*星空文庫

黒猫探偵事務所2

ビターチョコレート 作

  1. 第一章 エルモ・アハデー
  2. カミーエ・ロジェス
  3. スーエ・ドラー
  4. 第二章 朱鷺島邸
  5. フラン・ヴィルヘルム・カルペラン
  6. 第三章 青柳猫太郎の過去
  7. 青柳猫太郎
  8. 第四章 お騒がせフランとその仲間たち
  9. 月宮響子
  10. 第五章 茶色い煉瓦塀の少年
  11. 黒猫軍団

朱鷺島レイ(レイヨ・マティアス・朱鷺島)26歳 千里眼のオッドアイを持つ探偵
ビアンカ・椿・ベルッティ 22歳 朱鷺島の恋人。助手
青柳猫太郎 57歳 植物研究者。宇治木邸を間借りしている
花河春紀 25歳 夢見・夢食い修行中でハハリのもとにいる
サロモン・ハハリ 不明 夢見・夢食い師の老人
エルモ・アハデー 23歳 前世持ちで民族靴職人の男(エルン・シェルケン)
カミーエ・ロジェス 45歳 前世持ちの女性(ジェリデア・ドマイネン)
スーエ・ドラー 21歳 前世持ちでカミーエの子供(ティマ・ドマイネン)
フラン・ヴィルヘルム・カルペラン 25歳 睡眠研究者 朱鷺島の大学時代の後輩
月宮響子 24歳 朱鷺島邸の隣家三姉妹の一人 演奏家

※本作は内容の一部にグロテスク・残虐性が含まれる部分がございます。ご注意ください。

第一章 エルモ・アハデー

 今宵、青年エルモは古城のある広大な森林に来ていた。青い月を湛える湖の横にいる。
 湖畔の大きな木の下には、三百年前の王朝の王女と貴族女性の墓石がひっそりと立てられている。
 静かな青灰色の石の据えられたそこから見渡す湖面には月と共に数多の星が粒子の如く広がる。
 エルモは手に自身で花の刺繍を刺し作った民族靴を携えている。それを墓標の前に置き、花を置いた。
「ここなら静かに眠れるだろう」
 エルモが呟くと、背後の湖を振り返った。実に穏やかだ。湖面は凪ぎ、涼しい。時々森の野生動物の鳴き声が静かに聴こえる。
 蒼い夜だった。
 エルモが再び街に戻り夜を過すようになっても、湖畔の墓石に墓参りをしてからは、八年間もの間苦しめられてきた不可解な城での悪夢を見る事は一切なくなった。
 三百年前に滅んだドマイネン王朝。気違いの暴虐王のもとで城で殺戮が行われ、その異常な王は処刑された。
 王妃も城に仕えた貴族の娘も兵士も狂った王の餌食にされ、三百年の年を経て王妃と貴族の娘の白骨が塔から発見され、この湖の畔へと安置されたのだ。王子は王妃の故郷へ連れて行かれたのだが、五歳の年齢で病となって魂が漂うこととなった。
 エルモの前世が貴族の娘、エルン・シェルケンだったのだ。彼は子供の頃から夜にエルンの夢との二重生活を続けていたが、不良少年になって問題を起こした少年時代、監獄のなかでエルンの悪夢を見始めた。それは、三百年の時を経て遥か遠くの土地にある森林の古城の持ち主が出来たからでもあった。その城の新たな持ち主こそは王妃ジェリデア・ドマイネンの前世を持つ女性で、幼くして王妃と生き別れて病に倒れた王子の魂から夢を伝って城へと誘われたカミーエ・ロジェスだった。
 王子の魂の目的はカミーエに城に来させ、塔に人知れず眠る王妃と貴族の娘の亡骸を安置させることにあった。
 カミーエ自身には前世の記憶は無い。ただ、離婚した後に五歳のころに生き別れた子供に似た王子の絵画を見つけてからその少年が夢に現われ、城に引き寄せられた。そして、城を訪れた朱鷺島の手によって遺骨が葬られると、少年は彼女の夢からも去って行った。
 エルモとカミーエが直接会うことも、カミーエの前世が王妃であったことも知らせることは無かった。

 ―――一年後。
 エルモが普段のように靴職人のアトリエで作業に取り掛かっていると、今日も夢食い師の森から日本人青年で夢食い見習い師の花河春紀が訪れた。よく夢食い師サロモン・ハハリの小屋の横で育てる花を持ってやってくる。元々花河は花の卸売りをしていた花の専門家で、前世の影響で見かけによらず花と刺繍好きのエルモのもとに見本となる花を持ってきてくれた。
「じいさんの様子はどうだ」
「ああ。元気だよ」
 まだフィンランド語は勉強の最中だが、短い会話や基本的な会話なら話せるようになってきている。いろいろな単語も日々覚え続けている。出来るだけ語学の勉強にもなるので話しに来るのだ。
「花を台に置くよ」
「ああ。いつも感謝する」
「うん」
 ベルベットの生地に絹糸で花の刺繍を施しているエルモは、見た目は銀水色に染めた短髪に、両手の甲に北欧神話の女神を彫って耳や唇や鼻、眉毛に銀のピアスをたくさん嵌めている。美形だがどう見ても粗野な輩にしか見えないので、それが器用な手元で可愛らしい刺繍を施し、ビロードやシルクのフラットシューズを作っているのでその対比が見慣れ無すぎる。
「最近はブーツや部屋履きも作りたいと思ってる。俺も靴職人になってまだ四年目だが、客も着いて来たし、冬にも履ける靴や部屋履きも欲しいって客が言って来てるからな。今夜あたり、女一人紹介してやるか。俺の客で近くの酒場にも呑みに来る」
「うん。いいね。花が好きな女性?」
「まあ、女だからな」
 エルモは針を休めると顔を上げた。花河は花瓶に花を生けている。
「お前、日本には戻らないのか」
「うん。しばらくは」
「へえ」
 花河が好意を寄せていた美少女ビアンカと離れて一年だが、女でも作れと言うといつも花河は顔を染めて断ってくる。ビアンカばかり見ていても仕方が無いものを。あの眼帯男とどう見てもビアンカは恋人同士だった。
「まあ、その客に男がいるかは分からないがな」
 夕方にエルモがハハリじいさんの様子をみがてら、花河を酒場に連れ出しに来た。よくエルモは口に出さないが世話になった老人ハハリを心配して様子を見に来る。そういう義理堅いところがエルモにはあった。ハハリはそれを分かっているので、まるで一人孫が増えたかのようにエルモをそれとなくあたたかく出迎えて小話をするのだった。
 エルモと花河は酒場へ行くことになり、森を歩いていく。
「お前が帰ったあとに客の女、シェールって名前だが彼女が来た。一人紹介したい男がいるとか言ってたから、お前今回も撃沈かもな。恋人作り」
 花河は耳を真っ赤に口を閉ざした。
 酒場に来ると、さっそく少女が席にいて、横には青年がいた。
「エルモちゃん!」
 少女、エルモの客でエルモと同年代ぐらいだろう例のシェールが立ち上がって手を振ってきた。
 二人も歩いていく。
「よう。こいつがいつもモチーフの花届けてくれる日本人のハルキだ」
「よろしく。靴、気に入ってるのよ。いつも綺麗な花が花瓶に飾られているものね。会えてうれしいわ。この人はスーエ・ドラー。エルモちゃんの靴に興味を持ってこの街に来たの。私の履く靴を見て声をかけてきたのよ。ね? スーエ」
「うん」
 スーエという青年は、花河系なのか照れて微笑みもじもじとしている。さらさらの金髪から丸い瞳がちらちらと見えていて、恥ずかしそうに俯いた。
「恥ずかしがりみたいでね。出会ったのは二ヶ月前なんだけど、慣れれば少しは話すのよ。ほら、エルモちゃんに聞いてみなさいよ」
「あ、あの、」
 スーエはしゃんと背を伸ばして言った。
「この民族靴、なんで作れるんですか?」
 スーエは一気に言ってから、呼吸を早くして胸を押さえている。こいつ大丈夫だろうかと思いながらもエルモはシェールを見た。
「はじめは凄く驚いてたのよ。まるで靴にしがみつくんじゃないかって思ったぐらい靴マニアみたい」
「僕の夢に出てくるんです」
「え?」
 花河と、次にエルモがまじまじとスーエを見た。それで、顔にかぶさる前髪をエルモがばっと手で退かした。まじまじと見ているうちに、エルモはうっと口を押さえて手洗いに走って行ってしまった。
 花河は息を呑んでその方向からスーエを見た。
「何。エルモちゃん空気で酔っ払う年齢になったの?」
 シェールが肩越しに背後を振り返りながら言い、花河とスーエを見た。
 花河はシェールの顔が確実にエルモの悪夢で悲惨な目にあわされていた王妃と似ていることで、エルモが惨劇を思い出して体調が悪くなったのが分かっているので、フィンランド語もまだあまり分からないうちからどうすればいいのか分からなかった。自分に向けられた言葉は雰囲気で内容は理解できるし、単語や文法も覚え始めて一年だから以前よりも分かることも多いのだが、シェールのような早口や、エルモのように癖の強い喋り方はまだ理解しにくい言語として捉えていた。
 エルモが戻ってくると、スーエを他の席に呼び出した。花河は女の子と二人きりになり、はにかんだ。
「日本人ってシャイなのね。スーエもシャイだけど。今度、あなたの育てる花畑に行ってみてもいいでしょ? 興味があるの。綺麗な花って大好きよ!」
「うん。いろいろと紹介するよ」
「ふふ。フィンランド語上手」
 シェールはうれしそうに微笑み、ドリンクを飲んだ。花河もミルクを飲む。
「ドマイネンを知っているのか?」
 エルモはスーエに言った。
「いや……あまりよく分からないんですけど、僕の夢に現われて一緒にいつも遊んでくれるお姉さんがいるんです。膝まで長い金髪の美しい女性で、彼女が僕に靴と同じ花の刺繍のポーチをくれたりするんです。彼女もいつも明るい庭で花の刺繍をしていて、自分のお姉さんにあげるのだ、と言っていました。彼女自身も自分で刺繍した花の靴を履いていて、いつでも僕の頭を撫でてくれる優しいお姉さんなんです」
「それでか」
「はい。この夢は八年前からみ始めたもので、なんというか、僕、小さな頃に両親が離婚して母と生き別れたから女の人の優しさがすごくうれしくて、父にもそのことを言ったことは無いんですが、男手一人で僕を育ててくれているわけだし、父も仕事で忙しい人だし」
 エルモはしばらくスーエの顔を見ていた。
「え、」
 スーエは驚いて痩身だが強面のエルモに驚いて、慌てふためいてあたふたとポケットからハンカチを出した。
「え?」
 エルモが怪訝にスーエを見ると、ぽたりと自分の前のテーブルに涙が落ちてエルモ自身が驚いた。
 きっとスーエがあの幼い王子だったのだろう、今の照れたり笑ったりする元気な姿を見れて、心底安心したのだ。あんなに毎日おぞましい男に苛められて泣き喚いて血まみれになって逃げ惑っていたのだ。悪夢の連続だったのだから。自分が感じていた以上に小さな胸は恐怖に潰れ押しつぶされ続けていたことだろう。
「いや、何でも無い。そうか。夢で見ていたんだな。俺もだ」
「え? エルモちゃんも?」
 友達のシェールがエルモちゃんというのでスーエもそれが身についてしまっていた。
「ああ。まあ、俺は夢では金髪女で刺繍の靴履いてたんだが」
 スーエは驚いた顔をしてまじまじとエルモのピアス塗れの細面を見た。恐い顔をしているのは、切り抜かれたような鋭い目と、鋭い鼻筋と、吊りあがった眉毛と、稀に牙が覗く口元全て恐い作りで、まるで彫刻のようだ。
「え、もしかして、夢の共有みたいなものですか?」
「いわゆる」
 エルモは声を潜めてから言った。
「前世の記憶っていうものらしい」
 スーエに辛い記憶が夢には無かったようで安心した。話によれば幼い王子の魂も浮かばれたというので、これからもスーエは悪夢は見ないですむだろう。
「前世って、よく言われている生まれる前の人間の記憶ということですか?」
「ああ」
 ハハリから聞いたカミーエという女性のことを考えた。きっと、スーエは離婚して幼い子供と離れ離れになったというカミーエの子供だろう。
 自分が刺繍の靴を作り続けている理由。それは夢の消化であって、あの夢の女の昇華であって、そして今カミーエとスーエを引き合わせるための糸となり紡がれてきた気がした。幼い年齢で生き別れたのを寂しがっているとハハリは言っていた。エルモも気に留めていたのだ。直接カミーエに会うことは避けていたのだが。
 エルモ自身の夢には王子に刺繍を見せていた内容こそは無かったが、あまりにスーエがうれしそうに話すので彼に言った。
「小物入れぐらいなら作れるから、お前にも何か作ってやるか」
「本当ですか!」
 スーエが笑顔になり、エルモは頷いた。
「やはり夢のなかの女性みたいに器用なんですね」
「まあ、ガキ時代から見ててその頃からいろいろ作ってたからな。見よう見まねでもあったが」
 ふと花河とシェールの方を見ると、彼らもこちらを見ている。花河に関しては心配そうな目で見ていた。
「戻るか。また店に来ればいい」
「はい」
 カミーエが遠く離れた森の古城に住んでいるらしいことを、スーエに伝えるべきかをエルモは悩んでいた。どういう経緯で離婚の形が成り立っているのかが分からないし、もしも子供に会うことを剥奪されているのなら他人の自分には何も出来ない。だが、エルモの道理的に子供が親に会えないなんて辛すぎると思っていた。しかも相手は生きているのだ。エルモ自身の本当の親が分からずに会った事が無く、育ての父親も情報を掴めずにいると言っている以上、何か法律や事情あっての絆の剥奪ははがゆい。同じ男親に育てられたよしみもあって親近感もあった。
 一度ハハリに詳しい事情を聞いてみることにしたほうがよさそうだ。
「しばらくはこの町にいることは出来るのか」
「はい。大丈夫です。部屋もシェールの所に泊めてもらってるんです」
「そうか」
「何か二人で深刻に話し合ってたわね。もしかしてハルキと私を二人っきりにしてくれてたの?」
「え!」
 花河は真っ赤になってシェールを見た。
「あら、ハルキったら、今まで付き合ったことが無いわけじゃないんでしょ?」
「そ、それは彼女がいたこともあるけど」
 こんなに美人な女の子に言い寄られてはそれは照れてしまう。花河は今まで落ち着き払った女性ばかりが彼女だった。押しの強い女性は初めてだ。
「ま、そろそろ部屋に行ってくつろぎましょう」
 彼らは揃って近場のシェールの部屋に行くと、酒を追加で飲んでシェールは心地よさ気に眠った。
「スーエがあの子の?」
 花河は驚いて眠りこけているスーエを見た。詳しい事情を聞こうにもハハリは眠っている時間だし、靴の刺繍が引き寄せたこの巡り会わせに運命を感じた。
「俺はあいつを秘密裏でもカミーエって女に会わせてもいいと思ってる」
「カミーエ夫人か……変わった人だけれど」
 ハハリはその辺りは何も言っていなかったが、カミーエは変わり者だ。それが原因で離婚に至ったのだが、それも子供を守るための父親の判断だった。大人になった今、事情も分からないエルモなので、危険の意味がどう出るのかが分からない。
「凶暴なのか?」
「いや、サディストの世界が好きみたいで」
「サディスト?」
 王妃を思い浮かべる。もしかして前世の悪しき者からの影響が被害者であった王妃の現世にも悪影響を及ぼしているのだろうか。
「第一、あの傲慢な糞王は今のこの世にはいないんだろうな」
「わからないよ。出会いたくなんか無いし関わり合いたくないけどね。少し夢を見た僕でも」
 感情に関してのフィンランド語は夢見や夢食いの仕事の都合上、特に辞書で調べているので花河が感じた悪夢への胸糞悪さや恐怖もその言葉に表れていた。分かる。
「変に夫人とあの子を会わせて、過去がおかしな状況で戻ったらと思うと僕は恐いかな。古城にはエルモだって近付きたくないんだろう」
「ああ」
「うーん」
 スーエの寝言が聞こえ、そちらを見る。
「綺麗な花……ありがとう」
 夢を見ているのだと分かった。花河は、眠っている相手に触るのはまだしないようにしている。夢を半端に奪うわけにはいかないし、力を抑えコントロールする修行もしている段階だ。
 寝言の続く夜は更けていく。

