屋根裏の二処女


 黒いお仕着せに純白のエプロンのメイドは屋根裏部屋の扉を開けておはようをいい、伯爵令嬢の目許を見て、
 「ゆうべはちゃんと化粧水をつけて寝た?」
と言った。
 くまがひどく、一睡もしていないことは明白であった。
 一昨日の夜眠れないという訴えにメイドが振り撒いておいた香水の濃霧はいまだに漂っている。
 メイドは函型の寝台にきゅうくつそうに手足を曲げて潜っている令嬢から古くて黄ばんだシーツを剥ぎとり籠に入れた。
 だるそうに身を起こすのを、手を引いて立たせ、寝間着の背中の釦をすばやく外し、絹と子牛革で出来たコルセットを目にも留まらない速さで付けて腰紐を引っぱり、鯨骨の鳥籠状のパニエを頭から被せて骨盤に掛けてやる。
 「痛い?文句言わないの。今日はあなたの好きなドレスだよ」
 逃れようとするのをやんわりととおさえて、耳にささやく。大人しくなる。
 「そう、可愛い子、脚を出しなさい。暑くても靴下ははかないとね」
 絹を包んだハトロン紙の封を白い歯で切り、メイドは、令嬢の裸足にひざまづいた。
 まるで羽根が這うようななめらかな絹に、令嬢は苦しく胸から息を吐く。
 そのとき窓から、空高く葬儀を知らせる鐘がかれらの耳を打った。
 「誰かが昨日死んだみたいだね。ふしあわせなひとが。え?葬式を出してもらえるだけでもしあわせだって?そうだね。たくさんの人がいま泣いているんだろうね。賛美歌でも歌ってさ。さぞかし綺麗な星になるのだろうよ」
 そして令嬢の顔を見上げた。
 「あなたは泣かないね最近。なぜ?」



 



 
 この伯爵令嬢とメイドはゆりかごと乳房を共有した。
 二人の母はともに伯爵家のメイドであり、同じ日に出生した。同じではなかったのは片や夫である家庭教師の種の芽、片や伯爵の寵愛の末の果実だったことだ。
 だが令嬢は長いこと素行不良のメイドの生んだ父無し子として、母と二人身を潜めるようにして、家庭教師の家の屋根裏部屋に間借りしていた。二人の子供は、二人の母親が双子のようにわけへだてなく世話をした。
 十年後、令嬢の母の病死とともに全ては明らかにされ、伯爵は娘と認めて屋敷に引き取った。
 伯爵は高齢であったためにそれから半年も経たずに死亡、伯爵家には正妻とその娘と、外国留学から帰ってきたばかりの跡取りの長男と、令嬢が残った。正妻はほどなく令嬢を屋根裏部屋に閉じ込めた。
 いくつの四季がめぐったのかはさだかではない。泣いてばかりの彼女はそれを数えなかった。ただ、あるときから少し状況が変わった。双子のように仲良く育った家庭教師の娘がメイドとして屋敷に入り、屋根裏部屋係になったのだ。
 メイドは少女としての歓びを彼女に教えた。紅を差すこと、粉をはたくこと、髪を梳き、結い上げること、生地を選んで衣装を身につけること、そのほか。
 それまで老いたメイドに必要最小限のものばかりを与えられていた令嬢は、枯れかけていた花が清水を与えられたように若々しさを取り戻した。
 だがやはり外界から隔絶されているという事実は彼女の悲嘆を完全にはやわらげず、結局は元通りに、寝床を涙で濡らし続けることになった。
 メイドはそんな彼女に屋敷の話を彼女に届け続けた。広い庭園の早咲きの薔薇のこと、晩餐のメニューのこと、大恋愛の末身分違いの結婚をした彼女の腹違いの姉の花嫁衣裳のこと。そういうときの令嬢は目を輝かせて聞き入り、想像をめぐらせている様子の令嬢だったが、
しだいに蒸気を受けたガラスのように瞳を曇らせ、また泣いた。
 
 「貴婦人は屋内といえども手袋は忘れないものさ。そしてテラスでも日傘をひらく。たとえ気分がすぐれなくともボーンのコルセットは毎朝正しく付けて、いつも唇に花のような微笑をたたえて」
 丈多な巻き毛にピンを刺し、みごとな薔薇の一株の花の集合の形にまとめていく指先は魔のようだ。つづいて顔に化粧水を霧吹き、綿花でおさえて水おしろいを海綿で塗る。その上からパフに粉を取ってまぶし、余分を日本製のたぬき毛の刷毛で取り除き、また霧吹いて薄い布で水分を吸った。
 「日に当たらないからあなたの肌は本当にきれいだよ」
 明るい鴇色の紅を皿から取り、指で塗った。
 「ほら、可愛い。鏡を見てごらん。人形みたいだ」
 彼女のため息をきいてメイドは満足そうな顔をした。
 「ね、やはり姉妹だ。姉上に似ているよ。ちがうって?そんなことはないよ。仕上げに爪を塗ろう。可愛い子。口紅と同じ色がいいね。おなかすいた?ごめんなさい、昨日はね、とても忙しくてあなたのところには来られなかったんだよ。支度が済んだら食事を上げるからね」
 パンとスープと葡萄水と干し肉のかけらを食べ、冷えかけたショコラを飲み干すと口紅はすっかり取れてしまった。
 「先週ね」
 食器をワゴンに載せながら、メイドは言った。
 「博覧会に行ったよ。ミイラを見た。ミイラって知ってる?人間の干し肉だよ。臓物抜いて香料を塗りこんで、すごいよ。それがきらびやかな金襴のや、花の形のレースのふちどりのや、ほとんと゜朽ちているけれど透き通った紗を禿頭にかぶっていて、まあ、長い時間に髪の毛も溶けてしまったそうなんだけど、それは皆昔砂漠の国の女王や王子や貴族や神官や…とにかくりっぱなひとたちだったんだって」
 メイドは部屋から出て行った。



