星月夜

『 星(ほし)月夜(づきよ) 』

 星月夜を見ると、思い出すことがある。
 随分と、昔のことだ。

 僕はその当時、メリダという街に住んでいた。
 メキシコのユカタン半島の東にある街で、ユカタン州の州都である。
 今は人口が八十万人を越える大都市となっているが、僕が住んでいた当時は三十万人足らずの中くらいの都市だった。
 職を求めて近郊の農村から人々が流入し、今も人口は増加の一途(いっと)を辿(たど)っている。
 昔はユカタン・マヤの都市国家の一つであったが、千五百四十二年にスペイン人のフランシスコ・デ・モンテホが率いる部隊によって征服され、スペインの植民都市となった。
 スペイン人は本国同様、街の中心地にソカロと呼ばれる中央広場を造り、壮大なカテドラル(カトリックの大聖堂)を建てた。
 そして、支配者モンテホは中央広場の南側に大きな館を造り、支配の本拠地とした。
 館の壁には現地民を踏みつけるモンテホと思(おぼ)しき人物のレリーフが飾られている。
 現地民としては不愉快なレリーフであろうが、このモンテホの館は、メリダの観光名所の一つとなっている。
 メリダのコロニアル(植民地)様式の建築が建ち並ぶ街並みは、昔は白い漆喰(しっくい)で塗られた家々が建ち並び、その印象から、この街はシューダ・ブランカ(白き街)と言う別名でも呼ばれていた。
 十九世紀から二十世紀にかけてこの街は、リュウゼツラン(竜舌蘭)から採れる繊維で作られるエネケン・ロープ産業で繁栄を極めた。
 エネケン・ロープはその頑強さから主に、船具の綱として使用された。
 そして、エネケン・ロープで財を成した商人たちは競って豪奢(ごうしゃ)な邸宅を建てた。
 この繁栄の名残(なごり)は今でも、市内を縦貫するパセオ・デ・モンテホ(モンテホ大通り)の両側に建ち並ぶ豪壮な邸宅に偲(しの)ばれる。
 大きな門があり、門から邸宅へはかなり急な階段を登らなければならない。
 邸宅は古代ギリシャの神殿を思わせる大きな柱によって支えられているかのように、傲然と豪壮な佇(たたず)まいを誇示している。

 だが、メリダの気候は僕のような異邦人には最悪の気候だった。
蒸し暑すぎるのだ。
 成田空港を飛び立って、メキシコシティに到着したのは七月の初旬だった。
 二週間ほど、メキシコシティ近郊にあるオアステペックという保養地で日本・メキシコの政府交換留学生としての研修を受けた。
 研修は全てスペイン語でなされ、イヤホーンからは同時通訳の日本語が流れていた。
 スペイン語に自信がある学生はイヤホーンを使わず、そのままのスペイン語で講義の中味を理解しようとした。
大学のスペイン語科に籍を置く僕はイヤホーンを使わなかった。
 高原にあるこの保養地の気候は温暖そのもので、僕には日本の春よりもずっと快適な気候であると思われた。
 ブーゲンビリアとかハイビスカスといった南国の花も鮮やかに咲き誇っていた。
 大きなプールがあり、プール脇には椰子の木が林立していた。
 椰子の木は見上げるほどに高く、てっぺんには椰子の実をぎっしりと実らせていた。
 日中は暖かかったが、夕方になると、風も吹き渡り、かなり涼しくなった。
 日中は春の暖かさを感じ、夜は秋の涼しさを感じた。
僕たちは最高の気候の中で二週間ばかり過ごしたのだった。
僕たち留学生は午前、午後のメキシコの歴史、経済などに関する講習を受けた後は、夕方から夜にかけては完全な自由時間となり、周辺の山道を散策したり、プールで水遊びをしたり、仲間と酒を飲んで談笑したりして、随分と気儘な過ごし方をした。
 プールには僕たち留学生の他、夏の盛りを涼しい保養所で過ごすメキシコ人の家族もいて、大胆な水着で肌を露出する娘たちもいっぱい居た。
 メキシコ娘は早熟で、十五歳ほどで立派な女性となる。
目の遣りどころに困った。
夜になると、同室の仲間とビールを飲みながらあれこれと談笑したものだった。
リゾート地ということで、ビールの値段は高いようであったが、日本のビールの値段と比べれば、それでも安かった。
米国でヤッピービールと呼ばれていたコロナの他、ボエミア、テカテ、ドス・エキス、ネグラ・モデーロといったビールが売店で売られていた。
僕はボエミアというビールが好みだった。
コロナには無いコクがあり、日本のビールに一番近い味がすると僕は思った。
一緒に来た社会人研修生からのビールの差し入れもあったりして、ビールには事欠かなかった。
ビールにはつまみが必要だ。
ビールのつまみとしては、日本から持ってきた柿の種とか煎餅が留学生のスーツケースから供出され、人気を博した。
派遣先の大学は異なっていたが、これから始まる異国での暮らしに皆、そこはかとない希望に胸を膨らませていたことは間違いなかった。
中には、山道散策の際、知り合ったメキシコ人の女の子の住所とか電話番号をちゃっかり訊いていた者もいた。
シティから来た女子学生で、訊きだした留学生もシティで研修することとなっていた。
酔いに任せ、俺はあの女の子と付き合うぞ、と宣言していた。
僕には女の友達もいた。
大学の同級生で、留学生の試験を共に受け、ここに一緒に来ていた。
純子という名前だった。
真面目な学生で講義ではいつも最前列の席に座っていた。
或る時、ノートを見せてもらったら、細かく几帳面な字で講義の要点がびっしりと書かれていた。
圧倒された。
成績はトップクラスで、僕がひそかに尊敬していたクラスメートだった。
ただ、留学生試験に応募した理由は分からなかった。
大学院に進むか、どこかの会社に就職するものとばかり思っていたのだ。
僕のように就職試験に失敗して、一年間遊ぶ積りでメキシコに来たわけでも無かった。留学生試験の会場で、彼女を見た時は正直驚いた。
後で、彼女に訊いたら、深い理由は無く、ただ、外国で一年間暮らしてみたかったの、という話だった。
はにかむように笑いながら、そう話していた。
日本にいた時はそうでもなかったが、このオアステペックに来て、僕たちの仲は急速に深まっていった。
明るく開放的なメキシコという国が持つ雰囲気が僕と純子を酔わせていたのかも知れない。
しかし、留学先の大学は異なっていた。
僕たち留学生の留学先の大学の選定はメキシコ政府の担当者に委ねられていた。
純子はメキシコシティのUNAM(国立メキシコ自治大学。ウナムと呼ばれていた)で、僕はユカタン州立自治大学だった。
留学生選考の際の書類に僕は何気なく、メキシコの古代文明に興味がある、と書いてしまった。
純子のように、ウナムでメキシコ経済に関する勉強がしたい、と書けば良かったのだ。研修先の大学を知った時、僕はとても後悔した。
僕の希望は完璧に採用され、ユカタン州立自治大学の人類学部でマヤの勉強をしなさい、という選考結果だったのだ。
ユカタン州立自治大学はメリダにあり、メリダに行くことになった僕は研究室の教授から同情された。
メリダか、メリダは蒸し暑いところと聞いている、まあ、頑張ってね、でも、体には気を付けてね、来年元気で帰っていらっしゃい、という言葉が教授から発せられた。
激励されたのかな、と思ったが、教授の顔を見て、僕はがっかりした。
教授は気の毒そうな顔をしていたのだ。
先が思いやられた。
先年、やはりユカタン州立自治大学に派遣された先輩の学生が教授にあれこれと愚痴を零していたらしい。
一方、純子は念願のウナムと決まって、大喜びだった。
シティは当時でも東京を凌ぐと言われる人口世界一の巨大都市であった。
巨大都市の夜景は素晴らしい。
メキシコシティ空港に到着する際、機長は粋なサービスをしてくれた。
ぐるりと、メキシコシティの上空を一周してくれたのだ。
夜だった。
盆地にあるメキシコシティは巨大な光の渦であった。
僕たちは百人を越す集団であったが、皆大いに喜び、感動した。
思わず、機内各所で拍手が沸き起こった。
この豪華絢爛な夜景を有する都市を首都に持つメキシコという国が一遍に好きになった。
巨大な光の渦、色とりどりに氾濫するイルミネーションの海、シティを囲む山々の頂(いただき)近くまで続く光の螺旋階段。
僕たちは東京とは異なった巨大都市が織りなす夜景に完全に圧倒されていた。

オアステペックでは雨はほとんど降らなかったが、一度だけ、凄まじい降雨に遭遇したことがある。
その日は珍しく蒸し蒸しする日だった。
夕方になって、黒い雲が上空を覆い始めた。
これは雨になるぞ、と思い、早めにプールから出て、食堂に入り、陽気なマリアッチ音楽に耳を傾けながら、コーヒーを飲んでいた。
その内、雷鳴が轟(とどろ)いたと思ったら、突然、雨が降り出した。
土砂降(どしゃぶ)りの雨となった。
風も強くなり、雨は斜めの水流となって食堂の窓ガラスを叩き、流れ始めた。
叩く音がうるさくなり、ガラスが割れやしないかと真面目に心配するほどであった。
でも、雷雨は一時間ほどでおさまり、黒い雲は高い山の方に去っていった。
暫くして、黒雲が向かった高い山の方で閃光(せんこう)がひらめいた。
稲光(いなびかり)だった。
強烈な稲光だった。
閃光は暗い夜空を切り裂くように現われ、数秒間、閃光画像として空中に留まっているかのように見えた。
今まで、見たことのないような稲光を僕はあっけにとられてただ見つめるばかりだった。原色の国と言われるメキシコでは、稲光もこのように鮮やかなのか、と心から思った。

純子と別れる日が近づいてきた。
僕と純子は一年間、異なる街で暮らすことになる。
オアステペックでの研修の最後の夜、僕と純子はプールサイドにある椰子の木の下で、お互いを抱き締め、初めてのキスを交わした。
夜空は綺麗に晴れ渡り、満天の星が地上に降ってくるような夜だった。
純子の眼が夜露に濡れたようにキラリと輝いていたのを今でも覚えている。
僕たちは黙ったまま、プールサイドのベンチに腰を下ろした。
何か、話さなくてはならないと思ったが、何を話したらいいのか、分からなかった。
ただ、黙って、純子と手を繋ぎながら、座っていた。
とても静かな星月夜だった。