カミーエ・ロジェス

 世話になったハハリ老人から電話を受けた。
 カミーエは事情を聞くと、ソファから立ち上がって即刻黒紫のドレスの上に黒シルクのロングコートとサングラス、つばの広い帽子を被ってハイヒールを響かせ歩いて行った。ハンドバッグにはルージュとセスナのキー。
「カミーエ。出かけるのかい」
「ええ」
 スーエに会いに、とは言わなかった。もし前夫に知らされたら全ての権利を剥奪されるかもしれない。それが恐い。真面目な前夫はカミーエを恐れているのだ。甘美なる蜜の時間に及ぼされるサディスティックな愛の行いを。一切残虐性などは無いのだとしても。前夫はそういった嗜虐を好まない性質なのだから仕方も無い。
 カミーエ自身、自分が何故そこまで拘束される肉体に美しさと儚さを感じるのかが分からないのだ。若い頃は思い悩みもしたが、マソキストの存在もいることを知り、自身の性癖を解放し柔らかなその束縛で愛を伝えられるのだと知り、それだけで充たされた。何故か感じていた強い震えを優しい拘束に塗り替えることで、その肉体を慈しみ愛することで癒されてきた。愛し愛される関係性あってこその甘やかなもの。
 それを向けるのはいつだってマソキストの男だったのだ。カミーエの拘束を欲する性癖のものにのみだった。
 セスナの所まで来て、高台から森を見渡した。崩れかけた塔は円柱のなかに陽が差し込み、薔薇の季節ではない今は青々とした濃い緑の葉が鋭い棘と共に城壁を蔦這う。こういう鋭い風情を見ると、早く薔薇の季節になってもらいたいと思う。この薫りと勢いのある品種では二季咲きの薔薇は見つかっても、四季咲きはなかなか見つけるのが大変だった。強い薫りを、城全てにはびこるかと思わせるほどの樹勢のよさを欲した。そうすれば、微かに感じるこの城の不気味さを甘い薔薇で払拭できる。幽霊の出るという城。あの子だったのだわ。夢に現われた子。
 あの子が薔薇の薫りに癒されたのなら、多く発見された城の白骨の者たちが癒されるのであればいくらでも薔薇を咲かせる。早く秋になってくれたら再び薔薇は咲く。
 スーエ自身は、会いたがっているのだろうか?
 セスナのキーを回して、カミーエは森林を一望した。一方的に会いたいと思うだけではいけないのだろうか。
 エンジンを掛ける。そして、滑走路の台を走らせ空に飛び立った。
 寂しがっている子供。辛い思いをさせたのかもしれない。あの夢に現われた城の王子は寂しげな声をしていた。子供は私の子供の魂なのだと言っていた。そして夢にも王子は現われなくなった。それでからは、寂しくて寂しくて仕方が無かった。
 今、スーエは二十一の年齢になったはず。しっかり前夫はスーエに食べさせているだろうし、大学にも通わせているはずだ。前夫との連絡さえ取っていないものの。それでも相手は自分が新しい夫と婚姻を結んだことは知っている。もし、今前夫に夢の話をしたら、理解してくれるのだろうか。不可解な嗜虐の意味は分からないけれど、何かがつかめそうなのだということを。
 空を飛ばす間も、航路をしっかり読みながらも常に考えていた。既に幼いスーエではなくなったのだろうスーエの姿を思い描きながら。

スーエ・ドラー

 「スーエ!」
 美女にがしっとしがみつかれてエルモはどビックリして目をまん丸にした。
「は、はあ?」
 ミラクル美女は痩身だが豊満な胸と腰周りに薔薇の薫る金髪をして、不覚にもエルモは鼻血を噴いてしまった。
「マ、ママ、」
 背後から声がしてカミーエはばっと振り返り花河に抱きついた。
「ママ!」
 カミーエはこのハハリ老人の小屋のなかを見回して、背の低い女の子? 男の子を見て、サングラスをマニキュアの指で下げると、みるみるとその瞳から涙があふれてその面影のある自分の子供を抱きしめた。
「スーエ、あの人に似て背が低いのね」
「うん……」
 百六十センチほどの背丈のスーエだが涙声になっていた。
「こんなに小さいままで!」
 いつものようにカミーエらしく茶化すが、既に声も涙に震えてメイクも何も真っ赤な顔は涙に埋もれている。スーエもぼろぼろ泣いて強く抱きしめた。スーエは母の性格はおぼろげにパワフルだったと覚えているものの、細かくは分からないし、それにいきなり離婚が決まってわけがわからなかったのだ。
「エルモちゃんがいたから会えたんだよ」
「エルモちゃん!」
 カミーエが今度は唯一女子のシェールに抱きついたので、しかもキスまで両頬に浴びせまくって賞賛し湛えているし、エルモは俺が俺がと手を挙げようとしたのを、ハハリが珍しく肩に俯いて震え笑った。
「わ、私はシェールです、元令嬢は今鼻血噴いてる男の人」
 よく分からなくて、カミーラは元令嬢という人に抱きつきに行かなかった。エルモはパチンと指を鳴らして悔しがった。令嬢どうのの話をしたばっかりに美女との接吻をシェールに阻まれた。シェールはくすくす悪戯に笑っている。
「ママ、古城を買ってそこで住んでるの?」
「ええ。素敵なところよ。坊やも弾け飛びそうなぐらい飛び跳ねるほど白骨が見つかったおどろおどろしい城だけれどね」
「え、ええーー」
 さすが、噂にたがわずぶっ飛んだ趣味があるようだ。父もカミーエは変わり者だとばかり言っていた。脳天がもしかしたら花畑なんじゃないのかしらんと。
「そのことについて、ママと一緒にスーエはハハリおじいさんにお話を聞こうと思うのよ」
 カミーエが帽子とサングラスを置き、やはりサングラスを取ると美女が8乗ぐらいだったのでエルモは心躍っている。シェールはエルモを狙っていたので、大人な女がいいのだと知って頬を膨らめた。エルモは気付いていない。むしろハルキをすすめてくる。ハルキも可愛いのだが。スーエにはもともと大学に可愛いロマンティックな彼女がいる。
 ハハリは椅子から立ち上がると、スーエの前に来た。スーエはただならぬ雰囲気の老人に緊張していたのだ。エルモからあらましは聞いてはいるのだが、詳しいことはまだ分からない。それは、カミーエも同様だった。
「もともと前世を見る能力があるわけでは無いが、カミーエ夫人の言っていた趣味嗜好への不安に関して、その原因を知りたいのだね。そのことで親子が離れ離れになる結果となったのだから」
「知りたいです」
 スーエが身を乗り出して言い、カミーエは俯いた。
「出来るだけ要約するが、恐い結果になることを心して準備して聞いてもらいたい」
「人はいずれ死を迎えるわ。私が大丈夫でも、スーエが心配だわね」
「僕もずっと寂しかった気持ちに押しつぶされそうになりながら生きてきたんです。聞きます。原因が前世にあったのなら知りたい。エルモちゃんとの関係も」
 ハハリはしばらくしてから頷き話し始めた。
「今、カミーエ夫人は夫妻でドマイネンの古城で生活をしているね。白骨や傷ついた武器も多く発見された幽霊城だ。それを知って購入し、夫人自身もスーエに似た少年の幽霊に導かれて十年前城にやってきた」
 スーエはカミーエの横顔を見ると、カミーエはスーエを微笑み見た。
「ここからが過去との因縁ともいうべきことだが、カミーエ夫人とスーエ、エルモはそれぞれは三百年前のドマイネンの城で生活していた王族や貴族の前世を持って生まれ、それが夢に現われていたということだ。カミーエ夫人は王妃、スーエは幼な王子、エルモは貴族令嬢として、その時代の暴虐王に苦しめられてきた」
「史実にあったあの処刑された王の妃が、私の前世だったですって……?」
 カミーエは眉を顰めて瞬きをした。
「そのドマイネンのゴビク二世は卑劣な性質で残虐の限りを尽くし、その事で王朝は滅びたわけだが、王子は王妃の故郷に逃れた後に魂となって漂っていた。そして悲劇の時代を越えて転生をした王妃の魂を持つカミーエを見つけ、王子の魂がスーエに宿って生まれた。そのことで、残虐の限りを尽くした王の性質は王妃の魂に深い傷として残り、別の方法での浄化を似た形で促したいために、夫人に残虐などでは無いサディストの愛を表し、過去の恐怖と哀しみを払拭する形を自然的にとったのだろうと思われる」
「それじゃあ、王妃も僕も令嬢も酷い目にあわされ続けて?」
「そういうことになる。安心しなさい。幼い王子は王朝滅亡後、王妃の故郷へ行った。あの恐怖の城から逃れた」
 スーエはそれを聞き、何度も深く頷いて胸に手を当てた。心臓がバクバクとしている。そんな酷い記憶は夢には無くて良かった。王子は自分のなかで輝く優しい記憶だけを胸にしているのだ。
「あなた、恐い夢は見るの?」
「見ないよ。お庭で遊んでいる夢だから」
「ママも恐い夢は見ないのよ。良かった」
 そして、カミーエは夢に現われなくなった少年を思って、スーエに再び会えたことによるよろこびで胸が一杯になる。
「ママ、サディストなの?」
「ああもう素敵なのよ? あの細い首筋に嵌める首輪も、黒光りする鎖の音も、革の手枷に引っ張られ着いて来る紳士もね可愛いの」
「あ、はあ……」
 スーエは何ともつかずに口端を上げママを見上げた。
「スーエ。ママに会ったことはあの人には内緒。絶対に気絶して目を回してしまうのが分かってるの。あの人、真面目一本だから」
「うん。分かってるよ。大丈夫。この旅行もバカンスで友達に会いに行くって言ってあるから」
「エルモちゃんとそれにお友達は誰なの?」
「私シェールです」
「エルモだ」
「この子が本当にお世話になったわ。いろいろな偶然が重なってうれしいの。シェール嬢が特徴的な靴を履いて行動してくれていたから繋がったのだもの。あなた、以前は城への招待のときはいなかったじゃない。ハハリさんのおっしゃる貴族令嬢の前世を持つ方なのでしょう」
「その時はまさか繋がりがある城だとは分かってなかったらしい」
 とにかく、カミーエとスーエがあんな凄惨でむごたらしい悪夢を見ていなかったことに心底安心した。エルモは鼻に突っ込んでいた綿花を出して項をとんとん叩いた。
 あの城の正常なときの夢は素晴らしい城で、今のこの美女がいればそれは様になることだろう。そう思うことで、記憶に残る城の情景を塗り替えることに努めた。

