黒い猫

黒い猫

黒猫の幻想小説です。PDF縦書きでお読みください。

  
 一章

 しばらくぶりに降り立ったヒースロー空港は雪景色だった。例年より早い雪が街を埋め尽くしている。タクシーは動いているがなかなか来そうにない。コートの襟を立ててスーツケースとともにタクシー待ちの長い列の後についた。
 前にいた茶色のコートを着た白髪の老紳士が後ろを振り向いた。にこっと笑ったが、私を見ると異国の人かという表情でまた前を向いた。
 そのとき、「ぐにゃあん」と懐かしい猫の声がした。ふとみると、前にいる老イギリス人のコートの襟から真っ黒の猫が顔を出し、老人の肩に手をかけて私を見た。黒猫は黄色い目で私を見ると、また「ぐにゃあん」と鳴いた。老人は私に微笑んで、猫の頭をなで、コートの中に包み込んだ。
 老人の黒猫は薄れかけた記憶を、雪の上に映し出された映像のように思い出させてくれた。
 まだ若いころ青森の高校で英語を一年ほど教えたことがある。もう四十年も前のことである。
 東京の大学の大学院を終え、ホーソンの研究をしにイギリスに行こうかどうしようか迷っていた時であった。気持ちに踏切がつき、イギリスの大学の著名な先生に、いつでもよいから研究生として受け入れてくれるようお願いの手紙をだした矢先のことである。六月の終わりごろだったと思う。秋田の高校に勤めている先輩から電話があった。青森の私立高校で、英語の教師が急にやめることになり、半年か一年、臨時に英語を教えてほしいということだった。
 英語劇のサークルの先輩で、私に活きている英語を教えてくれた女性である。彼女からの頼みだと無下に断ることができない。イギリスからの受け入れの返事はすぐにはこないし、イギリスでの生活費を少しは貯めておいたほうが行ってから楽だろうと思い引き受けた。ただ、東京育ちの自分に寒い地方で勤まるかどうかが心配であった。
 八月末から赴任することになり、大急ぎで不動産を回り、住み心地のよさそうな家を見つけたのは授業の始まる一週間ほど前であった。昭和の初期に建てられた平屋の家である。小さいといっても東京では望めないそれなりの広さの庭がある。高校からもさほど遠くない。
 不動産屋の話だと、老人が猫と長い間暮らしていたそうだが、数年前の暮れに、突然姿がみられなくなり、しばらくすると、老人の一人娘という女性が不動産屋に来て、家を売りたいと申し出たそうだ。老人はその娘さんと暮らしているということだった。
 色の白いきれいなお嬢さんだったと、まだ独り者の不動産屋の目は遠くを見ていた。
 空き家になったその後も買い手がつかず、娘さんの提示する額があまりにも安かったので不動産屋が買い取り、買い手がつくまで貸家として使っているのだそうだ。私も安くするから買わないかと言われたが、臨時の教員なので借りるだけにしたいと言うと、長く住むようになったら買ってくださいと不動産屋は言った。
 青森のこの町に来て、寒さの心配は全くの取越苦労であることがわかった。山奥はいざ知らず、町中の家は暖房が完備しているし、雪が降っても道はすべて確保されている。
 借りた家は、町の外れの田んぼの脇の住宅街にあった。
 台所も風呂場もトイレもしっかりした木の柱に囲まれて黒光りしていた。間取りは、広い玄関をはじめ八畳の茶の間と六畳の寝室、それに床間がある八畳の客間である。取替えられたばかりの畳の匂いが立ち込め、気持ちが良い。東京でのマンション暮らしとは格段の違いである。
 南向きの客間には障子戸をあけると縁側があり、ガラス戸を通して、小さいながらさっぱりとした庭が見渡せる。石塀の先は田んぼになっていた。庭の木はみな小柄ながら、それぞれが気持ちよく枝を張っており、部屋の真正面に椿の木がゆったりとこちらを向いている。花の時期には黒がかった赤い半開きの花がちらほらとついた。紺侘という種類だそうだ。
 客間の障子を開けると、やっぱり来ていた。年をとった真っ黒の猫である。椿の木の前で、前足を行儀良くそろえて、腰を下ろし、太い尾を前足のところまで巻きつけている。
 黄色い目で私のほうを見ていた。ガラス戸をあけると、時々、にゃあではなく、「あにゃあ」とか「ぐにゃあ」とか聞こえる低音でこちらの気を引いた。しかし、何も言わず、黄色い目でこちらを見ていることのほうが多かった。
 その黒猫は越してきた最初の日からいた。荷物を運び込み、客間を開け放つと、その猫が椿の木の前でこちらを見ていた。腹が減っているのかと、昼の弁当の残り物を目の前に放ってみたが、食べ物に近寄るでもなく、ただこちらを見ていた。
 生き物は嫌いなほうではないので、縁から降りサンダルに足を通すと、猫はふっと椿の木の下からいなくなった。すばやい猫だと思ったが、猫はこんなものだと、気に留めもしなかった。
 どこの猫なのだろうか。庭の外では見かけことがない。しかもいつも客間の前の庭にしかいない。不動産屋に聞いてみたが、知らないという。おじいさんの飼っていた猫は雪といって真っ白だったそうだ。
 