翌朝、メキシコ政府が仕立ててくれたバスに乗り、メキシコシティに戻り、僕はメリダ・グループの仲間と共に、夕方の飛行機で、メキシコシティ国際空港からメリダに旅立った。
メリダ空港に着いた時は深夜だった。
機内から眺めたメリダの夜景はなぜか記憶にない。
つい、うとうととまどろんでしまっていたのかも知れない。
飛行機のタラップから降りた瞬間、僕は戸惑った。
眼鏡は一瞬にして曇り、これまで経験したことのないようなとんでもない蒸し暑さの中に居た。
ひでえな、おい、みんなでシティに戻ろうよ、と誰かがやけくそな声で叫び、僕たちは皆爆笑した。
とにかく、理屈抜きで蒸し暑かった。
うんざりするほど、蒸し暑かった。
空港には夜中であったにもかかわらず、メキシコ政府が手配してくれたホームステイ先の家族が僕たちを迎えに来てくれていた。
家族が運転する車に乗り、僕たちはそれぞれのホームステイ先に向かった。
僕のホームステイ先はメリダの中心地からはかなり離れたところにあり、寂しい住宅地にあった。
その夜、蒸し暑い部屋のベッドで僕は眠れず、何度も寝返りを打ちながら、暗い天井を見詰めた。
明日以降の暮らしに思いを馳(は)せ、なかなか寝付けなかったのだ。
窓は全て開け放っていたが、風も無く、蒸し暑い状態は変わらなかった。
汗でベッドのシーツが濡れ、べたべたと膚に吸い付くようで気持ちが悪かった。
ふと、天井の片隅で何か、光っているのに気付いた。
光は規則正しく、明滅を繰り返していた。
蛍だった。
強い光を放つ蛍であった。
メリダ最初の夜は蛍に迎えられた、と思い、僕は暗闇の中で微笑んだ。
明日から、どんな暮らしが待ち受けているのだろう。
期待と不安が入り混じった複雑な気分を味わっていた。
翌朝、床に小さな虫が転がっていた。
それは、昨夜の蛍の死骸だった。
日本で言えば、平家蛍のような小さな蛍だった。
何だか、嫌な気分がした。
それは、嫌な予感であったのかも知れない。

蒸し暑さは十月頃まで続いた。
涼しく、爽やかな日なんて、一日も無かった。
毎日、夕方となると、空が真っ黒になり、稲光がして雷鳴が轟いたと思うや否や、凄いにわか雨が市内を襲った。
うんざりするようなひどい雨だった。
英語では、シャワーと言うらしいが、僕にはこれが熱帯のスコールというものかと思われた。
二、三メートル先が見えなくなった。
中途半端な降雨ではなく、一瞬の間に道路が冠水し、川となった。
冠水した道路では、アメ車は動けなくなり、停まった。
その中で、快調に走る車は日本のダットサンとドイツのフォルクスワーゲンだけだった。
停まったアメ車を尻目にして快調に走るダットサンを見て、僕は急に愛国者となった。
日本の車は優秀だろう、どんなもんだい、と口笛でも吹きたいような気持に駆られたものだった。
日本に居る時は、日本が厭で堪らなかった自分がこの外国では日本を誇らしく感じる自分が面白くてならなかった。
人は外国に居ると、愛国者になるものだとつくづく思ったものだった。
しかし、そのスコールの後は例外なく、堪らない蒸し暑さがぶり返した。
べたべたと膚に貼りつくシャツを脱ぎ、裸で歩きたいと思うくらいの蒸し暑さだった。
こんな天気が三ヶ月ほど続いた。

雨季が去り、待ちわびた乾季が到来した。
メリダでの暮らしにも、人類学部での勉強にも慣れた頃、ようやく快適な季節が訪れた。
僕ばかりではなく、メリダの人たちもこの快適な乾季の到来を喜んでいた。
涼しい、とまでは正直思わなかったが、メリダの人たちの挨拶は、アセ・カロール(暑いね)から、アセ・フレスコ(涼しいね)という言葉に変わっていった。
もう、その頃にはスペイン語に関しては不自由を感じないまでになっていた。
映画館で観客が笑う時、僕も笑うことができるようにまで僕のスペイン語の能力は向上した。
日本の大学で三年間、スペイン語を勉強したのは無駄では無かったし、メキシコに来て三ヶ月ほど暮らす中で実際のスペイン語に日常的に触れることができたのもスペイン語修得には大いに寄与したものと思っている。
十月になり、スコール襲来も無くなり、日中、四十度もあった気温も三十度程度に低下するようになった。

十月中旬の土曜日の午後、僕はソカロの片隅にあるベンチに座っていた。
講義は月曜から金曜までで、土曜、日曜は、学校は休みで校門は閉ざされた。
平均気温は下がっているとは言え、日向(ひなた)のベンチには暑くて座っていられない。
木陰のベンチに座り、広場を歩く人の群れを眺めていた。
人々の中には、メリダ特有の民族衣装を纏った男女もかなり居た。
男はグアヤベラと呼ばれる襞(ひだ)の付いた白いシャツを着て、女はウィピルと呼ばれる貫頭衣のような衣裳を纏っていた。
南国らしく、いかにも涼しげな民族衣装だった。
ウィピルは白地を基調としていたが、色彩豊かな花模様の刺繍がふんだんに施されている。
刺繍の多くは機械刺繍であるが、中には、手で刺繍されたものもある。
手で刺繍されたものはその刺繍の数と色合いにより価格が持ち上がる。
機械刺繍品の三倍以上の価格であった。
そして、いかにも手が込んでいると思われる手刺繍のウィピルは僕のような学生には手が出せないような値段が付いていた。
買えるのは、企業から派遣されてきた社会人留学生くらいのものだった。

僕たちメリダ・グループは十人で、学生留学生が五人、社会人留学生が五人といった構成だった。
学生留学生の多くは日本の大学でスペイン語を専攻していた学生ばかりで、スペイン語には当然馴染(なじ)んでおり、日常会話程度は全員お手のものであったが、社会人留学生は会社がメキシコ人研修生を受け入れている関係で交換研修生として派遣されてきた人ばかりで英語はともかく、スペイン語にはこれまで馴染みのない人ばかりであった。
そこで、ユカタン大学としては、僕たち学生留学生用のカリキュラムと社会人留学生用のカリキュラムと、二種類のカリキュラムを設定し、クラスも完全に分けて授業を行なってくれた。
僕も一度、社会人留学生に対して行われている授業を覗いたことがある。
基本的な会話とか、文法の授業を行なっているのかと思っていたが、そうではなかった。
後から聞いた話では、社会人の留学生に対しては外務省がラテン・アメリカ協会に依頼して三ヶ月ほどの事前教育を日本出発前に施しており、初期のスペイン語教育は必要なかったらしい。
授業では、マルホという名の中年の先生が黒板を背に話していた。
マルホは詩人で、社会人留学生に対する授業の教師として臨時に雇われた人だった。
メキシコ人には珍しく、英語に堪能な男だった。
後から聞いた話では、お母さんと同居している独身の男でかなりのプレイボーイという評判を取っている男でもあった。
メリダの売春宿の幾つかを社会人留学生にこっそりと教えた、という話も聞いていた。
その授業では、日本の俳句に関してマルホが社会人留学生にあれこれと訊いていた。
社会人留学生の中には俳句を趣味として嗜(たしな)んでいる者もおり、芭蕉の有名な句を引き合いに出して、いろいろと説明していた。
『古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音』という俳句が紹介されていた。
会話は全て、英語で行われていた。
社会人留学生の中には省庁から派遣されてきた東大出の若手キャリア官僚もおり、中学校に入るまで米国で暮らしていたという彼は英語に堪能で、マルホとの会話では通訳の役割を果たしていた。
説明を聴いた後で、とても東洋的だ、素晴らしい、とスペイン語で呟くマルホの言葉も僕は聞いた。
マルホは長身ですらりとした体形をしていた。
メキシコ人は体形でその人のステイタスが或る程度判別できる。
裕福な人ほど、すらりとしている。
一方、貧しい人は例外なく肥満しているのだ。
貧しい人でも食に事欠いて、飢えるということにはならない。
庭先の木に、バナナもマンゴーも生っている。
それを取って喰えば、とりあえず胃袋は満たされるのだ。
但し、簡単に手に入るものは、炭水化物系統の食物ばかりで、大量に喰えば必ず肥ってしまう。
一方、金持ちは食に気を付けるだけの財力があり、肉などの蛋白質を摂りながら、栄養のバランスが取れる食事をすることができる。
従って、貧しい人ほど肥り、裕福な人ほどすらりとした体形を維持するという構図となるのだ。
僕も、道すがら、建築労働者が昼の食事として、バナナを何本か食べている様子を目撃したことがある。
バナナはその工事現場の庭にたわわに実っていた。
オレンジの木も、マンゴーの木も近くにあった。
貧困で苦しむ人でも、飢える心配はまったく無い国だった。

ウィピルと言えば、辛(つら)い話も仲間から聞いた。
社会人留学生の一人に関(かか)わる話だった。
彼には日本を出発する間際に、秘かな恋心を打ち明けた彼女がいた。
メリダに来てからも、彼は彼女に手紙を頻繁に出し、来年帰国したら結婚を前提に交際して欲しいと切ない思いを綿々と綴(つづ)った。
始めは軽口好きな男のほんの冗談だと思っていた彼女も次第に心を開き、彼に愛を感じ始め、帰国後の交際を了解するとの手紙を彼に出した。
その手紙を受け取った彼は嬉しくて堪らず、ソカロに出かけ、ウィピル専門店で手刺繍の高級ウィピルを彼女に土産として送るために買い求めた。
僕たち学生にはとても買える値段では無かったらしい。
その後、悲しい知らせを告げる手紙が彼の兄から先日届いた。
彼女の不慮の交通事故死を告げる手紙だった。
社会人留学生の仲間の一人が彼のホームステイ先の部屋を訪れた際、壁際に一枚の綺麗なウィピルが飾られており、冷やかし半分に訊いて、このようなことが判ったらしい。
帰国までのあと半年あまり、彼にとっては長い時間になる、と僕は思った。
メキシコは地球儀的に言えば、日本とほぼ反対側にある。
遠い日本が更に遠くなったに違いない。

