運命の人

~wings of love~ 01. 望月小羽

「お兄ちゃん、早く早く!」
小羽(こはね)、待って。急ぐと転ぶよ」

休日の遠出、しかも水族館だというのだから、気持ちが(たかぶ)ってしょうがない。

入館間もなく、広がった神秘的な青の空間に、6歳上のお兄ちゃんを呼んだ。

「すごいね、壮観だ」
「ほんとだね。あ、あれってエイ? マンタ?」
「え? マンタってエイの仲間じゃないの?」
「そうなの?」
「俺も分かんない。かっこよく説明できなくてごめんね」

2人で水槽を覗きこんだ後、顔を見合わせて笑った。

普遍的な兄妹(きょうだい)って、どういうやりとりをして、どういう会話をするのだろうか。

隣にいる私の『お兄ちゃん』は、血が繋がっているわけでもなく、戸籍上の兄でもなく、全くの他人。

でも、幼い頃からずっと一緒に住んでいて、私の『お兄ちゃん』であり続けてくれている。

だから私も、彼の『妹』だ。

「イルカのショーが13時からか。それまでに一通り見て回って、お昼を食べようか」
「うん!」

周りからは、やはり兄妹に見えるのだろうか。それとも、カップルに見えることもあるだろうか。

「お兄ちゃん」
「ん?」
「手、繋いでいい?」

16歳にもなって、兄と手を繋ぐ妹がいるのだろうか。

たぶん、滅多にいないだろうから、駄目で元々、聞いてみた。

お兄ちゃんの顔が、強張(こわば)る。

「……ごめん、小羽」
「ううん、謝らないで。私も、わがまま言ってごめんなさい」

手を繋ぐことを拒否され始めたのは、いつからだっただろうか。

きっと、お兄ちゃんには、他に好きな人がいるのだろう。

そう、薄々と感じ取っていた。



=====
=====



今よりずっと幼い頃――私が5歳だったときのこと。

「小羽ちゃん、初めまして」
「……だれ?」
「僕は、綜真(そうま)っていうんだ」

母が入院していた病院で、ある男の子に出会った。

それがお兄ちゃん、千崎(せんざき)綜真。

上質な制服に身を包み、立派なネクタイを着けていて。

母が入院していて働けず、苦しい生活ばかり送っていた私は、彼は住む世界が違う人間だと思った。

だからこそ、近づくのが怖かった。

「小羽、初めましてってちゃんと返すのよ」

ベッドに横たわる母の言葉に、その男の子をまじまじと見上げて、口を開いた。

「は、はじめまして……」
「よろしくね。今日は、僕と遊ぼう?」

差し出された彼の手。

その手を取っていいのかと、母親の痩せこけた顔をうかがう。

母は、にっこり笑って頷いた。

「綜真くんは、お母さんのお友達の、由美子(ゆみこ)さんのお子さんなのよ」
「小羽ちゃん、大丈夫。うちの子は乱暴なことはしないから」

母も、由美子さんも、私たちの様子を見守っている。

「……うん」

おそるおそる、差し出された手を取ると、綜真くんは、優しく笑ってくれた。

病院の一角に、子どもが遊べる場所があった。

積み木やぬいぐるみ、絵本の並んだ本棚があって、時間を潰すにはちょうどいい。

綜真くんは黙ったまま、私の手を引いてそこに連れてきた。

「お母さんは?」
「母さんたちはね、大事な話があるんだって」
「私のお母さん、死んじゃうの?」
「え?」

母の病状のことを、私は何も知らなかった。

けれど、日に日に痩せこけていく姿を見て、母の死期が近いのではないかと、本能的に悟っていた。

「どうして、そう思うの?」

綜真くんは私をクッションに座らせると、私の目をまっすぐ見て聞いた。

穏やかで、柔らかい雰囲気のある綜真くんの声は、耳の奥に響いてなんだか安心できた。

「お母さんね、『もうすぐ天国に行くね』って言ったの」
「…………」

明らかに、綜真くんが言葉に詰まったのが分かる。

「死んだら天国に行くって、この前、絵本で読んだから」
「そっか。もう、文字が読めるんだね。すごいね」

彼は、話題を逸らそうと必死だったのだと思う。

幼すぎた私は、彼が質問に答えてくれないことに、もどかしさを感じた。

「天国に行くってことは、お母さん、死ぬんでしょ?」
「僕には、分からない。けど、小羽ちゃんのお母さん、元気だよ。さっきも普通に話していたじゃない」
「ほんと?」
「うん。信じよう」
「信じようってなに?」
「えっと、お母さんが元気になるようにお願いしようってこと」
「……うん!」

