*星空文庫

語る男

三坂淳一 作

『 語る男 』

 「フン・ジャヒヌマ」

 そのように呼ばれた時、私は最初、何のことか分からなかった。
 「フン・ジャヒヌマ」
 私の目の前に座っている男は私が書いた宿泊名簿を見ながら、二回ほどそう繰り返した。
 私は漸く気が付いた。
 私の名前は柳沼淳。
 私はアルファベットで、Jun Yaginumaと宿泊名簿に書いた。
 これは、メキシコ人が読むと、フン・ジャヒヌマとなる。
 「ジュ・ン・ヤ・ギ・ヌ・マ」
 私は、ゆっくりと一語一語、言葉を区切りながら私の名前を発音して、彼に聞かせた。
 彼は、宿泊名簿から悠然と顔を上げ、私の顔をまじまじと見詰めた。
 それから、彼はゆっくりと私から聞いた言葉を繰り返した。
 「ジュン・ジャギヌマ。セニョール・ジャギヌマ! ビエン・ベニード(ようこそ、いらっしゃいました)」
 これが、アレハンドロ・オチョワ・ヒメネスさんと私の初めての会話となった。

 メキシコのメリダという街に着き、観光案内所で紹介されたホテルに行き、そこの受付での会話だった。
 オチョワさんはそのホテルの管理人で、受付に座っていた老人だった。
 かなりの年齢の老人で、私は七十歳くらいの年齢かと思っていたが、後日訊(き)いたところ、八十歳ということで驚いた。
 かくしゃくとして、元気なお年寄りだと思った。
 
そのホテルは長期滞在者用のホテルで、低料金が売り物の小さなホテルであった。
 それでも、学校に近く、小綺麗な感じで私は一目で気に入ったホテルだった。
 周囲は白い高塀に囲まれ、白いアーチ状の大きな門を潜ると、オチョワさんがいつも座っている受付を兼ねた小さな事務所があり、それを囲むようにして、宿泊者用の同じ造りの小さな白い家が八軒ほど点在して建っていた。
 どの家も平屋の小さな家で、間取りは1DKといったところだった。
 室は一つしかなかったが、広さは二十畳程度とかなり広く、その他に、飾りガラスの戸が付いた瀟洒(しょうしゃ)な玄関があり、三畳程度のキッチン、奥まったところにシャワー設備と水洗トイレが付いていた。
 シャワーは、常時お湯が出るシャワーで、浴槽はなかったが、暑い地方では浴槽は無くても、お湯が出るシャワーがあれば十分だった。
一日に何回もシャワーを浴びることが出来るからだ。
 広い室には、大きな鏡が付いた洗面・化粧台、がっしりとした造りの大きな箪笥、そしてダブルベッドがあった。
 ダブルベッドのスプリングは固く、腰痛持ちの私には丁度良かった。
ダブルベッドの上には、大きな天井扇が少しきしんだ音を立てながらも、元気よく回り、少し生温かい風を下に送っていた。
 壁にはハンモックを吊るす大きな鉄のリングが対となって壁の両側に埋め込まれてあった。
 ハンモックも、オチョアさんに言えば貸してくれた。
 私にとっては、このホテルは短期間の仮住まいで、どこかの民家にホームステイをするつもりでいたが、帯に短し襷(たすき)に長しとやらで、丁度良いところが見つからず、そのまま一年ほどの留学期間の間、このホテルで暮らした。
 二日に一度は、室の掃除、シーツ交換、ベッドメイキングのサービスもあり、独り者にはなかなか快適な暮らしだった。
 
私は日本とメキシコの国で取り決めた交換留学制度に応募して、運良く合格し、大学を一年間休学して、このメリダにあるユカタン州立大学に聴講生として来た学生の一人だった。
 メキシコ政府から奨学金も出て、贅沢(ぜいたく)さえしなければ、親からの仕送りが無くとも、何とか生活していけた。
私の他に、日本の大学はそれぞれ違っていたが、日本人の学生仲間が五人居た。
 メキシコの言葉であるスペイン語に関しては、大学では二年間専攻科目として勉強しており、日常会話程度は不自由無く話すことが出来たが、現地の人に少し早口で話されたり、難しい言葉を使われると何回も訊き直すという事態になり、私自身自分の語学力はまだまだ不十分であるということを痛感せざるを得なかった。
 語学の習熟には忍耐と実践、反復練習が何よりも必要となる。
 
そのホテルに滞在して一週間ほどすると、オチョワさんはセニョール・オチョワでは無く、名前でアレハンドロと呼んで欲しいと私に言ってくれた。
 私たちはアレハンドロ、ジュンと呼び合う仲になった。
 そして、私の話し相手になってくれ、私の語学能力は自分でも驚くほど、伸びていった。
 彼は私のスペイン語の先生になってくれたのだ。
 これは、本当にありがたいことだった。
 アレハンドロは定年で退職するまでは小学校の先生をしており、職業柄とでも云うのだろうか、なかなか教え方が上手だった。
 結婚をして子供が一人生まれたが、若くして死んだとのことで、その子供の話となると少し涙ぐんだ。
 奥さんも十年ほど前に亡くなり、今は二つ違いの姉と暮らしているとのことだった。
 このホテルは亡くなった奥さんの姪が持っているホテルで、アレハンドロは管理人として、朝十時から夜の八時までの勤務で働いていた。
 朝の十時少し前に、小さな魔法瓶とお弁当を下げて、門を潜り、夜は八時を少し過ぎた頃、空になった魔法瓶とお弁当を持って、門を潜り、暗くなった夜道を姉が待つアパートに帰っていくのだった。
 
ホテルの住人に、カルメン・フローレスという若い女が居た。
 近郊の町からここに来て、どこかの商店でレジをしているという話だった。
 マリアという娘と二人で、一番奥の家で暮らしていた。
 私より少し前からここで暮らしているらしく、夕方帰って来ると、アレハンドロと陽気におしゃべりをしてから、奥の家に引っ込むというのが常だった。
 マリアという娘は七歳か八歳だったかと思うが、ほとんど話すことの無い少女で、いつも母親がアレハンドロと話している間、脇でじっと立って、ぼんやりと門の外の薄暗がりを見ているという娘だった。
 ハンモックで寝ているせいか、少し首が肩にめり込むように短く、顔立ちは美人の母親に似て、綺麗な顔立ちをしていたが、アレハンドロの話に依れば、少し白痴気味で学校には行っていないとのことだった。
外観上は判らないが、少し話をしてみると頭が弱いということが判るということをアレハンドロは私に話した。
そう言われてみれば、口を少し開けてぼんやりとしている表情の無い顔は活発な同年齢の少女たちとは異なっていた。
しかし、大きな眼をした、綺麗な少女だった。
 私はマリアによくコミック本を貸した。
 日本でもアニメで紹介されている「トムとジェリー」という漫画本でセントロ(街の中心地)にあるキオスクで私が時々スペイン語の勉強と称して買ったものがほとんどだった。
 私がアレハンドロと話していると、いつの間にか傍に居て、私の半袖のシャツの袖を引っ張り、私に小さな声で「ありがとう」と言って漫画本を返すのだった。
 
