Fate/defective パラノイド【プロローグ】

プロローグ 二〇二〇年 三月二十日 十七時

 LED電灯の青白い光が部屋を照らした。部屋にいる青年には少しばかり眩しい。
 白く手狭な部屋には畳まれたダンボールが壁に立てかけられていた。それは一週間ほど前に家に届けられ、青年に圧迫感を齎していた。この数個分にしかならないダンボールに青年の生活に必要なものだけが詰め込まれて、ここ日本から遥か遠くの英国に荷物が追い出されるのだ。気が重くもなろう。
 青年は深い青色に反射する濡れたような黒髪が眼鏡の上にかかり視界の半分ほどを覆おうとも払うこともせず、ただただ目の前の大量の画材と十数枚のカンバスを見つめていた。かれこれ一時間はそのままで。
 青年――御代佑は魔術と呼ばれる神秘を探求する者であり、今年の秋から魔術の探求を深めるべく本場イギリスのロンドンにある魔術協会の本部・時計塔へと通うことが決まっている魔術師である。しかし、本人は溜息をついて、このように準備の手が止まっている有様だった。
 魔術が嫌いかと言われれば少なくとも肯定はしないが、彼にとっては進んで求めようと思うものではなかった。何故かと問われても佑はその答えを持ちえないのだが。
 嫌いにはならずとも時計塔入りが進まないのは、今目の前に置かれている思い入れの深い品々との別れを突きつけられているからだと思う。
 佑は絵が好きだった。自分の手で多くの情景が描き出されていく様子は彼の心を躍らせた。しかし、完成に至ったことはただの一度もなかった。その途中で母の叱責が飛んでくるからだ。
 いつからかは佑も覚えていないが、彼の母は突然魔術の後継ぎとして佑を厳しく育て始めた。元々魔術は一子相伝の特別なもの。その行動については魔術師にとって不思議なものではないのだが、母が前々から後継ぎ云々に執着していたかと言われればそんなことはなかったと佑は思っている。
 御代家先祖代々の魔術を継承し、時計塔で更に神秘のために研究を重ね続けるのだと強制された日々は、佑をただ消耗させ硬い表情の奥に感情を仕舞い込ませた。そして、そこに希望の光を注いだのが芸術の世界である。描いた人々の才能ばかりでなく、感情も人生も乗せられた絵画たちは佑の心を癒した。自分も同じように感情や人生を乗せることができるのではないかと考えるのも自然の流れである。
 しかし、それは叶わなかった。魔術のためにと統制された日々はついに彼の趣味にまで及んだ。巧く描こうが褒めるどころか目も向けずに魔道書を突きつけてくる母。ならば仕方なしと一人部屋でカンバスに向き合うだけとなっても母は許してはくれなかった。その度に未練がましく部屋の奥へ奥へ押しやったカンバスは積みあがっていった。挫折を繰り返し、幾度となく絵筆を捨てる勇気を持とうと考えても、積みあがった未練がそれを引き止めた。
