魔力

『 魔力 』

 過剰な才能は人を滅ぼす。
 望む、望まず、に関係無く、才能は人に付き纏い、蝕む。
 才能に恵まれない者たちは幸いである。
 天国は君たちのものだ。
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『鹿の眼』
 この物語は、『鹿の眼』を持つテノチカ族の戦士に対する、パハロ・アスール(青い鳥、という意味。チュインという名前を持つ首長のことを指す)の激怒の物語です。
 首長チュインには美しい妻がおりました。
 アドネイ(花、という意味)という名の美しい女でした。
 彼女はオトミ族の勇猛果敢な高名の戦士、アニェー(雨、という意味)の一人娘でした。
 チュインが率いる部族は、現在はゴルダ山脈と呼ばれている地域に住んでおりました。
 その地域の自然は住んでいる人々には温和で、とても暮らしやすく、アドネイは満足しておりました。

 或る日の午後のことです。
 アドネイは森で果実を摘んでおりました。
 そこに、サホーという年老いた魔法使いが通りかかりました。
 サホーは彼女を見て、彼女の死と、その死による部族の悲嘆を予言しました。
 アドネイを激しく愛する強い戦士との出会いが彼女の死のもととなる、という予言もしました。
 この予言を聞いたアドネイは驚いて、走って帰り、夫にこの予言のことを話しました。
 チュインは悪い予感を感じ、このような予言をしたサホーを部落から追放することを命じました。
 サホーは部落から追放されました。

 それから、時が経ちました。
 取り立てて、何も起こりませんでした。
 いつしか、その地域の住民はこのサホーの予言を忘れていきました。

 しかし、或る日のこと、山の向こうからテノチカ族の強い戦士がやって来ました。
 メシーカの皇帝であるモクテスマ・イルイカミナ(天の射手、という意味)の代理として来たのです。
 チュインはその戦士にふさわしい敬意を以って、応対しました。
 歓迎の儀式が始まるや否や、それまで晴れていた空は不思議なことに、俄かに曇り始め、稲妻を伴った強い嵐がその地域を襲いました。
 その戦士はチュインの前に進み出て、コヨルトトトル(パン作りのスズメ、という意味)と名乗りました。
 彼は、自分の目的は皇帝の宮殿があるテノチティトランに帰還することであるが、長旅を前にして、自分と部下の戦士たちは皆休息を必要としており、貴下の歓待をお願いしたい、と申し出を述べました。
 チュインはコヨルトトトルの申し出に、嫌な予感がしましたが、拒否することはありませんでした。
 というのも、コヨルトトトルは、その強い存在感に加えて、とても謎めいた、射抜くような眼差しを備えた男で、その眼の力で強い男さえも衰弱させることができたからでありました。

 ゴルダ山脈には穏やかな流れの清冽な川もありました。

 或る日の朝のことです。
 アドネイはその川で水浴しようと思い、館を出ました。
 その帰り道で、戦士コヨルトトトルに出会いました。
 アドネイはコヨルトトトルの眼と視線が会いました。
 その途端、アドネイの身体はそのテノチカの戦士の前で麻痺し、まるで抜け殻のようになってしまったのです。
 アドネイはコヨルトトトルの腕の中に崩れるように、その身を投げ出し、熱い接吻を彼に与えました。
 熱情に駆られた時間が過ぎ、夜になりましたが、美しいアドネイが夫の待つ館に帰還することはありませんでした。

 アドネイの不在を知ったチュインは、何か恐ろしいことが起こった、と予感しました。
 以前、老いた魔法使いのサホーが予言したことがついに実現してしまったのか、と思いました。
 妻の相手は、あの強い視線を持つ男、テノチカの戦士・コヨルトトトルに違いないと思いました。
 激怒にも似た強い嫉妬が彼の心を支配しました。
 彼は、部族の最も勇敢な男たちを派遣し、妻の行方を捜索すると共に、コヨルトトトルを捕えるよう、命じました。
 チュインもその捜索に加わりました。
 独り、館に残り、知らせをひたすら待つということに彼は耐えられなかったのです。
 しかし、アドネイの行方は杳として知れず、既に死んでいるのかも知れない、と彼と彼の戦士たちは思うようになりました。
 長い捜索の旅でチュインと彼の戦士たちはすっかり疲弊して、ひとまず、部落に帰ろうということになりました。
 チュインたちが疲労と悲嘆に打ちひしがれて歩いていると、突然、甘い囁きにも似た声がどこからか聞こえて来ました。
 チュインたちは、その声がする方向に行ってみました。

 チュインたちは見ました。
 そこで、彼らが見た光景は悲しみと怒りに満ちた光景でした。
 チュインを殆ど殺しかねないような絶望に満ちた光景が展開されていたのです。
 コヨルトトトルの逞しい腕の中で、愛に陶酔して横たわっているアドネイが居たのです。
 チュインは怒りに狂いました。
 やにわに、黒曜石でつくられた鋭い短剣を取り出すと、テノチカの戦士の心臓に突き刺しました。
 そして、妻を誑しこんだ、憎い、呪われた眼を引き抜きました。
 その間、アドネイは陶然としたまま、無反応にこれら全ての光景を見ていました。
 自分を誘惑した戦士が死んだのを見た時、彼女は長い眠りから覚めました。
 起こった全てを知り、絶望したアドネイは、滝の頂上に駆け上り、その断崖絶壁から身を投じました。