留学生活は順調で、私はマヤ文明、考古学を主体に学び、時にはカリブ海の方に小旅行をしたりして、よく学び、よく遊びということを実践し、有意義な学生生活を満喫した。

留学期間も残り僅かになった三月の末のことだった。
 アレハンドロが私を呼び止め、言葉にどれだけ習熟したか、テストをしてあげると言うのだ。
 アレハンドロはお茶目な眼をして、私にそう言った。
 マヤの昔話などを話してあげる、みな全て恋物語だ、ジュンが好きそうな恋物語だよ、その昔話の内容を正確に理解出来たら、もうスペイン語は卒業だよ、免許皆伝だ、威張って日本に帰れる、ということだった。
 但し、夜の七時から八時までの一時間、一晩に一つのお話だけ、という約束だった。
 私は笑いながら、そのテストを受けることとした。
 
(その六日間で、アレハンドロが身振り手振りを入れながら話してくれたお話が、これから私が当時の記憶と簡単なメモに基づき、お話をする六つのお話です。いわば、私にとっては、『六夜物語』、となります)

第一話 シュタバイとウツコレル

 第一日目、私は日本から送られてきた緑茶をポットに入れて、アレハンドロのところに行った。
 夜七時、きっかりの時間に行った。
 アレハンドロは宿泊者名簿を見ながら、何やら書いていたが、入口のドアを開け、中に入ってきた私を見ると、にこやかに私を手招きで招じ入れ、受付の机の前の椅子に座らせた。
 ふと見ると、マリアが奥のハンモックに腰を下ろし、足をぶらぶらとさせていた。
 室の中は、受付の机に電気スタンドが一つ灯されていただけで、全体に薄暗く、事務所に入った時はマリアには気付かなかった。
 マリアは私の方に顔を向けた。
 いつものように、ぼんやりとした微笑を浮かべていた。
 私はアレハンドロとマリアに持参した緑茶を紙コップに入れて勧め、テストをお願いします、と催促した。
 アレハンドロは笑い、第一番目のお話はユカタン半島のマヤ民族に伝わる二人の娘のお話だ、と言った。

――――――――――――――――――――――――――――――
 ユカタン半島には大きなセイバの樹が沢山あります。
そして、その樹の周辺にはシュタベントゥンという名の香り高い花を咲かせる野草が群生し、セイバの樹を香りで満たしています。
 
著者注記 セイバという樹木は「パンヤノキ」、別名を「カポックノキ」と言う樹で二十五メートル以上の大木になる樹木です。
実から、パンヤという繊維が採れ、クッションや枕の詰め物として使われています。
 
このシュタベントゥンという花にはその起源を伝える伝説が残されております。
その伝説はその花の芳香よりもずっと香り高く、美しいのです。
 昔々、ユカタン半島の或るところに、二人の娘がおりました。
 その二人の娘はいずれ劣らぬ美しい娘でしたが、性格はまるで違っておりました。
 娘の一人はシュタバイという名前でした。
 綺麗な娘でしたが、村の人からは「シュケバン」という別名で呼ばれていました。
 シュケバンというのは、マヤの言葉で『売春婦』という汚い言葉でした。
 村の人からは、見境も無く、旅人を誘い、自分の家に連れ込み、旅人なら誰にでも愛を与える娘だという噂を立てられていたのです。
 本当のところは、泊めてくれる宿も無く、困っている旅人を見過ごすことが出来ず、一人住まいの若い女という身でありながら、旅人に声をかけ、自分の家に泊めてしまうという優しい性分の娘だったのです。
 しかし、その娘は自分のことを村人がどのように悪く話をしていても無関心でした。
 いつでも、他人に好意を示し、どんなに悪く言われても陽気に明るく振舞うという娘でした。
 一方、シュタバイの家とごく近いところに、ウツコレルというもう一人の美しい娘が住んでおりました。
 ウツコレルは善良で慎ましやかな娘という評判の村人自慢の娘でした。
 そして、貞淑(ていしゅく)で正しい気性(きしょう)の正直な娘という評判も得ていました。
 その地域の全ての人から、どんな小さな過ちもせず、罪も犯さず、またそのような不実なことを考えることさえしない娘であると思われていた娘だったのです。
 そして、二人とも、外見はいずれ劣らず大層美しく綺麗な娘でありました。
 でも、性格は正反対でした。
 シュタバイは病人とか身寄りの無い人で困っているという話を聞けば、どんなに遠くても、出かけて行って世話をするという娘でした。
 そして、着るものも無く寒そうにしている人を見れば、自分の大切な衣服を脱いで、その人にかけてあげるという娘でした。
 しかし、シュタバイがしていることを何も知らない村人からは、見境も無く旅人を家に連れ込む色きちがいと罵(ののし)られ、シュケバンと云う侮蔑(ぶべつ)の言葉を投げかけられても、静かに慎ましく耐え忍ぶ娘でありました。
 一方、ウツコレルは心が冷たい、高慢な娘でした。
 貧しい人に対しては心から嫌悪感を持つような心の冷たい娘だったのです。
 ウツコレルの肌は緑がかっており、そのぬめぬめとした肌は毒蛇を感じさせるものでした。
 いつも、貞淑な様子を見せておりましたが、時としてとても利己的な心を垣間(かいま)見せることがありました。
 或る日のこと、この頃シュタバイの姿を見ていない、という話が村人の口から出ました。
 でも、どうせあの娘のことだ、何処かよそのところで、体を売って商売しているに違いないと村人たちは噂をして、気にも留めませんでした。
 そうして、シュタバイの姿を見なくなって、数日が経ちました。
 そんな或る日の午後のことです。
村人は上品な甘い香りがあたりに漂っているのに気付きました。
その香りはとても繊細な甘い香りだったので、村人はその香りにつられ、何処から漂って来るのか確かめたいと思い、香りの跡を辿(たど)って行きました。
その香りはシュタバイの家から出ておりました。
村人は家の中に入り、冷たくなって死んでいるシュタバイを発見しました。
そのシュタバイの体から、このうっとりとするような芳香(ほうこう)が発散されていたのです。
しかし、村人がもっと驚いたことには、死んだシュタバイの傍らにはその地域に生息しているいろいろな動物が娘の死を悼むかのように静かに付き添っていたことでした。
鹿もおりました。
猿もおりました。
色とりどりの鳥もシュタバイを覆い隠すようにシュタバイの体にとまり、色鮮やかな羽根で死んだシュタバイを飾っておりました。
ウツコレルがこの光景を見て、毒づきました。
「シュケバンのような堕落した女からこんな甘美な芳香が出るなんて私は信じないわ」
そして、死んだシュケバンから発散されるのは腐敗臭だけであり、この良い匂いはきっと悪魔の仕業よ、とも言いました。
また更に、こんな女からこんな良い匂いが出るのなら、私が死んだら、私の体からはもっともっと良い匂いが出るはずよ、と付け加えることも忘れませんでした。
シュタバイの埋葬にはほんの一握りの村人しか立ち合いませんでした。
シュタバイの死を悼むということではなく、単なる憐れみから参列しただけでした。
しかし、埋葬の翌日、村人は信じられない光景を見ました。
シュタバイの墓はこの地域では見たことのない、芳香を発する美しい花で覆われていたことです。
香り高い花がまるで滝のようにシュタバイの墓をすっかり覆い尽くしておりました。
そして、この香りはずっと長い間、この地域を満たしていました。
時が過ぎ、ウツコレルが死にました。
ウツコレルの葬儀にはシュタバイの葬儀とは異なり、ウツコレルの気高さ、純潔さを常に尊敬していた村人全てが参列しました。
多くの人々がウツコレルの死を悼(いた)み、心の底から嘆き悲しんで泣きました。
自分が死んだら、シュタバイよりもずっと良い香りを体から発散させると言ったウツコレルの言葉を思い出した村人も大勢(おおぜい)おりました。
けれど、そのようなことにはなりませんでした。
死んだウツコレルの体はすぐ腐り出し、吐き気を催すひどい臭いを発散し始めたのです。
村人は鼻を突く腐臭にうんざりし、鼻をつまみながら、家路に着いたということです。
シュケバンと罵られたシュタバイのお墓に咲いた花こそ、香り高いシュタベントゥンであり、野草ではありますが、慎ましくも美しく、今もユカタンの地に咲いております。
そして、その花の果汁と香りはユカタンのお酒となり、シュタバイの愛に満ちた人生のように香り高く、人々を陶然とさせています。
一方、ウツコレルの墓から発芽した花はツァカムと言い、棘(とげ)だらけで触れることも出来ず、且つ吐き気を催させるような悪臭を放つサボテンとなりました。
それはあたかも、品があると見なされた女の本性と見せかけの貞節を象徴しているかのようです。
――――――――――――――――――――――――――――――

