*星空文庫

【旅過(宝胤の夢スピンオフ)】第一話ためし読み

山城よる 作

1 海路

 船が切る波の音と駆け抜けていく風の音に抱かれながら、ルディは目を覚ました。
 寝起きでうまく働かない頭で最近見慣れた室内の光景をしばらく眺め、気怠い身体をのたのたと起こす。昨晩無理に付き合わされたせいで腰が痛んだ。視界に入る手首の内側や、脚のあちこちに真新しい赤い跡が残っている。
 一人で眠るには広過ぎる寝台で薄手の柔らかい上掛けを手繰り寄せ、膝を抱えた。
 身体は重く、眼帯を外している目の怪我がひりひりと痛んでいた。野生チドの逆立った鱗でざっくりと切れたところだ。
 眉間から頬骨の高いところを通り、耳たぶ近くになってようやく細く途切れる傷は膿みこそしないものの、まだ乾ききらずに生っぽい。医者は乾燥させた方がいいと言うが、空気に触れるだけで痛むのに加え、頭の中がじくじくと疼くような眼球の傷の保護のために眼帯が手放せない。
 頭の中心に根を張り巡らさんとする植物の種でも埋まっていて、発芽したのではないかと思うような痛みがずっと続いていた。
 痛み止めなどの薬は、もとより効きの悪い身体だ。気休め程度にしかならない。
 自然とため息が漏れたところで、キイ・と木製の扉が軋んだ。
 内側に押し開かれた扉から、暗闇に輪郭を与えたような褐色肌の男が足音もさせずにするりと入り込んでくる。

「ああ、起きていたのか。何か口にできそうか?」
「ナディーン……」

 夜を共にし隣に眠っていたはずの男はすっかり身支度を整えて外行きの顔をしていた。
 額や頬に描かれた不思議な紋様が昨晩見たものと異なっているなと観察しつつ、彼の名を呼ぶ。
 呼んだが、思ったより声は出ず乾燥しているせいで咳き込んだ。

「無理をさせたな、許せ。だがお前も悪いぞ」
「うん……ごめんね」
「寝台で枕を共にしながら心ここに在らずとは。躍起になってしまった」
「それはほんとごめん。だってこの部屋、風の音がよく聞こえるでしょ……」

 戻ったナディーンが抱えていた水差しからぬるんだ白湯をグラスに受け、ちょびちょびと飲んで喉を潤わせ、雲ひとつない空が見えるだけの大きな窓の外を眺める。
 ルディがトワと二人で借りている特二等船室は、細長い寝台が二つに小ぶりな卓と丸椅子が一つずつあるだけの部屋だ。
 窓掛けのついた小さなガラス窓が海側と廊下側にあるが嵌め殺しで開けられない。既に乗船受付を終えていた船に無理を通して取った船室だ。個室を借り受けられただけ恩の字だろう。西の大陸オーラムへ渡る船は多くない。
 ここ、ナディーンが借りている特等船室は寝室と居室が分かたれた二連間で、それぞれに海を眺めることのできる大きな窓があり、開閉も自由だった。

「やけに風が好きなんだな。チェレステ人だからか?」
「チェレステ人みんながそうだとは限らないと思うけど」

 熱砂の砂漠から、時に赤く染まる大洋から、雪被る山脈から。常にどこからか絶えず風が吹いている小さな国。東の大陸ナーナよりもさらに大きな西の大陸オーラムの人間から見ても、チェレステ皇国というのは特異なほど風尽きぬ土地であるという認識なのだそうだ。
 今はもう随分遠い。ルディの眼裏に映るのは、生まれ育った眩しいほどの白亜の国ではなく、隣りあう峻烈な砂塵舞う大砂漠だった。大砂漠ヴァスティエ、広大な砂の海。
 びょうびょうと激しくうなり殴りつけるかのように吹き付ける強い風を、アガドの強靭な両翼で切って翔る心地よさと高揚感を思い出すと自然にふっと口元が緩んだ。