メリダは征服されるまでは、誇り高いマヤの都市国家であった。
スペインの征服者は例外なく、征服した都市国家を完全に破壊して、痕跡すら残さない。
破壊した建造物の石材を利用して、新しい植民都市を建造していく。
それで、メリダにはマヤの遺跡らしい遺跡はほとんど残されていないが、メリダの近郊には古代マヤの有名な遺跡がそのままの形で何箇所も残されている。
スペイン人が乗り込む前に滅びた遺跡は、時間の風化には委ねられるが、征服者による破壊は免れ、一応はそのままの形で残る。
但し、熱帯地域では、草原は十年で密林になる。
遺跡はいつしか密林に覆われた廃墟と化す。
ユカタン半島には基本的に山は無く、一見、山とか岡に見えるところは全て遺跡であるとも言われている。
樹木を伐採し、掘れば、遺跡が現れるという話だった。
メリダ近郊のマヤの遺跡の中でも、チチェン・イッツァ遺跡とウシュマル遺跡は有名だ。
どちらにも、メリダからバスに乗れば二時間程度で行くことができる。
僕も八月に仲間と行ってきた。

チチェン・イッツァ遺跡は階段状のピラミッド型神殿で有名なところだ。
このピラミッド、カスティージョの頂上に立ち、周囲を見渡すと、一種異様な恐怖に襲われる。
それは、緑の恐怖だ。
見渡す限り、密林の原野が広がり、はるか彼方の地平線ですら、緑の線で現わされる。分厚く見える緑の下には、間違いなく、熱帯雨林の密林がある。
人間の侵入を固く拒み続ける密林はそれ自体が怪物であり、恐怖を抱かせる。
ピラミッドの頂上に立ち、周囲を見渡した僕は緑の恐怖をひしひしと感じていた。

春分とか秋分の日にはピラミッドの頂上から巨大な蛇が影となって降りてくる。
太陽が上がる角度によって生じる階段状ピラミッドの階段の影を巧みに利用して、そのような奇異な現象を意図してつくりだしたマヤの天文学は素晴らしいものだった。
天文台であったとされる遺跡も残されている。
近くには聖なる泉とされるセノーテという沼もある。
昔はこの沼に生贄(いけにえ)が捧げられた。
沼の底を探索したところ、夥しい人骨が見つかったという話もある。
生贄は自分が生贄となることによって、あの世で幸せになると信じて、進んで生贄となり、身を投じたらしい。
沼と言っても、平坦な沼ではなく、石灰岩の地面が陥没してできた沼で崖から水面までの高さは半端ではない。
二、三十メートルぐらいはある。
落ちたら、気を失い、そのまま溺死してしまうに違いない。
高所恐怖症である僕は崖の上に立って、真下の水面を見ると恐ろしさで身が竦(すく)んだ。
とてもじゃないが、自分から進んで崖から身を投じようなどという気にはなれない。

一方、メリダからは、チチェン・イッツァよりもずっと近いところにあるウシュマル遺跡は魔法使いのピラミッドと呼ばれる優美な形をしたピラミッドで有名な遺跡だ。
魔法使いが一夜で造ったとされるピラミッドだ。
遺跡の周りには、五、六十センチはあるイグアナが一杯いて、のそのそと重い身体を揺すりながら這いずりまわっていた。
イグアナは食用とされ、味は鶏肉と似たようなものだと、人類学部で知り合ったメキシコ人学生は言っていた。
グロテスクな外観には似合わず、あっさりとした肉質なんだろう。
でも、僕はとても食べる気にはならないが。

ふと見ると、僕が座っているベンチの脇に栗鼠(りす)がいた。
広場は木々に囲まれており、それらの樹木を住処としているのか、栗鼠が多かった。
栗鼠はつぶらな瞳で僕を見詰めていた。
栗鼠のキョトンとした姿は僕に微かな笑いを誘うものだった。
僕は微笑しながら、突然目の前に出現した栗鼠に心が癒されていくのを感じていた。
僕はその頃、純子のことでとても悩んでいたのだ。
純子と離ればなれになって、二ヶ月半になろうとしていた。
当時、携帯電話などという便利な通信手段はなく、パソコンといったものも無かった。
通信手段としてあったものと言えば、手紙か、電話といったものしか無かった。
手紙は一度か二度は書いた記憶があるが、メキシコの郵便事情は悪く、届くのに一週間程度はかかり、連絡手段として、愛のキューピッド足るには遅すぎる通信手段であった。
電話は、ここに着いた当初はホームステイ先の電話を借りることはできたが、学校には遠すぎるところにあり、通学には不便と感じて、そこを出て、今のアパートに移った時点で電話とは縁が無くなった。
純子が住むメキシコシティと僕が住むメリダとの間は遠すぎた。
メキシコ政府から貰う奨学金では、往復できる費用は捻出できなかった。
たまたま、社用でメキシコシティに行った社会人留学生は純子を市内で見かけたらしい。
独立記念塔近くのソナ・ロッサという繁華街で純子を見掛けたということだった。
彼は僕と純子の仲を知らなかった。
知っていれば、僕に言わなかったに違いない。
彼は僕と純子が同じ大学であることは知っており、好意で何気なく純子の消息を話したのだろう。
彼が見た時、純子は男と手を組んで歩いていたらしい。
男はかなりの長身で長い髪の日本人であったとか。
僕はピンときた。
男に心当たりがあったからだ。
オアステペックで僕と純子が語り合っている時に、挨拶してきた学生留学生がいた。
純子さんと同じ大学、ウナムに配属されました○○です、よろしく、と僕たちに自己紹介していた。
恐らく、彼だろうと僕は思った。
少し軽薄な感じがする男だった。
そして、その話を聞いてから、僕の心は揺れ動くばかりとなった。
それから、毎日が憂鬱になった。
いろんなことを想像しては、僕は苛立つようになった。
手を組んで歩き、そのうち、・・・、と二人の仲を邪推し、僕は苦しんだ。
愛は簡単に憎しみに変わる。
僕はいつしか純子を憎むようになっていた。
明確な理由も無く、憎しみだけが増幅されていた。
愛が深ければ深いほど、憎しみも増えて深くなっていくのだ。
オアステペックの夜を思い出せば思い出すほど、僕の心はせつなくなった。
坐っているこのベンチの周辺にはS字型のコンクリート椅子もある。
いわゆる、ラブ・チェアーであり、恋人たちはS字椅子に肩を触れ合わせるように並んで腰を下ろし、顔をお互いに向け、睦まじく話し合うことができる。
抱き合って、キスを交わすカップルも多い。
いつか、純子がメリダに遊びに来た時は、この椅子に誘おうと僕は心に決めていた。
しかし、その夢は儚い夢に終わりそうだった。
栗鼠は何かに怯(おび)えたらしい。
もしかすると、僕の眼が怖かったのかも知れない。
突然、すっと走り、視界から消えてしまった。
栗鼠にも嫌われたのか。
僕は苦笑した。

昼過ぎの空は青く、雲一つ無かった。
十月になって、少しは涼しくなったかと思ったのは、早計だった。
暑さはぶり返したようだった。
その暑さの中を、マルホ先生が歩いていた。
僕に純子の情報をもたらした社会人留学生と肩を並べて歩いていた。
鋭角的な顔をして鷲(わし)の鼻を持つこの詩人は傲(ごう)然(ぜん)とした様子で人混みの中を歩いていた。
ベンチに座っている僕に気が付いたらしい。
ニヤリと笑い、傍らの留学生に何か呟いた。
マルホ先生の言葉で、彼も僕の存在に気付いたらしい。
片手を上げて、僕に軽く挨拶した。
僕は座ったまま、微笑んで、彼らを見送った。
僕たち学生留学生と違い、社会人留学生は金を持っている。
メキシコ政府から支給される奨学金に加えて、勤務している会社からは通常の給料をそのまま貰っているのだ。
物価は日本の三分の一から四分の一といったこのメキシコでは裕福な暮らしをエンジョイできる身分だった。
いい身分だと僕たち学生留学生は妬み半分、そう思っていた。
マルホ先生を始めとして、教えてくれる先生方と頻繁に飲みにも行っているらしい。
社用と称して、メキシコシティにも一、二回は行っているはずだ。
羨ましい話だが、僕たち学生留学生にも恩恵はあった。
メリダには無かったが、メキシコシティには日本の食材を販売している店がかなりある。
そこで、日本の米に似たカリフォルニア米、葱(ねぎ)、糸(いと)蒟蒻(こんにゃく)、春菊、醤油などを買ってきて、すき焼きを振る舞ってくれたのだ。
肉はメリダの中央市場で売られており、日本と比べて随分と安く買える。
料理は女子留学生が担当した。
学生留学生は五人いたが、その内、二人は女子学生だった。
すき焼きパーティーの時は先生方も招待した。
炊いた米はお握りにして出す。
ボラ・デ・アルロース(ライス・ボール、お握り、おむすび)は、お世辞かも知れないが、結構美味しいという評判を獲得した。
メキシコの米はロング・グレイン種で細長く、炊いても粘り気が無く、パサパサとした米であり、おむすびには握れないが、カリフォルニア米は日本の米と同じショート・グレイン種で食感は日本の米と大差が無く、おむすびとして握ることができ、なかなか旨い。
そして、日本から持参した浴衣(ゆかた)姿でかいがいしく世話をする女子学生は大和(やまと)撫子(なでしこ)そのものだった。
馬子にも衣装、と言うつもりは無いが、可愛らしく見えたものだった。
もう、一ヶ月も前のパーティーだったが、その時は本当に楽しかった。
今の最悪の気分と比べたら、信じられないくらい、ハイな気分でその夜は過ごした。
その晩ほど、いろんな酒を呑んだ時はこれまでの人生の中では無かった。
ビール、ウイスキー、ワイン、テキーラ、カルーア、ラム酒に日本酒まで揃っており、みんなでわいわいと騒ぎながら大いに飲んだものだった。
しかし、飲んだ割にはそれほど酔わなかった。
何と言っても、外国に居る。
そんな緊張感が僕を酔わせなかったかも知れない。
社会人留学生の中にはギターの上手な人もおり、井上陽水の『二色の独楽』などを弾き語りで唄い、喝采を浴びた。
パーティーの最後には、メキシコを代表する歌『スィエリート・リンド(綺麗な青空)』を全員で合唱したのも懐かしい記憶となっている。