 これで第一話はお終(しま)い、とアレハンドロは言った。
 緑茶を美味しそうに飲む彼に、私は言った。
 「シュタバイにはもう一つ別な伝説もあると聞いているよ」
 アレハンドロは笑いながら私に答えた。
 「マヤの妖怪伝説のことだろう。セイバの樹の下に隠れていて、夜、旅人が通ると甘い愛の言葉を囁き、誘惑し、魔法をかけて最後には旅人を殺してしまうという美しい女妖怪の伝説だ。シュタバイに恋した旅人は一夜の契(ちぎ)りの後、代償として、翌日鋭い鉤(かぎ)爪(づめ)で胸を切り裂かれた死体となってセイバの樹の下で発見されるのさ」
 「アレハンドロはシュタバイに遭ったことがあるかい?」
 私の馬鹿な問い掛けにアレハンドロは大真面目な顔をして答えた。
 「無いよ。もし遭っていたら、今こうしてジュンと話していないよ」
 私たちは大笑いした。
 すると、マリアも少し笑ったように思えた。

第二話 サーシル・エーク

 「ジュン。マリアが夕べここに居た理由を知っているかい?」
 「カルメンが家を留守にしたためだろう」
 アレハンドロが声を潜めて私に言った。
 「違うんだよ。カルメンがボーイフレンドを家に連れて来たんで、マリアは家の外に追い出されたんだよ。門のところで、独りでぼんやりしていたんで、わしがここに来ていいよと呼んだんだ」
 「マリアは今夜も来るかな?」
 私はコーヒーを紙コップに注ぎ、アレハンドロに手渡しながら、言った。
 後、一週間足らずで、このメリダを去ることにしていた私は緑茶、コーヒー、紅茶といった類は全て飲み尽くすこととし、今夜はコーヒーを少し濃い目に入れて、ポットに持参して来たというわけだった。
 マリアにも飲ませてあげたいと思っていた。
 香り豊かなコーヒーを二人で味わいながら飲んでいるところに、マリアがおずおずと現われた。
 アレハンドロが手招きすると、静かに入って来て、昨夜同様、ハンモックにちょこんとお尻を乗せてゆらゆらと座った。
 私がマリアのために紙コップにコーヒーを注ぎ、アレハンドロがマリアに手渡した。
 子供にはこれを加えた方がいい、とアレハンドロは冷蔵庫から牛乳を取り出して来て、マリアのコップにたっぷりと牛乳を入れた。
 「さて、聴衆もそろった。では、第二話を始めるとしようか」
 アレハンドロが美味しそうに、コーヒーを一口飲みながら私たちに言った。

――――――――――――――――――――――――――――――
 マヤの古い都市であるウシュマルには一人の女を石に変えたという驚くべき伝説があります。
 或る午後のことです。
 サーシル・エークという美しい娘が居ました。
 ユカタン半島で一番美しいと言われる漆黒の眼を持つ若い娘でした。
 そのサーシル・エークはセイバの樹に凭(もた)れ、ユカタンの美しい風景を眺めておりました。
 白いウイピル(マヤの貫頭(かんとう)衣(い))を着て、シジュウカラのように美しい黒髪と対照をなす小さな紅い花を一本手に持っておりました。
 時々、サーシル・エークの眼は北に向けられました。
 今日、ウシュマルに繋がるこの道を通るはずの恋人を待っていたのでした。
 その恋人のことを思う度、サーシル・エークの胸は高鳴りました。
 「どうして、こんなに遅いの?」
 彼女は甘い声で恋人に囁くように呟きました。
 「天は私を罰しているのかしら? 私の部族から見たら、敵の部族であるあの人を愛してしまったことに対して、天は私を罰しているのかしら? 待ち焦がれている私をこんなに待たせるなんて」
 サーシル・エークの美しい目から二つの涙が褐色の頬を伝って流れ落ち、ついには放心のあまり、手に持っていた紅い花を足元に落してしまいました。
 すぐに、その花を拾い上げ、心の安らぎを得るかのように、しっかりと胸に抱き締めました。
 カカルテカトゥル、と呟きました。
 彼女の恋人の若者の名前でした。
 その若者はユカタン半島の東部の部族に属し、サーシル・エークの部族とは敵対している部族の若者でした。
 今日、サーシル・エークに会うためにこの道を通るはずでした。
 しかし、いくら待ってもカカルテカトゥルは来ないのです。
 突然、あたりが暗くなりました。
 サーシル・エークには夜の闇が時を早めて訪れたのかと思われました。
 闇の中に、一人の男の姿が浮かび上がりました。
 それは、部族の首長で、サーシル・エークの父親でした。
 サーシル・エークは嫌な予感に襲われました。
 父は暫くサーシル・エークをじっと見つめていましたが、やがて意を決したかのように深い沈黙を破って、彼女に言いました。
 「愛する娘よ。私の肉の一部よ。お前は自分の不運を嘆き、孤独の中に自分自身を見出すがよい。わしは、お前が敵の部族の一人を愛してしまったことを知っているのだ。それは決して許されない愛だ。ユカタンの美しい花と呼ばれた我が娘よ。お前は純潔を冒涜(ぼうとく)すると共に、部族の名誉も汚した。今、お前は罰を受けなければならないのだ」
 サーシル・エークは悲しみのあまり、救済を求め、叫びました。
 自分自身のためばかりでは無く、彼女のお腹に宿した新しい生命のためでもありました。
 父は彼女の言葉に耳を貸そうともせず、冷ややかに告げました。
 「不幸なその生命もまた死ななければならない。それは二つの部族の不幸な果実、二人の敵同士から生まれた不幸な胎児(たいじ)であり、生きることは許されないのだ」
 その言葉を聞いて、サーシル・エークは絶望のあまり、気を失って、その場に倒れ伏しました。
 やがて、部族の偉大なる神官が現われ、気を失ったサーシル・エークを抱きかかえ、神殿の西にある洞窟に運び、娘の半身をこのような恐ろしい言葉と共に、胸から上を地上に出した状態で埋めました。
 「娘よ。部族にとって悪となったお前は我々の神によって石に変えられる。来るべき時代が来るまで、罰としてお前は石に変えられる。お前が悪い手本となり、部族の敵を愛する娘たちは、呪われ、その報いが死であることを知ることになるだろう」
 その後、ウシュマル遺跡の建造物の床に石となって半身を埋め込まれている美しい娘が居るという言い伝えが残されました。
 毎晩、その石から、叶えられなかった愛を悲しむ深い溜息が洩れ出てくると云う伝説が残されました。
――――――――――――――――――――――――――――――