 やがて、私も高校にもなれ、演劇部の顧問にもなって、放課後は生徒たちと文学や、東京の演劇のことを話してから家に帰るようになった。
 十一月にはいると、空から白いものが落ちてきた。さすがに寒くなり、家に帰るとあわてて暖房をつけ、買ってきた食材で簡単な料理を作り食べた。
 私は中学生になったときから東京の多摩ニュータウンのコンクリートの建物の中で育った。雪の庭は初めての経験で、ガラス戸を開けて、客間から薄く雪の積もった庭を眺めるのは楽しかった。
雪があっても黒猫がいた。猫は椿の下でじーっと私を見ていて、ときどき、「あにゃあ」と鳴いた。おいで、と手を出すと、少し首を傾げるようにして私を見て、「ぐにゃあ」と鳴いた。決して近づいてはこなかった。
 十二月になったある土曜日、数人の演劇部の女子生徒が我が家に押しかけてきた。
 年が明けて市民会館で行う発表会の台本を皆で考えたいという。客間で車座になった彼女たちは熱心に議論をして、台本作りに打ち込んだ。
 私は時々聞かれたことに意見を言いはしたが、彼女たちの発想の邪魔をしないようにしていた。
 一段落した時に、東京の知人が送ってくれた羊羹を切って出すと、彼女たちは、ワーッと言って、遠慮なく口に運んだ。
 ふーとそのとき、猫のことが頭をかすめ、障子戸を開けてみた。雪が降り出している。
 彼女たちは、なぜ開けたのと不思議そうに私を見て、ガラス戸越しに庭を見た。
 「あー猫」皆が声をそろえた。
 黒猫が椿の木の前で、いつものようにこちらを見ていた。
 「帽子かぶってる」一人がつぶやいた。
 猫の頭には白い雪がうっすらと載っていた。女子生徒たちは身を乗り出してガラス戸を開けた。氷のように冷たい空気が入ってきた。
 「先生の猫ちゃん?」
 一人の女子生徒が私を見た。
 「いや、ここに来たときからいるんだ」
 「じゃあ、元の持ち主の猫ちゃん」
 「違うんだ、前の持ち主の猫は真っ白だったそうだ」
 そんな話をしている間も、猫はじーっと私たちを見ていた。
 「寒くないのかな」
 一人の子が独り言のように言った。
 「寒くなったら入ってくるよ。自分の家があるのじゃないのかな。餌をやっても食べないんだ」
 「ふーん、今日は雪がひどくなるって」
 と言いながら、もう一人の子がガラス戸を閉めた。