 こうして、サホーの恐ろしい予言は成就してしまったのです。

 今でも、魔法使いたちの間で、クアウシトルと呼ばれる果実があります。
 その果実の種は、『鹿の眼』と呼ばれています。
 その種は、良くない願望とか、眼の悪さを追い払うための魔法に使われる、と信じられています。
 この果実は首長・チュインが住んだ地域の木に生育します。
 現在、その地域の部落の住民は、アドネイという美しい妻の死後、コヨルトトトルという誘惑者の眼を埋めたところに、一本の奇妙な木が生え、その木の果実の種は今でも神秘的な眼の形をして、蜂蜜色に輝いている、と語り継いでおります。

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 山崎純一は、この短い物語を読み終わり、フウーッと溜息を吐いた。
 この物語に出てくる、コヨルトトトルは自分ではないか、と思った。
 この物語は大学の図書館の入口に置いてあった小冊子の中に載せられていた。
 メキシコ文化研究会と名乗るサークルが発行するその小冊子をパラパラと捲りながら読んでいる時に、この物語と出会ったのである。
 出典は、『先史時代のメキシコの伝説』とあり、スペイン語の文章を和訳した清水という学生の名前も書いてあった。
 『鹿の眼』はそれほどの魔力、つまり、男に対しては申し出を拒絶できないような力を持ち、女に対しては誘惑者の欲望を拒絶できないような力を持つのか、と純一は思った。
 『鹿の眼』とは、どのような眼なのか?
 俺の眼と似ているのか?

 純一はその小冊子を鞄に入れ、図書館を出た。
 そして、近くの大学生協が経営している喫茶店に入った。
 ウエイトレスが注文を取りに近づいて来た。
 ウエイトレスといっても、同じ大学の学生アルバイトだ。
 眼鏡をかけていたが、眼鏡を取れば可愛い感じの女子大生になるはずだ、と純一は思った。
 この真面目そうな女の子で試してみようか、と思った。
 俺の能力が錆びついていれば、俺は幸せになれるはずだ。
 逆に、錆びついていなければ、俺の不幸は続く。
 メニューを手に、考えるふりをして、その女の子に視線を向けた。
 眼と眼が会った。
 純一はじっと凝視(みつ)めた。
 少し怪訝そうな顔をしていた女の子の表情が急にぼんやりしたような表情を見せ、とろんとした眼になり、それから柔和な笑みを湛えた。
 注文を聞いたウエイトレスが去った。
 純一は、この女はどのような反応を俺に見せるのか、と思った。
 やがて、コーヒーが来た。
 コーヒー・カップの下に一枚の紙片が挟まれていた。
 待ち合わせの場所と時間が書かれており、『付き合ってください』、という一文が追記されていた。
 いつも、こういうことになる、と純一はコーヒーを苦そうに飲んだ。
 錆びついてなんかいやしない。
 今後も、俺の不幸は限りなく続く、と純一は思った。

 俺が自分の不思議な力に気付いたのは、いつだったろうか。
 純一は過去の出来事を思い出していた。
 小さい頃の父と母の会話を思い出した。
 あれは、俺が何歳の頃のことだったろうか。
 小学一年か、二年の頃だったろうか。
 俺は、欲しかったラジコンの自動車を買って貰って喜んでいた。
 家の駐車場で、ひとしきりその自動車を走らせ、遊んだ。
 夕方になり、周囲が暗くなって来たので、家の中に入った。
 靴を脱いでいると、居間で父と母が話をしている声が耳に入った。
 純一という言葉が耳に入ったので、俺は何気なく聞き耳を立てた。
 「どうも、純一からおねだりされると、つい聞いてしまうんだよなあ。今日も、あんな高いラジコン自動車を買わされてしまったし。何か、調子が狂うんだよ。普通なら、絶対買わないよ、あんな高価なもの」
 父が溜息混じりに言っていた。
 「駄目じゃない。あなたは純一に昔から甘いんだから。今回は家計的には大変な出費よ。でも、・・・、純一って、不思議なところがある子よ。女の子にやたら、もてるし、・・・。女の先生にもやたら、もてるのよ。まあ、私に似て、可愛い顔をしているから、頷けないこともないけど。でも、もてかたが気になるのよ。何て言ったら、いいのか、そうね、・・・、とにかく、異常にもてるのよ。母親の私でも、時に、純一みたいな男の子が昔、居たら、・・・、と思うこともあるのよ」
 「昔、居たら、結婚して!、とでも言うのかよ。自分の息子によろめくなんて、どうも、危ない話だなあ」
 「私、心配だわ。もてすぎて、道を外さないかと。あんないい子なのに」
 そんなことを言っていた父と母は、俺が中学生の頃、交通事故で死んでしまった。