 「この話はこれでお終い」
 アレハンドロが私とマリアに言った。
 「サーシル・エークの恋人、カカルテカトゥルは一体どうしていたんだろう?」
 私はアレハンドロに訊ねた。
 「恐らく、サーシル・エークに会うために部落を出た時に、部族の誰かに見咎められたのだろう。そこで、部族の掟を裏切る行為として、幽閉されたか、処刑されてしまったか」
 「アレハンドロ、次の質問。サーシル・エークが石から甦るとされる《来るべき時代》はもう来たのだろうか、それとも、まだならば、いつ来るのだろうか?」
 アレハンドロはコーヒーを美味しそうに飲み干し、私に言った。
 「誰も知らない。神様だけが知っている」
 そう言って、大きく肩を竦めた。
 眼鏡の奥の眼が笑っていた。
 
第三話 イシュタブとホルカン

 三日目、私は紅茶をポットに入れて持って行った。
 マリアは私より早めに来ていて、いつものハンモックに腰を掛けてお話を待っていた。
 「おや、今夜は紅茶かい?」
 「一昨日は日本の緑茶、昨夜はコーヒー、そして今夜は紅茶だよ。何故か、分かるかい、アレハンドロ?」
 「日本に帰る間際の在庫処分だろ、ジュン」
 「当たり。アレハンドロの言う通り、在庫処分さ。でも、なかなか無くならない。残ったら、貰ってくれるかい?」
 その時、おずおずと、マリアから声がかかった。
 私もアレハンドロも、マリアが話したことで少し驚いた。
 「緑茶が欲しいわ。日本のお茶だから、きっとママは喜ぶはず」
 「よし、いいとも。緑茶も大分残るはずだから、マリアにあげるよ」
 私が言うと、マリアはとても嬉しそうな顔をした。
 私は何だか、すごく良いことをした、という感じになった。
 いつもは、カルメンにどちらかと言えば、邪慳(じゃけん)にされていると思っていたマリアが、日本のお茶で珍しいから、ママはきっと喜ぶはず、ママの喜ぶ顔が見たいという一心で勇気を奮って、私に欲しい、と言ったのだ。
 アレハンドロも何かほのぼのとした感じを受けたのか、何とも言えない微笑を浮かべて、マリアを優しく見詰めていた。

――――――――――――――――――――――――――――――
ホンデュラスのウルア川の支流、ヒカトゥージョ川の険しい峡谷に、マヤのヤマラという部落がありました。
 ヤマラという名前はマヤの人々にとっては郷愁を誘う名前です。
 そこに、ひざまずいて天空の大きな星に向かって弓を引いて矢を放つ逞しい戦士の伝説が残っています。
 その伝説は、ヤマラの戦慄(せんりつ)すべき滅びの歴史と、星に向かって矢を放つ戦士の鮮烈な愛と悲劇的な最期を物語っています。
 ヤマラは周囲を渓谷に囲まれた高い山の頂にあり、人々は鬱蒼(うっそう)とした深い森に住んでおりました。
 働き者が多く、人々は信仰深く暮らしておりました。
 髭を生やした人々(スペイン人)が自分たちの先祖伝来の地を踏むといういかがわしい予言にも煩(わずら)わされること無く、静かに暮らしておりました。
 その部落にはイシュタブという十七歳の美しい娘がおりました。
 娘の父は部落の首長で、たいそう思いやり深い人物として知られていました。
 また、娘は近隣の部落の何人もの貴族の子弟に求婚されておりました。
 彼女の美しさはあたかもククルカン神から隠れるようにしながらも、厳かな輝きを失わない明けの明星に例えられるほどでした。
 そして、彼女は切れ長で深みのある栗色の大きな眼は、あたかも樫(かし)の木の葉の囁(ささや)きを聞きながら流れていく河の淀(よど)みのような神秘的な深みをいつも湛(たた)えておりました。
 彼女の小さめの口は最も純粋な血のように赤く、白い歯は濡れた唇の後ろで覗かせる乙女の真珠の首飾りのようでありました。
 成人の儀式も済み、腰には結婚出来ることを示すと共に、純潔を示す腰紐を締めておりました。
 その若い娘は「ヤマラの花」と言われ、求婚者はたくさんおりましたが、娘の父は、毎年夏になって収穫が済んだ後を狙って、その収穫物を略奪するためにマヤの都市を襲って来るメシーカ族に対抗するための同盟を結ぶこととし、そのために、娘を同盟の相手として有力な都市テンコアの首長に嫁がせることに決めていました。
 でも、娘には愛する恋人が居ました。
 彼女は容姿端麗なホルカンという若者を愛していました。
 ホルカンも彼女を愛していました。
 ホルカンは部族の戦士の長でありました。
 二人はツォルキンの祭りで知り合いました。
 イシュタブはその祭りの儀式に他の同年齢の娘と一緒に加わっていました。
 ホルカンは焚き火に照らされて輝く顔を惜しみなく見せて踊るイシュタブに心を奪われました。
 香炉の中ではコパル樹脂の玉が燃え、薫り高い芳香を発していました。
 しかし、野に咲く花と薔薇の樹の皮のエッセンスを一身に浴びたイシュタブの褐色の膚から発散する芳香には到底及びませんでした。
 厳かで神聖に行われた儀式の後で、ホルカンはイシュタブに求婚しました。
 しかし、娘は父の命令でテンコアの首長に嫁ぐこととなっており、父の命令はマヤでは絶対的であり、逆らうことは出来ませんでした。
 二人には悶々とした日々が続きました。
 そんな或る日のことです。
 何人かの伝令がぞっとするような知らせをヤマラにもたらし、人々を恐怖の坩堝に叩き込みました。
 メシーカ族がマヤの都市を襲うべく、鷲の羽根飾りを被って、接近しつつあるという知らせでした。
 戦闘指揮官であるホルカンは戦士を集め、防衛軍を編成しました。
 それと共に、女と年少者には安全な場所に避難するよう命じました。
 別れに際して、イシュタブは涙ながらにホルカンに言いました。
 「ククルカンの神があなたをお守りしますように。そして、メシーカ族を打ち負かし、無事に帰還出来ますように。さもなければ、私は天に召され、天の暗闇の中で永遠にあなたを照らす星となりましょう」
 しかし、メシーカ軍はマヤ防衛軍より圧倒的に優勢で、防衛軍はウルア川のほとりで散々に打ち負かされてしまいました。
 その結果、ヤマラへのメシーカ軍の進軍はたやすいものとなり、ヤマラの都市はほとんど抵抗することなく陥落してしまいました。
 イシュタブと彼女に従った娘たちはメシーカ軍の容赦の無い残虐な陵辱(りょうじょく)にさらされました。
 それはあたかも、強風に薙(な)ぎ倒された花と同じような運命でした。
 ホルカンは軍を建て直そうとしましたが、時既に遅く、ヤマラの地は死体が散乱する焼け野原となっておりました。
 彼はイシュタブを失った悲しみとメシーカ軍に敗北したという苦しみのあまり、発狂してしまいました。
そして、天に向かって頭を上げて、優しく瞬(まばた)くかのように天高く輝いている星をじっと見詰めていました。
 ホルカンは既に発狂しており、その輝く星が愛するイシュタブの輝く魂であると思い込みました。
 その日から、ホルカンは毎晩矢をたくさん持って、山の頂に登り、天に輝く星に向かって、弓を引き絞り、一本、また一本と矢を射始めたのです。
 時々、矢が天空に向かって放たれるや否や、流れ星がさっと空を横切って流れていくこともありました。
 気が狂ったホルカンには、放った矢が星に当たったものと思われ、元気づけられました。
 ヤマラの人々は言いました。
 「ホルカンが星を射落としているのだ」
 そして、或る夜のこと。
 山の頂に立ったホルカンがいつものように弓を引き絞り、矢を放つと同時に、流れ星が地上に落ちて来ました。
 ホルカンはやっと自分の願いが実を結んだものと思いました。
 イシュタブが地上に帰って来たと信じたのです。
 その流れ星は遥か下を流れている川の静かな深みに落ちて行きました。
 ホルカンはそれを捕らえようと思い、頂から水面に向かって、身を投じました。
 しかし、川は浅かったので、ホルカンの頭は水底の岩に当たって砕けました。
 愛する人を地上に戻すため、星に向かって矢を射る戦士の姿はこの後何世紀にもわたって、繰り返し語られ、ヤマラの伝説となっているのです。
――――――――――――――――――――――――――――――

