*星空文庫

blue

紺 作

玉ねぎが目に滲みた。
彼の名前をなぞるといつも涙が出てしまう。

夜明け前の空はいつもより暗い。まだ夜が続いているみたいだ。トントン。あの日の記憶がさえずる音。トントン。朝4時の台所で朝食の準備をする。誰の気配も感じないこの時間に起きるのが最近の癖だ。私以外全員の意識が無いのは落ち着く。玉ねぎなんか朝から切るんじゃなかったとボヤけた視界で思った。この涙はなんの涙なのだろう。手を止めてもスルスル雫が落ちた。自分の胃の中から記憶が産まれる。ボコボコ泡をふく鍋に合わせて記憶が溢れてきた。どんなに朝が来てどんなに玉ねぎを切っても私には溢れてくる記憶がある。誰にも気づかれぬように言葉を持たないようにして自分のいる場所も来た場所もふさぎ込んで私は、あの日からどこにもいない。


トントン。おはよう。後ろで声が聞こえた。
振り向きざまに目隠しをされて、キスをした。
朝の食卓は期待に満ちた幸せのにおいがする。おはよう。彼に言う。ちょっと猫背気味でふわふわな髪の人。大きな白いパーカーが幼さを目立たせている。くすぐったいことをされるのは恥ずかしかったが全身がほてるあたたかさを噛み締めた。大好きな人。耳まで赤くなった顔に気づかれないようまた料理に戻る。なに作ってんの?肩に顎をのせて優しく聞いてくる。玉ねぎのお味噌汁、美味しんだよ。わー美味しそう、ハルカの作る料理はなんだって美味しいね。漫画みたいなことを言う。そう思っていた。漫画みたいな彼は漫画みたいに可愛い男の人だった。
1年半前の光景。名前も忘れた時期。過ぎてみればあっという間だった。あっという間に出会ってあっという間に付き合ってあっという間に別れた。人生の断片すぎて、膨大な時の流れと出会いの中ではまたたくまに飲み込まれてしまった。でもなぜかこの景色だけが決まってスローモーションに、鮮明に、私の記憶に溢れてくる。私にとって幸せの象徴とはこの場面のことなのかもしれない。

彼は大学時代の同級生で出会った頃はちゃらちゃらしていて苦手だと思っていたが、なんの間違いか私に対するアピールが凄かった。最初は冗談としか思っていなかったが頑なに断る私に意地になったのか何度も遊びに誘われては何度も好きだと言われた。ある大きなグループ課題を一緒にやり終えた後、いつの間にか私も彼のことを好きになっていた。学生らしいきっかけだ。打ち上げの後に抜け出して彼の部屋に行った。彼の部屋はモノが少なかった。意外だった。6畳ほどある部屋の真ん中にぽつんと置かれていたのは、青い掛布団をしたこたつだった。それ以外はキッチンしかない。貧乏学生だからさ、モノが少ないんだ。彼はちょっと照れながらそう言った。そうだとしてもモノがなさすぎじゃないか。もしかしてここは女を連れ込むためだけの部屋なんじゃなかろうか。そんな風に一瞬疑いつつ私は手持ち無沙汰に正座した。掛布団の青色が白熱灯の寒そうな部屋をさらに寒そうにさせていてこたつなのになんでこんな寒色系の色を選ぶんだろう。なんてことも思った。それでも彼に手招きされて二人で入ったこたつは、とてもあたたかかった。それはこの人を好きだと思う気持があったからだろうか。彼はふふふと笑ってふわふわな髪を揺らしながら私の方を見て床に頬杖をついた。こたつがひとつあればそれで十分なんだよね。彼は私の頭を優しく撫でて本心のように呟いた。私にとっても本当にそれだけで十分なのかもしれないと思った。外には雪が降っていたのに、私達は溶け合い始めた柔らかなぬくもりに包まれた。

青いこたつは私達の生活の中心になった。私はしょっちゅう彼の部屋を訪ね、朝ごはんもこたつで食べ、晩ごはんもこたつで食べた。授業のない日はこたつに入って私は本を読み彼はゲームをし、一緒に映画を見てあーだこーだ言ったり、提出日ギリギリの課題を二人で慌ててやったり、よだれを垂らして昼寝をしたりした。なるほどこたつというものはエアコンよりも電気代の節約になるしどんな体勢でも使えるしひとつあれば無敵だとも思った。コーヒーとお菓子をどちらかとも無く持ち寄って、こたつの中二人でぐだぐだと過ごす時間が、毎日の楽しみだった。なにもかもが楽しくて、なにもかもが、あたたかかった。



知らない女がその青いこたつで寝ていたのを今でも覚えている。ああ結局こうなるのね。妙に納得したし妙にしっくりきた。こんな変な部屋に住む人間はやっぱり感覚がおかしくて二股なんてのはとてもお似合いで軽そうな女の派手な髪色が彼のダメさ加減を更に強調させて見えるからすんなり受け入れられた。彼はこの女にも私と同じように照れながら部屋の説明をして私と同じように床に寝転んで髪を撫で私と同じように朝目隠しをしてキスをして私と同じように漫画みたいなセリフを吐くのだろう。安っぽいストーリーだ。互いの若さをハッキリと自覚して彼の青さを冷ややかな目で眺めた。一緒に過ごした時間は呆気なく凍った。結局最後はなんだってこうなってなんだって裏切りが待ち伏せしてる。そんな気もした。それでも心はすぐに納得してくれなかったので、走って走って私は、自分がどこにいるのかもわからないくらい、ぐしゃぐしゃに走って泣いた。



また同じところで目が覚めた。朝食を食べる家族の音が聞こえる。7時半前。ご飯を作った後に寝てしまったらしい。大学を卒業後、私は実家に帰って地元で就職した。私には新しい日常が流れ、無駄に大きな家で無駄に立派に過ごしている。お金を稼ぐようになりビジネスマナーも愛想笑いも身に着けて日々をそれなりに忙しく生きている。
子供という社会からは、とっくに抜け出したのだ。



それでも、私の幸せとはと聞かれると、
あの青いこたつの部屋が真っ先に浮かぶのだった。


ゆっくりと布団から足を出して朝の冷たい床を歩く。
あの人の部屋はなんにもなかったわりに、ずっとあたたかかった。ふと心の端でまだそんなことを思う自分がいる。立ち止まった。


蝉が弱ったように鳴いている。向日葵のつぼみが水に濡れて下を向いていた。

知らない季節の中で私はあたたかさを欲する。


彼の部屋にはまだ、青いこたつがある気がした。

『blue』

こたつというお題で書いた文章です。わりと表現は柔らかめ。

『blue』 紺 作

  • 小説
  • 掌編
  • 成人向け
更新日
登録日 2018-02-13
Copyrighted

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