さあて、と。
感傷に浸ってばかりもいられない。
そろそろ、アパートに帰ろうと思った。
すっきりと晴れた空を見ながら、歩いた。
通りにはカラフルな色に塗られた家々が立ち並んでいた。
昔は、『白き街』という別名のように、家々の壁は白く塗られていたのであろうが、時代と共に、段々とこのようにカラフルに塗られてきたのだろうか。
ピンク、黄色、水色、橙色というように、パステルカラーに塗られた家々を横目で見ながら、僕はアパートへの道を歩いた。
暫くすると、額から汗が噴きだしてきた。
見上げると、雲一つ無い大空に強烈な日差しを放つ太陽があった。
太陽は情け容赦もなく、地上を照らす。
原色の国では、太陽も荒々しく、野蛮に振る舞う。
この太陽の下、生贄の乙女は崖から身を躍らし、聖なる泉・セノーテに身を投げたであろうし、生贄となる戦士はチチェン・イッツァのチャックモール像にその心臓を捧げたのであろうか。
そんな光景を頭に浮かべながら、僕は通りを歩いた。
メリダの街は分かりやすい。
通りは整然とした碁盤目の通りとなっており、南北、東西にそれぞれ偶数番、或いは奇数番の通り番号が付けられているので、通り番号さえ覚えていれば絶対に道に迷うことはない。
便利なものだ。

額の汗を拭うハンカチが少し重く感じ始めた頃、アパートに着いた。
アパートは白い塀に囲まれた敷地の中にあり、八軒ほどの小さな平屋で構成されていた。
その平屋の一つが僕の居室であった。
半透明のガラス戸を開けて入ると、前方に壁があり、中は見えない。
左側に通路があり、入っていくとキッチンがある。
キッチンの後方がワンルームの部屋となっている。
そして、奥にトイレとシャワーがあった。
アパートと言っても、アパート・ホテルのような感じで、毎日シーツの交換とか清掃がなされていた。
ウィルマという中年の女がかいがいしく部屋の面倒をみていた。
ウィルマには息子がいる。
今はコスメルという島に居て、何か技師の仕事をしているらしい。
息子は結婚して子供もいる。
年に何回かは、孫の顔を見せにメリダに帰って来る。
孫は本当に可愛いよ、ととびっきりの笑顔で話してくれた。
日本から何かの土産になるかなと思って持ってきた紙風船のセットをお孫さんに、とあげたら、とても喜んでくれた。

『ミ・カシータ(私の小さな家)』という名前のアパートで、人類学部へは歩いて五分足らずで行ける便利なところだった。
このアパートに移った時、メキシコ人の学生から、どこへ移ったんだ、と訊かれ、この名前を言ったところ、その学生は一瞬変な顔をして、それから、ニヤリと笑った。
その笑いの意味が解らなかった。
その後、大学の用務員のアントニオに訊いたところ、事実が判明した。
何でも、そのアパートは十年くらい前までは娼婦が客を取る娼家であった、ということだった。
ホームステイ先は学校から遠いところにあり、毎日バスで通っていたが、その内に嫌になって、学校近くに引っ越したいという気になり、引っ越し先を探していた。
そんな矢先、このアパートが目に入った。
それで、大学の近くに適当な物件を見つけたとばかり、僕は喜び勇み、いそいそと飛び込んで賃貸契約を結んだものだった。
でも、住み心地は悪くなかった。
悪くなかったと言うより、極めて良かった。
浴槽は無かったが、熱いお湯が出るシャワーがあり、水洗トイレも付いていた。
大きな冷蔵庫もあり、ガスコンロも二つあり、簡単な料理をすることが出来た。
大きなベッドがあり、巨大な鏡台があり、長大なハンモックを吊るす壁付きの金具も付いていた。
ベッドの真上には天井扇も付いており、回したまま、寝れば結構涼しく快適な眠りが約束された。
でも、よく考えれば、区切られてはいるものの、部屋としては一つしかなく、娼婦が客を取りながら暮らすといった感じもなくはなかった。
塀の出入り口は一箇所しかなく、その玄関のところには事務所のような部屋があった。
恐らく、十年前はこの事務所に怖いお兄さん方がおり、女の管理、客との金の遣り取りまでしていたのかも知れない。
今は、怖いお兄さん方はいなくなり、オチョワさんがちょこんと座っている。
彼は八十歳を過ぎた老人で、元小学校教師ということだった。
ユカタン人らしい体格の持ち主で、背は低いが、がっしりとした骨格を持っていた。
暇な時は、僕のスペイン語会話の練習台となってくれた。
但し、発音に関しては真似しないよう、僕は注意していた。
僕が大学で習ったスペイン語はスペイン本国の発音に基づいており、メキシコを含む中南米の発音とは一部異なっていた。
舌先を上下の歯で軽く挟んで発音するθの発音が中南米の発音には無く、全てSの発音で間に合う。
日本人には楽な発音であるが、これに慣れてしまうと、スペイン人からは植民地のスペイン語と馬鹿にされてしまうのだ。
その他、『予約』という単語一つをとってみても、中南米のスペイン語はすぐばれてしまう。
『予約』という単語には「レセルバスィオン」と「レセルバ」と二つあるが、英語ではリザベーションなので、英語の単語と似た「レセルバスィオン」と発音したら、駄目で、「レセルバ」と発音しなければならないのだ。
「レセルバスィオン」は中南米で使われる言葉で、スペインでは「レセルバ」という言葉しか使わないからだ。
その他、『ジュース』は「フーゴ」ではなく、軽く舌先を上下の歯で挟んで、θの形を作って、「スーモ」と言わなければならない。
他、『あなた方』は「ウステデス」ではなく、「ボソトロス」と言わなければならない。
メキシコのスペイン語は、発音は日本人にとって簡単だが、訛(なま)ったスペイン語でしかない。
スペイン人は国としての経済は落ち込んでいるが、無敵艦隊を誇ったかつての栄光故か、プライドだけは高く、中南米のスペイン語を話す人間に対しては軽く口を歪め、馬鹿にするのだ。
メキシコでも早口で話すシティの人間と比べ、ここユカタンの人はいらいらするほど、ゆっくりとした口調で話す。
聞く方としては楽でいいが、こんな口調でスペイン人に話したら、完璧に馬鹿にされてしまうのだ。
スペイン人はマシンガンのような口調でとにかく早口で話す。
早口で話すことが美徳であるかのような錯覚を抱かせる。
そして、将来のことを考えたら、メキシコ訛のスペイン語は使ってはならない。

それはともかく、オチョワ爺さんは暇を持て余しているとみえて、結構話し好きなお爺さんだった。
マヤの昔話をいくつか、僕に語って聞かせてくれた。
マヤは昔話の宝庫だ。
イシュタバイという女の妖怪がいる。
セイバという名前の巨木に住んでいる。
夜、旅人がセイバの樹の下を通りかかると、若い女の声で呼び止められる。
その声の方を見ると、若くて美しい女が樹の陰から現れる。
旅人は不審に思うが、若くて美しい女から甘い言葉をかけられて迷惑に思う男はいない。
女の魅惑的な言葉に乗せられて、一夜のアバンチュールを楽しむこととなる。
翌朝、ずたずたに喰いちぎられた旅人の無残な死骸がセイバの樹の下に横たわることとなる。
旅人にとっては、一夜の快楽の代償は自分の命だった、ということだ。
オチョワ爺さんはイシュタバイという言葉を発する時、シュの発音を唇を左右に引き締め、緊張気味に話していた。
マヤ語の発音には、シャ・シュ・シェ・ショというような歯擦音が結構多い。
メリダ特産の有名な薬草酒にイシュタベントゥンというのがある。
一種の蜂蜜酒だが、とても甘く、量は飲めない。
でも、体にはいいよ、とオチョワさんは話していた。
歯擦音は少し耳障りな音の響きとなるが、聞き慣れると、何だか幻想の世界に引き摺り込まれそうな気持にさせられる響きを持っていた。
イシュタバイ伝説の話を聞いた時、僕はオチョワ爺さんに訊ねた。
オチョワさん、そのイシュタバイに遭ったことはあるのかい、と。
オチョワ爺さんは僕の質問に笑って、こう答えた。
遭っていれば、今、ここにこうしてはいないよ、と。

セイバの巨木はユカタン大学の人類学部にもあった。
プールサイドの庭にあり、広大な木陰を僕たちに与えていた。
午後の授業の後、水着に着替えて、プールに飛び込み、汗を流してからセイバの木陰のベンチで一休みというのが僕の日課となっていた。
或る時、ベンチに寝そべっていたら、用務員のアントニオが脇を通りかかった。
背は低いが肩幅の広いがっしりとした四十過ぎの男だった。
不愛想な男だったが、なぜか日本人にはにこにこと微笑みを絶やさず、愛想が良かった。
僕はアントニオに、イシュタバイに遭ったことがあるかい、と訊いてみた。
若い頃はボクサーでならし、ここの用務員になる前はキャバレーの用心棒をしていたと言われるアントニオは広い肩を大袈裟に竦めながら、遭ってみたいと思っているんだが、どうも強い男は避けているようだ、と笑っていた。

僕が汗を拭きながら、アパートに辿り着いた時、オチョワ爺さんは事務所の机に肘をつき、うつらうつらと居眠りをしていた。
眼鏡をかけたままだったので、こちらを見ているのかな、と思ったが、近づいてみると、微かな寝息が聞こえた。
眼鏡の奥で、眼は閉ざされていた。
机の上には、アパートの住民の名簿があり、毎月の家賃の支払いの状況が一覧表の形で記載されていた。
家賃は二千ペソ程度であったが、僕の場合は政府留学生ということで千五百ペソにまけてくれていた。
細めのバゲットが一ペソ(十円ほど)、楕円形の大きな西瓜が二十ペソほどであったから、五百ペソの値引きはありがたかった。
事務所の奥の方にはハンモックがかかっており、マリアがハンモックを揺らしながら、漫画を読んでいた。
マリアが読んでいる漫画の表紙には見覚えがあった。
僕がソカロのキオスクで買った『トムとジェリー』の漫画だった。
読んだ後、マリアにあげたものだった。
もう随分と前になるが、今でも繰り返し、繰り返し、読んでいるらしい。
マリアは小学生になっていてもおかしくない年齢だったが、学校には行かず、ぶらぶらと過ごしていた。
オチョワ爺さんの話では、マリアはどうも知恵遅れの女の子らしかった。
僕の目には、そう知恵遅れの子供には見えなかったが、話してみればすぐ判るよ、とオチョワ爺さんは僕に話していた。
首が短く、ずんぐりむっくりといった体つきの女の子で、ロシアのマトリョーシカ人形を連想させるような子供だった。
顔立ちは良かったが、表情が乏しい女の子だった。
首が短いのは恐らく、ハンモックで寝る習慣のためだろう。
幼児の頃からハンモックに寝ていれば、首が押さえつけられ、結果的に首がめり込むこととなる。
彼女はイサベルという名前の母親と一緒に、一番奥の平屋で暮らしていた。
父親らしい男は見たことが無かった。
オチョワさんの話では、イサベルはマリアの父親とは別れ、今はソカロ近くにある雑貨屋で働いている、ということだった。
イサベルは美人だったが、いつも厚化粧をしていた。
男好きするような女だった。
でも、身持ちは悪く、僕も何回か、男を連れ込むイサベルの姿を見ている。
マリアはその都度、家の外に出され、門柱の石段に腰をかけて、ぼんやりとした表情で空を眺めていた。
空には月もあり、星もあったが、マリアの眼はぼんやりとしており、月も星も見ている様子は無かった。
僕が漫画の雑誌を何冊か、マリアにあげたのはそんな時だったように思う。

