CR銀河ホールに、ようこそ! round1『年金婆ァは笑う』

round1『年金婆ァは笑う』


    ROUND1 『年金婆ァは笑う』


              (一)

 通称、年金婆ァ。吉祥寺のパチンコ屋『銀河ホール』の常連である。本名は誰も知らない。
「年寄りのわずかな年金をまきあげて。そのうちバチがあたるよ」
 負けるたびに、店員にそんな悪態をついて引き上げていく。だから年金婆ァである。
 年齢は不詳だが、見たところは八十も間近というところか。萎んだような小さな体に、いかにも年寄り臭いくすんだ浅黄色のズボンとジャケットをまとっている。確かに年金だけが頼りの煤けた老婆といった風情である。
 店員のほうも慣れているから、そんな捨てぜりふにも嫌な顔はしない。やわらかく苦笑して、「明日はきっと出ますよ」と送り出す。
「そう言って、またむしりとろうってんだからね。ハゲタカのほうがまだ可愛いよ」
 悪態はおさまらないが、そのわりには表情も物言いもカラッとしているので、周りの客も笑ってやりとりを楽しんでいる。
 深い皺の中に埋もれたように光る金壷眼といい、笑うとむき出しになる歯茎といい、お世辞にも品がいいとは言えないが、どことなく愛嬌のある顔立ちが、ともすればとんがりそうな雰囲気をやわらげている。
「まあさ、それが分かっていてもやめられない本人が悪いんだけどね」
 最後はコロコロ笑いながら、背中越しに小さく手を振って帰っていく。
 私などにはその姿が妙に味わい深く、このセレモニーを楽しみにしているようなところもあるくらいだ。
 その年金婆ァの様子がどうもおかしい。
 CR『花満開』の百十五番台。私の斜め後ろの台が年金婆ァの定席である。
 いつもは一~二万円くらいスッたらあっさり諦めて帰っていく。女性の常連には珍しく、そんな潔さが身上でもある婆さんなのに(懐具合もあるのだろうが)、今日は珍しく朝イチからずっとハマっている。
 そろそろ午後二時を回る頃だが、まだ一度も当たりが来ていない。もう、かれこれ五、六万円も吸われただろうか。年金頼りの年寄りには手痛い出費のはずだ。
 だが、婆さんはいっこうに帰る気配を見せず、今もまた新しいプリペイドカードを差し込んでいる。
 普段なら、それがよく見知っている常連であっても、勝ってようが負けてようが関心はないのだが、どういうわけかこの日の婆さんは妙に気になる。
「婆さん、今日はずいぶん粘るじゃないか」
 余計なお世話とは思いながらも、トイレに立ったついでに声をかけた。
「ああ、ニッパさんかい。今日はちょっとね」
 盤面を睨んだまま、婆さんは曖昧に答えた。
  ※ 
“ニッパ”は、銀河ホールでの私の通称である。
 私がこの店をホームグランドにしていたのは、もう三十年も前になるだろうか。ちょうど元号が昭和から平成に移っていく五、六年の間のことである。
『花満開』は、その頃の私が専門種目にしていた機種。当時パチンコの主流になったCR機のハシリで、爆発的な連チャン力で衝撃的なデビューを果たした。その後、さまざまなCR機が現れては消え、現れては消えていく中で、この機種だけはしぶとく人気を保っていたものである。
 店によっては老朽化で風車が取れていたり保留玉ランプが点灯(つ)かなかったり、どの客もコインを挾むものだからハンドルがグラグラしていたりする台も少なくない。だから新台入れ替えの新装開店のたびに、ああ、もうこの店にもなくなるのだろうと覚悟をするのだが、覗いてみると、どっこい残っている。
 かれこれ二十年を超していた私のパチンコ歴の中でも珍しい部類に入るほど、名実ともにタフな機種であった。
 近年、同じ西陣が出した『花満開煌』『花満開極』などのCR機は、その継承機になるが、正直、魅力はない。不肖の孫子と言えよう。
 銀河ホールで打つようになって間もなく、その『花満開』で私は大連チャンを二度立てつづけにしたことがある。
 最初の連チャンは二十八回で終了。その後デジタル三十回転ほどで、再び『7』の確変(確率変動)をゲットした。
 ちなみに『花満開』の確変絵柄は『3』と『7』の二つのみ。他の『1』『2』『4』『5』『6』『8』『9』『花』『月』『光』『桜』『宝』の十二絵柄はすべて単発の通常絵柄だ。
 よって、確変突入率はきわめて低いが、そのぶんいったん確変を引き当てれば猛烈に連チャンすることが少なくない。
 なにしろ、以後二回の大当たりが約束され、その二回のうちに確変を引けば、そこから再び二回の大当たりが確定する。その確変継続率は八十%とも言われていた。
 保留玉一回転目に当たりが来る確率も1/10高くなっているので、通常絵柄で当たった場合でも連チャンのチャンスは十分にある。
 今どき、こんな台はまったく見あたらない。昨今は潜伏確変だの突然確変だの時短だのスペックは賑やかこの上ないが、実態は単なる上げ底に過ぎない。大当たりしているのに玉が出ないなんて子供だましもいいところ。無駄な時間だけが消費されるだけである。
 出玉数も同様だ。花満開の一回あたりの出玉が二三〇〇個くらいになるのに対し、近年は同程度の確率スペックでも良くて一五〇〇~一六〇〇個、下手をすると一〇〇〇個にも届かないような渋い機種も少なくない。
 時代と言えばそれまでだが、こんなおおらかな機種は二度と現れないだろう。 
 さてぼやくのはそれぐらいにして、その時の私だが、二度目の十五連チャン目くらいから周囲の目が集まり、背後に立ち見ができるようになった。
 二十二回目で『3』を引き当て、これで二十四連チャンが確定。次が単発の『花』。そろそろ終わりかと思った二十四回目にまた『7』をゲット。見物人から「おぉーっ」と、溜息とも歓声ともつかぬ声が上がる。