 生徒たちが帰ったあと、雪は夜になっても止まなかった。こちらでは大したことはないのだろうが、わたしにとっては大雪だった。今年は暖冬といっていたが、やはり青森である。
 あくる朝、客間のガスストーブをつけ、障子戸を開けた。雪は止んでいる。
 ガラス戸を開けると自分の吐く息が白く庭に広がっていく。
 縁側のふちまで雪は降り積もり、庭をうずめていた。そのまま雪の上を歩けそうだ。
 見ると椿の前に雪の穴がぽっかりとあいている。縁の上に立って背伸びをしてみた。ぽっこりとあいた雪の穴が覗けた。穴の中に白い塊りがあった。白い猫だ。真っ白な猫がこちらを向いて座っている。
 私は、靴下のまま縁から飛び降りた。ずぼっと雪の中にからだが落ちた。
 足を持ち上げ腰下まである雪を押しのけて、椿の前に行った。
 白い猫は動こうとはしなかった。
 猫に触れてみた。雪がはらりと落ちた。黒い毛がちらっと見えた。全身の雪を払った。白黒の斑の猫になった。両手で雪を擦り落とした。白かった猫が真っ黒のいつもの猫になっていた。
 黒猫は凍ったまま誰もいない居間のほうをずーと見ていた。
 冷たい頭をなでてやった。
 
 そんなことが昔あった。
 と、目の前に並んでいた老紳士が消えた。いや、かがんでタクシーに乗り込むところだった。
 すぐに次のタクシーが来た。私も乗った。行き先を言うと、タクシーはなれた調子で雪のロンドンの街中に走りだした。
 
 タクシーの本皮でできた硬いシートに寄りかかると、夢のようにあの時の続きを思い出していた。
 凍った猫を椿の下に穴を掘って埋めた。
 凍った土は固かった。掘っていると、からだが触れて大きく揺れた椿の枝の間から雪とともに茶色の封筒が落ちてきた。中にはお札が入っていた。封筒には不動産屋の名前が印刷されていた。不動産屋にもっていくと、老人の娘さんに払った家の代金だと言った。老人の居場所が分からないので、不動産屋は私と一緒に警察にその現金をとどけた。
 その後、秋田の高校の先輩からロンドンにいた私に手紙が来た。
 青森の高校に赴任して一年後、私はやめてロンドンに行くことになり、警察からの連絡先を彼女にしておいたのだ。
 彼女の話は二つあった。一つはあの家の近くの川べりから老人のものと思える骨が猫の骨とともに見つかったということである。誤って川に落ち凍死したのではないかということであった。ついて行った猫が先に落ちて、老人は助けようとしたのかもしれないと彼女の感想が述べられてあった。
 もう一つは、警察に届けたお金が所有者不明ということで、不動産屋と私にもどってきているということであった。老人には身寄りがないそうであった。不動産屋は自分の分を使って、老人の墓を作りたいと言っているということである。
 私は返事の手紙に、私の分も使って猫も入れてやってほしいと書いた。
 その後、高校の同僚と結婚した彼女から一度だけ手紙が来た。わざわざ青森のあの町まで行って、お墓を見てきてくれたそうだ。老人の墓石の脇に丸い小さな石がおいてあったそうである。

 二章

 彼はロンドンから帰り、家にくつろぐと、ヒースロー空港に降り立ったときの、あの不思議な感覚が再び湧き上がった。若いころに一時住んでいた青森での黒い猫の出来事が、本当にあったのかどうかすら、なぜか自信がなくなってきた。
 あの住んでいた家はどうなっただろう。青森の彼女は今どうしているのだろう。音信不通になって何十年も経ってしまった。確かめたい思いに駆られていた。
 