 ナディーンとは西の大陸オーラムを目指して海を渡るこの船上で出会った。
 チェレステ皇国を終点に、隣国のエ・ト・ヴォ、北上して東の大陸ナーナと隣接する小陸ウィリヤンドを経由し、大洋を数ヶ月かけて横断し西の大陸オーラムにある大国マズレムを起点としている大型の貿易船である。
 国と国とを結ぶ船では最大を誇るこの船に、ルディは幼い頃からの付き合いで、側に仕えるトワを伴い自国ではなく隣国エ・ト・ヴォから乗り込んだ。
 先立って勃発した宝胤の子どもを巡るレーデレーデ海戦と杜の戦の後、ルディはチェレステ皇国へは戻らず、仲間たちと共にエ・ト・ヴォ近海の無人島を拠点にしてのんびり静養していた。
 砂漠で野生チドと争った時の傷を抱え、碌に休む間もなく戦争へと身を投じ、無理を重ねた反動か、怪我をしてからもう半年経つというのに目の傷は未だに癒えない。静養という名の絶対安静を強要されて過ごしても、まるで癒えてしまうのを嫌がるかのように傷は生身のままで、宝胤を生かすために負った傷が、同じ手で宝胤の命を奪ったことを責めているようだ。
 食い千切られてしまった腕がもう無いということに最近になってようやく慣れ、目の傷が癒えきらないという以外はもとの姿をすっかり取り戻していた。そうでなければ拠点としていた無人島から出しては貰えなかったはずだ。
 こんこん・と扉を叩く音が部屋に転がると、返事を待たずにトワが湯を張った鉢を抱えて入ってきた。ナディーンの部屋だが、慣れたものだ。トワからすれば主人にあたるルディが、ここで眠っていることなど当然のように把握している。
 寝台でぐだついているルディの側に歩み寄るなり、湯をゆるく絞った布でルディの身体を清め始めるトワを、ナディーンは窓辺の卓で水煙草を呑みながら眺めた。

「出来過ぎた側近だな」

 腕を無くしてからこの方、こんな風に至れり尽くせりの世話をされるのに慣れてしまった。
 腕がないという以外はもとに戻ったというのに相変わらず続けるものだから、そうしたいのならすればいいとルディはトワの好きにさせている。もとより世話焼きの男だ。
 そうでしょう、と投げかけられた皮肉に笑みを深めるルディとは正反対に、トワは冷ややかな視線で水煙草の吸い口を咥えているナディーンを一瞥した。
 トワがナディーンを良く思っていないことがはっきり示されている。

「ありがとう、トワ」
「部屋にお戻りになりますか」
「そうだね、疲れているから……。ナディーン、またね」
「ああ」

 昨晩脱ぎ散らかした衣服ではなく、トワが持参した新しいものを身に着けてルディは部屋をあとにした。乗客たちで賑わう時間にはまだ早い。
 人気のない通路をトワに半分身を預けながらゆったり歩いていく。
 最初こそ外の一切見えないこの船内通路に強く閉塞感を覚え呼吸が苦しくなるような感じがあったが、二ヶ月近くも乗っていれば嫌でも慣れてしまった。
 西の大陸オーラムにある、大国マズレムまでの船旅はまだあとひと月近く続くという。

「やっぱりナディーンが持ってるみたい。あれ」
「……入手できそうですか?」
「長期戦だなあ。難しい、流石呪術師というべきか……なんか、隙がないんだよね」
「そうですか。まあ、まだ時間はありますし」
「うん。マズレムに到着するまでには話をつけるよ」