 そしてまた未完成に終わると知りつつも母の目を盗んでは鉛筆と筆を取る。今佑の目の前にあるのは繰り返した挫折と未練が詰まった品たちだった。これらは近いうちに“不要なもの”として処分されるだろう。イギリスへ発つには不要だと切り捨てられるから。
 これから先を心の支え無しで、たった一人で立ち続けられるだろうか。魔術の発展と継承のために生き続けるだけの世界で。佑は見えぬ未来への不安に身を震わせた。
 これでも先延ばしにされている方なのだ。大体日本出身の魔術師は高校卒業と共に時計塔に本格的に入る者がほとんどだ。特にロンドンの時計塔へ入れるほどの名家であれば。それを佑は二十歳になる今年まで延ばしてもらっていた。御代家が名家ではなく、日本支部の魔術師の推薦であったからこそそのような予定変更が許された訳だが本来はありえないはずだった。
 佑が先延ばしを直談判できるはずもなく、母に延期を持ちかけたのは妹の結だった。魔術師ではない結はしかし佑の一番の理解者だ。早計なロンドン入りと結個人の「兄と離れたくない」という意見で思った以上にあっさりと延期されたのだった。
 だから絵筆たちとの別れも当然延期になったのであるが。迫り来る期限に怯えて過ごすことになってしまった二年間を今更に後悔した。
「もっと、ちゃんと向き合っておけば良かったな……」
 これでは時計塔へ行っても置き捨ててきた物たちを憂い、魔術の研究もままならないだろう。遠からず訪れる未来に佑は重く呟いた。
「兄さん? いる……よね」
 そこへ軽いノックと共に入ってきたのは妹の結だった。自分とは正反対といえる性格の結は声を弾ませて言う。結が首を傾げると濃い色の長髪が柔らかく揺れた。
「ちょっと用事できたから、留守番頼もうと思って」
「いいけど……もう夕方だよ?」
 結ももう高校二年生で夕方に出かけること自体はおかしくはないが普段の結からすると珍しく、佑は首を傾げた。窓は既にカーテン越しでも夕日が街を照らしていることを示している。
「う、うん。中学の友達と急に会えることになって」
「そっか……」
「うん。ご飯までには帰るから。じゃあ」
 僕とは違い卒業後も仲の良い友達もいるか、と佑は納得した。結は納得した様子の佑を見て踵を返そうとする。
「あ、待って」
 佑は咄嗟に結を止めた。
「えっと、気をつけて……暗くなると危ないから」
 何があったわけではないが、彼女の後ろ姿にきちんと言葉をかける。どこか幼少期に戻った気分だった。
「大丈夫大丈夫。兄さんは前髪切ったらどうかな? 見えにくいでしょう?」
「それは……追々」
 言い返されたような心地で佑は声を抑えて目を逸らした。振り返った結は屈んで佑の髪と眼鏡に隠れた目の奥を覗き込むように言葉を重ねる。
「指摘じゃなくて、アドバイス。ね?」
 厳しい母の叱責を連想したことまで見抜いた結は、それじゃあ行ってきます。と笑顔で家を出た。それとは打って変わって残された佑は困ったように少し眉を寄せて、伸ばされたままの前髪を撫でつけた。これは佑なりの防御だった。