 彼は退職する前に購入した伊豆の別荘に一人で住んでいる。
 ときどき英文学の研究仲間が尋ねてきたり、最近少しは知られるようになった同人誌「紅(あか)い猫」の仲間が来るが、普段は物語の構想をねったり、昔の資料を整理したりして一日をすごしていた。
 彼の別荘は伊豆網代の海に張り出した山の中腹にある。海を見下ろす二階建ての洋風な家である。ヨーロッパで不慮の死を迎えたという若い画家のアトリエであった。その後も画家の知り合いの女流版画家が一人で暮らしていたというが、調度彼が退職する前の年に地元の不動産屋に家を売却しということである。不動産屋の話だと亡くなったったとされていた画家がフランスの片田舎で暮らしていることがわかり、その女流版画家は黒い猫をつれてフランスに渡ったということである。
 彼は二階のキッチンやかけ流しの温泉風呂、寝室と書斎などには一切手をくわえず、一階のだだっ広いアトリエを、集めた本の収蔵場所とした。彼は、今でも本と文章に興味のある人たちに根強く人気のあるフランス文学者、作家である澁澤龍彦の本のコレクターであった。さらに、いろいろな動物の木彫りの頭骨が置いてある。これは友人の彫刻家が作ったもので、本人から譲り受けたたものである。友人が個展を開いたときに高い値が付いたにもかかわらず売らなかったものと聞いている。
 家を購入したときには、分厚い木でできた玄関の扉の前に大きな信楽焼きの狸がでんと置いてあって、不調和な不思議な雰囲気をかもしだしていた。今ではかかりつけの医師でもある友人が別荘の改築祝いにと送ってくれた大きな水晶が置かれている。この水晶は山梨で採れたもので、中に水が入っていたのだそうだ。理由はわからないが、中のものとともに流れ出てしまったということである。
 若いころから彼の左の親指と人差し指には軽い痺れがあり、大学時代に知り合った今では手の手術で世界的な権威となっている友人の医師に見てもらっている。その友人はやはり引退して真鶴に住んでいる。水晶はその医師がくれたものである。
 ドアのチャイムが鳴った。
 開けると、二日に一度手伝いに来てくれているユウさんが大きなからだを揺らして入ってきた。
 「だんなさん、今日は海老と金目のいいものが獲れたんで、刺身を作ってきましたで。お客さんということでしたので、何品か用意しておきました」
 ユウさんが生き作りにした三匹の海老の刺身を彼に見せた。大きな伊勢海老だ。
 「いつもすみません」
 ユウさんは不動産屋が紹介してくれたお手伝いさんで、なんでも、母親も画家が健在の時にここに手伝いに来ていたのだそうだ。とても働き者で年がわからない人だが、八人の子供を育てているということである。
 彼女は手際よく掃除、洗濯を済ますと、母親から譲られたという古びた緑色のスクーターにまたがって帰って行った。
 
