天上に遊ぶ雑草の花々の物語

疎らに木々の生えた大地が夕闇に沈もうとする中、男の声が魔神のそれのように恐ろしく響き渡った。
「皇女よ、必ず俺は復讐するぞ!地平の彼方から帰ってお前の大切なもの全て引き裂いて地獄に落としてやる!今は心安らかにしているがいい、お前のゆく道はお前とお前の親しい者達の血にまみれているぞ!お前の周り中にお前を恨む者が居る事を忘れるな!」
はるか遠くで大声で叫んだ男は、藪の中に消えた。皇女の忠良なる親衛兵達は色めき立ち、何騎かが追いかけていった。しかし無駄な行為だろう。人の背より高く草の生い茂る原野でたった一人の男、それもさんざん都を騒がせた大盗賊を捕まえるのはまず不可能に違いない。
皇女ユディアナは追跡をやめるよう将兵に命じた。
「あの者は充分に罰を受けています。これ以上痛めつける必要はありません。」
馬上の皇女は未だ少女ながらきらびやかな武装がよく似合う凛々しさで、屈強な男達を華奢な軍刀の一振りで操るのだった。
「しかし皇女殿下への不敬な言動を許すわけには参りませぬ。必ずや捕らえてしかるべき処罰を与えます。」
ユディアナの傍に侍る老将は、命令に不服を覚えているようである。それに対しユディアナは少し語気を強めて言った。
「わらわが良いと言っているのです。ただちに兵を引き返させなさい。」
すると老将は非常に恐縮して、
「ははっ!おおせの通りに!」
と言うや配下の兵に帰還を命じに行った。皇族の権威は絶対である。少しでもきつく言えば命令不服従など絶対に有り得ない。
しかし老将が去り際にブツブツとつぶやいた一人言が、自分への批判であることはユディアナには
わかっていた。
あの盗賊のような悪人の類いでなければ、貴族高官も民人も誰しもが皇室を讃え敬っているが、心のうちではどんな想いを抱いていることか。
颯爽とした姫武者は常に不安に苛まれている。
今日は皇帝の名代として、追放刑が課せられた盗賊を都から遠い荒れ野まで連行して放った。幾多の罪を重ねていた盗賊は、顔に刺青をされ、両手の指を四本も切り落とされ、結果として心から罪を悔いる態度を見せた。死刑を免れたことに感謝し、終生悪行を繰り返さない事と、二度と都に近付かない事を誓った。
それが縄から解き放たれて姿を消す寸前に言い放ったのが、ユディアナへの底知れぬ憎悪だった。
わきあがる恐怖心を面に出さないよう心がけながら、ユディアナは兵とともに都への帰路をとる。
盗賊への処罰を決定したのはユディアナではない。議会である。しかし彼女は憲兵隊長の役職にあるため、かたちの上では刺青刑も指の切断もユディアナの意思ということになる。
罪人への刑罰に関して、ユディアナが議会からの要望に異を唱えることはほぼないのだが。自己判断で重要な物事を決めるには経験が足りなさすぎると自分でも思っているのみならず、周囲にもそう見なされている。何しろ母帝に今はまだ議会に素直に従っていろと言われてもいる。
だがそんなことは下々の者にはわからないから、苛烈な刑罰をしばしば下す嗜虐的な姫だと思われてしまっている。議会がそうなるように仕向けている。
議会の中に、帝室の評判を貶めようとする勢力があるのだ。しかも小さな勢力ではない。
荒野を吹き抜ける風が冷気を帯びている。ユディアナは空を見た。夜に向かう半分くらいが紫色に染まる空の端に、黒い雲が広がりつつある。
都にたどり着く前に雨が降るだろう。
地上低くを飛び過ぎ、空へ舞い上がる小さな鳥達がいた。ユディアナは、あの鳥になれたらと思わずにいられなかった。
都に帰りついたのは翌日の昼過ぎである。雨上がりの町は眩しい陽光にキラキラと照り輝いていたが、ユディアナの軍兵は泥にまみれている。
皇女に喝采を送る民衆の声も慰めにならず、陰鬱な気持ちのまま、ユディアナは皇宮に帰還した。
濡れそぼった格好で皇帝に拝謁し、仔細を報告する。
皇帝エティアはユディアナの実母である。かなり早くして長女のユディアナが産まれたので、まだだいぶ若い。比較的小柄な体格であるのに、すらりとして威容をたたえているために背が低く見えない。長く豊かな髪が腿を越えるほど垂れている。帝国一の美女と誰もが称賛する容姿の持ち主だ。
「ユディアナよ、大儀であった。しかし雨の中を撤して帰ることはなかったであろう。急がねばならぬ理由は無し、そなた一人なら知らず、兵まで雨露に凍えさせることもあるまいに。心遣いというものが足らぬ。」
皇帝よりの軽い叱責に、ユディアナはうやうやしく答えた。
「恐れながら申し上げます。荒野にて雨をしのぐ所は無く、将兵全てを雨風から守れるだけの天幕も持っていなかった為に、雨夜の行軍となったのであります。決して兵を慮らなかったわけでは……」
「賢らなことを申すな!」
皇帝の声がきつくなった。
「充分に天幕を用意しておればそなたも兵も濡れずに済んだのであろう。その程度のことに考えが及ばなかった不明を恥じるべきところを兵を慮らなかったわけではないと?何とみっともない、
愚鈍な小娘よな!」
文武の諸官が居並ぶ中での手厳しい言葉に、ユディアナはあまりにも恥ずかしくて涙ぐみそうになった。自らの非を認め、反省を示すべき場面だが、気持ちが昂って何も言えない。
代わりに一人の高官が進み出て声を上げた。
「陛下に申し上げます。皇女殿下の御身は帝国の将来そのものでございます。臣が見ますに殿下は雨に濡れてお身体は冷えきっているご様子。まずは衣を替えあそばさなくては、病にとりつかれでもなされれば帝国の危機にございましょう。」
大男である高官の声は、大きく高らかで健康的に明るく、その場の雰囲気を変えるのに充分な力があって、諸官をほっと安心させた。
しかし弛緩した空気は一瞬後には引き裂かれた。
「黙るがよい。」
皇帝の冷たい声が広間の隅々にまで響くと、人々は身を震わせ、大男の高官はたじろいで転びそうになり、ついさっきまでの威風は消し飛んでまるで蝿のごとき存在感しかなくなっていた。
帝国全ての軍を統べる大元帥を兼ねる皇帝の威厳には何者も逆らえない。生来病弱の身で、弓馬の術など一度としてやったこともない皇帝だが、誰しもを屈服させる力を備えていた。
時々、こうして母帝がユディアナに怒りをぶつけることがある。そうした時は嵐のような罵倒がいつまでも続く。そしてユディアナの心は自害を渇望するほどまで傷つけられるのだった。
諸官にはもう皇帝を諫める気は無さそうである。ユディアナは、今日はどこまで追いつめられることになるのかと思いながら、黙って皇帝の言葉を待った。
だが沈黙を破ったのは皇帝ではなかった。
「ねえねえエティア見てー!綺麗でしょー!」
この場に全くそぐわない華やいだ少女の声。歳の頃十一、二とおぼしき美しい娘が謁見の広間に紛れ込んできた。
皇帝の目の前に悪びれもせず突っ立って頭にかぶった花冠を見せびらかす。
「西の庭園のお花を摘んで作ったの。いいでしょ、羨ましい?でもエティアにはかぶらせてあげないよー!」
皇帝を呼び捨てにして、不敬極まりない言動をする少女。にも関わらず、皇帝の顔からはいつのまにか怒気が消えていた。
「西の庭園の花なら朕の所有物よな。さっさと返すがよい。」
「やだよバーカ!あははは!」
ここまで舐め腐った態度をとられてもちっとも怒らず、むしろ楽しげな様子の皇帝。あまつさえ玉座から立って少女と追いかけっこを始めようとさえした。
そこへ花冠の少女より少し年長の美少女が走ってきた。
「こーら、大事な謁見の時は邪魔しちゃ駄目でしょ、またジジイどもに嫌な目で見られるわよ!」