 この話はこれでお終い、とアレハンドロは言った。
 「メシーカ族というのは、アステカ帝国のことだろう?」
 私の問いに、アレハンドロが答えた。
 「そうだよ。メキシコという言葉の語源になった部族だよ」
 「アステカの鷲(わし)の戦士とか、ジャガーの戦士は強かったんだろうな」
 「戦士の多くは貴族の子弟で、エリート階級。武器も装備もマヤより洗練されていたんだ。あの征服者、エルナン・コルテスの軍勢も手を焼いたと言われる戦士軍だよ。言わば、戦いのプロ集団だ」
 「日本にも、侍が居たよ。小さい頃から武芸を嗜(たしな)み、馬にも乗れたし、弓にも剣にも習熟していた。アステカの戦士、マヤの戦士に引けは取らない」
 「ジュンはどうだい。何か、武芸をやっていたのかい?」
 私は笑って答えなかった。
 ほんと、スポーツには縁が無かった。

 著者注記 この物語の主人公の娘の名前はイシュタブと言います 
 が、イシュタブというその名前はマヤの女神の名前でもあります。
 この女神は自殺の女神で、絵文書にも縄で首を吊った姿で描かれ
 ています。
マヤでは、死んだ後、天国に行けるのは神官、生贄(いけにえ)となった者、
戦死者、出産で死んだ女、そして自殺した者に限定されています。
その他の死因で死んだ者は一度地下世界に落ちて修行してから、
天国に行くとされているのです。
 自殺が奨励されていたとしか思えません。
 イシュタブという名前はマヤのその地方では一般的な名前だったのでしょうか。

第四話 ニクテ・ハーとカネック

 昼、セントロに行って、銀行の口座を解約してホテルに戻ってくると、家族から手紙が届いていた。
 父からの手紙で、いろいろと家族の近況が書かれてあった。
 みんな元気で、私の帰りを首を長くして待っているので、体に気をつけて元気に帰っておいで、と相変わらず几帳面(きちょうめん)な字で書かれてあった。
 手紙の末尾に、近所の幼馴染(おさななじみ)の女の子が最近結婚したということが追記として記載されていた。
 私は暫くの間、その文字を呆然と眺めた。
 正直に言うと、私はその女の子が大好きだったのだ。
 日本に帰ったら、思い切ってデートに誘おうかとまで思っていた。
 何だか、当てが外れ、急に日本が遠くなったような気がした。
 このメキシコで暮らした一年間という時間は結構長かったのだろう、と思った。
 それでも、気を取り直して、緑茶をポットに入れ、アレハンドロが待つ管理人事務所に行った。
 奥の家からマリアが急いで駆けて来るのが見えた。
 私はドアを開けてやり、マリアを先に入れた。
 受付の机の前でアレハンドロが私たちを迎えてくれた。
 「今夜はマヤの水の妖精の話だよ」