 午後になって真鶴にいる友人の医師がきた。同人誌の打ち合わせをすることにしていた。
 「手首の具合はどう」
 「かわりないな」
 「ほら、これが電話した猫だよ」
 友人は籠から真っ黒い子猫を取り出した。
 「また、六匹生まれてね、五匹は白かったが一匹黒だった」
 友人の家には黒い猫が八匹に白い猫が三匹いた。今度生まれたのを会わせると十七匹になる。そこで、友人は彼に黒猫を一匹持ってきたわけである。
 「ところがね、この黒はちょっと変わっているんだ」
 友人は黒い子猫を抱き上げて彼に前足を見せた。
 「ほら」
 黒猫の前足の指が六本だった。
 「ほー、ヘミングウェーの猫みたいだ」
 「そうだなあ」
 彼は小さい黒猫を受け取って抱き上げた。猫は黄色い目をくりっとさせて彼を見た。
 「かわいいね」
 彼には奇妙な記憶の空白がある。青森での出来事もそうであるが、それはそれなりに覚えている。真っ白なのは彼が小学校に入る前の一年間、妹が生まれるころのことであった。岡山の海で育ったのだが、そのころの記憶がほとんどない。彼は母と、父でもある祖父と妹の四人家族であった。漁師だった彼の父は若くして海で死んだ。妹が生まれるころに奇妙な出来事があったようにも思うが、思い出そうとしても思い出すことが出来ない。
 母親におまえは感性が強いから、といわれたことがある。今思うと母親はもっと強かったのではなかろうか。妹もそれを受け継いだようで占い師になった。父が死に私が中学の頃、母と妹と供に母の故郷の東京に出てきたが、妹は自分で死んでしまった。
 誰でもそのような奇妙な記憶の空白というものがあるのだろうと、今では思い出す努力をすることはない。ヘミングウェーの猫と聞いたとき、なにやら懐かしい、ぞくぞくした気持ちになったが、それだけであった。
 「餌の缶詰も少しもってきておいた」
 「それりゃ、ありがとう、二階にあがってくれよ」
 彼は猫を抱きかかえて二階のキッチンに移動した。
 ミルクを皿に入れ、黒い子猫にやった。
 黒い子猫はミルクをよく飲んだ。
 「お手伝いの人が、イセエビと金目の刺身を持ってきてくれたんだ、ビール飲もう」
 大皿に盛られている三匹の海老を見ると、友人は目を見張った。
 「大きな伊勢海老だね」
 「君は真鶴でいつも食べているのだろうけどね」
 「とんでもない、こんなに大きいのは初めてだよ」
 彼はテーブルに着くとビールを友人についだ。
 黒い子猫はテーブルの下でころころと遊んでいる。
 ビールをぐっと飲み干すと、医師は鞄から木の箱を取り出した。
 「ウイスキーを持ってきた。ちょっと珍しいのをもらった」
 「そりゃあありがたい、あいつが来たら開けよう」
 もう一人の友人もウイスキー愛好家である。
 伊勢海老をつつきながらビールを飲んだ
 「伊豆は歩いたかい、いいところがたくさんある」
 友人は猫越岳にハイキングにいってきた話をした。猫越の由来も説明した。
 彼は伊豆をあまり歩いていない。出かけるとするとヨーロッパに飛んでしまう。
 「イギリスはどうだった」
 「すごい雪でね、でも、タクシーも動いていたし、問題なかった。こっちに帰ってきたら、天気はいいし、このあたりは暖かいし」
 「葬式はどうだった」
 彼はイギリスに留学した時の先生の葬式にでるためにロンドンに行ってきたのだ。
 「葬式は地味なものだったけど、世界に散らばっている弟子たちが集まって、思い出話に花を咲かせたよ、いい先生だった。
 奥さんも八十になるけどお元気で、悲しむというより、夫を先に旅に送り出したという感じで淡々としていたな。自分ももう少ししたら夫の旅先に行くのだという、とても静かな面差しだった。真っ白い大きな猫がひざの上にいたよ」
 子猫が彼の足元にじゃれ付いた。
 「黒スケ」
 彼は何気なく子猫をこの名前で呼んだ。なんとなく懐かしい名前だ。
 医師も黒スケと呼んだ。
 黒い子猫は二人の間を行ったり来たりしてころころと遊んだ。
 
