを立ち上げたくなって、サイトを作ってもらって受注で少量ずつ作るようになった。二十歳も過ぎると、オーナーが連れて行ってくれたバー[cabarero]で店長に気に入ってもらえて、バーテンダーになる修行も始めた。
 だから、十三歳の年齢からあたしは日本では比較的夜に行動をし、ヨーロッパでは開放的な空気を吸ってきた。十七歳にもなれば、あたしは一人でもヨーロッパの地を訪れるようになっていたし、その空気に触れていることが心を充足させてきた。
『夏月さん、表参道で見ましたね。珍しく、エレガントな装いしてましたけれど』
『自由が丘であんた、用事でもあったの? 別人かと思ったけれど』
『お前、どこででも現れるな。まさか「オペラ座の怪人」観るような性格だったか?』
『歌舞伎座で何か観ていたのかい。君の作るお酒もわびさびがあるよ。心が導き出すものかな』
 身に覚えのない事だったから、時々その「昼のあたし」とやらを見るみんなの事が不思議に映る。奇妙で、それでどこか不安に陥る現象。初めのころは、それはそれでわくわくした。昼に行動するその女のことを、夜に行動するあたしとは正反対の存在と捉え始めて、いつしか応えるようになっていた。
『よく見かけるらしいわね。彼女は昼を征する勝ち子ちゃんよ』
『夜を征する君も勝ち子に見えるけどな』
 他の人にも経験があるのだろうか。
 分からない。
 けれど、あたしはあたしよ。
 あたしはあたし……。


 私はじっと見つめ続けていた。
 女の病的に真っ白い手の甲。皮膚に刻まれたその黒々とする大きな蜘蛛と私は見つめ合っていた。
 実にリアリスティックなタトゥーで、八つ並んだ蜘蛛の丸い目は、八個のボディピアス。本当に私のことを見ているみたい。
「………」
 その瞳に引き寄せられるような眩暈を覚えたので……私はそっと、蜘蛛に唇を寄せていた。
 ツと、手の甲の冷たさが唇に伝わる。
「毒蜘蛛なら刺されてるよ」
 驚いて背を伸ばす。てっきり眠っているのだとばかり思っていた。女の顔を見る。冷たく不思議な色をした瞳と鉢合わせた。ボリュームあるロングの黒髪を片方の肩に流し腕を組んだ女。横目で見てきている。
 電車内。
 私達だけが揺られている。揺れる瞳で女の目を見ていた私は、電車が立てた甲高い音でハッと目を瞬いた。
 これは終電。三十分間、ずっと気になっていた女の手の甲に注視していた。
「ごめんなさい。いつもはこんな事、しないの。見ず知らずの人だし、人に不用意に触れようなんて失礼に当るから」
 女は予想に反して好意的な微笑みを向けた。それはどこかおちゃめに。私の胸の辺りがその笑顔でいきなり鼓動を打つ。
「ふ、いいのよ。あんた、N女子大生?」
「ええ……」
 怒っているわけではないようで、安心した。
 私の通うN女子大というと、一見してその特徴が判別できる服装や髪型をしている。体よく言えば落ち着き払った女性の身なり。品のあるウェーブ、白いブラウス、ストール、膝丈のスカートにオクスフォードパンプス。それがN女のよくする装い。その首元には繊細なネックレスや、指には微かに輝く指輪をそれとなしに填めている。
 私は唇を寄せた蜘蛛を、また見てしまう。未だ、生命を持ち息づいて思える女のタトゥーを、ずっと唇は求めるように喉をならし見つめていた。さっき、タトゥーに口づけて、一気に心はざわざわと騒がしく高揚した。
唇を寄せた途端に言葉では言い表せないほど脳天を貫いていった、目に見えない蜘蛛の歯牙。
 視線だけは、彫り込まれた蜘蛛の挙動を追い続ける。
「名前、なんて言うの? あたしは夏月」
「カゲツさん……」
 蜘蛛の目となる黒いボディビアスに跳ね返る光沢を見ながら、おぼろげに女の名を口ずさむ。
 そして、視線を上げていく。だんだんと。女の体を締め上げる革製のビスチェから、腰まで届く髪を辿って、死刑台……十字架。肩、首筋、美しい顔立ちを見る。
 さばさばとした雰囲気の彼女には≪カゲツ≫という名が似合う。ゴシックアイメイクの鋭くも美麗な目元をしていた。
 何故か、女性と名指すよりもクールに「女」と名指した方がよほど似合う風なのだ。
「私は美夏と申します」
「へえ。ミカ。どう書くの? カゲツは夏の月」
 彼女の病的に真っ白な肌を見ると、冬の情景が浮かぶのは何故だろうか。
「美しい夏で、ミカ。母が夏が好きで健康的な女性になってもらいたいからって」
「逆ね。あたしは、月の様に静かに、夜の夏虫の様にささやかな子になってもらいたかったって」
「素敵な由来。私なんかは本当は秋生まれのカナヅチ」
「マリンスポーツどころじゃないね」
 お互い全く夏の全く似合わない顔を見て、ふふっと可笑しくて笑った。
「その蜘蛛、綺麗」
 夏月は美しく覗く背で紐が交差した革ビスチェの胸部に、西洋的なアンティークシルバーの大振な十字架を提げている。しっかりした左上腕には蛇が彫られ、ショートスカートから出る長い脚はガーターベルトに吊るされた黒いストッキング。編み上げヒールを履いていた。彼女にはヨーロピアンゴシックの雰囲気がある。
 彼女が組む腕が解かれて、右手甲の蜘蛛が膝に当てられた。脳裏に想起させられる。その先の鋭いヒールで蹴られたら、蜘蛛に刺される痛みを伴うのではないかしらと。だって、鋭いヒール先はまるで蜘蛛の持つ針や牙に見えた。刹那、私に蜘蛛は跳んでこの身を毒牙で浸そうと狙っているかのよう。
 ちらりと夏月の瞳を見た。彼女自身が毒を持つ雌蜘蛛に見えて、何故かしら……、私は、微笑んでいた。
 スーッと、指を夏月の組む細長い脛に滑らせ編み上げをなぞらせながら。
 何が私をそうさせるのだろう?
 ここが電車だと忘れてしまう程、彼女だけを見て、他の景色などぼやけてしまう。夏月だけが息づいて思えて、その夏月の持つデカダンスな雰囲気と、闇を駆け抜ける電車の殺風景な音が、私を夏月に捉えさせて大胆にさせているのかもしれない。
 まるで水分を掻き分けるような音で夜の電車は進み、時々甲高い音を響かせる。
 夏月の目は、鏡のような色のカラーコンタクトが嵌め込まれていた。私を見ていて、そして、微笑んだ。
「あたし、あんたみたいな目をする子、好きよ。悪戯な目、するんだ」
 一瞬、白い手指が迫ったかと思うと私の巻かれた髪に指を差し入れた。黒いマニキュアの鋭い爪はブラウスの襟元を撫でて行き、髪に蜘蛛が張って行って微かにボディーピアスが髪に絡む。それは、まるでわざとかのよう。項を撫でられたことで私は咄嗟に首と肩をうねらせてしまい肩からベージュのストールが落ちる。
 いきなりの事で首を仰け反らせた。
 夏月が酷く私の後ろ髪を引っ張って来たから。目を開けて視線を落すと、似つかわしくない可愛い笑顔が待っていた。
「綺麗。涙の浮ぶ瞳も」
「酷いわ。離して」
「悪いわね。あんまりに美夏が可愛いから」
 手がぱっと離れて行き、私はそっと手を差し入れ髪を整えた。
 その離れて行った手の動きを見詰める。それは、まるで一度毒を排出したか獲物の生き血吸ったかの様に活き活きして見えた。


 やっぱり……。
 あたしは思った。
 この女だ。みんなが揃って『昼に夏月を見た』と言って来た正体は。
 確かにメイクは違うけれど、顔づくりは同じだ。それを素顔を知るあたしは分かっている。よくよく見ると、元の瞳の色も、顎下の微かな小さい黒子も、耳の形も、同じ。だから、きっとその纏っている衣服もはぎ取ればある筈。あたしや男しか知らない場所にまるでハートの片割れかのような痣が。
 さっき美夏の髪を鷲掴んだあたしの手はその途端にズンッと重さを伴った。彼女の頭蓋骨を指に感じて、確かな存在感をあたしに知らしめる。あたしも存在する。こいつも存在するということを。
『あんな上品な格好もするのね。いつのまにその路線に乗り換えたのかと思ったわ』
 違う。あたしはその昼の女では無い。乗り換えですって? あたしを乗っ取るの間違いなのだと、思ってしまう。不安げにあたしを見つめる美夏の瞳があまりにも滲む涙とともに光るから、その光りにあたしは弱さではなくそこはかとない可愛らしさ、守ってあげたくなるような使命を感じた。
 電車はカーブに差し掛かって、美夏の体がかしいで私に傾く。髪からは薔薇と白百合が混ざり合った香りがする子。上品な装いはあたしがしたことも無い格好。イヴサンローランやラルフローレンのライン、シンプルなエルメスが好みなのだろう。所作はどれもゆったりとして優雅で、重いものなど持ったこともないだろうその手は、美夏という女をエレガンスに思わせた。
 まっすぐにしか歩かないあたしとは似ても似つかない。それは、似ていても内面が似つかない証拠。美夏の優柔不断に揺れる瞳の光りは、あたしが感じる不安さえも照らす灯りに見えた。


