温泉ボーイズ フラガールに恋して

『 温泉ボーイズ フラガールに恋して 』

 平成十九年(二〇〇七年)の夏
 村田幸男はドイツ語のテキストから目を上げて、窓の外を見た。
 ドイツ語は一般教養課程の第二外国語として選択したものの、いまいち理解していない文法があり、復習していたのであった。机の端のグラスに手を伸ばし、ネスカフェを入れた牛乳を一口飲んだ。牛乳の冷たさとネスカフェの苦さが快かった。
 幸男は牛乳とネスカフェの組み合わせが好きで、冬ならば、電子レンジで牛乳を温めてからネスカフェをスプーンで一匙入れて、かき混ぜて飲むことにしているが、夏は冷たい牛乳にそのままネスカフェを入れて、よくかき混ぜて飲むのを自分の流儀としていた。
 しかし、今は夏だというのに、それほどの暑さは感じられない。
 七月も下旬だというのに、まだ、梅雨も明けない。一体、どうしたんだ、今年の夏は。
幸男はどんよりと曇った空を見上げながら、そう思っていた。
 「幸男、どうした。いい若い者が溜息なんぞ吐(つ)いて」
 後ろを振り返ると、父の正雄がにやにやしながら立っていた。
 「だって、今年の夏は異常だよ。七月の末になっても、まだ、梅雨が明けないなんて」
 「そうかと言って、いい若い者がなんだ。溜息を吐いても、始まらないぞ。友達と一緒に、どこかに遊びに行ったら、どうだ。勉強しているばかりが、能じゃないぞ」
 「どこかに遊びに行け、と言われても、こんなお天気じゃ、勿来に行っても仕方がないし。ラトブの図書館に行って、本を眺めても、ねえ。要は、退屈しているんだ、僕は」
 「行く当てが無い、か。なら、スパリゾートはどうだい。あそこなら、お天気も関係無く、プールでのんびりと泳ぐこともできるぞ」
 「スパリゾート、・・・、ねえ。ここから近くていいけど、入場料が高くって。僕の小遣いが減ってしまうよ。お父さんから、あまり貰っていないし」
 「入場料の心配なら、大丈夫だよ。株主優待の無料入場券がかなりあるから」
 「えっ、お父さん、あそこの株主なの」
 「そうだ。立派な株主だ。去年、高校の同窓会に顔を出したら、スパリゾートの親会社、常磐興産の社長をしているという先輩が出席していて、株を買ってくれと頼まれて、株主となった次第さ。年に二回、優待券を貰っているけど、あいにく忙しくて、使った試しが無い。君にあげるから、友達でも誘って行ってきたら。ガールフレンドを連れて行ければ、なお、いいけどね」
 「ガールフレンドなんて、いないよ。僕はもてないもの。そうだ。根津と前田が居る。あいつらを誘ってみることにするよ」
 「スパリゾートも去年の『フラガール』という映画のヒットで連日満員御礼の状態だとさ。買った株価も随分と上がっているよ。でも、僕の若い頃は、何だ、あんな腰振りダンス、恥ずかしくないのか、地元の恥さらしだ、と地元の人の眼は冷たいもんだったがなあ。いつの間にか、時代は変わるものだ。今は、このいわき市の自慢の種、一番の名所、地元の誇りだっぺ、と言ってさ。地元の人も結構調子がいいよ。僕もそうだけどね」
 そう言いながら、父の正雄は、『そんな時代もあったね、と・・・』と、中島みゆきの歌を鼻歌で歌いながら、階段を降りて行った。
 正雄は開業医で、いわゆる『団塊の世代』に属していた。
 去年の九月末に公開された映画『フラガール』を観て、思わず、涙した一人でもあった。
 松雪泰子と蒼井優が出演したこの映画は大ヒットして、第八十回キネマ旬報の邦画第一位、第三十回日本アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞した。ラストのエンディングテーマとして流れる主題歌『フラガール~虹を~』も感動を更に倍加させる名曲だった。
ハワイ在住のウクレレ奏者、日系のジェイク・シマブクロが作詞、作曲し、シンガー・ソング・ライターの照屋実穂が訳詞、歌った歌であった。
かつては、スパリゾートの前身、常磐ハワイアンズが創立された当初は地元に住む一人として、この施設を馬鹿にした一人であったが、映画を観て、感動して涙を流して、馬鹿にしていたことを後悔した正雄であった。
 そして、医者仲間にも声をかけ、常磐興産の株の購入を勧める一人ともなったのである。
 正雄は、若い頃は、情熱的なフラメンコに夢中になったこともあった。
 新婚旅行にスペインを選び、セビージャで本格的なフラメンコ・ショーも観たくらいだ。
 フラメンコは人生の悲しさ、辛さを訴え、ハワイアン、タヒチアンを含めポリネシアン・ダンスは人生の幸せ、喜びを訴える。フラメンコ・ダンサーは微笑ひとつせず、厳しい表情で踊るが、ポリネシアン・ダンサーは微笑を惜しげもなく振りまいて踊る。
 悲しみ、辛さ、幸せ、喜びといったものは、いずれも、人生の現実であり、真実である。
 二つの踊りに関して、良し悪しの差は存在しないと正雄は思っている。好みだけだ。
 そして、母親を早く亡くした幸男には、どことなく哀しみの翳(かげ)があるが、少なくとも、自分よりは楽しく幸せな人生を送って欲しいと正雄は願っていた。
 
 「幸村からの誘いって、珍しいんだよな。で、お誘いって、何だよ」
 根津峻太郎は喫茶店のシートに腰を下ろすなり、村田幸男に訊いた。
 隣で、前田基次がにやにやしていた。
 「又兵衛には話しているけど。実は、・・・」
 幸男の言葉を遮(さえぎ)って、前田が笑いながら言った。
 「幸村の話を聞いて、俺は笑ってしまったよ。だってさあ、暇潰しにスパリゾートに行こうっという話なんだぜ」
 「へえー、幸村がねえ。どんな風の吹き回しなんだっぺか」
 「親父がね、無料の優待券をやるから、仲間を誘って、遊んで来い、という話なんだよ」
 根津は幸男の言葉を聞いて、思わず噴き出しながら言った。
 「スパリゾートかあ。小さい頃、親に連れられて一度か二度、行ったきりだなあ。でも、今は、映画で評判を取っているし、面白そうだなあ。行ってみることとすっか。どうだい、又兵衛、三人で一緒に行くか」
 前田も根津の言葉に頷きながら言った。
 「うん、行くべよ。ほら、俺たちの中学同級の西谷美咲も居ることだっぺし」
 「西谷美咲って、誰だったっけ」
 「甚八、お前、もう忘れたのかよ。健忘症だなあ。ほら、陸上でハイ・ジャンプをやっていた、あの背が高く、ちょっと可愛いかった女の子だっぺよ」
 「で、その女の子が今、ハアイアンズに居んのかい」
 「聞いて、驚くなよ。湯本の高校を卒業して、フラガールの学校に入り、今、フラガールとして踊っている」
 「又兵衛、お前、やたら詳しいな。その西谷という女の子と何かあったのけ」
 「甚八、お前、邪推すんなよ。俺の親父は商売をしているだろう。で、地元の情報は何かと耳に入ってくんのさ」
 温泉プールで遊んだついでに、フラガールのショーを観て、西谷美咲がどんなフラガールになっているか、見てみようということになった。
 三人は小学校以来の親友で、それぞれを仇名で呼んでいる。
 村田幸男は、名前の「幸」と苗字の「村」を取って、『幸村』。
 根津峻太郎は、根津という苗字から連想されるのは真田十勇士の一人で幸村の影武者と云われた、根津甚八であり、『甚八』。
 前田基次は、名前の基次から連想されるのは後藤又兵衛基次という豪傑であり、『又兵衛』。
 いずれの仇名も、中学の担任が付けた仇名であった。
 担任の名前は石井彰という数学の教師であったが、痩せて小柄で顔がしわくちゃで、生徒からは『秀吉』と陰で呼ばれていた。
 猿顔でも、鼠顔でも無かったが、何故か付けられた仇名は『秀吉』だった。
 小さい体に似合わず、声と身振りが大きく、陽気な性格が秀吉イメージであったせいかも知れない。
 秀吉と言えば、徳川家康も忘れてはならない。生徒たちは校長にも仇名を付けていた。
 丸顔で胴回りも太鼓腹ででっぷりとしており、貫禄十分の肥満体であった校長は『大御所』という仇名を賜っていた。仇名を付けられるということは、嫌いか好きか、両極端に別れる。『秀吉』も『大御所』も、生徒たちからは好かれていた先生であり、生意気盛りの生徒はそのような仇名を付けることによって、自分たちの親愛の情を示していたのだった。

 幸村、甚八、又兵衛の三人は揃って、同じ高校に入り、大学は異なっていたものの、夏季休暇といった長い休暇の時は連絡を取り合っていた。幸村は中学では一番を通し、高校でも常に十番内の成績を維持し続けた秀才で、仙台の大学の医学部の三年生であった。
 甚八は早稲田・理工学部の三年生、又兵衛も上智大・外国語学部の三年生であった。
 