綜真くんは、私の両手をぎゅっと握って、笑った。

それが、胸の中で絡まった不安の糸を解くようで、同時に、好ましいと思った。

綜真くんともっと仲良くなりたい、もっと知りたい。

最初の警戒心なんて、どこかに吹っ飛んでしまった。

彼は、私の知らないことをたくさん話してくれた。

私の(つたな)い話も、いつも真剣に聞いてくれた。

綜真くんと初めて会った日を境に、母の親族が頻繁に病院にやってくるようになった。

理由は知らないけれど、私には父がいない。

母は、今はいない父と駆け落ち同然で家を出たらしく、祖父母からも勘当(かんどう)されていた。

母の入院後、私は祖父母の家に預けられていたのだけれど、もちろん待遇は良いものではなかったし、必要最低限の接触しかしなかった。

そんな味気ない日常の中で、綜真くんと会える日は、いつの間にか私の楽しみになっていた。

「お母さん! 今日は綜真くん、来る?」
「うん、来てくれるよ」
「やった! いっぱいお話するー!」
「小羽は綜真くんが大好きね」

母の前で、何も知らずにはしゃいでしまったことを、後悔するとも思わずに。


ついに、ある日、母はこの世を去った。



黒い服を着せられ、とにかくおとなしくしているようにと言われ、椅子に座って葬式が終わるのをじっと待った。

涙は、流れなかった。

きっとこうなると、なんとなく分かっていた。

これから先、1人で生きていくことになるのだろうと、絶望しかなかった。

「小羽ちゃん」
「綜真くん」
「おいで」

火葬が終わり、親戚が何やら話し込んでいる中、綜真くんが私を手招いた。

もう母はいない。

彼にも、もう会えなくなるのだろう。

近づくと、綜真くんが私を抱きしめた。

背中をぽんぽんと叩かれると、安心感と寂しさがないまぜになって、涙が(せき)を切ったように溢れてきた。

「お母さん、元気にならなかった……」
「嘘、ついてごめんね。信じようって言ったのに」
「ううん、綜真くんは悪くない」
「そっか、ありがとう。小羽ちゃんも、よく今まで泣くのを我慢したね」
「…………」

なきじゃくる私と、抱きしめてくれる綜真くんの元に、彼のご両親が寄ってきた。

別れの時だと分かるのに、離れたくなくて、綜真くんにぎゅっとしがみつく。

温かい手が頭を撫でた。

「小羽ちゃん、僕たち家族と一緒に住もう」
「……え?」

信じられない言葉が聞こえて、綜真くんの顔を見た。

嘘を言っているようには、見えなかった。

母の葬式から数日後。

住んでいたアパートは祖父母が引き払い、その後、私と少ない荷物を千崎家が迎えに来た。

後から聞いた話によると、私の祖父母は経済的に支援が難しいからという理由で、私を引き取ることを拒否したらしかった。

それを見越していた母は、綜真くんの母である由美子さんに、私の後見人になってくれるよう、お願いしたのだという。


連れて行かれた大きな一軒家に、踏み込む。

「小羽ちゃん、私のことはお母さんだと思わなくていいから。でも家族みたいに思ってくれると嬉しいなぁ」
「はい」

由美子さんは、お母さんが全幅の信頼を寄せていた人。

きっと信じられる。

「僕は初めましてだね。よろしく、小羽ちゃん。僕のことも害のないおじさんぐらいに思ってね」
「はい」

綜真くんによく似た顔で笑う、千崎真一(しんいち)さん。

「小羽ちゃん、また今日からよろしくね」
「うん」

いつも気遣ってくれる、優しい綜真くん。

私の姓は望月(もちづき)のまま、千崎家の新たな家族の一員として、受け入れてもらうことになった。



=====
=====



あれから11年と少しが経ち、私は高校2年生に、綜真くんは社会人になった。

由美子さんも真一さんも仕事が忙しくて、平日は夜9時過ぎにならないと帰ってこない。

だからいつも、綜真くんと一緒に晩御飯を作ったり、洗濯をしたり、助け合って過ごしている。


「お母さん、行ってきます」


毎朝、母の仏壇に手を合わせる。

望月小羽として生きていけるのは、母が千崎家に出会わせてくれたからだ。

そして、本当の家族のように、私を大切にしてくれるみんながいる。

母への感謝と、みんなへの感謝はいつでも忘れないようにしたい。

「小羽、そろそろ出られる?」

スーツ姿の綜真くんが、リビングから顔を覗かせた。

「あ、お兄ちゃん、もう行くよ!」

私と綜真くんの関係には、少しの変化が現れた。

ある時を機に、私は綜真くんのことを『お兄ちゃん』と呼び、そして、綜真くんは私のことを『小羽』と呼ぶようになった。

「兄妹じゃないのに、どうしてお兄ちゃんって呼ぶの?」と、周囲の人は言う。

本当の家族ではないからこそ、近い距離でいたいのだ。

綜真くんは、私の『お兄ちゃん』であり、大切で、好きな人。

神様が私に出会わせてくれた、『運命の人』だと信じている。


「お兄ちゃん、お仕事、大変?」
「うん、慣れるまでは辛抱だね」

駅までの道を一緒に歩くことは、毎朝の習慣だ。

お兄ちゃんは、研修で遠方へ出張することも多く、新入社員として奮闘する毎日が続いている。

そんなにも忙しい中で、昨日の休日も水族館に連れて行ってくれた。

優しいのは、昔から変わっていない。

「昨日の水族館、すっごく楽しかった」
「俺も息抜きになったよ」
「そう? イルカのショー見ながら、眠そうだった」
「えっ!? いや、あれは……」
「いいんだよ。疲れてたのに、私のわがままに付き合ってくれてありがとう」
「小羽には敵わないなぁ」