第二章 朱鷺島邸

 青柳は森で植物を観察していた。昆虫が今しがた種を運び込んで、糸で出来た巣に運んでいる。
 夏場も涼しい森は過しやすいが、陽が暮れると一気に冷え込むので、時間を考えて今日は緑の丘の林にある宇治木邸へ戻ることにした。
 森を抜け、丘を歩いていく。時々朱鷺島の飼う黒猫軍団や、森や山の動物、他の別荘で飼う猫などが出歩いているのを見かける。丘の続くゆるやかな高低さを歩くだけでも体力がつく。
 林の一番初めの左側にあるのが朱鷺島邸で、黒猫探偵事務所のある屋敷だ。今の時期も四季咲きの薔薇の種類のものは庭をちらほらと彩っている。そして、五棟ある別荘軍の一番奥の右側にあるのが今、管理がてらに間借りしている宇治木邸だ。どうやら家主が事件を引き起こして空家同然になっているらしいが、彼らの姪っ子も管理に時々訪れるし、第一別荘地なのでその時期も過ぎると、朱鷺島邸以外は冬場は特に四棟とも人は引き払って人里へ行き、雪の積もる時期は朱鷺島だけが雪原に閉じこもってきたようだ。そんな深い雪の時期にさえ依頼にくるものは来るようなのだが。朱鷺島も地下に貯蔵庫があるので、余裕で過すことが出来るわけだ。ある程度の故障の修理も自分で出来るし、元がフィンランドで生きてきた朱鷺島なので、雪や森での生活には慣れている。
 青柳は森で摘んできた薬草を持って、朱鷺島邸の門をくぐっていった。
 どの屋敷にも地下駐車場があるのだが、客人があればその地下に車が停まっている。今は分からなかった。朱鷺島のあのレトロな黒のマセラーティと大型バイクのロイヤルエンフィールドと芝刈り機などの造園に使うものだけかもしれない。この頃は実家から椿が持ってきた一輪車と、彼女が草原できゃあきゃあ叫びながら朱鷺島と練習をしている自転車が加わっているのだが。
 この探偵事務所は山を越えて車でやってこなければ遠い場所だった。
「どうしてですか!」
 青柳は玄関まで来て、声に驚いてその方向を見た。
 若い男の声がする。
 扉からどたどたと音がして、そして階段を降りてくる荒々しい音もする。いきなり扉が開けられ、青柳は身を引いた。
 怒った顔の蒼い目で金髪の白人青年が青柳に一度視線を落として、身体を返して階段から降りてきた朱鷺島を睨みつけた。
「僕は認めませんよ。先輩について行くってずっと思ってたんですから!」
「駄目だ。何度言っても」
 青年は地団太を踏み、きびすを返してずかずか歩いて行った。
「何者だね」
 玄関まで来た朱鷺島に尋ねるうちにも、地下からバイクと音が飛び出してとろとろとろとろという音を響かせて黒のハーレーダビッドソンが去って行った。
「大学時代の後輩です。彼も能力に興味を持っていましてね。睡眠についての心理学を研究していたのですが、西洋の千里眼と魔術的な見解の方面に強い興味を持って、何かと将来は探偵事務所を開きたがっている僕の助手になりたいと言って来ていたんですが、なにしろ落ち着きが無いし起伏が激しいし、見ての通り怒るとああなんです」
 ここからも丘の様子が見えるのだが、バイクで豪い転がり滑っていってもう駄々をこねた子供のようにじたばた手腕を動かして起き上がっては空を蹴り散らして叫んででもいるのか、酷い癇癪だ。
「あれじゃあ探偵は不向きです。逆に警察に連行されますよ」
「もう帰られたのですか……?」
 隠れていた椿が角から顔を出した。
「隠れていて正解だよ。彼は女の子に目が無いんだ。酒にも目が無いからね」
 またとろとろとろとろとバイクの音が近付いてきて、門の前に大型を止めると椿を角に隠した。かんかんに怒った青年がやってくる。
「僕は日本語だって覚えましたし、この通り通じるでしょう! 僕もいろいろな人間の心理を知りたいんです!」
「君は人を実験者や研究材料としか見ないじゃないか」
「そうです! 僕はここで研究をしたいんです!」
「他を当たってくれないか。悩みを抱えてくる人間は繊細なんだ」
「先輩の評価は下げません。僕はね、静かに一室を借りて静かに研究をして静かに先輩の仕事をする横について様子を伺ってそれでから先輩にどういうことを見たのかを聞くんですから」
「君にはそんな静かなことなど無理だろう。国の大学の研究室だって酒と美女のビデオと音楽カセットまみれだったじゃないか」
「それは僕の趣味です!」
 胸を張って言い、朱鷺島は後輩にうなだれた。
「いやもう困るんだよ。本当に、依頼者が君に恐怖を感じて叫んで逃げたらどうするんだ」
「僕は幽霊じゃないですよ。ここに研究室を作って先輩の友達いない」
「いるし」
「一人好きな性格も僕という緩衝材がいることで他四棟との仲も円滑に運べるというわけです。それに料理だって作ってあげますよ。可愛い女の子だって呼んできてあげます」
「だから本当に」
「………?」
 いきなり喧しい後輩が口を閉ざし、他はくすくすくす、という声だけが向こうから響いた。しまった。
「女の子だ!!」
 後輩が走って行ってしまい、朱鷺島は椿がこの女をめろめろにするカンテレ奏者でもあり、美形青年に惚れる前に後輩の背に飛び蹴りして倒れさせて行った。
「先輩! 女の子をどこから拾ってきたんですか、こんなに愛らしいお嬢さんを、婦人が嫉妬するんじゃないのですか」
「黒猫婦人のことだ」
「分かっています」
 既に椿はあはははと薄いお腹を抱えて笑っている。こういう種類の人間がいない閑静な場所だから、ものめずらしいモンスターを見ている気分なのだろう。青柳はすでにやれやれと呆れた顔で向こうに立っている。
「こんにちは。僕はフラン・ヴィルヘルム・カルペラン。マティアス先輩の可愛がっている後輩で、彼は僕を受け入れるために今精一杯心と闘ってくれているんだ」
「可愛がってはいたが事務所には招かないぞ」
「先輩!」
 もう朱鷺島はうんざりしてきてがっくりうなだれた。
「部屋は一室一室猫たちが使っていてもう空き部屋が……」
「どこに入れるんです?」
 こんな騒々しい青年がいられたらたまったものじゃない。まだ花河が時々椿に視線を送るのを見てきたほうがましだ。
「一緒にツーリングだってしましょうよ。楽しいですよ。森の路をたまに可愛い後輩と走らせるのも」
「無駄には走らせない主義なんだ」
「では倉庫にでも良いから置かせてください!!」
「なんだ……。女に追い出されでもしたのか」
「う……」
 どうやら図星だったようで、大学院も出れば女の部屋にでも転がり込んででもいたのだろう。それで浮気男に痺れをきらして追い出されたと。大学時代もそんな感じだった。
「私の借りている屋敷なら空きはあるが、借り物だからなあ」
「青柳さん、こいつがいると本当に心が休まらないんです。絶対に仕事の邪魔しかしてこない。興味津々のきらきらな目で依頼者を見てきて穴が空くほど見つめてくるはずです。根っからの研究者ですからね。物珍しい人材がいたときには仕事もそっちのけで根掘り葉掘り聞きまくって依頼者を遠ざけさせる」
「それもまた問題だな」
「どの部屋でもいいんです!」
 今度は青柳の方に行って、手を握ろうとするので青柳にささっと避けられていて後輩は「うああ」と泣きそぼった。
「まだ日本に来て三日目なのに先輩のこの冷遇。僕はハハリじいさんからようやくこの屋敷の場所を聞きだしてきたと思えばこの冷遇」
「も、もう分かったから一応食事だけでもしていけ」
 後輩の顔がぱっと明るくなってまたこっちにやってきた。
「じゃあ食べます!」
 後輩は夕飯も食べ終わると椿を誘惑がてらに片づけをして手持ちの酒を飲んでから勝手にソファで寝てしまった。
 朱鷺島は掛け布団をかけてやってからぐーすか眠る顔を見て軽く額をぺちっと叩いてやった。
「うーん」
 ただ唸って額をぽりぽり掻いてまた眠りに落ちて行っただけだったが。
「これじゃあカミーエ夫人に差し出したほうが良い人材だな」
「ふふ、彼女ならよろこびそうですね」
 くすくすと椿は笑い、空のカップやグラスを持って歩いて行った。
「椿さん」
 椿は振り返って、朱鷺島を見た。彼女は不安そうな朱鷺島の顔を見て、頬を染めてから微笑んだ。
「大丈夫です」
 そうにっこり微笑み、おじぎをして歩いて行った。
 朱鷺島はこの顔だけ美形でまともに研究をしてるときとカンテレ演奏の時だけなら女も惚れるこの後輩に多少嫉妬して目を伏せ気味にした。
 朱鷺島はりりりという電話の音に、ソファから離れて電話の受話器を手にした。
「朱鷺島さん」
「花河くん。やあ、元気かい」
「はい。おかげさまで修行もすすんでいます」
「それは良かった。それで、どうしたんだい。一体、花河くんからかけてくるなんて珍しいね」
「実は、カミーエ夫人のお子さんが彼女に会いに来たんです。やはり同じく前世持ちだったようで、夢でエルモさんの前世の女性と和やかに遊ぶ夢を見ていたのを、彼の作る靴を履く女性と友人になって、この町のエルモさんを訪ねてきたのだと。それで、エルモさんが僕らに言ってカミーエ夫人に会うことになったのです」
「それは本当に? 凄い偶然だ。彼女も寂しがっていたから会うことが出来たのは何よりだ」
「ええ。離婚したこともあって権利の関係があるらしく、秘密裏での再会ということになりましたが、もしかしたらこれからも会うかもしれませんね。カミーエ夫人も前世で受けたことをハハリさんから聞いて、自身のサディスティックな愛情に関してようやく理解できたようです。話によっては、離婚の理由にも繋がった前世のことを前夫とも話し合えば何かしら今の家族の形も良い方向に進むかもしれないとも」
「そうか。安心した。いろいろと大変な思いをしてきたんだ。家族としてしあわせになってもらいたいからな」
「ええ。そう思います」
 朱鷺島は肩にずっしりと体重がかかったのを、口を閉ざした。
「じゃあ、また何かあったら何でもいいから連絡を。君たちも大変だったね」
「はい。僕もハハリさんの役に立てるように頑張ります。夢に悩める人の役に立ちたいので。それでは、失礼します」
「ああ。知らせてくれてありがとう」
 朱鷺島は受話器を置き、目を伏せ気味に後輩を振り返った。
「先輩、他の人間になら夢の仕事の話してるんじゃないですか……」
 これは泣くぞ。大声で泣くぞ。いつものことだ。酒に酔うと。
「うわあああ!! 僕も研究したいんですよおおお!!」
 背も高いので馬鹿でかい声で泣き叫んで、大の大人が恥ずかしい。戻ってきた椿も完全にぽかーんとして見ている。

フラン・ヴィルヘルム・カルペラン

 朱鷺島のフィンランド時代の後輩、フランが何やらビーカーをじっと見ている。
 いや、空のビーカーだ。何も入っていない。空気、酸素しか入ってはいない。
「何を見ているんだ」
「空気です……この、空気を」
「は、はあ……?」
 わけわからん、と青柳は髪を拭きながら歩いていき、風呂上りの薬草茶を淹れた。
「猫太郎さん。僕は不思議なんです。どうやって夢が暴走するのか、脳の働きというもののどこでそれを見ているのかなど、実はあまりぱっとは分かってはいない世界なんですよ。こうやって空気に触れても夢というものは消えずに言葉伝いに、脳裏のなかに残っている。と思えば、曖昧な記憶というものは忘れたくても忘れられないものもあれば、忘れたくない大切なものを忘れてしまう前に何かにとどめたりする。しかし、空気のなかには留まらないんです。脳みそという媒体がないと。言葉と、他人の脳みそがないと」
「ああ」
 フランだけが猫太郎と青柳を呼んで来るが、好きにさせておいた。朱鷺島邸から連れ込んだ黒猫婦人はフィンランド時代からの顔なじみのようで、それを膝に乗せて可愛がりながら、空で空気しか入っていないビーカーを見ながら言っている。
「それはビーカーのなかとそこらの空気と違いはあるのかね」
「あります! こうやって僕の見た夢を念じて、このビーカーに集めてるんです。その夢の比重が重いのか、軽いのかも僕には分かっていないんです。重いから脳にしみこんで記憶として残っているのか、軽いから頭蓋骨のなかに留まっているのか。脳の働きは水分を伝って電気が起こしているものですからね。不思議なものです。水と電気があれば、記憶や夢さえもどこかに保存できるかもしれないのですから。パソコンなどの消費電力のかかるようなものではなく、極自然に作り出される水と電力と何がしかの箱に。だけれど、それを僕らは見ることが出来るのか、聞くのか、感じ取るのかは、またそこまでの経路に水と電流がなければならないんです。脳みそと脳みそを脳みそで繋げることなんかできませんからね。湿度のある電流空間にいれば人の記憶が伝わりあうのか、空間で人間自体がシナプス細胞のように情報が行き来できるのか、箱自体が人間になりうるのか。しかし、人間には結局は声と言葉があるので、湿度の高い電流の場所にいなくとも夢を伝えられるのです。へんなものだ、臓器というものは。水が記憶しているあらゆる物事なら植物は感じ取れる、物質は感じ取れるのに。人間は鈍感にして嫌になるほど複雑なんです。それも哀れなものなのかもしれない」
 フランがビーカーをじっと見ながら慎重に持ち上げると、いきなりふっと息をビーカーの内側に吹きかけた。
「こうやっても夢の残骸はこのなかには入っていなければ何も起きない。けれどもしも念じて残っているのなら、このなかに何かの物質を入れて変化を来たすかもしれない。そんなことが連鎖して空間の雰囲気や空気感は出来上がって、人にはオーラの色が変化して備わるのでしょうけれどね。悪い空気が溜まれば無条件に脳から発される空気感に淀んでしまって、悪夢を見ている人の室内は敏感な人には息苦しさを感じて、悪夢に魘される人を哀れに思うものです」
「君は何か悪夢を見るのかい」
「僕は……酔っ払ってだいたい眠るから覚えてないときは覚えてないですが、見る夢といえばいつも女の子を追い掛け回してる夢が多いですね。夢のなかでも失恋してそっぽむかれたり、ファンのアーティストの女の子といちゃいちゃできたり、もうそのままですよ。単純なんでしょうね」
「夢のなかでも忙しいものか」
「けど、恐い夢で忘れられないものはありました。メモは取っておきましたが、夢自体は少年時代にハハリじいさんに消してもらった。その夢のことがあって僕は睡眠というものに興味を持ち始めたんですが、おかげで夢を操れるようになって女の子の夢ばかり見れますよ。久しぶりにハハリじいさんに会いに行ったら僕が通う大学にじいさんの知り合いで能力者がいるから会って見るといいと言われて、それが大学でも有名だったマティアス先輩だったんですけど、それを知る前は人の心が読める瞳を持っていたことは知らなかったですから驚きましたよ。あまり人と関わろうとしないけど本気でハンサムで女子から大人気だし、手先が器用でなんでもできるから後輩からも慕われていて、それでもクールで笑顔が素敵だなんてきたら僕も憧れてたんです。いつも片方の目を黒髪で隠していて、その時代は眼帯は嵌めてなかったからオッドアイだとはみんな知っていても能力は知らなかった」
「そういう経緯で知り合ったのか」
「はじめは先輩だって僕が睡眠と夢の研究をしていることを知っていろいろと協力をしてくれ始めたんです。もとから何かと一部の人間から相談を受けている姿は見ていたのが、まさかオッドアイを使った依頼事だとははじめは知りませんでしたが、それを知ってからはさらに脳の働きに興味が出て、それで魔術系が関わるんじゃないかと思ってそっち方面も調べ始めまして。結局よく分からない。能力というものの生まれる経緯も脳の働きも分からないんです」
 ビーカーを透かして空間を見ているフランは言った。
「もし夢を溜めることができる人がいれば、この景色も変わってみえるのかもしれない。しかしコンピュータというのも不思議なものですね。画面に夢を具現化させた映像を映し出して、空間の前に映像を広げられるんですから。と思えば入力作業が無い限りは結局は脳には劣るんです。人の脳みその働きは不思議なものだ」
 ビーカーに飴玉だとか、粉砂糖だとかを入れ始めている。
「これを頭に降りかけて甘い夢でも見られたら面白いんですけれどね。猫太郎さんは夢を見るんですか?」
「最近の所はおぼろげだがな。たまに見る。あまり特出するべきものでは無い夢だが、楽しい夢を見られるならその方法を知りたいような気もする」
「ええ。ただ、夢はハハリじいさんもよく言っていますがお告げでもあるんです。それを全て僕のように楽しい夢に置き換えることが果たして本当に本人にとっていいことなのかは分からない。夢からのシグナルがその楽しい夢にも紛れ込んでいるかもしれないけれど、楽しい夢を見る分僕はあまり悩まないようになった」
「人によってはそれも良いのかもしれないが、疲れないのかい」
「楽しいですからね。大丈夫です。なかには毎日長時間の夢を見て寝ても覚めても疲れきっている人もいれば、夢を大事に思ってみている人もいるし、物語りめいた長い夢と現実との境目が時々分からずに、夢での会話だったのか、現実での会話だったのか見分けがつかなくなる人もいる。楽しい夢ばかりを見られるわけではなく、恐い夢も、重要な夢も、大切な夢も、悲しい夢も、面白い夢も、なんでも見るのが人ですからね。どれが一番いいのかなんて、僕には分かりません。とにかく、人に快適な睡眠を促してあげるための研究が僕のモットーであって、その心理変化を知りたいと思っているんです」
 フランのように良い夢だけみられるようにコントロール出来るようになるというのも奇異な話でもある。青柳はそんな特技もこの世にはあるのかと思って聞いていた。
「僕のモデル友達に夢に悩んでる子がいて、ついに神経症になってしまった子がいるんです。その子には夢をコントロールする方法を始めて教えてあげて、少しずつ悪い夢を見なくなったらしいですけれど、それが本当に良いことかは分からないから、いつでもその方法をやめてもいいとは言ったんです。モデルやっていても痩せてる子だったけど最近は少しは健康的な肉体になって仕事の幅も増えたと喜んでいるから、今の所はいいのかなと思います」
 ビーカーに詰まった飴を食べてフランは微笑んだ。
「夢の念力が入った飴は美味しい!」
「ふ、全く適当なことを言って」
「まあ、一種の暗示みたいなものかもしれないですね。気分によって味はいくらでも変わってしまうのが人間の脳と味覚です。美味しいと思って食べると美味しい、夢美味しいというものです」
「ハハ」
「脳内のセロトニン物質が関係しているのでしょうから、良い夢を見ているときもセロトニンが発生しているともいえます。美味しいと思う気持ちとしあわせだと思う気持ちで。夢に振り掛けるセロトニンパウダーでもあればいいんですけどね」
 フランは猫太郎の方を見て、訪ねた。
「猫太郎さんは触られたら考えていることが人に知られると言っていましたね」
「ああ」
「何かすすんで楽しいことをしたりはするんですか?」
「映画などを観たりはするかな。他は喜劇を観にいくこともある。だから、君の話を聞いていると楽しいよ」
「ふふ。うれしいです。こんな僕でも役に立てるなんて」
 フランは微笑みまた話し疲れて、うとうとして眠り始めた。またソファで適当に眠るので布団を掛けてやった。青柳は自室へ戻って行った。