 母には八歳年下の妹が一人居た。
 俺は、佳代子叔母さんと呼んでいた。
 父と母の葬儀の時、ご主人の太田幸一さんと娘の麗奈ちゃんを連れて、参列してくれた。
 一人息子の俺は名目的には喪主だったが、葬儀の一切は祖父母が取り仕切ってくれたので、黙って座って、参列者に頭を下げていれば良かった。
 佳代子叔母さんは三十歳を迎える前で、綺麗な人だった。
 喪服を着た佳代子叔母さんは子供心にも、とても色っぽく見えて綺麗だった。
 昔から、俺の自慢の叔母さんだった。
 結婚する前は、佳代子姉さんと呼んでいた。
 火葬場でぼんやりしている俺のところに来て、いろいろと慰めの言葉をかけてくれた。
 俺の顔を覗き込むようにして、美知子姉さん、可哀そう、こんな可愛い純ちゃんを残して逝ってしまって、と何度も繰り返すのだった。
 そして、感極まったのか、俺をいきなり抱き寄せて、俺の顔を胸元に押し付けた。
 俺は少し驚いたが、そのまま佳代子叔母さんの胸に顔を埋めていた。
 佳代子叔母さんは着痩せするタイプか、すらりとしていたが、胸は豊かなほうだったと思う。
 柔らかい感触と共に、何とも言えぬ良い香りがフワッと俺の鼻孔に漂って来た。
 佳代子叔母さんは少しハスキーな柔らかな声で呟いていた。
 純ちゃん、大丈夫よ、何かあったら、私のところに来るのよ、私が守ってあげるから。
 俺が十三歳の時のことだった。

 そう言えば、俺は『ものごころ』とやらがついた頃から自分でも不思議なほど、女にもてた。
 理由は長いこと判らなかった。
 自分ではそれほどの美男子ではないと思っているが、相手が俺に夢中になるのだ。
 小さい頃から、俺はやたら女の人に抱っこされた。
 齢はほとんど関係なく、おばあちゃんでも、おばさんでも、若い女性でも関係なく、女性は全て、小さな俺を抱っこしたがり、時には、可愛いと褒めながら、俺の額に口づけまでするのだった。
 はっきり言って、俺はそのような行為が気持ち悪く、厭だった。
 でも、小さな俺は何にもできず、抱っこしてくる相手の顔を見たまま、抱っこされるにまかしていた。
 幼稚園とか、小学校、中学校に通っていた頃は、女の子にやたらプレゼントされた。
 純ちゃん、これあげる、とやたら持って来るのだ。
 特に、バレンタイン・デーというのは最悪の日だった。
 チョコレートをランドセル一杯に詰め込んで帰って来る俺を見て、父は呆れかえっていた。
 独占禁止法が適用されるぞ、と言って笑っていたものだ。
 チョコレートは美味しいが、貰い過ぎると、うんざりする。
 そして、嫉まれる。
 そんな俺を見て、男の子は焼き餅を焼くものだ。
 俺を何とか苛めようとする。
 が、ここでも、変な力が働くのだ。
 苛めようとする寸前で、何故かその男の子はふいに躊躇うような表情になり、やめたとばかり、俺に不思議な表情のまま、笑いかけるのだ。
 また、俺を苛めようとする男の子を見ると、女の子が走って来て、あたしの純ちゃんに何をするのよ、と食ってかかることもしばしばあって、当事者の俺を相当面食らわせたものだ。

 その内、俺は気づいた。
 『凝視(みつ)める』という行為がこうした奇妙な現象の原因らしいということに気づいたのだ。
 どうも、俺には人を長く凝視めるという癖があり、俺に凝視められた者は男であれ、女であれ、俺に特別な親近感を抱くらしい、ということに気づいたのだ。
 この野郎、憎たらしい奴だ、懲らしめてやろうと拳を振りかざした男の子でも、俺に凝視められると、急に表情が柔らかくなり、お前が相手ではしょうがないなあ、とか呟きながら、苛めを途中でやめてしまうのだった。
 苛めるという行為に、すごい罪悪感を感じてしまうかのように俺には思えた。
 一方、女の子はおろか、年上の女性でも俺に凝視められると、ほとんど例外なく、あたしの純ちゃん、というような意識になってしまうらしい。
 俺の周りにいる女の人は、母親、佳代子叔母さん含め、そのような愛情を俺に抱くのだ、ということに気づいた時、俺は嬉しいような、恐いような、とても言葉では言い表せないほどの複雑な感情に囚われた。
 凝視めるという単純な行為で、男女を問わず、人を支配できるという能力が自分に備わっているという事実は当事者をひどく混乱させる事実であった。
 これは、その人にとてつもない野望があれば、政治の世界に進み、世界を支配できる能力である、と同時に、色好みの世界で言えば、稀代のドン・フアン、或いは、カサノバにもなれる能力でもあったのだ。

 いや、ドン・フアン、カサノバを凌ぐ能力である。
 何せ、好きな女を奪られた男にも一向に恨まれないという素晴らしい能力であったのだから。

 俺は、その能力を高校生の頃、意識して試してみることとした。
 住んでいた町から高校には電車で通っていた。
 「おい、見ろよ。純一。あの娘(こ)、可愛いよなあ」
 俺は、佐藤真一という友達に促され、佐藤の視線の方を見た。
 電車のドアのところに、一人の女子高生が鞄を持って立っていた。
 長い髪をロングレングスに束ねた、眼の大きな女の子だった。
 電車の中でひときわ目立つ美少女だった。
 にきび盛りで色気づいた男子高校生にとって、電車通学の際、利用する電車の中で見かける女子高生は皆何となく華やいで見える存在だ。
 その中でも、彼女は特に輝いて見えた。
 「あの女の娘(こ)、確か、・・・、宮本先輩の彼女だぜ」
 俺は、佐藤に言われて、宮本先輩の顔を思い浮かべた。
 宮本先輩は俺と佐藤の中学の一学年上の先輩で、中学に居た頃からいわゆる文武両道のスターだった。
 野球部のエースで、勉強も学年で中学三年間、一番を通したという男だった。
 さすがに、高校に入ってからは一番というわけにはいかなかったが、それでも学年では常に上位の成績を取っており、俺たち中学の後輩にとっては憧れの先輩だった。
 天は二物を与えない、というが宮本先輩を見ている限り、その格言は嘘だと思っていた。
 