 背後から男が話しかけてきた。
「兄ィさん、さっきは何回だったね」
「二十八回でした」
「今度は三十回超えそうだね」
 私は盤面に映っている声の主を見た。ごま塩頭の痩せた中年男。よく動く、抜け目のなさそうな目。くたびれた若草色のポロシャツを着ている。ジグマ(店づきのパチプロ)によくいるタイプだ。
 この手の連中はあまり好きじゃない私は、台の好調さに浮かれていたこともあって、ちょっとからかってみたくなった。
「いや、また二十八回で終わりですよ」
「どうして分かる」
「ロムの記憶設定パターンがそうなってるからね。次が『3』、もう一回『3』、それから『月』、最後に『桜』ときてご臨終」
 もちろん出鱈目。前回の連チャンの終了間際の出目をそのままなぞっただけだ。
 だが、いかなる勝負の女神の悪戯か、それからの当たり目は私の言ったとおりに来て、きっちり二十八回で終了したのである。
「うそだろ? 予言どおりだよ」と、まわりは蜂の巣を突ついたような大騒ぎ。ごま塩頭なんぞは放心したように『桜』のドットが輝く液晶を見つめている。
「ニッパ(二八)、ニッパで五十六連チャンか」
 連チャン終了と同時にごま塩頭がそうつぶやいて、以来『銀河ホール』での私の呼び名はニッパと決まったのである。
  ※
 私は年金婆ァの隣の空き台に腰をおろしてタバコに火をつけた。
「今日はって、今日は何かあるのかい」
「別に何もないさ。でも今日はとことんやってみたいんだよ」
「ふうん。まあ、どうでもいいけど、大きく張っても大きく儲からないよ、パチンコは」
「ありがとよ。でも、大きなお世話さね」
「はは。シャカに説法だったか」
 私は小さく頭を振って立ち上がり、トイレに向かった。
 ギャンブルの心理というのは妙なもので、二、三万円負けている段階だと、さらに一万円つぎ込むのに躊躇いを感じる。ところが、それが五万、六万の負けになってくると、一万円がどうってことのない額に思えてくる。
 どの時点でも一万円は一万円なのだが、分母が大きくなればなるほど分子の相対的な価値が低下する。今さら一万くらいっていう気がしてくる。よくありがちなメンタル・トラップだ。
 もう一万が、またもう一万、さらにもう一万。それに比例して一万円の価値はどんどん低下してくる。これが俗にいうハマリというやつで、負け組は、このトラップにどっぷり浸かるものだ。
 相場の格言に“見切り千両”というのがある。これはどんな勝負事にも共通する重要なフォームだが、とりわけパチンコという競技には不可欠と言える。
何故か。理由は二つある。
 一つはパチンコは競馬や花札のように大きく張っても大きく儲からないギャンブルであるからだ。
 大当たりが千円で来ようと十万円使って来ようと、出玉の数は一緒。確変も連チャンの数も、いくら使おうと確率に変わりはない。
 第一、パチンコで一日百万だの二百万だの儲けた話など聞いたことがない。
 以前、都内のパチンコ店で花満開だか春一番だかのICが暴走し、ほぼ一日中玉が出っぱなしという珍事があったが、それにしたことろで換金額は八十万円足らずだったと聞く。ハイリスクをかけてもハイリターンのない、要するに小博奕なのだ。
 もう一つの理由は、ほかのギャンブル同様パチンコもトータルの勝負であることだ。
 負ける日があっても、一週間なら一週間、ひと月ならひと月と、自分で決めている試合時間のスパンの中でプラスにすることが何よりも重要。目先の浮き沈みに一喜一憂していてはとても続かない。
 トータルの中では、時に負けることも当然と承知していれば、常に余裕を持って新たな対戦に臨むことができる。
 ギャンブル好きな方なら言われるまでもないことだろうが、この“余裕”こそ、何にも優る勝利への特効薬になるのである。
 勝ち組は基本的にこうした見切り千両のフォームが身についている。出処進退のメリハリがある。だからハマリのトラップにも簡単にはかからない。
 もちろん、あと一万円、いや千円でもつぎ込めば大連チャンが始まるかもしれない。その誘惑はかなり強烈なものだ。
 正直言って、私だって血湧き肉踊る、その甘美な誘惑に引きずりこまれてしまうこともある。だが、勝てる可能性は低い。時にはやっぱり続けて良かったと思うような時もあるが、たいていの場合は焼け石に水。傷を深くするだけの結果になる。 
 そろそろ出るぞ……。この無責任な悪魔の囁きに惑わされるかどうかが、勝ち組と負け組の最大のターニングポイントになるのだ。
 その意味でパチンコというギャンブルはセルフ・コントロールの戦いであると、私は思っている。
年金婆ァの場合はどうか。
 確かに一、二万円で出なければさっと切り上げて帰っていく。そのかぎりでは“見切り千両”を実行していると見ることもできよう。
 いつまでも未練がましく台にしがみつき、いつ来るとも分からない大当たりを憑かれたように待ち続けている他の多くの客に比べれば、それなりに好感も持てる。
 ただ、正味なところ年金婆ァが自覚的にそうしているかどうかは甚だ疑わしい。見切りがあっさりしているのは、単に懐具合のせいかもしれない。
 若い連中なら軍資金が細くなればサラ金という手もあるが、婆さんくらいの年齢になったらそうもいかないだろう。
 風体からして、決して悠々自適の老後には見えない。年金と子供からもらう小遣い。どちらもわずかな額だろう。いや、ひょとしたら子供もなく、年金だけが頼りの独居老人かも知れない。だとしたら、なおのことだ。
 いくら他に楽しみはないとはいえ、パチンコをすることすら大冒険である。だから、もっとやりたくてもやれないんだろう。私は、そう確信していた。