美少女の言う通り、文武の官の中には闖入者二人を忌々しそうに見る者が幾人も居た。
しかし花冠の少女はそんな視線を全く気にかけず、年上の娘も口で言うほど意に介してはいないようだった。
「あっ!ユディアナだ!帰ってきたんだ!ユディアナがいるならエティアには用無いや!」
「ユディアナ、何よその汚れた格好。早く湯浴みしなさいよ鈍くさい子ね!」
美少女二人は綺麗な色の衣装に身を包んでいるが、明らかに高い身分の者達ではない。しかし皇帝と皇女にいくら生意気な口をきいても何ら咎められることがなかった。
「湯浴みはするけど、陛下のお話の後で……」
皇帝以外、国中の誰よりも地位の高い皇太女のユディアナだが、美少女達には遠慮がちな態度だった。
「そんなのいいから!行くわよ!」
二人に左右の手を引っ張られ、広間を出ていくユディアナ。それを皇帝も止めようとしない。
ユディアナは皇宮の広い廊下をずっと引っ張られて、庭園の上に高く渡された橋を通って東側の宮殿まで行った。
そこは皇太女の住まう宮である。近衛兵や近侍の者達が主に敬礼する。それに対しいちいち丁寧に返礼するユディアナだが、美少女二人は何一つとして礼儀正しい態度をとらず、全てを無視して進む。それを注意する者もない。
ユディアナの両手は東の宮の一角まで来てようやく解放された。
そこはとりわけ華やかな装飾が為され、そして滅多に無いほどの美少女ばかりが二十人以上も集まっていた。
「ユディアナお帰りー。」
「見てこの泥だらけの服!早くお風呂沸かさせて!」
「ユディアナ湯浴みするんならわたしもする!」
ユディアナは頬を真っ赤にして叫ぶ。
「そんなの駄目!」
美少女達は可憐に笑った。
ここには男は一人も居ない。年若い美しい娘だけ。ユディアナもまた、十五になったばかりの美少女。彼女達の戯れるさまはまるで天上を女神が舞うかのように輝かしかった。
ここは皇太女の後宮である。ユディアナを楽しませ慰める為だけに集められた美少女ばかりが住まう園。そこはいつも賑やかだ。
なんとか数多くの少女達の要求を振り切ってユディアナは一人で浴場の湯に浸かった。壁の可愛らしい飾りを眺めながら彼女は心からくつろいだ。
ここの主はユディアナだが、住人は言うことを聞かない者ばかり。それは別に間違ったことではない。帝国の法に定められた帝室に嫁いだ者の権利で、帝国臣民は誰しも帝室に絶対的に服従し敬わなくてはならないが彼女達はその義務が免除されるのだ。後宮の女は全員が妃であるから、皇帝にも皇太子にも礼を尽くさなくてよいし、威張り散らしてもひっぱたいても法で処罰されることはない。
それをいいことにユディアナの後宮の少女達は毎日やりたい放題していた。母帝の後宮と比べてひどい有り様である。
しかしユディアナは後宮が大好きだった。皆が勝手だし困らされることばかりだが、同時にとてもユディアナを愛してくれる娘達に囲まれて、救われた気持ちになれる。
浅く張られた適温の湯に寝そべって全身を浸し、ユディアナは冷えた体と心を暖めようと努める。
心安らげるひととき。だが、今日は皇女としての苦悩から解放されることが出来ない。
あの盗賊の言葉が脳裏にちらつく。
「お前のゆく道はお前とお前の親しい者達の血にまみれている。」
ユディアナはどうしようもなく不安に苛まれてしまう。後宮の大切な少女達の身が心配になり頭が重く、胸から血が吹き出そうな気分だ。
後宮の女は正式な妃ではないから、皇族ではない。身分としては皇宮の誰より低い。それどころか平民より下である。彼女達の地位は、奴隷階級なのだ。
宮廷の高官はもちろん、下っ端の役人も町の商人も農民も、彼女達に礼を尽くす義務は無い。法的には帝室の所有物だから、加害したら重罪となるが、寵愛を失い後宮から出された女になら、何をしてもさして罪にならない。殺したところで基本的には軽犯罪である。
国中の誰より自由勝手に暮らしている彼女達だが、相当に危うい身分なのだ。それなのにユディアナの後宮の娘達は特に、慎みというものが足りず、地位の低さと与えられた特権の非常なアンバランスを明確にひけらかしてしまっているので、皇宮内外から敵意を差し向けられている。
ただでさえ彼女達はユディアナの心配の種なのだ。それに加えてユディアナ自身への怨恨が彼女達にまで危害をもたらす可能性を考えたら、ユディアナは頭が狂いそうになってしまう。
じわりとこぼれ出た涙が、温かいお湯に滴り落ちた。
指で涙をぬぐい、ユディアナは、今は暗い現実を忘れようと考えた。
と、その時、浴場に愛らしい幼い声が響いた。
「何一人であったまってんだよぉ、ユディアナーっ!」
ぱたぱた足音を立てて十にも満たない娘が二人、入ってきた。
ユディアナはびっくりして叫ぶ。
「チーナっ、チベティ!いやらしいわね、出ていって!」
そう言いながら振り向いたユディアナはさらに仰天した。幼い美少女二人は実に美麗な全裸をさらしていたのだった。
バッと目をそらしてうつむくユディアナ。頬が燃えそうなほど熱い。背後から幼女の嘲笑が聞こえる。
「オラオラ、素直に見てみろよー、おまんまんの中まで見せてやんからよー!」
「チベティ、品がねーなー!ユディアナはお姫さまなんだからそんな安い売春婦みてえな真似じゃ興奮しねーよ!やっさしく抱かれておっぱい揉まれる方が悦んで雌犬みたいにイイ声で鳴くんだよ!」
「そんなわけ無いでしょう!!」
思わず大声を張り上げたユディアナだが、顔は下を向いたままである。
二人の幼女はけらけら笑い転げる。
プラチナブロンドの髪をしたチーナとチベティは姉妹である。もとは皇都の下町で明日をも知れぬ貧しい暮らしをしていたみなしごだった。
巡察任務中のユディアナの目にとまり、後宮に迎えられただけあって、とても容姿が良く、まるで花の妖精達のように見える。
しかし性質は育ちの悪さがいつまでも抜けきれない。ユディアナと入浴を共にしたいという少女達の願いは、彼女が必死に泣きわめいて怒って叫んで収まらなかった為に渋々撤回されたのだが、この姉妹にはそんなことは関係ないのだった。
「ユディアナぁ、お前もそろそろ大人になろうぜ。優しく教えてやっからよぉ。ほらほら、股ぐらさわらせろよ。」
「姉キよりあたいのが優しいぞ。あたいと赤んぼ作ろうぜっ。」
「そんなことしないよ!」
「カチカチに固くしてるくせによぉ。」
「見ないでぇ!!」
ユディアナの股には大きく膨らんだ突起物。
皇族は両性具有なのである。だから後宮を所有している。
「お前の歳で童貞って、皇族としてヤバイだろ。そんな情けない性格だから貴族にも平民にもナメられるんだよ!」
「お、おい、チベティ、それは言っちゃ駄目だぞ。ユディアナ泣いちまう!」
「別に!泣かないし!」
そう言いつつもユディアナの声は半泣きで震えていた。
皇族の娘は奔放な性格をしていることが多く、性的に早熟なのが普通である。母帝の後宮の女がユディアナを孕んだ時、帝はまだ即位前で齢わずか十一だった。
十五歳にして未経験のユディアナは例外的な存在である。そして恥ずかしがりで生真面目な彼女はまだ当分大人の階段を上がれそうにない。だが別にそれを間違っていると思ってはいないし、劣等感なども無い。モラリストなので、性に関しても道徳を大切にしたいと考えており、遊びの感覚でそうした行為をしたくはないと思っている。
とはいえこの辺りのことについてはやはり、他者からの評判に敏感になってしまう。少しけなされただけでも深く傷ついてしまうのだった。