 私達は深夜、ゆったりと流れていく夜風を縫うように歩いた。
 あとはもう路線を走るのは深夜特急や貨物列車になだろう。
「あんた、何かのサークルの飲み会帰り?」
「ええ。あまりいつもと代わり映えが無い顔ぶれだけれど、最後まで居残る癖が出来ているのよ」
「幹事に任せて良い頃合に抜ければいいのに」
「なんとなくよ。のんびり話している内に、そんな感じ」
 夜が目を覚ます時間なのか、私は眠いけれど夏月は目がまだ強い光を放っていた。
「夏月はこれからどこかへ向かう所だったの?」
「バーにね。来てみる? 飲み直すのもいいんじゃない?」
 裏路地を行くと暗がりを猫達が歩いていく。まず一人では、波子さんがいても歩くことのない種類の細い路地。換気扇からは料理の匂い、壁には装飾的に留まったペイント、飛び交うヨーロッパの多国籍な言語、暗がりからあげられる鋭い視線。静かな目で見下ろしてくる彼ら。風に乗ってやってくるベルガモットの香り。それに、移り変わったお香の香りにあてられて、頭がくらくらさせられる。暖色の照明に彩られたラテンの踊りをする男女があまりに魅力的で、一瞬立ち止まって見とれる。彼らがキスをして、私はすぐに目を反らしていた。「フフ」と笑った夏月が私を見つめた。何故か頬を染めてしまう。間近でウインクする夏月に、一瞬踊っていた白人男性の顔が重なった。彼女の奔放な瞳に心臓は落ち着かなくなって、私が早足で歩いていったから背後から夏月の笑う声が聞こえた。
 そこを抜けると、空気さえも澄んで静かな路に出て安心した。
 その向こうに紫色の看板を見つける。それは白い漆喰壁にぼんやりと広がっている。
 紫の看板には、染みるような黒いローマ字で細く【camarote】と記されていた。スペイン語で【船室】ということ。
「あなた、時々、どこかへ船出したくなるの?」
「旅は好き。もちろんスペインも廻った」
 彼女なら確かに一人でもどんどんどこにでも出かけていくだろう。
「冬だけね」
 付け加えて、黒いドアを潜って行った。
 クラシカルな店内だった。女性がカウンターに立ち、数名の女の子がグラスを傾けている。
「ハアイ。ゴッドファーザー」
「いらっしゃい。ゴッドファーザーね。彼女は?」
「えっと……サングリアで」
「分かったわ」
 ボックスに入ると、心地良く耳を打つぐらいのラヴェルの曲で他の会話は遮断される。
 夏月の肌も、黒い蜘蛛も暖色で染まってまるでエジプト女の様にこわく的にさせる。彼女は微笑んでいて、甘い香りのお酒、それはアマレットとウィスキーのカクテル、ゴッドファーザーであって、それが夏月の前に、そして酸味のある赤ワインと柑橘系のカクテル、サングリアが私の前に置かれると彼女の笑顔からバーテンの女性を見た。夏月もその人を見上げたから。
「N女の子? 珍しいのね。うちのバーに来た子はあなたが初めてよ」
「素敵な雰囲気のお店ですね。落ち着き払っていて」
 それで、女性ばかりだから心もほっとしていた。飲み会では周りの席に男客も多くて声で疲れる事もあったから。
「充分楽しんでいってね」
「どうもありがとうございます」
 バーテンダーはウインクして戻って行った。お通しで出されたチーズを頂く。とても美味しい。サングリアにも合った。
「何となくだけど……」
 夏月はソファの背もたれに背を預けていて、その横顔を私は見た。彼女はテーブルのグラスを、伸ばした腕の先に持っている。表情の無い横顔だけれど、瞳は光って、厚い口許のルージュが今にも薔薇と見まごうほどあでやかに見えた。
「見た目は違っても親近感が沸くのよね」
 また、あのボリュームあって長い髪が一瞬彼女の顔を囲い、微笑んで来た。
「あたしとあんた、よく似ているのよ。顔立ちも、元の背も、声も、どこかサバサバした何かも」
 夏月はラヴェルのアレグロモデラートに合わせる様に言った。


 あたしはコンクリート打ちの部屋に帰ってきた。
 ふらりと洗面所に来て、メイクなど取るために顔を洗う。髪もまとめずに、しばらくしてぽたぽたと水滴が落ちていく。だらんと洗面台に手が降りる。
 薄ら寒くて灰色の空間。色味なんかは無い。そんな部屋で、あたしは顔を上げて鏡を見た。大きな上目。息を吸うために開かれた唇。肌を光らせ顎から流れ落ちる水滴。
 同じ顔をしている。黒いアイラインも、黒と灰色の猫のようなシャドウも、つけまつげも、紅いルージュも、メタルグレーのカラーコンタクトも外したあたしの顔。美夏と同じ顔の女は、この部屋の鏡には実に不健康に見える。人工的な光りを瞳に宿して、ただ考えている。どこかへ旅にでること。いつでも突発的なものだった。強い不安に駆られて、心は、この身は蜘蛛の繭に閉じこめられそう。
 あたしは身を返し、黒いシーツのマットレスにトランクを出して服と下着を、メイクポーチや七つ道具を積めていった。
 体に身につけるのは薔薇レースでタイトなノースリーブ、すり切れたジーンズのミニスカート、焦げ茶で柄物のカラータイツ、牛革サンダル、ティアドロップサングラス、あとは髪をエキゾチックな簪でまとめる。旅するときは身が軽い服装が良い。それに、現地についたらその街のファッションをすること。これは自分で決めた自己防衛でもある。サングラスさえ填めていればあたしはあまり日本人には見えない。それにその街のちょっとした方言を収得しておくと良い。腕っ節は一応はある。
 メイクは飛行機での移動時はナチュラル系が良い。肌をマットに仕上げたら、オレンジ系の濃いチークと同系のルージュ。それに薄いアイラインと、睫毛はビューラーだけ。
 パスポート、それをバックポケットに差し込む。
 今から飛行機で一人旅に出る。
 イヤホンからは好きなハードゴシックミュージック。
 キーを手に、部屋を出た。
 タクシーの乗り込む。
 車窓に流れる朝の弱い光。ヴェールが軽やかに雲を裂いて、ここまで降りてくる。手の甲の蜘蛛から毒を打ち消そうとするかの様に思えて、その白い手の陰が窓に映っていた。膝に乗せられた手。指輪がいくつもはまり、それらが蜘蛛が糸を巻き付けた獲物に見えた。美夏の目が重なった。窓に反射する指輪に。
 それが今に蜘蛛のタトゥーが忍び寄って、彼女の唇を刺して、深く刺して、体内に入って彼女の体を乗っ取ろうとするんだわ。
 手が呼吸と共に動くと、指輪も動いて光りの反射を変えるから、美夏の目も閉ざされて涙を流したように見えた。それが蜘蛛の体に流れ落ち、朝の光りと共に毒を浄化していこうとするんだわ。あたしの存在も全て消し去るかのように。目を閉じた。簪など抜き取って、長い髪が崩れて肩に柔らかく落ちる。ああ、頭に立てた爪が痛い。不安など消し去ってもらいたい。朝の光はあたしを不安にさせる。美夏なら、夜に不安を覚えて、そして朝にはそれが打ち消されるのでしょうね……。朝はあたしは苦手……。
 イヤホンから流れる夜だけが救いだった。昼の陽に焼け尽くされそうになる前に、飛行機で離れよう。
 何があたしを不安にさせるの。何があたしの心を奪っていくの。解らない。



 私は頭痛のまま、大学への通学のための電車に揺られていた。
 本来、誰もが門限が決まっている子達ばかりだから、私の様に一人暮らしをして門限が自由なのは、変な理由を付けて夜更かしをすることに繋がる。
 昨夜出会った夏月は、とても不思議な存在に思えた。あの笑顔はとても魅力的で、引き込まれそうになった。あやうく、蜘蛛の彫られた手の甲だけでは無い、彼女の唇に吸い寄せられてしまいそうだった。それが今なら分かる。
 電車から見渡す朝の光に、頬を染めていた。眩しくて目を閉じる。
「美夏さん」
 私はもう少し夏月のことを考えていたかったけれど、声をかけられて視線を向ける。やはりエレガントな立ち姿と品のあるバッグを提げたサークル仲間が優しげに微笑み、そこにはたたずんでいた。
「まあ。波子さん。こちらへどうぞ」
 N女では、さん付けで呼ぶことや貴女と名指すことが義務づけられている。なのに、昨夜は夏月に対して「女」というフレーズを使っていた。性別というカテゴリーよりも、生物学的な方面で言っていたのかもしれない。不可思議な親近感、同一性のなにがしか。引き寄せ合うシンパシー。
「どうもありがとう。昨夜はお疲れさま」
 波子さんが座ると、昨夜のサークルの飲み会の話になった。いつもはクラシックの流れるワインバーでの飲み会なのに、昨夜はそのバーに騒がしい男客が集って疲れてしまった。
「元気? もしかして、飲み過ぎたの?」
「いいえ。大丈夫よ」
「よかった」
 のぞき込んできた波子さんに微笑んで、膝に視線を落とした。やはり、昨日は何かの魔力にあてられていたのよ。あんなに夏月に対して高揚したのだなんて。同じように顔をのぞき込まれても、波子さんには特別なにかを感じない。
「……?」
 私は首を傾げて手の甲を見た。一瞬、うっすらと濃い影が降りたみたいだから。顔を上げても、誰もいない。再び見ても、細いリングがはまっているだけ。
 電車の音に耳を澄ませながら波子さんの話を聞いていた。耳から流れて通過していくだけの言葉。形だけの会話。明日には忘れ去られること。人は、ただタナトスの瞬間までの暇つぶしのためだけに話をつづけているのだろうかと、おぼろげに思うことがある。体は漂流して、魂の在処も探せずに、時を流れる器。
 夏月の強い光りを発した瞳に、私は惹かれていたに違いない。心の動く彼女の強いまなざしが、私には焼け尽くされるほど欲しくてたまらない物だった。



