星のカプチーノ
夜空を見ると雲がぐんぐんさかまいている。風が強い。黒猫のしっぽのように長い兎毛のマフラーが舞い上がってユリヤの白い首筋の皮膚を滑り、きつく巻き付く。それを直して遣りながらマトリは囁く。
「空のまん中の星が僕の生まれ星だよ」
ユリヤは仰向く。赤いコートのフードがずれてこぼれる液体のように長い黒髪があふれそうになる。
雲は泡立てられたスチームミルクのようにふわふわと空一面を覆っている。空は紺色だ。晴れやかに、澄み切った空気。ユリヤの瞳が髪の影から星みたいに瞬く。
「見えないわ」
「今雲に隠れた。じきに待ってたらまた現れるさ」
ユリヤのベージュ色の爪をマトリは鉱石を眺めるような細めた目で眺めて、スエードの灰色手袋で指を握る。マトリの目尻に影が落ちる。
「冷たい。ワイン色とトルコブルーのモアレのベロアの手袋はどうしたの」
「片方失くしたの。片方をおかあさんが紙屑と一緒に袋に入れてたのを見つけたわ。それは取り出せたけど、引き出しにももう片方はなかった。片方だけじゃ意味がないから焚火に放り込んだわ」
「空に昇ったんだね」
「私も昇りたいな。そして手袋を見つけて両手にはめる。それなら手が冷たくない」
「昇っちゃ駄目だよまだ」
「なぜ」
「僕と一緒じゃなくちゃ」
「いつ」
ユリヤはマトリの目を覗き込む。
マトリの目の中にも星が瞬く。それを見ていると、いつ、なんてそんな日はきっと来ないような気がする。
風がまた吹いて、マトリの濃い灰色のマントの裾を翻す。短い筒型のやはり濃い灰色のロシアンハットの毛並みが戦ぐ。
「それまで僕が手を暖めてあげるから」
ユリヤの頬がラズベリー色に染まる。
それまで、なんてやはりそんな日はきっと来ないのだ。ユリヤの瞳に星が多くなったと思うと、きらめく涙の粒になり丸い頬を伝った。
冷たいアスファルトに落ちて砕けた。無数の星となって消えた。道はどこまでも続いている。この先のひいらぎの茂みのある角を曲がったところに、半年前に閉店した二人のアルバイト先のファストフードがあった。もう取り壊されて瓦礫の積まれた空き地になっている。
あたりは雲を通してなお明るい星明りで照らされている。街灯は壊れている。すべて。もう何年もになる。二人がほんの子供のころ。保育園でしみだらけのスタイの上にディナーを乗っけられて、不自然な猫背で身動きできずスプーンを取り落として涙ぐんでいたころはまだついていたような気がするけれど。マトリは上手にエレクトーンでベートーヴェンのトルコ行進曲を演奏し、その姿をユリヤは絵に描いた。それは上手だけどヒマワリにしか見えなかった。鎮静薬を飲んで眠る生気のない乳幼児たち、居眠りしている保母たちの中で、誰もほめないけど目覚めている二人でほめあって仲良しになったことを遠く思い起こす。
そんなこと、マトリは覚えているのかいないのか。ユリヤは聞くのをためらう。
二人は手を取り合って擬然と立ち尽くしている。やがてマトリが青いスニーカーの足を踏み出して、ユリヤは引かれる形になる。ワイン色のブーツの先が小石を踏む。
「どこへ行くの」
「僕の生まれ星へさ」
「消えてしまったじゃない」
「今現れたよ、ほら」
ユリヤは顔を仰向かせた。見えた。雲の隙間からとても大きな金色のまばゆい星!声を上げようとしてできなかった。すぐに星は隠れた。マトリのふわふわの猫っ毛の前髪で。荒い吐息がユリヤの口に吹き込まれて息ができない。ユリヤは両手でマトリの骨ばった胸を押したが動かない。両脇に腕を差し込まれて、ユリヤの柔らかな胸が潰されて苦しい。なんてひどいことをマトリはするのだろうか。こんな人ではなかったはずだ。マトリの厚手のマントは犬のにおいがする。子供のころお父さんが飼っていた雑種の...灰色の狼のにおいかもしれない。
顔をなんとかずらすとまだ溜まっていた涙の底から、泡立てられたスチームミルクのようにふわふわと逆巻く雲が見えた。働いていたお店で供していたカプチーノ。ここはきっとマグカップの底だ。ユリヤはコーヒーの中で溺れており、今にも雲の裂け目からスプーンが差し込まれて、でも角砂糖のように二人はすっかり溶けてしまうので掬われすじまいなんだ。涙に濡れた頬がとても冷たかった。凍えてしまう。
やがて星がほかにも無数に現れた。配置が音楽を奏でているかのようだ。雲は途切れ始めたのだ。淹れたてではないカプチーノのように。ユリヤは吸われてしまった。マトリの腕はまだユリヤをきつく抱きしめている。ユリヤはいないのに。さみしさのようなものがマントの中で湧いて、 次の瞬間マトリもいなかった。
衣類が重ねて落ちる音がして、アスファルトの道に堆く赤いコートと灰色のマントが巻き付き合っていた。寒気がその上に霜を降らせて、夜は終わらないまま続いていた。永久に。無限に。不変に。
星のカプチーノ