僕は自分のアパートに入り、シャワーを浴びて汗を流した。
腹が減っていたので、オレンジジュースを飲みながら、バゲットを齧(かじ)った。
随分と塩味のきいたバゲットだったが、暑さで大量に発汗する土地柄では、塩味はきいていた方がいいのだろう。
バゲットを齧り終えてから、マンゴーを剥(む)いて食べた。
その後、天井扇を回して、ベッドに横になって、少し昼寝をした。
久しぶりに、純子の夢を見た。
夢の中で、純子は男とボートに乗っていた。
男がボートを漕ぎ、純子は愉快そうに歌っていた。
ボートが進む先には水平線が見えていた。
沼でもなく、湖でもなく、海の真っただなかに二人はいた。
突然、純子は泣き顔になり、怖いから、もう帰ろうと言い出した。
男は僕だったかも知れないし、誰か別な男だったかも知れない。
純子の泣き顔を無視して、男はひたすらオールを持ち、漕ぎ続けている。
ふと、目を覚ました。汗を随分とかいていた。
僕はのろのろとベッドから這い出し、シャワーを浴びた。

シャワーの排水口で何か黒いものが動いた。
見たら、蠍(さそり)だった。
五、六センチほどの蠍が一匹、水飛沫に驚き、蠢(うごめ)いていた。
両方の爪を頭上にかざし、僕を威嚇(いかく)していた。
僕はそっと、シャワーから離れ、ベッドの脇に行き、サンダルを片手に握った。
それから、シャワーのところに行き、蠍に近づき、サンダルをその蠍に叩きつけた。
一撃で蠍は動かなくなったが、僕は何度もサンダルを蠍めがけて叩きつけた。
蠍は何度もサンダルに叩かれ、平べったくなって死んだ。
蠍をやっつけたのは、これで二回目となった。
北部の蠍とは違って、ここ、ユカタンの蠍の毒は弱い。
刺されても、蜂蜜をそこに塗るか、飲むか、すれば、大丈夫だよ、とオチョワさんは話していた。
真偽のほどは知らないが、その話を聞いてから、僕は蠍に対してはそれほどの恐怖は持たなくなった。
蠍より、ゴキブリの方が嫌だった。
ゴキブリは蠍より頻繁に目にしたが、蠍には慣れても、ゴキブリには結局のところ、慣れなかった。
とにかく、嫌らしい虫だ。
サンダルをかざすと、ゴキブリは敏捷に逃げてしまう。
蠍並みの大きな図体をしているが、動きはとにかく素早く、サンダル攻撃をひらりひらりと躱して暗闇の中に身を隠す。
今まで、一匹もやっつけられなかった。
ゴキブリはスペイン語では「クカラチャ」と言う。
英語のコックローチと同じ語源なのだろう。
メキシコでは『ラ・クカラチャ』という有名な歌がある。
ゴキブリという名詞は女性形なので、定冠詞はエルではなくラで、ラ・クカラチャとなるが、この唄はメキシコ革命の時に盛んに歌われた曲である。
革命戦争に立ち上がった兵士の後を、黒い鍋釜を背中にくくりつけてついて行った女たちの格好がゴキブリの行列にそっくりだったことに由来する唄だと言われている。
兵士の中には女たちの夫もいただろうし、恋人もいたのだろう。
せめて、戦闘の合間には手作りの料理を作ってあげたいという女心かも知れない。
ざっくばらんに言えば、従軍して商売をする娼婦たちもいたに違いない。
軍隊に女はつきものだ、という話を聞いたことがある。
兵士は過酷な戦いの合間に、一夜限りの恋を感じたのかも知れない。
例え、娼婦であっても自分に優しくしてくれる女に男は弱い。
その唄に合わせる踊りもあるが、そのステップは足でゴキブリを踏み潰すようなステップであり、笑いを誘う。
唄の文句の一部はこうなっている。
ゴキブリ、ゴキブリ、もう歩けない、だって、吹かすマリファナを持っていないし、無くなってしまったから。
マリファナという言葉がこの唄には出てくる。
当時から、マリファナはあった。
米国にマリファナが伝播したのは、これ以降のことかも知れない。

マリファナと言えば、このアパートでマリファナの売人に遭ったことがある。
つい先日のことだ。
僕がキッチンで西瓜を切って、食べていた時のことだった。
キッチンの窓をコツコツと叩く音がした。
窓の外を見ると、一人の若者が僕を手招きしていた。
何だろうと思い、外に出てみると、マリファナを買わないか、と僕に言った。
要らないと言っても、彼は良いマリファナだから買え、安くするから買え、としつこく僕に迫った。
彼の声の異常さに気付いた。
妙に甲高く、ハスキーな声をしていたのだ。
元々の地声なのか、マリファナをやって瞬間的に声変わりしたのかは知らないが、とろんとした目から見て、恐らくマリファナをやっているんだ、と僕は思った。
マリファナを吸って、かなりハイになっていたのか、やたら喋る男だった。
マリファナをやれば、ハッピーになれる、食欲が無くなるので、ダイエットにもなる、いつも満ち足りた感じになるので、嫌なことも忘れられる、麻薬とは違い、禁断症状は無い、安全な精神安定剤だ、と喋り続け、挙句の果ては、俺はコスメル島の出身だが、郷里に帰る金が無い、俺を助けると思って、買ってくれ、と懇願してきた。
買え、買うべきだ、買って欲しい、買ってください、とやたらうるさい男だった。
結局、買わなかったが、断るのに大分苦労したものだった。

蠍を紙でくるんでゴミ箱に片づけた後、僕はまた、ソカロに出かけた。
陽は大分西に傾いていたが、まだまだ暑さは残っていた。
でも、もう、スコールの季節は過ぎている。
僕はパナマ帽を被り、のんびりと通りを歩いた。
途中、馴染(なじ)みの喫茶店に立ち寄り、『アグア・デ・ハマイカ』と呼ばれる甘酸っぱい赤い飲み物と『パイ・デ・ヌエス』(ナッツパイ)を摂った。
奥のテーブルに仲間の女子留学生がいた。
ユカタン大学の医学部の学生とお茶を飲んでいた。
日本同様、医学部の学生はもてる。
特に、このメリダでは医学部の学生は超エリートと言っていい。
服装だって、きちんとしている。
Tシャツとジーパンといった格好は絶対しない。
襟の付いたシャツを着て、ブレザーを纏(まと)っている。
靴もピカピカに磨いている。
難関の医学部に入り、卒業したら確実に高収入が約束されているのだ。
彼女とはどこかの家のフィエスタ(パーティー)で知り合ったらしい。
ノビオ・ノビア(恋人)の一歩手前といった雰囲気で仲良く談笑していた。
メキシコ人の男から見たら、日本の女の子はとても魅力的に見えるらしい。
おしとやかで、温和で、微笑を絶やさず、優しく思いやりのある態度で接してくれる。
とにかく、日本の女性は神秘的なベールに包まれており、とても魅力的である。
僕にそう話したメキシコ人がいた。
僕は反論したくなったが、思い止まった。
そのように思っている人に冷水を浴びせる必要はない、と思ったからだ。
幻想を持つこと、それ自体、悪いことではない。
少しは幸せな気分に浸ることができる。

その店を出たら、夕暮れが迫っていた。
ソカロに行き、また、ベンチに座り、暮れていく空を眺めた。
空は夕焼けで茜色に染まり、よく晴れていた。
今夜は星が綺麗な夜になりそうだ。
カテドラルにも照明が当てられ、暮れていく空にくっきりとした姿を浮かび上がらせていた。
カテドラルの入り口からは大勢の人が入っていった。
今日一日が無事に済んだことを神様に感謝を捧げるために入っていくのだろう。
ふと、メキシコシティに行ってみようか、と思った。
親戚から貰った餞別が残っており、何とか旅費は出そうだった。
シティでの宿泊は友達のアパートに転がり込めば何とかなる。
シティに行って、純子と会い、彼女の気持ちを確かめたかった。
このメリダで、うじうじと思い悩んでいるよりはずっとましだと思った。
純子の気持ちが変わっていれば、その時はすっぱりと諦めよう。
同じ人生を歩むことができない。
ただ、それだけのことじゃないか。
純子には純子の人生があり、僕には僕の人生があり、交わる人生を持てなかったということだ。
ただ、それだけのことだ。
しかし、何か、しっくりとしなかった。
そう、簡単に割り切れるものではないよ、という声が心の奥で僕に囁(ささや)いていた。

広場に灯(あか)りが灯された。
黄色にボーと燈(とも)る灯りは妙にセンチメンタルな気分にさせる。
自分のこれからの人生のことを思った。
僕は大学四年度の過程を休学して、このメキシコに来た。
就職戦線を離脱してきたのだ。
スペイン語が活用できる商事会社系統を何社か受けたが、不採用の通知ばかりを受け取った。
日本の経済はオイルショック、ニクソンショックで華やかな高度成長期が終わったこともあり、文科系の学生にとっては厳しい就職状況が続いていた。
いくら採用試験に頑張ってみたところで、失望が増すばかりだった。
それなら、メキシコで一年を過ごし、来年の就職状況に賭けた方がいいのではないか、と思ったのだった。
来年はきっと、就職状況も改善されているかも知れない、という儚(はかな)い希望もあった。
来年、帰国したら、また商事会社か貿易会社を受けてみよう、と思っていた。
そして、純子が僕のノビアのままだったら、僕は必ず純子と結婚する。
そうでなかったら、僕は、・・・、どうしよう。
広場はすっかり暗くなり、涼を求めて人々が集まってきていた。
僕が座っているベンチの傍のS字型のラブ・チェアーでは恋人たちが抱き合って、キスを交わしている。
夜の広場に人々が集まり、思い思いの時を過ごす。
こんな光景は日本には無い。
街の中心に広大な広場なんて無い。
広場をまず造り、その広場を中心にして街が発展していくという文化は日本には無い。
あるとすれば、お城を中心にして城下町が形作られるといった程度だが、お城には庶民
は絶対に入れない。
僕は知らないが、メキシコのみならず、ヨーロッパももしかすると、そうなのかも知れない。
つまり、街の中心には必ず庶民が集う広場がある、かも。