第三章 青柳猫太郎の過去

 小さな猫太郎がいつものように庭で遊んでいると、何かの声が聞こえてふと振り向き立ち上がった。
「?」
 芝生の上に散らばった色とりどりのおもちゃの一つを手に持ったまま、猫太郎は茂みへと歩いていく。よく手入れのされた庭は緑があふれ、猫太郎のかっこうの遊び場だった。
「ねこ?」
 猫太郎は茂みの前でしゃがんで、頭を胴体ごと傾けて枝垂れる葉の下をのぞき見た。
「!」
 猫太郎は驚いて尻餅をついた。途端に口を塞がれて黒い服に手袋の不気味な男に連れ去られた。猫太郎は暴れるが口を覆われて声が出なかった。
 そのまま垣根を越えて、地面の四角い扉が開けられて階段を降りていく。どんどん暗くなっていき猫太郎は恐くて必死に暴れた。地下に来ると重い鉄ドアの狭い部屋に来て鍵を掛けられた。
 そこには台が設えられ、真っ黒いペンキで塗りたくられた壁には不気味な幕が掛けられていた。それは悪魔崇拝のバフォメットであり、黒い台には五芒星が黒く変色した血で呪文と共に描かれ、黒い蝋燭が立てられていた。そして、その五芒星の中心にはミイラ化した頭が五つも積み上げられていた。
 猫太郎は男から暴れて降り立ち、ドアまで走って泣き叫びながらどんどんとドアを叩いた。だが猫太郎は襟を持って戻されてしまう。口にくつわを噛まされ椅子に拘束され動けない。
 視線だけできょろつくと、黒い壁につけられた棚には薬瓶や武器が置かれている。そして、猫太郎は並べられたミイラ化する腕や足を見て首を横にぶんぶん振った。
 男が言う。
「お前は今日から我らが悪魔崇拝の媒体神となってもらう」
 不気味に男が笑う。何のことなのか猫太郎には分からなくて、ただただあのミイラを見て泣いていた。男が動くごとに恐怖で目を硬く閉じた。だが男は無理やり目を開けさせてくる。黒い皮のグローブなので薄い瞼が否がおうにも簡単に開けられてしまう。
「暴れられては知られてしまうな。毎日儀式の終わった後に薬を飲ませて忘れさせなければならないが、まあ良い。お前は媒体神となるのだから、邪悪をその身という箱に入れ続けるのだ」
 その日から、男は悪魔崇拝の邪悪な儀式の目撃者を猫太郎として恐怖を植えつけ続け、血肉を無理やりその媒体神に食わせ邪悪神に近づけさせるために儀式を続けた。それも終われば薬を飲ませ記憶を飛ばし、おぼろげな猫太郎を再び庭に戻した。
 猫太郎は昼の間は庭で一人遊びをしているので、誰も気付くことは無かった。
 毎日のように連れ去られる恐怖と儀式の恐怖の記憶を消されては埋め込まれ続け、悪魔月と呼ばれる数ヶ月が過ぎた最後の日、猫太郎は今まで見てきた男の最期に立ち会わざるを得なくなった。男は猫太郎に短剣を持たせた。そして、俺の血を最後に媒体神として儀式の祭壇に上げてその肉を食らえと言った。
 猫太郎は叫んで逃げ惑い、今まで食わされてきた誰かの死体の記憶も相まって恐怖の底に突き落とされた。短剣を持たせて儀式に捧げろと言って来る男、逃げ惑う猫太郎。男は既に異常な目をぎらつかせている。異常な笑みを浮かべて自分が猫太郎によって儀式にあげられることを欲している。鋭く蝋燭に光る短剣を持たせてくる手は皮手袋が嵌められ離れない。猫太郎は男の脛を蹴りつけていた。男が一瞬ひるんで猫太郎は逃げた。だがまた狭い室内を追ってくる。
「媒体神様、バフォメット様!!」
 狭い空間に男の声が響き渡り追いかけてくる。猫太郎は手についたものを何でも投げつけ逃げた。
「お待ちください!!」
 男の声がどんどん濁っていき、そして台の後ろに隠れた猫太郎に飛びかかろうと、反動で台に飛びついたときに声が聞こえた。猫太郎は静かになったので、しばらくして顔を覗かせた。
 すると男が台にもたれかかっており、そして黒い台には血が広がっていた。男は目をぎらぎらさせたまま台に倒れ猫太郎を見ている。猫太郎はひいっと叫びその場に尻餅をついた。
「血を……肉を、」
 男はなおも一度叫び短剣を抜くと、男自身の肉を切り取って猫太郎の顔にバシッと叩き付けた。
 猫太郎は何かが外れたかのように発狂し、その場に男は崩れて見開かれたままの目はなおも猫太郎を見続け、動かなくなった。
 猫太郎は必死でドアに駆けつけてどんどんと叩き、必死に辺りを見回して椅子を引っ張ってようやく鍵を開けた。そして重い扉をうなりながら開けて、そして必死に閉めた。そして廊下に飛び出した。叫んだら男が追ってくる。そう思って喉の奥が痛くなりながら無我夢中で廊下を声を出さずに必死に走って階段を上がって行った。四角い扉を開けて、息せき切って垣根まで駆けつけた途端、もう体力も何も限界に来て自分の家の庭が垣根から見えた瞬間、その場に気絶した。
 しばらく猫太郎は気絶したままだった。
 そこに、近所の猫が現われて倒れた猫太郎を発見した。垣根を越えたところで眠っているのか、行き倒れているのか、猫は近付いていった。
 どこかに怪我をしているのか、顔に血がついていたので猫はその血を舐めて傷を探した。だがどこにも傷はなさそうだ。猫が綺麗に猫太郎の血を舐めてあげると、頭で猫太郎の頬を押して起こそうとした。だが、完全に眠っている。風にそよそよと髪をそよがせており、柔らかい頬は息をしているのですーすー動いている。
 猫はずっと猫太郎の横で一緒に眠ってあげながら頬を舐め続けてあげていた。
 しばらくすると、猫太郎は目を覚まして猫を見た。
「ねこ」
 猫太郎はにこっと笑って猫を抱き上げて、何故か垣根のところにいたので庭に戻って行った。
「あそぼ」
 猫太郎は猫と遊び始め、猫も安心した。
 あまりのことに、猫太郎はあの恐怖の記憶を喪失させていた。
 硬く閉ざされた地下の惨状は、その後も知られることは無かった。月日が経過し、猫太郎は五歳になると親元を離れることとなり、あの地下も知られることは無く男は白骨化し、今でもその地下にあるという。

青柳猫太郎

 宇治木邸のキッチンでほぼ彼らは過している。庭も大きな窓から望めて、ダイニングもカウンター越しにあるので、大きなテーブルもあるし道具なども置きやすいのだ。
 青柳は思いをめぐらせ、膝を叩いてから一人頷いた。
 一年という折り合いもついたことだし、朱鷺島にトラウマの原因を解明してもらったその根源を探してみることを考えていたのだ。
 断片的な記憶としてのトラウマが読み取れた内容は、悪魔崇拝者に誘拐をされた先で散々な目にあわされたものだった。その狭く暗い室内の細かな状況も分かっており、毎日のようにそこに閉じ込められ、儀式に挙げられた血肉を食わされ、何かの薬を嗅がされ、最後には悪魔崇拝者の男自身が祭壇に崇められたがり青柳にそれを頼んできて自分で突っかかって怪我をし、そして男自身の血肉を顔に叩き付けて絶してそこで記憶が途切れている。子供ながらに恐怖しかない混沌の占領する邪悪な空間だったという。それを言葉だけで聞いているだけでも、トラウマ自体は思い出せなくても胸の悪くなる話だった。
 男は長身で腰まで長い髪をして黒い服を着ていたという。年齢自体は二十代ほどで、見た目はハードロックやメタル系ということで想像はつきやすかった。顔は純日本人とは思えずに掘りが深かったようで、言葉にはサ行が強くなる訛りがあったようだ。
 今も夫婦で仲良く暮らしている両親に聞くのは、やはり男の特徴に似た人間がいたかどうかを訪ねるだけでいいだろう。余計な心配は掛けさせたくは無い。
 明日になったら、電話で聞いてみることにする。
 翌日になると、何やら庭から音楽が聞こえている。
「朝の準備体操第一、はじめ!」
 庭の見えるところまで来ると、フランが元気に日本の準備体操をしていた。あれでは毎日元気なわけだ。青柳も庭に出て加わりはじめた。黒猫婦人も庭でごろついている。今日は薔薇子もいた。
「トラウマの原因を?」
「ああ」
 朝のご飯を食べながら青柳は言った。
「西洋的な悪魔崇拝には詳しくは無いが、それを行っていた男に誘拐されていたようでな」
「うわ、それは危険ですね。僕も悪魔崇拝者にだけは手は出したくありませんよ。なんで日本で活動してたんでしょうか。不思議だ」
「ああ。毎日ということは、案外近くの家だった可能性もある」
「ヒー、それってつまり、生贄にされかけていたかもしれないということですか?」
「そうだったのかもしれんが、どうやら私を偶像神の代わりに仕立て上げたかったようだ。全くとんでもないものだよ」
「普通に宗派は正教の僕には全く分からない世界だ」
「私にもわからん。それを少しでも男の特徴として両親に聞いていいのかも不明だ。もう五十年も前の話になるからな。覚えていないといわれれば逆に安心かもしれない」
「その仲間はいたんですか? その悪魔崇拝の男の身体も祭壇に挙げて崇拝を続けている可能性があったら恐ろしいですよ」
「ああ」
 食事を終え、時間を見て十時になると青柳は実家に電話をかけた。すぐに母親の声がする。
「太郎かい」
「ああ。僕だよ。正月ぶりだね」
「あんた、その後に変わりは無いのかい」
「大丈夫だよ。ありがとう。母さんたちは元気か」
「ああ。あんたより元気かもね。昨日も二人でテニスの後に午後はプール」
「それはまた相変わらず元気だ。安心した」
「そうだろう。まだまだ若いよ。ところで、何かあっての電話なんだろう」
「実は、訪ねたいことがあってね。僕が子供の時代になるが、今から言う特徴の男がいなかったかを知りたいんだ」
「それは、もしかしてあんたの過去に関すること?」
「そうなるのかもしれないし、実在するかも不明なんだ」
 やはり鋭い。すぐにトラウマの関連だと分かるのも無理はないだろう。ずっと悩み続けた症状だったのだ。
「心して聞くよ。あんたが乗り切れるならね」
「助かるよ。じゃあ、言うよ」
 青柳は朱鷺島から聞いた男の特徴を話し始めた。
「そりゃあ、五十年前に海外に引っ越したのかとたんに見かけなくなったお隣にいた外国人さんだよ。あんたは覚えていたか不明だったけれど、何か職人とやらで自分の作ったものをその家で売っている商売の人でね。いつも黒い服を着て長い髪をしばってた。ドイツだったかどこだったかから来たらしくて日本語は喋れたね。その空家はあとから不動産が入って、あんたがうちから別荘に行った三年後には新しい人が入って、今度はパン屋になったが、十年もするとテナントを変えて服屋になってね。またあまりいつか無くて、何度かテナント変えはしたがこの五年間は空家のままさ」
「いたのか。実家へ行っても?」
「ああ。私らはまた趣味の用事があるから、不動産屋に電話をしてみるといい」
「ああ。恩に着るよ。どうもありがとう」
「太郎。あんた、本当に大丈夫なのかい」
「ああ。トラウマ自体の内容は話で聞くことは出来たからね。もう大人になった今では、大丈夫だと思う」
「そうかい……安心したよ。あんたからそういう言葉が聞けて」
「長い間本当に辛い思いをさせた。解決に向かっていることは確かだ」
「うん、うん。そうだね。立ち向かってるあんただ、解決するさ」
 青柳が言葉を一つ二つ交わし、電話を切った。