お兄ちゃんは、力なく笑った。



好きだという思いは、いつかは必ず伝えたいと思っている。

かつて一度だけ、『お兄ちゃん、大好き』と言ったことがあるけれど。

その時、お兄ちゃんはとても困った顔をした。

気持ちを伝えることで、この疑似兄妹の関係が崩れるのなら、今はまだ、このままで良い。

「小羽」
「ん?」

駅が近づいてきて、ふとお兄ちゃんが立ち止まった。


「あ、いや……何でもない」
「どうしたの?」
「何、言おうとしたんだっけ」

お兄ちゃんの顔から、先ほどまでの穏やかさは消えてなくなっていた。

「ふふ、変なの」
「うん。じゃあ、ここで」

それだけ言うと、改札の方に消えてしまった。

夏が近づいてきた、6月中旬のある日の出来事だった。


数日後、お兄ちゃんは家を出て行った。

私には、一言も伝えないまま。

~wings of love~ 02. 千崎綜真

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小羽(こはね)に初めて出会った当時、俺は11歳だった。


仕事で帰りが遅い両親を、1人で待つ日々。

兄弟姉妹がいればまだ違ったのだろうけれど、寂しさを我慢することが当たり前だった。

そんなある日、母が「友達の入院している病院に、一緒に来てほしい」と頼んできた。

直接関わりのない人の所へ、なぜ俺が行かなければならないのか、不思議でたまらなかった。

病室に入り、母の友達とその子どもである小羽を見た瞬間、その理由を漠然と悟った。

透き通るような白い肌で、桜色の唇を持つ彼女に、一目で心を奪われた。

それを必死で隠しながら、手を差し伸べると、小羽は戸惑うように俺を見て、恐れながらも手をとってくれた。



5歳とは思えないほど、自我の育っていた彼女は、俺と会えるのを毎回喜んでいるようだった。

俺も彼女の話を聞くのが好きだったし、次第に、会いに行くのが楽しみになってきた。

「小羽ちゃん」
綜真(そうま)くん!」

名前を呼ぶと、満面の笑みを浮かべて、駆け寄ってくる。

それが愛しくて、嬉しくて。

心の中で膨らんでいく感情の正体は、この時はまだ、一言では言い表せないほど、曖昧(あいまい)でふわふわとしていた。

けれど、小羽の母親が亡くなり、彼女が孤独に耐えようとしていたとき、「守りたい、彼女の支えになりたい」と強く願った。

慈愛(じあい)憐憫(れんびん)庇護(ひご)欲――言い方はいろいろあるかも知れないが、それだけは、はっきりと自覚していた。

子どもの俺に何ができるのだろうと悩んでいると、母から意外なことを聞いた。

「小羽ちゃんは、うちで引き取ろうと思うの。綜真は、どう思う?」

それなら一緒に住むことができるし、俺が小羽を守ってあげることができる。

突然見えた希望に縋りつくかのように、母の意思に賛同した。



千崎家に住み始めてしばらく経ち、小羽は近所の幼稚園に入園した。

両親に代わり、夕方になると、俺が迎えに行くのが当たり前になった。

「こんにちは。小羽ちゃんを迎えに来ました」
「あ、千崎さんのところの。小羽ちゃーん! お兄ちゃんが迎えに来たよー!」

悪気はないのだろうが、いつも小羽を連れてきてくれる先生は、必ず俺のことを『お兄ちゃん』と呼んだ。

その度に、数人の子どもたちが俺の方を見るのが、気になっていた。

「綜真くん!」
「帰ろうか」

黄色い帽子を被り、かばんを提げた小羽が、とことこ走って近づいてくる。

そのまま俺の手を自然に取り、先生に向かって丁寧におじぎをした。

「さようなら」
「小羽ちゃん、さようなら。また明日ね」
「はい」

俺も先生に会釈をして、幼稚園を後にした。

いつもなら、1日の出来事を細かく教えてくれるのだけれど、今日の小羽は静かだった。

隣を歩く彼女をちらりと見ると、真っ直ぐ前を見て歩いてはいるものの、目は虚ろでどこか上の空だ。

「小羽ちゃん、お友達できた?」
「うん、1人。分からないことがあったらね、いつも助けてくれるの」
「そうなんだ。それにしては元気ないね、どうした?」
「『一緒に住んでるのは、本当の家族じゃないんでしょ』ってみんなが言うの」
「えっ!?」
「いつも迎えに来る人も、本当のお兄ちゃんじゃないって」
「…………」