 また、腹が減ってきた。
食欲旺盛は若者の特権だ。
そろそろ、夕食の時間だ。
 ホームステイ先ではそこの家族と同じ食卓で食事を摂ったが、ホームステイ先を出て、学校近くのアパートの越してからは、食事は自由気儘に摂っている。
 買い置きの食材を使って料理することもあるし、市場でデリカテッセン、惣菜を買ってきて食べることもあるし、街の食堂で外食することもある。
 外食といっても、貧乏学生のことだ。
贅沢はできない。
分相応の安食堂を選ぶことになる。
いろいろと情報交換して、安くて旨くて、しかも腹いっぱいになるような店を選ぶ。
 今夜はいつもの食堂にしようと思った。
市場近くにある食堂で、お世辞にも綺麗な店とは言えなかったが、安くて味が良かった。メリダに来た当初、留学生仲間と何気なく一緒に入った店だったが、僕は何となく気に
入っていた。
酒場だったが、食事も摂れ、雑然とはしていたが、アット・ホーム的な雰囲気が気に入り、週に一度か二度はその店で食事を摂っていた。
タコスが旨かった。
小麦粉のトルティージャでは無く、トウモロコシの粉を使ったトルティージャを店の片隅でマヤ系の女性がきちんと焼いて出していた。
 覆い布を取って、焼き立てで熱々のトルティージャを一枚手に取って、薄い牛肉の焼肉を何枚か載せて、サルサ・ピカンテ(辛いメキシカンソース)をたっぷりと振りかけて、巻いて食べるタコスの味は絶品だった。
辛いから、ビールを飲む。
また、タコスを頬張る。
 辛さに噎(む)せて、また、ビールを飲む。
この繰り返しが楽しかった。
 ビールはこれでもかと言わんばかりに冷たく冷やしてある。
或る時、飲もうとしたら、中味が出てこない。
おかしいと思ったら、中味のビールが凍って、シャーベット状になっていた。
冷やし過ぎだよ。
その時は思わず、笑ってしまった。
 僕はグラスには注がず、そのまま瓶口を唇に当てて飲んでいたが、仲間の中には飲み口は汚いと言って、グラスに注いで飲むのもいた。
 グラスは清潔だ、と一途(いちず)に思い込んでいる様子だった。
 
今夜は定番のタコスは止めて、ソパ・デ・リマとコチニータ・ピビルにした。
 ソパ・デ・リマは油で揚げたトルティージャと鶏肉が入ったライム味のスープで口当たりがさっぱりしていた。
コチニータ・ピビルは豚肉をスライスにして焼いた焼肉料理だった。
これに、細いバゲットが二本ほど付いた。
僕はボエミアというビールを飲んだ。
 美味しそうに食べる僕の様子を顔馴染みのウエイターがレジのところから愉快そうな表情で見ていた。
この店のような飲み屋のことをメキシコでは『バル』と言う。
 そして、バルに音楽は付きものだ。
ユカタンの音楽がかかっていた。
マリアッチのような勇壮さは一切無い。
甘く、切ない、恋の歌ばかりだ。
これでもか、と言うほど、甘ったるい愛の唄が多い。
失恋、片恋、相思相愛、とにかく、男と女の愛の唄ばかりだ。
 そして、ギターに合わせて、情緒たっぷりに歌われる。
 日本でも有名な『ベサメ・ムーチョ』という歌はユカタン出身の女性が作った歌だ。
 この曲を作ったのはコンスエロ・ベラスケスという女性で十五歳の時に作ったと言われている。
題名はずばり、いっぱいキスして、という意味だが、十五歳の彼女はまだ、一度もキスをしたことのない乙女だったそうだ。
音楽というものは不思議なものだ。
 十五歳の処女が作ったこの曲は今でも全世界で唄われている。
 『ベサメ・ムーチョ(いっぱい、キスして)』という唄の歌詞はこんな感じだ。

 キスして、キスして、いっぱい
 今夜が最後の夜のように
 キスして、キスして、いっぱい
 今夜限りで
 あなたを
 失ってしまうような気がしてならないの

 その時、バルにかかっていた曲は、僕の好きな『ソラメンテ・ウナ・ベス(ただ一度だけ)』という曲だった。
 歌詞はこんな歌詞だ。

生涯でただ一度の恋だった
ただ一度だけの恋、恋はそれっきり
たった一度だけの恋だったんだ
私の果樹園にその希望は輝いた
その希望は私の孤独に満ちた道を明るく照らし出してくれた
一度だけ、心をゆだねた
甘く、完全な自己犠牲で
この奇跡が、お前を愛するという奇跡を本当のものにする時
祭りの鐘が鳴り響き
心のなかで高らかに歌われるのだ

 その後は、『エジャ(彼女)』がかかり、これも僕の好きな歌だった。
 唄の歌詞はこんな歌詞だった。

彼女、とても愛してくれていた彼女は
私の心を音楽で魅惑した彼女は
私に、忘れて、と優しく頼んだ
憎しみも涙もなしに、忘れて、と
たくさんの夢を埋葬してきた私は
心のなかにたくさんの墓標をたてていた私は
心の奥底に、もうひとつの墓を掘るのに
なぜ、このようにすすり泣き、身を震わせるのか
わからないのだ

 歌詞を日本語に訳すと、こちらが照れくさくなってしまう。
でも、ギターを片手にバルを夜毎廻ってくる流しのトリオが唄うと、甘く感傷的な歌声に酔ってしまう。
ユカタンの曲は不思議な魅力に包まれている。
蒸し暑い気候に育まれた音楽で、何ものにも代えがたい一抹の涼風をもたらしてくれるのだ。
暑さを忘れさせてくれる爽やかな涼風だった。
 曲に合わせ、口ずさんでいると、後ろの方から声がかかった。
 振り返ってみると、学生留学生の仲間がいた。
僕を見て、笑顔を見せた。
 「相変わらず、この店かい。随分と気に入っているんだな」
 「うん、この店は安くて旨いんだ」
 彼は僕の前に座り、ポケットから何やら取り出した。
 「これ、知っているかい」
 「随分と大きな硬貨だな」
 「昨日、銀行に行って買ってきた。メキシコの百ペソ銀貨だよ」
 「百ペソ(当時の邦貨換算で千二百円)で買えるのかい」
 「兄貴がコイン・マニアでね。一枚、お土産に買った」
 銀貨で純銀二十グラムという刻印があった。
持ってみると、結構重い。
硬貨の重さは二十八グラムほどあり、銀の純度は七十二%ということだった。
 表に、メキシコ独立戦争時の英雄ホセ・マリア・モレーロスの肖像レリーフがあり、裏は、お決まりの、『サボテンの上で蛇を咥える鷲』がデザインされていた。
彼は硬貨を僕に見せびらかした後、じゃあ、月曜日に学校で、と言い残して去っていった。
 メキシコでは金貨も銀行で買えた。
学生の身分では到底買えなかったが、裕福な社会人留学生の中には、記念として買っている人もいた。
 金貨と言えば、僕は一つのエピソードを思い出す。
 日本で言えば、幕末の頃、メキシコには皇帝がいた。
 欧州の名門ハプスブルク家出身のマクシミリアン皇帝で、フランスの力を背景にして皇帝となった人物だ。
明治維新の一年前、千八百六十七年に虜囚となり、あえなく、処刑された。
処刑は銃殺であった。
彼は銃殺される前に、銃殺隊の一人一人に金貨を渡し、頭部は撃たないよう懇願した、と言われている。
銃殺後の死に顔が弾で損傷していたら、母が嘆き悲しむ、というのが理由だったそうだ。銃殺時の写真が残されている。
 マクシミリアン皇帝と二人の将軍の三人の前方に銃殺隊が銃を構えている。
 絵画では距離は至近距離に描かれているが、実際の写真では距離は相当離れている。
 皇帝の願い通り、心臓を狙って撃ったと思うが、下手糞な射手ならば、上に逸れなかっただろうか。
心配になるような写真だった。
 しかし、それにしても、昔の人は死に対して麻痺していたのだろうか、あまり、恐怖心を持っていなかったように思われる。
マクシミリアンも銃殺隊の前に平然と立っているように思えるし、メキシコ独立戦争、メキシコ革命戦争の時のエピソードを調べても、びっくりするほど、あっさり、そして簡単に死んでいくのだ。
 日本の場合もそうだ。
江戸時代の侍なぞは、武士道で言うところの廉恥(れんち)心(しん)故にか、こんなことでと思うほど、つまらない理由で、あっさりと腹を切って自裁してしまうのだ。
 メキシコでもそうで、知り合いでもないのに、銃殺される女の身代わりを買って出て、平然と葉巻を吸いながら、銃殺隊の前に立ったという男の逸話を聞いたことがある。
 信じられないほど、簡単に自分の命を投げ出す。
一体、どのような精神構造にあったのだろうか。
僕はバゲットをスープに浸して食べながら、そんなことを思っていた。

 食堂の壁にはいろいろなポスターが貼られていた。
牛の前に立ち、真紅の布、ムレータを差し出し、牛を挑発する闘牛士のポスターもあれば、薔薇の花を口に咥(くわ)え、男を嫣然(えんぜん)と挑発するカルメンのようなスペイン美人のポスターなど、べたべたと水色の壁に所狭しと貼られていた。
 趣味の悪いポスターばかりだったが、この安食堂というか、バルには案外似合っていた。
 僕は煙草を吸わなかったが、食堂の空気は紙煙草と葉巻の煙と臭いで汚染されていた。
 ここに来た当初は、煙草と安っぽい葉巻の臭いが喉に絡みつき、噎(む)せ返るようで嫌だったが、何回か通う内に段々慣れてきた。
慣れというのは恐ろしいもので、この悪臭もこの店の雰囲気にはぴったりだと思うようにもなってきた。
 これは、市場の悪臭にも通じる。
市場のことをメルカードと言うが、メリダに来た当初はメルカードの臭いに閉口した。物が腐ったような、饐(す)えたような悪臭にびっくりした記憶がある。
しかし、その内に慣れた。
市場に入り、饐えたような臭いを嗅いだ時、ああ、メルカードに来たんだ、という感慨
すら持つようになった。
臭いが嫌にならなくなった。
 壁には、幼子イエスを抱いたマリアのモザイク・タイル画も掛けられていた。
 マリアの肌は浅黒い。
煙草のヤニで黒っぽくなったのか、と始めは思っていたが、そうでは無く、始めから、マリアは浅黒い肌を持つ女として設定されたようだ。
 メキシコでは、マリアは一般的に褐色の肌を持つ聖母として描かれることが多い。
 グアダルーペ寺院の壁に掲げられている『褐色の聖母』はあまりにも有名だ。
 メキシコ人は同じ褐色の肌で描かれるマリアにとても親近感を持つのだそうだ。
 それで、この店のタイル画もグアダルーペの褐色の聖母に似せて、作られたのだろう。