 「実在したのですか」
「ああ。しかも隣人だったようだ。きっと、あのまま放置をされたままなのだろう。事件として取り上げられたことはこの五十年間無かったという」
 朱鷺島は唸り、椿は不安気に胸部に手を当てた。椿自身が地下に閉じ込められ、異常な経験をさせられたのだから。
「つまり、その連れ去られた場所がその隣人の家のどこかにある可能性が高いんですね先輩」
「ああ。フラン、君は屋敷の留守を椿さんと預かっていっや待て、それは駄目だ」
 椿とフランを交互に見て言った。椿は朱鷺島が嫉妬をしてくれているのでとてもうれしかった。
「じゃあ僕も仕事の現場に向かえるんですね!」
「どうしようかな」
「私も着いていきます。強くなるためにも、場数を踏まなければならないと思うのです」
 朱鷺島はしばらく椿の目を見て、そして頷いた。
「そうだね。君はよく頑張っている。みなで向かうとしよう」
 まだ自転車にも乗れない椿だが、少しずつ体力作りを朱鷺島としている。
「僕が危険から守ってあげるからね椿さん」
「大丈夫かなあ」
 朱鷺島が呆れて言い、実際フランがオバケ屋敷でギャーギャー騒いで逃げて行った話は大学で知れ渡っているので、あいつはまたオバケ屋敷ですら喧しかったと言われていたのだから。
 不動産会社に連絡を入れると、見学を快諾してくれたが、見学ではなく調査のためだというと渋っていたが承諾してくれた。何故なら、あの物件はすぐにテナントが変わってしまって長い客がつかない物件だったからだ。同時に、現場の物件につくまでには五十年前に入っていた住人のデータも探しておいてくれることとなった。何か原因が分かれば、その原因次第では不安要素が取り払われて客がつくかもしれないし、土地の値段が下がらざるを得なくなるかもしれないと思うと不動産屋は不安だと零していた。それも確かめないことには何も分からない。警察を呼ぶかという話を相手側が出してきたが、何かが出た時点で呼ぶということになった。
 いろいろと身支度をして、皆で朱鷺島のマセラッティに乗り込んだ。
 緑の丘を越え、森を走り、山を幾つも越えていく。
 何故かフランがマセラッティのなかでまで準備体操第一、第二、第三、第四までカセットを掛けていて、よくわけがわからなかった。最終的に音楽に合わせて作詞までして歌っているし。フィンランド語でも、日本語でも。ここに花河がいればこの後輩に語学を任せておけば相当流暢に話せるようになるのではないだろうか。ということでさっそくフィンランドに戻ってもらえたらいろいろ役目もあるのだがと思っていた。同じ空気を感じるカミーエもいることだし。フランが聞くような人間でもないことは分かっているのだが。なによりも、朱鷺島は相当フランに好かれている。いつも憧れの先輩と言ってきていたし、僕は可愛い後輩だからと言って来ていた。
 八時間して彼らは青柳の生まれ故郷の街へやってきた。閑静な住宅街の並ぶベッドタウンで、静かな町並みには各戸の緑も多く、公園や神社もいくつもあった。並木通りも多く通りごとにそれぞれの木々が植えられ、季節ごとに色を楽しめるようになっている。河の周辺も緑があふれていた。綺麗な町並みだ。鳥などもいろいろな種類を見かける。
 青柳邸に到着すると、駐車場に停車した。門構えの立派な和洋折衷の家で、青柳の言うように、今は彼の両親は出かけているようで、マセラッティ以外は停まっていない。
 車から降り、四人は隣家だという家へ歩いて行った。そこにはテナントの入る建物の前に不動産屋の男がスーツ姿で立っている。
 青柳夫妻の息子であると聞いていたし、やってきた者たちもまともそうな人たちだったので安心していた。何しろ、五十年前の資料では変わり者が借りていたようで、しかも連絡もなしに家のなかのものもそのままで国に帰ったらしかったのだから。
「お話は伺っております。ただ、屋内は我々も何度も入ってテナントが変わるごとに確認をして来ましたが、怪しい部屋も地下などの痕跡もありません。五十年前に片付けに入った業者も、電話で伺った黒い部屋などは無かったようで、特に記述もありません。そんなことされていたら、修理費がばかになりませんからね」
「一応、全ての部屋を見回っても構いませんか?」
「ええ。どうぞどうぞ。我々も三年後に入ったもので、当初は酷い有様だったようですがね。冷蔵庫のなかが特に。電気代が払われない時点で水道も何も止められていましたから」
 彼らは今は綺麗なテナントに入っていく。問題も無く整っているし、壁紙はこの何十年の間でも古くなって普通に張り替えたぐらいだと言っていた。天井の屋根裏も問題が無い。台所の小さな貯蔵がある以外は地下も無い。部屋は一階がテナントと、奥に一部屋。階段を上がって二階に三部屋。異常はやはり無く、朱鷺島は窓から庭を見下ろした。
 草がぼうぼうで、木々も手入れはされていずに自然の形に近い。テナントが入る前にならないと管理はしないようだ。蜂も飛んでいるので、木に巣を作っているのではないだろうか。そういう時は業者に入ってもらうらしいのだが。
「不動産屋が買い取る前は誰が所持して?」
「ええ。記録によれば、裏手の日本家屋の持ち物だったようですね。それをテナントとして貸していて、いつしか代が変わって管理を手放してその辺りから例の白人の男の人が六年ぐらいずっと借りてたようです。ぱったりいなくなりましたがね。今頃国で何をしているやら」
「屋内に無いとなったら、庭が怪しくはないか」
 青柳が言い、彼らは椿を屋内に残して庭に出ることにした。
「蛇がいるかもしれん。気をつけたほうがいい」
「ええ」
 すぐ横は垣根に隔たれてよく管理のされた庭を有する青柳邸だ。
「庭もすぐ横だし、垣根も完全に隔たれているわけでは無いから、小さな子供を連れて行くのはさぞ簡単だったことでしょうね」
「ああ。こんなに真横だったとは。しかし、戻ってくれば少しは思い出すかとも思ったが、五十年も経過していれば屋内も庭も変わりすぎていて思い出せるものでも無いようだ」
「諦めないでください。きっと何か手がかりは残されているはずです。部屋を一つ用意するなんてことは容易なことでは無いのですから」
「ああ」
「あの」
 椿が窓から呼びかけ、彼女は裏手の日本家屋を見ていた。
「元の持ち主の方に聞くことは出来ないのでしょうか。一番仕組みを分かっているとおもうのですが」
「確かにそうだね。聞いてみよう。闇雲に探すのではいつまでも変わらない」
 彼らは裏手の家屋へ行くことにした。ぐるりと回って高いカイヅカに囲まれた家屋に来る。二階からなら家は見えるが、向こうからではきっと庭の様子や異変などは見ることは出来なかったことだろう。最も、五十年前のカイヅカもここまで高ければの話だが。管理を手放したという前後に家屋が空家になっていた時期があるとしたのなら、もっと異変に気づかれなかったはずだ。
 日本庭園を進み、玄関につくと呼び鈴を鳴らした。
「はーい」
 女の人の声がして、しばらくすると腰巻きのエプロンをした主婦がガラガラと戸を開けた。
「まあ、何か御用でしょうか」
 美男美女を見上げて彼女は笑顔で聞き、青柳が言った。
「裏手の青柳という者ですが」
「まあ! 青柳さんのところの親戚のかた? いつもお世話になっています。何かあったんですか?」
「実は裏のテナントの空家のことなんですが」
「ああ、はあ。私は嫁いできたもので、詳しいことはお義父さんなら知っていたんですが、今の時代分かる人はいるかしら。旦那に聞いてみるわね。何かあったんですの?」
「まあ、ちょっと調べたいことが」
「そうですか。あまり回転が速いようだから、入るのは薦められないんですけれどね」
「ご安心を。越してくるのではないのです」
「そうですか? ちょっとお待ちになってくださいね」
「よろしくおねがいします」
 しばらく日本庭園を観ながら出されたお茶と茶菓子を食べながら縁側で待っていた。
 すると、そこにこの家屋の家主が現われ自己紹介をした。彼が代が変わってから裏手のテナントを手放したらしいのだが、家にテナントの敷地の見取り図がしっかり残されていたようだ。それを広げて見せてくれた。
「いやあー。管理も面倒になったものだから、不動産屋に最終的に任せたんだがねえ。どうも人がよく入らないんだよ。父が管理してたときはそんなことは無かったんだが」
 皆が見取り図を見ると、庭に四角い間取りが記されていた。
「ご主人、これはもしかして」
「なんだろうねえ? 私も子供時代に一度だけテナントが変わる前に冒険したことはあったが、全く気付かなかったよ」
「もしかして、これは庭のどこかからか地下への階段があるんじゃないでしょうか」
「そうかもしれない。だが、五十年も経っていると草も土もかぶさっていると思う。見取り図によると、そうだな。ちょっと定規で失礼。ふむふむ。うんうん。ちょうど、青柳さんの家との境にあるこの辺りの小さな四角が入り口になってこの階段室に繋がっているようだね」
「本当ですか。それは今から行って見ましょう。いいのですかな」
「もうこちらの管理は届かない場所なので、不動産屋さんが許可するならどうぞ」
「どうでしょうか」
 不動産屋を見ると、しばらく唸っていたが、承諾してくれた。
「我が家に草刈り機とスコップがあるから、使うといい」
「何から何までありがとうございます。いきなり押しかけた上にご無理を言って」
「問題は無いですよ。どうぞ使ってやってください」
 草刈り作業は朱鷺島も慣れているので、首尾よく言われた場所を刈り込んでいった。大体大きめに範囲を取ってから、男手でスコップで土を掘っていく。隣の庭の高さを見ても、思ったよりは深くは土は被っていないと思われた。
ガツッ
「先輩!」
 こういう時はどんどん掘って行くタイプのフランがガツガツ音を鳴らしながら朱鷺島を振り向いた。
「見つけたようだな。でかした。あまり傷はつけないでくれ。石だったらまだしも」
「はい!」
 平なスコップに変えて掘って行き、しばらくすると硬い淵が見えてきた。
 誰もが顔を見合わせ、男手で掘っていくと、そこに四角い扉が現われた。
「ここだ……」
 息を呑み朱鷺島が言うと、青柳を見た。
「どうですか。この場所は……」
 青柳は眉を顰め、じっとその場所を見ていた。そして、口元が動いた。
「確か……確かここは」
 そしてすぐ横の垣根から覗く青柳家の庭を見る。そして、再び見下ろした。窓から椿と不動産屋が心配そうに見ていた。もっと周りを掘って行き、土を退かして行った。
「開けよう」
 青柳が言った。若い男二人で思い切り硬くなった扉を引っ張り開けた。隙間に残っていた土をぱらぱらと落としながら扉が開いた。そこには、暗い階段が続いていた……。
「う、」
 いきなり青柳が飛び退って尻餅をつき、咄嗟に朱鷺島が支えた。フランは扉を支えながら戸惑い二人を見た。
「ここは、そうだ。これだ。この地下に、君が言っていたような黒い部屋があるんだ。黒いペンキで塗り固めたようなと言っていた狭い部屋が」
 よろめきながら青柳が朱鷺島に支えられながら階段を、覚束ない足で降りていこうとする。懐中電灯を出してフランは照らした。目が焦っている青柳が早足で降りて行き、朱鷺島は支えながらついていった。すぐに、鉄の扉があった。
「ああ、もしもここなのだとしたら、もしかしたら君の話によれば」
「仲間がいなかったとすれば」
 朱鷺島は一度フランに腰が抜けそうになっている青柳を通路で任せ、彼だけでドアのノブを捻った。
「行きます」
「ああ、気をつけてくれ……、いや、待て。確か薬品のボトルがあったと言っていたが、閉じ込められた空気で薬品が混ざっていたら、何かの中毒にならないとも言い切れない」
 学者である青柳が言い、「確かに」と朱鷺島は言って誰もがハンカチで口を押さえるぐらいしか今は出来なかったが、ドアを開けた。
 暗がりを懐中電灯で照らした。
「!」
 すぐに、朱鷺島の目に飛び込んできたのは黒い台に凭れかかっている、黒い服の白骨だった。足元にぎらりと光る短剣が落ちている。
「これは……」
 低い声で朱鷺島は言った。
「一度、庭に出ましょう」
 彼らは引いていき、そして朱鷺島は説明をした。
「台……祭壇でしょう。そこに白骨が横たわっていました。その足元には短剣が」
「それでは、本当に」
 朱鷺島は頷いた。
「青柳さんから読み取ったトラウマの風景と、男の衣服、それにぱっと見た部屋の様子は同じものでした。きっと、五十年をずっとそのままになっていたのでしょう」
 青柳が眉間に指をあて目を硬く閉ざし、長い、長い溜息をついた。そしてその目じりから涙が流れると顔を上げた。
「警察を呼ぼう」
 不動産屋は気絶寸前で、物件から悪魔崇拝の砦と白骨が出てしまったので上司になんと言おうと頭を抱えた。これが原因で何か不気味を感じてテナントがすぐ引っ越していたのだとしたら、お祓いをしなければならない。確実にこれは原因が出てしまった。
 フランは青柳の肩を支えて窓際のベンチに腰掛けさせた。椿が心配そうに顔を覗き込む。
 すぐに警察が駆けつけると、現場検証に入ることになった。事情を話すと、裏手の元の持ち主は驚いた顔をして目をまん丸にした。そんなことがまさか行われていたなどとは思ってもいなかったのだろう。丁度、その時期はいろいろと立て込んでいて家を留守にしていたことが多かった時期だというのだから、やはり気付かなかったのだ。
 ブルーシートが広げられ、鑑識が出たり入ったりを繰り返し、警官が周りを固めて立っている。
 青柳は両親が帰ってきて驚かないように連絡を入れると、今は夫婦でサイクリングで公園を走らせているようで、帰りは遅くなると言っていた。短く事情を伝えると、すぐに帰ると言って切った。一時間すると、青柳の両親が戻ってきて警察の方々に挨拶をしていた。日に焼けた夫婦で健康的な老後を過しているのが一目見て分かる。
「しばらくは警察が行き来するんだってね。刑事さんに聞いたけど」
「ああ。迷惑をかけることになるが」
「うちはいいんだよ。裏手の人にはちゃんと言ったの?」
「今刑事が向かっているよ」
「そう。いつも世話になってるから、挨拶にいっとかないとね。あんたも元気をお出しよ。こんなに若い仲間も出来たんだ。いい子達だよ。本当にありがとうね。ここまでしてくれるなんて本当に有り難いよ」
「いいえ。いいんですよ」
 彼らは微笑み、青柳のトラウマの原因が解明されたことで安心していた。

第四章 お騒がせフランとその仲間たち

 椿は受話器を持ち、言葉を継いでいた。
「ああ、はい。ええ。そうですが……」
 相手は英語を早口でまくしたて、その女性は怒っていた。年齢は椿よりも多少上ぐらいだろうか? 声質が低いだけで、同年ぐらいかもしれない。
「じゃあ、バイクもあるのね?」
 椿は必死に頭を働かせ、それでから言った。
「ロイヤルエンフィールドというバイクが」
「え? ……じゃあ、違うのかしら。とにかく、電話に出して頂戴」
「今、出かけていて、わたくしはこの場を預かっているだけなのです」
「また時間が経ったら連絡するわ」
 相手が静かに受話器を置いたようで、椿は電話に受話器を戻してから頬に手を当てた。
 どうもフランの彼女か姉か妹か家族か友達のようで、相手はフィンランド人の男が来なかったかと言うばかりで名乗らなく、バイクの話になったのだが、これは本人に話を聞かないことには引継ぎをしていいのかも不明だった。
 緊急の用事のときとは声質が違った。
 椿は今、宇治木邸にいるフランに連絡を入れた。
「え?! まさか、マリアかミラーかアンニャかセリーヌかアダナかメレルか」
 どうやら数いる女のなかの一人のようだ。椿はなんともつかずに受話器からの次の言葉を待ったが、まだ名前を連ねている。
「あの、ご立腹のようでしたが」
「う……」
「何かなさったのですか?」
「いやあ、それが大学卒業と共に結婚を迫られて、ヤーヌからもポリーシャからもエレーネからもハーリからもエンドラ」
 まだ続きそうだったので椿が言った。
「それで日本までバイクで?」
「ちゃんと言ってあったんだ。先輩に着いていくことは。だが皆が皆冗談と笑って請合わないから出てきた」
 この人は一体どういった主観をもって大丈夫だと言っているのか。フラン自身の心理こそを科学的に解剖でもしたいと言っていた朱鷺島の言葉がまたも今日も思い出された。
「また掛けてくるとおっしゃっておりました」
「椿ちゃんに迷惑をかけるわけにもいかないからなあ。ちょっとそっちに行くよ」
 椿ガードナーの朱鷺島は今、青柳邸の帰りに買出しをしてきたものを倉庫で整理しているので、朱鷺島に言われている通りにフランが来るときは彼に伝えるために、電話を切ってから倉庫へ降りて行った。
「レイさん……」
 また、小さくちーさく、言った。恋人を名指しで呼びたいが恥ずかしくて呼べない乙女心と日々椿的に闘いながら、朱鷺島の見えない範囲で呼びかけ、見つかれば朱鷺島さんとしか言えないので……。
「はい」
「ひいい!!」
 朱鷺島は驚いて飛び跳ねた椿を見た。
「あ、あの、そ、フラフラフ」
「カルペランが来るのか」
「は、はい……」
 朱鷺島はくすりと微笑んで、椿は顔をおさえた。椿が可愛らしいので、自身の不安を払拭するように抱きしめたくなった。先程、レイと名指されて心底舞い上がった自分がいた。顔を抑える彼女に手を伸ばそうとして、微かに聴こえた電話の音に階段を振り仰いだ。
「行こう」
「はい」
 椿がぽーっと真っ赤になりながら着いていった。朱鷺島はまくっていた腕を戻しながら一階に戻り、大きなエントランス階段の横の柱にある電話を手に取った。
「こちら黒猫」
「フラー……、レイヨ先輩」
 女のあでやかな声が聞こえた。一瞬恐ろしい声だったが。フィンランド語だったが、朱鷺島自身は女の声は分からなかった。大学の後輩でフランの彼女だろう。
「いきなりで失礼いたしました。お電話したのはフランの浮気者がみんなとの結婚を蹴って日本のレイヨ先輩の所に匿ってもらっている情報をある女の子から聞いたので、掛けさせてもらったのです」
「結婚の約束まで」
「いいえ。彼は認めないんです。私との結婚を! 家にだって家族にだって紹介したし、それに私のためだけに演奏してあげるだなんて!!」
 どんどん声が大きくなって来て、微かに玄関扉からとろとろとろとフランのバイクの音がしていた。しばらくは泣きそぼるフランの何番目かの彼女の言い分を聞いてやっている内に、扉が開いてフランがやってきた。
 受話器を押さえて朱鷺島が言った。
「この女泣かせ。大量の彼女軍団がお前をひっとらえて塔の天辺にでも括り付けて雨ざらしにしてやろうとでも計画を立てるかもしれないぞ」
「それは先輩の望みでしょう」
 フランが小さな声でひそひそとまくしたて、朱鷺島はぐいっと受話器をフランにつきつけた。
「それでフランったら研究研究ばかりで研究室に閉じこもって結婚話も遠まわしにして私何人のプロポーズを断ったことか」
「ミシェリ」
「フラン!! あんた一体何のつもりよこの一夫多妻制男!!」
「だ、誰とも結婚してないしするつもりなんか無いってば!! 僕が結婚したいのは乙女で可憐でお淑やかでたおやかで穏やかで麗らかで静やかで繊弱(ひわ)やかで」
「私ははなやかで貴(あて)やかで健やかで煌びやかな美女代名詞の将来オペラ歌手のソプラニストよ!! なにが不満があって結婚蹴るっていうの?!」
 もう相手の声量が凄いものだから、椿を避難させて朱鷺島もその場を去ろうとしたがフランに肩を持たれて首を振っている。
「僕はここまで浮気者じゃないですよ! ファンの子だったり後輩だったりはするけど彼女は作っても一度に二人まで」
 朱鷺島は白い目をして呆れた。
「前の彼女も言ってくるんです! 見てください僕の目!!」
 また勝手に眼帯を剥ぎ取ってくるので、何でこんなことのために能力を使わなければならないんだと、勘弁してくれとフランの目を見た。
「どっちにしろファンにもなあなあでどの彼女とも全て半端に別れてばかりじゃないか」
「でも熱狂的なファンの子に過ぎないんです今のこの電話の子も!」
 ファンというのはあの素敵なカンテレ演奏のことだろう。定期的にストレス発散がてらに研究所を飛び出して大学の広場で演奏している姿をよく見ていた。それに街にも繰り出して奏でていた。その時の静かな顔立ちで奏でるフランは美形でしかなく女が蝶のようにやってくるのだ。
 朱鷺島は咳払いをして、受話器を受け取った。
「もしもし」
 本来なら本人に言ってもらいたい所だが、今の所はフラン自身に女に答える気も無いようだし、一時収束を見せてもらわなければ困る。望みのないフランを追いかけてばかりでも彼女らも他に行けないだろう。
「俺が事務所の手伝いをしてもらいたくて呼んだんだ」
 フランがきらきらした目を向けてくるので顔を向こうに向かせた。仕事時は意外に静かにしていたし、的確に提案も出してくるし、青柳もかっこうの話し相手だと言っていたし、今の所は朱鷺島の仕事の邪魔はしてきてはいない。
「まあ、そうだったのですか? いつも研究研究ばかり言っていたけど、冗談だとばかり思ってた」
 本人を見ると真面目な顔をしていて、相手が普通に喋っているので受話器からは彼女の声は聴こえていないのだ。
「本人は本気のつもりでこちらへ来ているというし」
「おかしいわね。他の子の話だと、さきほど電話をしたらバイクは見かけないって言っていたのだそうだけれど」
 まさかの別の女からのコールだったのか。椿が対応したのだろう。一応フランを気遣って。
「対応したものは手伝いの子なので、あまり詳しくはないんだ。彼自体は他の所に部屋を貸りているからね」
「ああ、それで」
 一応は相手の女の子は納得してくれたようだった。また断りの挨拶をして電話が静かに切れた。
 フランを見ると、一人ぐったりしていた。フランも喧しいがその彼女もそういえば皆似たような性格だったのを思い出す。実際名を連ねていたなかには朱鷺島自身が在学中にフランが付き合って別れたと噂されていた女の名前も三個もあった。
「本当にここにいさせてもらえるんですか?」
 わくわくしながらフランが言って来ていて、まあ、男手が増えていろいろと楽になることも多いのは確かだし、万一朱鷺島の留守時に椿に何かがあったのでは確かに困る。この辺りはもともと静かな場所だが、宇治木邸のことも以前は事件が起きたわけだし、他の三棟の者たちにも、女の子一人のときになにかあられても迷惑をかけるわけにもいかない。
 寂しさがあったこの屋敷も、椿が加わり、青柳が来るようになり、後輩のフランが来てからは活き活きして思えた。黒猫軍団も遊び相手の人間がいるからうれしそうだ。
「あまり変なことをしないならな。バイクまで持ってきたというからには相当のことだろうし」
「そうなんです!! じゃあ国から道具箱や服や研究材料やパソコンも送ってもらいます!」
 フランは一室フランのために用意してある部屋へ駆け上がって行った。
「大丈夫ですよ。普段は猫太郎さんの所にいるつもりだし、研究も向こうを本拠地にすると思うので」
 きっとどっちも使うつもりなのだろう。元々広い屋敷だから良いのだが。
 フランの姿が見えなくなると、しばらくして椿が出てきた。
「惑わされないように」
「ふふ。大丈夫です」