◇◇◇

 夕暮れの秋葉原。仕事帰りや学校帰りの人たちが様々な用事のためにこの地へと歩みを進める。時には必要な機械部品のジャンク品を、時には趣味の品々やイベント・娯楽を求めて。時には懐かしい友人に会うため。時にはそこを拠点として日々を過ごしている人に会うため。
 そして御代結はこの秋葉原を拠点に活動しているとある人物に会うために、夕方になり混沌とした街を歩いていた。足早に人を掻き分け進む。高いビル群でほとんどの陽は遮られて影になっているが、交差点に差し掛かると夕日は結の髪を紫紺に、白いワンピースを薄赤に染めていた。
「ごめんね兄さん」
 彼女は少しの罪悪感とそれ以上の決意で、兄と同じ青空の瞳を彩る。中学時代の友達に会うという話は全くの嘘だった。彼女が秋葉原で会おうとしている人物は友人などと軽く言うには年上過ぎた。
「でも兄さんのためだから」
 その言葉は決意に満ち溢れて、人々の喧騒に潜んだ。

 ――それに中学時代からの知り合いなのは本当だから。
 兄へ返した少しの屁理屈が混じった嘘を思い返して結は口元に笑みを浮かべた。

 目的の場所は秋葉原のビル群の一つ。その中の地下にあった。そこに佑が今通っている魔術協会の日本支部だった。日本ではこの秋葉原にしかない支部なのか、数ある内の一つかは結には分かりかねるが、それは些末な事であった。
 地下に広がる魔術の研究室。出入り口は複数あるようだが結は今来ている出入り口しか知らなかった。小さいオフィス然としたドアの前に立ち、横のインターホンを押す。
『お名前とご用件を』
 どこか機械的にも聞こえる中性的な声が結を迎える。約束をした人物は話を通しておくと言っていたので慌てることもなく名前と用件を伝えた。
「御代結。ユージナス・ダーシュ氏の研究室に兄・御代佑に代わり、届け物を」
『ダーシュ氏より、話は承っております。どうぞ。場所は……』
「わかるので、大丈夫です」
 ドアのロックが外された音を聞いて結は協会内に入る。彼女は魔術師ではないが、ここに来るのは初めてではない。
 何故魔術師でない結が魔術協会へ出入りしているか。
 結は幼少から佑にその日学んだ魔術について好奇心から聞かせて欲しいと頼み込んでいた。魔術についてそれなりに理解しているのはそのためだ。そして今は兄の付き人という扱いで魔術協会に赴き兄の忘れ物を届けたり、時に魔術の話を聞いたりしていた。今回はそれを利用して“佑のお使い”という体で魔術協会に足を踏み入れる。
 結が話をしに来た人物に会ったのも兄のお使いのときだった。“彼”は兄を見出して研究室に誘ってくれた人で、佑の表情が少し読みやすくなったのは彼の研究室に招かれたと聞いた辺りからだった。
 右へ左へ入り組んだ廊下を四回ほど曲がったところで目的の部屋に辿り着く。周りがコンクリートであるのに、そこの扉だけが木製なのが少し可笑しかった。
 そっと扉を三回ノックすると「どうぞ」と若い男の声が聞こえたので結はゆっくり扉を開けた。
 室内は少し暖かく、コーヒーの香りが漂っていた。目的の人物は部屋の奥のデスクチェアから丁度腰を上げるところで、若いと言える男は柔らかい微笑みで結を迎えた。
「やあ、結ちゃん。久しぶり。半年振りかな?」
「はい! お久しぶりです教授!」
 彼の名はユージナス・ダーシュ。年はまだ三十ほどだというのに老成した口調で、周りからは「教授」と言われ親しまれていた。まだ魔術師としては若い部類になるが、一つの研究室を持つ実力も才も兼ね備え、人望もある人だった。
 彼が佑を見つけ研究室に招いてくれなければ、佑は今以上に塞ぎこみ最悪の場合、家族の結にすら心を閉ざすようなことがあったかもしれない。そう考えると結は背筋が凍る思いだった。
「今日は“彼”の話だと聞いたけど」
 ユージナスはまるで詳細を知らぬかのように話を持ちかける。こうして佑の本心を少しでも言葉に出させてくれたのだろうか。結は今日見た兄の沈んだ顔を思い浮かべながらユージナスを真っ直ぐ見つめた。
「はい。兄のロンドン行きについて」