 突然、高音の金属的な響きを持つ音が聞こえてきた。
 この店の片隅には、ビリヤード台があり、音はそちらから聞こえてきた。
 昼間はビリヤード台の方には人影はないが、夜になると、人が集まり、球を突き出す。
 ビリヤードは何か、胡散臭(うさんくさ)い感じがして、僕はゲームを見る気にはならなかった。
 首を傾げて見ると、人だかりの中で、ビリヤード・ゲームが始まったらしい。
 日本ではあまり、ビリヤードは流行っていないが、メキシコでは結構ビリヤードをする人は多いようだ。
中規模以上のホテルには必ずと言っていいほど、ビリヤード室があり、シャツ姿のラフな格好をした男たちが何人か、ビリヤードに興じていた。
 僕はビリヤードのことはあまり知らないが、ポール・ニューマン主演の『ハスラー』という昔の映画をどこか場末の映画館で観た記憶がある。
 キューで突かれた白い手球が一から九までの番号が付いた的球に当たり、的球が次々とポケットに吸い込まれていく様子はわくわくさせるものだった。
 一突き毎に、キューの先端を青色のチョークに押し当てて塗る様子も粋でなかなか格好良かった。
 ビリヤードに関しては、古い記憶がある。
父の会社の保養所にビリヤード室があったのだ。
保養所は軽井沢にあり、緑に囲まれた閑静な地域にあった。
 近くに、誰の別荘か知らないが、広大な庭園があり、モス・グリーンそのものと言った色合いで一面が苔に覆われていた。
子供心にも美しい苔だと思い、暫く立って見ていた記憶もある。
 さて、そのビリヤード室の記憶に戻るが、そこには誰も居らず、閑散としていた。
 子供は好奇心が強い。
僕は早速、中に入ってみた。
ビリヤード台には菱形の木枠に囲まれて、九個のボールが置かれてあった。
九個のボールにはそれぞれ番号が書かれている。
 一から九までの数字が書いてあった。
後で、父に訊いたら、恐らく『ナインボール』というゲーム用に並べられていたのだろう、ということだった。
 木枠を外し、白い球を九個のボール集団に当てて、ボールを分散させ、白い球を番号の若い順にそのボールに当てて、台の六ケ所の穴のどれかに入れ、最後の九番ボールを穴に入れた者が勝つ、といったゲームであった。
穴に入れ損なったら、打ち手が交代するという決まりだそうだ。
九個のボールはそれぞれに色分けされており、僕は綺麗だと思った。
 後で、九個のボールを『的球(まとだま)』と言い、白い球を『手球(てだま)』と呼ぶことを知った。
 また、六ケ所ある穴を『ポケット』、打ち手が手にする棒を『キュー』、チョークを付ける棒の先端を『ティップ』或いは『タップ』と言うことも知った。
 ゲームは『バンキング』(九個の的球を菱形にセットすること)、『ブレイクショット』(手球をバンキングした的球集団に当てて、的球を分散させること)から始まり、その後は『ストローク』(キューで手球を打ち、的球に当てること)により、手球をより若い番号の的球に当てていき、九番の的球がポケットに入った瞬間でゲームは終わる。
 細かいことは知らないが、『ナインボール』はこんな感じのゲームである。
 『ハスラー』という映画ではビリヤードをなかなか緊迫感のあるゲームとして描いていた。
先程の金属的な高音は恐らく、ゲーム始めのブレイクショットだったのだろう、と思った。
なかなか迫力のあるいい音だったとは思ったが、こんな地方都市のメリダではハスラーなんて商売は成り立っていかないだろうと思っていたので、さほど気にも留めなかった。 
コチニータ・ピビルを食べ終わって、ふと、斜め右の方を見たら、見知った女の顔があった。
マリアのお母さん、イサベルの笑い顔がそこにあった。
 別に、僕には気付いていない様子で、前に座った男と談笑していた。
 イサベルは相変わらず凄い厚化粧をしていた。
毒々しいまでの長い付け睫毛(まつげ)、アイシャドウ、艶やかな頬紅、そして、真っ赤な口紅と、壁に貼ってあるカルメンみたいな安っぽいポスターそっくりの顔をしていた。
元々、美人なのに、なんでこんなに厚化粧する必要があるのか、と僕は思った。
イサベルはまだ三十歳には届かない年齢だとオチョワさんから聞いてはいたが、メキシコの女は老けるのが日本女性と比べて早い。
目尻の小皺を隠し、肌の老化を隠すための厚化粧だったのかも知れない。
 キスも純子としたのが初体験という僕は精神的にも肉体的にも女性を知らなかった。
 日本での慣用句に、鬼も十八、番茶も出花、という言葉があるが、メキシコでは、ずばり、ノー・アイ・フェア・キンセ・アニョス(醜い十五の娘はいない)、という慣用句がある。
日本より三歳も若い。
それだけ、女として成熟するのが早いということだ。
イサベルも、彼女なりに女としての容貌の衰えに恐怖を抱いているに違いない。
 しかし、それにしても、イサベルはよく笑っていた。
こぼれるような笑顔を相手の男にふりまいていた。
僕はこんなイサベルはそれまでに見たことがなかった。
 アパートの中で会うイサベルはどちらかと言えば、とりすまして冷たい印象を与える女であった。
こちらから、イサベルに挨拶しても、笑顔一つ見せず、ぶっきらぼうに挨拶する女だった。
感じの悪い女だな、と僕は思っていた。
 オチョワさんに言わせても、マリアのことなんか全然気にせず、毎晩のように男を連れ込む、まるで、十年前にここに居たような娼婦みたいな女だよ、と話す種類の女だった。
 男を連れ込む度に、家の外に出されるマリアが可哀そうだった。
 ここで、イサベルは今夜の相手を物色していたのかも知れない。
 男を殺し、とって喰うようなマヤの妖怪、イシュタバイとまではいかないが、似たような女かも知れない、と僕は思った。
 その内、男がふと席を立った。
トイレに行ったのかも知れない。
 男の後ろ姿を見ていたイサベルが僕の方に視線を向けた。
 ずっと前から僕に気付いていたのかも知れない。
嫣然とした笑顔を向け、軽くウインクしてきた。
僕は戸惑い、ぎごちなく会釈するばかりだった。
僕に向かって、何か呟くような唇の動きをした。
僕には、内緒よ、とでも呟いたように思われた。
 やがて、男が席に戻り、イサベルは待ち構えていたように喋り始めた。
大袈裟な身振り、手振りを交え、よく笑い、よく喋っていた。
 その後、僕に視線を戻すようなことは無かった。
僕は忘れられた存在になった。

 突然、ビリヤード台の方でざわめきが起こった。
何か、ハプニングでも起こったのかも知れない。
僕は好奇心に駆られ、席を立ち、様子を見に行った。
 二人の男が話していた。
長身の若い男が声高に話し、痩せて、少し年上と思われる男はぶつぶつと呟くような口調で話していた。
 ビリヤードは金を賭けて勝負する遊びだ。
 映画の『ハスラー』でも大金を賭け、勝負するシーンが随所にあった。
 どうも、若い男は負けがこんでいるらしい。
若い男には恋人か女友達らしい女が傍らに寄り添っていた。
負けはこんでいるが、女の手前、少し粋(いき)がって、虚勢を張っているようにも思われた。
 若い男が痩せた男に声高な口調で話していた。
痩せた男は無表情でその若い男を見つめていた。
若い男の言い分を迷惑がっているようにも思われた。
 賭け金を十倍にしようと言うことだった。
若い男が強硬に提案していた。
 女は、やめなさいよ、と若い男に言っていたが、熱くなった男は聞き入れない。
 女は忠告を聞き入れない男に業を煮やしたのか、今度は男の相手をしている少し年上の痩せた男に喧嘩腰に言った。
あんたは上手なんだから、今回はハンディキャップを頂戴よ、と乱暴な口調で言っていた。
苦笑しながら、痩せた男は女の要望を受け入れた。
 三対一で勝負しようということになった。
若い男は一回勝てばよく、年上の男は三回勝たなければならない、という勝負になった。賭け金は十倍になった。
 年上の男は先行を若い男に譲った。
若い男はやる気満々になった。
 ブレイクショットを行なった。
最後に、九番ボールを入れさえすれば、十倍の金は自分のものになる。
それまで、負けていた金を取り戻せると思ったのだ。
 僕を含め、十数人の男が見つめる中、若い男は慎重にストロークを重ねていった。
 なかなか上手な腕前だった。
的球は順調にポケットに吸い込まれていった。
だが、五番ボールで躓(つまず)いた。
ボールは僅かに逸(そ)れ、ポケットに入らなかった。
若い男は悔しがった。
 痩せた男の番になった。
この痩せた男はのろのろとした態度でキューを取り、チョークをティップに塗った。
そして、簡単に五番ボールを穴に入れた。
 その後、一度のストローク・ミスも無く、確実に的球はポケットに吸い込まれていった。
 最後の九番ボールが穴に吸い込まれ、一回勝ちとなった。
二回目の勝負となった。
 痩せた男は無表情にバンキングを行ない、ブレイクショットを行なった。
 若い男とは違ったブレイクショットの音がした。
 びっくりするほど大きく、鮮やかな音が店一杯に響き渡った。
 店の奥のカウンターでグラスを磨いていたバーテンダーが思わず視線を向けたほどの音だった。
その後、痩せた男は次々と的球をポケットに入れていった。
 何の感情も出さずに、黙々と日常の仕事をこなすような態度で正確無比なストロークを重ねていった。
一度のミスも無かった。
九番ボールが穴に吸い込まれ、勝ちは二回となった。
三回目のゲームとなった。
バンキングがなされ、鮮やかなブレイクショットが店内に響き渡った。
そして、また、二回目と同じ状況が繰り返された。
痩せた男のストロークは完璧だった。
 一度のミスもなく、的球は次々とポケットに入り、九番ボールが吸い込まれた時点で勝負は終わった。
痩せた男の完勝であった。
若い男がキューを握ることは無かった。
 勝負が終わった時、観客から溜息が洩れた。
その後、感嘆の声が飛び交い、ざわめいた。
 長身の若い男はズボンの尻ポケットから百ペソ紙幣を数枚取り出した。
 よほど、悔しかったのか、紙幣をわざと丸めて、痩せた男に投げつけるように渡した。
 痩せた男は表情を変えずに、グラスィアス(ありがとう)と呟いて、そのクシャクシャとなった紙幣を受け取った。
そして、ゆっくりと紙幣の皺をのばして、皮の財布に入れた。
 憮然とした態度で、若い男と女のカップルが店を出て行った時、誰かが呟いた。
 プロだよ、プロに勝てるわけがない、うまく乗せられたもんだ、と言っていた。
 プロと言われた痩せた男は少し苦笑いをした。
そこに、一人の少年が近づいた。
 マリアと同じ年齢くらいの少年で、痩せた男の息子のようだった。
 痩せた男の腰に纏わりついた。
彼はその少年の頭を撫でていた。
 やがて、彼は少年の小さな肩を抱くようにして店を去った。
 僕は子連れのハスラーを見たのだ。
あれだけ、鮮やかに、そして完璧に勝てば、もう、この店ではハスラーとしての商売はできない。
皆、彼を敬遠する。
明日は、別な店でカモを探さざるを得ない。
そして、このメリダでカモを探すことができなくなったら、飄然(ひょうぜん)と別の街に行くこととなる。
メリダの近くにはカンペチェという大きな港町もあれば、少し離れているが、カリブ海の方に行けば、今売り出し中のカンクンといったリゾート地もある。
ビリヤード店を廻り、大勝(おおがち)はせず、少しずつだが、確実に勝っていく。
時には、上手に負けて、相手に花を持たせながら、賭け金を吊り上げ、最後に勝っていく。
絶対に、プロとしての腕前は見せない。
今夜の彼はプロとしての凄みを見せてしまった。
プロとしては失格だった。
今頃、彼は息子に言われているかも知れない。
お父さん、あんなに鮮やかに勝っちゃ駄目だよ、と。
妻がいるのかどうか、判らないが、彼には息子と思(おぼ)しきあの少年がいる。
少年を連れて、旅から旅へと、各地を流離(さすら)っていくのだろうか。
どこかに、落ち着くところはあるのだろうか。
安定した生活、安定した人生。
彼は望んでいるのか。
 僕は店を出ていく二人を見ながら、そんなことを思い、少し感傷的になっていた。
 いつの間にか、イサベルたちは居なくなっていた。
 僕は勘定を支払い、外に出た。
頭上に綺麗な星が出ていた。
東の空に、満月の月も出ていた。
こんな夜を星月夜と言うのだろう。
 そう言えば、メキシコシティ近くの保養所、オアステペックで純子を抱き締めた夜もこんな星月夜だった。
あれから、もう、三ヶ月が過ぎた。
早いものだ。
 昼の堪(たま)らない暑さは疾(と)うに過ぎ去り、夜の涼しさが僕を優しく包んでいた。
 