 美夏が言ったからかしら。
『あなた、時々、船出をしたくなるの?』
 あたしはスペインの海で船に揺られていた。
 ええ。ごもっともよ。あたしの心は浮遊したくなる。漂着場所も不特定な心よ。ただただ何かに出会いたいのよ。あたしを変えてくれる美しい物事に、包まれて驚かされていたい。そして涙を流したいのよ。ダイナミックな自然や、得に言われぬ風景や、人々の心、それに輝いている生物たちの姿と声に充たされていたくなるの。
 不確かな心は、わりとどこにでも漂着する。自由すぎて足下もおぼつかない。体がここには無い、そんな感じ。でもそれがたまらなく心地が良い。
"Es muy raro"
 男の「珍しいね」という言葉にあたしは振り返り、スペイン語で返す。
「何が?」
 男は指先で海の青の彼方を指す。
「ほら。今日はいつもよりたくさん鳥が海上に群れている」
「魚がいるのよ。いつもより」
「青と白の対比は好きだよ」
 男が微笑んであたしを見た。視線を合わせるとよく分かることがある。一瞬のことで、その男と関係を持つことになるだろうことが。それを自制するのは自分だし、酔っていれば勢いで過ちを冒してしまい、自分を罵ることもある。だけれど、それが心と体が自分の内側で唯一つながり、結び合う瞬間でもある。自分の体などを軽んじているわけでは無い。ただ、確認しておきたくなる。感情と体がしっかり手を結んで活きているのか。それを男達は容易に関係を持つことで理解させてくる。こんな不安定な感情など、ただただ侘びしいだけだ。大切にするべき操の前に、もっと深い傷のところでくすぶっている。不安げな自分が、闇からのぞき見上げてきている。
 いつの間にか、一つの船室で男の厚い胸板に頬を乗せて丸い窓の外を見つめていた。
 愚かで馬鹿なあたし。そんなあたしを男も含めてカモメたちも大笑いしてくれればいいのに。なんて女だと。でも、今はただ目を閉じて体と心をここに留めておきたい。
 きっと、美夏が知ったら軽蔑するだろう。あたしはそれでも構わないよ。
 なんで、こんなに自棄になるんだろう……。
 関係を持つこと自体は好きでは無い。すぐに嫌気がさすことも多い。自虐なのかもしれない。決して心と体の繋がりを理由に男に身を任せるわけでは無い。きっと、それを言っても他の人は分からないことだろう。
 一瞬を情熱が燃え上がって男の魅力に囚われて、望む全てを確かに男は叶える。でも一言も言ってはくれない。良い意味の言葉だけしか男は囁かない。心では思う。あたしはこんなあたしを少しは罵ってくれればいいのに。なんて軽い女なんだと。心では男も勝手に思ってることだろう。けれど言ってはくれないから、あたしも同等に軽い男の彼らに対して、良い意味の言葉しか囁かない。同類なのよ。どうせ、あたし達は。綺麗な言葉だけ並べて、一瞬の愛情だけ分かち合った振りをして、心と体が繋がった途端に自己嫌悪に陥って、嫌悪が現れた瞬間に良い方に都合よく解釈しようとする。ただ自分は愚かな女だと片づけてしまうその浅はかさ。それは明らかな逃げ。そんな自分が嫌だ。
 ああ、今は空だけを見つめていよう……。
 そして時に悲しいことに気づくんだわ。
 男などはそんなこと、何にも思ってもいないこと。ただ望むままに可愛がって向かってくるだけ。大切に扱いながらも、明日には忘れ、そんな無神経が私の心を壊していく。いいえ。愛情という言葉で壊してくれる。感情と激情が重なるところで、全てどうでもよくしてくれる。その力が情熱には秘められている。
「愚かなあたし……」
 涙を流していた。全て浄化していく水分。体から、地球の海に少しずつ同化すれば心は青くなってくれると信じるのは、おかしなことなのだろうか。
 男が頭に手を乗せてくれた。見ず知らずのあたしなのに。
「馬鹿だな。君はこんなにも美しいのに。君の心は瞳に現れてるんだぜ」
「……マルコ。ありがとう」
 何故男はこうやって、あたしを慰めてくれるのだろう。一時だけでも、流れていく魂の漂着地点はいつもどこかで出会ってきた彼らでもあるのだろう。
 空がどこか青さを増す。込み合っていた心が帰ってきたからかもしれない。
「……甲板に出ましょう」
「いいよ」
 甲板まで歩いて、共に同じ方向を見つめた。
「心が殻に感じる時、必死で人はそれを埋めようとするでしょう。何故かしらね。ちょっとは、そっと立ち止まってその殻の隙間を楽しんでも良いと思うのよ。そこにはゆるやかに風が吹き込んだり、光りが差し込んだりするの。そのときに、ふと見つけた花が美しくて……私は全く自分が殻なのでは無いのだと気づく。人としての感情など、それで脱ぎ去りたくなるのよ。時間としては一瞬かもしれない。けれど、人生でたびたびその心の狭間を持てば、それは輝く瞬間を垣間見てきた人生になるのよ。身は生きながらにして、心が活きている」
 心地よい風を受けていると、マルコが私がまとめずになびかせるままの髪を弄びながら言った。
「俺は甘いものを朝に食べて心を充たす」
 太陽を背にするマルコの目元は逆光で陰に入って、私はランニングの胸部に抱きついた。不安に感じたわけじゃない。陰のなかでも瞳や白い歯は光ってた。優しい笑みを浮かべていたから、甘えたくなった。朝の人が目覚め始める時刻、あたしは眠り始める。マルコが目を覚まして甘いものを食べる時間は、あたしは時に悪夢にうなされているのかもしれない。眠りをむさぼって、そして時にこうやってエキゾチックな気風があたしの体をしっかりとした人としての目覚めを取り戻してくれる。本来、夜行性ではないあたしという人間と、昼に活きるマルコが出会って一瞬の愛を共にして、そしてまた別れて行くんだわ。互いの生活に。彼は甘い生活に帰り、あたしは不安の底へ落ちていく。
 何故不安など感じる必要などあるの? きっと、「昼のあたし」美夏には無い感情。



 波子さんが私に男性と付き合ってみてはと声をかけてきた。
 大学のテラスの隅。高木の緑がさわさわ揺れている。小鳥達の声がするけれど、他の人たちは今ここにはいない。
「私の弟の友人なの。貴女のことを以前から気にかけていたというのよ。年齢は貴女の二つ上よ。弟の先輩でもあって、中学の頃から部活の関係で弟を可愛がってくれていたの。美夏さんが数度、我が家へいらした時に見かけてから気になっていたというのよ」
 私が返答をせずに曖昧な笑みを浮かべて困っていると、波子さんは言った。
「今、お付き合いしている方が?」
「いいえ。今はいないの」
 何故だろう。何もわくわくもしなければ、これから会うかもしれない男性にドキドキもしない。波子さんの弟さんの友人は三度ほど見かけたことがあった。彼は爽やかな微笑みをした人で、ラフカジュアルな衣服もよく似合っていた。私にいつでも黙礼と共に笑みを寄越してくれた。確かに素敵な人。
 けれど……。夏月の顔、それにあの声、近づいて来る時の香り、全ては未だ私の体をまるで細い足で包み込んでくる蜘蛛の様に閉じこめている。彼女に会いたいと思う気持ちは、なんと飾り気のないものなのだろう。ただただ、純粋に求めているのだ。何も無いというのに、横にただいるだけで不思議な高鳴る感情を抑えきれない。もう、身を浸されたのかもしれない。
「今……好きな人がいるの」
 ドキリ、と、突然降ってきたその自分の言葉に一瞬をおいて、私は唖然とした。え? 今、なんと言ったの? 自分で、夏月を想いながら「好き」だなんて。口元に指を当てて視線を落とした。ずきっとした手の甲に。うっすらと浮かんだ蜘蛛に眉を寄せる。
「まあ、まるで分からなかったわ。あなた、いつでも浮遊しているから」
 波子さんがはにかんで、視線を落として細い指を重ね合わせたり開いたりを繰り返した。
「え?」
 手の甲から顔を上げた。「浮遊している」という言葉だけが私の耳に入って、この殻のような体にカラカラと溜まって足に落ちたようだった。
 まるで、私の体はもとから空瓶だったのではないかと思う事がある。コルク栓も麻紐で繋がれただけでゆらりと揺れている瓶。全てが入ってきてはそのまま抜けていく。けれど、「浮遊」という言葉はそのまま瓶底に沈んで、透明な硝子はそれを皆に隠すこともできずに、見せている。
 人から、私は「浮遊」していると見られていたのだ。自分が感じるままの私を恥ずかしげも無く見透かされていたんだわ。曖昧な、そして周りと心が浮いた気がするこの不安定さを。私はふいに足下を椅子の下に入れていた。私の体という瓶底に沈んだその「浮遊した美夏」という文字を隠すかのように。
「いやだわ。恥ずかしい。浮遊して見えるのだなんて」
「私は嫌いじゃないわ。静かに漂っている美夏さんが、それなのに、時に覗かせる目の魅力的な風に惹きつけられるから」
 私は手の甲に乗せられた波子さんの手を見た。
「貴女の気になる方、誰?」
 波子さんの目は私をじっと見ていた。まるで私の感情を探り尽くしたいかのように。
 彼女はとても美しい子で、まるで積み上げられた白い薔薇砂糖のような人。長い黒髪を縦巻きにしているのだけれど、他の人たちとは一風違う雰囲気をしている。白のシルクシャツの胸元に黒いスカーフを挿して、グレーのカシミアストールを掛け、細身の黒い膝丈スカートで腿の綺麗な形がすぐに分かる。頬に薔薇色、唇に紅のルージュを乗せているから、クールな装いながらもあでやかな顔立ちが引き立つ。背も高いからとても様になる。
 とても美しい分、どこか近寄りがたさがあるのに、好意的な性格なので共にいても会話に困ることは無い人。
「弟が言っていたの。きっと美夏さんはお付き合いの話を出しても、頷かないのじゃないかって」
「何故……?」
 当てられ重ねられた手は柔らかいのに、ゆっくりとした言葉と視線は私を貫いた。まるで問いつめるように。プラチナの指輪がまるで今に冷たい手錠に変化して掴んできそう。
「その稀に覗かせる瞳が夜を思わせるのよ。不思議ね。美夏さん、この前同性愛者の集うバーに入っていった」
「要領が掴めないわ。夜とか、弟さんが私の性質を語ってたとか、それに……」
「私、レズビアンなの。貴女のこと、気になってた」
「え? いきなり……いろいろなことを言ってこないで」
 波子さんはエスカレータ式で学園を幼稚舎から付属大学まで来た人、中学からずっと女学校。小学生時代はヨーロッパの寄宿舎に入っていた話を聞いていた。電車で乗り合わせる内にサークルに誘ってくれたし、今では大学での友人だった。
 蜘蛛の巣はどこにでもあるのかもしれない……。私はなんとはなしにそう思った。私はまるで蛾の様にとらえられて様子を見られていたのかもしれない。ただ大学生活を心ここにあらずで送っていただけの私。
「知らないのね。貴女の瞳が男性を見るときと女性を見るときでは違うこと。自分のことは自分が一番分からないものよ」
『好きよ、あんたみたいな目をする子』
 夏月が私に言った。でもそれはレズビアンとしての言葉じゃ無いわ。分からない、けど……、私はとてもドキドキしていた。波子さんの優しい手に。夏月の言っていた言葉に。
 二人の笑顔の種類が重なって見えた。
 そこで私は気づいてしまったのかもしれない。今まで、自分というものをどこにも置いてこなかったのだと。だから、夏月のような人が現れて、気づいてしまった。恋という激しい想いが存在する世界を。
「私……、お話は受けられないわ」
「………」
 波子さんが私を、初めて真顔で見た。それは電車で微笑みかけてくるときも、女子会で見つめてくるときも、サークルでふと肩にふれて顔を覗かせてくる時とも違う顔だった。だから、分かってしまった。私に好意を寄せてくれていたからサークルや女子会や飲み会に誘ってくれていたのだと。恋人のような感覚で登下校し、デートの感覚で波子さんがいたのだと。
「何故? 貴女、誰にいったい恋をすることを覚えたの? いつでも美夏さんは私の想うとおりになる可愛い人だったのに」
 揺れる波子さんの瞳。麗しすぎて、私は怖くて目を反らした。手の甲に当てられた手が動揺ににじんでいる。汗で。波子さんは口をきゅっとつぐむと、うつむいた。
「本当なのね。好きな人がいるって」
 波子さんが走って行ってしまい、すぐに追いかけようとしたらラインが来た。
 そのメッセージを見て、座ったまま私はiPhoneを見つめた。
 うつむいて、目を閉じた。
『来なくていいわ。泣き顔なんて見られたくないの。本気だったから』