 エ・ト・ヴォに現在君臨する国主、ヴェルメクに頼み込んで無理に客室を確保して貰ったことがもう随分と昔のことのように思えた。部屋に戻り、奥の寝台に横になる。
 故国にやり残したことはなく、皇帝自ら与えられた役職を示す黒衣を脱ぎ去った今、ルディは不安になるほど自由だった。国にいた頃は求めずともやるべきことが山積していたというのに。
 愛すべき国の民たちに、より安心できる豊かな生活の環境を整えることに心血を注いでいた頃が今は少し懐かしい。
 信頼のおける仲間たちと共に無人島で過ごす生活は純粋に楽しかった。
 怪我と戦とで摩耗し削れてしまった体力や身体の調子を整えることに重点を置き、子どもの頃まだ存命だった母とやったように刃を潰した剣で戦闘の訓練をしたり、足をとられる砂浜を走り込んだり、林に入って木の実やきのこを採取しそれを焼いたり炒めたりして食べた。
 そんな風に過ごした彼らは今、自分とは別の舟で西の大陸オーラムへと向かっている。
 自由に生きる権利があって、好きにしてよいと言ったというのに一人残らずついてくると言う。
 世界の果てまで旅すると言ってもついてくる気なのだろう仲間たちが愛しい。
 戻る故国をなくしても、ただ自分を愛し敬い身命を賭すという彼らだ。全員を愛していた。トワを含む彼らがいるから、まだどうにか生きていられるのかもしれない。

 寝台に横になりながら、曇った小さな窓の向こうに見える海原を眺める。空の青と海の青は似ているようで全くの別物だということを、最近になってようやく見分けられるようになった。
 チェレステ皇国においては、峻烈な砂塵舞う大砂漠ヴァスティエこそがルディの居場所だった。
 灼熱の風のなぶるような強さや乾いた感触、目を射抜くような真白の世界が随分懐かしい。
 船腹が波を切る音は砂漠に吹く風によく似ていた。
 湿気ているが、風に吹かれている間だけは姿の見えない不安を忘れていられる。
 あの愛おしい砂漠がどんどんと遠ざかるということだけが、ルディを不安にさせた。
 古の神の血に連なるギギルの家に生まれたせいだろうか。その神に正式な名があるかどうかも知らないというのに、ただ砂漠が遠ざかるということが怖かった。怖い、という感覚を人生で初めて感じ取っていることを自覚したルディは寝台でぎゅっと小さくなる。

「トワ……」
「はい」

 手持ち無沙汰に丸椅子に座っているトワに手を伸ばすと、武器など似合いそうもない華奢な手指が求めるまま二人の指が絡んだ。
 寒さなどとは無縁のはずの気候の中、ルディの指先は冷たい。

「側にいてね……」
「はい」

 限られた船上で、やらなければならないことは何もなかった。
 暇を持て余した乗客たちは機会を作ってはどこぞに集まり、交流を深めたりホールを借りダンスや歌の会を催しており、当然のようにルディやトワにも誘いはあったが全て断っていた。
 それなりに着飾らなければならないような場に出るのは億劫だったし、ルディの隻腕隻眼は悪目立ちしてしまう。何よりもチェレステ皇国では死んだことになっているというのに、呑気に船旅をしていることを知られて面倒事が起こることも避けたかった。
 船上で知り合い、内々に親しくなった者の誘いにはたまに顔を出したりもしていたが、装飾品のひとつすら身に着けず、その場にいて当たり障りないだろうといった程度の衣服を纏うルディが、ただいるだけで周りの女性をくってしまうことはままあった。
 片目を失ってなお輝くような美貌は、手持ちのもので一生懸命着飾った女性たちの努力を頭から否定するようなもので、顰蹙を買いたくてそこに顔を出したわけではないと、そんなことがあって以来、誰に誘われても二度と人が集まる場には顔を出すことはなかった。
 乾き始めの血の色に似る暗い赤褐色の眸が閉じられ、指を絡めたままルディは寝入ってしまったようだった。冷たい指先が徐々にぬるんで体温を持つようになるのを感じ取りながら、トワは空いている方の手で上掛けを引き上げてやった。
 内側から光るような薄い皮膚、その目の下にうっすらと隈が浮かんでいるのを眺めやる。
 昨晩あの呪術師の男、ナディーンと目合っていたせいで寝不足なのだろう。最初こそ違ったとはいえ、今は目的があってあの男に近付き、部屋に入り浸っている。何も言わないところを見るに成果はいまひとつのようだ。
 トワは小さな窓から外を眺める。絡めた指を解くとルディが目を覚ましてしまうことを知っていた。こうして眠らせたからには、自然と起きるまで側にいなければならない。

