*星空文庫

小フーガの囁き

ビターチョコレート 作

  1. Ⅰ 古城のパイプオルガン
  2. Ⅱ 庭園のヴァイオリン
  3. Ⅲ 夜
  4. Ⅳ 朝
  5. Ⅴ ピアノの旋律
  6. Ⅵ 愛と恋の間際
  7. Ⅶ ヴァイオリンの旋律
  8. Ⅷ 恋と愛の狭間
  9. Ⅸ パイプオルガンとヴァイオリン

Ⅰ 古城のパイプオルガン

 壮麗なパイプオルガンの管一つ一つが波打つような光りを宿し、旋律ごとに音を天へと押し上げるかのようだ。
 小フーガト短調が弾き鳴らされる。カイルの鍵盤を奏でる長い指は、そしてその静かな眼差しは麗子の心を惹きつけ止まない。
 幾重にも重なり合っていく音の調べは、まるで森林の葉隠れが光り、そして風のヴェールまでも重なり合ってゆく生命の息遣いを表すようでもある。
 長椅子に座る麗子はその響き渡る調べ一つ一つをまるで掴み取るかのように聴いていた。
 曲が終焉を迎え、カイルのウェーブ掛かる金髪の頭部が天を向き指が上がった。余韻を引く音はパイプを流れて、この空間に余波としてしんみりと広がった。カイルは腕を下ろし、静かに半身を麗子に振り向かせた。
「どう? 音は掴めたかな」
「ええ。的確に分かったわ」
 カイルが微笑み、すっと立ち上がると麗子のいる場所まで降りてくる。
 麗子は第二ヴァイオリニストである。西洋へ渡り八年目。小さな楽団に移り、パイプオルガニストであるカイルと出会った。それまでは大きな楽団にいて古典クラシックの正当な演奏性の世界で生きてきた麗子だったが、小さな楽団に移るとわりに自由の利いた演奏を求められるようになった。
 バッハの小フーガト短調BWV-578をオーケストラで演奏することになり、その音の割り当てを楽団の皆で作ることになった。それならばと、この林のなかの小さな古城にパイプオルガンを有する一族の気に入りの音楽家、カイルを紹介された。
「以前はドビュッシーの夢をオーケストラ演奏曲に編曲したんだったかな」
「ええ。そうなの。フルートの演奏から入って、主旋律を弦楽器で、伴奏を管楽器で、それと第二ヴァイオリンとコントラバスがタッピングで、次第に白鳥が湖面をすべるような幻想的なだけではない、大空へ飛び立っていくかのような荘厳な夢へと変わっていく風で」
 麗子は歩いていき、間口からこの林にある湖を見下ろした。丘と木々が広がる先には大小の湖が三つほど点在している。その湖水には水鳥がすべるのが見える。
 カイルは円卓に腰をつけ、麗子の横顔を見た。
 噂では聞いていた。大きな街の楽団からこの小さな町に日本人ヴァイオリニストが移って来たことは。先代の市長が音楽好きを集めて楽団を作らせてからは、靴屋の傍ら、酒屋の傍ら、花屋や主婦や若者が集って気ままに好きなクラシックを少人数のオーケストラ曲で奏でて、町の行事や祭などで皆に聞かせてきた。総勢で三十二名。プロの麗子が来てから、楽器一つ一つの音が繊細にして重厚に絡み合う音楽へと編曲がなされていて、絶対に一度は古城に招待しがてら聴いてみてはどうか、と話を伺っていたのだ。この古城の持ち主であるツネリ伯は年に五度ほどカイルを古城へ招き、パイプオルガンを演奏させる。普段はウィーンの教会で活動をするカイルだが、ツネリ伯の娘とは旧知の仲であり、子供の頃からこの古城のオルガンを弾かせてもらっていた。ここ一年はいろいろな祭典が重なり、この町へ訪れることは叶わずにいた。
「何故、この町の小さな楽団に? ツネリ伯も不思議に思っていたよ」
「ここに来て丁度一年ほどね」
「そうみたいだね」
 麗子は石の間口縁に腰を下ろし、上品にカールする黒髪がさらさらと風に揺られた。深くVに覗く黒紫のワンピースの肢体は美しい。紅い唇が寂しげに開かれ、目元が伏せられた。
「愛情の関係よ。とあるピアニストの青年と気も狂うほど愛し合って、壊れそうになったの。そうしたら演奏も何もかも乱れるようになって、もうそこにはいられなかった」
 悲しげに微笑み、風景を見渡した。