こみ上げる嗚咽が気付かれないよう、手でお湯をすくって顔を洗う。しかし生来の悪ガキ姉妹をごまかせるはずもない。
「ほんとに泣いたよ!!」
大いに笑い転げる二人。
そこへさらに足音高らかに美少女がもう一人現れる。
「何やってるの淫乱チビ二人!!出ていきなさい!!!」
「チ!カフクアかよ!」
モップを手に入ってきたのは、謁見の間からユディアナを連れ出した少女のうちの一人で、名前はカフクア。十六歳で、細身なのに胸とお尻は豊かにふくらんでおり、顔立ちも母性的で優し気だ。しかし今は怒気をたたえているだけでなく、どこか邪な企みめいたものを含んでいるような表情をしていて、狼のような印象を与えている。掃除用の服装がよく似合っている。
「ほら、早く出なさい!ひっぱたくわよ!」
「るせえなババア!出るからでけえケツどけろデブ!」
「あーあつまんね。姉キ、部屋帰って二人でしようぜ。おまんまんなめっこしてえ。」
「変なこと言わない!黙って歩きなさいバカ痴女姉妹!ユディアナ大丈夫?やらしいことされなかった?」
「う、うん、大丈夫だから。ありがとうカフクア。あの、早く一人にして欲しいな………」
ユディアナはさっきよりも一層身を縮こまらせ、純白の肌が真っ赤に火照っている。幼いチーナやチベティより、歳の近いカフクアに裸を見られる方が恥ずかしい。
カフクアはけだものの眼でユディアナの背中を注視していた。
「もう誰も入らないように外で見張っておいてあげるから、安心していいわ。じゃあね、ごゆっくり。」
カフクアが出ていくまで、ユディアナは背に視線が突き刺さっているのを感じていた。
それが無くなると、ユディアナはホーッとため息をつき、緊張を解いてリラックスした姿勢になる。赤く染まった肌はなかなか元に戻らない。
なにごとも思い通りにならない自分の弱さ、情けなさを痛感させられ、みじめな気持ちになる。
こういう時は安心感を求めて楽しいことを考えようとして、結果としてついいやらしいことを思い浮かべてしまう。
ユディアナの中のモラルは、性的妄想に後ろめたさを感じてはいるが、しかし禁じてはいない。それは誰にも言えない秘かな楽しみだった。
何となく周りをうかがって、間違いなく誰も居ないのを確認してから、ユディアナの愉悦のひとときがはじまる。
空想の物語の中のキスシーン。相手は決まっている。心に決めたあの子。
ふと、今日、その少女の顔を見ていないことに気づいた。さっき皆に囲まれた時、その場に居ただろうか。居なかったはずだ。
再び、盗賊の声が脳裏に浮かぶ。ユディアナは焦燥感に駈られて湯船から上がった。
体を拭いて衣をまとい、湯殿を出るとカフクアが立っていた。
「ねえ、アユティヤはどこ?!」
何の理由も無いのに急にあの子の名前を出したら変に思われるだろうが、今はそれどころではない。
カフクアはべつだんいぶかしむ様子も無く、呆れたように息を吐いた。
「はー。アユティヤなら………朝御飯の後……そういえば見てないわね。どこ行ったのかわかんないわ。」
ユディアナの頭の中で不吉な想像が次々にわきあがる。
「探して!」
あまりにも必死でみっともない声を出してしまったが、気にしていられない。
カフクアはうんざりした顔になったが、すぐに笑顔を作った。
「わかった、探してあげる。」
「お願い!わたしも探すから!」
なんだか不満気な表情のカフクアを残し、ユディアナは小走りで後宮の廊下を巡る。
いつものように明るく笑って遊びほうける少女達に出会う。だがアユティヤは居ない。誰に聞いても朝から見ていないと言う。
「アユティヤ、アユティヤ!」
一人の子にだけ特別執着していることを誰にも知られたくないのに、声に出して名前を呼んでしまう。けれども探し求める少女はどこにもいない。
今にも泣き崩れそうなユディアナに、後宮の娘達はからかい気味で声をかける。
「夜になれば帰るでしょ、部屋で待ってなよ。」
「アユティヤなんかどこに行くのかわかるわけないし、あの子のことなんか忘れてあたしと遊べばいいのよ。」
「後宮に居ないなら他の宮殿じゃないの?庭園かもしれないし。探すだけ無駄よ。それよりおやつにしましょ。」
一人としてアユティヤの身を案じていない。何故なら、これはいつものことだからだ。アユティヤはしょっちゅう誰も連れずにどこかへ行ってしまう。放っておいてもそのうち戻ってくる。だからしんぱいなことは何もない。
ユディアナも頭では取り乱すようなことではないとわかっている。しかし実際に自分の目でアユティヤの無事を確かめないととても落ち着けないのだ。悪い可能性が浮かぶのを止められない。
皆、あまり本気で探すのを手伝ってくれそうもないので、ユディアナは一人、後宮を出た。
衛兵など、宮殿に仕えている者達に橙色の髪の小柄な娘を見かけなかったかとたずねると、後宮の娘達よりもはるかに冷淡な反応が返ってくる。彼らは皇太女への敬意と親愛は持ち合わせているが、奴隷の娘に対しては愛情など全く無い。もし好意があったとしてもせいぜい欲情だろう。
一応、知っていることは答えてくれるが、あまり参考にならなかった。老文官が、それらしき娘を見かけたというが、朝方のことらしい。
いくら聞いて回っても近い時間の目撃者が居ない。おかしなことである。
何者かが皇宮に侵入して誘拐したのではとユディアナは本気で考え出した。
だが、ふと思いついて書庫殿の裏手の城壁を見に行った。そこは疎らに木が植わっていて、高い建物沿いの為に日陰になりがちな為、庭園として利用されてはいないが、ところどころ陽が射し込んでおり、地面には野草の花が咲き乱れていた。
そこにたった一人、女の子がいる。倒木に腰かけて、こちらに背を向けている。
「アユティヤ!」
ユディアナが呼ぶと、女の子はゆっくり振り向いた。
「ああ、ユディアナ。帰ってたんだ。」
眠そうな表情で、眠そうな声をしているが、目付きはやけに鋭い。しかしその眼は何かをハンターのように狙っているわけではなく単に生まれつきそういう目をしてるだけであることを、顔と仕草が物語っていた。彼女はどうやらのんびり日向ぼっこしていたのだった。半分寝ていたのかもしれない。
いつものアユティヤだ、とユディアナは思った。
「隣、座るよ。」
ユディアナも木に腰を下ろす。アユティヤは十三歳だが同じ年頃の他の子に比べて背がとても低く、十歳と言っても通じるくらい小さいので、横に座ると頭の位置はユディアナの肩より低い。
ユディアナはアユティヤの姿を見下ろし、何も怪我してないことを確かめ、やっと安心できた。思わず髪を撫でてしまう。
「何してんの?今日は仕事無いの?」
年上のお姉さんが優しく頭を撫でてくれてる格好だが、アユティヤの態度は横柄とまではいかないまでも、自分の方が立場が上だと考えている者のそれだった。そうしたことを気にせず、慈しみの表情を浮かべるユディアナ。
「仕事を終えて帰ってきたばかりなの。しばらくは何も命令されないと思うわ。」
「ふぅーん。」
ユディアナはアユティヤの手をそっと握った。
「後宮に帰ろ。もうおやつの時間になるし。」
しかしアユティヤは手を振りほどいて立ち上がった。
「おやつはとっといて。出かけるところがあるから。」
ユディアナはもう一度アユティヤの手を掴んだ。両手でしっかりと掴んで引っ張る。
「だめよ、一人でどこかに行くなんて危ない。」
「え?何で?何で危ないの?」
「だって………だって、危ない人がいるかもしれないし。」