俺は同学年のその女の子に興味を抱いた。
 持って生まれた稀有な能力をふと試してみたくなった。
 「あの女の子が宮本先輩を振って俺と付き合ったら、面白いだろうな」
 俺は半ば冗談めかして、佐藤に言った。
 「いくら、女の子にもてるお前でもそれは無理ってものよ」
 「そうかな。佐藤、見てろよ。一週間もしない内に、彼女とデートしている俺の姿を見ることとなるからな」
 佐藤はそんな俺の言葉を冷笑しながら聞いていた。
 それから、俺は彼女に近づく機会を窺っていたが、なかなか良い機会が無かった。
 しかし、求めよ、さらば、与えられん、という箴言は本当だった。
 二、三日後の或る日の朝、電車に乗ったら丁度良い機会が訪れた。
 座っている彼女の向かい側の席がうまい具合に空いていたのだ。
 俺はさっと、そこに座り、彼女を凝視めた。
 彼女は膝の上に鞄を載せ、何やら本を読んでいた。
 俺は少し苛々した。
 早く、本から眼を離し、こちらを見ろ、と思った。
 俺の念が通じたのか、ふと、彼女は眼を上げ、遠くを眺めるような目で俺を見た。
 俺が凝視める視線と彼女の視線が合った。
そして、数秒ほど経った。
 彼女は放心したかのように口を少し開けた。
 とろんとした眼になった。
 そして、俺に遠慮がちな微笑を贈って来た。
 
夕方、学校が終わって、俺は駅の入口付近のベンチに座って、彼女を待った。
 やがて、彼女が数人の友達と一緒に駅に入って来た。
 俺は立ち上がった。
 立ち上がった俺に気付き、彼女は友達に何か言い、別れて俺に近づいて来た。
 彼女の友達は怪訝そうな目を俺に向けた。
 彼女は俺の前に立ち、言った。
 声は緊張のためか、少しかすれていた。
 「山崎純一君でしょう」
 俺と彼女は一緒にベンチに腰を下ろした。
 「山崎君のことは、友達からいろいろと聞いているのよ」
 俺は無言で彼女を凝視めていた。
 「君って、私の友達にすごい人気があるのよ」
 「僕も、君のことは知っているよ。草野真由美さんでしょ」
 「アラッ、嬉しい! 私のこと、知っているなんて」
 「宮本先輩の彼女、としてね」
 真由美は少し悲しそうな顔をした。
 「厭。宮本さんのことは言わないで。山崎君からそんなこと、言われると私、辛い」
 俺は黙った。
 「ねえ、正直に答えて。山崎君、今付き合っている女の子、いる? いない?」
 俺は彼女を見た。
 彼女は真剣な顔をしていた。
 彼女の眼が少し潤んでいることに気付いた。
 「別に、いないよ」
 俺の返事を聞いて、安心したかのように言った。
 「じゃあ、・・・、私と付き合ってくれる?」
 言ってから、彼女は歯止めが利かなくなったように、喋り続けた。
 それは、堰が切れたように、という表現も適切であったかも知れない。
 「宮本さんのことは気にしないで。私の方から、彼に話すから。私、山崎君のことが気になってしょうがないの。どうしてか、分からないけれど、とにかく、君のことが気になってしかたがないのよ。どうして、こんな気持ちになったのか、私、今は混乱しているから、よく分からないけれど、君と付き合っていきたいのよ。ね、お願いだから、私と付き合ってよ。ねえ、お願いよ」
 
こうして、俺と真由美は付き合うようになった。
 付き合うと言っても、それは高校生同士だ。
 マックとか、ミスドあたりで、お茶を飲む程度の付き合いでしか無かった。
 時々は、学校の帰り、公園で待ち合わせて池の周りを歩くこともあった。

 「全く、純一には驚かされるよ。まさか、草野さんと付き合うようになるなんて。お前のもてかたは少し異常だなあ。信じられないよ、全く」
 こう言いながら、佐藤はふと言葉を止めた。
 「アッ、いけねえ。こちらに、宮本先輩が来る。純一、お前、殴られるぜ」
 見ると、佐藤の言うように、宮本先輩が俺たちの方に歩いて来るのが見えた。
 普段は柔和な顔が少し紅潮していた。
 俺は、宮本先輩の顔を正面から凝視めた。
 悪びれない俺の様子を見て、宮本先輩もこちらを凝視めて来た。
 やがて、俺の前に立った。
 長身の彼から思いっきり殴られるかも知れない、と俺は目を伏せ、少し歯を食いしばった。
 彼から、言葉が発せられた。
 「山崎君、だね」
 意外なことに、言葉の口調はとても優しかった。
 思わず、目を上げ、宮本先輩の顔を見た。
 宮本先輩は気弱な微笑を浮かべていた。
 「真由美と付き合っているんだって。真由美本人から聞いたよ。僕から話すことは何もない。真由美はとてもいい子なんだ。大事にして欲しい。それだけを、言いたかったんだ」
 こう言うと、彼は踵を返し、僕たちから離れて行った。
 佐藤は呆れたような表情を浮かべ、俺の顔を見ながら、言った。
 「聞いたかよ、宮本先輩の言葉。怒ってないんだ。先輩の言葉は、あれは、純一へのエールだぜ」