蜘蛛~あたしと私~ <後編>



 私は夏月に再び会いたくて、夜の路をさまよっていた。
 思い出す夏月の姿。目を閉じると闇に浮かんでいる。髪を翻してステップを踏んでいる夏月。
「ベッラドンナ……」
 その単語が脳裏にふっと現れた。
 目を閉じる私は、夏月に手も伸ばせずに、ただただ幻の彼女を見つめていた。
「美女……美しい女という意味のラテン語」
 何故それが分かったのだろう。まるで夜空から降ってきたように脳裏に染み込んでくる言葉。
 夏月は私の前で、髪に紫ピンクの花を絡ませはじめて、そして舞う彼女だけ一寸先の闇へと染み込んでいく。花だけが目の前に回転して残った。
「沈黙……、夜の影、致命的な……」
 私の口から紡がれた言葉が脳裏で合致する。
「どうしたの? 夜の影は致命的な沈黙……それが、ベラドンナ」
 幻聴に目を開くと、夜気に包まれた私は探し求めていた。瞳が夏月の姿を。路地裏はまるでさすらってきた者達の漂流場所。聞き慣れない言語が私の耳を打つ。
「美夏」
 咄嗟に振り返った。目の前に、夏月の顔があった。
「ベラドンナの花が好きなのね。美夏」
「私が好きなのは……」
 夏月が私の髪に指を絡ませて、顔を見つめてくる。流れるような視線で。今日は少し高めのヒールの私は、夏月のイメージとしては低いヒールを履く彼女と同じ背だった。そして、カラーコンタクトが填められてはいなかった。
「薔薇? 百合? ジャスミン?」
 私の使う香水の香りをなぞって言う。
 私は夏月に重ねていた。ベラドンナという言葉を。花の名前とも知らない私に夏月は教えてくれた。
「いらっしゃいよ」



 「ナイトシェードってね、ベラドンナの別名でもあるのよ」
 あたしはカウンターでバーテンダーとして美夏にカクテルを振る舞う。
 バーボンのボトルを手に取り、スイートベルガモット、ハーブ酒の黄色い方のシャルトリューズ・ジョーヌ、そしてオレンジジュース、氷をシェイカーで振る。
「それとも、薔薇の品種のベラドンナかな。今の秋の季節に丁度咲く薔薇は、まるで二人の出会った記念の花よ」
「どんな花なの」
「薔薇には詳しいんだと思ってた。あんた、そんな雰囲気してるから。薔薇のベラドンナはね、このカクテルみたいに青い系統のピンク色の薔薇。ベラドンナの花に似た色よ。その名の通り、美しい淑女のような姿をした薔薇」
 カクテルグラスに注がれるナイトシェードカクテル。
「でもね……エッグプラント科のベラドンナは悪魔の花よ。その目を大きく開かせて事実を露呈させようとしてくる悪夢。運命さえも断絶するほどの」
 指で挟んで差し出す。美夏はその悪魔の花の色をしたカクテルをぼうっと見つめていた。
「ベラドンナの真っ黒い実の様な瞳は、悪魔の目なのかもしれない」
「私は、入れ墨の蜘蛛に悪魔の目を感じたわ。見入られたかのような、今まで感じなかった高揚感を」
 また手の甲がふわっと浮くような感覚に囚われる。視野の端に映るその手の甲の蜘蛛は、黒い目で美夏を見ていた。
「蜘蛛の猛毒に浸されるかのような……それを、私は望んでいるのかもしれない」
 あたしは思ったよりも挑むような目をする美夏の目を見た。外見からはそうは見えない。弱々しく見える。媚態を備えた小さな花に見える。それはベラドンナと同じ。けれど口にすれば体は植物の毒に浸される。見た目からはわかりはしない妖しげな心など、きっとあたしでなかったのなら分かりはしない。
 手首を掴み引っ張っていた。美夏が体を乗り出してボトルが彼女の胴体で倒れていき、恐怖におびえた美夏の顔を間近で見ていた。
 この時間は誰もいない店内。
 片方が欠けたハートをそれぞれが補い合うのに時間などかからなかった。
 何故だろう。こんなに自棄になったのは。美夏の動向の全てを封じ込めたくなってくる。これは、捕獲なのだわ。蜘蛛が美しい蝶を捕らえるかのように、あたしは今、美夏を捕らえている。それは完全なる支配のために。ベラドンナの毒に麻痺した身体を大切に扱いながらも、牙を剥いて、そしてあたしという存在だけにしたくて。だからもがくように、愛しさに似た複雑な感情で、確固とした恐怖を感じる。
 あたしは耐えきれずに美夏の腕に噛みついていた。甘い香り、あたしが捕らわれているのかもしれない。不動の美夏という籠に収まるために、その白い骨という格子をくぐって体内に入りたいのかもしれない。だから噛みついて、痛がっても、髪を掴まれても離さずに歯を立てた。爪を立てて、そして一瞬を頭がクラッシュしかけて鈍い痛みを感じた。歯の奥に我を忘れたあたしの歯が噛み取ったイヤリングがガリッと音を立てる。
「………」
 顔を離して、瞬きをした。
 カウンターに倒した美夏の横にベラドンナカクテルのグラスが倒れて、美夏が高揚して瞳孔を開かせた目であたしを見ていた。息を継いで、そして首やブラウスが剥がれた肩、それに腕時計の上のまくられた下腕は歯型……。
「美夏……ごめん。痛かったでしょう」
 涙もなく美夏はただただあたしを凝視している。どこかそれは、敵を見つけて警戒する目に似ていた。いいえ、違うのだあと気づく。獲物を捕らえようとする美夏があたしが動くのを威嚇する目なんだわ。
 正直、その強く光る目にゾクゾクした。それは明らかな正気とは異なる、美夏が初めて強くのぞかせた〈あたし〉。
 渦巻くあたしの長い髪は美夏を繭のように包んで、手で優しく髪を撫でた。蜘蛛の手の甲は、何故かずきずきと痛む。
「夏月」
 美夏の今にとぎれそうな声は空間を伝って私の耳に届く。あたしの鎖骨に唇をつける美夏は鼓動を読みとれるほど近くにいる。それでもどんなに抱き合っても融合出来ないまま。
 美夏があたしの肩に手を当てて息を深く、深くついた。
 何故だろう。美夏の安堵とした吐息に、あたしまで安心して目を閉じていた。美夏の身体は籠なんだわ。あたしが収まる籠。魂を一体化させる器。この船室に吊された鳥の籠。
 けれど、目を開いた。
 あたしはあたしだ。その事実。美夏の腕に手を当て離れると、一瞬視野にかすめた美夏の手の甲に、黒い物が見えた気がした。
 二度瞬きをした後には白い手の甲に戻っていた。
「………」
 あたしが美夏を補食するの? 美夏があたし〈蜘蛛〉を籠に入れるの?
 分からない。あたしはあたしなのに、揺らいでいく肖像。