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 昔、マヤの人々が漸く集落を作り、集団で住み始めた頃、ニクテ・ハーはヨホア湖一帯を覆い尽くすお花畑の中で生まれました。
 ニクテ・ハーはヴィーナスと同じように、湖水の底から湧き出てくる泡と半透明の水の雫(しずく)から生まれ、ポチャポチャと音を立てながら湖面を滑るように歩きます。
 春の太陽で焼けるような地面から蒸し暑い蒸気が発散している四月の或る日のことです。
 鳥は鋭い声で鳴きながら、嘴(くちばし)を少し開け、水を求めて飛んでおりました。
 家畜は低い唸り声をあげ、野生のアヒルは藻の間を騒がしくガアガアと鳴いておりましたし、ピンク色の嘴をした水鳥もカマロテと云う水草の間を群れで動きまわっておりました。
 ずっと遠くの方で、太陽は隠れようとしておりました。
 そのような春の或る日、ニクテ・ハーは生まれました。
 うっとりとするような華麗な美しさを持った女が湖面から颯爽(さっそう)と立ち上がり、勝利の雄(お)叫(たけ)びにも似た声を高らかに上げたのです。
 その声は、湖水を滑り、山々に木霊(こだま)しました。
 その時、ヨホアの王子、カネックは湖の岸辺で釣りをしておりました。
 突然、湖面から眩(まばゆ)いばかりの幻影が湧き出るように現われたので、恐怖に囚(とら)われました。
 部落に走って帰り、今見てきたばかりの光景を古老に話しました。
 彼が話し終えると、古老が厳(おごそ)かに言いました。
 「それは、水の花で、水の神様の娘のニクテ・ハーですじゃ。すぐに帰って来られたのは賢明でございました。ニクテ・ハーに近づこうなんてことは考えない方が宜しいのです。近づくことは、彼女の父親の怒りを買うだけですからな。ニクテ・ハーは私どもに何ら悪さを致しません。それどころか、彼女の出現は良き収穫を予告するものですから、喜ばしいことなのです。彼女は騒々しい鳥を驚かすために、湖水の藻の間をぶらぶらと歩き回るだけですじゃ」
 しかし、古老のこの言葉はカネックの行為を妨げるものにはなりませんでした。
 カネックはニクテ・ハーにもう一度会いたいものと毎日カヌーを漕いで、湖に出たのです。
 彼女は毎日、彼の前に現われました。
 ちらりと彼に視線を走らせた後は、蝶と遊びながら湖面を逃げて行ってしまうのです。
 或る朝、カネックは誘惑に負けてしまいました。
 湖水からニクテ・ハーが出てきた時に、カヌーを近づけて彼女に語りかけたのです。
 「君が好きなんだ、ニクテ・ハー。君に心を奪われてしまったんだ。お願いだから、僕の言うことを聞いておくれよ。僕から逃げないで」
 ニクテ・ハーはほんの少しの間、立ち止まりました。
 彼女は滝の水のように心地よい声で彼に答えました。
 その声は美しい響きを持って彼の耳に届きました。
 「あなたが望むように、あなたを愛するなんて出来ないわ。ただ、私に会うことは出来るわ。でも、私に近づいちゃいけないわ。また、私を両手で抱き締めようとしても駄目よ。私から離れてちょうだい。さもないと、死ぬことになるわよ。あなたの溜息は私を溶かし、あなたの部落は罰として洪水で苦しむことになってしまうから」
 しかし、カネックの情熱は日に日に大きくなってきました。
そして、或る日の午後のことです。
 古老の賢明な言葉を忘れ、且つニクテ・ハーの警告をも忘れ、カネックは彼女を奪い取ろうと決心して湖にカヌーを浮かべてやって来ました。
 ニクテ・ハーがカネックのカヌーの近くに出現した時のことです。
 カネックは叫びました。
 「僕は君をさらいに来たんだ。もうこれ以上は我慢出来ないんだ」
 カネックは娘の姿を追って、湖水に飛び込みました。
 しかし、娘は一筋の靄となって消え失せてしまいました。
 その時、一本の丸太が彼の傍らに漂いながら流れて来ました。
 泳ぎを知らないカネックは両手でその丸太に摑まりました。
 そして、丸太の上に乗ろうとした瞬間、丸太は生命を得たかのように、激しく身を震わせ、カネックを払い落して、湖水に沈んでいきました。
 湖の岸辺には釣りをしていたヨホアの部落の人がたくさん居りました。
 皆、この光景を見て恐れましたが、王子カネックの死の証人となりました。
 この悲劇が部落で語られた時、或る人が言いました。
 「カネックは丸太だと思ったんだろうが、藻に覆われた巨大なイグアナだったんではなかろうか」
 この言葉を聞いて、古老が言いました。
 「いや、違う。それは水の神がニクテ・ハーに触れた者に与えた罰だったのだ。神の怒りを静めるためのお祈りをしに、湖に行こう。さもないと、我々の部落は洪水によって滅ぼされてしまうこととなる」
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 この話はこれでお終い、とアレハンドロが言った。
 私は訊ねた。
 「メキシコの神話、伝説には洪水とか地震で部落、都市国家が壊滅して滅びたという話が結構多いという印象を僕は受けているけど、古代、洪水とか地震はそんなに多かったの?」
 「神話に依れば、今の太陽は五番目の太陽だそうだ。少なくとも四回は徹底的な破壊をもたらした自然災害があったと見る方が妥当かな」
 「そう言えば、ユカタン半島の西の海上に巨大隕石が落ちて、世界全体の自然環境を変え、結果として恐竜を絶滅させたという話をどこかで聞いたことがあるよ。ユカタン半島に巨大津波が押し寄せたり、衝突で発生した塵が世界を覆い、氷河期に入らせて、恐竜時代に幕を引いたとか」
 傍らで、おやすみなさい、という小さな声を聞いた。
 見ると、マリアが眠そうな眼をして立っていた。
 私も、アレハンドロとマリアにおやすみなさいを言い、外に出た。
 ふと、夜空を見上げると、空には満天の星が広がっていた。

第五話 マー・シェク

 セントロの航空会社に行き、メリダからメキシコシティまでの飛行機の切符を買った。
 それから、郵便局脇の中央市場に行き、ハンモックをお土産として一つ買った。
 それから、カテドラル(カトリック寺院)の前の公園に行き、ベンチに座って、暫く本を読んだ。
 ふと、前方のS字形のいわゆる「恋人の椅子」に座っている日本人のカップルに気が付いた。
 留学生仲間の男女のカップルだった。
 仲間の間では噂となっていたカップルで、その仲睦まじげな様子は少し傍若無人(ぼうじゃくぶじん)といった印象を与えていた。
 妬(や)いているのかな、と思い、自分が少し嫌になった。
 