 年金婆ァに『7』のスーパーリーチがかかった。
 私は自分の台のガラスに映るそのリーチ演出を見ていた。『5』の目がいくつかの花びらに分かれて散った。そして再び花びらが集まり『6』を作り始めた。
 この『6』が散りはじめたら確変絵柄である『7』の大当たりだ。もう一つの確変絵柄である『3』の場合は『2』になる。
 故に、確変絵柄のスーパーリーチでは『6』もしくは『2』が完成された瞬間こそ、脳の血管もぶち切れんばかりの緊張と興奮に襲われることになる。
 再び散ってくれるか、それとも無情にも止まってしまうのか、まさに運命の分かれ道。そして散りだした瞬間、これだけは味わった者にしか分からない、プロ、アマ問わずパチンカー究極のカタルシスを味わうことができるのである。
 年金婆ァは朝から確変絵柄のスーパーリーチは何度もかかっているが、ことごとく手前の絵柄でピタッと止まっている。そのたびに婆さんはふうっと肩を落とし、力なくガラス盤を叩く。よくあるパターンで、台にもてあそばれているのだ。
 しかし、今回は違った。『6』が完成され、ほんの一瞬動きが停止した。
 またダメかーー。と思った瞬間、『6』をつくっていた花びらがひとひら、ふたひらと散りはじめた。
 その刹那である。
「あぅぅっ」という呻き声とともに年金婆ァが前に突っ臥し、そしてスローモーションのようにゆっくり椅子からずり落ちていった。
「婆さん! 」
 私は振り向きざまに席を立ち、椅子と台の間に挟まれるように倒れている年金婆ァをのぞき込んだ。
 口から泡を吹き、頬のあたりがヒクヒクと痙攣を繰り返している。どう見てもただ事ではない。幸い、椅子が固定式ではないので脇にどけて通路に横たえた。
「どうしたい、ニッパさん」
いつの間に来たのか、常連のガンさんが背後から声をかけてきた。ニッパという私の渾名の名付け親、例のごま塩頭だ。
「ヤバイな、こりゃ。ガンさん、とにかく店員を呼んでくれ」
「おいきた」
 その頃にはホール中の客が集まったんじゃないかと思うくらい、周りは黒山の人だかりができていた。
 よく見ると、連中の目が横たわっている年金婆ァと、彼女が打っていた台とを落ち着かなく行ったり来たりしている。
 そうだ、確変だ! 思い出して盤面を見ると、玉は一個一個リズミカルに弾き出され、確実にオープンチャッカーに吸いこまれている。ハンドルを握っているのは私の手だった。
 覚えていないが、倒れた婆さんに駆け寄ったと同時に手がハンドルに伸びていたらしい。
顔は婆さんを心配そうに覗き込んでいるのに、手は別の脳から指令を受けたかのようにハンドルを握っている。われながら、何とも浅ましい姿である。
 私も多少動転していたのだろう。まったく無意識だったが、それだけにかえって情けない。日頃の確変に対する執着心が、こんな悲しい性(さが)となって現れるのだろうか。
それからはもう大変な騒ぎだ。救急車のサイレンの音がだんだん大きくなってきたかと思うと、間もなく店の前でやんだ。
「おおっ」「来た来た来た」
 口々に声を上げる野次馬を縫って、三、四人の救急隊員がどやどや駆け寄ってきた。
 昔の東映時代劇の捕り物シーンでも思い出したのか、中にはパチパチと手を叩いている年寄りもいる。
救急隊員は年金婆ァの脈をとったり、目をのぞき込んだりした後、担架に乗せて運び出していった。
 台風一過。救急車が慌ただしく去っていくと、潮が引いたように騒ぎは静まった。
 野次馬もてんでに自分の台に戻り、何事もなかったように玉を打ち始めた。再びけたたましい電子音が鼓膜を圧迫しはじめる。
 私はまだ年金婆ァの台を打ち続けていた。事情を知らない救急隊員が咎めるような視線を向けたが、私は気にしなかった。
 騒ぎに紛れて数えてはいないが、もう八連チャンか九連チャンはしているはずだ。
「ニッパさん、箱、箱」
 いきなり目の前にごま塩頭が飛び出し、また引っ込んだ。
 ふと見ると、玉で埋まったドル箱にかわって空のドル箱が手元に置かれている。
 そう言えば、いつの間にか傍らの通路にも玉がぎっしり詰まったドル箱が積み上げられている。ドル箱がいっぱいになるごとに、ガンさんが甲斐甲斐しく取り替えてくれていたようだ。
「おや、ガンさん。ずいぶんやさしいじゃないか」
「いやいや、こんな時だもの。人助け、人助け」
 どうやら奴さん、婆さんよりも出玉のほうが気になるらしい。