「一緒にどうにでもなってしまいたいと思ったわ。けれど、彼は楽団のプロデューサーの息子さんで関係を反対されたの。追い出さずにいてやるが、これ以上は手を出すなと言われて、それで秘密裏で逢うようになったんだけれど、その内に彼も激化して行って、共に回る美術館も、公園も、夜の街も、全てを音楽に変えるかのように言葉を重ねるの。愛をさえずって、全ての絵の女神に私を、木々に私の影を、夜の闇に愛情を重ねて」
「……ルースター・レノダ」
 有名な若手のピアニストだった。奔放な演奏と優雅な旋律を自由なままに弾き鳴らす。楽団プロデューサーを親に持ち自身もその楽団で奏でていた。そこに麗子がいたのは知らなかった。カイルのいる国も違い、その楽団の演奏を直接聴きに行ったことは無かったからだ。ルースター自身のことは二度ほどソロ活動コンサートを聴きに行ったことがあったが、性格はあの演奏をする本人とは到底思えないほど無口で大人しく、ピアノの前に立つと性格が変わる人物だった。あまりインタビューにも答えないのでどういう人間かは謎に包まれていたのだ。あの彼が一人の女性に完全に狂い、のめりこむという性質は、カイルには想像に苦しく無いことだった。内に秘めた情熱が深いほどにそれは激情化して行ったことだろう。
「今でも、愛しているのか」
 しばらくして麗子は小さく頷いた。
「それはもう、片時も離れたくなど無い程によ。あんなに無垢で可愛らしい人と別れなければならなかった悲しみが、編曲に夢中にさせるのかしら」
 彼女はカイルを一度見ると、その彼の手に視線を落とした。
「あなたの力強い演奏は、彼の面影を思い出すようだわ。レコードを初めて半年前に聴かせてもらった時には、涙さえ止まらなかった。再び彼に包まれているかのようだったから」
 無表情なのに、なめらかな唇から流れ出る言葉は。彼女の静かに光りを受ける悲しげな瞳に全ての感情が閉じ込められているかのようだった。
「寂しいんだね……」
 麗子がその言葉に肩を震わせ、うなだれて顔が髪に隠れた。
「プロデューサーはとても優くしていただいた方だから、これ以上は迷惑は掛けたくなかったの。東洋人の私を楽団に快く入れてくれたこともとても感謝しているから」
 カイルがハンカチを差し出すと、麗子は涙をぬぐった。
「ごめんなさい。どうもありがとう」
「いいんだ。思い切り泣けばいいよ。ここはそれを受け入れてくれる。そして癒してくれる。音楽に感性を彩らせて、自分らしさをいくらでも表していいんだ。ここでなら。それを許されないのはあまりにも辛すぎる」
 愛が終わりを迎えてしまった悲しみが、深かったほどに心に爪を立てる。麗子が去った後はどの楽団に彼女が行ったのかは、ルースターに告げないで欲しいと麗子は言って来た。友人が預かっているというルースターの手紙も受け取らずにいる。それでも彼の演奏会での噂を耳にすると心が躍って、レコードを友人に送ってもらうという、振り切れない愛の罪悪感を持った。
「彼がね、<愛の人>という曲を発表したの。私と共にいたときに作曲していたものだった。二人で作曲したものでもあった。私の名前が麗子だから、レから始まるというルールで作って、あの日々は楽しかったわ。ここへ来て、ドビュッシーの夢は、許されないルースターとの愛が引き剥がされずに実った先の楽園を想像して編曲したのかもしれない」
 昼下がりの陽がゆるくなり始める。
 カイルを見つめて麗子は言った。
「あなたの小フーガに不思議に重なった明るい森の印象は、その音をも私を癒してくれた」
「気持ちがいつか浄化してくれる時は来るのかい」
「分からないわ。まだ」
 カイルはパイプオルガンの前に来て、再び奏で始めた。
 パイプオルガンの管の一つ一つから紡ぎ流れ出る音の調べは、一つ一つが言葉のようだ。フーガの音が一気に上り詰めた後に、まるでさらさらと降りてくる光りのような……。
「いつか、忘れられる愛などあるのかしら」
「きっとね……」
 カイルは間口の陽に照らされる麗子を見て、囁いた。