 玄関のチャイムが鳴った
 「癒し系の彫刻家がきたようだね」
 彼が下に下りて鍵を開けると、
 「こんちわ」と
 彫刻家がはいってきた。しょぼくれた格好で芸術家といった風情はない。
 外科医も下に降りてきた。
 「やあ、しばらく、先にはじめてる、調子はどうです」
 「まあまあで」
 彫刻家はしわしわの帽子をとった。
 この東京の彫刻家は京王線の南平の丘の一番上にある大きな古いアトリエに住んでいる。アトリエは昆虫の銅版画では日本で最も有名な版画家が昔住んでいた家である。
 この一見しょぼくれた彫刻家との出会いを語ると長くなる。そのころ彫刻家のアトリエは千歳烏山にあった。あるとき渋谷で占いをやっていた彼の妹に彼女の家に引きずり込まれ、その後妹が自殺した現場に最初に顔を出した人間であった。妹の素性を調べ、兄である彼に連絡をしてくれたのも彫刻家であった。しかし、彼は彫刻家が妹に起こったことのすべてを話してくれたわけではない事がわかっていた。おそらく、世間の常識から外れた起こりえるはずのないことが起こったのだろう。
 外科医にしても彼の胸のうちにはなんらかの思いがしまってあるように思える。この二人は人には想像し得ない何らかの奇跡に立ち会っていると思う。だから、文章を書くようになったのではないだろうか。いずれ我々のやっている同人誌「紅い猫」にそれとなく書くことであろう。
 二階に上がると、彫刻家は窓から海を眺めて、「いいなあ」と言った。
 「僕のところからは、山はきれいに見えるけど、海は見えない」
 「山もいいだろう」
 「そうだなあ」
 彫刻家はテーブルに腰掛けると、彼が注いだビールを飲んだ。
 「すごい海老だ、お二人はいつもこんなのを食べているんだ。すごいねえ」と彫刻家は海老を口に運んだ。
 「最近はどんなのを作ったんだい」外科医が聞いた。
 「猫」
 「ほー、猫の頭蓋骨じゃなくて、猫を彫るようになったのか」
 「いや、猫の全身骨格にちょっと翼をつけてみた」
 彼は幻想的な骨の彫刻家であった。紙袋を開けると、土産だと取り出したのは針鼠の木彫である。これは癒し系のほうだ。かわいい針鼠が、机の上に二匹並べられた。
 「お二人におみやげ」
 「コリャかわいいね」
 「やっぱり癒し系の彫刻家だな」
 昔は癒し系といわれるとあまりいい気持ちがしなかったらしいが、今では両方こなす彫刻家として名が売れている。この針鼠だって買うとなると数十万するだろう。
 黒い子猫が彫刻家の足元にじゃれついた。
 「あ。黒い猫を飼ったんだね」
 「ぼくが持ってきた」
 外科医がおいでおいでをすると、黒い猫は飛び跳ねて外科医の手元に行った。
 「メフィスト」
 彫刻家が呼ぶと、今度は彫刻家のほうに飛び跳ねていった。彫刻家は子猫を抱き上げた。
 「この猫は黒スケっていうんだ、なぜ悪魔だい」
 「友達の黒猫がメフィストという名だった。もういないけど」
 「黒猫は不思議な猫だから」
 みんなうなずいた。
 彼がウイスキーグラスをだした。
 「僕が持ってきた酒だ」
 外科医が栓をあけ酒をけグラスに注いだ。
 彫刻家がグラスを持ち上げた。
 彼もグラスを手にして香りをかいだ。
 「いい香だ」
 口に含むとふーっと香りが鼻と咽に広がった。
 「うまい酒だね」
 彫刻家はウイスキーのビンを手にとって驚きの声を上げた。
 「三十六年のグレンユーリーロイヤルだ」
 このウイスキーの蒸留所はずいぶん昔に閉鎖され、もうほとんど出回っていない幻に近い酒である。しかも三十六年物である。香りのデパートと評したウイスキーの解説者もいるほど、香りの芳醇さでは他の酒に負けない。
 「次の雑誌はいつだすつもりだい」
 同人誌の「紅い猫」は年に一度発行している。彼が編集局をつとめ、装丁は彫刻家、予算や配本は外科医が受け持っていた。幻想小説の愛好家からは注目されていて毎号千部ほどはけていく。彼らもたまに小説を載せている。
 「八号を十月をめどに出したいと思うのだがどうだろう」
 「いいのじゃないかな、今度は僕も書いたのを出そうと思っている。空想科学小説だけどね」と外科医はウイスキーを口に含んだ。
 「僕も書かせもらっていいですか」
 珍しく彫刻家が身をのりだした。
 「ほーそりゃ楽しみだ。もうできているの」
 「ユーモア小説かな、スプラッタ、いや、癒し系の小説といったほうがいいかもしれないのだけれど」
 「僕も書くよ、初めての試みで時代物にしたい」
 二人が彼を見た。
 「それも珍しいね」
 外科医と彫刻家がそううなずいた。
 「そういえばね、玄関のところの水晶は、小学生が見つけたものなのだけど、掘り出すのを手伝った人が僕の患者で、落語を書いているそうなんだ。読ませてもらったら、面白いんだな、この同人誌に載せるのも一興かと思うんだがどうだろう」
 「君がそう思うなら、いつか載せようよ、面白いかもしれない」
 「山梨の市役所に勤めていたのだけれどもう定年退職していて、落語が趣味だそうだ。玄関の水晶を譲ってくれたのもその人なのだ」
 「縁があるな」
 夜遅くまで話に花を咲かせ、あくる日、彼らは帰っていった。
 