月宮響子

 椿は微笑み、玄関扉をふと見た。
リーィン……
 澄んだクリスタルは、先程までの騒ぎを変えてくれるようだった。
 朱鷺島は颯爽と歩きドアを開けた。
「はい」
「この所騒がしいようですけれど、何か問題でも発生してらっしゃるの」
 隣の屋敷の女性、月宮響子(つきみや きょうこ)だった。黒いワンピースに黒の長い長い髪、すらっと背が高く黒のルージュと睫毛の濃い女性で、一見黒猫のような女性だ。三姉妹が別荘として使用している。彼女の闇のような瞳が見てきた。
「申し訳ございません。大学時代の後輩に事務所の手伝いをさせることにな……」
 朱鷺島は一瞬後に目を見開き、頭痛がしてこめかみを押さえた。ゆっくり瞬きする響子の表情に、重なる。この屋敷の部屋、血、倒れた子供、男、棺に閉じ込められた女、朱鷺島は目元を押さえうずくまった。そして、庭の十字架に掛けられた身体。
「朱鷺島さん!」
 椿が駆けつけ、響子は朱鷺島のオッドアイに驚いていたが、うずくまる彼に視線を落とした。
 残響。今の響子より若い時の叫び声。駆けつけた先の屋敷での惨状に叫んだのだ。
「あの……大丈夫」
 響子が朱鷺島の肩に手を置いた。椿は時々響子らと共に演奏をする仲になって来ている。響子たちは椿を心配している。数年前のような事件か、まさかの宇治木邸に警察が入って行ったし、来たばかりで行き場所をなくした椿は探偵をしているというあまり身元の知れない眼帯男が匿い始めたのだから。まさかオッドアイだったのは意外だった。
 朱鷺島は頭痛が弱くなったのを、頭を振って眩暈を追い出した。
「ええ。申し訳ない」
 この頭痛は久しぶりに感じた。この屋敷に来たばかりの四年前も時々感じたものだった。
「一度お話をと思っていたのですが」
 響子が言い、椿は朱鷺島を気遣いながら眼帯を渡した。朱鷺島はしまったと思いつつも、椿に微笑んで眼帯を嵌めた。
 朱鷺島は客室のある二階へ促した。響子は今回も屋敷を視線だけで見回している。以前も何度か屋敷へ行き来する椿についてきて見回していたが、その目はいつも固まったもの、不信感を持った目だったのだ。それも、先程読み取った記憶への恐怖が残っていたからなのだろう。
 意気揚々とフランが降りてきたときには、誰もいなくなっていたので、そのままうきうきで宇治木邸へ戻ろうとしたのを、二階の窓から朱鷺島に呼び止められて屋敷へと戻った。
「そこには絶世の美女がおり俺の前に舞い降りた、まるでそれは闇夜を貫く月の女神がこの庭園へと踊りの舞台を」
「やはり出て行ってくれ」
「先輩!」
「いいから静かに座っててくれないか」
 朱鷺島がうなだれて、仕事だと気付いてフランは座った。
 ただただじっと響子はフランを見つめている。黒とロサが顔を上げて、また騒々しいフランを見てから風の入る窓辺のベンチからやって来てフランの膝にごろついた。
「お話というのは、椿さんを我々にお預けくださらないかということなのです。探偵という仕事柄、大変な目にもあうのでしょうし、朱鷺島さんもあまり我々とは関わらないのであっては」
 椿は響子を驚いて見た。
「きっと朱鷺島さんが一年前、宇治木さんとの事件を解決なさったのでしょう。警察も動くような危ない事件に関わるような探偵だとはこちらも思ってもみませんでしたから、この一年ずっと椿さんが心配でしたけれど」
「それというのは……」
 朱鷺島は響子が椿をじっと見つめるのを、彼女に言った。
「過去、この屋敷で起きた事件のこともあって?」
「まあ、知ってらっしゃったの」
「視えたのです」
「え?」
 やはり、響子はじっと朱鷺島を見つめてくる。彼女が奏でるリュートの弦の如くたゆむことも無いぴんと張った視線。だから、彼女の心の奥にあり続ける屋敷での記憶がすぐに読み取れたのだろう。
「僕の引き受ける依頼は、確かに特殊なものです。世にいる家出捜索や浮気調査などのようなものでは無い。確かにその点では僕も椿さんを事務所に引き入れることには問題があると思ってはいましたが、本人たっての希望でもあるのです。宇治木邸の事件で被害にあい、そのことがきっかけで自分が強くなることを決めたのも彼女自身の希望」
 響子ははじめて視線を落とし、黒いマニキュアの指を見つめた。
「このお屋敷へ人が入ったことで、花やかさが出たことはうれしいのですけれどね。にぎやかになることも、以前のここでの事件を思えばまだましです」
「うう……、自転車で僕も行動したほうがいいかな」
「一緒に練習しましょう!」
 椿とフランが頷きあい、響子は彼らを見てから言った。
「正直ね、あなたがお一人でいらした時は薔薇庭園が無かったら怖かったの。穏やかな方だとは分かっているけれど、こちらは女三人だし、あんな事件が過去に起きたのだし、何をするのかなんて、人は分からないものでしょう……」
 まるで戯れる黒猫を見ているように椿とフランを見ていたが、響子は朱鷺島を見た。一度、宴に呼ばれてブランデーに酔って、ワインに酔った彼女の黒紫の部屋で若気の至りで押し倒したことがあった。彼女もあでやかに微笑んでいて、美しかった。その時は真紅のルージュだった。だがその時は朱鷺島はそのまま柔らかな胸になだれこんで眠ってしまったし、彼女もそのまま眠ってしまい、何事も無かったのだが。あれでからは響子は覚えてもいないようだったし、朱鷺島は目を覚ましたらずっと眠り続けて起きない響子にシーツを掛け部屋を後にした。そんなことを思い出してしまって、朱鷺島は視線を外した。もし今こんな気持ちで直視してしまえば恋人と愛し合う夜の響子の記憶がなだれ込んできてしまうことだろう。眼帯を嵌めていなければの話だが。
「先輩は事件を解決する正義に篤い人です。人付き合いは昔から避けてばかりですが」
 朱鷺島はあらぬことなど考えていたので後輩のフォローに耳を染めて口をつぐんだ。全く、こんな時だと言うのに男のさがなのか自分で呆れる。
 響子は相槌を打ち、朱鷺島をじっと見ていた。よく薔薇を頂くと、ベッドに広げたり、バスタイムに浮かべるのだが、そういう時は何故か彼との甘やかな肌の重ね合いが浮かぶ。そんなことなど一度も無いのに。
「事件の詳細をご存じないのも無理はございません。騒ぎが嫌ですから、公表を避けてもらったのですから。それならば何故あなたがご存知なのか。見えたとおっしゃった意味が分かりかねます。もしも安心するようにわたくし共に言い聞かせるとしても、新しいこのお方も加わることで安全がどこまで保障されるのか、それは分からないことですもの」
「ご尤もです」
「もしかして、千里眼……なのかしら」
 朱鷺島は響子の目を見た。
「日本でも、そういう人はいるのですってね。戦前も、そういう女性がいたのだと世間をにぎわせたようです。毎日眼帯を嵌めていらっしゃるのだし、そのオッドアイで何かが視えるのね」
「………」
「安心なさって。視えないために嵌めているのでしょう」
「ええ……」
「見させていただいても?」
「え、」
 朱鷺島は珍しく多少の焦りを見せたので、椿もフランも彼の横顔を見て様子を見ていた。
「視える、というのなら、わたくしの心を覗いて見てくださらない? その証明ができたのならばお仕事内容の特殊さも信じましょう。ただ、それが余計なお世話にもなりかねませんけれど、椿さんの保身に関わるのとは別」
「僕はおばけは怖いですが、ジェットコースターも大好きだし格闘技もお手の物、楽器だって弾けるので女性の身も心も癒し守るに関しては」
「変わったお人ね……」
 響子が延々と喋るフランを見て、フランがバチッとウインクをしてきたのでなんともつかなくて顔を戻した。
 まあ、フランが怖がるような心理的なおどろおどろしさの方が依頼には多いのだが。フランも悪夢に怖がっていた時期があったというし、今でもそれが残っているのだろう。大学時代も言っていたが、良い夢に埋め尽くされるというのも抗体ができないのではないかと指摘したこともあった。睡眠と心理学に関して、無理に怖い目に合うことは無いとも思うのだが、彼自身が冷静な判断を下すには、これからいろいろな依頼を彼も見ていく必要がある。
 朱鷺島は心を落ち着かせると、響子に頷いた。
「私の特殊な能力は、他言は出来ないものです」
「ええ。そのようね。四年間、一切気付かなかったのもあなたが神経を働かせていたからね。その点もご安心なさって」
「痛み入ります。それでは、ヒヤリングのために庭へ移動を。それとも……」
 さっと響子の表情が曇り、美しい眉がひそまれたので、朱鷺島は言った。
「室内でも可能です。冬季に使う場所ですが」
「ええ」
 朱鷺島は響子を連れ、別室へ歩いて行った。そこは裏手の林側が一面窓になっている部屋で、床にも緑が移っている。庭と同じように、部屋の中心にはあの台が設えられ、いろいろな道具も揃っていた。
 朱鷺島が眼帯を外し、クリスタルを手にしようと手を伸ばしながらも響子の口元を見た。
「………」
 そして、ふと響子の目を見てしまった。
「………」
 めまぐるしい情景。もつれあう白い肌。長い髪がもつれあい、腕も、脚も。高い声も。キャンドルの灯る黒紫の室内は夜で、視野の端に楽器。そして、それは女性同士の愛の戯れ……。
 朱鷺島は歯の奥を噛み、一瞬視えた夜の気配につい視線を反らした。クリスタルではなく、ミントのお香を選んでそれにまず灯を灯した。鼻腔からすっきりする薫りが脳天にくる。気を落ち着かせなければ。最近はフランがいることで不安になり、椿のことばかり考えてる。一年はたってもまだ何も無いままだ。
「日を改めましょうか」
「いいえ。大丈夫です。私の能力には支障はないので」
「それならば」
 クリスタルを鳴らして精神を集中させる。これから見る事になる惨状を脳裏によみがえらせなければならない。先程から響子も嫌な記憶を思い出しているのだ、早くしてあげなければ。
 朱鷺島は目を開き、響子の瞳をまっすぐと見た。
「………」
 じっと見つめてくる響子の瞳に、めらめらとした炎が揺れるようだった。
「………」
 朱鷺島は、微かに唇を動かし、失敗したことなどは無いので集中する。強い炎だ。響子自身の。
 そして、その炎の揺らめきがふうっと流れていくと、この屋敷の情景が浮かび上がった。庭を埋め尽くす炎。それを見て響子は姉妹と共に叫んだ。他の屋敷の主が姉妹の腕を引き寄せ、だが響子だけが走っていってしまう。熱い炎の横を通る。そして扉を開けると、入って行った。必死に男の子の名前を呼んでいる。苗字も呼んでいる。アルバートくん、バーマーさんと。一階、二階を探し、部屋の窓から見下ろす庭は炎が揺れていた。そして、何かその炎の中心に見え隠れしている。それは、十字架。響子は走り、三階まで来た。開けられた扉を進むと、響子は叫んだ。
『アルバートくん!』
 男の子がうなって倒れている。同じ室内には、男が倒れ、棺がある。女性が横たわる棺。
『アルバートくん!』
 扉から屋敷にも煙が入ってくる。響子はアルバートを抱き上げた。すると、足首を掴まれて悲鳴を上げて足元を見た。バーマーという男だ。
『棺を……運び出してくれ、彼女を、』
『そ、そんな、私には、』
 明らかに女性は息をしていない。アルバートが泣いている。
『執事が庭で焼かれた、私がまた、もう一人の残虐な私が何かをしでかす前に早く、妻と子供を、』
 響子はガタガタ震えながら足首を掴まれたまま首を振った。
『けど、奥方はもう、う、ごほごほ、』
 響子は煙にむせてアルバートの顔を胸に押し付けて煙を吸わせないようにした。
『響子ちゃん!!』
 青年が現われ、驚いて室内を見た。響子の認識では他の屋敷の青年だ。
『妻を、』
 青年は怪訝に思って棺を見て、既に息が無いと言ったがバーマーは首を振った。
『バーマーさんが逃げてください!』
 だがバーマーは傷を負っていた。
『ずっと冷凍をしておいた、私が誤ったことをしてしまってから、もう一人の悪魔の私はもう封じなければならない』
 棺は確かにチューブで繋がれていた。冷気がつながっていたのだろう。
 バーマーはその場に倒れ、青年はバーマーを肩に担いでアルバートを抱きかかえる響子の肩を抱えて部屋を走って出て行った。
 屋敷から道路に出て、バーマーが肩から崩れ落ちるが、すでに息は無かった。アルバートは気絶しており、庭は燃えている……。
 そして消防車が到着すると庭の炎を消して行った。そして出てきたそれは、庭の中心の十字架だった。煙のたつ間に黒く焦げた何者かの架けられた十字架。
 響子は姉妹に泣きつき、警察のワゴンが来るとブルーシートに架けられた担架が屋敷から運ばれた。棺なのだと察しがついた。
 事件が起きて五年後、響子が大学二年になると姉から手紙が届いた。別荘の隣に一人の外国人の男の人が越してきたのだと。眼帯を嵌めているし、探偵をしているという。外国人。不安を覚えたものだった。音楽関係の大学生のときはイギリスにいたので別荘には行かなかったが、卒業してからは姉妹が心配で響子は日本に帰ってきた。別荘に来ると、あの事件が起きた屋敷の庭は蔓薔薇やブロリダンバ、いろいろな薔薇が植えられていた。まるで何事も無かったかのように、その庭にいたのが、とても美しい男だった。西洋風の顔立ちで、薔薇を見て微笑んでクリスタルを鳴らしていた。本当に眼帯を嵌めていて、彼のことだと分かって響子は自分の別荘へと引いていったのだった。
 どうやら認識で言うと、響子が十四歳のときに事件が起き、彼女が二十一歳の大学二年生のときに朱鷺島が屋敷に来て、翌年に響子が日本に帰ってきた。
 響子と姉妹は演奏家であり、ほぼ楽器練習のために別荘で暮らしている。趣味でデザインもしているようで、その着想のためにもこのあたりがうってつけだ。朱鷺島は知らないが、森には泉があり、とても美しい。
 響子が二十四だということは初めて知った。イギリス時代には彼女がいて、彼氏がいた時期もありバイセクシャルであるということも。
 朱鷺島は意識を戻し、目の前に響子の顔が現われた。
「大変な事件でしたね」
「お視えになったの」
「はい」
 響子はじっと朱鷺島の目を見つめたまま、そしてふっと反らした。
「二重人格者が引き起こした事件だったようですね。その後、アルバートくんは」
「そんなにはっきりとお分かりになるの。今は彼の故郷の親戚の方が彼を引き取りました。今は十八歳だったかしら。あの当時のこと、時々会うと話してくれのよ。あの別荘には私が生まれる前から既にバーマーさんがいて、私が子供の頃にブリンダさんと出会い結婚されてアルバートくんが生まれたわ。バーマーさんはあまり日本語が上手ではなかったし、ブリンダさんは日本語が分からなかったけれど、アルバートくんはよく遊びに来て日本語が上手になって、バーマーさんも上手になっていったわ。でも二面性などは分からなかった。アルバートくんが言うには、あの事件の三年前からブリンダさんが棺で寝るようになって動かなくなったというの。執事がよくバーマーさんに医者に行くことを薦めているのを断っている姿も見かけるようになって、それは二面性のことについてだったのね。そして事件が起きた。執事は庭で焼かれて、見るも恐ろしかった」
 やはり、視えた通りだった。女性の納められた棺も、庭の執事も、バーマーの狂気の二面性も。
「あの助けに来た青年はその後は?」
 響子は朱鷺島を見て、本当に視えているのだと、心を読まれることに多少不安になった。
「静弥(せいや)のことね。彼はこの別荘地に来ることはなくなったわ。けれどおばさまの話では元気だという話よ」
 朱鷺島は頷き、響子に言った。
「普段は眼帯を嵌めている以上、視えないのでご安心ください」
「あまりにも視えるものですから驚いたのは確かよ。椿さんに何か不安があるようなら、わたくしどもに預けて下さってもよろしいの。この一年で、あの子の瞳の光りも強くなっているのは、感じていましたからね」
「僕も出来うる限り彼女を育てるつもりでいます」
 響子は初めてそこで微笑んだ。美しく。
「………」
 朱鷺島は視線を反らし、目を閉じた。あの宴の後のことを忘れなければ。自分には椿さんがいる。椿さんがいる。椿さんがいる。椿さんがいる。
 ふと冷たい指が頬に触れた。
「もっと見せて」
 朱鷺島のオッドアイを響子が見る。身を乗り出して、髪が二人の間に揺れる。
 いきなり無表情の響子の瞳からぽろりと涙がこぼれた。
「響子さん」
 そっと響子の身体が朱鷺島にしなだれ、そっと泣き付いた。思い出すことが辛かったのだろう。朱鷺島は彼女の狭い背を抱き静かに目を閉じ背と髪を撫で続けた。
 椿は扉からそれが見えて、焦りを覚えた。美しい響子さんが泣いているのを慰めているのは問題は無いのだが、相手があんなに美人では焦燥感を拭えずにいる。椿はそっと扉をしめ、引いていった。
「もう終わったの?」
 フランが廊下の向こうから歩いてくる。
「まだ多少時間がかかるようです」
「そうか。今は居間にいよう。それとも二人きりだし」
「今日は夕食は朱鷺島スペシャルか」
「猫太郎さん!」
 椿はいつも神出鬼没な青柳に笑って、二人きりの時間だったのにとフランが言って三人で歩いて行った。
 響子は夕食をと誘われたが、今日は疲れたのでと丁重に断り帰って行った。椿が彼女の別荘まで送る。
「あなた、お強いのね。椿さん」
「え?」
 椿は驚き、背の高い響子の顔を見上げた。楕円を重ねたような壁にこげ茶色の屋根の別荘は濃い色の木々が密集し、覗く芝にはきらきらと光る小さなオブジェがある。屋内はシンプルな漆喰と黒鉄の装飾だが、室内は姉妹それぞれの落ち着き払った大人びた趣向だ。響子が焦げ茶の観音扉に両手を掛けながら言い、椿を寂しげに微笑み見つめた。
 いつも、響子は椿にとても優しい。
「……!」
 椿はそっと響子に口付けをされ、ぱちぱちぱちっと瞬きをした。響子は椿を恋人にしたいと思ってもいるが、どうやら椿自身は朱鷺島を想っているようだ。それもあって、二人で支えあいたいと思っているのだろう。しばらくの口付けが続き、そっと響子は離れて行った。
「送っていただいて、どうもありがとう」
「はい……ゆっくりお休みください」
 椿ははにかみ、頭を下げた。
 扉は静かに閉ざされた。女性にキスされたのは五回目で、女友達にだったり、ビアンの子にだったり、挨拶程度だったりもしたが、響子からは女性同士での愛情の瞳を感じた。とても、寂しげだった。
 響子は自室の黒シルクのベッドにどさっと沈み、顔を押さえた。誰かにすがり抱きつき甘えたい、と思う気持ちが強くなることがある。自身の身体を抱きしめた。
 起き上がると、リュートを手にして思うままに奏で始める。癒される。身も心も。旋律が全てをかき消す。そこに、朱鷺島のならしたクリスタルの心地よさが重なり笑顔になる。椿の微笑みながらのハープが重なり、包まれる。元バーマー邸に彼らが来て良かったのだと、思った。薔薇が癒し、薫りをうずまかせ、そして朱鷺島は微笑み、椿がハープを奏でるのだから。