(二)

「ニッパさん、ちょっといいかい」
 数日後、『花満開』を打っていると、肩越しにささやくような声がした。
 ドスの利いた濁声に似合わない、小動物のような顔が盤面に映っている。
 『銀河ホール』の店長だ。寸の詰まった顎を入り口のほうに小さくしゃくっている。
入り口の脇にある休憩所まで行くと、私たちは並んで椅子に腰を下ろした。
「遊んでいるところ、悪いね。調子はどうだい」
 店長は私にショートホープをすすめながら言った。
私はそれを無視し、自分のポケットからハイライトを一本抜きだして口にくわえた。別に店長に敵意があるわけではない。もらいタバコをするとツキが落ちるというジンクスを守っているだけだ。
「見たとおり。遊ばれてますよ」
「五六〇番か。釘は甘くしてあンだがね」
「いくら回っても、当たりが来なきゃどうしようもない」
「そりゃ、まあね。でもニッパさんはけっこう稼いでるようだから、たまにゃいいんでないの」
「冗談。フラフラのフラ、ノックアウト寸前ですよ。そんなことより、用ってのは? まさか私なんかにご機嫌伺いでもないでしょう」
 店長はチラチラッと辺りに目を配ると、声を潜めながら言った。
「例の婆さんのことだけどね。あの金、やっぱりニッパさんが持っていってくれんかね」
「婆さんて、年金婆ァのこと? 」
「そうそう。その年金婆ァ ……いや、おとつい警察が来て分かったんだけどぉ、本名は真田って言うんだって」
「景品の金が香典がわりってわけですか」
「ところが死んでないの。アタシもあの様子じゃてっきり逝(い)っちまったと思っていたんだけどねえ。今も入院はしているけど、ピンピンしてるってよ」
「へええ。最近の年寄りはしぶといねえ。それで、金ってのはあの時の? 」
「そうなんだよぉ。結局二十一連チャンして、出玉は四万九千個」
「閉店近くまで回りっぱなしだったもんなあ」
「むろん、当店としてもほっかむりというわけにはいかない。銀河ホールは公明正大がモットーだかんね」
「当たり前でしょ。猫ババしたら、手が後ろに回りますよ。目撃者は五マンといるんだから」
「そりゃ、まあ…」
 いい気持ちのところを水を差されたのか、店長はちょっとしょっぱい顔になった。
「それはともかくさ、ここに換金したお金が十二万二千と五百円入ってるんだけどね」
店長は制服の内ポケットから白い封筒を取り出すと、手のひらでお手玉のようにポンポン突き上げた。
「これ、持ってってくれんかね、ニッパさん」
「それを私が渡してくる? どうして私が? いやだよ、冗談じゃない。あんたが行くのが筋でしょう」
 私は大あわてで言った。
まったくもって冗談じゃない。何が悲しくて他人のアガリを自宅だか病院だか知らないが、わざわざ運んでいってやらなきゃならないのか。
 まあ、これが若い女というんなら気が動かないこともないが、敵は色気も金気もない枯れ萎んだ婆さんときている。
「それがまずいんだよぉ。うちの社長がね、アタシが行くと婆さんが倒れたのが店の不手際みたいな印象を与えかねないってさ。面倒になるのは困るって言うんだよぉ。分かるだろ?」
 語尾がキュインと上がる北関東訛をさらに強めながら、店長は切なげに弁解する。
「あれ、店の不手際じゃないの? 」
「な、なに言ってんだい。ありゃ婆さんが勝手にぃ …」
 目をぱちくりさせながら、早口で店長が言い返す。
「ふだん、もっと出してやってりゃ、あんなことにはならなかったと思うがねえ」
 私の含み笑いに気づいて、店長はようやく落ち着きを取り戻した。
「頼むよぉ、ニッパさん。いじめないでくれよ。だいたいだよ、婆さんが倒れたとき抱き起こしたのはあんたでないの。乗りかかった船ってぇ言葉もあんだろ。ここは一つ、助けてくれよぉ。ジグマさんと店は持ちつ持たれつでないの」
ジグマとはホール居付きのパチプロのことだ。ちなみにその由来は“地付きの熊”と思われるが、確かなことは分からない。
 もちろん蔑称に類する隠語であり、普通は陰で使うものなのだが、この店長はジグマ本人の前でも平気で公言する。どうも“さん”づけで使えば、何でも敬称になると思っているらしい。
「ちょっと待ってくださいよ。ジグマって誰のことかなあ。私は単なるパチンコ好きの客ですよ」
 と、一応はいきがってジャブを放ってみたものの、この持ちつ持たれつという言葉には心臓の裏側あたりがチクンとくる。
 客というのは、そこそこ遊んで最終的には店にお金を置いていってくれる人のことだ。