頭を殴られたかのように、目の前がチカチカした。

もちろん、そういうことを予想していなかったわけではないが、迂闊(うかつ)だった。

思っていた以上に、我が家の情報は幼い子どもたちまで回っているようだ。

かける言葉が見つからなかった。

何を言えば、傷ついた彼女を楽にしてあげられるのか、当時の俺には想像もできなかった。

無力で、情けなかった。

「綜真くん」
「うん?」
「綜真くんのこと、『お兄ちゃん』って呼んでいい?」

小羽は顔を上げて聞いてきた。

目は少し潤んでいて、真剣で、下唇を噛んで。


とっさのことに逡巡した。


彼女の本当の家族にはなれなくても、『代わり』になることはできる。

小羽は、それを俺に求めている。

でも、その垣根(かきね)を越えてしまったら、もう。


――元には戻れない。


自然と手に力がこもった。

俺の答えを待つ小羽は、俺と繋いだ手を見て不思議そうな顔をした。

彼女を守ると決めたことに、嘘偽りはない。

だから、腹を(くく)った。

「いいよ」
「! いいの? ほんとう?」

今できる、最大限の笑顔で応える。

俺が頷くのを確認した小羽は、照れくさそうに微笑んだ。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」

繰り返し呟く小羽。

俺は黙ってそのかわいらしい声を聞いていた。

彼女の『特別』になれたことの嬉しさと、もう元には戻れない虚しさが、解けない糸となって俺の心に絡みついてくる。

「じゃあ、僕も、『小羽ちゃん』じゃなくて、『小羽』って呼ぼうか」
「うん! そっちがいい!」

俺たちの仲の良さは、両親にはもちろん、近所の人たちにも瞬く間に広がっていった。

詳しい事情を知らない人たちは、本当の兄妹だと思い込んでいたぐらいだ。

だから俺は、いつでも『兄』として振舞ってきた。

夜、小羽が寂しいと泣き出した時は、俺と一緒に眠った。

帰りが遅い両親のために、家事を2人で協力してこなした。

テレビを見たり、遊んだり、勉強を教えたり――今まで1人だった空間に、いつも小羽がいた。

血は繋がっていないし、名字だって同じじゃない。

『妹』という見方以外してはいけないし、家族以上の感情を持ってもいけない。

そうやって、俺の気持ちはずっと押し殺してきた。

とても、苦しかった。



=====
=====


大学は家から通えるところを選び、卒業して就職しても、家から通うことに変わりはなかった。

気が付けば、小羽が家に来て、10年以上が経っていた。

「もしもし、小羽?」
「あ、お兄ちゃん! どうしたの?」
「今日は急に飲み会が入ったから、少し遅くなる」
「えっ、そうなの? ご飯作っちゃった……」
「ごめん。できるだけ早く帰るから」
「分かった! 楽しんできてね」
「うん、ありがとう」

電話を切って、溜め息をついた。

「彼女か?」
「うわっ! 小野寺(おのでら)常務!」

会場の居酒屋で、上司である小野寺常務が声を掛けてきた。

彼には、入社後からよく気にかけてもらっている。

厳しいけれど、人望のある上司だ。

「違います。妹です」
「妹? お前、妹がいるのか」
「はい。家に1人でいるので、心配で」
「過保護だな」

混乱を招かないために、基本的に余計なことは言わないし、小羽のことは『妹』で通している。

その度に、胸が痛むのも、もう慣れてしまった。

「妹? 初耳だ」
新道(しんどう)さんまで」

新道さんは、入社5年目の先輩で、俺を直接指導してくれている。

普段は口数が少なくてクールな人だけれど、小野寺常務と仲がよく、酒が入ると饒舌(じょうぜつ)になる。

「千崎が女っ気のない奴だとは思っていたけど、まさかシスコンとは」
「違います、やめてください」
「冗談だよ。妹思いの優しいお兄ちゃんか。俺のとこのじゃじゃ馬と交換してみる?」

新道さんは、意外だとでも言いたげに話しかけてきた。

「新道さんにも、妹がいらっしゃるんですか?」
「いいや、いとこ。4月から居候してる」
「へぇー」
「毎日ぎゃーぎゃーうるさいよ」
「楽しそうですね」

適当に相槌を打ちながら、ぼんやりと小羽のことを思い浮かべた。

彼女は、俺と離れることになったら、どう思うだろうか。



「千崎、もう帰るのか?」
「せっかく小野寺常務のおごりなんだから、もう1軒行こう」
「……おい。いつ俺がそう言った」
「すみません、妹が気になるので」

1次会が終わり、そそくさと撤退しようとすると、同じ駅で小野寺常務と新道さんも降りてきた。

2人はどうやら近くで飲み直すらしい。

改札を抜けて、出口に近づいたとき、微かな雨音が聞こえた。

「あれ? 雨、降ってます?」
「急だな。にわか雨だといいが」
「傘買えばいいじゃないですか、売店で」

新道さんの提案を聞いて、仕方なく売店に向かおうとした、その時。

「お兄ちゃん!」

まさかと思って振り向くと、小羽が、俺の傘を持って迎えに来ていた。

「小羽!」
「あ、えっと。夜、出歩いたらダメっていうのは分かってたんだけど。雨、降ってきたから」

(とが)めるような俺の声に、小羽が少しだけ身構えた。

「へぇ、妹か。似てないな」
「俺のいとこは、傘を持ってくるという発想すらないだろうよ」

小野寺常務と新道さんが、小羽を見てそう言った。

「こ、こんばんは。兄がいつもお世話になっています」

律儀に挨拶をする小羽を2人に自慢したいと思う反面、これ以上見せたくないとも思う。

「小野寺常務、新道さん。お先に失礼します」
「あぁ、気を付けて」
「また明日な」

家までの道を、小羽の手を引いてぐんぐん進む。

暗い夜道を、俺のために1人で歩いてきたのかと思うと、ぞっとした。



小羽が、小さな女の子から大人の女性へと変わりつつある頃。

夢の中で、俺は彼女を――抱いた。

目が覚めた時、俺は汗だくで、後悔と絶望の中、頭を抱えた。

けれども本能というものは恐ろしいもので、月日が経っても、何度も何度も夢の中で同じ行為を繰り返した。

「嫌だ、やめて」と泣き叫ぶ彼女に、痕を残すように。

辛かったし、罪悪感でいっぱいで、よく眠れない日が続いた。

それなのに、現実の彼女は無防備にも、毎日俺を頼って近づいてくる。

そして、ついに決意した。

「母さん」
「ん?」
「俺、一人暮らしするよ」

深夜、小羽と父さんが寝静まった後。

リビングで、持ち帰りの仕事を片付ける母に、そう話しかけた。

社会人になってまで実家に頼るのではなく、自立したい、と。

もちろん、それは建前で。

「いいけど、でもまた何で急に?」
「ずっと前から思ってはいたんだ。貯金を切り崩せば、母さんたちに頼らなくても出られるから」
「私は構わないけど、夜に小羽ちゃんが1人になるから、綜真がいてくれると助かるんだけど」
「小羽は、充分1人でやっていけるよ」
「綜真は、それで本当にいいの?」