「そんなこと心配してんの?よくそこまで心配ばかりしてられるなー。いつもいじめられてんのにいじめてる奴の心配するなんて変わった性格だな。」
アユティヤは手を放すよう、素振りで伝えるが、ユディアナは放さない。
「アユティヤはいじめっ子じゃないよ。」
「あたしは違うけど後宮の子のほとんどはユディアナいじめてるじゃん。それなのに後宮の皆を大事に思ってんでしょ?」
「確かにいじめられてるけど……みんないい子だもん。大事だよ。」
「ユディアナ、あたしより自分の心配した方がいいと思う。そんなお人好しで皇帝になってちゃんとやれるの?戦争になったらとても勝てないでしょ。」
「やっぱりアユティヤも意地悪だな。わたしはこんなに心配してるのに、嫌味ばっか言うもん。」
「別にわけもないのに心配なんかされたらイライラするのよ。見て、あたしは元気でしょ?さっさと部屋に帰んなよ。あたし用があるんだから。」
「何の用?わたし手伝うよ。」
アユティヤはユディアナの頭を子供扱いするようにぽんぽんと叩いた。
「手伝いなんか要らないわよ。花を見に行くだけだから。」
「森の奥の木の花。なかなか見つかんないらしいから夕方まで探してくるわ。」
「待って!都の外に出るつもり?!」
ユディアナは丸太から立ってアユティヤの前に回り込んだ。
「近くの山に行くだけだから。」
「危ないよ!」
「危ないとこなんて行かないよ。猛獣なんかいないし。」
「わたしも連れてって!じゃないと行かせない。」
「えー。まあ別にいいけどさ。」
「ちょっと待ってなさいよ。護身用に短剣取って来るから。」
「ま、皇女が森に行くんだから武器くらい持った方がいいわよね。でも衛兵連れてくのは勘弁してよね。」
「わかってる!」
ユディアナは駆け足で後宮に戻り、愛用の短剣を小さな鞄に入れ、肩にかけた。急いで引き返さないと待ちくたびれたアユティヤが一人で行ってしまうかもしれない。
数人の娘達がビスケットを食べてたので分けてもらって紙に包んで鞄の中へ。そしてまた全力疾走でアユティヤのもとに行く。
途中、通りすがりの親衛隊の将が驚いた顔で
「いかがなされました?」
と尋ねてきたが、ユディアナは
「何でもないわ!」
で済ませて駆け抜ける。
走りながら、さすがに誰にも告げずに都の外に出たら問題になると気づき、立ち止まって振り向くと、
「市中の巡回に行ってくる!」
とだけ伝える。将官は怪訝そうな顔をしつつ、
「お供いたします。」
とついてこようとする。
「いや、わたしは一隊を連れて西の市を見回る故、そなたには東の市を頼む。しかと務めよ。」
あわてて命じるユディアナ。
「ははっ。心得ましてございまする。」
返答もろくに聞かずまた走り出す。
もとの場所に戻ると、アユティヤは丸太に腰かけ、何か大きな紙を広げて見ていた。こちらの足音に気付いて顔を上げたが、少し不機嫌そうである。
「もう戻ってきたのかー。もう少し遅かったら放っていこうかと思ってたのに。」
「冷たいなあ!アユティヤがそんな性格だからわたしいつも焦らされてるんだよ!よかった、思いきり走ってきて。」
「何座ってんのよ。さっさと行くよ。息が苦しいなら無理についてこなくていいけど。」
「ついてくわよ!別に息切れもしてないし!」
アユティヤは手にした紙を畳んだ。それは地図のようだった。ユディアナがそれについて聞く前に、アユティヤは言った。
「都の周りの丘や山の地図よ。どこの森に行くか考えてたの。探してる木が生えてそうな場所はどこかって。」
「ふーん。それでどこに行くか決めたのにわたしが戻るの待ってて出かけられなかったって文句言いたいんでしょ?」
「え?そこまで考えてなかった。ユディアナってほんといじめられっ子らしい性格してるね。」
笑いながらアユティヤは立った。ユディアナはとっくに立ち上がっていた。
アユティヤはすぐそばの城壁の手前の、成人男性の背丈より高く茂った低木の枝を掻き分けた。すると、壁に大きな亀裂があるのが見えた。
「こっから外に出られるのよ。知ってた?」
「知るわけないでしょ!」
ユディアナは呆れ果ててしまった。アユティヤはこんなところから皇宮を出入りしていたのかということ、いくら長い年月、都が軍事的危機にさらされることが無かったとはいえ皇宮を守る城壁に人が通り抜けられる穴が開いていたこと、アユティヤはそんな大問題を知ってて報告もしなかったこと、それをあっさり皇女である自分に明かしたことと、何重にも呆れさせられたのだった。帝室の私的な奴隷の身分でありながら勝手に皇宮どころか都の外まで行ってしまうことについては今更なのでもう何とも思えない。
「誰にも教えないでよ。穴がふさがれちゃったら困るし。約束しなさいよ。」
しかるべきところに伝えなくてはと思っていたユディアナだったが。しかし言うことを聞かなくては絶対に連れていってもらえないので、渋々約束した。
まあ、近年の国内外の情勢からして、すぐさま皇宮を揺るがす変事につながるということは無い……………と、内心自分に言い訳する。
穴に入って行ったアユティヤを追ってユディアナも城壁をくぐり抜けた。そこには、ゆったりと流れる大河があった。
「そっか、皇宮の裏なのか。」
皇宮は、都を四角く囲む城壁の北の一辺に接しており、さらにその北側は大河に面している。ユディアナはてっきり壁の向こうは街だと思っていたが、大河の方に出たのだった。
「危ないから気をつけて下りなさいよ。ユディアナは特別な身分なんだから、落ちたりするのは許されないから。」
足下から声がしたので下を見ると、アユティヤは城壁のでっぱりを足掛かりにして河へと下りてゆく途中だった。
「アユティヤも気をつけてね!」
そう言いながらユディアナも下りていくが、それほどアユティヤのことを心配してはいない。彼女はこういうことは得意なのである。川面まで十メートル以上の高さがあるが、少しも怖れる様子もなくするすると下ってゆく。ユディアナも、高貴な身分ながら荒事には慣れている身なので、これくらいは平気である。
水面から露出している大きな岩の上に下り立つと、すぐ目の前の城壁に崩落部があった。そこに小舟がしまわれていた。縄で瓦礫に結わえられている。
アユティヤはジャンプして舟に乗った。舟が大きくぐらついたが、アユティヤは上手くバランスを取って引っくり返るのを防ぐ。
「乗って。」
「大丈夫なの?二人乗れるかな?」
ユディアナが不安になったのは、舟があまりにも小さすぎたせいだからだ。二人乗りには見えないのだ。
「わたしとユディアナなら大丈夫じゃない?軽いから。男だったら絶対無理だけど。」
あまり当てにならなそうな言い方をするアユティヤだったが、ユディアナは信じることにした。駄目でも全身がびしょ濡れになるだけのことである。
軽やかに跳んで華麗に舟に乗る。ユディアナはほとんど小舟を揺らしもしなかった。
舟のへりはかなり水面に近づいたが、浸水はしていない。
「大丈夫だ。」
ユディアナはそう告げたが、アユティヤの方はすでに縄を解きにかかっていた。
ほどなく、小舟は広大な大河へと漕ぎ出した。見渡す限りの大河に小舟一艘で出ていくのはいかにも心細かったが、流れはとても遅く湖のようなものであり、漕ぐのには苦労しない。最初、アユティヤがオールを持っていたが、途中でユディアナに交代し、かわりばんこに漕ぎ続けた。
周囲に誰もいない河の上で、小さな舟にアユティヤと身を寄せあって乗っていることがユディアナにはなんだか嬉しかったが、そんな時間はいつまでも続かず、対岸に着いてしまう。
そこはもう森である。