 八月に入って、梅雨も完全に明け、急に暑い日々が続いた。
 幸村、甚八、又兵衛の三人は株主優待の無料入場券を握り締めて、スパリゾート・ハワイアンズに行った。父の車を運転しながら、幸村が言った。
 「去年の映画以降、ハワイアンズは混んでいるという話だよ。おそらく、今日も混んでいるのに違いない」
 「当たり前だっぺ。しかも、今は夏休みの真っ最中だし、満員御礼に決まってっぺ」
 甚八が飴を舐めながら、当然といった表情で言った。
 「美咲も言っていたよ。映画で評判になるまでは、昼とか夜のショーはガラガラだったけんど、今は、ショーの観客席はほとんど満席の状態だって」
 又兵衛の言葉に甚八がちゃちゃを入れた。
 「何だよ、又兵衛。お前、美咲と連絡を取っていんのか。全く、隅に置けねえやつだ」
 「実は、この間、一人で行ってきて、携帯電話の番号とメルアドをゲットしてきた」
 「美咲に会ったのけ」
 甚八の問いかけに、又兵衛が、驚くなよ、という顔をして言った。
 「昼のショーの後、舞台周辺を歩いていたら、突然、一人の女の子に呼び止められたんだ。ハワイ風のムームーを着ていて、綺麗なダンサーだったけど、始めは誰か、判らなかったが、その女の子が何と美咲だったんだ。女の子って、化粧ですごく変わるもんだと、その時、初めて知ったよ。アイシャドウと付け睫毛(まつげ)で、とても中学時代、陸上で活躍していたあの美咲とは別人のように思えたんだ。勿論、ずっと、女っぽくなり、綺麗になっていた。で、俺、つい言ってしまった。美咲、お前、随分と顔が変わったんじゃねえか、整形でもしたんか、とね。失礼ね、と随分きつい眼をして怒られたよ。女の子はアイメイクとアイラッシュ、そして、ルージュとチークで華麗に変身することができるの、だって」
 「アイメイクとかアイラッシュとか、何だ、それは」
 「うん、俺も甚八と同じことを訊いた。アイメイクはアイシャドウ、アイラッシュは付け睫毛のことで、ルージユは口紅、チークは頬紅のことだってさ」
 「じゃあ、今日、会えっかな」
 「甚八、勿論、会えるよ。今日は舞台に出る日だって。メイルで確かめておいたから。幸村も甚八も今の美咲を見たら、びっくりすっぺ。綺麗で色っぽくなっていっから」

 三人は入場口で優待券を渡して、ハワイアンズの建物の中に入った。
 十時を過ぎていたので、入場口では行列も無く、すんなりと入れたが、中に入って驚いた。『大プール』は人で一杯で、とても泳げる状態では無く、ボール遊びをするのが精一杯という有様だった。ボール遊びも人と圧し合いながら遊ぶのが精一杯で、のびやかで軽やかにボール遊びに興ずるといった最初の思惑は断念せざるを得ない状況であった。
 三人は、しょうがないから、巨大な面積ということで評判となっている露天風呂に入ろうということになり、タオルを持って、『与市』という名の露天風呂に行った。
 ロッカーを含め、施設、建物は全て木で造られており、床も無垢材で張られていた。
 「何だか、この床、ギシギシするけど、合板じゃないせいか、柔らかい感じがしていいな。味気ない合板より、ずっと鄙(ひな)びており、この古木(こぼく)の感触がなかなかいいよ」
 甚八が感心したような口振りで言った。
 この時間で露天風呂に入りに来る人はさすがに居らず、三人は裸となって、お湯の中に飛び込んだ。湯温は少し温(ぬる)めだったが、夏の猛暑の中、膚には優しく感じられた。
 三百坪は楽にありそうな湯の中で、三人は端から端まで歩いてみたり、時々は、泳いでみたりした。又兵衛が平泳ぎですいすいと泳いでいた時であった。
 どこからか、大きな声がかかった。
 「こら、又兵衛。泳いじゃ、駄目だっぺ。ここは、泳ぎは禁止されているんだ」
 又兵衛は泳ぎを止め、キョロキョロと、あたりを見渡した。
 聞いたことがあるような男の声だった。
 「又兵衛。あっちだよ。ほら、秀吉が居る」
 甚八の言葉を耳にして、振り向いた先に、秀吉が立っていた。
 秀吉は背広ではなく、青い作務衣(さむえ)のような服を纏っていた。
 「あっ、秀吉、じゃない。石井先生だ」
 青い作務衣のような服を纏った男は懐かしそうな顔で笑いながら、言った。
 「又兵衛、甚八、それに、幸村も居んのか。これは、驚いたなあ。大坂方の名物三人衆が勢揃いとは。この秀吉も畏れ入ったわ」
 洗い湯のところに立っている秀吉のところに三人は近寄って行った。
 「こら、若い一物(いちもつ)を見せつけるものじゃない。お湯に浸(つ)かれ、浸かれ」
 三人はお湯に肩まで浸かって、秀吉と暫く話した。
 秀吉こと、石井彰は中学教師を教頭で退職し、今は、このスパリゾートで露天風呂の管理担当者となって働いていた。常磐興産の社員では無く、アルバイト社員であった。
 教師と違って、露天風呂の管理は突然の事故が無い限り、気楽でいいと笑っていた。
 それでも、年に一、二回は風呂場で倒れる人が居り、都度、看護婦さんを呼ぶ事態があるとのことであった。
 「その他、ここいら周辺はねえ、蛇が結構いるんだ。この間も、女風呂の管理人から蛇が男風呂の方に行ったから、注意して、と連絡が入って、見ていたら、蛇が板塀の下からこちらに侵入してきたんだ。一メートルもある長い蛇で、蝮じゃない、おそらく、青大将と思われる蛇だった。そこで、捕まえようと思い、網竿を持って追いかけたんだが、あいにく、この影絵芝居の小屋の縁の下に入ってしまい、追跡不可となってしまった。まあ、餌も無いので、その内、出ていったと思うがなあ」
 蛇と聞いて、少し気味が悪くなった三人の顔をにやりとした顔で眺めながら、のんびりした口調で語った。驚いたことに、秀吉は三人が進んだ大学の学部まで知っていた。
 「学年で一番を通した幸村は今、東北大の医学部か。真面目でいい医者になるんだぞ。医は算術なり、などと考える藪医者には、まあ、ならんだろうが」
 「幸村ほどでは無いが、数学が得意だった甚八は早稲田の理工だろう。就職するとしたら、一流のメーカーか。堅実な人生を歩むこととなるな。まあ、それが一番だ」
 「又兵衛、お前は上智のスペイン語科なんだって。商事会社にでも入るつもりかい」
 三人がお湯の中で正座して、結構真面目な顔をして、元担任の言葉を聞いている様子が可笑しかったのか、秀吉は突然、美咲のことを話し始めた。
 「ほれ、美咲、西谷美咲を知ってっぺ。あの美咲が今は、ここのフラガールとなって踊っているんだ。綺麗になったぞ、美咲は。中学では陸上をやっていたが、高校ではダンス部に入り、ダイエットにも励んだんだろうな、今はスリムなナイスバディで綺麗な女の子になっている。今日は昼のショーを観ていった方がいいぞ。でも、美咲が判るかな。大勢の女の子の中から、美咲を見つけ出すのはなかなか難しいぞ。何と言っても、女はお化粧で見事に変身すっからな。舞台化粧をするフラガールはともかく、女は愛する者のために化粧をするものだ。昔から言ってっぺよ。士(し)は己(おのれ)を知る者の為に死し、女は己を説(よろこ)ぶ者の為に容(かたち)づくる、と。美咲は恋人ができたら、もっと綺麗になるぞ。これは間違いない」
 また、意外なことも話した。
 「お前たち、時間があったら、休憩室を覗いてごらん。一般の休憩室では無く、会員専用の休憩室だ。ほら、この露天風呂を下りて、ちょっと歩いたところにある休憩室だ。校長先生が居るはずだ。後藤正典校長だよ。今は、ここの年会員となって、ほとんど毎日来て、知り合いと将棋を指していっから。おそらく、今日も居るはずだ。たまには、会って、元気な顔を見せてあげたらどうだっぺ」
 
 三人は会員専用の休憩室を覗いてみた。
 部屋の奥の方で、後光が射している数人の男たちを見た。
 いずれも、お地蔵様のような見事な禿げ頭で天井の照明に照らされて、後光のような反射光を放っていた。恰幅のいい大御所らしい人物が将棋盤に顔を俯けていた。
 三人はそろりそろりと近づいて行った。声かけの先陣は甚八が務めた。
 「校長先生、お久し振りです」
 甚八が大御所に声をかけた。
 将棋盤に顔を近づけて、真剣に考え込んでいた老人がゆっくりと顔を上げた。
 紛れもなく、懐かしい大御所の顔がそこにあった。
 大御所と将棋の相手をしていた同じ年頃の老人も大御所に声をかけた。
 「ほら、後藤さん、校長先生、教え子が呼んでっぺよ」
 大御所は三人の方に顔を向けた。訝(いぶか)し気(げ)な表情だった。
 三人の顔を見て、記憶の糸を辿っているといった表情だった。
 暫く、三人の顔を眺めていたが、やがて、思い出したらしく、にこりと笑った。
 「おう、村田君だね、君は」
 幸村の顔は思い出したものの、甚八と又兵衛の顔は思い出せなかったようであった。
 「村田君は、確か、東北大の医学部に行ったんだよな」
 東北大の医学部と聞いて、大御所の周囲に居た人が一斉に、幸村の方を好奇心の塊といったような眼で見た。
周囲の視線を一斉に浴びて、色白の幸村の頬は少し紅潮したように思われた。
 「もう、何年生になった」
 「今、三年生です。こちらは早稲田に行った根津、後ろが上智に行った前田です。全員、三年生です」
 「おう、みんな、立派になったなし。いい若者になったなし」
 と、言いながら、将棋仲間に対局を中断する旨、伝えてから、三人を別なテーブルに誘った。どっかとあぐらをかいた大御所を前にして、三人は配下の武将よろしく、正座した。
 「医学部の場合は六年まであっから、卒業まではまだ長いな。医学部以外は四年だから、根津君と前田君はそろそろ就職活動でも始めんのかい」
 大御所の目は甚八と又兵衛に優しく注がれた。
 「この十月から始める予定です。まずは、会社訪問から」
 甚八が言うと、又兵衛も頭を搔きながら言った。
 「僕は迷っています。出来れば、海外勤務ができる商事会社に入って、専攻のスペイン語を活用したいと思っていますが、就職氷河期は終わったと言っても、なかなか商事会社への就職は厳しいものがあって。スペインとかメキシコの大学への留学も考えています」
 その後も大御所と三人の会話は続いたが、大御所はふと思い出したように言った。
 「君たちの担任は確か、石井先生だったろう。実は、石井先生はここに居るんだよ」
 「ああ、知っています。露天風呂に行ったところ、お会いして、その際、校長先生がここにいらっしゃると伺って、ここに来た次第です」
 幸村が大御所に話すと、ああ、そうか、と大御所は大きく頷いた。
 「でも、西谷美咲君がここに居ることは知らないだろう」
 「それも、知っています。実は、今日は美咲に会いに来たんです。フラガールとなった美咲の変身ぶりを確かめたくって」
 又兵衛が言うと、大御所は快活な笑い声を立てた。
 「何だ、何でも知っているんだね。若い人の情報の速さには驚くばかりだ。美咲君はここの学校、常磐歌謡舞踊学院を出て、この春から正式に専属ダンサーとなったんだ。もう、五ケ月目になる。人の話に依れば、かなりいいダンサーになっているということだ。敏捷で活発な女の子だったからね。今日も、昼のショーに出ていれば、会えるよ」
 暫く、話した後で、さあて、ご無礼して将棋に戻ることとしよう、仲間が待ちくたびれているから、と大御所は三人に別れを告げて、指しかけの将棋に戻って行った。