ドキリ、とした。

母は、もしかして、俺の真意に気付いているのではないか。

「うん」



家を出る準備を着々と進める中で、小羽には俺から直接伝えると、母さんと父さんを口止めした。

何も知らない小羽は、毎日を本当に楽しそうに過ごしている。

彼女は強く、本当にかわいらしく、魅力的に成長した。


願わくは、彼女を心から大事にしてくれる人が現れますように。


――それが俺でないことは、分かっているから。

~wings of love~ 03. 崩れ、散る想い

お兄ちゃんが家を出て行ったと知ったのは、夕方、学校から帰ってきた後だった。

仕事がお休みの日は家でゆっくり過ごしていることが多いから、きっと家に居るものだと思っていた。



帰ってすぐ、お兄ちゃんの部屋の外から「ただいま」と声を掛ける。

返事がない。

疲れて眠っているのかと思い、とりあえずベランダに向かった。

私の毎日の仕事――洗濯物を中に入れる。

1つ1つ取り込んだ洗濯物をカゴに入れようとして、ふと違和感を覚えた。


お兄ちゃんの洗濯物だけが、きれいさっぱりなくなっている。


今朝、由美子さんと一緒に干した時までは確実にあった。


――嫌な、予感がした。


不安を掻き消したくて、慌てて洗面所に向かった。

歯ブラシ立てや棚の整髪剤を見ても、お兄ちゃんのものだけがない。

明日から、また出張だろうか。

その準備をしているのだろうと、ドキドキする胸を手で押さえて自分を納得させた。


しかし、万が一ということもある。

不安を拭い去りたくて、もう一度お兄ちゃんの部屋の前に急いだ。

「お兄ちゃん、ただいま。小羽(こはね)だけど、開けていい?」

ドアをノックして、声を掛けても返事はない。


不安が最高潮に達した。

早く、真実を確かめたかった。


「お兄ちゃん、ごめん。開けるね」



恐る恐るドアを開けると、そこは何もなかった。

ベッドも、机も、棚も、荷物全て。

本当に何もない、空っぽの部屋だけが広がった。

「……え?」


両足から力が抜けた。

その場に崩れ落ちて、体が震えた。

目を見開いたまま、つきつけられた現実を受け入れたくなくて、首を横に振った。

「うそ、だ」

幼い頃から何度も訪れた部屋。

ノックしたら、いつもお兄ちゃんが出てきて、私の頭を撫でて招き入れてくれた。

いつも優しくて、私を気にかけてくれていたお兄ちゃんが、もういない。

しかも、私には何も言わずに、出て行ってしまった。

私に伝えられない理由でも、あるのだろうか。

信頼していた人に裏切られる、とはこういうことだ。

部屋の中と同じように、私の胸も空っぽになった。


「なんで?」


いや、きっと何か事情があるはずだ。あのお兄ちゃんに限って、私に酷いことをするはずがない。

そう自分を納得させようとするけれど、事実は無情にも、受け入れろと迫ってくる。

堪えきれなかった涙が、溢れてきた。

それは、頬を伝って落ちて、床に染みを作った。

「なんで? お兄ちゃん……」


由美子さんが帰ってくるまで、私はその場から動けずにいた。

ただひたすら、お兄ちゃんのことを想って、ずっと泣いていた。


***



真一さんよりも先に帰宅した由美子さんは、家の中が暗いことで異変に気付いたようだった。

そして、お兄ちゃんの部屋の前で私を見つけ、床から抱き上げてリビングまで連れてきてくれた。

「はい、ホットミルク」
「ありがとう、由美子さん」
「せっかくのかわいい顔が台無しだわ、小羽ちゃん」
「そんなことないよ……」

泣き腫らした目をタオルで拭っていると、私の大好きな蜂蜜入りのホットミルクを、由美子さんが作ってきてくれた。

少しは落ち着いて考えられそうになったけれど、由美子さんの様子を見る限り、お兄ちゃんが出て行くことは、以前から承知していたのだろう。

心配そうにこちらを窺う由美子さんに、擦れた声で質問した。

「お兄ちゃんは、どうして出て行ったの? 由美子さんたちは知ってたの?」
「……あの子、小羽ちゃんに言ってなかったのね」

溜め息をつきながら、由美子さんが口を開いた。

由美子さんによれば、お兄ちゃんは、職場に近いところでいい部屋を見つけたから、そこに移ったということだった。

「小羽ちゃんには自分で説明するからって言っていたのよ」
「そう、だったの」
「小羽ちゃんがいつ見ても元気そうだから、本当に話したのか疑問に思っていたのだけど」

思い起こせば、数日前、駅に向かう途中でお兄ちゃんが何か言いかけた。

家を出るなんて私が知ったら、落ち込むって分かっていたのかも知れない。

絶対そうに違いない。

「小羽ちゃんの悲しむ顔を見たくなかったんでしょうけど、お馬鹿さんよねぇ」

誰に似たのかしら、と由美子さんがぶつぶつ文句を言っている。

それが理由で言えなかったのなら、私がお兄ちゃんに連絡をとっても問題ないだろうか。

私が嫌われたわけでないのなら――連絡して、「何も言わずに出て行くなんてずるい」って(とが)めればいい。

たぶん、笑いながら「ごめん」って言ってくれるだろう。


「電話して、みようかな」
「そうね。たくさん怒ってやりなさい」
「うん」

自分の部屋に戻って、深呼吸する。

携帯電話を取り出すと、羽根付きのストラップが揺れた。