 ソファに腰掛け、二人は向かい合う。ユージナスが出してくれたコーヒーの湯気が惑うように揺れた。彼は佑の時計塔への推薦書を出してくれた張本人だった。普通ならロンドンへの切符を出した人間にロンドン行きを止めたいなどと言う人間はいないだろう。しかし、そうした所を受け止めてくれる人格者であるということも結は知っていた。それでも推薦者の前で真っ向から対立する意見を出すことを結は戸惑った。
「彼は、ロンドンへ行くのは気が進まないようだね」
「えっと……は、はい」
 ユージナスは最初から気づいていたらしい。その顔は不快な感情は一つもなくただ事実だと確認する落ち着いたものだった。
「魔術が嫌いには見えなかったが、その在り方に強い抵抗感を持っている。そう感じたんだが……妹の君にはどう映る?」
 この部屋で過ごすなかで、すっかり兄の内面を当てていた彼の言葉に結は目を見開いた。
「はい、その通りです」
 兄がロンドンへ渡ることに、魔術師であることに苦痛を感じている。それは魔術ではなく母の束縛のような教育が原因だった。趣味すら認めぬ厳しい姿勢は幼少からの気性ではなかったのだ。しかし急に佑に魔術の勉強以外を認めなくなり、終には今秋のロンドンへ渡る折に絵を描くことを強制的に、完全に止めさせるつもりだった。
「このままでは兄は心の支えだった趣味まで止めさせられてしまう。せめて、せめて絵を描くのと両立させてもらえないか、教授から母に頼めませんか?」
「うーん。君だって説得したんだろう?……私では力になれないのではないかね?」
「……」
 推薦者のユージナスであればなんとかなるのではないかと思っていた結は肩を落とした。二年前我侭を言ってロンドンへ行くのを延期させたのは結だった。そのときは確かユージナスも時期尚早ではないかと提案したのだが、甘いと切り捨てられていたのを思い出す。最終的に妹である結の言葉でなんとか止めたのだ。今度も同じようにはいかないだろう。
 結はその当時の諦念に囚われて顔を俯かせる兄の姿を瞼の裏に視た。その表情は家族の離れたくないとか、絵を描くの止められたくないといったものとはまた別の否定を宿していた。
「……兄は、魔術師に成りたくないんだと思うんです」
 魔術師の巣穴の中で禁忌の言葉を紡ぐ。このような言葉さえ赦すことができるのはユージナスぐらいだ。
「ふむ。どうして彼が魔術師になりたくないと考えるのかな。彼はそういうことをはっきり言うタイプではないだろう?」
 彼の言う通りだ。佑は一言も魔術師の道を否定したことはないし、そんなことを口走れるような豪胆さは持ち合わせていない。持っていたとしても、それは幼い頃に削ぎ落とされてしまっていたことだろう。
 だが、結は兄の内面を兄以上に的確に把握していた。御代家のまだ力の弱い魔術基盤を確固たるものとするために存在しているのだと捲し立てられ、そのための努力は当然であると迫られた兄。その兄が母に叱られようとも無視されようとも絵筆を取り続けた意味を。理由を。
「魔術師は――代々家に伝えられてきた魔術を次の魔術師に伝えるのが目的……ですよね」
 佑やユージナスから魔術について話は聞いて理解してきたつもりだが、確認し自らの胸に刻み込むよう訊ねる。
「ああ、魔術師の悲願である根源へ至るというのは、一代二代でどうにかできる話ではない。私ら魔術師は根源に近づくべく努力するが、それは自分のためではなく何百年も後の魔術師のためだ」
「そんな……使い捨て、みたいな」
「ああ、君の意見は的を射ている。その通り、使い捨てさ」
「そんな使い捨てに、兄は成りたくないと思っています。ずっと、見てきました」
 終わりの見えない根源などという実体のないものを追いかけ続ける歯車の一部にされるとわかっていながら、ひたすらに魔術の覚えさせられてきた佑は自分というものがわからなくなってしまうほどに感情を押し殺してきた。認められたことのない彼は己の言っていること、やっていることが常に正しくないのではないか。求められていることに応えられていないのではないかと疑い続け、その疑念は彼の心の基盤を融解させた。結は当時の兄が朝になれば消えてしまう幻のように見えて恐ろしかった。