 休憩室から出た三人は隣りの食事休憩所に行き、空いているテーブル席を探した。
 休憩所は食事を摂る人で溢れかえっており、空いているテーブルは無かったが、丁度、食べ終わった家族が居り、どうぞ、と手で示してくれたので、三人は運良く、座ることが
できた。壁際にある店でロコモコという目玉焼きが載せられたハンバーグ・ライスを注文して、ランチとした。天井近くにある大きな時計を見たら、一時になっていた。
 そろそろ、昼のショーが始まる時間になっていた。三人は二階の食事休憩所を離れ、一階の『大プール』脇の舞台席に向かった。そこも大勢の人で混んでいた。
 「去年の映画の影響は凄いな。美咲の話では、あの映画が公開されるまでは、ショーの舞台席はいつもガラガラだったらしい。パラパラと座っている観客に向かって、私たちは踊っていたのよ、と言っていた。ところが今はこんなに人で溢れかえっているだろう。このまま行けば、今年の入場者数は新記録を樹立するかも知れないという噂もあるくらいだ」
 そう語る又兵衛に、幸村が言った。
 「閑散とした観客席を見ながら踊るのと、満員の観客席に向かって踊るのでは、ダンサーのモチベーションは違うんだろうなあ」
 「うん、俺もそんな風なことを美咲に言ったら、凄い剣幕で怒られたよ。観客数の多い、少ないは関係無い、いつもスマイルを忘れずに、とびっきりのスマイルで踊りなさい、と学院生の頃から先生にいつも言われているのよ、だって」
 「お客の多い、少ない、そんなの関係ねえ、ということか」
 甚八が小島よしおの口真似をしながら言った。一階席で舞台に向かって右端の席が空いていた。三人はそこに座り、ショーの開演を待った。
 やがて、開演に先立つ簡単な注意等のアナウンスがあって、ショーは始まった。
 何回か来ている又兵衛を除き、幸村と甚八はショーに関しては初心者であり、ポリネシアンダンスの種類も分からず、ただ、踊りの華麗さに陶然としていた。
 ほぼ、全員が出て踊る演目があった。甚八は又兵衛に小声で訊いた。
 「おい、又兵衛。美咲はどこに居るんだ。じっと、観てはいるが、誰が美咲だか、皆目見当がつかないよ」
 「甚八、そっちじやない。中央の右奥のあの背が高い女の子だよ」
 又兵衛が小さく指差した方向を見た。
 「あの娘(こ)かい。あの、眼が大きくて、色が白く、凄く腰がくびれた瓜実顔の女の子かい」
 「いや、違う。その娘の右脇で踊っている、少し背が高い女の子の方だよ」
 「ふーん、あの娘が美咲かい。俺のイメージの美咲と違うなあ。美咲はもっと浅黒く、目も切れ長な感じの女の子だったよ」
 「甚八、前にも言っただろう。女の子は化粧で凄く変わるんだ。特に、付け睫毛とアイシャドウでほとんど別人のようになるんだぜ」
 「でも、美咲、可愛くなったなあ。これなら、又兵衛が好きになるのも分かるよ」
 「甚八、お前、何言ってるんだ。俺がいつ、美咲を好きだと言った」
 「言わなくても、態度で判っぺよ。又兵衛、お前の美咲を見る目でちゃんと俺には判る。十分、判るよ、心配するなって」
 「別に、心配なんかしないけど。でも、みんな、綺麗に見えるなあ。昔から女の子にもてるこの幸村だって、舞台で踊っている女の子から声をかけられたら、頬を真っ赤にして、俯いてしまうと思うよ」
 又兵衛の他愛も無い言葉に幸村はにこりと微笑んだ。
 でも、幸村は思っていた。
又兵衛は俺が女の子にもてると言っていたけれど、親友なのに、本当のことは何も分かっていない。表面的には、もてているように見えても、実のところは、女の子との交際は長続きした試しが無いのだ。最初は順調な交際のように見えても、暫くして相手の方から去っていくか、やたら積極的になってくるか、その二つしか無かった。
相手の方から去る場合は、エリートである医者と結婚する資格が無いと自分で勝手に決めてしまう場合だ。つまり、釣り合いが取れないということだ。
その反対に、過剰に積極的になってくる女の子にはどうしても下心が見えてしまうのだ。
あけすけに言ってしまえば、医者という、金を稼ぐ旦那をゲットしたい、ゲットしてしまえばこっちのもの、という下心をどうしても感じてしまい、俺の方から去っていくことになる。
もっと、素直にお互いが対等に付き合うということは無いのだろうか。
もっとも、俺の方もかなり打算的な目で相手を見ていることもあるのだろう。
相手から見たら、俺は嫌な男に見えているのかも知れない。
昔から、医者は見合い結婚が多いと言われているが、なるほどと思うこともこの頃はあるのだ。つまり、釣り合った女と結婚するということだ。
結婚は釣り合いが取れた者同士が行なう、ということか。
そんなの関係ねえ、と俺は思っているが。
 さて、そうは言うものの、心の奥底では、医者はエリートで、然るべきところのお嬢さんと結婚した方が良い、と思っているんじゃないかい、幸男くんよ。

 昼のショーが終わった後、又兵衛に誘われて、三人は舞台からの出入口に屯(たむろ)して、美咲が姿を見せるのを待っていた。そこには、三人の他に数人の男女が屯していた。
 中には、贈り物らしい袋を抱えている男女も居た。
お気に入りのダンサーに渡すつもりなのか。宝塚ではありふれた光景らしいが、このスパリゾートでもこのような熱心なファンが居るのか。三人は少しびっくりした。
 やがて、スパリゾートの職員が先頭になって、ダンサーたちが姿を現わして、三人の前をすたすたと歩いていった。五、六人ほど歩き過ぎていく中で、ようやく美咲が姿を現わした。舞台化粧はそのままで、ムームー姿の美咲は又兵衛を見て、にこりと笑った。
 「前田君、来ていたの。あら、村田君、根津君も。一体、どうした風の吹き回し」
 「幸村が無料優待券を一杯持っていて、甚八と俺が誘われたんだ。幸村って、恥ずかしがり屋だから、一人では来れないってね」
 幸村は仕方なく、曖昧に微笑んだ。
 「村田君がわざわざ私たちの舞台を見に来るなんて、とても光栄だわ」
 「美咲もよく言うよ。光栄だなんて、ちっとも思っていないくせに」
 甚八が笑いながら言った。
 「そうね。いわきに住んで、私たちの舞台を観に来ないなんて、もぐりだわよ」
 「しかし、美咲、お前、随分と綺麗になったなあ。どのフラガールが美咲なのか、又兵衛に言われるまで、全然判らなかったよ」
 「あら、そう。女は変身するのよ。根津君、見違えたでしょう。昔の西谷美咲は昔の美咲で、今の美咲は前途有望なフラダンサーの美咲よ」
 じゃあ、また、観に来てね、と言い残して美咲は三人のもとを去って行った。
 去って行く美咲のカッコいい後ろ姿は三人の目には眩しく映った。
 美咲に近づいて行く二人のダンサーが居た。
 立ち話をしている美咲を待っていたらしい。
 舞台で美咲の脇で踊っていた娘と、小顔で鼻が高い色白の娘だった。
 三人はすたすたと歩き去って行くフラガール三人の後ろ姿に見惚れていた。
 「おい。何とか、美咲を口説くから、あの女の子たちと合コンしないか。夏の俺たちのメインテーマにしよう。フラガールとの合コン、これは楽しくなっぺよ」
 又兵衛が幸村と甚八に呼びかけた。
 「俺たち、相手にされっかな」
 甚八がやや不安そうな口振りで言った。
 「大丈夫だ。俺は昔から美咲に信用されているし、幸村も甚八も俺よりもずっと美咲の信用があっから。何と言っても、中学ではクラス三羽ガラスの俺たちだっぺよ」
 「三羽ガラス、ねえ。三馬鹿トリオ、となんなきゃいいけど」
 甚八が不安そうに呟いた。

 それから、数日間、三人のスパリゾート通いが続いた。
 無料の優待券は幸村の父、正雄が医者仲間とか、知り合いに声をかけて、十数枚ほど集めてくれた。朝の十時頃に入場し、『大プール』とか『流れるプール』で遊び、露天風呂か大浴場に入ってさっぱりしてから、軽く昼食を済ませ、昼のショーを観てから帰る、という規則正しいバカンス生活をした。
 露天風呂の管理人、秀吉からいつしか『温泉ボーイズ』という仇名を付けられた。
 「幸村、甚八、又兵衛。おい、温泉ボーイズ、今日の湯加減はどうだい」
 「ちょっと、温(ぬる)めですけど、のんびり浸かる分にはこれくらいがいいですよ」
 こうした会話が日常的に交わされる、ゆったりとした日が数日続いた。
 