 



 夕刻メイドは再び屋根裏の扉の鍵を開けた。
 「こんばんはお嬢様」
 令嬢はドレスのまま寝台の上に身体を曲げて横たわっていた。顔にはおしろいのまだらが出来ている。
 メイドは、その乱れた髪に触れた。薄く瞼が開いた。
 「あなたは何も知らないね。自分の慰め方さえも」
 その頬には爪で掻き切ったばかりの傷が深々と刻まれていた。その傷に爪で触れると令嬢は身震いした。そして腕をのばし、崩れるように体重をかけてメイドの白いエプロンの腰に両手を回した。
 「触るな」
 メイドは強い調子で言い放った。
 令嬢は、メイドの黒い長い裳裾に手袋に包まれた手を入れて、パニエを繋ぐリボンづたいに探り当てた。
 メイドは眉を上げ令嬢を見下ろしたが力を抜き、自らパニエを上げて手を迎え入れると言った。
 「可愛い子」
  ある時点でメイドは令嬢の肩を突いて離し、寝台の上にうつぶせるようにと令嬢に命じた。十歳のころから使っている寝台からは手足がはみ出して、メイドは令嬢のパニエを蝶番の部分から折り畳んだ。フリルにうずもれた下穿きを下ろし、濡れた庭に棘のような指をのばした。体熱に蒸された香水が匂い、メイドは冷たい目で令嬢のドレスに包まれた背中を見下ろした。
 「またいつか一緒に行こう。長枕にかつらかぶせて、窓際に置いてね。大奥様にばれないように」
 陽に当たらない、それでも襟元や袖口は月光に焼けて淡く色を異にする身体にぬるま湯を浴びせ、シャボンの泡を塗りつけながらメイドは、タブの中にうつむく令嬢の顔を覗き込んで囁いた。素肌をすべる獣の毛皮のような泡に、令嬢は胸から苦しく息を吐く。
 「私の友だちになりすまして、遊びに行こう。あの店で買ったボンボンは良かっただろう?カフェで出会った人たちの話も、面白かっただろう?」
 寝間着を着せ掛け、ひび割れた鏡の前で傷を避けて化粧水をたたきこんでやり、細かい粒子のかがやくタルカムを胸元や脚にはたき、ナイトガウンを頭からかぶせた。
 「ミルクを飲んだら人形のようにぐっすりお眠り。すばらしい夢をたくさん見てね」
 新しいシーツを敷き、上から毛布をかけた。燭代の炎を吹き消した。
 瞬間メイドは夢を見た。



 


 ちょうどこちらに投げられた贋のダチョウの羽根を繋げて着色したショールはそれまで巻き付いていた令嬢の首筋の火照りのせいで小さな動物のように発熱していた。
 自分の靴の上に落ちたそれを拾いもせず、冷たくなっていくのを感じ、メイドは苦しく息を吐いた。
 広い部屋だった。なんのためだかがあからさまな巨大な寝台が毛皮を敷き詰められて真ん中に据えてあり、明かりは目が痛むほど薄暗く、いやらしい姿態の彫像が飾られていた。
 メイドが歩き疲れた脚から編み上げ靴の紐を緩めようとかがむと、いつのまに近寄っていたのか酩酊した男が一人絹の靴下の膝に腕を回していた。メイドはそれを蹴り飛ばし、唾を吐き、別の隅の寝椅子へ移動した。背もたれにその長い黒髪が触れてさやさやと鳴った。
 そして、そこから、メイドは見ていた。
 寝台の上に、カフェで出会った男達に爬虫類の交尾のさまを思わせて絡みつかれ、しだかれ、明るい鴇色に染めた唇を髭の生えた唇や、指輪の嵌められた無数の太い指や、石のような肉にふさがれている伯爵令嬢を。



 
 



 葬儀の終わった屋敷はがらんとして、寒いほどだ。
 メイドはエナメルの靴をかつんと鳴らして螺旋階段を降りた。
 長女夫妻の部屋の二人分の冷めた食事を片づけ、無人の部屋からワゴンを押して出た。
 そして陶器の胡椒壜を取り上げ、アーモンドの香りを確認してエプロンのポケットに仕舞った。
 当主はまだ妹の墓の前だろう。
 その妹の夫の行方は判らない。
 ただ、死後も長女の食事を用意し続けろという命令をメイドは守るだけだ。
 長女の墓は、その母親の墓の隣に建てられた。ほとんど同じ新しさの大理石が花輪に飾られて、雷雨に濡れて輝いた。


 
 
 


 「ほんとうにあなたは人形のように何も知らない」
 メイドは男達の去った寝台の上を靴のまま歩み寄り羽根のショールを令嬢の首に巻き、強く締め上げながら、色褪せた唇が夜更けに咲く花のようにゆっくりとひらいていくのを間近で眺めた。
 「なぜ自分が殺されなければならないのかさえ…」


 黒いお仕着せに純白のエプロンのメイドは屋根裏部屋の扉を開けておはようをいい、伯爵令嬢の目許を見て、
 「ゆうべはちゃんと化粧水をつけて寝た?」
と言った。

                                                          fin


 

初稿 2000年頃? 

屋根裏の二処女

屋根裏の二処女

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-01-01

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