「僕が忘れさせられるならいいのに……降り注ぐ光りになれたなら」
 麗子には聞こえないほどの声で、囁いた。
 会った瞬間から惹き付けられていたのかも知れない。不思議な魅力を兼ね備えた麗しい女性。彼女のアルトの落ち着き払った声も、静かな物腰も、そんな風情の彼女が愛に狂ったと告白された今、その二つの折り重なる麗子というハーモニーが、こんなにも悩ましく思うなんて。彼女には、魔力があるのかもしれない。
「今度、君のヴァイオリンを聴かせてほしい」
 麗子は鍵盤に向き直り、片手で単調に奏でるカイルを見た。
「今の君のままの演奏を」
 カイルは麗子の瞳を見つめ、緩い時の流れが血脈の早い流れとともに重なるようだった。
 麗子は視線を落とし、瞳を閉じた。
「今はまだ、乱れているのかもしれない」
「いいんだ。それで」
 カイルが立ち上がり、麗子は顔を上げた。
「……ごめん」
 勢い余ったことに詫びてカイルは椅子に座った。
「ありがとう。カイル。あなた、優しい人なのね」
 麗子は小さく微笑み、風景を見つめた。風が吹き抜けていくように、カイルの心が麗子の心に流れてくるかのようだった。それはまるで新緑に芽吹いたかのように、小さく輝いていた。行き場の無い麗子の心に舞い降りたかのように。

Ⅱ 庭園のヴァイオリン

 カイルは麗子がケースからヴァイオリンを出し、弓を調節し弦の音あわせを始める姿を見ていた。
 彼女のシックな黒紫のワンピースは、青い花畑とギリシャ神殿様式の柱を配した庭園の背景に合っていた。糸杉が立ち並び軽やかな色合いに包ませている。
「私の好きな曲でいいかしら」
「ああ」
「ラヴェルの弦楽四重奏ヘ長調第一楽章、独奏」
 麗子が目を閉じ、そしてゆっくりと奏で始めた。まるでせせらぎが一気に流れ出したかのような優雅な調べが紡ぎだされ、カイルは音に吸い込まれ目を閉じ胸部に手を当てた。なんという優麗な奏でだろうか。それは静かな森のせせらぎをゆく白い花のようだ。まだ夜は空けない星屑も微かな森の。月光は葉の裏に見え隠れして河を照らし、花はくるくると回り飲み込まれることは無く運ばれていく。その先に白い衣装の妖精たちが明かりの射さない闇のなか、枝垂れる葉の先に踊る姿が見えるかのようだ。
 今がまるで昼下がりである事さえも一気に忘れ夜へと流離う魂のようだ。心地よく、そして、そこにずっと立ち尽くしていたくなる。そんな音色だった。
 四重奏を巧みなメロディーラインで弾きこなし、そのセンスもいい。カイルは闇の脳裏に純白の柔らかな花が浮かび回転する幻想を残し、その目蓋を開いた。
「素晴らしい」
 カイルは拍手をして麗子に微笑んだ。
「まるで」
 そう。それは、あの次第に悪戯に踊るフェアリーテールはどこかあのピアニストの面影が浮かんでは溶け行った。草葉から今にも妖精たちの笑い声が余韻として響いてきそうな、後を引くものがあった。また、こちらにいらっしゃいと後ろ髪を引っぱって踊りに加わらせようとするかのような。
 きっと、それは麗子が恋人のピアニストと過した夜を表したものなのではないか。
 そして、記憶のどこかに掠めるものがある事に気づく。
 先ほどの演奏のようなものは以前、何かで目にした。音楽では無い、目の前にして一瞬で心を雁字搦めにした印象の。
「ああ、あれは」
 カイルはウィーンに住む友人一家の絵画コレクションの一つを思い出した。まさに、麗子の演奏に感じた闇の側面はとある絵に似て思えた。だから、麗子の演奏にはせせらぎを花がゆく優雅さと、闇に踊る妖精の幽玄さと、時に覗く緻密に乱れる妖精の足元とともに、そのもっと奥底にある<不安>が現われ混合したものだったのだ。その深い不安の部分は本当に暗黒で、気づかぬうちに聞き流してしまいそうなのに、目を向けてしまえばそらす事など出来ずに取り込まれてしまう常闇。それは日本人画家であるキゲン=シマカワの作品だった。縦に三メートル横に五メートルというその絵画は闇の森に住人の裸婦が並び佇んでいる。誰もがそれぞれに違う表情をして顔を片手で覆い、恐怖に震えたり、目を見開いたり、泣いたり、歯を剥いたり、目許は隠れたり、怯えたり、怒ったり、悄然したりをしている。背に生える黒い羽毛の羽根は折れたり片方が落ちていたり、足元に積もらせたりしていて、真っ白の肌に長い長い黒髪が螺旋に巻きついている。どこまでも不安を駆り立ててくる絵で、麗子の心は、そう、唯一両手で顔を覆いうなだれる姿に似ていた。