以前、お兄ちゃんが出張先のお土産で買ってきてくれたもの。

「小羽のイメージにぴったりだったから」と、恥ずかしそうに渡してくれて、それ以来私の宝物になっている。

綜真(そうま)くん、と」

アドレス帳を呼び出し、『綜真くん』と書かれた項目を探した。

連絡先は、昔の呼び方で登録している。

これも『お兄ちゃん』と登録してしまったら、それこそ、本当の兄妹のようになってしまうから。

好きな人を呼ぶときのイメージだけれど、ただの私の自己満足。

決定ボタンを押して、電話を掛けた。

1回、2回、3回……複数回コールを鳴らしても、なかなか出ない。

また不安が募った。


「もしもし、小羽?」


直後、いつもの優しいお兄ちゃんの声が聞こえた。

ほっとして、ベッドの端に腰掛ける。

「あ、お兄ちゃん……」

あれだけ文句を言ってやろうと思っていたのに、いざとなると、言葉が出てこない。

「小羽、家を出ること黙ってて、ごめんな?」
「あ、う、ううん! びっくり、したけど。すごく」

お兄ちゃんに先に謝られてしまい、なす(すべ)がない。

結局、簡単に許してしまった。

私の中では大事件だったというのに。


「お仕事、大変だもんね。アパート借りたんだってね」
「うん。結構広いところだよ」

お兄ちゃんの言葉には、抑揚がなかった。

今、実際に電話で話しているはずなのに、お兄ちゃんがとても遠い存在に感じる。

「…………」
「…………」

しばしの沈黙。

お兄ちゃんと話しながら、互いが黙ることなんて、ほとんどなかった。

ぎこちない空気が流れているのだと、自分でも分かった。

「あ、いつか、遊びに行ってもいい?」

努めて、いつも通りの声で質問する。

お兄ちゃんが新しい生活をする場所だから、少し見てみたい。

そんな軽い気持ちで言っただけだった。


「あ、小羽。あのな」
「うん、なに?」
「俺、彼女ができたんだ」
「…………え?」

お兄ちゃんは、「彼女ができた」とはっきり言った。

彼は学生時代にも付き合っていた人がいることは知っているけれど、最近はずっと1人だったはずだ。

やっぱり、好きな人がいたんだ。

「だから、小羽が遊びに来ると、その、いろいろと……」
「そ、そうだね。彼女さん、勘違いさせちゃうもんね。私たち似てないし」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ! いいことなんだから」

必死になって、心にもないことを言った。

自分でも、今何を言っているのか、よく分からなかった。

「じゃ、また連絡するから。学校、頑張ってね」
「うん」
「家のことが大変な時は、連絡してくれたら少しでも帰るから」
「……うん、ばいばい」
「おやすみ」

通話を切り、お兄ちゃんの言葉を反芻(はんすう)した。

お兄ちゃんには恋人ができた。

だから、私はもう、お兄ちゃんの恋人にはなれない。

そして、単なる『妹』である私を、お兄ちゃんは遠ざけたい。


――深い谷底に、突き落とされた気分だ。


幼い頃からずっと築き上げてきた私の気持ちは、このまま成就することなく崩れ去るのだろう。

さっき止まったはずの涙は、再び溢れ始めた。

いつかは、告白しようと心に決めていた。

それなのにもう、告白することすら阻まれて、私の恋は儚く散った。

脳裏には優しいお兄ちゃんの姿ばかりが浮かぶ。

いつだって私の味方でいてくれた、この世で一番好きな人。

諦める方法など思いつかない。

「綜真くん……」

お兄ちゃんがくれたストラップを握って、涙を堪えようとするけれど、止まらない。

ベッドに倒れ込み、そのまま、意識を手放した。



=====
=====



「小羽、その(ひざ)どうしたの?」
「お庭で、転んだの」

幼稚園にお兄ちゃんが迎えに来るのが、毎日楽しみだった。

その日は確か、庭で鬼ごっこをしていて、転んだのだ。

膝をすりむいて、赤く血が(にじ)んでいた。

「小羽ちゃん、泣かなかったのよね。偉いね」

先生にそう言われ、『偉い』の定義がよく分からなかった。

「私、偉いの?」
「偉いというより、強いのかな」

綜真くんが困ったように笑って、そう言った。

強いという言葉は、褒め言葉だと思った。

「そっか。それなら嬉しい」
「うん。小羽、背中に乗って」
「え?」
「ご褒美に、お兄ちゃんが家までおんぶしよう」
「いいの!?」
「ははっ。喜び過ぎだよ」

先生への挨拶を終えて、綜真くんの背中側から腕を回した。

親にだってしてもらったことはない。

だから、嬉しくてしょうがなかった。

「ちゃんとつかまった?」
「うん!」
「よーし、じゃあ帰ろう」

お兄ちゃんが私の両膝を抱えて立ち上がり、私は彼の顔の横から、広がる世界を眺めた。

いつもより高い視界に、感動して。

それに加え、お兄ちゃんの――綜真くんの体温が伝わってきて、その温かさで心まで癒されていく気分だった。

転んでラッキーだとまで思ったのは、黙っていて正解だったかもしれない。

「お兄ちゃん」
「んー?」
「今日は、一緒に寝ていい?」
「急にどうしたの? 今日は甘えたくなった?」
「うん。私、強い子になる。だから、今日だけ、お願い」
「いいよ。小羽にお願いされたら断れないなぁ」