 八月上旬のそんな或る日のこと。
 スパリゾートに向かう車の中で、又兵衛の携帯電話に一通のメイルが入った。
 メイルは美咲からのものであった。
 「あ、すげえ。・・・、みんな、美咲からのメイルに何て書いてあったと思う」
 「そんなの知るわけ、なかっぺ。勿体ぶらずに、教えろ、又兵衛」
 甚八がいらいらした口調で言った。
 「甚八殿、それでは、お教えいたそう」
 又兵衛の口から、美咲が合コンのメンバーを集めた、明日、三人がオフの日なので、合コンしよう、というメイルが入ったという嬉しい知らせが告げられたのである。
 「で、幸村殿、甚八殿、合コンの場所、どこにいたそうぞ」
 三人はあれこれと合コンの場所に関して相談した結果、とりあえず、無難なところで、アクアマリン水族館を見物してから、小名浜の岬にあるマリン・ビレッジでお茶を飲みながら歓談するのはどうか、ということに落ち着いた。
 早速、又兵衛が美咲の携帯電話にメイルした。
 少し経ってから、返信メイルが届いた。
 里(り)緒(お)、茉莉(まり)、私の三人共、ОKです、というメイルだった。
 里緒と茉莉という名前の女の子なのか、と三人は合コンの相手の名前を知った。

 翌日、三人はスパリゾートのバス停付近に停車して、美咲たちを待った。
 幸村の父の車は後部座席が二つある七人乗りの車で、六人が乗れる車だった。
 美咲たちは全員、学院内にある寮で暮らしていたが、寮の玄関に停車することは禁じられていたらしく、少し離れてはいたが、ホテル・ハワイアンズの玄関脇のバス停で落ち合うこととしていた。やがて、美咲を先頭にして、三人の女の子が現われた。
 全員、数日前に見たハワイアン・ムームー姿では無く、軽やかなジーンズ姿であった。
 一番後ろの後部座席に里緒と茉莉、運転席の後ろの座席に、美咲と又兵衛が座り、幸村が運転する助手席には甚八が座った。
 車に乗る前に、美咲が里緒と茉莉を簡単に紹介した。
 嵯峨里緒は宮城県出身、小林茉莉は会津出身のフラガールだった。
 「嵯峨さんは宮城県出身ですか。僕も今、宮城県の仙台で暮らしています」
 幸村は里緒にそう語り、会釈した。
 「小林さんは会津ですか。僕の大学の友達に会津の人間がいます。やはり、貴女と同じで色白の男です」
 根津も結構如才なく、茉莉にそう語った。
 里緒も茉莉も少し恥ずかしそうな笑みを浮かべて、幸村と甚八を見た。
 幸村の運転する車はスパリゾートから泉を経由して、産業道路を走り、アクアマリンの大きな駐車場に入った。
途中、美咲は幸村たちにさかんに話しかけ、場の緊張を和らげようとしていた。
 「三人共、中学の同級生よ。三人共、クラスの優等生で、全員、同じ高校に入ったの。ひとクラスで三人もその高校に入るというのは結構珍しかったんだ。だって、難しい高校だったんだもの。その高校は開校以来、男子校だったんだけど、私たちの高校受験の一年前から女子も入れる共学校になって、村田君らが入学した時は、確か、二年目だったよね」
 「そうさ。二年目だよ。それから、女子がどんどんと増えて、今では、女子の数の方が多くなったということを聞いたよ。何てったって、中学までは女の子の方が勉強するものね。俺たちもクラスの半数が女の子だったら、中学と変わらないような雰囲気になって、女の子にリーダーシップを奪われてしまうよ。男子は女子に弱いもの」
 又兵衛の言葉に全員が笑った。
 「でも、前田君はともかく、村田君、根津君は優秀だったわ。今、運転している村田君なんて、中学ではずっとダントツの一番を通したもんね。高校でも優秀だったんだろうね。何てったって、東北大の医学部にストレートで入ったんだもの」
 「そんなに、俺のこと、誉めるなよ、西谷君。運転に慣れていないのに、余計、緊張してしまうじゃないか。事故っちゃうよ」
 幸村が頬を染めて、呟くように言った。
 「根津君も優秀よ。早稲田の理工だもんね」
 「私の従兄弟も会津高校を出て、早稲田に入った人がいます」
 美咲の後ろに座っていた茉莉が言った。
 「じゃあ、これで決まりね。村田君は里緒をエスコートし、根津君は茉莉をエスコートするということで」
 「じゃあ、俺はお前かよ、美咲」
 「そういうことになるわ。前田君で我慢しておくわ。よろしく、ね」
 美咲の言葉は全員の笑いを誘った。幸村はバックミラーに映る里緒の顔をちらりと見た。
 舞台用の長めの付け睫毛では無く、ありふれた付け睫毛であったが、にこやかに笑っている里緒の顔はどこかで見たことのある顔、見覚えのある顔をしていた。
 フランス語ではデジャ・ビュ(既視感)というらしい。果て、どこで見た顔なんだろう、と幸村は思った。記憶の糸を手繰(たぐ)ったが、思い出せなかった。
 でも、俺は確かに以前、里緒と似た顔をどこかで見ている、と幸村は思った。

 アクアマリンという県立の水族館は小名浜港が見える広大な敷地に建てられている。
 特に、大水槽の中で集団を成して泳ぐ鰯の群れは圧巻だった。
 きらきらと銀色の鱗を煌めかせて泳ぐ鰯の群れは何千匹か何万匹か見当も付かなかったが、初めて観る里緒と茉莉には新鮮な驚きを与えたらしく、二人は何分も立ち止まり、食い入るような眼で見詰めていた。その他、オットセイ、アシカ、セイウチ、トドといった大型の水棲動物もおり、六人はお喋りしながら、観て廻った。
 一時間ほど見物してから、六人はアクアマリンを出て、車で小名浜港を見下ろす岬の頂上付近にあるマリン・ビレッジという喫茶店に向かった。
 マリン・ビレッジは、二、三十人は入れる比較的大きな喫茶店で、外観は南フランスのプロヴァンス風の洒落た造りをしており、美咲もよく来ると言っていた喫茶店だった。
 十二時少し前の時間帯で、店はさほど混んでおらず、六人は港が良く見える窓際の席に腰を下ろした。店内にはバックグラウンドミュージックとして、秋川雅史の『千の風になって』とか、宇多田ヒカルの『フレイヴァー・オブ・ライフ 』が静かに流れていた。
 男三人、女三人が対面して座った。
 軽い食事がいい、ということで、六人はサンドイッチ系統のメニューを選んだ。
 「いつも、食事は軽めにするんですか」
 幸村が何気なく訊いた。
 「いえ、違います。普段は、もりもり食べるんです。でも、今日はオフの日ですから、そんなには食べないようにしているんです」
 幸村の前に座った里緒が少し笑いながら言った。
 「オフの日はダイエットするんですか」
 「舞台に出る時は、一杯食べてから出るように、学院生の時、先生からいつも言われていたんです。一杯食べても、一杯踊って動くから、絶対に余分な肉は付かない、一杯食べて、体力を作って、元気よく踊りなさい、と言われていました」
 「その分、オフの時は練習はするものの、舞台ほどは動かないから、肥らないようにしているわけ」
 美咲が笑いながら言い、このように付け加えた。
 「私たち、フラガールは常にスリムで綺麗な体形を保つのよ、ともいつも言われているの。学院入学時は少し太めだった娘も三ヶ月の猛レッスンで躰の線が締まってくるわ」
 「それで、みんな、凄い腰のくびれをしているわけか」
 又兵衛がちゃちゃを入れた。
 「そうよ。くびれをなくすのは、結婚してから、ということね。でも、結婚したフラガールでも、常に体型を気に掛ける人は多いみたいで、時々、寮に遊びに来る先輩の中には現役当時のくびれを維持している人も多いわよ。きっと、食事制限含め、凄い努力をしているのね」
 美咲の言葉につられたのか、茉莉が微笑みながら言った。
 「くびれはともかく、体力作りはとても大切なことで、練習の合間に、太腿の筋肉と腹筋、背筋を常に鍛えているフラガールは結構多いです。それで無ければ、膝をついて、背中を床につけて起き上がるという動作は絶対できませんから」
 「一杯食べて、筋トレに励み、見事な舞台をお客さまに見せなさい、と何百回言われたことか」
 美咲が嘆くように言った。
 「それと、私は初舞台の時に先生から言われた言葉を思い出すわ。学院に入ったばかりと言っていい、七月が初舞台だったのですが、もう緊張して、楽屋で足をがくがくさせ、引き攣った表情をしていた私たちに向かって、先生が一言、こう、おっしゃったの」
 里緒がその当時を思い出すかのような表情をして、ゆっくりとした口調で話した。
 「ミスをしたらどうしようとか、恥ずかしいと思う気持ちは、この楽屋に全部、置いて行きなさい、あなたがたはプロのダンサーよ、堂々と胸を張って出て行きなさい、と。そう言われた瞬間、今まで緊張していた体からすうっと力が抜けていったんです。美咲、茉莉他、同期が集まって輪になって、手を差し伸べて重ね合い、『ゴー・フラガール』と掛け声をかけてから、楽屋を飛び出して行きました。後は、もう、無我夢中で踊りました。何も考えなくとも自然に体が練習通り、動きました」
 「里緒の言う通り、練習は決して、その人を裏切らないものであることを知ったのね。でも、楽屋に戻ってからが大変。みんな、一斉に泣き出して。その様子をじっと見ていた先生も目を潤ませていたわね」
 美咲の言葉に、茉莉が大きく何回も頷いていた。
 幸村は里緒たちの顔を見ていた。
 里緒はハーフと思われるほど、色白の彫りの深い顔立ちをしていた。
 一方、茉莉は小顔で鼻の高い顔立ちをしていて、お雛様のような優雅な雰囲気を漂わせていた。美咲が一番背が高かったが、三人共、フラガールの中では背が高い方ということで、美咲は、私たちは先輩方からノッポ三人組と言われているのよ、でも、私たちはビューティ・トリオと勝手に思っているの、と笑いながら話していた。
 「私たち、三人共、ソロ・ダンサーになるのが夢なの。今のレベルから言えば、まだまだかも知れないけれど、一応、ソロ・ダンサーになりたいと私たち三人は思っている。ハワイアンネームを貰って、ソロ・ダンサーとなり、舞台を独り占めにできるソロ・ダンスを踊り、ショーのラストに出演ダンサー全員を従えて挨拶をして、舞台奥のステージに上がる。そこからの風景も見たいなあ、と思っているわけ。今の実力、順番から言えば、里緒、茉莉、そして私の順かな。里緒なんか、いつも腹筋と背筋を鍛え、時々は両足を少し広げて正座して、背中を床に付け、そこから起き上がる練習を根気よく続けているものね。ソロを意識した練習よね。とにかく、里緒の努力には負けるわ」
 「茉莉なんか、高校の頃、地元会津のフラダンススクールに通っていたから、下地が十分よ。タヒチアンはともかく、茉莉のフラは見惚れてしまうくらい、優雅に踊るのよ」
 と、美咲はざっくばらんな口調で仲間を誉めていた。
 窓から眺める小名浜の海は穏やかで、真夏の太陽の光を浴びて、燦々と煌めき、輝いていた。クーラーがほど良く利いた室内で、二十歳を少し過ぎたばかりの若者たちの話は尽きなかった。