 ふっと、カイルは首を振り目を開けた。
 リアリスティックに浮かんだ麗子の残像が、暗い森で泣いていた。
 カイルは麗子を見た。
 彼女はヴァイオリンを首もとから離し、瞳を開けてカイルを見た。
「これが私の好きな曲の一つ。ラヴェルとドビュッシーの四重奏も、楽団で割り当ててみたいと思っているわ。第一楽章は管楽器では印象が代わるから、第二楽章ね」
「ああ……、そうだね」
 カイルが顔色が悪そうだったので、麗子は首をかしげそちらへ歩いた。彼ははにかんでから「大丈夫」と言った。
 時に、パイプオルガンは悪魔的な荘厳さを轟かせ全身を魂毎楽器の一部へと変えてしまいそうに感じることがある。まるではっと見上げるパイプオルガンが悪魔の羽根を広げ迫り来るかのようにも思えるのだ。自身が紡ぎだす音であるのに、全く違った憑依を受けるかのような錯覚を来たして。だが、麗子の場合は、それに気づいてさえいないのかもしれない。もしかしたら、カイルの弾いたパイプオルガンの演奏に麗子が重ねた情景には、彼女も気づかないような何かが潜んでいたのかもしれない。カイルにも分からないような、麗子の今の現状だからこそ重なる心情が。
 麗子はヴァイオリンを置いた。
「よく秘密で演奏を頼まれていたことがあったの。私たちの仲を知る人で、彼のピアノと私のヴァイオリンで、何度もその方の前で演奏した。その時から私は一人、作曲をするようになっていたわ。彼のする曲作りとはまた違う、私なりの、二人のソリストの奏でる楽曲」
 カイルはなめらかに光る麗子の瞳が、どこか違ったものを宿り始めることに気がついた。
「あなたの演奏を聴いて、彼に知らせることも無く別れることになってしまった演奏者のいない楽曲を、共に奏でることが出来るのではないかと思ったの」
「それは君と彼の愛の曲なのではないのか」
「そうよ……」
 光りが歪み瞳はそれでも曇ることなど無かった。
「許されない演奏は、どこかで自由にしてあげないとならない」
「僕は、そんな大層な役目は担えないよ。麗子。君の楽団の曲にしたらどうだい。そうしたら、音楽もその楽しさに喜んでくれるかもしれない」
「カイル」
 カイルは口をつぐみ、麗子の鋭い目を見た。今にも涙がこぼれそうだが流れずに、ため息が小さくつかれた。
「協力してくれると言ったじゃない」
 視線を反らし言う麗子が、光りに溶け込んでいってしまいそうに思えた。
「聴いて欲しいの。どんな曲なのかを」
 麗子がベンチの楽譜を持ち、カイルに手渡した。
「………。じゃあ、拝見するよ」
 カイルは数枚に渡る、全五曲の楽譜を見て行った。
「……ピアノ曲の作曲は初めて?」
「芸術大学時以来よ」
「正直驚いたよ。これは奏でたくなってくるものがある。面白い構成と華麗なメロディラインだ。パイプオルガンでは多少暗く豪華すぎるものにもなるが。ただ、基本的な問題だがヴァイオリンの音が掻き消えるんじゃないか」
「分かっているわ。重奏は無理だということは。細かな交差を交えたデュエット形式で構成をしなおすことでも充分全体の印象を引き継げると思うの」
「ちょっと考えさせてもらいたい。僕なりにもヴァイオリンを引き立てることが出来る演奏に変換できそうな気がするんだ」
 麗子はようやく目にまっすぐとした光りを蘇らせた。カイルは古城に引き返し、一番近くのホールに置かれたピアノの蓋を上げて麗子の前でピアノのパートを奏でようとした。
かし
「………」
 その手に麗子の手が重なり、カイルは麗子の手腕から、彼女の揺れる髪、そして、顔を見上げた。
「………」