 そんな縋りつくものを失くした佑が偶然にも見つけたのが芸術の世界だったのだ。絵画はその人の内面も外面も顕著に表し、その裏には作者の人生があった。ゴッホやダ・ヴィンチ、それ以外にも多くの芸術家の人生を視て、兄の目は輝いた。妹の前でも寡黙になってしまった彼が、絵を語るときだけは少しだけ饒舌になった。佑がそこからカンバスに、風景を通して“自分”を描き出そうとするまでに時間はかからなかった。それが結にはとても嬉しかったと共に安心した。ようやっと兄に生きる力のようなものが戻ってきたのだと。
「兄の気持ちは、魔術師と反対なんです。自分の存在を証明したい。魔術の歴史の糧になるのではなくて。――どこかに、遺したいんです。自分が“居た”という証を」
 研究室に響く時計の分針の音が大きすぎるほどの静寂が結の言葉を吸い込んでいく。コーヒーの湯気はいつしか立ち上るのを止めてしまった。それがまた彼女の言葉が叶わないものだと世界に否定されている気がして苦しかった。兄が魔術を教えられる前の姿を思い出そうとする。笑顔の兄を見ることが出来たのはもうどれだけ前だったろう。浮かぶのは俯いて周りの評価に怯え、小さくなる兄の姿ばかりで思い出すのは困難だった。
「私が代われれば良いんですけど……」
 結は心の声を漏らした。そんなに辛いのであれば、自分自身を疑ってしまうほどに疲弊してしまうのであれば。そんなことを佑一人がしなくたって良いではないか。しかしそれが叶わぬことは結も知っていた。兄の精神面の不安について過去に数度ユージナスには相談したことがあるが、彼女はその度に代わってあげられるならば代わりたいと零していた。その度に魔術師の世界の現実を突きつけられる。今もユージナスは困ったような顔で結の言葉に咎めるように言う。口調だけは柔らかかったが。
「それは難しいと知っているだろう? 一子相伝。その家の魔術の成果である魔術刻印を引き継げるのは一人だけ。譲渡も出来なくはないが……それは異端と呼ばれるほどの例外だ。魔術師にとっては誇りである魔術刻印を手放すことになるんだから。君も彼も苦しい思いをすることになる」
 結が肩代わりをして佑が後ろ指をさされるようなことになるのであれば、結果として佑の負担は変わらない。
「どうにか……なりませんか。このままじゃ兄さんは……」
「ふむ、そうだな……少し待っていてくれ」
 両手を膝の前で握り締め、震える声で呟く結の様子を見たユージナスは一声かけて奥の資料庫へと潜っていく。結は不安げな顔を上げて縋るような目で、資料庫の物音を聞いてじっと待った。ユージナスが戻ってくるまで動くことなく。
 数分して戻ってきた彼は、結の前のローテーブルに持ってきた品を置いた。それは装飾された古い木の箱で、彼が中を開けるとそこには照明の光を澄んだ空のように濃い青で反射させる宝石が入っていた。二等辺三角形のそれは先に装飾がしてあり、どうやらピアスになっているらしい。
「これは?」
「これはルーンストーン。ルーン魔術に用いられるものだ」
 魔術の簡単な概要を聞いたことがある結は「ルーン魔術」という名前を聞いたことはあったものの、魔術に用いる道具を見たのは初めてだ。不思議な心地のするような石を見て、神秘というものの一端を知ることができたように結は感じた。
 ユージナスが何故魔術に使われる品を彼女に見せるのか。首を傾げて話の続きを促す結を見て、彼は真剣な顔で話を続けた。
「結ちゃんは、聖杯戦争、というのを聞いたことがあるかい?」
「聖杯……戦争……?」
 結は俯いてユージナスの言葉を反芻する。胸の鼓動が先程より早くなったような気がした。弾かれたように顔を上げて目の前の教授の顔を見つめる。戦争、誇張なく放たれた言葉であるのは目を見ればわかった。「続けようか」と彼は話を再会する。
「どんな願いでも叶えられるほどの魔力量を持った器、聖杯を手に入れるために魔術師間で行われる争いだよ」
 聖杯と呼ばれるどんな願いでも叶えられる「万能の願望器」。それを優勝商品に、七人の魔術師が一人一騎使い魔を召喚し一組になるまで争う戦争。それが聖杯戦争。