 第一回目の合コンが終わった夜、美咲は寮の自室で、机に両肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺めていた。久し振りに会った、幸村、甚八、そして、又兵衛の中学仲間の三人との合コンは予想外に楽しかった。幸村、甚八、又兵衛の三人はクラスでは秀才三羽ガラスで通っていた。但し、成績の順番は厳然とあった。
 幸村はダントツの一番、次は甚八で、どん尻が又兵衛と決まっていた。
 テストで甚八は幸村を上回ったことは一度も無く、同様に、又兵衛が甚八を上回ったことも一度も無かったのである。幸村を太陽と例えるならば、甚八は月で、又兵衛は星という存在だった。
でも、美咲は又兵衛が好きだった。幸村は長身で色白、端正な顔のイケメンだったが、いつも無表情で冷徹な印象を与える男子で、女子にとってとっつきにくい男子だった。血の通わない鉄仮面のような冷たい男子だと思っていた。
甚八は度の強い眼鏡をかけ、いつも皮肉っぽい薄笑いを湛えている男子で、幸村同様、女子には苦手な男子であった。
二人に引き換え、又兵衛は少し背は低いものの、がっちりした身体をした男子で、時々はへまをしてみんなを笑わせることがあり、女子にとって気安く話せる男子だった。
 美咲の目から見たら、性格が全然違う三人であったが、不思議なことに、三人は無二の親友であった。
クラスの学級委員は選挙で決められていた。紙に書いて、投票箱に入れて、みんなの前で開票し、票の多い順に、学級委員長、副委員長と決めていくやり方だった。
 一番、票を集めるのは幸村で、委員長に決まる。次は、甚八で、副委員長に指名される。
 又兵衛の票はいつも一票だけだった。でも、この一票は又兵衛が自分に入れた一票では無かった。これは、間違いなく、言えた。
又兵衛は自分に票が入った時、いつも、キョロキョロと周囲を見渡した。普通、一票だけだったら、又兵衛が自分に入れた票と思うのが自然であったが、美咲は、又兵衛は自分に入れるような姑息な男子では無いと確信していた。
なぜなら、その一票は美咲の一票であったからだ。毎回、美咲は又兵衛に票を入れた。
 美咲にとって、幸村、甚八は二人共、すまし屋で苦手に分類される男子であり、なぜ、気のいい又兵衛が彼らと親友でいるのか、どうにも理解できなかった。
 しかし、小学校以来の親友であることは間違いなかった。
 幸村の母が心不全で亡くなった時、葬儀で見た幸村は真っ赤な眼をしていた。
 泣き腫らした眼であった。いつも冷徹な表情を湛えている幸村がこんなにも泣いているというのは美咲には新鮮な驚きであった。この鉄仮面にも、熱く温かい血が流れているのかとさえ、美咲は思ったものだった。そして、何気なく、参列している甚八と又兵衛を見て、美咲はまた、びっくりした。甚八と又兵衛の眼も幸村同様、泣き腫らして充血していたのだ。仲間の母親の死で、こんなにも泣き腫らすなんて。
 信じられない思いで、美咲は茫然と幸村たち三人を見詰めていた。
 その三人と今日は合コンをした。美咲は自分にご苦労様、お疲れ様と語りかけていた。
 さて、二回目の合コンはあるのかしら。里緒、茉莉共、幸村たちに大分良い印象を持ったみたいだわ。二回目の合コンの連絡があれば、また、楽しい時間が過ごせるわ。
 でも、こちらからは合コンを、またしましょうとは言えない。
口が裂けても、そんなことは言えない。だって、女がすたるもの。
 美咲は頬杖をつきながら、窓の外に広がる夏の闇を見詰めていた。
 夏の闇は黒く、ねっとりとしている。美咲はじりじりとした思いを噛みしめていた。

 又兵衛は幸村たちと別れ、自宅に戻り、ベッドに寝そべっていた。
ぼんやりと、天井を見ていたら、天井の模様がだんだん女の顔に見えてきた。
美咲の顔に見えてきた。又兵衛は起き上がり、目を擦った。又兵衛は美咲が苦手だった。
中学以来、ずっと苦手な女子だったが、そのくせ、いつも気にかかる女の子だった。
美咲はどうして、俺と会うと、いつも小馬鹿にしたような態度を取るのか。今日だって、嫌々、俺をエスコートする男子に選びやがって。美咲の本心は、幸村にエスコートされたいに決まっている。俺も幸村のような美男子に生まれたかった。幸村にエスコートされた里緒さんは嬉しそうな顔をしていたもの。
三人の中で、俺はいつも三枚目の役を果たしている。小学校以来、いつもそうだった。
二枚目は幸村で、二枚目半は甚八、そして、三枚目は俺といつも決まっていたのだ。
美咲は完璧にそのことを知っており、何かと俺を小馬鹿にする。
でも、妙だ。美咲に小馬鹿にされても、それほど悪い気持ち、つまり、不愉快な気持ちにならないのだ。これは、一体、どうしたことだろうか。
又兵衛はそんなことを思いながら、部屋の中をぐるぐると歩き廻っていた。
 ふと、階段を上ってくる足音に気付いた。それと共に、微かな鼻歌も聞こえてきた。
 親父のいつもの鼻歌だ。唄う歌はほとんど決まっている。団塊世代が唄うなつメロ・ソングだ。確か、アン真理子という歌手が歌っていたヒット・ソングで、『明日(あした)という字は明るい日と書くのね』とか『若いという字は苦しい字に似てるわ』とかいう歌詞のある歌だ。
 まともに聴いたことは無いが、親父が壊れた蓄音機のように繰り返し、繰り返し唄っているので、いつか、覚えてしまった。『若いという字は苦しい字に似てるわ』だって。勝手にしろ。美咲のくそったれめ。でも、くそったれの美咲にまた、会いたいな。何だ、この気持ちは。俺には判らない。判らない気持ちって、あるのか。むずむずして、妙な感じだ。

 第一回目の合コンの翌日、幸村たちはいつものようにスパリゾートに居た。
 大プールでボール遊びに興じてから、三人は隣接している『流れるプール』に行った。
 『流れるプール』は文字通り、横長のО字状に沿って、水が流れているプールで、身体を浮かせているだけで、水流が勝手に身体を運んでいった。
 水流に身を委ねて泳ぐ人、足早に歩く人、人それぞれに水流を楽しむことができた。
 ただ、両端は水圧が強く、注意して歩かないと、水圧に足を取られて思わず転倒する羽目となる。幸村が足をすくわれて見事に転倒した。長身の幸村はカーブに差し掛かり、何気なく歩いて曲がろうとしたところ、足元の水流に足をすくわれて、まるでスローモーションの動きのように背中から後方の水面に落ちていった。
 甚八、又兵衛はゆっくりと背中から後ろに倒れていく幸村を見て、声をあげて驚いたが、水から照れ臭そうに起き上がる幸村を見て、今度は笑い出した。
 「殿、ご油断めさるな。流れる水を侮ってはなりませぬぞ」
 噴き出しながら、幸村に語りかける甚八に向かって、幸村は負け惜しみを言った。
 「甚八殿、拙者、決して油断したわけではござらぬ。貴殿たちに身をもって、流れる水の恐ろしさをお伝え申しただけじゃ」

 三人はその後、屋外の温泉プールに行った。屋外の温泉プールの湯にはかなりの温度差がある。湯が噴出する場所で温かい湯に浸かり、又兵衛はじっと動かず、鼻歌を唄った。
 『若いという字は苦しい字に似てるわ』という歌であった。又兵衛は父の鼻歌を思い出すと、いつも、愉快で堪らなくなる。でも、その時は唄いながら、何だか、切ない気持ちになっていた。この切ない気持ちって、何だ。ふと、美咲の顔が脳裏に浮かんだ。
屋外のプールにはいろんな仕掛けがなされていた。強烈なジェット水流が噴出しているプールもあり、甚八が早速、そのジェット水流が噴出しているところに行って、どのくらいの水圧がかかるのか、試していた。すると、甚八が突然情けない声を出した。パンツ、パンツ、という甚八の声がした。近くにいた幸村と又兵衛が甚八の叫びにも似た声に気付き、見ると、青色の布切れが水面に浮かんでいた。それを拾ってくれ、という甚八の声が続いた。ジェット水流の水圧に負けて、甚八の海水パンツが見事に抜けて、甚八の尻から離れて、勝手気儘に旅に出た、という次第だった。幸村と又兵衛は爆笑した。

 屋外にある円形の小さな温泉風呂に浸かりながら、三人はぼんやりと空を見上げていた。
 七月の天気の悪さは冗談であったかのように、八月上旬の空はあくまで青く、雲一つ無い大空が広がっていた。幸村がぼそっと呟いた。
 「昨日の合コン、楽しかったな」
 甚八がにやにや笑いながら、又兵衛に言った。
 「又兵衛殿、貴殿はどうお思いじゃ」
 又兵衛はぼんやりとした口調で呟いた。
 「幸村殿、甚八殿。お主たちの気持ちはそれがしにも痛いほど、分かっておる。改めて、口に出すことは無い。口に出さずとも、以心伝心とやらで、のう」
 「又兵衛。お前、本当に分かっているのか。分かっているならば、行動に移すことにすっぺ。考えるな。まず、行動だ。行動だっぺよ」
 又兵衛が甚八の顔を見ると、甚八は真剣な顔をしていた。
 念のため、幸村の顔を見たが、幸村も真剣な顔をしていた。
 三人は温泉から上り、階下のロッカーに行き、それぞれの携帯電話を取り出した。
 三人は申し合わせて、幸村は里緒に、甚八は茉莉に、又兵衛は美咲に、それぞれ同時に、第二回目の合コンの誘いメイルを出した。文言は決まっていた。
『会いたくそうろう。再度の合コンのお誘いでござる。よしなに。大坂三人衆より』