第五章 茶色い煉瓦塀の少年

 誰もが寝静まった夜、庭園で一人朱鷺島は気分を落ち着かせるために星空を眺めていた。時々流れ星が流れていく。屋敷背後の林はふくろうの鳴き声でさらに静けさを増していた。
「朱鷺島さん」
 彼は振り返り、椿を見上げた。眼帯を嵌めようとしたが、この暗がりでは大丈夫かもしれない。椿は彼の横に座り、白い肌が浮き、瞳が星に光る朱鷺島を見てから肩にこめかみを預けた。彼も彼女の肩を引き寄せた。
「寒くない? 椿さん」
「大丈夫です」
 星を見上げていると、まるで二人の姿も映ってしまいそうなほど透明度の高い星空だ。粒子が細かくて手を伸ばせばさらさらとした星の感触まで指先に伝わってきそうなほどの。
 椿は彼の白水色の瞳を見上げた。星を見上げる瞳を。初め、まるで感情が伺えなくて怖いと思った瞳だったけれど、今はそんなことも無い。
「レイさん」
「………」
 言ってみて、椿は鼓動が早くなって視線を夜の夏の薔薇に向けていた。
「……椿」
 椿は顔を上げぱっと朱鷺島を見て、朱鷺島は彼女の瞳を見つめた。
「僕についてくるのは、これからも想像以上に大変なことも伴うと思う。僕は出来るだけ椿を助けるし、何よりも、傍にずっといてもらいたい」
「レイさん……」
 椿の頬が薔薇色に染まり、朱鷺島は頬に手を添えてそっとキスをした。椿も瞳を閉じた。薄手のシャツに夜風が寒いが心音は早鐘を打ち、夜露に濡れる薔薇の薫りを乗せる風が開かれた襟から入ってくる。朱鷺島は椿の手を掴み指を撫でながらキスをそっと離した。椿の手は鼓動がどくどく伝っている。ほの温かい。朱鷺島は彼女を連れて屋内へ戻った。薔薇の見える室内で星明りのもと抱き合い、目を閉じていた。月影に、軽いステップを踏む。

 朝早くからフランが部屋にいろいろ置くために計画を立てようと屋敷に入って階段を上がって行った時だった。
「………」
 フランは瞬きをし、朝から朱鷺島の部屋から出てきた椿を見た。ネグリジェで、それで身を返して見上げている。朱鷺島がドア越しに立っていて、椿の髪を気遣わしげに撫でて微笑んだ。椿は頬を染めていじらしく微笑み、そして身を返して小走りで走って行った。
 フランは口をあんぐりあけて目を丸くし、朱鷺島は椿の部屋のドアに椿が消えて行ったのを見つめていたが、何かの気配に気付いて猫かと思って振り返って、フランを見た。
「なんだ。こんなに早くから」
 大学時代にも唯一一人だけいた朱鷺島の彼女を見た事があるが、確か五歳年上の美しいサックス奏者でクールな彼女だった。もともと落ち着き払った朱鷺島でクールなので、同世代の大学生よりも大人な女性が似合ってはいたのだが。
 フランは椿の部屋の方を見ながら歩いてきて、朱鷺島を見た。
「先輩……何かあったんですか」
 朱鷺島は口をつぐんで、即刻ドアを閉めたのでフランが手で阻止した。
「付き合ってたんですか」
「野暮なことを、そんなこと分かりきったことだろう」
「だからって僕がここに住んでいると知っていながら」
「猫太郎さんの所にでも黒猫軍団の所にでも帰ってくれ」
「うわああ」
 朱鷺島はフランの口を押さえて喧しくされる前に黙らせた。
「いいか。騒ぐな。レディに聴こえたら失礼極まりない」
「た、確かに」
 フランはがっくりうなだれた。
「国から一人女でも連れてくるんだな」
「無理です。彼女らは我侭で二秒と黙っていられないんですから」
「お前は自分が一秒も黙っていられない種類の人間だといつになったら分かるのか」
 フランはそんなこんなで落ち込んで宇治木邸へ帰ってきた。だがこれから手はずを取ってある荷物を送ってもらうので、早めに日本の宅配センターに連絡をいれなければならなくて慌てて電話を入れた。
 日本は仕事が早いし24時間受付というすごいシステムがあるので、フランは意気揚々と連絡を終えてさっそく陽が昇る前に宇治木邸の庭に笑顔で水撒きを始めた。既に朱鷺島邸へ来る前に薄暗い中を小さくボリュームを絞ったラジオ体操第一第二第三第四を済ませてあった。
「今日は自転車を手に入れなければならないな。この静かな別荘地にそうそうバイクの音を響かせるのも可哀想だ。とはいえ歩いて宇治木邸と先輩の屋敷を往復すればいい話だし」
 今日も独り言を言いながら水撒きを終えると、早速朝食作りに取り掛かった。その頃に青柳が起き上がり、共に朝食をいただく。
「昨夜の話はもう聞いた分はまとめたのかね。心理状況などいろいろなことは」
「あらかた箇条書きにしなおしたので、被験者の普段の心理状況を聞くために早速七時辺りから生活リズムを調査するため被験者を屋敷へ呼び、脳波の測定を」
 青柳がぽかーんとして、フランは言った。
「取りたいところですが、ここは大学院じゃないですからね。研究材料には出来ないので僕の手持ちのデータを照らし合わせながら、これからだんだんとみなと仲良くなっていって探ってみるのもいいと思うんです」
「そうだな。驚いたよ」
「ふふふふふ」
「どうした」
「依頼者にはきっと一度しか会えませんし、直接彼らには聞けませんからね。それほど先輩と共同で研究が出来るというものです」
 フランがパンにバターを塗り、チョコクッキーと生クリームとチョコチップを挟んで蜂蜜を垂らして食べるので、食べるものまで喧しかった。これでは朝から血糖値が上がって行動出来るわけだ。日本人の青柳には真似できない朝食だった。
 青柳は植物性のものには口にしないので、牛乳や場他も蜂蜜も玉子も魚も肉も食べない。いわゆるヴィーガンというものだ。朱鷺島スペシャルというのはヴィーガンの青柳のために朱鷺島が作る料理で、豆類が並んでいる。
 朝食も終われば、早速森に散歩に行くことにしてフランは屋敷を後にした。その帰りか行きにでも朱鷺島に言って、人里まで車で行ってもらって自転車を手に入れよう。
「………」
 門を越えて路を行こうとすると、瞬きをして立ち止まり、右斜向かいを見た。茶色のレンガの塀で、一部が等間隔に黒鉄の柵になっていて木々が見えており、その木と柵の間に男の子が格子を掴んでフランを大きな横目で見上げている。赤い口をつぐんで。フランはそこまで歩いて行った。
「どうした坊や」
「いじんさん」
「うん?」
「いじんさん」
 男の子は身を返して姿が見えなくなった。フランは首をかしげて、散歩に出かけることにした。男の子がボールを持って浴衣姿で出てくると、歩いていってしまうフランの背中にボールを投げた。
「ん?」
 振り向くと、男の子がいる。日本の祭りのときなどの古いかっこうをしていて、着物とか浴衣というものだ。フランは歩いて行った。
「こっち来て。いっしょあそぼ」
「うん。いいよ」
 フランは男の子について行き、茶色い煉瓦と鉄柵の塀の緑で屋敷の見えない家の門扉へ進んだ。ぎいいと鈍い音で門が開き、入って行った。そこは平屋建ての木造の建物があり、古めかしい作りをしている。
「なにしてあそぼ。かくれんぼしよ」

