*星空文庫

夕暮れに水の花咲く

こさめ 作

いいえ、お義母さま。
もう一度私を引き止めて下さる勇気は大変に有難うございます。
あなたは本当に私のような不届きな女にもそのように手を差し伸べて下さる。
けれども私の裏切りは、けしてその裏切りの果てに私が堕落し充分報いを受けたと世間で言われようとも、あなた様ですらそう仰っていただいたとしても本当のことです。
私が私の夫、あなたの大切なご子息を裏切ったのは表面だけのことではないのです。
心から、私、夕子は私の夫を裏切りました。
ですから何としてもこの離婚は成立せなければなりません。
何年でも私は嘘をつくことができますでしょう。
何十年、もしかしたら彼が死の床に至るまで付き添うこともできたかもしれません。
けれども私はあの少女、水咲あやめに触れたときから、いいえもしかしたらもう初めて見たその瞬間から裏切りを予感していたのです。
それがどんな形式であっても、それがどんな終わり方であっても、必ず。
あなたは一切をお話になれと仰る。
けれども私の話はあなたのお耳に触れるにはあまりに…
いいえ、隠し事をしようというのではありません。
あの娘が悪事を為したというのではないのです。
あの水咲あやめは、まったく罪から免れています。それを犯したのは私、この私の側です。
ええ…まだお疑いになる。
では、ようございます、お話しましょう。
あなたがそれで私と夫との離縁を認めてくださるというのなら…
何度も言いますようにそれで私が晴れてあの女の子を獲得できるということにはなりません。私自身もあの子のものにはなりません。
ただひとりきり、例え路頭に迷うことになろうともこれは運命です。
もう、私の心は決まっています。