 これには、後日談がある。
 宮本先輩が友人に語った話だそうだ。
 始めは、俺を殴るつもりだったそうだ。
 でも、俺を見ている内に、気が変わったらしい。
 何でも、宮本先輩には小さい頃、病気で死んだ弟がいたらしい。
 俺を見ている内に、その弟のことを思い出したらしいのだ。
 急に、俺の顔が可愛がっていた弟の顔とラップし、怒りは消え失せてしまったということだった。
 この男ならば、真由美にふさわしい男だ、しょうがない、俺はきれいさっぱり身を引こう、と思ったのだ、と宮本先輩は友人に語ったらしい。
 こうして、俺と真由美の関係はその後も深まって行った。

 しかし、困ったことがあった。
 始めは、そう感じなかったが、真由美は異常に嫉妬深い女だった。
 俺をむやみと独占したがったのだ。
 俺は閉口した。
 信じられなかった。
 清純そのものに見えた真由美がこれほど嫉妬深い女であったとはとても信じられることでは無かったのだ。
 嫉妬という字は、女偏が二つも使われている。
 女が嫉妬深いのは当たり前だろうが、真由美の場合は完全に度を越していた。
 俺のもてかたが気に入らないというのだ。
 なるほど、俺は老若男女、接する全ての人から奇妙なほどの好意を受ける。
 それが、真由美には気に入らなかった。
 山崎純一という男は私だけのものでなければならないという思いが強すぎるのだ。
 俺は過剰に愛想を振り撒き過ぎるというのだ。
 私が純一を愛するように、純一も私を愛しなければならない、というのが彼女の強い思いだった。
 会う都度、彼女は涙を浮かべて、俺にこのように言い、俺が分かった、というまで迫って来るのだ。
 俺は、自ら招いたこととは言え、うんざりして来た。
 真由美から逃げ出したいと思うようになった。
 周りの者には理解できないことであったろう。
 真由美は非の打ちどころのない美少女だった。
 頭も良く、スタイルも良く、性格も温和で、人に優しい女の子だ。
 そんな女の子から愛されている俺は羨ましい存在であるはずだった。
 ただ、熱烈に俺を独占したがる、というその一点さえ無ければ、俺も幸せであったろう。
 おそらく、真由美は愛されることには慣れているが、愛するということに関しては慣れていなかったのであろう。
 慣れていなかった分、愛するという事態に陥った時、混乱して過剰になったのかも知れない。
 俺はとても憂鬱になった。

 しかし、幸運が俺にやって来た。
 真由美がふいに居なくなったのだ。
 別に、死んだわけでは無い。
 真由美の父は会社勤めの転勤族だった。
 会社の業務の関係でヨーロッパに赴任することとなったのだ。
 三年或いは四年といった海外勤務となり、家族共々ヨーロッパに行くことになったのだ。
 「お父さんの関係で暫く、純一君とは会えなくなるけど、日本に戻って来たら、私と結婚してね。必ず、結婚してね。これは、約束よ。破ったら、私、死ぬわよ」
 真由美は文字通り、鬼気迫る表情で俺に言い、去って行った。

 俺は漸く、鬱陶しい『愛情という名の地獄』から解放された。
 その時、俺は秘かに決心した。
 凝視める、という行為は自分の破滅のもとだ。
 俺はこれから、人を凝視めることはせず、なるべく目を逸(そ)らすようにして暮らして行こう、と固く決心したのだった。
 その時、俺は十八歳になっていた。

 翌年、大学に入学し、俺は東京に出た。
 「純ちゃん、どうして、アパートを借りて暮らすのよ。水臭いわよ。叔母さんのマンションに来ればいいのに」
 吉祥寺のアパートを決めた時、佳代子叔母さんから散々愚痴(ぐち)られたが、俺は頑として佳代子叔母さんのところには行かなかった。
 佳代子叔母さんの俺を見る目が厭だったのだ。
 俺には分かるが、真由美と同じ目をしていたのだ。
 十三歳の時ですら、俺を人前で抱きしめたくらいだ。
 十八歳になっている俺が佳代子叔母さんのマンションに行き、一緒に暮らしたら、俺は確実に、佳代子叔母さんの若い、とびっきりの愛人にされてしまう。
 何といっても、十五歳しか違っていないのだ。
 佳代子叔母さんは相変わらず綺麗だし、一つ屋根の下で暮らしていたら、俺も間違いを起こさないという自信は無い。
 君子、危うきに近寄らず、だ。
 そんなわけで、清瀬の叔母さんのマンションには行かず、俺は祖父母にお金を出して貰って、吉祥寺のワンルーム・マンションに引っ越しをした。
 そして、とにかく、人と目を合わさずにして暮らすこととした。
 他人を凝視めさえしなければ、平穏無事に暮らせるということはこれまでの経験から分かっていたのだ。
 しかし、人と目が合ってもすぐ逸らすということはやってみると結構難しいのだ。
 人は時に、ぼんやりとするものだ。
 と言って、ぼんやりとしながら、器用に視線を徘徊させることはできない相談だ。
 どうしても、視線を固定しがちになる。
 その視線の先に、女がたまたま居て、目と目が合ってしまうということは結構あるものだ。
 あわてて、視線を逸らせばいいが、疲れてぼんやりとしていると、つい面倒になり、逸らすのが少し遅れるという事態になる。
 すると、相手はいつも敏感に反応してくるのだ。
 そんな時、女はまるで初恋の人に再会でもしたように、或いは、最愛の白馬の騎士か王子様が忽然と現れたかのように、うっとりとした眼になってしまうのだった。
 俺は慌てて、その場を去ることとなる。
 後は、決して振り向かず、急ぎ足で逃げるように去っていかなければならない。
 まさに、脱兎の如く、一目散に逃げる。
 とにかく、人を凝視めないということを俺は緊張感を持って実践するようにした。
 結果、何とか四年間、とりたててのラブ・アフェアも経験すること無く、平穏無事に学生生活を送ることができたのは幸いなことだった。
 この四年間は安らぎに満ちた歳月となった。