綜真くんが笑っている。

つられて、私も笑った。

「はい、着いた」
「降りなきゃダメ?」
「強い子になるんでしょ?」

ものの数分で家に着いて、玄関先で降ろされてしまった。

寂しいけれど、しょうがない。

「ありがとう」
「どういたしまして。消毒と手当てもちゃんとしようね」
「うん! お兄ちゃん、大好き」


精一杯の愛情表現。

お兄ちゃんは笑ってくれるだろうと思ったのに、見えたのは困惑した表情だけだった。

~wings of love~ 04. 振り切りたい想い

電話を切り、深く溜め息をついた。

「彼女ができた」なんて、嘘だ。

過去に、付き合った女性が数人いることは事実。

それは、小羽(こはね)への想いを振り切るため。

付き合ってみれば、他の人を好きになれるかと思ったけれど、何度試しても無駄だった。

しかも、小羽に気付かれないよう、隠していたのに。

いつだったか、当時付き合っていた子と一緒に帰っているところを、小羽に目撃されたことがあった。

その時、小羽はいつもと変わらない反応だったから。

内心がっかりしたのを覚えている。

もちろん、好きな気持ちがないのに付き合った俺も充分酷い男だ。

彼女たちにも、悪いことをした。


「小羽……」


彼女を傷つけないための嘘なら、これまでもたくさんついてきたと思う。

けれど、彼女を傷つけるような嘘は一度もついたことなどなかった。

さすがに、「部屋に来るな」とまでは言い過ぎたかもしれない。

電話を切る直前の小羽は、ショックを隠して無理に話していたことくらい、長年(そば)に居たから分かる。

慕っていた兄が急に居なくなったうえに、突き放されたのだ。


「ごめんな、小羽」


段ボールだらけの閑散(かんさん)とした部屋に、静寂が戻ってくる。

これから、小羽の声を聞くことは、ほとんどなくなるだろう。

空虚になった心は、ただ1人の愛しい存在を求めて、夢の中でまた彼女に手を伸ばした。


小羽を組み敷き、服を脱がし、白い肌に触れて、獣のような己の欲をぶつける。


そして、朝目覚めると、また罪悪感に(さいな)まれた。



***



「千崎ー! 飲んでるか?」
「あ、はい。お疲れ様です。いただいています」

また今日も、職場の飲み会。

開始後しばらくして、酔いの回り始めた先輩社員の1人は、グラスを持って俺の隣に座った。

「なんか、辛気臭い顔してるな」
「え、いや。楽しんでいますよ」

愛想笑いを浮かべて、その場を取り(つくろ)う。

同じ部門の社員が集まる場であっても、正直、酒の席は苦手だった。

付き合いの悪いやつだと思われたくないから、出席しているだけだ。

今までなら、小羽(いもうと)が家に1人でいることを理由に早く切り上げていたものの、俺が一人暮らしを始めたことはすぐに噂として広がってしまい、それもできなくなった。

「じゃあ、誰かかわいい子、呼んで来いよー」
「え?」

先輩が腕を回して、俺に耳打ちする。

酒臭い。

「あの子、確か……お前と一緒に入ってきた、那波(ななみ)だっけ? 結構な真面目ちゃんらしい」
「那波さんですね。ちょっと待っててください。呼んできます」
「おー、よろしくー」

先輩の腕をそっとどけて、席を立つ。

那波詠麻(えま)さんは、酔っ払いと絡ませるのは気が引けるほど、確かに真面目で誠実な女性だ。

新卒社員として俺と同時に入社し、研修や出張でも顔を合わせることが多かった。

その容姿ははっきり覚えているものの、大人数が集まった居酒屋の一室だと、全員がスーツを着ているため、なかなか探し切れない。

そういえば、那波さんは少し、小羽に似ている気がする。

同じ黒髪で、色が白くて、性格も芯がしっかりしている。

小羽の姿をぼんやりと思い浮かべながら、立ち尽くした。



「千崎? どうした?」
「あ、小野寺(おのでら)常務」

近くに座っていた小野寺常務が、俺に気付いて声を掛けてきた。

様子がおかしいと思われただろうか。

本来の目的を思い出して、慌てて取り繕った。

「那波さん、知りませんか?」
「那波? 俺の隣にいるだろ」
「え?」

小野寺常務の隣を見ると、確かに那波さんがいる。

普段は髪を後ろで1つ結びにしているのに、今は髪を下ろしている。

パッと見て、誰だか分からなかった。

「あ、ここにいたんだ」
「千崎さん、どうしたの?」
「あの、連れてきて欲しいって頼まれてさ」
「あ、お(しゃく)ですかね。ご挨拶に回れてなかったですね。ごめんなさい!」
「いや、こっちこそ、楽しんでいたところにごめん」