「ドッペルゲンガーって、知ってる?」
「え……?」
「あんたとあたし、あたしはよく全くこの姿と違った格好で、あたしの行動しない昼に見かけると昔から言われて来た。いろいろな知人や友人、職場の人からね。でも誰もが、言うのよ。歩いていった姿や移動している姿で、直接話してはいないって」
「私は無いわ」
「あんたの知り合いが夜に行動しなければね」
 どういう事なのかしら。ドッペルゲンガーだなんて、どこか不安定で怖いわ。
 私の手に、夏月は蜘蛛の入墨の手を乗せた。そして、いきなり痛みが走って、爪を立てられたのだと思って目をさっと見る。けれどそれとは違う痛み。夏月が強く手を握って離してくれない。ずっと。
 思わず強引に手を引っ込めた。
「!」
 手の甲に何故か黒い線だけで描かれた蜘蛛。まだ全体は出来上がらずに、半分の蜘蛛……。
「え?」
 振りほどかれた夏月の手の甲は微笑するの夏月の顔横。蜘蛛が半分、姿を消していた。黒いボディピアスの目が揃ってこちらを見ているみたい。
 あの電車で口付けた瞬間を思い出す。まるであのとき、魅入られたかの様に光った黒い蜘蛛の目。
「そんなの、ただの噂よ。ドッペルゲンガーだなんて、よく似た顔というだけよ」
 夏月の影は、彼女の横に明りがあるから私に重なっていた。まるで影にまでこの身を浸蝕されそうで怖くて目を閉じた。
「雰囲気はどんなに違っても、本人同士ならいずれ引き合うのよ。あんたが忘れている夢での行動する自分はあたしだったかもしれない。その夢の世界はあたしにとったら昼の世界」
 首を振って顔を俯け髪で周りが見えなくなる。
「船出って、言ったでしょう。あんた、いつスペイン語を習ったの? いつから?」
「え……」
 確かに、何故あの時スペイン語だと分かったのかしら。それは私の知識にないものだった。だけれど淀みなく口から出て、そしてまるで船長室のような落ち着き払ったバー店内で二人はいる。
 まるで魂自体が旅に出るみたいに。それは二つの魂が交差して代わり合って、そして片方は本当に船出をしてしまって戻っては来ないのだわ。
 耳を塞いでいた。曲さえ聴こえなくなっていく。一番近くにいる、真横に寄り添う夏月の声も聴こえなくなるほどだから。彼女の脳裏に浮ぶ微笑み、どこか無垢な心象で、鏡に毎朝微笑む自分と似てた。
「いい子ね……美夏」
 優しく髪を撫でられる。耳を押さえる手の甲に、痛みが走る。
 脳裏は困惑する。このまま、どこかへ離れて行ってしまう前に怖くて夏月に抱きついていた。そして無我夢中にその背に手を当てていた。
 夏月が、はじめてほっと息をついた気がして……。
「!」
 ふっと倒れて、髪を掻き上げ肩にベージュのヴェールを戻した。
「え……?」
 夏月は見当たらない。
「おはよう。今日もよろしく」
 颯爽とドアから入ってきたバーテンダー。私は咄嗟に彼女を見た。
 一方、バーテンダーも瞬きをして私を見た。
「夏月。あなた、珍しい格好をしてるのね。エレガンスな装いで、まるで、この前見かけた昼のあなたみたい」
『かげつ』?
 私は激しく瞬きをして、髪を触る。自分の髪。長さも巻き方も。それに服も。
「……蜘蛛」
 手の甲だけは、蜘蛛が震え息づいていた。
「私は……」
 けれど、その後の言葉が出なかった。自分の美夏、という名前の文字が脳裏で崩れていく。そしてどんどんと、当たり前かのように夏月という文字が脳裏を占領していく。
 何故だろう。紫の看板に照らされて言った『時々、何処かへ船出したくなるの?』と聞いた時の彼女の横顔が脳裏に広がった。現実から逃れてしまいたかったの? 分からない。私も心浮遊して生きていた。それは何故なのかしら。自分たちの体と心が一体化していなかったから?
 やっとで、一つになれたというの?
 心だけで行動して、体は冬の様に休んでいた夏月と、心あらずで体だけ取り次いできた私というものが。
 だけれど、私はぞっとして腕をさすった。私の恋する夏月が、私に取り込まれてしまった。
 その事実。二度と会えないのではないか、という果てしない恐怖。
 夏月の笑顔。夏月の光る瞳。近づく身体。すべて思い出して、ドキドキしてきた感情が駆けめぐって涙が溢れそうになった。
 それでも……ほっと安心した息をつく夏月の囁きは、ずっと私の耳に残りつづけた。
 喪失感。会って間もないというのに。夢でも見ているのではと思うのに。彼女はその私の悲しみを残して行ってしまったのだろうか。
「あの……」
「どうしたの?」
 冷えた夜気のしみこむコートや帽子を脱ぐバーテンダーの背に呼びかけたら、こちらを見た。
「私は何かを奪ってしまったかもしれない。自分を手に入れる為に」
 私を彼女の名前で呼ぶバーのオーナー。本当は私のことなど知らない人。だけれど、ずっともう片方の〈私〉夏月と関わってきたはずの人。
「え?」
 何かを失いたくないから自分を守って生きてきたのよ。
 ここまで来ると、バーテンダーがテーブルに手を置き、微笑んだ。
「魂が帰って来るのも、船で戻ってくるものよ」
「帰ってくる?」
 バーテンダーは頷いた。
「帰ってくる場所があるから人は旅路にでるのよ。もしも、戻らないのならそれは流浪の旅人になるでしょう。しかしそれは生活が放浪を続けるロマの人たちもいれば、流れ者やならず者のようにその日暮らしでさすらう人もいる。夏月の魂はいつでも居場所を求めて旅をしていたけれど、この一つの居場所にも必ず帰ってきていたじゃない。ここでもあんたの心と体は一体化するために、戻って来ていたのよ」
「気づかない内に、人は安堵とする居場所を本当は身近に持っているものなのね」
 私は頷いた。手の甲を見た。
 それが私には今まで不特定だったのかもしれない。波子さんに甘えて、自分は自分の居場所を探さなかった。波子さんの居場所に甘んじて横にいただけ。だから、ただ浮遊していたんだわ。本当の自分じゃなかったから。
 だから、蜘蛛が繋げてくれた。糸をたぐり寄せて、美夏と夏月を。
「?」
 あんなに黒々としていた入墨が、消えていた。夏月と繋がっていた証のもの。今ではあのボディピアスの目の具合さえ思い出せない。ただ、強く微笑み見つめて来た夏月の姿が脳裏に占領する。
 私も、彼女の様に挑みながら生きていくこと、きっと素敵に違い無い。無理して生きることも無いわ。私は私。夏月がそうして自分を生きたように。
 大学を出ても、社会に出ても、彼女の光っていた目をこの瞳に宿せる様に。
 目の前にあったゴッドファーザーを、傾けていた。甘くて、彼女の残していったジュールの跡の香りと混ざりあい、心躍るようなそんな味。
 きっと会える。再び、夢、夜のどこかで誰かが、私と夏月を結びつけるのだわ。存在という蜘蛛の糸に捕まった私達は。
「スペイン……。大学の卒業旅行は、スペインに行こう」
 ふと、夏月の言葉を思い出して言っていた。
 自分を変えるため。今なら、何かが出来る気がする。
 スペインでなら、夏月に会えるのかもしれない……。それは約束されたことではなくても、彼女の感じ取ってきた感覚をこの手に出来るということは、彼女と再会することと同じと考えても、いいのではないかしら。
 手の甲に走った幻の痛み。それを忘れない。あの人がいた記憶でもあるから……。



 それはどこか懐かしい音だった。音……という種類の内にも、それはもっと身近で馴染みやすいもの。
 声。
 それだった。
 はたして誰の声だったのかを思い出すにはまだ輪郭がはっきりしない。 丁寧にたぐり寄せていく記憶を両手で探りながら、声の主を導きだそうとしている。
 自分の声が重なった。
「誰だっけ」
 その声は光りに溶けていく。
 それは幼い声。自分の声が幼くて、そしてあどけない口調。
 光りの先に、誰かがいた。
「………」
 ああ、そうだ。思い出した。
 これは、小さな頃によく見ていた夢。
 見知らぬ公園は、夢でだけ現れたいつもの公園だった。
「カゲツちゃん」
 あたしの名前を呼んだその子は、夢を見始めたころ、名前が無かった。よくイマジナリーフレンドだなんて言葉を聞くけれど、夢の友達はそれだったのかもしれない。そして小さな子にしては二人はいろいろなことを話し合ったものだ。
「あなたに名前つけなきゃね」
 それを言ったのはいつだったろう。それで、似てる名前が良いと言い出したのはあの子だった。あたしは夏の字がついているから、夏が良いと思った。それで、そのころには小学校で国語を習い始めていたから、「美しい」をつけたいと言った。
「美夏にしよう」
 小学校のクラスメートに美千(みち)という子がいたから、美を「み」と呼んだのだった。
 夢で、あたし、夏月と、あの子、美夏は毎晩の様に明るい公園で遊んだ。
 その夢を見なくなったのは、いつ頃だっただろうか。きっと、日常の生活に埋もれて行った夢と幻の友達。
 あたしは今、光りが差し込むその懐かしい公園で立ち尽くしていた。
「カゲツちゃん」
 少女が振り返る。同じ顔。同じ声。服装だけは違う。同じ髪の長さで、微笑んでいる。
「ミカちゃん」
 あたしが小さな背で歩いていく毎に、まるで現実へ引き戻されるが如く二人の体も大きくなっていく。そして、どんどん遊具は子供サイズになって行き、目の前に来た頃にはミカちゃんは美夏になっていた。
「美夏……」
 夢ではミカちゃんは文字を読めなかったから、いつのまにかミカになっていた。いつでも自分が鏡で見るのと同じ笑顔を湛えた子だった。
 今、目の前の美夏はあたしに大人びて微笑んで、手をさしのべてくる。
「不思議なものね。夏月。私、小さな頃の夢を今思い出したの。さっきまであなたと一緒にバーで飲んでいたのに、あなたが見あたらなくなって、酩酊の淵で見つけた……私の片割れ。イマジナリーフレンド」
 美夏があたしの背に腕を回して、顎を肩に乗せた。
「ね。夏月の言ってたドッペルゲンガーって、もとは夢から紡ぎ出されたものだったのかもしれない。自分の理想の感情が突出して具現化されたものなのかもしれないわ。あなたが今ここで一人で立ち尽くしていたように、これからあなたはどこかの現実世界に帰って行くのよ。きっと、そうなんだわ。私とは違う世界に」
 大きな木の上から、また、蜘蛛が糸を垂らして降りてきた。
 これは二人の見慣れた風景だった。蜘蛛の糸は光りを纏って線を引き、あたし達の目線まで降りてくる。見上げると大きな蜘蛛の巣があった。
 はじめこそ蜘蛛を見てミカちゃんは泣きわめいたけれど、それもなれてしまえば二人、見上げていた。いつしか夢で蜘蛛はどちらかの肩や手の平に乗り移るようになっていた。そして、肌を張って手の甲に乗った蜘蛛。
 そして二人で顔を見合わせて、何故か妖しげに、子供らしからぬ笑みで微笑しあったもので。
「何故、今まで夢を忘れていて、現実世界で出会ったのかしら」
「小さな頃に感じたお互いの不安感が、夢を紡いで二人を引き合わせていたあの日々と同じだったのよ。成人してまた違った不安を感じ合った私たちは、すでに同じサイクルの時間帯に夢を共有できなくなった。だから、現実世界で出会って、そして、私はあなたに恋をしたのよ」
「え……?」
 美夏は悲しげにあたしを見つめる。
「きっと、あなたの世界と私の世界は次元が違ったのね。二人が出会ったこの数日間は夢の世界だったのかは分からない、けれど、それと似たようなものだったのよ。小さい頃、同じ世界にいて、夢だけを共有していた私たち。けれど、違う次元はふとした場所に本当は転がっているのかもしれない。いつの間にか私たちの生きる次元は変わっていて、そのパラレルワールド同士で生活をしていた。そして、ある日突然、何かが同調して引きつけあって再会を果たした。双子でもない、似ているだけでもない。お互いがお互いを作り出した張本人であって、夢の住人。だけれど、互いは自分が目覚めて生活している世界があった。世界などという物の肖像は見る面で変わるもの」
「あんた、あたしがこの夢から目覚めたらいなくなってるっていうの?」
 なおも悲しげに微笑むから、頬に手を添えた。その手に美夏の手が重なる。
「きっと、互いに大人になって再会したからこそ得られたものがあったはずよ。それは今すぐには分からないとしても、人生を行く上で判明していくと思うの。物事をどうやって自分と糧と捉えるかは自分次第だもの」
「あんた、意外としっかりした考え持ってるのね。あんなに優柔不断で周りに合わせてた感じの女子大生だったのに」
「夏月の夢だから、考えが影響されてるのよ。きっと。私が無知のはずのスペイン語が分かったのと同じ」
「ああ……」
 手の甲に美夏の体温が優しく伝わる。
「蜘蛛……懐かしいね」
 手の甲に彫られたもの。きっと、深層心理は分かっていたんだ。蜘蛛を自分が彫った理由を。心が現世に留めるように巣とがっちりした脚でつなぎとめるその為。それは、ミカちゃんとの夢での思い出もかねていたんだわ。
「私……」
 光りに包まれる美夏は涙をぽろりとこぼした。
「恋にもっと早く気づいていればよかった」
「あたしは……」
「いわないで。分かってるの。あなたは男性に愛を置く人。それも、強くて、頼りになって、あなたのことを受け止められる人……」
 涙で埋もれていく美夏。顔がだんだんとくしゃくしゃに紅くなって、手の平がふるえた。
「ミカちゃん」
 息が詰まって引き寄せていた。蜘蛛の彫られた手の甲で。
 彼女を強く抱きしめた力は、あたしを安心させてくれる男達と同じ様な包容力があったのかもしれない。
 誰かを守ってあげたいと思う感情。今、美夏に向けられたその気持ち。どうしてこんなに愛しいのだろう。自分の分身だから? それも言えているかもしれない。互いの足りない部分を補い合うような二人。
 心を求めてどこにでも飛んでいく体を持つあたしと、心が浮遊しているけど安定した暮らしをする美夏。
 美夏を離すと、優しく微笑んだ彼女がいた。
 ふっと、顔が近づいて、頬に柔らかな唇。
「………」
 視線で離れて行く美夏の横顔を追う。だんだんと、光りに埋もれていく……。
 大木から糸を垂らす蜘蛛を残して。あたしを残して。
「………」
 ………。
「うう、」
 目を覚ました。
 いつから眠っていたのだろう。確か、美夏とまたバーで飲んでいて、いつのまにか美夏がいなくなっていた。そして、何故か店長があたしを美夏と呼んだ。
「美……夏?」
 しっかりと起きあがって見回す。長い長い髪を手でどける。
 そこは自分の部屋だし、夜の雰囲気がよくしみこんでいた。
 電話を引き寄せる。
「もしもし」
 バーの店長だ。
「あたし、夏月だけど」
「カゲツ? 声は美夏だけど」
「え?」
 どういうことかを一瞬考えた。
『パラレルワールド』
 本物の美夏が言っていた。彼女は女子大生で、おしとやかな雰囲気で、そして顔はあたしと同じだった。その彼女はいつの間にか見あたらなくなっていて、バーの店長はあたしを「美夏」と呼ぶ。
 船出の後に戻ってくる場所だけが、美夏との接点かのように。
 ドッペルゲンガーに出会うと、片方がいなくなる、その通説は、互いの人格が互いの次元世界で出会ったあとに何らかの内面変化をもたらして別々に生きていくということなのだろうか。夏月に美夏が取り込まれたように、今頃美夏も夏月に取り込まれたのかもしれない。
「何でもないわ。ごめんなさい。切るわね」
「ええ。またバイトの時間に」
「ええ」
 あたしは電話を置いた。
 大学……か。
 もし、安定した生活をすこしでも省みるとしたら、それは一生のパートナーが必要だということになる。美夏は少なからず、将来のために大学に通っていたということは、安定した生活や結婚を得るためとも言える。それはあたしとは今まで無関係な言葉だった。浮かぶことすら無かったもの。
 あたしは愛を知っている。だから、その先の安住を求めることで魂の漂流を独りの時間ではなくして、出逢った新しい人や大切な人との旅路にすればいいいんだわ。
 浮かんだのは、おかしなことにレコード屋のオーナーだった。適当屋で、独身で、旅行好きで、若い子好きでどうしようもなくて、だけれど最高に男前で、いつもひょうひょうとしているから見てみない振りをするものの割と良い人だ。十代の頃から普通にいたから全く恋愛対象にしてなかったけれど、少しは意識してみようか。結婚がどうのは分からないし、今の生活のままだけれど、愛情を分かつ人がいるのといないのでは全く違う。それが身近な人となると安心感が加わってくる。オーナーの人間性は分かっているつもりだし、結婚したらいろいろ出てくる性格もあるだろうけど。
 なんだろうか。思ったら行動、その癖が出始めて、早々にあたしはレコード屋のバイトの支度を始めていた。おかしい。メイクなんかはいつもより丁寧さが増している。ドキドキすらしているじゃないの。顔がゆるんでしまって自分にあきれる。あの適当男のオーナーなのに改めて思い浮かべると意識してしまう。女に生まれたサガだろうか。正直悔しいけれど、このドキドキはちょっと癖になりそうなものを持っている。
 鏡の前から離れていって、ふと、振り返った。いつものあたし。だけれど、きっとこれからは皆から美夏と呼ばれるんだわ。
 あの子が気づかせてくれた。恋や安心は身近にあるということ。
 あの子があたしに寄せた不思議な恋心は、あたしの内側で形を変えて息づいて、そしてこれからは外へ向かっていく……。
 きっとあたしがいきなり告白すればオーナーは吹き出して、大笑いし始めることだろう。それでもいい。それがオーナーらしい。
 鍵をかけて、部屋を後にした。夜の世界へあたしは流れていく。