 その使い魔とは、ただの魔術師の人形ではない。その使い魔は過去の伝説・伝承・歴史の偉人たち。実在した英雄、その分霊。それを英霊として使い魔――サーヴァントとして従え戦わせる。そして魔術師は使い魔を使役する主人――マスターとなる。とはいえ英霊は高次な――畏れるべき存在。完全に従わせられるのは三回までの有限だ。それは体に令呪という刻印で表されている。
「そしてこのルーンストーンはその使い魔の触媒となるものだ。喚び出すにも基本的にその使い魔に縁のある触媒が必要だからね。ルーン魔術に関わりのある英霊は多いから、あとは相性になるが」
 脱落条件はサーヴァントが消滅すること。マスターが死亡すること。サーヴァントを従わせられる令呪が無くなること。
「以上で聖杯戦争の説明は終わりだ。それが近いうちに行われることになる」
 説明を静かに聴いていた結はその言葉一つ一つが重く感じた。心臓が更に早く脈動を始める。胸が気味の悪い熱さを孕んでいた。
「……って、それじゃあ死んでしまうことも……!?」
「あるだろうね」
「そんな! そんな危険なことさせられません!」
 結は激しく首を振った。きつく閉じた瞳から溢れた涙は目尻から頬に伝った。
「どうして参加するべきと、教授はお考えなんですか!?」
 咄嗟にソファから飛び上がるように立ち上がった結は、悲鳴のように叫んでユージナスに詰め寄ろうとした。しかしその行動はローテーブルに足を、心を彼の宥める声に阻まれてしまったが。
「まあまあ座って。君の言うことはごもっとも。正しいよ」
 結の肩をそっと押さえ再び座らせたユージナスは自分も腰掛けると組んだ脚に手を乗せた。
「これは魔術師の悲願とも呼ばれていてね、優勝商品である聖杯さえあれば根源……魔術師たちのゴールに辿り着けると言われ、過去何度か行われている」
 そして彼は視線を下に、机の触媒を見て遠い過去を思い出すように目を細めた。
「もちろん命を落とした者も多かったよ、だがそれだけに参加するだけでも意義がある」
「意義……ですか」
 結の言葉に彼は深く頷いた。
「戦争では武功が重要だろう? 聖杯戦争も小さな家が聖杯に迫ったとなれば大きな価値になるんだよ。君たちの母が聞けば一つくらいの我侭を簡単に許してくれるくらいのね」
 母という言葉に彼女はハッとしてユージナスの顔を見た。柔らかく明るい顔に戻った彼は肩を竦めた。
 確かにそれだけ魔術師にとって大きな出来事であれば上手くいけば、御代家の名を上げたいと考える母は満足するだろう。しかしもし兄が怪我をしてしまったらどうすればいい。もし兄が命を――最悪の場合を考える手前で結は思考を止めて覚悟を決めて言い放った。
「なら、私が」
 決意を固めた声を聞いたユージナスだったが、柔らかい笑みを少し曇らせた。
「うむ……確かに君でも構わないのだろうけど……やはり正式な御代家の後継者である佑君が参加することに意味がある、と私なら思うかな」
「ですが……」
 ユージナスの言葉に目を左右に揺らして戸惑う結の姿を見て彼は笑みを深めた。大事なところで躊躇してしまうのは御代家の性質なのだろうか。彼のなかでは話はもう完結していたため余裕の表情だった。その顔を見て結は更に自信なさげにした。ユージナスは最後の一押しとばかりに言葉をかける。
「大丈夫。彼は優秀だ。間近で見ていた私が保証しよう。気の弱い所が玉に瑕だが……それも君と私が「出来る」と背を押すだけでも十分だと思うね」
 自信をもった声で答えたユージナスを見て結はもしかしたらと考える。人の観察眼に長け、魔術師としても大成しているであろう彼がここまで言うのだ。その言葉は真実なのだろう。そして兄が例え魔術師に成ることに積極的でなくとも、魔術の勉強を怠ることはなかったのだろう。それは自宅でも真面目に机に向かう姿を見ていた結も知っている。そしてユージナスが優秀だと言うならば、努力ばかりでなく才もあるに違いない。「それに」と彼は続ける。
「妹の君に命を懸ける覚悟が出来るんだ。どうして兄の彼に出来ないと思うんだい?」
 ああ、この人は凄い人だ。結は純粋にそう思った。