 でも、大学を卒業し、商事会社に就職した頃、恐れていたことが起こった。
 真由美が日本に帰って来たのだ。
 案の定、祖父母が住んでいる家に行き、俺の住所を聞き出した。
 「真由美さん、また一段と綺麗になったよ。純一、お前は幸せ者だね。あんないい娘さんから、あんなに思われて」
 電話口で、祖母のやや甲高い、興奮気味の声を聞きながら、俺の心は陰鬱に沈んで行った。
 お祖母ちゃんは本当に無邪気だ、惚れられ過ぎというのはひどく憂鬱なものなのだよ、と言いたい言葉を俺はぐっと抑えた。
 お祖母ちゃんに話したところでしょうがない、贅沢なことを言ってるんじゃないよ、と軽くあしらわれるのが落ちだから。
 俺は引っ越しの準備を始めた。
 吉祥寺という街はいい街で、随分と未練があったが、真由美が帰国した以上はもう仕方が無い、佳代子叔母さんのところに暫く転がりこむしか無い、と思った。
 早速、叔父さんに電話をした。
 俺は嘘をついた。
 「また、急だねえ。でも、マンションが建て替えするんではしょうがないねえ。ひとまず、こちらへお出でよ。幸い、部屋は一つ、空いているからさあ」
 「叔父さん、すみません、恩にきます」
 「佳代子も、麗奈もきっと喜ぶと思うよ。吉祥寺に決めた時だって、佳代子は、純ちゃんは本当に水臭い、水臭いとしきりに怒っていたからね。純ちゃんが来てくれれば、僕も安心さ。知っているように、僕は出張が多くてさあ、留守が少し心配だったんだよ。何てったって、女ばっかりだろ、うちは」
 叔父さんの言葉を聞いて、俺は段々憂鬱になって来た。
 叔父さんに出張なぞして欲しくは無かったのだ。
 出張時は、俺は佳代子叔母さんと過ごす時間が長くなるということだ。
 間違いのもとなんだよ、叔父さん、と俺は言いたかったのだ。
 その時、俺は二十三歳だった。
 
 「ようやく、うちに来てくれたわねえ。幸一叔父さんも、私も、この麗奈も喜んでいるのよ。ウェルカム、ウェルカム、ということね」
 こう言いながら、佳代子叔母さんは嫣然と微笑み、俺のグラスにワインを注いだ。
 「麗奈も嬉しいわ。ねえ、純一兄さん、時々は麗奈の勉強をみてね。約束よ」
 麗奈も無邪気に眼を輝かせながら、佳代子叔母に同調した。
 俺は、目を伏せるようにして、なるべく、佳代子叔母と麗奈と視線を合わせないように心掛けた。
 麗奈だって、十五歳になる少女だ。
 まだ、固さは残るが、その内、綺麗な美少女になる。
 真由美を恐れ、佳代子叔母を恐れているのに、麗奈までが加わったら、それこそ収拾がつかなくなる。
 三つ巴で、俺という人間を独占し、おもちゃにしたがるのが目に見える。
 そして、その結果として、俺はきっと、破滅するに決まっている。
 二十三歳になったばかりで、女たちによって、人生を目茶目茶にされてなるものか。
 目を伏せたまま、乾杯し、俺はワインを飲みながら、そんなことを思っていた。

 俺は翌日から、清瀬から大手町まで地下鉄に乗って通い始めた。
 簡単な実習を終えて、俺は先輩社員と共に、得意先をご機嫌伺いにまわることとなった。
 いいかい、相手と話す時は、相手の目を見るようにして話すことが肝心だよ、まあ、それほど不躾にならないよう配慮してね、どうも、君は人と話す時、下を向く悪い癖がある、その癖は良くないから、直さなきゃならないよ、と先輩社員から言われた。
 それで、俺は努めて相手の目を見るようにした。
 本当はそうしたくは無かったのだが。
 すると、案の定、相手の反応は極めて鮮やかだった。
 「お前って、人に好かれるなあ。あの気難しい人があんなに自分の会社の内情を話してくれるなんて。おかげで、いい情報がたくさん貰えたよ。恩にきるぜ」
 先輩社員は無邪気に喜んでいた。
 得意先廻りには、接待も付き纏う。
 時には、銀座あたりで接待することもある。
 客先担当者は俺に向かって言ったことがある。
 「山崎さんを見ているとね。僕は子供の頃の親友を思い出すんだよ。どうしてだろうねえ。とても懐かしいような、甘酸っぱいような、変な気分にさせられるんだよ。山崎さんの人徳かも知れないね。何とか、便宜を図ってやろうという気にさせられるんだよ。これからもしょっちゅう会社には来てよ。その内、大口の発注をしてあげるからさ」
 客先担当者からの言葉を聞いて、先輩社員は目を丸くしていた。
 というわけで、会社での俺の評価は最高ランクに引き上げられていた。
 順調そのものだったが、或る日、事件は起こった。