「こんな所に入ってって迷子にならないの?」
「道は知ってるから平気。何よ怖いの?」
「別に…………でも危険な動物が居るかもしれないし警戒しないと……」
「そんなの見たことないわ。蜂とか蛭ぐらいなら居るけどさ。」
アユティヤは水の中から生えている低木に舟をもやいつけ、岸に上がった。ユディアナも上陸する。
岸からすぐに藪の繁る林縁で、道がありそうに見えない。だがアユティヤは林内に踏み込んでゆく。一応、彼女の通った所は下草が低かったり、藪が途切れていたりして、道のようにも見える。人の通り道というより獣道のようであるが。
先にどんどん歩いて行ってしまうアユティヤを追いかけるユディアナ。林の中は思ったより明るい。木々は大木というほどでなく、樹冠の枝葉に隙間が多くて、至る所木洩れ日が射している。下生えも密生している所ばかりではなく、障害物になる灌木などが疎らにしか生えていない箇所が多い。
「案外歩きやすい森だね。」
ユディアナが素朴な感想を先行するアユティヤの背に投げかける。アユティヤは立ち止まって振り向いた。
「ユディアナ、この森来たことないの?」
「えっ?あ、そうよ。」
ユディアナはアユティヤが立ち止まってくれるとは思わなかったので、びっくりして返答が少し遅れた。
「都のすぐ裏なのに。」
「来る理由が今まで無かったから。山賊でも出たんなら来たでしょうけどさ。」
「そっか、仕事じゃなければ都出ないもんね、ユディアナは。狩りもしないし。」
高貴な家柄の者は一般に狩猟を好むが、ユディアナにはその趣味はなかった。
「前から思ってたけど何で狩りしないの?戦いの訓練になるっていうし、すればいいじゃない。」
「訓練にはすごくいいと思うけどさ、何も悪いことしてない兎とか鹿を射つのは嫌だから、やりたくないんだ。」
「ふぅん、わたしがいい身分に生まれてたら毎日やってたと思うけどな。ま、ユディアナの考え方なんてそんなもんよね。」
アユティヤが再び歩きだす。辺りには低い下草しか無かったので、ユディアナはすぐ隣を歩いた。
「この辺の土地は土が乾いてるから、植物の育ちが良くないのよね。でも向こうの山の谷あいは結構いいのよ。」
アユティヤが顔を軽く向けた先、木の間越しに低い山が見えた。さほど遠くないようであった。
「あそこに探してる花があるの?」
「わかんないよ、わたし見たことないから。ただ本で読んだことから考えて、ありそうな場所ってだけ。行っても見つからないかもね。」
「大変そうねー。どんな花なの?」
「地色は橙色で、色んな色の模様がある。花によって白い模様だったり、紫の模様だったりする。」
「わたしでも見ればわかりそうね!」
「誰でもわかるわよ、大人が腰かけられるくらい大きいんだから。」
「ええ?花が、そんなに大きいの?」
「そうよ。」
「すごい、そんな花があるなんて知らなかった……!」
「一目でわかるでしょ?ユディアナのおっきなお尻より大きい花見つけたら教えてね。」
「まっ、また意地悪言う………」
ユディアナは恥ずかしくなって顔を背ける。後宮の他の娘と違ってアユティヤに嫌らしい感情など無いとわかっているのに、変なことを考えてしまう。
会話が途切れると、小鳥の囀りが意識される。宮殿や街とは異なり、どこからも人の声は聞こえない。ユディアナは時として荒野や深山の神殿に出向くこともあるが、そういう時は必ず衛兵や従者が多数いる。
しかし今はたった二人でいる。こんな静かさはこれまで生きてきた中でも滅多に無い気がした。それほど森の奥まで来たわけでもないのに、木々が無限にどこまでも続いているんじゃないかと思える。
アユティヤは時折り、変わった木の実やら、木の洞に手を突っ込んで捕まえたユディアナが見たこともないような虫などを、小瓶に入れていた。アユティヤの部屋の収集品に加えられるのだろうとユディアナは思った。
「変な物のコレクションて、そういうふうに集めてたんだ。」
「変な物って言い方、気にくわないわね。でもいいわ、何かいいもの見つけたら教えて。」
「あっ!あの草の実、真っ赤で綺麗!見たことない形してるし!持って帰ろうよ!」
「あんなの都の道端にも生えてるわよ。ユディアナの目は役に立たないわね。」
「やっぱりアユティヤ意地悪……」
いつの間にか地面がなだらかな斜面へと変わり、森は薄暗くなっている。
「さっきまでと生えてる木の種類が違うでしょ?」
とアユティヤは言うがユディアナにはよくわからない。
「ここからは歩きづらくなるわよ。」
低木や蔓草が多くなり、進みづらい。棘の生えた枝に脚をひっかかれたりもする。周囲の景観もユディアナの気分も陰気になった。
しかしアユティヤはこれまで通りすたすたと歩いている。
「アユティヤはこういう場所、嫌じゃないんだね。」
「ユディアナは嫌なの?もっと深い山奥なんかにだって行くこともあるでしょ?これくらいなんでもないでしょ。危険でもないし。」
「わたしはちゃんとした街道のあるとこじゃないとすぐ疲れちゃう。アユティヤはよく平気よね。」
「わたしだって疲れるよ。でもこんなの息きらすほどじゃないよ。このくらいでへたれてたら雲の上の岩山とか遠い南方の大密林なんかに行ったら歩くことも出来ないでしょ。」
アユティヤらしい、と思って、ユディアナはこっそり笑った。気持ちが明るくなる。
地形が険しくなっていく。大した山ではないはずだが、結構深い谷に出た。露出した岩肌が陽に照らされていて、猛禽が悠然と滑空している。
二人はしばらく沢を石伝いにゆき、また森に入った。急斜面を少し上がり、そして谷底を右に見ながら横へと進んでゆく。
相変わらず森の中は暗い。気付けば小鳥の囀りも無くなっている。耳をよく澄ませばどこかで囀りもするのだが、とても遠くに聞こえる。まるで生き物が居ないかのようにユディアナには思えたが、アユティヤはキノコに付く虫やら朽ちた枝の陰に隠れていた小動物やら次々に見つけていた。
アユティヤに注意されて立ち止まると、すぐ前を長い蛇が這って行った。とても長くて、ユディアナの身長の倍くらいあるのではと思われる大きな蛇だった。特にこちらに害は為さず、林床の草むらに消えた。
微かに轟音が聞こえる。
「もう少し行くとちょっと大きな滝があるの。」
「へえ、楽しみ。」
「滝の周りから探すつもりだから。」
轟音が段々大きくなってくる。やがて、木々を透かして白い瀑布が見えた。確かに大きな滝で、高い岩壁を激しく音を立てて落下している。
「すごーい………都の近くにこんなに大きな滝があったんだ。陛下は知ってるのかな?街の民は知ってるのかしら?」
「樵くらいしか知らないかもね。」
アユティヤは滝の上まで林内を行ってから、沢にユディアナを導いて下りた。
滝は狭くなった谷に挟まれているが、その上では谷間が急に広くなっていて、沢の両側に陽当たり良く小広い川原がある。
「とりあえずこの辺でじっくり探してみる。ユディアナも探してみて。」
「アユティヤはこの場所来たことあるんでしょ?でも探してる花は見たことないのよね?ここで見つかるの?」
「山の中の何もかもを知ってるわけじゃないし。あっちの急斜面の方の林は入ったこともないしね。」
アユティヤが指差した方を見ると、沢に面してほとんど崖のような傾斜地であった。なるほど、あんな所には行かないだろう。
他にも非常に藪が密生していたりして、足を踏み込みづらそうな所があちこちにある。全体をくまなく探索したらいくらでも未知の何かが発見出来そうに思われた。