 私の場合、多少のデコボコはあるにしても月々トータルでみれば、きちんきちんと生活費程度の利益は上げている。
 店側、とりわけ店長なんかはそのことを百も承知しているし、私自身ももちろん自分が客などとは毛ほども思っちゃいない。
店長にとって店に来る人間は二種類だけだ。店に金を落としてくれるお客、逆に金を持ち出していくパチプロ。この分類でいけば、どう抗議しようと、彼にとって私は後者の一派であるジグマ以外の何者でもないのである。
 店側のジグマに対する風当たりはけっこうきつく、店長も口では持ちつ持たれつなんてお愛想を吐いているが、本音では敵視しているし、見下してもいる。
 客とトラブルが起きれば、理由の如何を問わずに悪いのはすべてこちらになる。勝てばチクチク嫌みを言うし、負ければ負けたでザマァミロとばかりに「毎度ありぃ!」とからかう店員もいる。基本的には、ジグマは招からざる客なのだ。
 ジグマは反則技をつかうゴト師とは違う。ただ、ほんの少しだけ一般の客よりも釘を読む目を持っていたり、勝負事に対する勘が鋭敏であったり、攻守のセオリーに忠実であったり、あるいは毎日の各台の出玉の変化を辛抱強く観察したり、一個でもムダ玉を減らそうと止め打ちをしたり……。そんな爪に灯をともすような涙ぐましい努力の積み重ねで、ささやかに糊口をしのいでいるだけである。
当然、店側から非道な扱いを受けるいわれはないのだが、なにしろ稼がせてもらっているし、どうせならできるだけ長く居心地のいい稼ぎ場にしていきたい。そこに店に対して微妙な負い目が出てくる。
 店長もそのへんのところは十分承知しているから、私のジャブなど痛くも痒くもない。抜け目のなさそうな目で私を見ながらニヤニヤ笑っている。
「いやだなあ、勘弁してくださいよ。こう見えても忙しいんだから」
形勢不利を感じて泣き落としに出る私。でも、店長は動じない。
「頼むよぉ。ここは一点、私の借りってことでさあ」
 頼むと言いながらも、語調にはもう有無を言わせない押しがある。
追いつめられた私の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
「そうだ。ガンさん、ガンさんに頼みましょうよ」
 とたんに店長の顔が歪んだ。
「ガンさん? ジグマのガンさんかい? ありゃダメだぁ。信用できんもんな」
「俺がどうしたって? 」
 出し抜けに私たちの背後から声が湧いた。振り向くと、当のガンさんが絵に描いたような仏頂面をして立っている。
 私も驚いたが、それ以上に驚いたのは店長だ。金目鯛のように見開いた目でガンさんを見つめたまま、何か言おうと懸命に口をぱくぱくさせているが声にならない。
「悪いが話は全部聞かせてもらったぜ」とガンさん。声色が少々芝居がかっている。
 さながら獲物をとらえたハイエナ。さあ、どう料理して食ってやろうかってところだ。
「おもしろくねえじゃないか。ええ? 店長」
 ガンさんがわざとらしく凄みを利かした調子で言う。
「じゃ、なにかい。俺に金を預けたら持ち逃げされるとでも言いてえのかい」
 まったく気がつかなかったが、どうやら気配を殺して私たちの話にずっと聞き耳を立てていたようだ。
「そ、そういうわけじゃ ……」
 可哀想なくらいしどろもどろの店長。私は素知らぬふりをしながら、笑いをかみ殺す。
 ここを先途と、ガンさんが啖呵を切る。
「冗談じゃねえぜ。憚りながらこの岩村藤治郎、こんなシケた店でジグマに身をやつしちゃいるがね、何を隠そう、江戸幕府開闢当初から代々つづいた筋金入りの江戸っ子だ。十万、二十万のはした金をちょろまかそうなんてぇみっともねえ真似するかい。おめえのような上州だか常陸だかから食いつめてやってきたお上りさんとは少々人間の出来ってもンが……あう、わわわ」
「ガ、ガンさん。声がでかいよ」
 店長がせわしなげにまわりをキョロキョロ見ながら、あわててガンさんの口を手で塞いだ。なるほど、近くのシマで打っている数人の客が訝しげな視線をこちらに向けている。
「悪い、悪かった。あやまるよ。あやまるから静かにしてよ」
「そうかい。ま、素直に詫びが入りゃあ、いいってもんよ。俺だってハナっから剣突喰らわせようってつもりはねえんだしよ。なにしろ、ジグマと店は持ちつ持たれつって言うそうじゃねえか。なあ、ニッパさん」
 ガンさん、私のほうに顔を向けて気持ちよさそうにニッと笑う。これで当分はこの店も居心地がよくなるってなもんである。

(三)