 そんなことがあって、半月ほどした頃に、彼は青森に行こうという気になった。
 新幹線が青森まで開通し、新たな高速車両が投入され、東京から三時間十分で着く。
 彼は平日を選んで東京駅に行った。新たな緑色の蛇のような新幹線は人気があると見え、その場では切符を購入することはできなかった。
 しかし、普通の新幹線でも四時間ほどでついてしまう。
 新幹線の中は平日にも関わらずに少しばかり混雑していた。
 新幹線を降り、在来線にのって青森の町に降り立つと、昔の駅の面影はなくもないが、近代化された設備はやはり今の時代を感じさせるものとなっている。
 駅の案内所で近くのホテルをとった。
 昔自分が住んでいた家の記録がなく、町名くらいしか覚えていない。ここに来る前に当時ここの高校のアルバイトを紹介してくれたサークルの先輩であった彼女の住所を大学に聞きに行ったが分からなかった。演劇のサークルはまだあったがそこにあったOBやOGの住所録は昔のままで今のものではなかった。
 彼はホテルを出ると高校に向かった。高校は今では受験校として知られている有名校である。校舎は当然のことながら建て替えられ、コンクリート作りの立派なものとなっていた。高校までは歩いて通ったので、なんとなく路を覚えている。住んでいた家と高校までの途中に不動産屋があったはずなので、うろ覚えの道をたどり、とりあえず不動産屋を探した。不動産屋の名前は覚えていたのでホテルの電話帳で調べたら今もあった。電話をかければすぐに場所を教えてもらえたであろうが、なんとなく、気後れがして、自分で探すことにしたのだ。分からなかったら電話をしようと思い電話番号は控えておいた。
 不動産屋は難無く見つかった。三階建てのコンクリートのビルになっていて昔の面影は無い。入口から中を覗いてみると、中年の男性が机の前で本を読んでいる。
 「ごめんください」
 彼は中に入った。
 男が顔を上げた。あの時の不動産屋の主人に似ている。
 彼は自分を名乗り、当時のことを話した。男は愛想よくそれは自分の親父で、もう他界しているがよく話を聞かされたと言った。高校の英語の教師だった彼のことも聞かされていたということだった。彼の住んでいた家のところは、今ではその不動産屋が建てたアパートがあるということで、地図で場所を教えてもらった。それに、彼が住んでいた家の前の持ち主である老人の墓の場所も教わった。彼が青森を離れてから、老人は飼い猫とともに川のふちで白骨になった状態で見つかったのである。彼は青森から帰る時、墓に寄って行こうと思った。
 彼はすっかり変わってしまった町を教わったとおりに歩いていくと、瀟洒なレンガ造りの二階建てのアパートが見つかった。おそらく十世帯にも満たないであろうこぢんまりとした今風の建物である。アパートに隣接して小さな公園があった。ちょっとした砂場とブランコが備え付けられている。
 彼は公園に入るとベンチに腰掛けた。
 目の先のアパートのフェンスの前に大きな椿の木があった。あまり大きくてすぐには椿の木と分からなかったのである。ちょうど昔の家の庭の際に位置するのではないだろうか。
 彼は椿の木のところに行ってみた。確かにあの家にあった椿である。
 椿とフェンスの間から、すーっと冷たい風が彼の顔に吹きかかった。椿の下の土がざわざわ動いている。冷たい風はそこから湧いてきていた。からだがぞくっとした。ふーっと、からだの感覚があの時と同じになった。雪が降り積もり白い猫になった黒い猫をを見たときである。
 彼は椿の枝を折るとそこを掘った。中からきらっと光るものがでてきた。土は柔らかくあっという間にそれは顔を出した。
 彼がとり出したものは透き通った氷の塊であった。
 氷の中に黒い猫はもういなかった。
 
(「黒い猫」所収、自費出版 2015年 33部 一粒書房) 

黒い猫

黒い猫

黒猫の幻想小説(序章)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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