 「山崎君、女性が君を訪ねて来ているよ。生命保険の勧誘員かなあ。しかし、それにしても、凄い美人だ。はやく、行ってあげなよ」
 誰だろうと思いながら、受付ロビーに向かった。
 俺は驚いた。
 受付ロビーに居たのは、草野真由美だった。
 身なりは清楚な服を着ていたが、真由美は一段と綺麗な女性になっていた。
 引っ越し先が判らなかったので、会社に訪ねて来たと云う。
 会社の受付の女子社員はいかにも興味津々といった表情で俺と真由美を見比べていた。
 会社が退けたら会う、と告げて、とりあえず真由美を追い返した。

 「純一さん、気持は変わっていないでしょう」
 また、始まったと俺は思った。
 「私の気持ちはあの時のままよ。純一さんが大好きで堪らないの。お願いだから、私と結婚して。私、あなたを幸せにする自信があるの。ね、お願いだから」
 真由美ほどの女からこのように言われたら、普通の男なら、有頂天になっただろうが、俺には鬱陶しいだけだった。
 まるで、安珍と清姫のようなもので、真由美の俺に対する執念がひたすら恐かった。
 しかし、俺は真由美の求愛を断固として拒絶するだけの勇気が無く、曖昧な微笑を浮かべたまま、今後も結婚ということを前提にして付き合う、ということを約束させられてしまった。
 真由美と別れ、俺はとぼとぼと歩いて、家路に向かった。
 これから、四年前のような憂鬱な日々が続くのかとつくづく思った。

 真由美は清瀬のマンションにも遊びに来るようになった。
 勿論、俺の婚約者として、だ。
 佳代子叔母は内心は怒っていたであろうが、叔父の手前、真由美を歓待するような素振りを見せていた。
 しかし、女同士、敏感に判るものらしい。
 マンションを出て、駅まで送る俺に、いつか真由美が言ったことがある。
 「叔母さん、一見、私に優しいように見えるけれど、違うわ。私、叔母さんに憎まれているみたい。こんなこと言って、叱られるかも知れないけれど、叔母さん、純一さんのこと、大好きみたいよ。うまく言えないけれど、私には判るの。女の直感、というやつかな」
 真由美は俺の横顔を見詰めながら、そんなふうなことを話した。
 「佳代子叔母さんは俺の母親の妹だし、小さい頃から俺を可愛がってくれた」
 真由美は苦笑しながら、続けた。
 「肉親の子供に対する愛情じゃ、無いわ。叔母さんが私を見る眼は、まるで、恋敵を見るような冷たい眼よ。しょっちゅうじゃ無いけど、時々、ね。恐い眼よ」
 「まさか、それは、真由美の考え過ぎだよ。叔母さんは僕より十五も上だし、何と言っても、唯一の叔母さんなんだもの」
 「ふーん。だと、いいけど」
 そう言って、私に微笑む真由美は本当にいい女だった。
 真由美と手を繋ぎ歩く俺は通り過ぎる男から羨望の眼で見られた。
 「純一さんは私と結婚するのよ。それが、純一さんにとって、一番幸せなんだから」
 と言って、真由美は俺の手を強く、固く握り締めた。
 俺はまた、何となく怖くなった。

 叔父さんはいい人だった。
 心から、真由美を歓待し、結婚を前提に付き合う俺たちを祝福してくれていた。
 叔父さんは或る時、俺に言ったことがある。
 純一君は自分にとって、少し年は離れているが、弟のような存在だ、と。
 或いは、可愛い子供のようにも見ていたかも知れない。
 そんな叔父さんが長期出張することとなった。
 二週間ばかり、米国に行くこととなったのだ。
 「純一君、佳代子、麗奈を宜しくね。麗奈、米国土産は何がいい? 土産は要らないから、その内、ハワイに連れて行けって。ああ、分かったよ、その内、その内、必ず連れて行くよ。では、佳代子、行って来るよ」
 叔父さんの言葉を聞きながら、俺はふと真由美のアパートに行こうかな、と思っていた。
 でも、叔母さんは一枚上手だった。
 叔父さんを駅で見送った後、俺にこう言った。
 今夜、久し振りにすき焼きをするから、真由美さんも都合が良ければ、一緒に食べるよう、誘っておいて、と言うのだった。
 あくまで、俺を家から出さないという意志が感じられた。
 