 返事は同時に来た。女子三人も同じところに居たらしい。幸村たちの突然のメイルに驚くと共に、爆笑する女の子たちの様子が眼に浮かぶようだった。
 申し合わせたのか、三人から戻ってきた返信メイルは同じ文言だった。
 『謹んで、お受けいたします』、という文言だった。
 それから、後の交渉は又兵衛と美咲が仲間を代表して行ない、第二回目の合コンが纏まった。

 「温泉ボーイズ。実は今朝、矢沢真理さんに言われたよ。ほれ、フラガールの現リーダーの矢沢さんだ。お前たち、この頃、美咲たちフラガールと付き合っているんだって」
 翌日、プールで遊んだ後、露天風呂に浸かっていたら、秀吉が近づいてきて、いきなり、幸村たちに言った。少し怖い顔をしていた。
 口ごもる又兵衛、甚八に代わり、幸村が何気ない口振りで答えた。
 「付き合うと言っても、この間、小名浜のアクアマリンで合コンを一回しただけです」
 「合コン、かね。その程度か。でも、矢沢真理さん、心配していたよ。付き合うなら、真剣に付き合うよう、言ってください、と頼まれてしまった。どうも、美咲から俺のことも聞いていたようだ。いいか、伝えたぞ。分かったな」

 その後、いつもの席に座って、昼のショーを観ようとしていたら、三人は背後から声をかけられた。
三人が驚いて振り向くと、黄色地に花が散りばめられたムームーを着たフラガールが立っていた。その女性の後ろにも一人、青いムームーを着たフラガールも立っていた。
幸村たちにも見覚えがあるフラガールたちだった。リーダーの矢沢真理とサブリーダーの鈴木麻衣子の二人だった。三人は思わず、座っていた席から立ち上がった。
 矢沢真理は小柄な女性であったが、目力は強く、三人は少しびびった。
思わず、気を付けの姿勢を取ったくらいだった。
 「美咲ちゃんからあなたがたのことは聞いています。この頃、美咲ちゃん、里緒ちゃん、茉莉ちゃんの様子が変なので心配していたら、あなたがたと交際しているということが判ったの。若い人同士、交際するのは別に構わないけれど、あの娘たちは私たちの大事な仲間なの。交際するなら、真剣に交際してちょうだい。気紛れな遊びなら、やめてちょうだい。分かったわね」
 「リーダーのお話、ちゃんと聞いてね。美咲、里緒、茉莉の三人は私たちにとって、可愛い後輩なのよ。決して、悲しませないで。大事に付き合っていってね」
 そう言うなり、矢沢リーダーと鈴木サブリーダーは三人に背中を見せて、立ち去って行った。三人は茫然と立ったままであったが、又兵衛は甚八が眼を潤ませていることに気付いた。又兵衛が甚八に言った。
 「何だよ、甚八。そんな眼をして。お前、泣いているのかよ」
 幸村も不思議そうな顔をして、甚八を見た。
 甚八は目を擦りながら、照れくさそうな顔をして言った。
 「あのリーダーたちの言葉を聴いていたら、昔、小さい頃に死んだ近所の年上の女の子のことを思い出してしまったんだ。生きていれば、あのリーダーたちと同じぐらいの女の人になっていたはずなんだ。その女の子から叱られているような気になってしまったんだ」
 いつも斜に構え、皮肉っぽい笑みを浮かべている甚八は話しながら、また、目を擦りだした。

 第二回目の合コンの日が来た。
 幸村たちは勿来とか新舞子の浜に行きたかったが、フラガールにとって海は日焼けするからご法度、ということで、絶対に日焼けはしない、あぶくま鍾乳洞見物になった。
 スパリゾートで女子三人を乗せて、いわき湯本インターチェンジで常磐自動車道に入り、小野インターチェンジであぶくま高原道路、磐越自動車道に乗り換え、田村市の大滝根山の麓にある『あぶくま洞』までは六十キロ、一時間の行程であった。
 『あぶくま洞』の全長は六百メートルで、滝根御殿、竜宮殿、月華の滝、月の世界といった鍾乳洞見物の名所がたくさんあった。
 いわき市が地元の美咲はともかく、里緒と茉莉にとっては初めて訪れるところで、足を滑らせる箇所も数多くあり、キャー、キャーと言いながらの野趣に富んだ観光となった。
 ここでも、幸村は里緒と、甚八は茉莉と、そして、又兵衛は美咲と肩を並べて歩いた。
 男三人の背の高さは学校の成績同様、幸村、甚八、又兵衛の順であったが、女子三人の中では一番背が高い美咲は又兵衛とほとんど同じくらいの背丈だった。
 又兵衛は自分と同じくらいの背丈をしている美咲に向かって、言っていた。
 「今はスニーカーだからいいけれど、絶対、ハイヒールなんか履くなよ。ハイヒールを履かれた分には、俺はお前に見下ろされてしまうからな」
 「じゃあ、今度の合コンでは絶対ハイヒールを履いてくる。又兵衛を見下ろしてやるんだ」
 「けっ、よく言うよ。そん時は絶交だよ、美咲」

 「村田君、リーダーから何か言われなかった」
 『あぶくま洞』のレストランでスパゲッティをくるくると巻きながら、美咲が訊いた。
 「うん、一昨日、ショーを観るために観客席に座っていたところ、矢沢さんと鈴木さんが来て、真剣な顔で注意されたよ」
 「えっ、注意って、どんなこと」
 又兵衛が笑いながら、口を挟んだ。
 「おいらの可愛い子分に手を出すんじゃねえ、と言われたよ」
 その言葉を聞いて、美咲は口を尖らせた。
 「馬鹿言ってんじゃない、又兵衛。可愛い、は事実だけれど、リーダーがそんなことを言うわけ、ないじゃない」
 甚八が笑みを浮かべて、美咲たちに言った。
 「正確に言えば、こうだよ。美咲ちゃん、里緒ちゃん、茉莉ちゃんは私たちの大事な後輩なの。遊び半分で交際してもらいたくはないの。付き合うなら、真剣に付き合って、と」
 美咲は納得したような顔をしたが、すぐに、幸村たちに言った。
 「付き合うって言っても、まだ、合コンの段階でしょう。真剣な交際とは言いかねるわねえ、みんな。では、こうしましょう。これから、一対一で帰りの時間まで、別々になりましょうよ。真剣なお付き合いの始まり、始まり、よ」
 それで、いつの間にか、六人は二人ずつのペアとなって、帰りの時間まで過ごすこととなった。

 「どうも、中学以来、美咲には敵わないんだ、僕たち。いつの間にか、美咲のペースに乗せられて、引き摺られてしまうんだ」
 幸村は里緒と肩を並べて、『あぶくま洞』周辺の道沿いを歩きながら、里緒に語りかけた。
 「でも、美咲は思いやりのある、優しい仲間です。私も茉莉もいわき出身じゃなく、他からここに来たのですが、入学当初から私たちを気遣って、優しくしてくれたんです。齢は同じですが、私たちにとっては、お姉さんみたいな存在になっているんです」
 「いわき出身ならともかく、他からここに、フラガールを目指して来る、ということはどんな動機付けがあったの。前から訊こうと思っていたんだけど」
 「茉莉の場合は、高校のダンス部に入って、ダンスの一つとしてフラの踊りを知って、自分に合うダンスとして意識したのがきっかけということでした。私の場合は、小学校の頃、親にスパリゾートに連れてきてもらって、初めて、ショーを観てすごく感動したのがきっかけです。本当は大学にも行きたかったんだけれど、家庭の事情で大学進学は断念しました。その代わり、数年でもいいから、小さい頃からの憧れであったフラガールになって、思い切り、何と言うか、・・・、あばれてみたかったんです」
 里緒はこう言って、照れたような表情を浮かべて、幸村を見上げた。
 あばれてみたい、という表現を使った里緒の顔は微笑んでいた。
 俺はどうなんだ、今まで、あばれてみたことがあったのだろうか、と幸村は思った。
 その瞬間、幸村は思い当たった。あばれてみたい、という内に秘めた激しい情熱。
 初めて、里緒を見た時、感じたデジャ・ビュに思い当たったのだった。
 それは、小さい頃、父親がスペインでの新婚旅行時に買ってきたブロマイドの女の顔だった。色は既に褪せていたが、カルメンもどきで、真紅の薔薇を一輪咥えて嫣然と微笑むフラメンコ・ダンサーの顔であった。その流し目をした美貌のダンサーのブロマイドは少年であった幸村をぞくぞくとさせたものであった。そのダンサーに、里緒は似ていたのである。里緒の顔は彫りが深く鋭角的な顔立ちで、ハーフとも思われる雰囲気を醸し出していた。これで、真紅の薔薇を唇に咥えたら、カルメンそのものだ、と幸村は思い、何だか、昔感じたような懐かしい、ぞくぞくとした感情を抱いた。
そして、少し恥ずかしそうに微笑む里緒の笑顔は誰にも渡したくない、と思った。
この笑顔を自分だけのものにしたい、と思ったのである。

 「さとう宗幸という歌手をご存じですか」
 「勿論。仙台で暮らす者で、さとう宗幸さんを知らない人は居ませんよ。彼が唄った『青葉城恋唄』はカラオケの定番で、仲間とよく唄う名曲です」
 「その、さとう宗幸さんと私の親戚の人が知り合いなんです。今、古川に住んでいるんですが、結婚式の時はさとう宗幸さんに唄ってもらったらしいです」
 「すごい。さぞかし、盛り上がったものでしょうね。本人に唄ってもらうなんてね」
 里緒と話しながら、幸村は妙に感じていた。今まで、女の子と話す場合はいつも緊張していた自分がこうして里緒と話している時はそれほど緊張をしていないことに気付いたのである。里緒となら、気楽に自分を曝け出して話すことができる。この妙な気分は何だろう。幸村は自問自答しながら、微笑みを浮かべた里緒の柔らかな表情を見詰めていた。