もとより私があの女子高校を卒業して教員として戻ってまいりましたのも、母校であるあの学びの園を愛していたためです。
そこで既に長らく働いていたあなたのご子息と出会いましたのも、それこそ宿命であったことでしょう。
あの人との結婚生活も、あなた様との巡り合わせも私には曇りのない、それでいて不満のないものでございました。
ただ一点、あの少女、水咲あやめが私のいる高校に転入してくるまでは。
私はその朝授業の支度と定期考査の採点に追われておりました。
入学式があったのはつい一週間前。けれども校門の窓外の桜は散り始め、新入生である少女たちのおしゃべり声もようやく鳴りを潜め少しずつ仲のいい相手を見つけ出す頃でした。
あの方が、同じ学校の教員であり私の配偶者である、まさにその方が背後に立っているのに気付かずにいたのです。
けれども名を呼ばれ振り向いた私がそこに認めたのは、おとなしやかに俯いた少女でした。
少し遅れた新入生だと紹介されたその少女は不思議な魅力を有していました。
私からその日の為すべきことや心にかかっていた仕事を一切忘れさせるほどの残酷な魅力がありました。
優れた青毛の馬のように目前に現れ、私がいるのは黒い砂漠といわんばかりに隔絶された美しさ。
そして、見ただけでも人を奈落に貶める厳粛なその美しさはよく見なければわからない管理された様子を帯びているのでした。
品の良い長い黒髪、月の青白い光のもとで育ったのかというほどの白い肌、か細い手足。
けれどもその目元はどのような陰りで育ったのかをかえって物語るような、狼の如き厳しさを感じさせてました。
その厳しさは自然や放埓さといったものとは切り離された理知的で洗練されたものでもありました。
刹那、あまりの存在感に私は怯えました。
そしてついぞなかった懐かしさに囚われたのです。
私はその瞳を知っていました。
確かにその人を知っている、と思えてならなかったのです。
少女のその面差しは私のうちの情緒的なものを呼び覚まし、けれどもそれだけでない抱えきれないほどの郷愁を呼び覚ましました。
いても立ってもいられないような。
「先生、私をご存知ですか。いえ、初めまして…」
私の様子を見て静かに微笑したのです。
何もかも心まですべて聞き知っているといわんばかりに、けれど無邪気に。
「水咲あやめと申します。私の母は水咲皐月といいます。母よりも一つ下の後輩だった方が先生だと聞き及んでいたんです、綾瀬先生…」
水咲皐月!
お辞儀をする少女のその面差しも、そのアルトの声も、その様子や髪の長さを覗けば確かにあの人そっくりの、その娘であることを私は知りました。
そうして驚き、恐れ、内心に嵐が訪れたのです。
どなたにも申上げたことのない私の、最初の、先輩と後輩という仲にはおさまらなかったその相手の名をこそ水咲皐月というのです。
この時の私の衝撃は並ならぬものがありました。
どうして、私の前にあの人と同じ姿で、そしてあの人の娘として現れたりしたのでしょう。
その声に再びこの名を呼ばれようとは…
打ちひしがれた私がものも言えずにいると、わが夫、あの人が闊達な笑い声でその場の緊張を吹き飛ばしました。
彼は笑って私が既に綾瀬姓ではなく、九条姓であり、あの人の配偶者であることを明かしました。
そのことは確かに真実ではあったのですが、私は彼の妻であることを何故かそれまで感じたことのない恥と感じ、自らの受け持つ生徒である彼女に対して申し訳ないような心地さえしたのです。
「九条、くじょうせんせい、ですか…」
いささか気に食わないというように彼女がその眉をひそめたとき、彼女の母と同じ面差しを有していながら全くその人の見せなかった表情を水咲あやめが見せることに気付きました。
その性質は彼女の母のように甘やかではないという予感があったのです。
「けれど、先生…私、母から、あなたの思い出ばかり伺って育ったんです。ですから、急に九条先生と言われましてもしっくりこないんです。ですから、男の九条先生と区別するためにも、綾瀬先生とお呼びしてもいいでしょうか…」
控えめに、けれども厳然と彼女が言い放つと、かの人の…私の夫の笑い声がおさまりました。
遅い入学であり、おとなしやかに話すその内容の大胆なことは彼にも伝わったようでした。けれど、確かに私の苗字の改姓は、しばしば、彼との混同を招くものでもありました。
そして、彼はまた疑問をもたぬ人でもあります。
それは、お養母様、あなたの育んだ性質そのものであり、私にとってもかつて眩しく目に映えていた美徳であったのです。
様式美の典型のような性質の彼は頷きました。
「確かに混同する生徒も多い。新入生からは、そのように呼びわけられることも必要だろうからかまわないが、どうする」
家のうちでもそのように呼びかける、その穏やかな話し方で私にも彼は確かめました。
いつもはありがたく感じる彼のその穏やかさが何故か暗鬱に感じられたのは初めてでした。
水咲あやめのその瞳。
その視界に私はただ彼の妻として映っているのだと思うと、何故か自らが罪深く感じられたのです。
「私は…」
ああ、白状します。
「私もかまいません。いえ、綾瀬と呼んで下さった方が皆にもわかりやすいでしょうから、水咲さん…あなたからそうして広めてくださいね」
かろうじて教員としての顔つきで私は微笑しました。
けれども背後の夫に見えない、彼女の表情は既にして王者のようでした。
私を支配するその月光。
彼女の瞳に光ったのは征服者の確信そのものでした。
彼女は言いました。
「嬉しいです、綾瀬先生…ええ、きっとそうします。どうぞよろしくお願い致します」
いかにも従順なことを言いながらも、その笑みは不遜に満ち足りて、私を陶磁器の皿か鉄器の皿か見定めでもするようにつま先から頭のてっぺんまでを射抜いたのです。ただの視線、それだけで。
ああ、あの子が私の受け持つクラスの生徒だと知らされ、夫の手を離れて私の傍に彼女が立った時。
あの職員室には私や彼をおいて他にも人は多くいました。
けれども私の席は窓辺近く。
近くの席にはたまたま私をおいてほかに人気はなく、そして部屋は広くありました。
彼女は夫が背を向けた途端に身を屈め、私の側へ寄り膝折って素早くこの掌をとりました。
「先生、本当にお会いしたかったんです」
騎士のように彼女は膝をついたのです。
「何度もあなたの話を聞かされて、母と同じような感情を私はいつかあなたに抱いていたので…」
掌に頬ずりせんばかりの近接した距離に私は慌てて掌を引っ込めました。
「あ、あやめさん…立ってください」
「どうして? だめですか?」
控えめに、不思議そうに、けれども確かに彼女は知っていてそんなことを私に問いかけたのです。
「先輩はそんなことなさいませんでした…」
何を口走っているのか、彼女の視線で私は気付いて愕然としました。
その言葉によって私が彼女に抱いている理想と郷愁を白状したようなものでした。
彼女の瞳の光はいよいよ強さを増し、もうそれは優越心と呼べそうなほどでした。
「そう…母はこんなことしませんでした、ですね。覚えておきますね、先生。それを仰るってことは、先生もようく母を覚えていらっしゃるんですね」
「それは…」
二の句も継げませんでした。
「教えてください、先生。私、嬉しいです。あなたが母のことを覚えていてくださって。ねえ、あなたの知っている母がどんな風であったか教えてくださいね…」
そんなことを耳元で囁かれることが、あの人の娘に言われることがどんなに残酷であったことでしょう。
忘れようとしていたその人を、その人でない存在から言われるなんてこんな悲しいことはありません。けれども確かに彼女はその血を引いている、まるっきりあの人と生き写しの顔立ちでそんなことを言うのです。
たった十五か十六か、そこらの年齢の少女に…
そうです、私は。
あの時から。
ああ、あの唇。
あの唇が一瞬でも私の掌にあの時触れていたなら。
それをもうあの瞬間に許してしまっていたなら…
けれどももう既に崩壊は訪れています。
それが早いか遅いかそれだけの違いであったことでしょう。
もう決まっていたことなんです。
私はもう三十も超えているというのに、年甲斐もなく、あの瞬間から。


《つづく》

『夕暮れに水の花咲く』

『夕暮れに水の花咲く』 こさめ 作

一過性の百合でないハッピーエンドな物語です。既婚者×少女(教師×生徒)。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-01-15
CC BY-NC-ND

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