那波さんが立ち上がり、俺の隣にやってきた。

その姿を見ると、やはり少し、小羽に似ている。

「? 千崎さん?」
「ご、ごめん。行こう」

小野寺常務に軽く会釈をして、その場を後にしようとした。

頭を上げた瞬間、小野寺常務の不服そうな顔が見えた。

もしかして、大事な話をしていたのだろうか。

2人に悪いことをしたと思うと同時に、なにか違和感を覚えた。



「先輩、お疲れ様です」
「おーきたきた」

生け(にえ)を差し出すような気持ちになりながら、那波さんに危害が及ばないように、傍で見守る。

那波さんはお酌をしながら、先輩の話に相槌を打ち始めた。

しばらくは仕事の話をしていたが、少しずつ私生活の話に移っていった。

「へぇー。今、彼氏いないの?」
「あ、はい、まあ……」

先輩の手が那波さんの肩にかかった直後、とっさに体が動いた。

「先輩、そのへんで、ストップです」

できるだけやんわりと、先輩の腕を掴んでたしなめると、隣で那波さんが安堵(あんど)するのが分かる。

俺の反応を見た先輩は、最初は驚いていたようだが、すぐにニヤリと笑った。

悪いことを思いついた顔だ。

「ひゅー! あ、千崎、お前が那波と付き合えば? お似合いだろ」
「え?」
「おーい、みんなー! 千崎と那波が付き合うんだとー!」

先輩は部屋全体に響き渡るほど、大きな声で叫んだ。

「え、ちょ! ちょっと待ってください! 何を勝手に!」

那波さんも、周囲の人に対して、手を振って否定している。

2人して誤解を解こうとするものの、全員酒が入っているからか、(はや)し立てる雰囲気が濃くなった。

「千崎、お前彼女いないだろ? 付き合ってみればいいのに」
「えっ、いや……」

追い打ちをかけるかのように、新道さんがからかってくる。

そういえば彼は、酒が入るとよく喋るのだった。

「それに、そんなに否定すると、那波がかわいそうだ」

悪戯(いたずら)っぽく笑う新道さんの言葉に、はっとなって、那波さんを見る。

彼女の顔は、耳まで真っ赤だった。

「な、那波さん? 俺、別に那波さんが嫌とか、そういうんじゃないから、ね……?」
「もういいですよ、私。誤解されたままでも」
「え? どういう意味?」

彼女の言葉の真意がよく分からず、再度聞こうとした。

しかし彼女はそれを無視して、目の前にあったグラスの中身を、一気に飲んで空にした。

アルコール度数が20は軽く超えているものを、()で。

「え、ちょっ! 大丈夫?」
「大丈夫です!」

那波さんはそう言ったものの、やはり酒には強くなかったようだ。

会がお開きになる頃には、完全にダウンしてしまった。



「那波さん、家、どこ?」

周りの社員は皆、俺に彼女を押しつけて、どんどん外に出て行ってしまう。

「うーん……気持ち悪い」
「参ったな」

彼女を支えてどうにか店の外に出たものの、家が分からなければ送りようがない。

仕方なく、彼女の携帯を拝借してどうにか探そうとしたが、見つからない。

その上、片腕で彼女を抱えているから動きづらく、途方に暮れた。

「ごめん、那波さん。背中、乗れる?」

好きでもない男に触られるなど本当に嫌だろうが、どうしようもない。

とにかく背負っていって、タクシーを拾って、ホテルに預けよう。

しかし、那波さんはなかなか俺の背中に乗ろうとしなかった。

「那波さん?」

1人奮闘していると、不意に背後から声が聞こえた。

「こんなこったろうと思ったよ」
「小野寺常務! 良かった、手を貸してください」

二次会に向かったはずの集団から、小野寺常務が戻ってきた。

救われた思いで助けを求めると、彼の口から意外な言葉が発せられた。

「那波は俺が送る」

小野寺常務はそう言うと、俺の腕から那波さんを引きはがした。

そのまま、自然な流れで彼女の前に腰を下ろす。

「那波、背中に乗れ」
「はーい」
「完全に酔ってんな、お前……」

俺の時とは違い、素直に彼の背中に乗った那波さんは、安心したように目を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。

「那波さんの家、ご存じなんですか?」
「……まあな」
「じゃあ、お願いします」
「千崎」
「は、はい」
「那波はやめておけ。こいつ、本気にするから」
「……分かりました」

牽制(けんせい)、だと思った。

小野寺常務が先ほどの騒ぎをどれだけ把握しているのかは分からなかったが、正直、ヒヤリとした。

本当に恋人を作ってしまえば、俺の小羽に対する罪悪感や、愛しいという思いを振り切れるんじゃないかって思ってしまった。

今までの経験上、それが効果のないことは理解している。

けれど、那波さんは小羽に似ている――それに、甘えようとした。

彼は、詳しいことは何も知らないはずなのに、俺のやましい気持ちは見破ったのだろう。

俺は、とことん、ダメな人間だ。



小野寺常務は那波さんを背負ったまま、タクシーが拾えそうな大通りに向かった。

その後ろ姿を見送り、俺も、おとなしく帰途(きと)に就いた。



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おんぶといえば、小羽が幼い頃、幼稚園の帰りにしてあげたことがある。

大きくなってからはもちろんないけれど、あの時の喜びようは、今でも覚えている。

「強くなる」と、約束したあの日以来、小羽はほとんど泣かなくなった。

もっと褒めて欲しいとでも言いたげに、毎日嬉しそうに頑張った出来事を報告してくれた。


「お兄ちゃん、大好き……か」


彼女が俺に愛情表現をしてくれたのは、あの日が最初で、最後だった。

どう反応するのが正解だったのか、今でも分からない。

彼女の言葉は、『兄』に対するものであって、『異性』ではない。

それがはっきりしているからこそ、「僕も、大好きだよ」と返してあげれば良かったのに。

当時の俺は幼すぎて、返す言葉を見つけられなかった。

困惑した表情を浮かべていたのを、小羽は幼いながらに理解したようだった。

その時から、俺たちの間には、見えない壁がある。



アパートの部屋に着き、ソファに身を投げる。

酒は抜けきっていないはずだが、酔いは()めたようで、意識ははっきりしていた。

今までなら、玄関を開ければ小羽が迎えてくれていた。

今は、ただただ、暗い世界が広がるだけだった。

運命の人

運命の人

幼い頃から想い続けている人。久しぶりに再会した人。偶然出会った人。失恋から始まる恋。押し殺せない気持ち。あなたは『運命の人』の存在を信じますか?年齢も性格も異なる男女6人が主人公の、切ない恋が実る恋愛物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-02-03

Copyrighted
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Copyrighted
  1. ~wings of love~ 01. 望月小羽
  2. ~wings of love~ 02. 千崎綜真
  3. ~wings of love~ 03. 崩れ、散る想い
  4. ~wings of love~ 04. 振り切りたい想い