第三話 調香師 <プロローグ>

泉花美夏(いずはな みか)旧:花貴
蛇谷玲花(へびたに れいか)


 それははじめは、まるで闇で純白の蚕の繭玉から絹糸の一本を紡ぎだされたかのように細く、そして上品にして繊細な香りだった。
 そしてその香りが一気に彼女の鼻腔を充たす。まるで視覚に現れた香りが薫風となって彼女に襲い掛かってきたかのように。
 玲花(れいか)は悦として瞼を開け、そのクリスタルの器から発された香りの鍵となる素に感嘆の息をそっと、そして長く吐く。
 ここは香水舘。
 アンティークな硝子の小瓶や蒸留器、フラスコや真鍮の秤、香水が所狭しと置かれたレトロな空間だった。
 ランタンから燈るその明りは千年前から燈るように錯覚させ、古めかしいショウウインドウの奥にいる老婆は、まるで深海に潜む静けさで鎮座していた。
「これは、とても珍しいものですね。いままで、体験した事の無いものです」
「ええ」
 老婆はゆっくりと顔を挙げ、皺にうもれる顔でもかすかに分かる微笑みをみせた。
「誰もその香りの正体を当てたことはないんでございますよ。お嬢さん、すでに香りの伝承を伝え聞いた夫も亡き今、それを探る手立ても無い。挑戦してみなさるかしら?」
「香り探訪の旅……でしょうか?」
 玲花が再びその透明な器を見つめると、その内側にある香りの素が、まるで生きたもののようにくゆり燻った気がした。
 なんとも判別しがたいそれは、こげ茶色の硬質な欠片だった。
「香水の起源は、古くはヨーロッパに伝えられるより以前、サラセンや古代エジプト時代に発祥しております。もしもその香りを探し当てるとなれば、それは製法を謎とする蒸留酒を探るより難しいことでしょう。今までも脱落した方は多いのよ」
「そうですね。蒸留酒の伝えられた製法を知りたくば内に入って知ることが必要だし、名だたる世界の酒類はまず何が本当は隠し味としていれているのかなど、造られている修道院や酒蔵に入らないからには不明ですものね」
「引き換え、この香りの謎は誰も既に知りはしないもの。浪漫を感じるではございますまいか」
 それほどに、どんな不気味な物の正体を探る事になるらやら判りもしない。
 この空間で語り継がれてきたその香りの浪漫話。その会話の幾つも声は重なり合って、香水たちや壁や器具に浸透していき、時代と共に塗り固められてきた。けれど、道具たちはそれを語らないし、人はそれらを感じ取れない。だから自身の足で探しに行く。
 ここでは幾度となく、老婆に探訪者が旅から帰ってその土産話を置いて行ったことだろう。誰もが熱心に歩き回って履き崩した靴で、古ぼけた鞄をひきさげて。
 今では、老婆の顔は微笑み顔でしかなかった。元から微笑んでいたのだろう。いろいろな言葉を受け取って来た老婆は、そんな彼等に果てしない希望を感じていたに違い無い。
「私も是非、この香りの根源を探し出したいです」

 玲花が香水舘を出ると、そこは林に囲まれた美しい庭園。
 白い石が眩しく緑の芝は手入れが行き届き、高木の糸杉が立ち並ぶ。
 同じ調香師仲間の美夏(みか)が馬上から彼女を見下ろした。凛とした顔立ちで。
 彼女とは同じ大学を出た就職先の研究所で知り合った。学科が違ったことで在学時に出会うことは無かったけれど、どちらもヨーロッパに出て調香師になるための目標を持って香りの研究所に入ったのだった。
「林で薬草を摘んできたの」
「本当。たくさんね」
 白馬に乗る美夏は手綱を持つ革手袋の手に握られた緑の様々な草を彼女に見せ、そして鼻先に近づけて香りを嗅いだ。そして、微笑む。その時の美夏の顔立ちが玲花は好きだった。あくまでも涼しげで、そして真っ直ぐと見つめてくる瞳の色が静寂で、虜になる。
「先ほどね、お婆さんから素敵な話をもらってきたわ」
「それは気になる」
 現在彼女達は、玲花が二十八歳。美夏が二十七歳だった。
 もう研究所を出てヨーロッパで調香師としてそれぞれが働き初めて四年目。少しは様々な国のことも分かってきていた。玲花はフランスを拠点にしており、美夏はスペインとイタリアの両方を拠点としている。
 バカンスの時にこうやって二人で会って過ごすのだが、古い香水やお香の伝承のあるギリシャやペルシャ(イラン)、エジプトにも幾度も足を運んで来た。
「貴女も記憶の海馬に留めて置くといいわ。ある香源の正体を探るのよ」
「え? 一体、どんな?」
 美夏は腰にくくりつけたカンバス地の袋に薬草を入れながら聞いた。
「硬質でこげ茶色の欠片。四角く切り分けられていたわ」
「まあ。もしかしてミイラの欠片?」
「美夏ったら。それは香りというより、薬効にならなるけれど」
 もしも数ある香水やお酒などの主原料にヒト由来の欠片や脂が使われていても不思議では無いけれど、あの初めて感じた香りはヒトという動物性の香源ではなかったと思う。すっとしていて、上品だった。
「もしもそれ自体が練りこまれた幾種類もの練棒の欠片なら難しいわね」
「貴女も嗅げば分かるわ。とても純粋にして、混じりけの無いものだったの」
「それは楽しみ」
 美夏が馬を降り、馬を繋ぐとわくわくして振り返った。まるで一気に少女が顔を現したように。