「なんだい、こりゃ。胸くそ悪いったらありゃしねえ。だからハナから婆ァのところなんぞ行かずによ、金は二人で分けちまえばよかったんだ。婆ァは二度と銀河ホールには来やしねえだろうし、よしんば来たところで出玉のことなんてきれいに忘れてるさ。第一よぉ」
速射砲のようなガンさんのぼやきが私の耳元でガンガン響いている。
猫ばばして山分けとは、江戸幕府開闢以来の江戸っ子はどこへ行ったのかと思うが、それはさておき、ガンさんのぼやきも分からないではない。というより、私自身、今も狐につままれたようなキョトンとした気分なのだ。
 あの日、銀河ホールの店長の泣き落としに抗しきれず、結局、私は見舞いがてら年金婆ァに金を届けるのを引き受けた。
 その場の成り行き上、「俺も行くぜ」とガンさんも同行すると言い出したが、店長はともかく、私は気の重い使いがいくらかでも軽減できるような気がして特に異存はなかった。
店長から聞いた婆さんの入院先は、都心にあるK大医学部付属病院であった。この著名な大病院と年金婆ァとの取り合わせには私もガンさんも少なからず違和感を覚え、何度も店長に確認した。
 店長も同じような印象を抱いていたようであったが、所管の警察を通して調べてもらったメモを私たちに見せ、これこのとおり間違いないという。
「まあ、なんかのはずみってこともあるからな。どうせ十把ひとからげの大部屋の隅で小さくなってるんだろうさ」
そんなガンさんの悪態とともにK大付属病院の入院棟に乗り込んだ私たちだったが、ほんの数分後には二人そろって唖然、呆然、卒倒寸前。しばらく口も聞けないほどのショックを受けることになる。
 受付で教えられた年金婆ァの部屋は個室で、それも巷間VIPだけが入ると噂されている最上階にあるという。
「それじゃねえな。ほかに真田って名で入院している貧乏くさい婆さんがいるはずだぜ。よく調べてみてくんな、ねえちゃん」
 自信たっぷりに催促するガンさん。それにしても「ねえちゃん」はまずい。案の定、受付嬢は露骨にムッとした表情を浮かべている。言わないこっちゃない。
「いえ。当病院に現在入院されている方で、真田マキ様というお名前はほかにいらっしゃいません」
 受付嬢は努めて事務的にそう言ってから、改めて値踏みするように私たちをちらちらと見た。その目には明らかな不審の色が漂っている。
 私は胃の腑がどんよりと重くなってくるのを感じた。予想した目とは違う馬券を間違えて買ってしまったような、何ともチグハグで落ち着かない気分だ。
「しゃあねえな。ムダだろうけど、とにかく確かめてくるかい、ニッパさん」
やれやれという顔で私のほうに目を向けたガンさんに、受付嬢の冷んやりした声が追い打ちをかけた。
「恐れ入りますが、ご面会のご予約はおすみでしょうか」
「予約ぅ? 」
 ガンさんは悲鳴のような声を上げた。その声はかなり大きかったようで、周囲の連中が一斉に足を止め、咎めるような視線をこちらに向けた。
 私も声にこそ出さなかったが、思いは同じだ。予約という言葉に、思わず自分の耳を疑ったほどである。しかし、受付嬢は確かに予約と言った。
 呆けたような顔で固まってしまっているガンさんにかわって、今度は私が受付嬢に訊ねた。
「予約って、面会するのに予約がいるのかい? 」
「はい。あの、しばらくお待ちください」
受付嬢はどこかへ電話をかけ、なにやら話していたが、やがて受話器を置くと、勝ち誇ったように言った。
「本日は三星物産の会長様、昭和銀行の副頭取様、それに通産大臣の秘書様がいらっしゃる予定で、そのほかはお断りしているとのことですが……」
「三星物産? 昭和銀行? 」
 予約した相手の名前までずらずら並べたところに、受付嬢の底意地の悪い敵意が感じられたが、この際そんなことはどうでもよかっ
 三星物産、昭和銀行と言ったら日本でも指折りの大企業だ。その会長やら副頭取が、何が悲しくてその日暮らしの年寄りの見舞いに来なきゃならんのだ。脳がハレーションを起こし、私はめまいを覚えた。
た。
 受付嬢の軽やかな声はまだつづいている。
「ちなみに明日ですが、午前中には日経連の専務理事様、サナダ百貨店の常務様、午後からは……」
そして、ついにガンさんが切れた。
 初めて知ったことだが、この男、頭にくればくるほど口調はゆっくりし、ドスも利いてくるらしい。
 それでも確実に切れていることは、堅気の人とは思えないその内容で明らかだ。