◇◇◇

 夜になっても片付けの捗らなかった佑は背伸びと共に欠伸をした。壁に掛けられた時計を見ようとして、前髪で視界が半分ほどになっていることを思い出す。
 ああ、これは確かに切ってしまった方がいいかもしれない。しかし前髪切ることひとつでさえ迷いが生じてしまうのが今の佑だった。
 前髪を手で払って時計を見る。もう十九時半になっていた。思い出すのは旧友に会いに行くと言った結のことだ。もうすぐ帰ってきてもよさそうなものだが。そう考えていたところにちょうど部屋の扉が叩かれる。入ってきたのはもちろん結だ。
「兄さん。ただいま、ちょっと話があるんだけど……」
「おかえり。どうしたの、結」
 帰宅の挨拶もそこそこに、結はさっと部屋に入ってきて後ろ手に扉を閉めた。佑はどこか固い雰囲気を感じ取る。ひたすらに妹が用件を伝えてくるのを待つ。静寂が耳に痛かった。
「聖杯戦争……って知ってる、よね」
 時計秒針が半周ほどしたあたりで結はゆっくりと口を開いた。耳に届いた言葉がとても彼女の口から出たものなのか、信じがたかった。佑の通う魔術協会、時計塔に出入りしているにしても、聖杯戦争まで知っているなんて思わなかった。
「結が、どうしてそんなこと」
「今日、教授さんとお話をしたの。それで、兄さんに参加して欲しくて……」
 何故そんなことを知っているのかと訊こうとした言葉は、結の外出の真実を前に消失した。彼女の空色の瞳は深く固い決意が見て取れて、そしてそこには悲痛さが混じっていた。彼女は長い紺色の髪を激しく揺らして首を振る。次に続く言葉は佑の胸を打った。
「兄さんがこれ以上自分を押し殺して俯く姿を見ていたくないの! 自由で、自由でいて欲しいの……」
 結は目の前の兄の姿を見つめる。無造作に跳ねた髪や目を隠すほどの前髪、無感動にも見えてしまう表情の希薄さ。視力の為に掛けている眼鏡さえ、自らを護る盾のように感じる。
 十数年間、兄が味わってきた仕打ちは一目見ただけでわかるほどだった。ただの一度も認められずに自分を押し殺し続けて。今では何がしたいのか何が欲しいのか、何が嫌いなのか。きっと兄はもう答えられない。
「そのために……?」
「本当は私が代わってあげたくて、母さんにもこのことを話したんだけど……兄さんがやるのが条件だって」
 兄がこれ以上傷つかぬようにと、駄目もとで母に電話を掛けた。聖杯戦争に参加して良い結果が残せれば、兄がもっと自由に生きていてもいいか。そして結が聖杯戦争に参加してもいいか。しかし兄の自由については承諾してくれたものの、参加するのが兄であるのが前提であると言われてしまった。それでも、兄が自由になれるという希望が見えたのだ。結は戸惑う佑にさらに言葉を重ねた。
「もし聖杯を取れなくても、頑張ったんだって認められれば! 無理に時計塔に行かなくても良いかもしれないし、絵だって堂々と描いたっていい!」
「絵を……。でも僕は、別に、行きたくないんじゃ……」
 佑の瞳はここでついに揺れた。濃い紺色の髪に阻まれていたが、結にははっきりと彼が希望を視たのだとわかった。それでも彼は尻込みして今の状況に不満は無いのだと言い訳を始める。また自分を押し殺して、波風が立たぬように凌ごうとしている。そんなことはお見通しなのだ。
「――兄さんが、兄さんらしく生きるために」
「結……」
 佑もまた結の叫びを聴いた。今の今までずっと自分らしく生きるなどということを考えたことはなかった。そんな余裕はなかったからだ。佑は常に下を向いていた。周りの目が無関心に一瞥だけして逸らされるのが、小さな期待にも応えられなかったときのこちらを咎める視線を受け止めるのが苦痛で仕方がなかったからだ。
 そして、彼なりの防衛本能は、いつしか彼を自壊させていたのだと気づくことができたのは恐らく結だけだったのだ。常に前を向いて、兄を見続けていた結だけが。
 呆然と呟く佑に、彼女は優しく声をかける。
「それにね、無理を言ってるわけじゃなくて」
 ずっと後ろに回されていた両手はここでやっと佑の前に現れた。そこには封をした手紙と古い木の小箱。
「これ、教授さんからの手紙……兄さんなら出来るって」
「――っ」
 かあっと佑は胸にこみ上げてくる感情を抑えられなかった。目を見開く彼の元に結は近づき、そっと手に手紙と小箱を渡した。
「私も、兄さんなら出来るって思うから」
 待ってるね、と最後に言い残して結は部屋を後にする。残された佑は渡された品をしばらく見つめていたが、やがて決心がついたのか封筒の封を切って中の手紙を読んだ。書かれた文字は確かに尊敬する人物の文字だった。