 鋭い目がそこにはあり、麗子がカイルを睨んでいた。
「ピアノは……駄目よ。パイプオルガンが聴きたいの」
 静かに麗子がハスキーな声で言い、カイルはしばらく揺れる瞳で目をそらせずに、ゆらゆらとうつむいた。ピアノの席は彼以外には譲らない、そんな麗子の心の怒りが垣間見えて、カイルは心なしかショックを受けていた。先ほどまでの麗子は、そこにはいなかった。
「ああ、私ったら、なんて失礼なことを」
 麗子は言い、カイルの肩に手を置いた。
「本当にごめんなさい。ただでさえわがままを言ったというのに」
「いいんだ。愛情に勝てるものは無いんだから」
 ましてや、今も愛し合っている二人なのだから。カイルははにかみ、麗子は罪悪感を感じて胸が痛んだ。
「本当に悪かったわ。いいの。弾いてくれていいのよ。彼を忘れるほか無いのですもの」
 正直、彼以上の演奏をして麗子を驚かせてやりたかった。男としての闘志が沸きあがるかのようだった。カイルは楽譜を見つめ、麗子を見上げた。
「今日は、止めておこう。お互いに心を落ち着かせることは必要なのだと思うよ」
 優しく微笑み、ピアノの蓋を閉ざした。立ち上がり、一度麗子の肩を抱き微笑むと離れた。
「元気を出して」
「ありがとう。カイル」

Ⅲ 夜

 深夜。
 星は一つ一つが麗子の心を突き刺してきそうな程の鋭さで輝くので、それを全て受け止めるかのように見上げていた。こんなに寂しい心などは何も感じないようになってしまえばいいのに、それでも愛を憶えていたくて。
 音量を絞ったレコードは、愛のピアノ曲。暗号になって音の運び一つ一つで言葉になっている、二人にしか分からない愛の手紙。音に隠された歌詞が、麗子の心をささやかにあたためた。
 新しいレコード曲の音符進行は、別れることとなった麗子への熱い情念が秘められていた。レから始まる曲の全てが、麗子に贈られた愛想曲。普段は静かな、あの優雅な青年の内に秘めた愛が、言葉となって麗子の脳裏に広がる。彼は、麗子に逢いたがっている。麗子もまた彼を抱きしめに行きたいと願っていた。
「……!」
 いきなり乱暴に紡ぎだされた音に、麗子は驚き立ち上がって室内を見回した。
 その途端、乱流する複雑な音のプレリュードとなった。これは、音楽。
 麗子は胸部を抑えベンチに座りなおし、その音のする方を見つめる。指の動き一つ一つ、激しく振り上げられ交差する腕の一本一本、一時一時に繊細に行き交わす視線と乱舞するペダル操作が想起され、魔物でも潜み心を壊してきそうな痛みを感じた。
 彼女は古城の客室から廊下に出て、パイプオルガンのあるホールへと歩いていった。
「麗子」
 その暗がりで、麗子は古城の主に止められ振り向いた。
「演奏をしているのは、カイルですか」
「ああ。たまにね、夜はああなるんだよ。こういう時は近付かないほうがいい」
「……え?」
 主は乱暴にして豪快にパイプオルガンの鳴り響くなか、そちらを静かに見て言った。
「彼に二面性があることは知られていないからね。今の彼の記憶は、昼には消えている」
「二重人格、なのですか?」
 主が頷き、しばらく考えていたようだが麗子を招いた。
「行ってみるかい。近くへ行ったり声はかけられないが」
 廊下を歩き、古城を囲む林からも鳥がバサバサと飛び立っていく黒い群れが見える。閉ざされた観音扉は手を当てると、微かにびんびんと音によって振動していた。古城中がカイルの奏でるパイプオルガンによって蹂躙され、彼の心に侵食され、泣いているかのようだった。それは悦として、むせび泣くかのような。音楽という最高峰の美に包まれて魂を持った古城が昇華していくようだ。
 麗子は息を呑み、扉を静かに押した。
「………」
 そこには、あの優しい顔をした青年カイルの面影は無かった。その背に、ゾッとするような雰囲気が纏わりついていた。月は狂わされて強烈に銅の管を照らしつけるかのようで、彼の瞳は険しい光りに当てられていた。汗が幾つも月光に舞い落ちシャツなどは胴の輪郭を現すほどまとわりついている。それに耐えうる強さのある鍵盤は爆音になりそうなほどのその創り出される音に感化され全てを逃さす銅の管に送り出そうとしていた。それらの一本一本がまるでカイルに動かされた悪魔の指かのように、パイプは音を夜空と地が逆転したような天へと盛大に広げていく。