「ちょいと待ちな。いいかい、ねえちゃん、よぉく聞けよ。予約だの膏薬だのはどうだっていいんだ。俺たちゃな、浮き世の義理で運ばなくてもいい足をわざわざ運んできたんだぜ。ねえちゃんにゃ分からねえだろうが、本来なら向こうさんのほうが三拝九拝してお出迎えしなきゃならねえのよ。それが筋ってもんなんだ。四の五の歌ってないで、婆さんの身内のもんでもさっさと呼び出してきな。銀河ホールのニッパとガンと言えば分かるはずだぜ」
さすがの受付嬢も、これには一発で震え上がった。
「ぎ、銀河ホールのニッパ様とガン様ですね。ちょ、ちょっとお待ちください」
 言うが早いか、転がるようにしてフロアの奥に駆け込んでいった。
十数分後、私たちの前にあらわれたのは六〇歳前後のりゅうとした紳士であった。
 一八〇センチ近くある恰幅のいい体を、仕立ての良さそうな紺ストライプのスーツで隙なく包んでいる。
 七三にきれいになでつけた銀髪、血色のいい顔、紅を塗ったような赤い唇、角張った顎、すべてが圧倒するような自信を発散させている。
 だが、何よりも私を引きつけたのは鈍い光を放っている二つの目だ。年金婆ァと瓜二つの、それは完璧な金壷眼であった。
ガンさんもまったく同じ衝撃を感じたらしい。ため息をつきながら、私を見て小さく頷いたものである。
「あの奥目を見たとたん、なんだかヘナヘナしちゃってよぉ。われながら意気地がねえったらありゃしねえ」
 K大付属病院から信濃町の駅に向かう道を歩きながら、ガンさんが悄然と声を落とす。
「そうでもないよ。あのハリセンと啖呵なんかなかなかのもんだった。見直したよ、ガンさん」
「そう言ってくれるかい。金は好きなんだがね、ああいう金はどうも性に合わねえ」
金壷眼の男はやはり年金婆ァの息子だった。真田浩太朗と言って、渡された名刺にはサナダ百貨店社長とあった。
 サナダ百貨店と言えば全国に無数のデパートやスーパーストアを展開している日本屈指の流通グループ。浩太朗氏は、その総帥ということになる。
 あの後、場所を病院の応接室に移すと、息子は私たちに深々と頭を下げ、こう言った。
「その節は会長、いや母が大変お世話になったそうで、まことにありがとうございました。おかげさまで母も順調に回復しつつありますが、本日はこれから検査がございまして……。お二人にお会いできないことを母も大変残念がっておりますが、そのようなわけで、なにぶん……」
私には、もう何を言う気力もなかった。あれほど威勢の良かったガンさんも手が触れたオジギ草のように元気を失い、私の隣でポカンとしている。
「しかし、なんですな」
 私たちが黙っているのを見て、息子は話をつづけた。
「正直申しまして、私もびっくりしました。まさか母がパチンコなんか、あいや、パチンコ屋で遊んでいるとはまったく知らなかったものですから。まあ、会長といっても今は名目だけで、暇はいっぱいありますから何をしようと自由なんですが、それにしても……」
よりによってパチンコとはねえ、という言葉を辛うじて飲み込んだようだ。金壷眼には冷笑が宿っている。それでも、私もガンさんも無言のままだ。
「ただ、お察しいただけると思いますが、今度のことはあまり外聞のいい話とも言えませんので、おふた方にもどうかご内密にということで……」
 そう言って、息子は内ポケットから白い封筒を二つ取り出し、テーブルの上に並べた。
厚さからすると、それぞれ二十万は入っていそうだ。
「些少ではございますが、これはご迷惑をかけたお詫びということで」
私の胸には怒りと恥ずかしさが急速にこみ上げてきた。毒づいて断ってやろうと思ったが、とっさには適当な言葉が思い浮かばない。
 そのわずかな隙に、隣のガンさんの手がすっと封筒に伸びた。
 一瞬、この野郎と思ったが、それからのガンさんの行動は私の予想とは正反対のものであった。
ガンさんはまず封筒の口を開いて中身を確かめ「ほほう」とニヤリ。それから無言のままに二つの封筒を手にとって重ね、トントンと丁寧にそろえた。そして、ゆっくり立ち上がると、手に持った封筒でいきなり息子の頭を往復ビンタしたのである。
 封筒はちょうどハリセンのようになり、パンパンと小気味のよい音をたてた。
 その封筒をポンと相手のひざに放り投げるや、歯切れのいい啖呵がポンポン飛び出す。
「なめんじゃねえ。こう見えても、こちとら江戸開闢以来筋金入りの江戸っ子だぜ。社長だかガチョウだかしらねえが、野暮な真似するない。この田舎モンが! 」
 意気揚々と引き上げる私たちを、息子は金壷眼をパチクリさせながら見つめているだけであった。