 「私、里緒のことは里緒っぺ、茉莉のことは茉莉っぺ、と呼んでいるのよ」
 『あぶくま洞』の駐車場を出た、帰りの車の中で美咲が言った。
 「じゃあ、美咲のことは美咲っぺ、と呼んでいるのかい」
 「呼んでいません。美咲、か、美咲ちゃん、です。本当は、美咲お姉さんと呼びたいくらいです」
 茉莉が茶化すような口振りで言った。
 「なるほど。名前が二字なら、しっくりくるけど、みさきのように三字なら、ちょっと間が抜けた呼び方になってしまうものねえ。みさきっぺ、ではちょっと変だもの」
 甚八が茉莉から貰った飴を舐めながら、同調した。
 車の中でわいわいと喋りながら、六人はそれぞれ、満ち足りた感情を抱いていた。
 「さて、第三回目の合コンはいつ、どこにする」
 幸村が運転しながら、いつになく、お調子者めいた口調で言った。
 「幸村殿。貴殿はどこがお好みじゃ。拙者は貴殿の言に従うことに決めておる」
 又兵衛の言葉に、幸村が暫く考えてから、このような提案をした。
 「じゃあ、いわき駅近くの映画館で映画を観てから、ラトブあたりをぶらついて食事をするというのはどうかい」
 「映画、ねえ。映画もいいかも知れないな。このところ、映画なんて観たこと無いな」
 甚八が幸村の提案に同調するかのように呟いた。
 「今、いい映画、やっている? 私も暫く映画は観たことが無いから、いいかも」
 と、美咲も賛成し、第三回目の合コンの場所はいわき駅周辺となった。

 第三回目の合コンの日となった。
 六人はいわき駅近くにある映画館に入った。二人ずつ、カップルに分かれ、それぞれが観たい映画を観ることとしていた。観る前に、ラトブの駐車場での集合時間を決めておいた。幸村と里緒は尾上菊之助と黒木瞳が主演した『怪談』を、甚八と茉莉は三人の女子高校生の物語『彩恋SAI-REN』を、又兵衛と美咲は『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』という映画を観た。映画が終わった後は、集合時間までそれぞれのカップルが思い思いの時間を過ごすこととなった。

 「又兵衛、私のこと、どう思っている」
 映画の後、ラトブに向かって歩いていた時、美咲が立ち止まり、突然訊いてきた。
 「どうって、言われても、美咲は俺たちの中学の同級生だし、今は、フラガールで頑張っている女子だよ」
 「ふーん、それだけ。他に、無いの」
 「他か。あった。俺って、お前が苦手なんだよな。俺のことをいつも、小馬鹿にしてさ」
 「小馬鹿にしたって。いつよ。又兵衛を小馬鹿にしたこと、一度も無いよ。それなのに、いつも、小馬鹿にしていると本気で思っているの。そんなこと、本気で思っているの」
 美咲の声が急に変わり、泣き声になったことに又兵衛は気付いた。
 「何だよ、急に、そんな声になって。いつもの美咲らしくないよ」
 美咲は又兵衛の手を取った。そして、強く、握りしめた。
 「今だから言うわ。中学の時、学級委員の選挙の時、又兵衛に入った一票は、あれは私の一票だったのよ。私はいつも、又兵衛に入れていたのに。小馬鹿になんかしていない」
 又兵衛は手を握りしめられ、美咲の手の温もりを感じた途端、胸が高鳴り、急にどぎまぎ、おろおろという情けない状態に陥った。こんな真剣な顔をしている美咲がいるなんて。
 「知らなかった。美咲が俺のことをそんな思いで見ていたなんて」
 「又兵衛は本当に鈍いんだから。すまないと思うんだったら、美咲では無く、これから、みさきっぺ、と呼んでよ。これは、罰よ、罰。さあ、言って。言って」
 美咲に見詰められて、又兵衛は意を決したような口調で言った。
 「じゃあ、言うよ。みさきっぺ、・・・、俺とこれからも付き合ってくれよ」
 美咲は暫く黙っていたが、にこりと笑みを浮かべながら囁いた。
 「いいわよ」
 又兵衛がびっくりするほど、甘い声だった。

 茉莉は甚八と肩を並べて、ラトブの店の中を歩いていた。
会津高を出た従兄弟は甚八たちの高校には遊び人が多いということを何かの話のついでに言っていたが、この根津という人は見掛けとは異なり、全然遊び人じゃない、むしろ、野暮なくらい純朴な人だと茉莉は思った。
美咲は以前、村田君は冷たく打算的な男子で、根津君は冷徹な皮肉屋の男子だと言っていたけれど、美咲の思い違いかも知れないと思っていた。
 「茉莉さん。あそこで、お茶でも飲もうか。集合時間にはまだ時間があるし、僕も茉莉さんともっとお喋りがしたいから」
 茉莉が頷き、二人は二階の珈琲館というカフェに入って行った。店内は香り高いコーヒーの香りに満ちていた。二人は外の風景が見える窓際の席に並んで腰を下ろした。
 「フラガールって、何年間くらい舞台に立つの」
 「五年から、長い人で十年といったところですね」
 「やはり、結婚したら寿退職とかがあるんですか」
 「ええ、そうなります。他、家庭の事情とか腰痛。腰痛になる人、結構多いんです」
 「フラガールを引退して、それからが長い人生が待ち構えている」
 「でも、二年間の学院生活で学んだこと、フラガールとして学んだことは一杯役に立つことと思います。特に、学院生活、ダンスのレッスンで身に付けた根性があれば、引退して、どんな職業に就いても大丈夫と私は思っています。それに、フラガールの仲間って、これは一生ものなんです。厳しいレッスンに耐え抜き、同じ舞台に立って精一杯踊り、同じ感動を味わった仲間って、根津さん、最高の仲間なんです。同志なんです。一生続く同志なんです。うまくは言えないけれど、お互いに助け合う最高の友達なんです」
 そのように話す茉莉の顔は輝いて見えた。甚八は茉莉の顔を見詰めた。
自分には無いものをこの女性は持っている。
この女性と同じ人生を歩んでみたいと心から思った。

 幸村と里緒はラトブの本屋周辺をぶらぶらと歩いていた。
 「学院生活は二年間と聞いているけど。どんな二年間でしたか」
 「二年間、学院生と呼ばれ、いろんな勉強をするのよ。ダンスもフラ系とタヒチアン系のポリネシアンダンスのレッスン、バレエも基礎程度は教えられます。その他、華道、茶道、ハワイ語の学習時間もあります。フラメンコの基礎、ポリネシアン音楽の時間もあり、そうそう、ジャズダンスのレッスンもあるんですよ。でも、一番きついのは最初の三ヶ月で、七月からの舞台、ステージ・デビューに備え、本当にきついレッスンが毎日のように続くんです。先生からは表現力を身に付けなさい、踊っている時の表情を大切にしなさい、いつもスマイルを忘れずに、と言われ続けられるんです。踊りの技術は先輩、そして、同僚からも盗むんですよ。とにかく、上手くなりたい一心で、ちょっとでも感心する技術は何とか盗んで、自分のものにするように努めるんです。そして、上手く踊れた時の満足感、思わず、やったあ、と叫びたくなります」
 「そして、頑張って、ソロ・ダンサーになるのが夢ですか」
 「全員、おそらく、そうです。ソロになりたくないって言う人はおりません。でも、その内、ソロになれる人、なれない人がはっきりしてくるんです。ソロにはなれないと諦めることが一番辛いとも言えます」
 「里緒さんはソロになる人だと美咲は言っていたけど」
 「さあ、どうでしょうか。ソロになれずに結婚して、引退してしまうこともあるかも。好きなひとの子供を産んで・・・。私、こう見えても、子供が大好きなんです」
 幸村は微笑む里緒の横顔を見ながら、この女性は俺の大事な人になるかも知れない、いや、きっとなるだろう、と思っていた。

 八月も末になって、ショッキングなメイルが又兵衛の携帯電話に入ってきた。
 美咲からのメイルで、里緒が退団することになったというメイルだった。
 母親が重い病気に罹り、看護と身内の世話をするために郷里に帰るということだった。
 重い病気というだけで、美咲も詳しいことは知らないようであったが、里緒の表情から窺えたことは、どうも、癌であるらしく、しかも、その癌は膵臓癌で末期に近い段階らしかった。
 「癌の中でも、膵臓癌はなかなか発見しづらく、判った時は既に手遅れの段階になっていることが多いんだ」
 医学生である幸村が溜め息交じりに呟いた。
 「で、退団予定はいつなんだ」
 甚八が又兵衛に訊いた。
 「来月、九月の末ということだった」
 「嵯峨さんにとっては、残念なことになったなあ。美咲の話では、将来のエース候補だったのに。何とかならないものか」
 「残念な話だが、母親が入院することになった以上、お爺さん、お父さん、そして、弟といった身内の世話もあるし、嵯峨さんにとってはまさに、苦渋の決断といったところなんだろう」
 甚八と又兵衛の会話を聞きながら、幸村は嵯峨里緒という女性との交際を快く感じていただけに、嵯峨里緒の思わぬ運命の暗転にがっくりと気落ちしている自分に気付いていた。
 先日、フラガールのリーダーである矢沢真理から言われた言葉も思い出していた。
 遊びじゃ、私、許さないわよ、覚悟して、付き合ってちょうだい、という言葉であった。
 目力の強い真理からのきつい言葉に俺は少しびっくりした。
 遊び半分、本気半分といった俺の中途半端な気持ちが見透かされているように感じた。
 でも、その後は、遊び半分といった気持ちは失せて、俺は本気に付き合うつもりでいた。
 退団して郷里に帰る里緒に対して、俺のやれることは一体何だ。