調香師 <航海>


<1>


 彼女たち二人はクラシカルな船に揺られていた。その向こうにはアフリカ大陸が見える。あの香りの正体を求め、エジプトへと降り立つつもりだ。心地よい風を帆は受けながら青い青い海を行く。
 今にも神話の神々が踊り、幻獣達が姿を現すだろうと思われるほどに、美しい天空と海原。遙か太鼓からの青さ。軽やかにして古の風が吹く。まるで手が届くと思われるほどに爽やかな空。
 そして向こうにはまた違った風景を見せる目的地があるのだ。そちらにはナイルの川の緑の先からちらちらとエジプトの神々が覗くのではないだろうかと思われる。
 彼女たちはレトロな望遠鏡で遠くを見た。すると、深い深い緑の木々が横に棚引く姿が見える。風を受ける髪が翻る。
「あなた方は、日本の方?」
 彼女たちが顔を向けると、搭乗口でも見かけた白人女性がいた。黒いランニングに幅の広い白の木綿パンツ、牛革のサンダルに、黒い帯の鍔広の麦わら帽子をかぶっている。エレガントな空気があり、大降りのサングラスをはずした顔を始めてみた。帽子からはまとめ上げられたのだろう金髪が少し風に弄ばれ、緑の瞳がまだらな陰の下で光り微笑んだ。
「はい。日本の者です」
「私はフランジェスタ」
 二人もフランジェスタに自己紹介した。
「日本へは以前、北海道、那須高原、湯布院、屋久島、沖縄に行ったことがあったから、ずっとあなた方のことが気になっていたのよ」
「そうだったのですね。それらの場所は日本でもとても良い場所なので」
「ええ。実に素敵」
 彼女たちが日本語で会話をしていたので、日本人だとわかったのだろう。今は英語で会話をしていた。
「どちらへいらっしゃるの?」
「エジプトです。ある目的のために。私たちはイタリア、スペインでそれぞれが調香師をしていて、その香りの探訪のために」
「まあ、勉強熱心ね。エジプトの香水の紀元は古くからあるものね」
「はい」
「私もエジプトまで絨毯を買い付けに行くところなの。ご一緒してもかまわないかしら。ナイル川も下ってみたいと思っているの」
「もちろんですわ。ご一緒できるなんて光栄です」
 彼女自身は上品なオレンジの香りがし、風がこちらへ吹く毎に香る。こちらもわくわくして来るようなスパイシーさも上品さもあった。
 そうして三人は連れ立つこととなった。
「不思議な香り?」
「はい」

<航海> つづく

調香師 <白花の香り>

〈2〉

 「<神秘の香>と呼ばれていた」
 玲花と美夏が振り返ると、そこには美しい女性がいた。雪のような肌に、漆黒の髪、同じく黒い瞳が月光を映したように光る。しかし、随分と足が長いので背が高いのだろうし、ゆったりとした髪も男の様に短かった。声も低いし、装いは見かけの純白と漆黒をそのまま衣服にも取り入れた色彩。そこはかとなく気品を帯びている。
「専属の調香師も言っていたよ。どうやら、その秘密を究明できなかったようだが」
 イタリア語を話すその白人は、やはりイタリア人なのだろう。香水舘の隅にあるホールチェアセットにいて、モノクロームの彼だけが切り抜かれたように感じる。暖色照明でもその肌が染まることは無い。彼は花細工の硝子瓶を手にしており、香りを楽しむと栓をし、こちらに微笑んだ。
 老婆が言う。
「彼は天然由来の基礎化粧品や香水、薔薇酒などを製造するお家柄の系統の方なの」
「母方でね」
 彼が立ち上がると、彼女達は握手を交わした。柔らかな手に、正直玲花は心が高鳴る。イタリア男はやはり魅力的だ。一方、そんなチャーミングなイタリア男に慣れているはずの美夏さえも、緊張気味に小さく微笑んだ。
「貴方も共に探しませんか」
「まあ、美夏ったら何を言い出すのか驚くわ」
「今は俺もバカンスの期間だ。君達の楽しげな話に乗ることにするかな」
 ここは様々な香水の香りが混在して染み付いた場所だが、その男の発する香りは独特なものを感じた。それは、白い花が浮んだ。闇に浮ぶようなその花の香り。どんな香水を使っているのだろうか? 彼の言う専属の調香師の仕事だろうか? それとも、彼の母方の家柄の香水だろうか。まず二人はそれに強い興味を持った。
「私は蛇谷玲花(へびたに れいか)」
「私は泉花美夏(いずはな みか)です」
「日本人には名前に意味があるんだってね。どういう意味なのかな」
「蛇の谷に、<玲>は美しく鳴る音。それに花。まるで谷底で蛇が花の間を縫うようにのたうちながら、その先の小さな鳥居の洞穴から鈴の音が鳴り響くかのような名前なのではないかしら。美夏は、花の咲く泉。それに美しい夏」
「風景的で目に浮ぶようだ」
「貴方のお名前を覗っても?」
「これは失礼。名乗り遅れてしまった。俺はルティカンダ。通り名と取ってくれていい」
 身分のある人は時に通り名で呼ばれている。本名は名乗らないものだ。そういう人を相手にすることも多い仕事なので慣れていたが、正直まだ四年目では代々伝統的な家系を深く受け継ぐ者たちの家元は分からない。まだこちらでは彼女達は新米も同然。個人での顧客や用達人も少ない時期だ。

 そういったわけで、女二人と男一人の<神秘の香>の源の探訪が始まったのだった。
「へえ。美夏も通り名なのか」
「ええ。数年前まではね、花貴美夏が本名だったんだけれど、泉花夏月と呼ばれるようになったわ。社会人になってから名前だけでも美夏に戻したの」
「日本特有の法則でも?」
「いいえ。特異な例よ。一言では表せないような」
 今はルティカンダと美夏は二人でいた。
 そこは列車の個室で、麦畑に囲まれた丘を走っていた。何処までも夏空は抜けるような青さを湛え、心まで爽やかにしてくれる。それでも車窓を開けた風にも吹き消えないルティカンダの花の香りは不思議なものだった。
「貴方、素敵な香水を香らせているのね。先ほども思ったところよ」
「香水は本日はつけていないんだ」
 美夏は意外に思って彼に一言断ってから手首を借りた。鼻を近づけても首を傾げる。もっと、それは香りの元が発散されている場所が違うようなのだ。その香りを辿っていた。腕、肩、首元、それに黒いシルクスカーフの胸元。
「分かったわ。貴方は全身から香らせているのよ。衣服でもない、何か花のエキスのカプセルでも飲んで……?」
 顔を挙げた美夏はとたんに目の前の顔に驚き、そして自分が彼の手首にそのまま体重を掛けて身を乗り出していたのだと気付いた。彼女は頬を紅潮させると、すぐに色褪せたベルベットの背凭れに背を戻した。
「ごめんなさい。つい。悪い癖なの」
「いいんだよ」
 多少驚いた顔をしていたルティカンダもはにかんで頷いた。
「まあ、驚いた」
 びくっとして美夏は玲花を見上げた。ドアのところでお盆にカップを乗せて戻って来たのだ。
「野暮だったわね。もう少し後で来れば良かったかしら」
「いいの。入って」
「ふふ。珍しいのね」
 意味ありげに玲花が男気の無い美夏に言い、ルティカンダに微笑んだ。
「飲み物を持ちに? 言ってくれれば俺が持ってきたというのに。どうもありがとう」
「ついでだったのよ。さあ、何がいいかしら。茶葉の香りから当てた者勝ち。そんな香り合わせはどう?」
「いいな」
 ルティカンダの瞳がきらりと光り、こういうゲームが好きなのだろうと読み取った。
 しばらくして、その紅茶葉の産地や製法まで言い当てた二人はそれぞれ気に入ったカップに指を通した。
「性格が香りの好みを表す物だけれど、それは必然的に心理状態でその効力を必要としているからなの。だから、時に人はその香りのもたらす効力の中毒や依存になりうる事があって、自身の抱えるそれらの悩みから開放されないことがある」
「へえ?」
「例えばカモミールが好きな人は不眠を感じる人で、その睡眠を促してくれる効力の虜になってしまうわ。リラックス効果のあるラベンダーは安らぎを求める性格の人が好むのか、食欲促進の働きのあるバジルは痩せ型の人が好むものなのか」
「なるほど」
「だから、時に香りに関る者は専門的なアドバイスが必要なの」
「ふうん……」
 変わらずルティカンダは微笑んで優しく受け応えていた。美夏が少女の様にはしゃいで話す姿を見ることが彼にとってはうれしそうだった。
「ルティカンダの奥方は貴方の香りの抜けられぬ虜になるような方ね。どんな効力があって、どんな症状をもつ人が惹きつけられるのかしら」
「美夏ったら、また始まったわ。この人は一種、香り狂なの。ごめんなさい」
「はは。研究熱心だね」
 苦笑する玲花が続けた。
「だから<神秘の香>の話もすぐに乗ると思ったら、この通り。今はもっぱら、貴方の香らせる花の香りと<神秘の香>で頭が一杯なのね」
「研究所では様々な薔薇の品種の香りの成分表を自分でも独自に作ってみたわ。新しい薔薇はどんどん生み出されるものだし、きっと尽きることは無いのよ。その人の好む薔薇の香りはその人のイメージに合うのかも研究していたの。人が好む色、香り、味覚で性格が分かれるものだから」
「ね」
「成る程。何かに一所懸命に取り込む子は好きだよ」
「貴方はどんな色や香り、味覚が好きなの?」
 もう玲花は放っておいた。短く受け応えていたルティカンダもどうやら興味があるようだったので。
「俺は色は青紫や黒紫が好きかな。香りはナチュラルな物を好むし、味は淡白なものを選んでいる」
「それなら貴方の性格は混在した二面性があるのではないかしら」
 ルティカンダはぱちぱちっと瞬きをして、微笑んでいた口をつぐんだ。
「冷静沈着にして美的感覚が優れている。少年時代は笑顔が可愛いらしい子だったとか。忙しいことはあまり好まないけれど、体が勝手に動く性質。動き出したらどこまでも行くし、脳裏では常に物事を客観的に捉える面もありながら、何より情熱的な面も兼ね備えた愛情の人」
「……えっと、うん……」
 視線をそっと落としたルティカンダに気付かない美夏は話し続けた。
「その愛情を自分の美的感覚で当てはめようという心もあるけれど、それは心を許さなければみせない秘密主義者だし、一度開放されたら止まらないんじゃないかしら」
 玲花が止めようとすると、丁度ホームに列車が流れ込む。
「駅だわ。美夏」
「さあ。用意をしよう」
 ルティカンダが話を切り上げるようにトランクを棚から降ろして行く。
 はっと気付いた美夏は視線だけで玲花に諌められて、恥かしさに顔を俯けた。そんな美夏に鞄を降ろし終えたルティカンダは可笑しげに微笑んでから言った。
「あまりにも言い当てられて、占い師かと思ったんだ。さあ、君のハンドバッグだ。行こう。お嬢さん方」
 彼等は颯爽と歩いていった。個室には白い花の残り香……。