「ルディ様――」

 そっと名前を呼ぶ。聞こえなくて構わない。何度となく呼び親しんだ名前だ。
 トワにとってルディ以上に大事なものはなかった。自身の命すらルディという存在に劣る。
 部下に抱えられ砂漠から戻った瀕死の姿を見た時にはざあっと血の気が失せる音を初めて聞いた。
 続いて先の戦、這う這うの体で戦火を浴びる姿に何度肝を冷やしたろう。
 戦が終わり、国を離れると聞かされたときには、ではこれから多少は落ち着いた生活ができるかもしれないと思っていたが、考えが甘かったとトワは自省していた。
 懐かしい砂漠で絶えず吹く強い風のような人だ。吹き続けるからこその風でもある。
 そんなルディの寝顔が安らかなことに安心する。
 無くした腕が痛むのだと言ってよく眠ることのできない夜がずっと続いていたのだが、船旅に出てからはふいに夜中に目を覚ますことも痛む腕に息を詰めて身を強張らせることも減ってきていた。

 日を浴び風に吹かれる姿の美しさには誰もが声を掛けることを躊躇うほどだ。
 大海原に無数に散る光の粒よりも強く鮮やかに輝く銀糸の髪も見事な色ツヤを取り戻し、その手入れに一層気合いが入る。
 西の大陸オーラムへ向かおう、とルディが言い出した意図は船旅を数ヶ月経た今もわからないままだが、何か目的があるのだろう。ないはずがない。例え無かったとしても、側にあることだけが己の使命だ、とトワは小さく笑みを浮かべる。
 この方が望むなら何もかも叶えてやりたい。全て与えてやりたい。全身全霊で応えたい。
 この気持ちがどこからくるのか知らないが、トワの望みは常にはっきりしていたし、それをこそ許されているという自負があった。

 日が暮れ、小さな窓からか細い月明かりが射し込む頃になって、不意にぎゅっと手を強く握り込まれた。体温が繋がり、爪先まで温もった華奢な手がきゅうきゅうとトワの手に甘えてくる。

「起きられたんですか」
「ああ」
「……、ルディ様?」

 刹那。薄闇の中、指先の温度とは裏腹に、返事をした声色が随分冷たくて、赤い眸がぎらと底から光ったような気がした。

「―――何でもない、起きたよ」

 ほろりと指は解かれた。
 ルディはふわわと大きな欠伸をし、それからオイルランプに目を向ける。

「すぐに」

 明かりを入れて欲しいと、言われるより先に受け取ったトワは硝子の火屋を抜いた。
 しゅば、と擦った燐寸で火を入れると、船室が橙の光に照らされる。ルディはいつも通りの油断ならないほほえみで、幾分か気分が良さそうな様子だ。

「ありがとう」
「何かお食べにならないと。食堂へ行きますか、それともお持ちしましょうか」
「外へ……」

 甲板に出たい、と言って上着を羽織って身支度をする。
 訝しげに視線を投げかけてくるトワに苦笑をもらし、ルディはその後食堂へと付け加えた。

 湿気た風がひょうと吹き、彼の髪を一房浚った。
 翻った銀髪が月光を受け、しらしらと輝く夜色の海原に一瞬とける。
 その凍てつく鋭さを見やり、トワは舳先近くで立ち尽くし、ぼんやりと水平線を眺めるルディに引っ掴んで戻ってきた肩掛けを被せた。