◇◇◇

 私のお気に入りの弟子、御代佑へ

 久しぶりだね。いや実際には五日振り程度だが。

 話は妹さんから聞いたね?

 早速本題に入るが、君を見込んで聖杯戦争への参加を提案したい。

 前々から君のことは心配していたんだが、妹さんは君の事をよく見ているね。

 君は本当は魔術師に成りたくないと思っている。いや恐れているというべきかな?

 その恐れを清算してからでも、魔術の本場ロンドンへ行くのか、どうするのかを決めると良い。

 それでも遅くはないさ。君は若いのだから。

 それに君が日本を発ってしまうと私の研究室も寂しくなるからね。

 妹さんには手紙の他に聖杯戦争への切符というべき品を託した。

 きっと君に理解のある英霊を喚ぶことができるよ。

 最後に。君は自分に自信が持てないと思うから私からこの言葉を。

 君は私の“お墨付き”の魔術師だよ。それを誇ってくれたまえ。

 じゃあ、長くなってしまったがこれにて失礼させてもらおう。

 ユージナス・ダーシュより

◇◇◇

 手紙の端に一滴、円く水が染みていた。どうやら泣いていたらしかった。頬を伝って最後には紙に着地した涙を指の腹で撫でた。
 これだけの言葉を与えられたことなんてあっただろうか。佑は手紙を丁寧に折りたたんで、手紙と共に渡された箱を見た。装飾された古い木箱。
「これは……」
 中を開けるとそこにはルーン魔術に用いるルーンストーンが、ピアスという形態をして布の上に置かれていた。サーヴァントを召喚するための触媒だ。これを渡してきた妹の顔を思い出す。その目の強い光は佑の心に深く沁みこんでいた。
 結にそこまでの心配をかけていたのかと佑は今初めて気づかされる。
 結はいつも佑の理解者としていてくれたわけだが、その行動はいつも佑を支えていた。魔術の話を教えて欲しいと詰め寄ってきた幼い妹の姿が思い出される。それは独りで知らない世界に足を踏み入れる佑を見て、自分の理解の及ばぬ世界で孤立しないようにするためだったのだろう。それにより結は一般の人間という枠から少しずれてしまったかもしれないが、佑を確実に救っていた。俯いてばかりであった彼は、結がそこまで考えて自分の傍にいてくれたことに今まで気づくことが出来なかったのだ。それは佑がただ寄り添ってくれていただけで満足していたからなのだが。
 結の行動と教授の言葉。ついに背を押された佑は立ち上がる。部屋から出ると結が扉の前に立って待っていた。
「兄さん」
 恐らく佑がどのような答えを出すかなんてわかっていたのだろう。佑とは反対にころころと表情の変わる彼女の顔は不敵な笑みを浮かべていた。
「その顔は、決めたんだね」
「初めからわかってたんでしょ……でも、どうしてわかるの?」
 ふふふ、と声に出しても笑う結は自信を持って、胸を張って佑に伝えた。
「兄さんの妹ですから! 兄さんのことは一番に理解してるつもり」
 敵わない。妹にも、尊敬する教授にも。
 佑は「ありがとう」と小さく呟いて工房へと向かった。聖杯戦争に参加する覚悟を決めて。そして妹の結はその後ろ姿を見て優しく微笑む。
 ここ最近の兄は絵画に出会う前の兄に戻ったようで不安だった結だが、その足取りに迷いがないことを感じ胸を撫で下ろした。

Fate/defective パラノイド【プロローグ】

Fate/defective パラノイド【プロローグ】

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-01-04

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work