 わっと、オルガン全体が羽根を持った悪魔の幻影に変化したかのように見え、麗子はふらっと後ずさって背後の主に支えられた。
「恐ろしい人……彼は、怒りに塗れているの?」
「そうじゃない。あれは、私にもそれは分かることはできないが彼の存在そのものなのだ。それは確かに感情で現したら怒りとされるかもしれない。だが、激情なのだ」
 麗子はダン、という音の後に、一瞬を置いて彼ののけぞらせた首筋に汗が光り流れていき美しく閉ざされた睫毛が震えたのを見た。その後は静かに甘美なる音の調べが優雅に紡ぎだされる。麗子は溢れた涙で頬をぬらし見つめていた。琴線に触れるようなその旋律の流れ、一音一音も、それらが、やはり繋がる。別れた人が見せたあの優しさに、微笑みが自然に広がってしまう旋律に、まるで夜の雄たけびかのように。
「あの人に会いたい」
 呟いていた。ピアニストの彼はこの場所を知りはしない。
 カイルがそのまま、糸も切れたようにどさっと横の床へと倒れて行った。窓から差し込む白い月光にカイルのその濡れた髪、そして紅潮した頬を照らされて、麗子が駆けつけると眠っているのだと分かった。
「いつもこうなのですか?」
「この夜の彼が現われたときはね」
 カイルに何が起きて、解離性へと繋がったのだろう。麗子は汗で張り付く額の髪をそっとどけてあげた。
「ううん……」
 カイルが目を覚まし、麗子を見た。麗子は微笑み、にことした。
 しかし、カイルは見知らぬ女を一瞥してから、主を見て何も言わずに体を起こしてサッと立ち上がった。麗子は見上げ、別人のカイルに多少戸惑いながらも立ち上がった。
「君は」
「麗子です。この村に新しく来たヴァイオリニスト」
「ふうん」
 どこか、子供っぽい口調と声音で言い邪険に髪を掻き揚げると、くるっと向き直った。
「僕が演奏をしている時は出て行け」
「それは申し訳なかったわ……」
「ふん」
 麗子は背を向けて歩いていった背を見て、なんだか可愛いわね……とどこかで思いながら見送った。
 カイルは確か二十四歳のはずだが、どうも子供みたいにいじけていた。今に癇癪でも起こしてばしばしとかんかんに怒って楽譜で叩いてきそうな感じもあるが、分からない。あの子があんなに魔物のような演奏をしてパイプオルガンを掻き鳴らしたのだから、悲惨なことをされる前に離れたほうがよさそうだ。
 カイルは綺麗な女がいたとは思いながらも邪魔をされて気分を害していた。汗をシャワーで流しながらも鳴り止まない音のオンパレードの処理を仕切れずに、また眉間にしわを寄せ頭を抱えて歯を剥いた。今の彼は、常に脳裏に完璧な調律の取れた音の流れと不調和音が乱雑に行き交い紡ぎだされ続ける。脳のパンクだと彼は思っていた。目覚めた十歳の頃から時々目を覚ますごとに常に鳴り止まない脳内の音楽。それを外へ出させるために弾き鳴らし続けて体が壊れそうになるまで音を響かせ、そして、糸がふっと途切れればまた記憶が閉ざされる。気がもう狂う範囲などとうに超えていた。その頭痛を癒すためには自身の身体を音楽へと捧げることとパイプオルガンの悪魔の生贄となって演奏するほかは無い。自分はパイプオルガンの、音楽の奴隷なのだと、カイルは苦しんだ。そして、その鳴り響き続け目の前を真っ黒になるほどに占領する音符の乱れの先に、何か、思い出してはならない記憶と音があるようで、それを思い出したくなど無く音と音符は混迷を来たして彼を占領する。激しい罵倒か、精神的苦痛か、鳴り止まない愚弄言葉か、そんな醜く美しくない羅列がバラバラになって隙間隙間からはみ出すごとに黒い複雑な音符で塞ぎ閉ざして音という凶器の弾丸で破壊し尽くして記憶から闇に突き落とす。
 そしてそんな物などを排除した後に、ようやくだ。