 それからひと月ほどたった頃である。ひょこり年金婆ァが銀河ホールに姿を現した。
 昼過ぎに私が銀河ホールに顔を出すと、相変わらず『花満開の』の百十五番台にちょこんと座り、見上げるようにして盤面をにらんでいる。
 私はあわてて踵を返したが、遅かった。気配を感じたのか、シマの角を曲がる直前で婆さんに見つかり、店中に聞こえるような大声で呼ばれてしまった。
 こうなったら仕方がない。私は空いていた年金婆ァの隣の席に渋々腰を下ろした。
「先だっては悪かったね、せっかく来てもらったのに嫌な思いをさせちゃったようでさ」
 ついぞ耳にしたことのないような柔らかい口調で、婆さんが言った。
「なあに、どうってこたないさ。けっこう面白かったよ」
そう受け流しながらも、私のほうはどことなく素っ気ない感じになってしまう。何しろ、大サナダ流通グループの会長サマだ。
「息子から聞いたよ。ガンさんがいい啖呵を切ったんだってねえ。あたしも聞きたかったよ。息子は腹を立てていたけど、あたしゃスカッとしたねえ」
「体のほうはもう、いいのかい」
「ああ、前より調子がいいくらいさね。でも、なんだね。あんなことがあったおかげでアタシも吹っ切れたよ」
「吹っ切れた? 」
「そう。さっぱりしたよ」
 年金婆ァは玉を弾くのをやめ、改まったように私のほうに向き直って話し始めた。
その内容をかいつまんでいうと、こういうことになる。
 七年前に長年一緒に会社を切り盛りしてきた婆さんの亭主が死んだ。その後は会長をやっていた婆さんが社長を兼務して経営に当たってきたが、三年前に長男に社長を譲った。会長としてはとどまったものの会社にはまったく行かず、経営にも口を出さないようになった。
 ところが、昨年あたりから会社の経営や遺産相続などをめぐって兄弟や親戚間に深刻な争いが勃発。その影響か、会社の中の派閥争いも激化してきた。
 このまま放置しておいては事態は泥沼になるばかりで、せっかく築き上げた真田グループも真田家もバラバラになってしまう。それでは一緒に苦労した亭主に申し訳がない。
 そんな一大危機の中で、古参の役員が年金婆アに復帰を懇請した。「重しになるのは会長しかいない」というのである。
 ああ見えても、会社内では泣く子も黙るカリスマ的な存在らしい。
 残された老後を好きなパチンコをしながらのんびり暮らすつもりだった年金婆アだったが、長年苦楽を共にした老臣たちに頭を畳にすりつけられたら仕方がない。再び会社に戻ることを決意した。
 そうなれば、気楽にパチンコを打つこともできなくなる。倒れた日は、今日がパチンコの打ち納めと思ってやってきたという。
「パチンコはね、二〇年くらい前に出張に行ったときに、ひょんなことから知ったんだ。面白くってさ、性が合うって言うんだろうかね。亭主と二人三脚で会社一筋だったアタシにとって、それ以来唯一の息抜き、楽しみになったのさ。亭主のほかは誰も知らないね。だから、たぶんもう死ぬまで打てないと思ったときは寂しかったよ。でもね、倒れてみて初めて気づいたよ。人間、勝負は一回きりってね。あたしはもう一丁上がりの人間さね。それがいつまでも終わった勝負のことにかかずらうのはおかしいもん。第一、死んじまったら会社も家も、社員も家族も関係ないからねえ。後のことはこれから長く生きていく連中に任せて、野となれ山となれさね。そう考えたらすっかり気が楽になってね、私はひとりで私の好きなようにやることにしたのさ」
 そうそう、今度家も出てね、ケア付きマンションでひとり暮らしをすることにしたから、そのうち遊びにおいでよ。
 付け加えるようにそう言うと、婆さんは金壷眼を糸のように細くしてコロコロと笑った。
私は黙っていた。というより、話に気圧されて、言葉が見つからなかったと言ったほうが当たっているかもしれない。
年金婆ァはそんな私を気にする風もなく、話はそれだけという感じで台に向き直った。そして、何事もなかったように玉を弾き始めた。
 玉がチャッカーに飛び込み、再びデジタルが忙しく回り始める。
 私はなんとなく立ちそびれて、そのまま意味もなくデジタルの回転を見ていた。
 しばらくすると『3』のリーチがかかり、さらにスーパーリーチに発展した。『1』が散り、『2』ができた。そしてその『2』も散った。確率変動の完成だ。
 今度は年金婆ァも倒れない。ふっと表情を崩しただけで、それが当たり前のように玉を打ちつづけている。
「おめでとうさん」
 いい潮と思って立ち上がった私の袖を年金婆ァが引っ張った。
「そう言えばニッパさん、アタシのお金はどうなったのさ」
 私は一瞬、面食らった。婆さんが何を言っているのか分からなかったのだ。
「金って、なんのことだい」
「とぼけちゃいやだねえ。あの時の儲けさね。店長の話じゃ二十連チャン以上したっていうじゃないか。一回二千三百個、約六千円として二十回で十二万円。まあ、いただくのはそれだけでいいよ。残りは代打ちのお礼。遠慮なくとっといとくれ」
「ああ、あの金は……」
 あんたの息子に渡しそびれて、帰りにゲン直しとばかりにガンさんと飲んで、ソープに行って……などとは言えない。
第一、二十連チャン以上と言っても正確には二十一連チャン。換金額は十二万円と二千五百円だったはず。あんな思いをして、たった二千五百円がご祝儀かい。しかも遠慮なく、ときやがった。
 でも、もちろんそれも言えない。
 そんな私の心を見透かしたように、年金婆ァが笑い声混じりに言う。
「これでもニッパさんの倍くらいは生きているからね。だてに苦労は貯金していないさね。あんた、いつもオアシは二〇万くらい持ってんだろ?」と手を出した。
何で知っているのか、人の財布まで読んでいやがる。食えない婆ァだぜ、まったく。
 心の中で思いっきり悪態をつきながら、しぶしぶ婆さんのシワクチャな手に十二万円乗せると、私は急いで店の中を回り始めた。
 ガンさんを見つけ、せめて半分の六万円は取りもどさなくてはならない。

(ROUND1終了)

CR銀河ホールに、ようこそ! round1『年金婆ァは笑う』

CR銀河ホールに、ようこそ! round1『年金婆ァは笑う』

古き良き昭和時代のパチンコホール。伝説の名機「花満開」をベースに、パチンコに取り憑かれた人たちの人間模様を描きました。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-06

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