二人は手分けして捜索を開始する。アユティヤは浅瀬を渡って対岸に移動。ユディアナはこちら岸をきょろきょろ見渡し、すぐそばのうっそうとして真っ暗な茂みに目をつけ、入り込んでみた。
木の幹や蔓草の葉、地面、何もかもがじっとりと湿っていて妙なにおいがする。不吉な感じが充満していて、居心地はすこぶる悪い。
どこにも花など見当たらないこともあって、ユディアナはすぐに明るい陽光の下に戻った。ほんの少しの探索で、着衣に湿った土がかなりこびりついていた。もうあの場所には行かないと心に決める。
次はどこを探そうか。ユディアナは少し上流の樹林に注目した。岩肌が露出した所と木々がある所が入り混じっている。あそこなら林の中まで日光が射し込んでいそうだし湿り気が少なそうである。
早速行ってみるユディアナ。傾斜がきつくとても歩きづらい場所だったが、木につかまって登る。
予想通り林の中は明るいし、乾いている。しかしとにかく歩くのが難しく、足元の石ころがすぐに流れ落ちて転ばされそうになるし、同時に砂が舞い上がる。ほどなくユディアナの服は砂まみれになった。前髪をさわるとしゃりしゃりする。顔も砂だらけだろう。
ひどい場所だが、ここには草花が結構多かった。小さな花ばかりだが、そこかしこの木の下にまとまって咲いており、見ていると次々に蝶が蜜を吸いに来る。時には大きな蝶がゆったりとした飛び方で通りすぎてゆく。それを見ていると、すぐ近くに見たこともない巨大な花が隠れて咲いていてもおかしくないように思え、探索を続けた。
しかし転んで斜面を短い距離だが滑落し、お尻を木に思いきりぶつけた時点でやる気を失った。冷静になってみれば、ここには花がたくさんありはするが、種類は限られていておそらく四、五種類くらいしか見ていない。ここの探索はもうやめていいだろうとユディアナは判断した。
苦労して岸辺に下りて、手頃な石に腰かけてボーッと休憩する。早くアユティヤが戻って来ないかな、と考えていたら、対岸の藪がガサガサ鳴って、アユティヤの姿が現れた。
彼女は靴を脱いで沢をこちらに渡って来ながら、大声で聞いてきた。
「そっちはどう?見つかったー?」
「だめー。見つからないよー。」
ユディアナも大声で返す。アユティヤはそれに対し無言で水の中を歩いてくる。辺りには沢の流れる音だけが響いていた。
すぐ近くまで来てユディアナを見たアユティヤは笑った。
「汚れすぎよ。顔洗ったら?」
ユディアナは少し傷ついた。
「仕方ないでしょ。」
そっぽを向く。アユティヤに今の顔を見られたくなかった。
そんなユディアナの顔をアユティヤはじっとのぞきこんで言った。
「でもユディアナは、汚れてても綺麗ね。」
ユディアナの体がビクッとはねあがる。顔が熱くなり、赤面しているのが自分でもよくわかった。
「ねえユディアナ、泳ごうよ。」
「ええ?!ここで!?!」
「誰も見てないよ。」
アユティヤは着衣を脱ぎ出した。ユディアナは驚いてうつむき目をぎゅっと閉じる。
他の奴隷の娘と違ってアユティヤは人前で肌を露出させることに強い抵抗感を持っていて、入浴なども決して他人と一緒にはしない。ユディアナはこれまでアユティヤの裸など見たことが無い。
「ちょっと待って!」
思わず大きな声を上げるユディアナ。アユティヤは脱衣を途中でやめて、ユディアナの目をのぞきこんだ。
「どうしたの?」
「え?え、だって……変な冗談言わないで。」
「冗談なんて言ってないわ。」
再びユディアナの全身に衝撃が走る。アユティヤは本気で水浴する気らしい。
もうユディアナは顔を上げられない。
「何で下向いてるの?」
「だだだ、だってさ、し、失礼でしょ、人の肌をじろじろ見ちゃ……」
「遠慮すること無いのに。」
今のアユティヤは裸を見せることに全く頓着が無いようだった。こんなことは彼女がユディアナの後宮に来て以来初めてかもしれない。
「う、あ、なら、そうね、わたし、ええ、水浴び、しようかしら。」
そう言いつつも目をつむったままのユディアナ。全身が恥ずかしさに熱くなる。
「そうなの……?じゃあ、服を脱いで。」
ユディアナは激しく俊巡していて、身動き出来ない。後宮の娘たちは何かにつけユディアナの裸身を見ようとするが、アユティヤはそんな行動しないから、裸を見られたことも無い。恥ずかしさが倍加である。しかしアユティヤに肌を見せることはなんだか嬉しく思えて、不思議な多幸感に襲われた。
二人、一糸纏わぬ姿で戯れるなんて、幸せすぎて現実感が無い。考えるだけでうっとりしすぎて自我が溶けてなくなりそうだ。しかしそんなことしていいのだろうか。
何故アユティヤは急に恥ずかしい提案をしたのだろう。いくら人目の無い山奥といえど、自分と同じぐらい恥ずかしがり屋のアユティヤらしくない。まさか、これは大人のお誘いなのでは?
今、服を脱いだなら、アユティヤと結ばれることができるのかもしれない。
そんな考えが頭の中を満たすと、ユディアナはますます顔を上げることも閉じた瞼を開くことも出来なくなった。
勇気を出さなきゃ、と内心で自らを叱咤する。ユディアナは後宮の美少女達の全員が好きだけれど、本当に結ばれたい相手はアユティヤだけだ。
今、この時が、一生で一番大切な時だとユディアナは思った。さあ、顔を上げて、衣服を脱ぎ捨て、愛しい人を抱き締める。
考えるだけで実行出来ずにいるその時、アユティヤの手がユディアナの太ももに置かれた。ユディアナは跳ねとんで逃げ出しそうになるのをこらえる。体中から緊張のあせが吹き出た。
「ユディアナ、見てほしいものがあるわ。目を開けて。早く。」
有無を言わさぬ調子のアユティヤの声に、ユディアナは反射的に目を見開いた。アユティヤの手が見える。その手は握り拳になっていたが、人差し指だけ伸ばされ、何かを指差す形になっていた。
「……?」
見てほしいものを示す指の先には、ユディアナの股間の布が思いきり鋭角にせり上がっていた。
「ユディアナ。最低ね、あなた。」
真冬の深夜の空気より冷えた声だった。
ユディアナは血が凍る思いをした。完全に考え違いをしていた。大人のお誘いなどと淫らな真似をアユティヤがするわけがない。勘違いからとてつもなく失礼で罪深い妄想にとらわれていた。しかも邪念に耽っていたことをアユティヤに見抜かれた。
もうどうしたらいいのか皆目見当もつかず、ユディアナの頭の中は真っ白。ただうつむいて怒張した恥部を眺めながら総身に冷や汗を流させるだけしか出来ずにいた。
「そのまま下向いてなさいよ。」
冷淡でそっけないアユティヤの声のすぐ後に、ザバザバと水音がした。アユティヤは水泳をはじめたようだ。ユディアナはこの数十秒間で何度目かの大きな驚きを味わう。今、自分が顔を上げたら邪な目で肌を見られてしまうというのに、恥じらいの強いアユティヤが何故それを恐れず裸でいられるんだろう。
アユティヤがすぐそばに戻ってきた音が聞こえ、また冷めた声がかけられた。
「泳がなくても体洗うくらいしたら?顔、上げていいわよ。見られても気にしないから。」
ユディアナは言葉を返せなかった。アユティヤの発言の意味がよくわからない。どんなつもりでこんなことを言うのか、全くの謎だった。
アユティヤは重ねて言った。
「別に変な所がふくらんでたってさ、それくらいのことでユディアナをバかにはしないわ。さっきはキツイこと言っちゃったけど、ユディアナの体はわたしと違うんだしね、細かいことに目くじら立てちゃダメよね。もう言わないから一緒に水浴びしよ?」
何と、アユティヤは全面的な赦しを与えてくれるらしかった。ユディアナの不健全な感情に寛大な理解を示し、いやらしい目で裸を観賞する正式な許可まで与えてくれた。