「体を冷やさないようにして下さい」
「うん、ありがとう。心配性だなあ、もう怪我人じゃないのに」

 日が沈み、昼間の青さを忘れ去った黒い海には冷たい月光と星が照る。降り落ちてくる光を目映く反射し有機的に蠢く海原が船腹を叩くやわらかな音に耳を澄ませていた。
 夜になったというのに、寒さに身を震わせることがないのは妙な感覚だ。
 砂漠の只中、凍てつく気温で見上げる夜とは随分異なる空のように思う。
 数ヶ月経ってようやく慣れてきたぬるい風は潮気と湿気を含んでべたついた。

 ルディは何もかもを故国に置いて出てきた。今、財産と呼べるものは何も持たない。
 この船に乗る前少しの間滞在したエ・ト・ヴォで、先の戦を共闘し侵略を成功させて国主となったヴェルメクから兄に直接請求してくれと言って得た金銭が少しあるくらいだ。
 この金が尽きた後をどうすべきか、ということをトワは主を眺めやりながら考えていた。
 大陸間の移動には数ヶ月掛かる。貿易船は定期的に行き来してはいるが、故国にある兄弟から何か届けられたとしてもルディがそれを受け取れる場所にいるとは限らない。
 何か継続的に金銭を得られる手段を、それも早急に講じ確立しなければならなかった。
 他に可能な手段がなくなればこの主は、己の身を簡単に売る――と、トワはわかっていた。
 自身には幾許の価値もないと本人は思っているようだが、これを他者からみた時にどの程度に扱えばいいかは的確に把握している。勿体ぶることこそないが、与えていい人間は選んでいた。それがまだ救いといえば救いだが……。
 肉体であろうが行為であろうが、望むものを得るための対価として必要なものがあり、己の裁量ひとつで差し出せる持ち物であれば何の気なく差し出してしまう。
 トワは目頭のあたりを指で揉んだ。軽い頭痛を覚えていた。
 そうして体を売ったり時間を売ったりして得た対価を、ルディは当然のように自分以外の者のために使ってしまうのだ。必要だと思えば路傍の他人にさえ。
 そういう人なのだとよく知っているからこそ、一番近い場所に仕えることをトワは他の誰にも譲らない。他の誰にも、自分以外には、この人を預けたくない、と思っていた。
 潮風に吹かれるルディは気分が良さそうだ、と横顔を注意深く見つめる。
 先ほどの寝起きに発せられた硬質な声色は、本当にこの主の喉から出たものだったのだろうか。
 底から不穏に光る刹那の赤褐色が、脳裏に焼き付いて離れない。
 目の前にいるルディがルディであることは間違いなく、彼が眠ってしまってからもずっと手を離さないで側にいたのだから本人以外では絶対にあり得ないはずなのに、あの一瞬だけ、まるで知らない別人のように感じた。
 この違和感を忘れないでおこうとトワは心に刻んだ。

   ◇◆◇

 砲撃と銃弾戦の真っ只中に突然放り込まれたような豪雨に襲われる船上で、船員たちが慌しく駆け回り怒号を交わしている。
 真っ黒い雲が帆先に触れんばかりに厚く垂れ込め、低く空気を震わせていた。
 ルディはトワに荷を纏めるように言いつけ、足早にナディーンの部屋を訪ねた。

「ルディか、どうした。……青褪めているな」
「お前それで本当に呪術師?」
「いきなりなんだ」
「ミクジン耳を持ってるくせに!」

 顔が見えた瞬間ルディはナディーンに詰め寄って胸倉を掴んで怒鳴る。夕刻から降り始めた雨が、ただの雨でないことを肌身で感じ取っていた。

「雨遣らいのまじないをすぐにして!」

 名を呼ばせるだけの間も与えず捲し立て、ナディーンを押し退けたルディは迷わず寝台横に置かれている巾着の口を開けた。他人の持ち物だが、中身が何であるかはとうに知っている。
 何度となく共寝をしながら耳をそばだてていたのだ。
 この呪物に近付くために甘言を吐き、部屋に入り浸っていたといってもいい。
 単なる遊び相手でも、愛があるのでもなかった。ルディの目的をはっきりと悟り、ナディーンは言葉を失う。目的がはっきりしたということは、すなわち。