 「フランが?」
「昨夜は共に自転車を買いに行くと言っていたが、まだ散歩をしているのか」
 朝早くから一度来たきりでそれから顔を見せていない。猫が開けられた窓から入ってきて、朱鷺島に飛び乗った。
「? どうした」
 猫を抱えて顔を見ると、頬を舐めてくる。黒猫男爵は身体が重いので膝に下ろした。執拗に顔を舐めるので、何かあったのかと思って眼帯を取って目を見た。
 すると、白い壁と木の間から男爵の視野が何か見ている。見慣れない煉瓦と鉄柵の門扉に、一人でフランが入って行ったのだ。どこだ? これは。
 男爵が物陰から飛び出して歩いていき、その塀に飛び乗って木に飛び移り、庭に降りた。すると、日本の昔の作りの学校のような建物があり、フランがその建物に入っていこうとする。男爵はごろごろと喉を鳴らしていて、辺りを伺ってからその変のにおいをかぎ始めていた。
「どこだ、ここは」
「何か見えたのか」
「いや、フランが見知らぬ塀の門に入って行ったんです」
 続けて、まだ視える。男爵はその敷地の塀から出て、辺りを見ると、なんと左斜向かいに宇治木邸があった。
「変だな。屋敷が無いはずの所に屋敷があって、そこにフランが入って行った」
「なんだと?」
 朱鷺島と青柳は立ち上がり、男爵もともに走って行った。
 路を走って行き、そして見上げてもやはり見慣れた林の木々があるだけである。男爵の映像で見た建物は無い。
「幽霊館?」
「まさかそんな。噂でもあるのか」
「聞きに行くことにします」
 颯爽と身を返して朱鷺島は月宮屋敷の隣、風森屋敷の門扉をくぐった。青柳が道路で林を見ているが、やはり林だ。
「はい。あ。探偵さん」
 小学生五年生の女の子が顔を出した。いつもはメイドが顔を出すが、今は昼時なのだった。
「こんにちは。お昼の時間だったかな」
「もう食べたわ」
「ご両親はいるかな」
「ええ。待っていて」
 風森サヤカが引いていき、しばらくして家主が来た。
「これはどうも。この前は美味しいワインとチョコレートをありがとう。それで今日はどうされて」
「実はお聞きしたい事があるのですが」
「どうぞ」
 応接間に促そうとする家主に言った。
「手短で大丈夫です。以前、この屋敷の左隣に建物が?」
 家主は面食らった顔になると言った。
「林には小さな社があるだろう。それ以外は今は無いが、ここが別荘群になる前はサナトリウムのあった場所でね。それも明治の時代のことだよ。社はその時代に亡くなった方々の魂を祀ってあるんだが」
「それは初耳です。ちょっと気になったもので」
「建物でしょ?」
 サヤカがひょこんと顔を出して言った。
「私も小さい頃は見えたのよ。お手伝い誰も信じてくれなかったけれど」
「そんなこと私は初耳だぞ」
 サヤカが「忙しそうだったから言ってないわ」と肩をすくめた。どうやらメイドが子供の言ったその事を雇い主に報告しなかったことを怒っているようだ。
「探偵さんも見えたんだ」
「サヤカ。いつのことだね?」
「私が5歳ぐらいまでよ。夢だったのかと思ってた。蔦が這う門が硬く閉ざされてて入れなかったけど」
「そうなのか。困ったなあ。そのころのメイドは総換えになる前か」
 サヤカはなんとなく雲行きが怖くなってきたので肩をすくめて「夏休みの宿題してきまーす」と言って歩いて行った。三年前、サヤカとは森で会って自由研究の手伝いをしてあげたことがあったのだ。なのでその頃は冒険家さんと呼ばれていたのが懐かしい。彼らは夏の時期の避暑や春の休みの時期に別荘地として利用している他は、風森家の親戚が草原の別荘地に自由に宿泊しに来るので誰かしらを見かける。
「とにかく、林を見回ってみます」
 朱鷺島が風森屋敷を出て、林にいる青柳に声を掛けた。青柳自身はよくこの辺りを見て植物研究の場所にしているなかに含まれているので最近は慣れた場所でもあった。
「奥の社がサナトリウムの慰霊碑のようなものということか」
「そのようです。フランもサヤカも、それを見ていたみたいだ。しかし、この場所だというものを僕には分からない。男爵は青柳の足元でくんくん匂いを嗅いでいて、朱鷺島は男爵を抱え揚げると奥の社まで歩いて行った。そこで下ろすと、男爵はくんくん匂いを嗅いでいる。「ンー」と短く泣いて見て来る。
「何か心当たりが?」
 眼帯を外して男爵を抱え上げると、男爵のなかの薄れそうな記憶が見えてきた。やんちゃなロサが一匹で見知らぬ塀に入ってしまったので、男爵が慌てて追いかけ、それで人間の男の子がロサの毛を撫でているのを見たのだ。その時も特徴的な香りがして、子供が大きな黒猫の男爵を見るとちょっと怖がって立ち止まった。男爵は子猫のロサの首根っこをくわえて、子供をじっと見ながら塀に戻っていき、それで塀を越えるとざっといつもいる屋敷の塀まで走って行った。
 その匂い、何だろうか。つんとする。薬品? なのだろうか。
「何だろう。薬品の匂いの記憶がある。男の子がロサと遊びたがってたみたいだ。あの塀があって……」
「おい、」
 青柳の声に意識がはっと戻ると、そこは林のなかではなくなっていた。
「え?」
 男爵が降りて辺りを見る。朱鷺島が見上げる場所には、建物があった。
「どこだー!」
 その、サナトリウムという話の建物だろう、平屋建てからフランの馬鹿でかい声が聞こえる。薄い窓を透かして。
「ここかー!」
 フランが窓から見えて歩いていて、また引いていった。そこに、他の窓に男の子が現われてくすくす笑い、それでまた引っ込んだ。
「おーい! あ! 見つけたぞ!」
「あはははは!」
 フランが男の子を見つけたらしく、抱え上げておなかをくずぐったりして笑わせていた。
 朱鷺島が即刻行こうとすると、青柳が一度肩に手をかけ止めた。
「あの男の子は幽霊のようだな。ロサとも遊びたがっていたということは、寂しがっているようだ」
「ええ……。社がどういった管理をされているか分かりませんが、このままではフランが心配なので、行きましょう」
「そうだな」
 男爵もついてくる。
 建物に入ると、やはり薬品の匂いがした。空間に記憶された匂い、だろうか。普段はしないのだが。
「フランが言っていたが、空間や水は物を記憶するといっていた。もしかすると、屋敷や林や土地にも記憶があって、それらが見せているのかもしれないな」
 建物も。四年前、あの屋敷に来たときも、響子の記憶が見えたときも頭痛がした。建物が訴えてきたものだったのだろう。建物に染み付く空気感が。
 外側からは古めかしい建物だったが、入ると当時のままのように新しかった。フランの声がする方へ急いだ。
 ドアを開けようとすると、すっと締められたドアから男の子だけが透けて廊下を走って行った。がららとドアが開けられ、フランは驚いて朱鷺島と青柳を見た。
「フラン」
「帰っちゃわないで!」
 朱鷺島が廊下を振り返ると、その先で男の子が浴衣を握り締めて彼らを見ていた。寂しそうな目をしている。
「坊や……」
 朱鷺島は歩いていき、男の子の前にしゃがんだ。フランは首をかしげてそこに来る。
 男の子は朱鷺島の目を見た。
 男の子の記憶が朱鷺島に流れ込んでくる。こげ茶色の塀からいつも見ている風景で、青柳がいたり、黒猫以外でも散歩をする犬やマダムがいたり、時々子供が不思議がって覗いてきたり、誰か迷い込んで一緒に遊んで帰っていったり、ロサもいた。
 そして、病室の記憶もあった。咳き込む人々。白い衣服の看護婦が行き来している。薬品の匂い。男の子はその頃、体は無かった。ただただよう空気で、この建物のなかにいた。いろいろな願いが聴こえた。心の祈りのようだった。空気はそれを聞いていた。治りたいという願いだった。それは空気や建物に染みこんでいた。
 時代が変わると建物はなくなったが、空気の記憶だけは残っていた。社が建てられると、空気はそのなかに入り込んで休んだ。もう咳き込む人の声も、急いで歩いていく看護婦の姿もない、静かな場所だった。社から見ていると、多くの人間が建物のあったところに苗木を植え始めていた。その頃から、楽しげな声が聴こえたこともあった。社にいろいろな声が反響した。空気の記憶は遊びたいと思った。子供が苗木を植えていることもあった。みんなで並んでおにいりを食べて会話し合って笑っているので、その男の子の姿を見て、覚えようとした。おばさんもおじさんもおねえさんもいろいろな人が植林をしていった。それで帰り。いつもみんなが社の前にきて手を合わせた。空気は社からそれを見上げていた。
 そして、だんだんと苗木が埋まっていくと、人は管理の人がくるほかはあまり入ってこなくなった。空気は寂しかった。なので、あの男の子の姿を思い出していた。いつしか、空気はその男の子の身体を手にいれていた。社の周りで一人遊んだり、大きくなっていく苗木を見回ったりした。苗木は幼木に、幼木は男の子より、小さな社より、どんどん大きくなっていった。すると、長い林が騒々しくなる時期があった。いつしか、そこに立派な建物が建って行った。
 しばらくすると、笑い声とか、話し声とか、聞いたことの無い音が響くようになった。別荘群が出来たのだ。社の空気は男の子の姿になって、時々林からそれを見た。ただ、林から出ることは出来なかったので、路を走っていく子供や、大人や、動物を見ていた。動物は林によく来る野生の動物とは違って、大人の人間を連れていて飼われているようだった。
 いつしか長いときを経て、男の子も自分がもといた建物を具現できていた。もしかしたら、建物が同じようにあれば来てくれるかもしれないと思った。時々、小さな子供は気付いて一緒に遊んでくれる。猫や犬も来てくれる。けど、あまり長いことは遊ばないようにした。自分の感じる時間と、外の人が感じる時間があまりにも違うことが分かっていたからだ。散歩で見慣れた女の子はすぐに大きなお姉さんになるし、そしておばさんになる。おねえさんになると、もうこの場所は見えないみたいだった。それも、何人もそうだから分かっていた。時々、社にお花を供えてくれる人もいる。だから、時々人が気付いてくれたら、遊びたい。
「あそびたい。ちょっとだけ。ちょっとだけだよ」
 男の子の声が聞こえ、朱鷺島は男の子を見た。彼は触れられるか分からなかったが、その男の子を引き寄せて抱きしめていた。
 空気の男の子はうれしくて、微笑んでいた。
「わかってるよ。大丈夫だよ。僕はここにいるだけ」
 空気の男の子は分かっていた。病室で咳き込んでいた人々の願いは治りたいことだった。命の尊さを分かっていた。
 朱鷺島が次に目を開けると、林に戻っていた。
「え、あれ?!」
 フランが驚き、林を見回した。そこには、静かに社が立っている。
 彼らは風森屋敷を訪れ、他の家主のことも呼んでもらうことにした。
「社を定期的に祀るようにする、ということかな?」
「大々的ではなくてもいいと思うのですが、寂しくいつもぽつんと立っているでしょう。だから、お供え物をよくしたり、花を生けてあげるだけでもいいとおもうんです。もちろん、昔のサナトリウムのこともありますから、年に数回、それらの慰霊に関係した行事や、我々だけで何かを行う小さな行事だけでもいいと思うんです」
「あの男の子もよろこぶかもしれない」
 そう言ったのは、朱鷺島屋敷の向かいにある屋敷の主だった。響子姉妹を危ないからとバーマー邸から離れさせた三上さんだ。
「どういったことです?」
 風森が聞いた。
「子供の頃に幻だったのか、夢だったのか、社に花を持って行った次の日に男の子が現われて、一緒に遊んだ。見た事が無い子だったから林の精霊だと思っていたよ」
「僕もです!」
 フランが言い、どんっと胸を叩いた。
「かくれんぼしました」
 風森は驚いた顔で二人を見た。
「えっと、どういう? サヤカも建物を見たらしいが」
「きっと昔の記憶が見せるものです。社に花やものを備えて、人がお祈りをしてくれればよろこんでくれるのだと思います」
「不思議だ……」
 風森は言い顎を撫でた。
「ええ。良いですね。社を大切にすることはとても大切なことです。林の守り神でもあるんだ」
「このことは言い伝えていきましょう」
 フランは微笑んでから言った。
「僕も自転車を買いに行ったときに花屋で何か買ってこよう」
 フランはうんうん頷いていたら、ふとなにもないところをみた。
『ありがとう』
 フランは男の子の声が聞こえて視線で見回したり仰ぎ見た。フランは一人微笑んで「うん」と言った。
 翌日、サヤカやフラン、椿が社のところにきて、花を供えた。サヤカは手を合わせているので、椿とフランもそれに倣った。
 林の木々は明るい木々で、さやさやと揺れて涼やかな音を風と共に奏でている。椿のこのあたりの散策は好きで、気に入っている場所だった。
「あら。ごきげんよう」
 振り返ると、月宮三姉妹が歩いてきていた。ヒールのない靴で柔らかい土の上を歩いてくる。
 社の前に来ると、微笑んで手を合わせお祈りをした。
「この辺りは少女のころ、よく遊んでいたわね。懐かしいわ」
「時々楽器の一人練習もするけれど、本当に静かで良い場所だわね」
「ええ」
 社の空気の男の子は静かに微笑んで彼らを見上げていた。よく見かける美人なお姉さんもいるし、昨日遊んでくれたいじんさんもいる。
 美人なお姉さんの一人は数年前に男の人と来て、テントを張って二人で林の木々から覗く星空を見上げたりしていた。その男の人は何かあるとすぐに一人で林にテントを立てて、思い切り泣いてから帰っていったり、一人でテントで勉強をしたりなどをしていることもあった。静弥と呼ばれていた。最近は見かけないから、また大人になったのかもしれない。
 いじんさんは美人のお姉さん三人にうれしそうに話していて、空気の男の子はくすくすとおかしそうに笑った。
 また男の子は、木漏れ日の心地よさにうとうとと眠り始めていた。微笑を浮かべて。花が薫る。とても、良い薫り。
 社を訪れた彼らは、しばらくは林の散策をして笑い声や軽やかな会話が響き渡っていた。

黒猫軍団

 黒猫の子供でのんびり屋の薔薇子は黒猫婦人の横でごろごろとくつろいでいる。そのソファには椿が座って、竪琴を奏でている。
 普段はダブルアクションハープ、クラシカルコンサートでも見かけるタイプの大型のハープを奏でるのだが、手軽に移動が出来ないので、竪琴を奏でることもあった。ライアーハープというもので、絵画でも見かける、膝に乗せられる胴体サイズほどの大きさのものだ。
「この楽曲はもしかして椿さんのオリジナル?」
 フランが国から送ってもらった愛用のカンテレの三十六本の弦を調節しながら言い、椿は微笑んだ。
「高校の頃に友人と作曲した楽章の一部です。とても幻想的で気に入っているのです」
「うん。素敵な旋律だものね」
 フランがうれしそうに言うと、横の台にカンテレを寝かせた。カンテレは台や膝に寝かせて奏でる楽器なので、どちらかというと日本の琴のように水平な状態で奏でる。
 主にはカンテレのために作曲されたものを奏でるのだが、フランは他の曲への応用もした。
 朱鷺島は久しぶりにフランのカンテレが聴けるので楽しみでもあった。椿との共演も早く聴いてみたい。
 薔薇子がごろごろしてオッドアイで空間を見ていると、昆虫が窓から飛んできてそれを目で追い始めた。飼い主たちは楽器の話で夢中になっていて気付かない。
 そこに窓から黒とネーロがやって来てぴょんぴょんと遊び始めている。
 民族音楽的な旋律が奏でられ始め、黒猫たちはそちらを見た。いつも騒いでいるこのところ飼い主軍団に加わった男が楽器を奏でている。
 朱鷺島も椿も微笑み聴き始めた。この時ばかりはフランは静かな視線をカンテラの弦に落として両手の指で弦を爪弾いている。時々微笑みながら奏でて、ふふふと笑って爪弾いている。伴奏と旋律を両手で分けて共に奏でることが出来るので、音と音の重なりも良いものだ。
 室内にも、窓からも軽やかに旋律が転がるように響き渡る。
 フランはまるで会話や喋っているかのように奏でることもあるし、踊りだしたくなるほどの舞踏曲を奏でることも、単音でしんみりと奏でることもあるので、聴く者を楽しませた。陽が差し込んで弦を光らせる。彼の白い指も眩くして、夏の日差しが明るく照らした。風が一気に吹き込むと、子猫は風と戯れるようにじゃれあい始めた。それを黒猫婦人は目を眩しそうに細めて眺めていた。その黒猫のオッドアイにもきらりと光りが射している。黒い毛がふわふわとしていた。
 黒猫男爵が口に餌を捕まえて窓に現われたので、黒とネーロはとたたっとそこまで駆けて行った。庭でロサとローズも加わって食べている。黒猫婦人も薔薇子ものんびりと室内で旋律を聴きながら毛づくろいをしていた。

つづく

『黒猫探偵事務所2』

『黒猫探偵事務所2』 ビターチョコレート 作

オッドアイの千里眼を持つ青年、朱鷺島レイは森と緑の丘に囲まれた別荘地の屋敷に探偵事務所を構えている。一年前に起きた事件で事務所に加わり恋人になったビアンカ・椿と、トラウマ解明をしてもらった青柳猫太郎もこの別荘地で暮らすようになっていた。青柳のトラウマの内容や、一年前フィンランドの地で夢食い士の老人とともに解決した事件のその後を追います。新たに事務所のある別荘地でも様々な事が起こり、朱鷺島や新しく加わった仲間が解決へと導きます。

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更新日
登録日 2018-02-08
Copyrighted

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