至れり尽くせりの待遇なのだが、しかしあまりにも都合の良すぎる展開は、ユディアナのような内罰的な性格の持ち主にとっては受け入れ難いものだった。
「ううん、わたしはアユティヤが泳ぎ終わって服を着るまで下を向いてる。アユティヤはもっとキツイこと言っていい。わたしが悪いんだもん。わたしは本当に悪いこと考えてた。責められて当然よ。」
「ふーん。じゃ、いいわ。」
水音が再び離れていった。
それからユディアナはずっと下を見ていた。何となくとりとめのないことを色々と考えながら、人形のように動かず、アユティヤが水泳に興じているのであろう水音を聞いていた。
わたしは何て情けない人間なのかしら、と思い悩んでもみるが、アユティヤは許してくれているのだからあまり深刻な気分でもない。しかし反省せずにいるのはユディアナの道徳観が許さず、もう二度と同じ過ちはしない、と心に誓うのだった。
ジャブジャブと音が近くまで来る。
「まだ下向いてんの?」
アユティヤの声は呆れているというよりうんざりしているようである。ユディアナがなんと答えようかと考えていると、衣擦れの音がする。体を拭いているとおぼしき音がして、さらに服を着込む気配。随分と手早く衣を身につけている様子だった。
「ねえ見て。もう服着たから。早く顔上げて。」
アユティヤは少し気が昂っていそうな口調。何かあったのだろうか。やっと服を着てくれたことだし、もう目を向けてもいいだろうとユディアナが顔を上げると、艶々と髪を濡らしたアユティヤがいた。確かに服を着ている。足は裸足のままだったが。
強い色香を感じたユディアナは恥じらいで直視出来ない。しかしさっき反省を表明したばかりでまたしても淫らなことを考えたなど知られるわけにいかず、どうにか誤魔化そうとして何か言わなくてはと話題を探して、それではじめてアユティヤが手におかしな黄色い物を持っているのに気づいた。
それは一見布のようにも見えた。最初ユディアナはアユティヤが体を拭いた布かと思った。だがすぐに違うと気づく。それは柔らかそうに見えるが布のように皺にならない。それにかなり厚手である。
「これなんだかわかる?」
アユティヤの問い掛けにユディアナは何も答えが見つからなかった。
「なあに?」
アユティヤはそれまで抑えていたのであろう興奮をかくさずに言った。
「花びらよ!」
「えっ!?あ、そうか、ほんとね、花びらの形……!」
ユディアナにもはっきりわかった。その黄色い物はあまりにも巨大だが、間違い無く一片の花びらだった。
「すごい……こんな大きな花びらなんて……」
ユディアナも感嘆して、黄色の花びらに見入った。ユディアナやアユティヤの顔全体を隠せるほどの花びら。
「あっちの石に引っ掛かってたの。」
アユティヤの指差す先には、沢に流れ込む細い支流があり、合流点付近に大きな石が幾つか水面から出て連なっていた。
「あの上流から流れてきたのね。ということはあっちにこの花がある。ユディアナ、見に行きたい?興味ないかしら。だったらわたし一人でいくわ。」
「ううん、わたしも行く!」
ユディアナは跳ぶように立ち上がった。いつのまにか彼女ははしゃいでいた。
細い支流は両側が壁状の急斜面で二人で並んで歩くのも困難な箇所が多い程の狭い谷になっていて、水は浅いから障害にはならなかったが、石がゴロゴロしている上に勾配もあり、歩きづらい。頭上に枝葉が覆い被さり、暗い。
しかしそんな場所でもユディアナの気分を落ち込ませることは出来ない。アユティヤとともに両側斜面を注意深く見ながら進んでゆく。もうかなり本気で探検にのめりこんでいる。
「でも、よくこんな流れをこんな大きなものが下ったわよね。」
ユディアナはアユティヤが手に持ったままの花びらと、足首が漬かる程度の浅く小さな沢を見比べて言った。
「確かに不思議よね。雨で水が増えた時に流れて来たんだと思うのだけど、それなら他にも花びらが落ちてるはずよね。」
この細い沢をたどってきたのは間違いだったのだろうか。ユディアナは心配になってきたが、アユティヤには迷いを感じている様子が無い。それを見てユディアナの不安も晴れた。
「あ!」
アユティヤがパシャパシャと浅い水を蹴って走る。彼女が立ち止まったところには少し深い水を湛えた小さな淵があるのがユディアナにも見えた。アユティヤは淵をのぞきこみ、振り向きもせず大声を上げた。
「ユディアナ!来て!」
その声に何かを期待させられ、ユディアナも小走りで淵のほとりへ行った。
「わああ……!!」
淵の水面には大きな花びらが、白、紺、ピンクの三色三枚、浮いていた。部分的に萎れて茶色くなりかけているところもあったが、それはとても綺麗だった。
「やっぱりこっちでいいんだ!」
子供のように大喜びのユディアナ。
「うん、どこか近くに…………ねえ、あれ……」
斜面の上を窺っていたアユティヤが真上を指し示した。ユディアナがそちらを向くと、密生した木々の合間にカラフルな何かが見える。それが赤い途方もなく大きな花の一部分や、同じく大きな青い花、黄色の花だと気づくのには数秒を要した。
アユティヤは前後左右を見回し、急斜面の比較的登りやすい所をすぐさま見つけ出して、垂直よりは多少傾いている程度の立地の樹林にもぐり這い上がる。ユディアナも迷わず後を追った。
しばしの後、二人の眼前に色とりどりの巨大花を幾つもつけた蔓性の樹木が姿を現した。
花の大きさはユディアナの上半身ほどもあった。二人は斜面林の中、枝や幹で体を支えながら非現実的な光景に見入っていた。たった一株だけの奇跡の木。
ため息ばかりで言葉も出ないユディアナ。
「この一本しか無いね。」
アユティヤが言った。
「どうしてここに生えてるのかしらね。」
彼女は周りを見ていた。同じ木が他に無いか探しているようだった。
「あ、ユディアナ、上の方、開けてるみたい。あそこまで行って休憩しましょう。」
上の方は木々の間が明るく、確かに開けていそうである。
二人はさらに斜面を登った。そして林に囲まれた岩場に出た。岩が水平に突き出していて、休憩に丁度よい。
そこに出ると、急に眺望が開けた。周囲の山が見渡せるだけではなく、山あいに麓の平野まで見えた。
「わあ………お城まで見える……」
「ユディアナ、危ないから座って。」
アユティヤの横に腰かけて、ユディアナは笑いかけた。
「今日はすごい一日ね。」
「そう?ユディアナ、楽しい?」
「ええ!こんな日、二度と無いかも!アユティヤはこんな大発見を今まで何度もしたの?」
「うん、まあ、わりといつものことかしら。でも。」
アユティヤはニコッとしてユディアナの頭をさわる。
「こんな泥だらけのユディアナと遊ぶ日なんて滅多に無いわね。」
「ああ、そうよ、わたし体中こんなにドロドロ!またお風呂入らなきゃ!」
ユディアナは皇城を眺めて思った。あそこに帰ることが信じられないな、と。
皇城を遠くから見たことは何度もあるが、上から見下ろすのは初めてである。そのせいだろうか、自分の住まいだという実感が持てない。美しい皇城の外観が、ユディアナは大好きなのだが、今は自分には関係無いもののように見えた。驚くべき花を見つけ出した興奮が心を占めているからだろうか。
「アユティヤ、またこういう所につれて来てくれる?」
「めんどくさーい。時々ね。時々ならいいわよ。」
「ありがとう。嬉しい。」
言葉が途切れ、しばし黙って皇城を見つめるユディアナ。脳裏に日頃の様々なつらいこと、苦しいことが去来していた。