「それから何を聞いた!」

 怒鳴るナディーンを制し、ルディは巾着から取り出した瓶に耳を寄せる。
 くすんで濁った古い瓶の中には切り落とされた小さな耳が入っていた。中を満たす黄ばんだ液体に浮かぶ耳がゆったりと揺れる。奇妙に緊迫していた。

「……船が、沈むって叫んでる」

 激しい雨音が一瞬遠ざかり、体を突き通すような鋭い爆発音が唐突に響く。船体が丸ごと跳ね上がったかのような大きな揺れにルディは転んで膝をつき、ナディーンを見上げた。

「ならば……雨遣らいのまじないが効く雨ではないな、もう」
「今の何?」
「雷だろう。ミクジン耳の声は絶対に現実を違えない。早く海に逃げる準備をしろ」

 稀少な呪物が壊れないようルディが反射で胸に抱えた瓶をひょいと取り上げ、ナディーンはあってないような荷を手早くまとめ、寝台の薄手の掛布でミクジン耳を包んだ。他の何を失い壊しても構わないが、これだけは絶対に欠損させてはならないといった厳重さだ。

「ルディ様! 帆柱が雷にやられました、倒れて燃え上がっています。甲板に落ちた雷で船腹にも穴が開いたようで沈むのも時間の問題です。逃げましょう、早く! 船から離れないと巻き込まれます!」
「ナディーン!」
「ミクジン耳だったんだな、目的は。悪いがこれだけは絶対に譲れない。じゃあな」

 外套を被ったナディーンが、ルディとトワのことなど一瞬で忘れ去ったかのように踵を返し駆け去っていく。

「ルディ様、お早く」

 今朝がたまでは雨が降るぞとだけ言っていた耳だった。
 悔しさに歯嚙みしながらトワに助け起こされ、船室をあとにする。
 廊下に出ると早くも煙が漂っており、二人は依然激しく打ち付ける雨の中に飛び出した。

「トワ、」
「わかっています」
「いやわかってない。お前、俺に何かあってもちゃんと生き延びてよね。これ命令だからね」
「……ルディ様」
「俺はこんな荒れた海は多分泳げないけど、お前を道連れに沈む気はない。……生きてね」
「諦めないでください」
「お前を心配して言ってるだけだ。大丈夫、諦めてなんかない。砂漠の神の気配はもう随分遠いけど……加護があるならどうにかなる。海でなんか死なない」

 先ほどの揺れでようやく危険を察知した乗客たちが混乱し騒ぎだすのを後目に、トワはさっさと救命艇を降ろしてそれに飛び乗り、激しく揺れる小舟が本船にぶつからないよう櫂で操りながら機を見計らって飛び降りてきたルディを抱きとめた。
 激しい雨が体を叩き、ずぶ濡れの外套が重たく纏わりつく。
 山のような砂丘が幾つも連続して船底に滑り込んでくるような巨大な波に次々と襲われる中、トワは自身とルディの身体を船に結び付けた。
 浮かぶ物から離れなければ取り敢えずは沈まないはずだ。
 乗り込んだ小舟は操らなくともあっという間に潮流に揉まれ本船から離れた。
 空と海の境は雨で濁り、叩き付ける豪雨でも消えない激しい炎に巻かれる船は、すぐに壁のように立ち塞がり覆い被さるように襲い掛かって来る大波に見えなくなった。

『【旅過(宝胤の夢スピンオフ)】第一話ためし読み』

『【旅過(宝胤の夢スピンオフ)】第一話ためし読み』 山城よる 作

【宝胤の夢】の後日譚にあたる、故国を離れた後のルディのお話です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日 2017-12-31
Copyrighted

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