 えに云われぬ美麗な音の旋律だけが壊れた頭を充ちさせて、まるで月の女神が微笑むようにカイルの壊れた心を慰めてくれた。
 カイルはシャワーを浴びながらも、目を閉じても開いても視野を埋め尽くす音符の幻影の先に、先ほどの女を思い出した。泣いていた。涙は、綺麗だった。
 演奏時に近付かれなくて良かった。そんな時は、何度か正気を失っている内に暴力に繋がっていたらしい。カイルはどっと疲れきってシャワーをあがり、寝台に倒れこんだ。そのまま、深い眠りへ落ちていく。複雑な音の流れを引き連れたまま。

Ⅳ 朝

 カイルが小鳥の鳴き声に覚醒すると、カーテンの開かれた先の朝陽をおぼろげに見た。
「眩しい」
 つぶやいて腕で顔を隠すと、思い切りくしゃみをして起き上がった。見回すと、髪が多少湿って枕も水分を吸収していた。腰にバスタオルだけ巻いて、ワインを飲みでもしたのかまた憶えていない。
 冷えたのでシャワーで温まりに行くと、枕を窓際の椅子に置いて窓を開け乾かし、身支度をすれば鏡に映るのは美しい青年だ。彼はまた微笑み、髪を整えた櫛を置いてから歩いていった。
 昨夜のことなどはすっかり脳裏には無く、寝ている間に指も癒えて視界も目に見る風景だけに彩られ、音楽も浮かんではいない。好きな曲だけが好きなときに浮かび、そしてそれ以外では自身の考えや、自然の音、人との会話を普通に受け入れているだけだ。
 廊下を歩いていると、窓から眩しい陽が照らす。
「カイル」
 麗しい声に麗子を振り返る。昨日は、ピアノの件で多少揉めてしまったのでカイルははにかみ、引きずっていても仕方が無いので気持ちを切り替えた。二人でする作曲はただでさえ楽しみなのだ。
「おはよう。麗子」
「おはよう。カイル」
 麗子はカイルが穏やかな風なので微笑んだ。本当に昨夜の音楽の悪魔が乗り移ってパイプオルガンを弾き鳴らしていた夜の彼は面影すらも無い。
「今日は、作曲をするのでしょう?」
 麗子から声をかけ、カイルは安堵として頷いた。
「君が許してくれるのなら」
「昨日は本当に悪かったわ。あなたのピアノも興味があるの」
 麗子は楽譜を携えている。これから麗子も食堂へ向かい朝食を食べようと思っているので、二人で向かうこととなった。
 麗子がちらりと、微笑みながら歩くカイルの横顔を見上げる。大丈夫そうだ。
「ウィーンへはいつ戻るの?」
「ここに来るときは、いつも一ヶ月は滞在するから時間はたっぷりあるよ」
「そうなのね。それなら体も楽ね」
「ああ」
 食堂に到着すると、既にこの古城の一家が揃っている。
「おはよう。お二人さん。さあ、お食事としましょう」
 夫人が言い、彼らは皆に挨拶をしあうと腰を下ろした。麗子が一度主を見ると、彼は小さく肩をすくめるだけに留まった。カイルは皿にパンを置いている。夫人も二人の娘さんももう慣れたことなのか、特にカイルの様子を伺うことも無く日常会話を投げかけている。
 主の娘さんは二十歳と十五歳の姉妹で、夫人によく似ている。瞳の色は主の色を引き継いでいる。彼女たちも楽団に加わって、姉がフルート、妹がソプラノサックスを演奏していた。
「町のお菓子屋さんに着いて来てくれるでしょう? カイルも麗子も。もうそろそろ今の時期のお菓子が出る頃だもの、馬車の用意も朝からしてもらってるの」
 浮き足立った十五歳のレティアが言い、二十歳のサリアが続けた。
「ウィーンの人にもまたお土産に持っていくでしょうから、今の内にお店のラウルさんに言っておいたほうがいいわね」
「麗子は初めて食べるんでしょう? 町に来たときは季節が過ぎていたから」
「楽しみにしてるわ。ずっとみんなで言っていたものね」
 レティアもうんうんと嬉しげに頷き、サリアは背筋のいい背をもっと伸ばしてから言った。
「また体重が増えちゃうわ。今年は食べる量を減らさないと。けど夜も昼も朝も食べたくなる美味しさなのよ」
 そういったことで、馬車に四人は乗り込んで明るい林を通る。
「それで麗子、小フーガは音の割り当ては出来そうなの? ソプラノサックスのパート、考えるのが楽しみだわ」