 「ふふ。疲れた? ちょっと、怖かったんじゃないの?」
 玲花はベンチに座るルティカンダに甘いお菓子を差し出して微笑んだ。
「はは。美夏はもしかして香りで人の性格を見抜くんじゃないかと落ち着かなかった」
 「実はね……」と、ルティカンダが続けた。
 玲花は向こうで馬車を待つ間に木々の枝葉を見上げている美夏を一度見て、ルティカンダを見る。
「俺の先々代が同じ様に不思議と白い花の香りをさせる人だったんだ。俺はどうやらその彼の若い頃に生き写しの様に似ているらしくてね。写真や肖像画を見ても自分で鏡を見ているようだよ。その人は立派な人で、様々な身分も持っていた。だが、裏では恐れられていた。二面性、というのか……思い当たる部分が俺にも存分に含まれているとしたらと思うと」
「………」
 玲花は彼の横顔をしばらく見つめた。
 途切れることなく、彼からは花の香り。決して甘くはない、神秘の……。
『ミイラの欠片』
 美夏が言っていた。
 玲花は多少腕をさすって自身の影を見た。
 もしも、あのクリスタルの器に閉じ込められた何かの欠片が、彼、ルティカンダの先々代の神秘的な花の香った肉片だったのだとしたら……、と行き着いて、玲花は口さえ閉じられなかった。
 見つかる筈もない。その本人は彼の口振りからは既に寿命を迎えたのだろう。
 馬車を引く激しい蹄の音にびくっとして顔を向けた。彼女を白い花の香りがそれでも優しく包む。
 彼にそっと手を取られ彼女は立ち上がり、馬車へと導かれていく。
 <危険>を感じた。
 何故だろう。素敵に微笑むルティカンダ。まるで悪魔のように弱みを見せて、そして誘ってくる二面性を持つかの如く、その迎えの馬車は恐ろしいものに見えた。
 美夏がやってきて、鞄を持ち上げる。
 玲花はまるで罠に嵌る子羊たちのように、美夏は気付かないまま、玲花は恐怖を背筋に冷たく感じながら抗うことも出来ずに馬車のステップに足を掛ける。彼女達のサイドにいて陽を背に立ち影が降りる怜悧なルティカンダの横顔を、ちらりと上目だけで見上げる。
「………」
 あの香水舘で、彼は狙っていたのだわ。こうやってあのクリスタルの器に秘められた香りに導かれる人間を。自身の香りに惑わされる蝶を。こうやって連れ去ろうとしている。

 目を覚ますと、そこは見慣れなくて薄ら寒い場所だった。
 美夏は首を傾げて強張った体をさすれないと気付いて、顔だけを上げる。
 石の台に寝た自分。拘束されていた。
 横の石台には、玲花が眠っている。髪で唇しか見え無いけれど、ゾクゾクする程色っぽくて、そして美味しそう。
 いつでも綺麗な人だと思っていた。さばさばした風と、優雅さが不思議と混ざった玲花。多少好意を持っていた。玲花自身には言わない種類の好意だったが、今はそんな壁など要らなく思える空気が漂う。
 美夏は彼女の初恋相手を思い出す。淡い恋は実る事はなかった。相手は異性が好きだったから。そしてそれは玲花も同じだった。
 もがいていると、手首の拘束が解けた。背に目を向けると、それはシルクのスカーフ。
 ルティカンダの首元を飾っていた黒のスカーフだった。
 固い場所で寝ることは慣れていないので、均してから体を起こすと、そのスカーフを手に取った。ふわっと、あの神秘的な白い花の香りがする。美しくて、そして神聖な……悪魔の薫り。
 美夏は狂気の心が静かに目を覚ましたようで、そのスカーフを手にしたまま玲花の前まで来ていた。繊細な香りをより分けてきた感覚が告げる。なんと魅力的なのだろう。
 玲花の首元を花の香りのシルクで飾っていた。細い細い、白い首を。頤が反らされて目元だけを玲花の髪が隠す。眠ったまま。夢でも見ているのだろうか。
 台に手をつけて、顔を近づけた。この花の香り、なんて人の体に合うのだろう。
 彼女は口を開け、玲花の首筋に近づき、噛み付いた。
 歯に首の筋が当ってガガッとずれ、肉と薄い皮膚を共に噛み込んでいた。しかし、所詮は人の力、噛み切れはせずに歯がぶるぶる震えてシルクに透明な唾液が流れる。
 一度唸ると、歯を外して小さな歯型がついた玲花の首筋を見つめた。まるで自分が少女になったように高揚する風情だった。
「美夏」
 声が響く。ルティカンダの声だった。
「貴方はヴァンパイアなの?」
 玲花の首筋を間近で見つめたまま美夏が言った。まるで蜘蛛のように黒く丸い瞳で見つめている。四肢で玲花を今にとらえんとするかのように。
「古い祖先からね……人の血肉を好んできたそうだよ」
 美夏は脈打つ白い首筋から、ルティカンダを見た。着崩した白いシャツに、黒いベスト。紳士パンツ姿で、今しがた美夏が拘束されていた台に腰を降ろした。それには鉄枷のついた鎖が黒蛇のように渦を巻いている。
「その花の香り……、分かったの。あのクリスタルの器の欠片に似ている。貴方は香りで人を誘き寄せて、そして餌食にしていたのね。そしてその香りにはもう一つ、周りの者までをも血肉を欲させる効力がある。まるでフェロモンを発する食人花のような人」
「その事を、先々代は思い悩んでいたようだけれどね……。俺は自身の欲望を抑えることは好きでは無いんだ。普段はこの香りを隠す為の香水を調香させているんだが、君達からは甘美な香りがして狙っていts」
「好みでは無かった人には協力してはこなかったのね」
「俺にだって好みき嫌いはある」
 ここまで来たので美夏は警戒し、そこでいきなり玲花が背後で起き上がり肩でどんっと美夏を背後に行かせて彼女の盾になってルティカンダを睨み見た。
 実は噛まれた時点で痛くて目覚めていた。様子を覗っていたのだ。美夏の手が玲花の腕を持ったまま強張ったので危険を察知して起き上がったのだ。美夏は即刻玲花の手首の拘束を解いた。
 ルティカンダが太股にベルトで括り付けられた短剣をそっと手にしたので、二人は途端に手を取り合って走って行った。
「逃げるのよ! 美夏!」
 玲花がぐんぐん手を引っ張って走り、美夏の方が足が速くて玲花は二度見した。彼女も必死で走り逃げて行った。この人食い館から逃げ出さなければ。柱が立ち並ぶこの広い石の空間の向こうにアーチ柄の黒い観音扉。それを必死に開けて振り向くこともせずに暗い廊下を走る。
「ねえ! 罠だったの?! あの老婆も」
 階段を駆け上がりながら言う。
「分からないわ! それは老婆の旦那さんしか知らなかったんだわ! きっと、美味しそうな人間を今までルティカンダに引き渡していたのかもしれない」
 息を弾ませながら言い、走ることで視界が乱暴に揺れる。とにかく広い建物で、どこもかしこも石で出来ている要塞のようだった。
 玲花も美夏も立ち止まる事すら怖くて走って行く。アーチ状の間口が並んだ廊下の先は月が綺麗な夜が広がる。風が冷たく流れ込む。外へ出られる間口を見つけた彼女達は我を忘れたように走って行った。
 そして庭に抜けると森に囲まれた場所だと分かった。走って行く。
 森の入り口に差し掛かる。振り返った……。
「………」
 テラスの欄干に手を掛けて、彼が白い月光に照らされ、逃げていく彼女たちを見下ろしている。
 あまりにも、ぞっとする美しさで、見つめてきているその能面は、悪魔そのものに感じた。

調香師 <エピローグ>

 「ええ。まるでドラキュラみたいだったわ」
「また可笑しな土産話しをお持ちね」
「あら、それなら、毎回彼は餌を捉え損ねていたのね」
「俺はね……」
「きゃ!」
 香水舘。老婆から顔を上げて肩越しに見上げると、またあのヴァンパイア……かは分からないルティカンダが彼女たちの座るアームチェアの背もたれに革手袋の手を当てながら言った。
「恐怖に震えるときの香りが好きなんだ」
「変な人!」
 美夏が心臓部を抑えながら言い、首を傾げた。今日はすずらんの香水が香るルティカンダを見上げた。肌も極力覗かせないかのように嵌められた黒いグローブ。
「また可笑しなことを言って、この子は」
 老婆は毎回、ルティカンダや土産話を持って来る者達の言葉を信じてもいないようだった。
「こんにちは。香水を新調したい」
 背後の小さなドアが開き、紳士が入って来た。
 彼等は振り返り、老婆が言う。
「まあまあ、いらっしゃい」
 紳士がカウンターまで来ると、ことんと男性的な黒い香水瓶を置く。
「本日はどういった香りになさるの?」
「そうだね……」
 紳士は香源の材料が入る透明な瓶を見回す。そこから抽出されて混ぜられるのだ。
「あれ。この器は何かな。何かが入っているようだけれど……ちょっと、拝借しても?」
「ええ。よろしいですよ。誰もまだその香りの正体を当てたことはないんでございますよ」
 玲花と美夏は、微笑む老婆の差し出すクリスタルの器の動向を目で追った。それは、紳士の前で蓋が開けられ、その向こうにただじっと、狙いを定めるように無表情のルティカンダが男を見つめていた……。
 オリエンタルにしてフローラルなその香りを秘めて。

『美夏と夏月』

『美夏と夏月』 ビターチョコレート 作

美夏と夏月シリーズ。第一話「揺らめきの先で」高校生の美夏と不思議な少年のお話(随時更新)。第二話「蜘蛛~あたしと私~」夏月の前に現れた不可解なドッペルゲンガーのお話(完)。第三話「調香師」美夏と玲花が神秘の薫りの正体を追い求めるお話(<航海>随時更新)。 ※第一話、美夏十七歳。第二話、美夏十九歳。第三話、美夏二十五歳。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-02-13
Copyrighted

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