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 昔々、コパンがマヤの都市国家の盟主であった頃、輝くように美しい娘がおりました。
 あたかもエメラルドと見間違えるほどの緑の眼をしておりました。
 娘は高い身分の貴族の娘であり、聖なる香炉の世話をするよう命じられておりました。
 香炉の中では、薫り高いコパル樹脂が焚かれました。
 その煙は偉大なる太陽神であるキニク・アフを讃える儀式を崇(あが)め高めるものでした。
 この魅力的な娘が近隣の都市国家の王子を愛することで、信仰奉仕で最も大切とされた貞操と純潔の誓いを破ってしまったのです。
 信仰の道に入った娘は触れることが出来ない存在となり、純潔を守らなければならないという掟がありました。
 頭の片隅にでも性的な思いがあってはならず、たとえ、心の中においても、不道徳な感情を抱いてはならぬとされておりました。
 乙女の心が愛情の炎で燃え上がるということは、あってはならないことであり、決して許されることではありませんでした。
 そして、太古の昔から延々と続いてきた掟では、神に選ばれし乙女の純潔を汚した者には、太陽の光を擬して、金色に塗られた矢で射られ、死ぬという刑が課せられていたのです。
 また、その愛の相手となった女は神を冒涜した者として、社会的身分を失い、生涯を「未亡人の家」に閉じ込められて過ごすことになるのです。
 その王子は大広場で行われた「新しい火」を燃やす儀式の時に彼女を見ました。
 娘は青いチュニカ(服の一種)を着て、翡翠(ひすい)を吊り下げた海の貝の首飾りをしておりました。
 娘の美しい顔は太陽の光で輝いているように見えました。
 コパルが焚かれた香炉を揺らしながら歩いていく娘を見た時、あまりの美しさに王子は茫然となりました。
 「新しい火」の儀式が滞りなく終わり、人々が散り散りに去っていった時、王子は火のように燃え盛った想いを告げるために、その娘に近づいて行きました。
 「お前を初めて見た時から、私の愛は狂ったように燃え上がっている。もう、他の女なんか愛せない。お前こそ、今日から僕の人生で一生を通して僕を満たす女だ。僕と一緒に来て欲しい。この地を離れ、どこかに僕たちの部落を作ろう。そこで、僕たちは子孫を作り、新しい家系を打ち立てるのだ」
 娘も恐ろしい罰を忘れ、王子を愛してしまいました。
 愛故に二人は盲目となり、悲劇の鎖を解き放ってしまったのです。
 「私もあなたを愛しています。アー・キン・マイに太陽神への奉仕を放棄してもよいか、許しを請うことにしましょう。そうすれば、私たちは目出度く結婚出来ます。彼にお願いをしに、二人で行きましょう」
 しかし、その願いが聞き届けられることはありませんでした。
 例外はありましたが、その聖なる香炉に対する奉仕の役だけは別でした。
 例外は認められなかったのです。
 若い二人は、宗教上の掟に逆らって、リオ・アマリージョ(黄色い川)の岸辺にある洞窟の中で秘かに逢瀬(おうせ)を重ねました。
 しかし、或る日、二人は一緒に居るところを発見され、捕らえられてしまいました。
 王子は前に述べた矢による死刑を執行されました。
 そして、純潔を失った娘は掟破りの恥ずべき女として、誰一人会えないようなところに幽閉されました。
 一年が過ぎました。
 その日、娘は独りきりでおりましたが、胸に光り輝く虫が止まっているのに気付きました。
 見慣れぬ虫でした。
 娘は手に取って、悲しそうにその虫に訊(たず)ねました。
 「マー・シェク、お前は誰なの?」
 その見慣れぬ虫は清らかな声で答えました。
 「元気そうだね、安心したよ。怖(こわ)がってはいけない。僕だよ。僕はこんな格好になって、永遠にお前と一緒に居るためにここに来たんだ。もう、誰も僕たち二人を引き裂くことは出来ないんだ。僕のことは心配しないでいいんだ。僕は食べないし、飲むこともしない。このようにして、いつもお前の傍に居るよ」
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 さあ、この話はこれでお終い、とアレハンドロが言った。
 私は彼に訊ねた。
 「マー・シェクというのは、コガネムシのことかい?」
 「ジュン、その通りだよ。コガネムシは色が美しく、昔のマヤの若い娘たちは胸の飾りとしてその虫をペンダントのように吊り下げていたんだ。そして、コガネムシを永遠の愛のシンボルとして大事にしたということさ」
 「この伝説は禁じられた愛の伝説だね」
 「マヤの人々にとっては、宗教的には許されない愛の典型として、してはいけないよ、という意味で語られることが多いんだが、それでも、掟を破っても敢えて添い遂げようとする情熱こそ、愛であり、恋なんだ」
 こう言って、アレハンドロは突然黙りこくった。
 アレハンドロにも昔何かあったのかな、と思った。
 長い人生を送ってきたアレハンドロにも何か禁じられたロマンスがあったんだろう、と思った。
 ふと、マリアの方を見たら、マリアはハンモックに横たわり、静かに寝息を立てていた。

第六話 オヤマル

 今日は学校に行ってみた。
 学校は四月の初めまで授業が無く、学生もほとんど来ておらず、閑散としていた。
 私はセイバの樹の下に腰を下ろし、ぼんやりと追憶に耽った。
 「ジュン、いつ日本に帰るんだい?」
 振り向くと、そこに人類学を教えてくれたレペット先生が立っていた。
 明日、メリダを発ってシティに行き、それから日本に帰ります、と私は答えた。
 暫く、彼と話をしてから、私はホテルに戻って、荷造りを始めた。
 アレハンドロにあげる物、マリアにあげる物と、いろいろと分類し始めた。
 一年間の暮らしの中で、増えた物にはそれぞれ思い出があった。
 暫く、私はベッドに腰をかけ、それらの品々を見詰めた。