 「今晩は。お言葉に甘えて、来ました。」
 夜、真由美がマンションに来た。
 迎えた麗奈に、ケーキの箱を渡していた。
 「嬉しい。この頃、連絡が無かったのだもの。純一さんからの連絡はいつでも、ウェルカムよ。今夜、同期入社の女の子の飲み会があったけれど、キャンセルして、ここに来たのよ」
 真由美は俺と二人きりになった途端、そんなことを言った。
 その内、すき焼き・夕食会となった。
 「真由美さん、ヨーロッパで四年ほど過ごされたんでしょう。向こうで、ボーイ・フレンドはいらしゃらなかったの」
 「ええ、いましたよ。でも、ただのボーイ・フレンドでした」
 「つまり、純ちゃんみたいなボーイ・フレンドはいなかったの」
 「うん、私にとって、純一さんは特別なひとですもの。純一さんはボーイ・フレンドでは無くて、それ以上のひとです」
 「あら、あら。ごちそうさま。でも、純ちゃんって、幸せなひとだわ。真由美さんほどの女性に、ボーイ・フレンド以上のひととはっきり言われるなんて、ねえ。羨ましいこと」
 また、女同士の心理的な闘いが始まった、と俺は思った。
 酒が入ると、佳代子叔母さんも真由美も断然色っぽくなる。
 そう言えば、佳代子叔母はいつもより、化粧が濃かったように思った。
 知らず、若い真由美と張り合う気持が働いていたのかも知れない。
 美人に囲まれている俺は何だか身体がむず痒くなってきた。
 二十三歳という若く健康な男の欲望には限りが無い。
 しかも、この二人とも俺に心底夢中なのだ。
 美女二人による俺を巡っての丁々発止は、当事者の男としては悪くは無い眺めだったと言える半面、俺はハラハラし通しだった。
 今は何ということも無い会話で済んでいるものの、いつ何時、女同士の剥き出しの闘いが始まるか知らない。
 麗奈を見ると、麗奈は美味しそうにすき焼きをパクついているだけだが、少女とは言え、何と言っても、女は女だ、佳代子叔母と真由美の闘いに気付くかも知れないのだ。
 その時、麗奈は傷つくかも知れない。
 そう思うと、俺は麗奈にすまなくなり、無意識に麗奈の方を見た。

 ふと、麗奈の眼と合った。
 いつもなら、さっと視線を逸らすのであるが、その時はどういうわけか、麗奈の瞳を凝視め、微笑までしてしまった。
 後は、言うまでも無い。
 少女の眼は急にとろんとなり、恋に恋する年頃に相応しく、夢見るような眼となった。
 俺をじっと見詰めながら、母と真由美の会話に聞き耳をそばだてるような仕草をするようになった。
 母は、俺の昔の逸話をさも恋人の話をするかのような甘い口調で話し、真由美は真由美で負けじとばかり、ヨーロッパではもてにもてたけれども、私の意中の人はずっと俺だったと優雅な微笑を湛えて佳代子叔母に話す、という状況になった。
 俺はどうにも二人の会話に入って行けず、曖昧な苦笑を浮かべたまま、すき焼きの鍋奉行に徹することとし、煮過ぎた肉は三人の取り皿に入れると共に、食べることに専念することとした。
 「純一兄さん、卵、追加する?」
 眼を上げると、麗奈が微笑んで、卵を差し出していた。

 その眼。

 佳代子叔母、真由美と同じ眼をしていた。
 俺は深い絶望感に襲われた。
 ついに、以前から恐れていたことが現実となってしまった。
 俺は三人の女に包囲されてしまったのだ。
 三十八歳の佳代子叔母、二十三歳の真由美、それに、十五歳の麗奈、という三人の女に。
 テノチカ族の『鹿の眼』を持つコヨルトトトルという強靭な戦士はアドネイという首長の妃を手に入れたが、首長チュインによって、嫉妬に狂った短剣で心臓を刺され、魔力を持つ『鹿の眼』は死体からくり抜かれて捨てられた。
 俺はいつか、佳代子叔母との不義が暴露され、幸一叔父に殺されることになるかも知れない。
 いや、そんなことはあり得ない。
 嫉妬に狂ったとしても、叔父は決して俺を殺したりなんかしない。
 むしろ、全てを受け入れ、俺に気弱な微笑を浮かべて言うだろう。
 純一君は悪くない、十五も年上な癖に分別を失くした佳代子が全て悪いのだ、と。
 しかし、例え、叔父からは許されても、俺はいつか刺されて死ぬことになるだろう。
 あの、『鹿の眼』を持ったコヨルトトトルのように、短剣を持って迫るチュインの姿を見ながら、何の抵抗もせずに、心臓を相手に突き刺させたコヨルトトトルのように、俺は死ぬことになる。
 抵抗もせず、愛情に狂った刃を受けることとなるのだ。
 コヨルトトトルは強い戦士であったが、何の抵抗もせずに、殺された。
 おそらく、持って生まれた自分の過剰な才能にうんざりしていたのかも知れない。
 黒曜石の鋭いナイフを持って、迫ってくるチュインに殺されることによって、厄介な人生にようやくおさらばできる、と思ったに違いない。
 いつか、俺も刺されて死ぬ。
 その時、俺は長い苦しみの時から漸く解放されることとなる。
『鹿の眼』を持たせられた男に運命付けられた長い呪縛から解放されるのだ。
その刃を持つのは、佳代子叔母か、真由美か、ひょっとすると、麗奈か。

 麗奈は俺の話に夢中になる母と真由美を見ていた。
 その眼は冷たく、皮肉っぽい眼であった。

魔力

魔力

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-10

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