僕はアパートに向かって、ゆっくりと歩いて行った。
どこかの路地で犬の鳴き声がした。
 僕の耳には、淋しく聞こえた。
アパートの白い門が見えてきた。
門柱のランプが黄色い光をボーと放っていた。
郷愁を誘うような淡い灯だった。
 アパートに着いた時、珍しいことだが、オチョワさんがまだ居た。
 普段なら、闇に包まれている受付の事務所に灯りが点され、オチョワさんが机に頬杖をついていた。
いつもならば、夕方から夜になる頃、事務所に鍵をかけ、家に帰っている。
 オチョワさんは数年前に奥さんを亡くし、今は姉さんと一緒に暮らしている。
 姉さんは足が不自由で、買い物にも行けないらしい。
 オチョワさんはアパートからの戻り道で買い物をして、姉さんが待つ家に帰り、夕食を作る、と以前話していた。
夕食はコーヒーとパン、それと果物程度だから簡単でいいけれど、昼食は姉さんもしっかり食べるから、肉とか豆を使った料理を朝に作っておくのだ、とも話していた。
いずれにしても、八十歳を過ぎた男が足の不自由な姉を抱えて暮らしているという現実はかなり過酷なものだ。
でも、働けるだけ、ましかも知れない。
姉と自分を養えるだけのお金は貰えるのだから。
オチョワさんはこのアパートの管理人となって、もう十年になる。
アパート自体はオチョワさんの姪が持ち主となっており、伯父さんが働ける内は管理人として働いて頂戴、ということで管理人としての職を斡旋(あっせん)してくれた、と話していた。
それ以来、真面目な性格なのか、管理人としての仕事をきちんきちんとこなしていた。姪ごさんの信頼も厚いらしい。
 
「今晩は、オチョワさん。今日は珍しいね。こんなに遅くまで。何かあったの?」
 僕が訊くと、オチョワさんは机から両肘を離し、肩を竦(すく)めながら言った。
 「午後、このアパートに新しい人が入ったんだ。ウナム出の若い建築屋さんだ。三ヶ月ほど、メリダで建築設計の仕事をする、という話をしていたよ。それで、いろいろな手続きをしていたんだ。それに、姪も遊びに来たんで、いろいろと雑談をしていたし」
 僕は以前見かけ、姪と紹介された女性の顔を思い浮かべた。
 イサベルより年齢はいっていたが、なかなかの美人だった。
 少し厚化粧をしていたが、体つきはほっそりとしていて、ピチッとした服を着ていた。
 ウエストは細くくびれ、豊満な胸元が強調されていた。
 僕を見て、艶(あで)やかな微笑を浮かべた。
だが、アイシャドウを施した眼は値踏みをするように、じっと僕を見つめていた。
僕が日本人であると知ると、何か着物を持っていたら、譲って頂戴、とお願いをされた。日本の着物はこの国でもかなり有名らしい。
 僕は着物なんて持参して来なかったが、丁度、女子留学生が二、三枚ほど浴衣(ゆかた)か単衣(ひとえ)の着物を持ってきていると聞いていたので、彼女を紹介した。
 その後、オチョワさんの姪はその女子学生に連絡をつけ、着物の買い取りの交渉が始まった。
結局、かなり良い値段で買ってもらったらしい。
 売って得たお金で、コスメルに行ってカリブ海を観てくるわ、と女子留学生が嬉しそうに言っていた。
その他、当時のメキシコ人は日本のカメラを欲しがった。
ニコンのカメラは垂涎(すいぜん)の的で、本当かどうかは知らないが、日本で買った時の価格の倍で売れたらしい。
 社会人留学生の中には、カメラを二、三台ほど持参してきた人があり、一台を知人となったメキシコ人に売り、売った金でアカプルコ観光に行き、一週間ほど遊んできたという話をしていた。
ニコン以外は倍の価格では売れないがそれでもこちらの言い値で買ってくれる、という話も聞いた。
その話を聞いて、僕は研究室の教授にこの情報を流し、僕の後に交換留学生として行く後輩にアドバイスして欲しい、と近況連絡の手紙に書いた。
書きながら、俗物根性丸出しだなあ、と僕は笑ってしまった。

 ふと、事務所の奥に目をやると、ハンモックを揺らすマリアがいた。
 マリアはぼんやりした眼で僕を見ていた。
白い半ズボンの足がぶらぶらと揺れていた。
 こんな時間にも、家の外に出されたのか。
オチョワさんは仕事で残っていると言っていたが、本当のところは、イサベルが例によって男を連れ込み、マリアを外に出したのを見て、マリアのために事務所のハンモックを提供していたのかも知れない。
人のいいオチョワさんのことだ。
この推理は当たっていたかも知れない。
 「マリア。また、漫画を見たいかい」
 僕はハンモックに揺られながら、僕を見ているマリアに声をかけた。
 声をかけられたマリアは一瞬困惑したような、はにかんだような表情を浮かべたが、漫画という言葉を聞いて嬉しくなったのか、おずおずとした声で、見たい、と呟いた。
 その言葉を聞いて、僕は足早に自分の室に入り、漫画を数冊ほど持ってきて、マリアに手渡した。
スーパーマンの漫画だった。
これも、ソカロのキオスクで買ったもので、粗悪な紙に印刷された薄い漫画雑誌だったが、ベッドに寝そべりながら、暇潰しに眺めていたものだった。
普段はぼんやりとした表情を浮かべているマリアが本当に嬉しそうな顔をして、グラスィアス、と感謝の言葉を僕に言った。
嬉しくなった。
 そんな僕たちの様子を受付の机に両肘をついて、オチョワさんは微笑しながら眺めていた。

どこからか、ギターの音色が聞こえてきた。
ギターなんて、このアパートでは聞いたことが無かった。
不思議そうに聞き耳を立てた僕を見て、オチョワさんが小声で言った。
 「ほら。さっき話したウナム出の建築士が弾いているんだよ。どうも、このメリダにノビア(恋人)がいたらしく、荷物を室に置いた後、部屋から出たと思ったら、一時間ほどして彼女をここに連れてきたのさ。なかなか似合いのノビオス(恋人たち)だよ」
 ギターの音色は気だるげに夜の闇の中で響いていた。
昼間の太陽が強烈なだけに、南国の夜は深くて暗い。
闇はねっとりとした重さも持っている。
悩んでいる人にこの闇の重さは耐え難くのしかかってくる。
オチョワさんはまた、両肘を机に載せ、頬杖をつき始めた。
 オチョワさんもぼんやりしているし、ハンモックの中央に腰を下ろしているマリアもぼんやりしている。

今日一日が終わろうとしている。
明日もおなじような日常が繰り返されるのか。
僕は夜空を見上げた。
丸い月と星が満天の空に輝いていた。
 僕はいろんなことを考えていた。
 純子は今、どうしている?
 恋人を亡くし、悲嘆に暮れている男は今も、ウィピルを眺めている?
 イサベルとマリアの母娘はこれからどうなる?
 オチョワさんとお姉さんのこれからはどうなる?
 酒場で見た、あのハスラーの親子の人生はどうなっていく?
 僕はこれから、どうなっていく?
 ふと、星月夜も僕たちを見ているように思われた。
 僕たちのいろいろな人生を。
 はるか頭上の高みから、興味あるくせに、興味なさそうな顔をして。
 ぼんやりと眺める風を装いながら、実は、じいっと見つめて。
 月と星が僕に笑いかけているように思われた。
 
その時、僕は二十二歳で。
 メキシコ、ユカタン半島、メリダで暮らしていた。


星月夜

星月夜

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-08

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著作権法内での利用のみを許可します。

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