いつまで経っても母帝に認めてもらえない不甲斐ない自分。臣下からの敬礼に潜む本心を想像しては心を苛む不安。いつ起こるかわからない、何もかもを破壊する外国よりの侵略への恐怖。そんなことに怯えて寝床で涙してしまう弱さへの自己嫌悪。
一切が、今だけは重荷になっていない。遠い世界の他人事に思える。ここには人の声が無い。貴族も民も無く、ただアユティヤと自分が居るだけ。世界から切り離されている。およそ「世の中」とは別個の場所。
全てが、遠い。あの荒野に響いた盗賊の呪いの叫びが、何故か頭の中に蘇った。自分の大切なものをことごとく奪おうという、恐ろしい言葉だった。それさえも今は心を揺らさない。ただ盗賊の悪魔のような声のうちにひそんだ深い哀しみに気付き、同情を覚えた。しかしそれも通り抜ける風と同じくらい何でもないことだった。空虚に近い、でも虚無感は感じない。
アユティヤがそばにいて、アユティヤだけしか知らない世界に連れてきてもらえた。心は静かに満たされている。その気持ちで日々暮らす場所を外から眺めていると、これまで生きてきた中での色々な事が思われ、それらがどうしても物語の中の出来事に錯覚してしまう。その時、その時の気持ちが今と違いすぎるために。だからどんな思い出も大したことの無いようにおもえるけれど、それが自分にとって無価値なものとまでは思わない。記憶から消し去ることは無いだけの価値は確かにあった。
幼い日から、今日という日まで、つまらない子供である自分の人生にも、楽しいことも悲しいことも恥ずかしいことも、恐怖も、たくさんあった。思い出したくなかったこと、しっかりと向き合って考えたくなかった悩みも幾つもあった。
そうした一つ一つをゆっくり思い浮かべる。今は何を心に浮かべても痛みも絶望も怯えも無いから。
出会ってきた全ての物事が等価値の思い出。ならば全ての人達が等価値なのだろうか。
それはやっぱり違う。多くの想いを抱かせる人達、特別な存在がある。こうして幸せも不幸も心静かに眺めていると、自分にとって必要不可欠な人というものが誰なのかが、客観的にわかる。
それは後宮の少女たちだった。彼女たちがいなかったら、ひ弱な自分はここまで生きてくることも出来なかった。
しかしいつも明るい笑顔の彼女たちが、儚く弱々しい存在であることも意識された。あの大きな皇城の片隅に咲く、きらびやかに美しい花々。いつ散ってもおかしくない、そして散らせようと企む人々も確かにいるのだ。
それを思っても、今は不安を覚えない。ユディアナは彼女たちを愛しく思っている。しかし今のユディアナは、彼女たちを害そうとしている憎悪と悪意に満ちた人々をもいとおしく思える。悲しい未来の予感さえも愛しい。
自分は血の冷たい女なのだろうか。この日だまりの暖かさにこんなにも安らぐ心を持っているのに。
ぼんやりと考えていたユディアナの目の前を、小さく可愛らしい手のひらがよぎった。キョトンとしていると、アユティヤが顔を近づけてじっと見つめてきた。
「何考えてるの?」
「えと……後宮の皆のこと。」
「寂しくなっちゃった?」
「ううん、違う。いつもはね、皆のこと考えると心配になるの、怪我したり病気したりしてないかとか、あと……他にも色々と。でも今はそういうこと思わないの。わたしって、優しさが欠けてる性格なのかもしれない。」
素直に打ち明けたユディアナに、アユティヤは軽く微笑んだ。思わず吹き出しそうになっているようにも見える。
「そうじゃないわよ。ユディアナはすぐ目先のことにとらわれて頭が働かなくなる性格でしょ。今はわたしだけそばにいるから、皆のことに気持ちが向かないの。」
言いながらアユティヤはユディアナの肩に自分の肩をやさしく当てた。
「ほら、取り乱してる。」
熱く火照る顔をかくすことも出来ず、ユディアナはアユティヤの言うことが正しいかどうか考えた。実際に頭が上手く働かなくてよくわからないが、本当にそうなのかな、と疑問は残った。
しかし半分は確かに正しいと思えた。すぐそばのアユティヤのことは遠い彼方の存在とは感じられない。心静かに見つめられない。アユティヤと自分との関係を客観視出来ない。
アユティヤも城に目をやった。
「皆、あんなお城に住んでるのねえ。貴族でもないのに。ま、見た目だけなら下手な貴族の娘よりよっぽど綺麗な子ばっかだけどさ。雑草の花みたいなものね。庭園できちんと育てられた花じゃないから、お城の人達は刈り取りたくて仕方ない。けれど、雑草だけど特別綺麗な花がいっぱい咲いてるわね。」
アユティヤも後宮の娘たちを花に例えたことにユディアナはびっくりした。だが今日は花を探しに来たのだから、思いつきやすい例えだったとすぐに気づいた。
「わたしは、そのお花畑を守らなくちゃいけないね。」
ユディアナがしみじみとつぶやくと、アユティヤは吹き出した。
「それはそうかもしれないけれど!わたしにとってはね、ユディアナだって花よ。最高に高級な品種なのに、原っぱに咲いちゃった花!今にもくったり地面に倒れそうになってるけど、周りの草花と茎を支え合って一緒に咲いてるの。ユディアナが一番綺麗な花ね。今は泥だらけだけど、でも一番綺麗。」
ユディアナは何も言えなかった。アユティヤは自分のことを仲間だと思ってくれていたのだ。そのことに、感極まっていた。
アユティヤは空を見上げた。
「雲行きが怪しくなってきたわね。」
いつの間にか黒い雲が現れていた。
「帰ろ。」
巨大花を一輪だけ摘み、二人は帰路についた。疲れた足で下山するのはしんどいことだったが、アユティヤの持つ赤い大きな花を見ると、疲れも心地よく感じられた。
小舟に戻った時には天気は回復していて、西の空が紅く染まってきていた。河の向こうの、馴染み深い皇都の城壁。ユディアナは非日常が終わった残念な気持ちを味わった。
現実に戻るんだと実感する。山の光景が遠く、不確かな記憶になってしまう。舟に置かれた花が寂し気に見えた。花の巨大さは、驚くべきものだが、深い山中で人知れずこんな花を幾つも咲かせていた木の姿のような崇高さは感じられない。
アユティヤと二人だけで未知に出会った探索は、もう手の届かない過去になってしまうのだ。そして、楽しく幸せな後宮に帰る。
不思議な気持ちだった。
アユティヤが小舟を漕ぎ出しながら、言った。
「また二人でどこかに行こうか。」
ユディアナはこみ上げる感情に喉がつまりそうになった。
「うん!行く!連れていって!」
半ば叫ぶように言葉を吐き出し、そのあとは口にせず心の内だけで言う。いつか、アユティヤがもっと遠く、世界の果てのどこかを目指して旅する日が来たとしたら、その時もついていきたい。
「ま、いつかね。」
軽く言って笑うアユティヤ。ユディアナは、空と、森と、城を眺め回した。その時彼女の中に新しい想いが芽生えた。それまでは自分の未来は皇城で平和に過ごすか、悲惨な戦場にゆくかのどちらかしか無いと思っていたが、別の可能性もあるのではないだろうか。
ユディアナは世界と同じように無限の未来に浸った。

天上に遊ぶ雑草の花々の物語

天上に遊ぶ雑草の花々の物語

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-01-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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