 「今までの五つの伝説は全てマヤの伝説だったが、今夜はオアハカのサポテカ族のお話だよ。これもロマンチックなお話だ」

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 永遠の恋を成就させた、サポテカの王子と太陽神の娘、王女の恋物語です。
 スペイン人がこの国に来るずっと昔のことです。
 メキシコで盛大に繁栄した強大な国がありました。
 サポテカ族の国です。
 その国の戦士は厳格な規律の下、近隣の国との多くの戦争で勝利を得て、ますます勢いを増していきました。
 他国から恐れられると共に、尊敬もされていた国でした。
 王には一人の王子が居ました。
 容姿端麗な王子で、踊りも上手で、且つ武芸にも秀でておりました。
 或る日、戦士軍も巻き込んだ重臣たちの反乱が起こりました。
 謀反の陰謀が王子の耳に入り、王子は直ちにその反乱に対する容赦ない闘いを決意しました。
 反乱の動きは国中に拡大し、王子の軍は苦戦を強いられましたが、敵方の油断を見逃さず、王子と彼の戦士は全面的な攻勢に転じました。
 反乱軍も正規軍の戦士を巻き込んでおり、勇敢に戦いましたが、結局は王子方の勝利に終わりました。
 それ以降、王子がサポテカ族国家の実質的な指導者となりました。
 王も年を取っていたので、王子を王位継承者に指名しました。
 国中の娘という娘は全てこの勇敢で容姿端麗な王子に憧れを持ちました。
 卑しい身分の娘から、高い身分のお姫様も全て、この王子に恋心を持ちました。
 でも、王子はどのような誘惑にも乗らず、且つどんなに美しく魅惑的な娘であったにせよ、女には一切無関心という素振りを見せていました。
 天上の星の世界にも、地上のこの勇敢な王子の名声は届き、星の世界で一番美しい娘がこのサポテカの王位継承者に激しい恋心を抱くようになりました。
 そして、この娘は王子のその人となりを実際に知るために、地上に下りることを決意したのです。
 この輝く星娘は朝まで待って、彼女の姉妹たちが寝静まる頃を見計らって、美しい人間の娘の姿になって、地上に下りて行きました。
 そして、或る日の午後のことです。
 王子は狩りに行った帰り道で、一人の百姓娘に遇いました。
 娘の身なりは百姓娘でしたが、全身は何となく輝いて見えました。
 王子は何気なくその娘に近づき、顔を覗きこみました。
 その瞬間、王子はその娘のあまりの美しさに目を見張り、思わず彼女に話しかけました。
 「お前の名前は何て言うの?」
 「オヤマル」
 と、娘は答えました。
 少し、娘と話をしてから、王子は宮殿に帰りました。
 翌日も、狩りの帰り道でその娘に会いました。
 そして、若い二人は恋におちました。
 或る朝のことです。
 王子は娘に求婚し、娘も躊躇なく王子の求婚を受けました。
 王子は娘を連れて宮殿に帰るや否や、父である王や大臣、重臣たちに娘を引き合わせました。
 王も娘のあまりの美しさに驚き打たれ、息子の願いを即座に受け入れ、明日の朝、盛大に結婚式を挙げよ、と命じました。
 一方、星の世界では、一番美しい娘の謎の失踪という事態に大いに悲嘆にくれておりました。
 彼女の失踪でいろいろと勝手な憶測もなされました。
 天上には居ないことが確かめられ、もしやと思い、地上を探すこととなり、地上に下りて探す者の人選も始まりました。
 それやこれやとしている内に、サポテカの容姿端麗な王子と不思議な娘の結婚という知らせがこの天の国にも入ってきました。
 不思議な娘の顔形はまさしく失踪した天の国の王女と一致しておりました。
 事態の重大さを前にして、父である太陽神は星たちを集めて協議しました。
 そして、事態を正確に把握した上で、このように言い渡しました。
 人間との結婚は許されない、この結婚を避けるために、このまま王子と結婚するようであれば、娘の残りの生涯は花となって終わるということを、あの娘に知らせよ、という結論になったのです。
 結婚式の前夜のこと、オヤマルが寝床に入っていた時、一陣のそよ風が窓からさっと入って来ました。
 オヤマルが寝床から起き上がって見ると、そこに彼女の姉妹の一人が精霊の姿で立っていました。
 そして、父親である太陽神の決定をオヤマルに伝えたのです。
 姉妹が去った時、オヤマルは大きな不安に包まれ、涙を流しました。
 でも、太陽神の怒りを恐れているにもかかわらず、王子に対する愛の方が勝りました。
 二人の結婚式は盛大に催されました。
 オヤマルは戦士の衣装を纏った凛凛しい王子の傍らで、婚礼衣装を身に纏い、光り輝いておりました。
 これ以上はないカップルだと見る者は全て思いました。
 翌朝のことです。
 王子が目を覚ましてみると、花嫁が居なくなっていました。
 王子は必死になって花嫁を探しましたが、花嫁は見つかりませんでした。
 数日が過ぎ、王子は愛する人の失踪を悲しみ、悲嘆にくれて泣くほか、すべがありませんでした。
 苦悩に打ちひしがれていると、天上の精霊が現われ、花嫁の本当の出自、太陽神の娘であることを王子に告げました。
 オヤマルは宮殿の傍にあるオアハカ湖の岸辺で、柔らかく繊細な茎を持つピンク色の美しい花となって、今深い眠りについている、と精霊は彼に告げました。
 この予想だにしない、恐ろしい打ち明け話を聴いて、王子は深い絶望の淵に追いやられました。
 王子のあまりの苦悩はこの精霊の心を動かし、精霊は天上に戻り、太陽神にひざまずき、王子を愛する妻のところに行かしてあげて欲しい、と懇願しました。
 翌日のことです。
 王子の侍者は宮殿のどこにも王子の姿が無いということに気付きました。
 みな、必死になって王子を探しました。
しかし、王子は跡形も無く、消え失せていたのです。
 この伝説は、オアハカ湖の岸辺に咲くピンク色の花の傍らに、ほっそりとした茎を持つ紅い花が新たに咲いていた、という言葉で締めくくられております。
 その二つの花は、お互いの花弁に触れ合いながら、そよ風に揺れて咲いていた、ということです。
 今でも、咲いています。
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 「このお話はこれでお終い。これで全てお終いだよ。六日間、お話を聴いてもらって本当にありがとう」
 アレハンドロは静かな笑みを浮かべていた。
 「太陽神は娘を愛した王子の願いをこのような形で叶えた、ということですね。美しい伝説ですねぇ」
 私はすっかり冷えた紅茶を一息で飲み干して、アレハンドロに言った。
 「明日の午後、メリダ空港から僕は発つよ。メキシコシティに行って、二・三日ほどシティで留学生仲間と過ごしてから、日本に帰るんだ。アレハンドロ、本当にありがとう。六つの伝説は本当に面白かった。感謝しています」
 私はアレハンドロと握手をした。
 「聞き取りテストはどうだった?」
 「完璧に理解していると思うよ。ジュンは僕の最高の生徒だよ」
 アレハンドロが笑いながら私の問いに答えた。
 マリアも私の傍に寄って来て、私におずおずと手を差し伸べた。
 マリアの手は小さく可愛らしい手であったが、少し荒れていた。
 母に代わって、皿洗いを手伝っていたのかも知れない。

 翌日、一年間住んだホテルを出る時に、アレハンドロは涙ぐみながら、私にお別れの挨拶をした。
 「日本に帰っても、メキシコを、メリダを忘れないで。僕もジュンを忘れない。君はいい友達だった。アディオス、ジュン。アディオス、セニョール・ジャギヌマ」
 マリアは母親のカルメンと外出しており、お別れの挨拶は出来なかった。
 マリアが欲しがっていた緑茶はアレハンドロに渡しておいた。
 私はタクシーでメリダ国際空港に向かいながら、アレハンドロの言葉を思い出していた。
 ジャギヌマ、か。
アレハンドロの発音はとうとう最後まで直らなかったな。
ヤという発音は、どうしてもメキシコ人にはジャという発音になってしまう。
私は、セニョール・ジャギヌマ、だった。

 アレハンドロとは私が日本に帰ってからも、数年の間、クリスマスカードの遣り取りをした。
 しかし、その内にアレハンドロからのクリスマスカードが届かなくなった。
 その後も私は二年ほど彼にクリスマスカードを送ったが、返事はなく、その内にクリスマスカードを送ることをやめてしまった。
 マリアは元気に暮らしていれば、四十歳近くになる。
 マリアは市場で遊ぶのが好きな少女だった。
 きっと、今は市場で、野菜を売っているかも知れない。
 時々、メロンあたりにうるさくたかりたがる蝿をハタキで追っているかも知れない。
 そんなことを想像しながら、私はこの物語を書き終えることとする。
 アレハンドロから聴いたこのお話は、想像も出来ないほど、遠い昔のメキシコのお話である。
 お話に間違いがあったら、それは全て私に責任がある。
 私の耳の悪さと語彙に対する理解が乏しかったものとお許しあれ。

 思い出も悲しみも喜びも全ては時の流れと共に、いつかは消え去ってしまうものだ。
 私はこの思い出が、「時」という風に吹かれ、ゆらゆらと煌めき、陽炎のように消え去っていかない内に書き留めることとした。

 今ではもう随分と昔のこととなってしまった。
 でも、今でも私はメリダで暮らした一年を大切で特別な一年だったと思っている。
 決して、忘れない。


『語る男』

『語る男』 三坂淳一 作

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-01-09
Copyrighted

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