 部屋でネスカフェ入りのミルクを飲んでいると携帯電話の着信音が鳴った。
 電話に出ると、美咲の声が聞こえてきた。
 「里緒が退団するけれど。村田君はどうするの」
 「どうするの、と言われても」
 幸村は美咲からの突然の電話に戸惑っていた。
 その戸惑いが電話の向こうの美咲にはじれったく思われたらしい。
 「はい、さよなら、というわけ」
 美咲の声は尖っていた。
 幸村がぼそぼそとした口調で呟くように言った。
 「同じ宮城県に居るわけだから、嵯峨さんが落ち着いたところで、連絡を取ってみることにするよ」
 「そう、それがいいわ。是非、そうしてやって。今後のことは判らないけれど、里緒には村田君が必要な人かも知れないから」
 美咲の声は少し和らいでいた。
 少し経ってから、里緒からメイルが届いた。
『さよなら。いい思い出をありがとう』とだけ、書かれてあった。
幸村はそのメイルをいつまでも見詰めていた。

 安倍首相が身体の不調を理由に退陣した頃、嵯峨里緒は退団した。
 駆けつけた三人が見守る中、里緒にとってのラスト・ステージが始まった。
 フラガールの伝統なのか、フラガール歴二年半のまだ新人に過ぎない里緒であったが、中堅のダンサーが踊る踊りの一員となって、踊っていた。
 退団のことを知らない常連の人が見たら、あの娘はえらい出世をした、抜擢されたと思ったかも知れない。最後の踊りは格上げして踊らせるということか、と幸村は思い、目頭が熱くなった。愛とリスペクトがこのフラガールの世界にはあるのだ、と思った。
 ハワイアンダンス、タヒチアンダンスと演目は続き、最後のソロ・ダンサーによる踊りも終わった。ソロ・ダンサーはリーダーの矢沢真理であった。
 学院卒業後、僅か二年でハワイアン・ネームを貰ってソロ・ダンサーとなったこの超天才のダンサーは円熟期を迎え、どちらかと言えば、小柄なダンサーではあったが、踊りは大きく伸びやかであり、その圧倒的で華麗な踊りは観客を魅了してやまなかった。
 ソロ・ダンスの後は、全員で映画『フラガール』の主題歌である『フラガール~虹を~』の歌に合わせて、全員が情感たっぷりに踊る。
 ステージの最後は、ソロ・ダンサーが「ゴー」と掛け声をかけ、その後、全員が「フラガール」と唱和するのが通常であったが、その夜は違った。
 矢沢真理が「ゴー」と掛け声をかけた後、全員が「りお」と唱和したのだった。
 行け、里緒、ということか。
 幸村の傍らで、「りお、と言ったよな」と甚八が言った。
 「ああ、確かに言ったよ」と又兵衛も甚八に同意した。
 掛け声の後、矢沢真理は舞台の奥に立ち、観客に手を振っていたが、突然、里緒を手招きして呼んだ。傍らに立った里緒に中央の座を譲った。
 そして、スポットライトが真理から里緒に移された。
 舞台の奥の中央でスポットライトを浴びるという経験はソロ・ダンサーにしか与えられない特権であり、里緒にとっては最初で最後の経験となった。
 里緒は観客の拍手に答えて、手を大きく振っていたが、スポットライトに照らされた彼女の眼は涙で光り輝いていた。
 夜のショーが終わった後、舞台では里緒を中心にして、フラガールたちの記念写真が撮られた。矢沢真理から大きな花束が贈られ、里緒は真理からハグされた。
 真理が里緒の耳元で何か囁き、里緒はしきりに頷いていた。
 里緒はにこやかに微笑んでいたが、遠目でも両目が真っ赤に潤んでいるのが判った。
 やがて、送別の式は終わり、舞台の照明は静かに消えていった。
 幸村は必死に涙を堪(こら)えていたが、微かな咽(むせ)び声だけは抑えられなかった。
 咽び泣く幸村の肩は両側から抱かれた。甚八、又兵衛も泣いていた。

 駅には、美咲、茉莉を含め、十人ほどのフラガールが見送りに来ていた。
 矢沢真理、鈴木麻衣子もおり、それぞれが里緒に声をかけ、ハグをして別れを惜しんでいた。ジーパン姿の里緒は気丈には振る舞っていたが、眼には涙を浮かべていた。
 夏も終わりで、夕暮れのけだるげな風が少し吹いており、駅の花壇には、花弁を落としたひまわりが夕陽に照らされ、寂しげに、微かに揺れていた。
 やがて、常磐線下りの特急電車、『ひたち』がホームに近づいてきた。
 里緒がフラガールの集団に別れの挨拶をして、キャリーバッグを片手に歩き始めた。
 湯本駅では、電車の発着メロディーとして、シャボン玉、飛んだ・・・、という童謡『シャボン玉』のメロディーが構内に流される。
 作詞者の野口雨情は情念の人であり、女性遍歴も華やかであったと云われている。
 湯本という街自体、江戸時代では温泉芸者の宿場町として隆盛を極め、放蕩児であった野口雨情もこの街の芸者の一人と恋仲になり、二年半ほど逗留したという事実がある。
 その因縁もあり、駅から少し離れたところに、雨情を記念する個人経営の『童謡館』という記念館もある。
 三人は電車の昇降口に向かって歩く里緒の後ろ姿を見ていた。
 甚八が駅の発車メロディーに合わせ、呟くように歌った。
 シャボン玉 消えた 飛ばずに 消えた 産まれて すぐに こわれて 消えた
 三人の耳にはこの発車メロディーが、志半ばに、退団していく里緒への挽歌のように聞こえていた。
 里緒にとって、憧れであったフラガール人生は短く、僅か二年半で幕を閉じた。
 里緒が車内に入った。里緒がこちらを見た。淋し気な眼差しだった。

 「じゃあ、俺、ちょっと行ってくる」
 幸村がそう言い残し、車のキーを甚八に渡し、足早に里緒が佇むドアに向かった。
 甚八と又兵衛はあっけに取られた。
 幸村が車内に入ると同時に、電車のドアが閉まった。
 里緒が驚いたような眼差しを傍らに立った幸村に向けていた。
 甚八と又兵衛の二人共、まさか、と思っていたが、そのまさかが現実となった。
 幸村が、茫然と見つめる甚八と又兵衛に、右手を上げて、Vサインを示した。

 甚八と又兵衛の耳に、小さな拍手が聞こえてきた。
 振り返ると、茉莉と美咲が拍手をしながら、近づいてくるのが見えた。
 二人は拍手しながら、目を潤ませていた。
 肩を寄せ合った幸村と里緒を乗せた電車はホームを静かに離れていった。
 又兵衛が呟いた。
 「Vサインなんて、しやがって。何のVサインだよ。意味、分かんねえ。でも、甚八、これって、駆け落ちだよな」
 「駆け落ち?、・・・。ああ、そうだよ。間違いなく、駆け落ちだよ」
 「あいつ、柄に似合わず、無鉄砲なことをしやがって」
 「しかし、・・・、カッコいいな」
 真田幸村は大阪夏の陣で徳川家康の首を求めて、真紅の鎧に身を固めた真田勢を率いて、真っ先に馬を走らせ、闘ったと伝えられている。
 その闘い振りは、敵方の武将にも、『真田(さなだ)、日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)』と激賞されたとも語り継がれている。敵の武将の目から見ても、男はかくありたいもの、武士はかくありたいもの、日本一のカッコいい武士であったに違いない。

 茉莉と美咲が甚八と又兵衛のところに佇んだ。
 茉莉が囁くような口調で甚八に言った。
 「良かった。シャボン玉のようにならなくって。でも、わたしたちは・・・」
 甚八の頭は混乱していたが、恋しい女のもとに馳せ参じた幸村の姿が脳裏に蘇った。
 涙で濡れた眼を向ける茉莉に甚八が言った。
 一世一代の勇気を振り絞って言った。
 「決まっているよ。茉莉さんは僕の大事な人だ。茉莉さんさえ、良ければ、・・・」
 駅の改札口に向かって歩きながら、甚八と又兵衛は幸村のことを思っていた。
 ひと夏の思い出、あえて言えば、ひと夏の恋にはしたくなかったのだろう。
 甚八は茉莉と肩を並べて歩きながら、思っていた。
 幸村は愛を求めて、真っ先に駆けて行った。
 根津甚八は真田幸村の影武者の一人だったと云われている。
 ならば、俺、甚八も幸村同様、愛を求めて疾走して行かなければ、到底、影武者の役割、使命は果たせないはずだ。
 甚八は右手をそっと、茉莉の肩に置いた。
 茉莉は一瞬驚いたような眼で甚八を見たが、そのまま静かに微笑んだ。
 改札口に向かう四人の前に、綺麗な夕焼けの空が広がっていた。
 真っ赤で大きな夕陽と鮮やかな茜色に染まった空があった。

 又兵衛は思っていた。
 真田幸村、根津甚八、後藤又兵衛、この大坂方の三人は夏の陣で玉砕した。
 文字通り、輝く玉となって飛翔し、的にぶつかり、潔く、砕け散っていった。
 でも、俺たち、温泉ボーイズは違う。
 温泉ボーイズは愛を求めて、しぶとく、生きるんだ。
 幸村、甚八、そして、俺も愛を求めて、まっしぐらに生きるんだ。
 そして、又兵衛も、前を肩寄せ合って歩く甚八たちのように、美咲の肩に手をまわした。
 肩に置かれた又兵衛の右手に美咲の左手が優しく置かれた。
 又兵衛が素っ頓狂な声を出して言った。
 「夕焼けの明日(あした)は晴れるんだ。そして、明日(あした)という字は、明るい日と書くんだ」
 又兵衛の叫ぶような声を聞いて、甚八、茉莉、美咲の三人は笑った。
 夕陽も笑ったように、四人は思った。


温泉ボーイズ フラガールに恋して

温泉ボーイズ フラガールに恋して

小学校以来の仲良し三人組がフラガール三人組に恋をした。馴れ初めと合コンでの恋の進展具合を少々ユーモアを交えて物語とした。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-17

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