「昨日、カイルに直に弾いてもらったから雰囲気が掴めてきたの。林に降り注ぐ光柱のようなイメージを予想しているのだけど」
「小フーガで林が? 面白いのね。バロック音楽は教会が浮かぶのに」
 サリアが小フーガのパイプオルガンの楽譜をカイルに見せてもらいながら言う。麗子の楽譜ケースには、あのピアノとヴァイオリン曲の楽譜が収まっている。それも古城で奏でていれば、二人の少女も興味を引かれてやってくることだろう。
 旧市街に着くと、馬車を降りて歩く。
「おはよう。三人とも。カイルさんも来ているの。久しぶりね」
 花屋の女主人が声を掛け挨拶をする。
 林と丘を挟んだこの小さな町までは古城のパイプオルガンは響かない。
 しばらくは音楽のことについて会話を交わしてから、再びお菓子屋へ向かった。レトロなドアをくぐると、気の良い主人がバケットにお菓子をたくさん乗せて厨房から出てきて、彼らに「いらっしゃい」と微笑んだ。
 カイルが憩いの場所で休憩をする彼女たちに、飲み物を買ってきてくれるというので御者さんの分もあわせ五つのボトルを携えカイルと御者さんが歩いていく背を見送った。
「ところで、昨日は驚いたでしょう?」
 きらきらとする目でレティアがサリアを挟んで麗子に言って来た。
「カイルのことね」
「私、夜のカイルの演奏が好きよ。パパはちょっと心配してるみたいだけど。暗黒ゴシックの世界への傾倒は闇を生むからって」
「この子ったら、真っ黒いネイルやコスメ、それに服ばかり集めるのが好きだから、なおのことなのね。私は昼のカイルの演奏が好きよ」
 学校のある時期だから、レティアの爪は何も塗られてはいないが、確かに麗子が一年間ここにいる間にもレティアが黒くロマンティックな装いをしている姿を見る。顔立ちもお人形さんのようだし、中学生にしては背が高いほうではないので、余計に可愛らしく見えるのだ。
「怖くは無いの?」
「初めて音に驚いて、見に行った時は、私たち二人で泣いちゃったわ。まるで地獄の門が開かれたみたいで、その風に飲み込まれてしまいそうな恐怖を感じたから。パパが扉を閉めて、私たちを寝室へ戻したの。五年は前の話だったかしら。高校生になってまで泣くとは思わなかったけれど、心が抉られるようで、辛くて悲しくて……それがカイルの感じる痛みに感じて」
「私はカイルのそういうところも、認めてあげたいって思ってるの」
 二人とも女性特有の観点から言う。全てを優しく受け入れてそれをどう解きほぐすかを思うのだ。サリアは辛いなら光りで、レティアは闇の深部を、受け入れて癒すことを。サリアのように辛さに背をそむけるだけでは解決しないし、レティアのように闇ばかり見ても解決しないが、二人の理解の及ぼす力は癒しとともに新しい風を吹き込むことにもなる。性質の違う姉妹は、演奏の風景でもそれが感じ取れる。指揮者のトーマスは二人の扱いに対して、完全に楽器を分けさせることで解決させた。それまでは二人とも母のすすめたフルートを担当していたのだ。レティアに彼女の性質にもっと近いソプラノサックスをやらせると彼女の奔放さがいい方向に際立った。
「レティアがよくカイルの夜の演奏を音符に起こせるだけ起こして、サックスで吹いているの。とても素晴らしいに変わりは無いから」
「芸術の域よ」
「そうね。完璧なものほどに悪魔が宿るというけれど、その通りの恐ろしさよ」
「夜のカイルとは怖くて会話は出来ないけれど、楽譜がまとまったらカイルに見せてあげたいの。あなたはこんなに素晴らしい作曲をしているのよって。それで、どういう趣向で作ったのかを聞けたらと思うな」
 麗子はカイルが御者と歩いてくる姿を見た。男性二人は笑顔で会話をしあい、歩いてきている。
 レティアの言うように心を分かって理解してあげたい。それは心から思う。明らかに、苦しみもがいていた姿だった。パイプオルガンに向かうカイルは、何かと必死に闘い、拒絶し、雁字搦めにされていたから。その場所から、開放してあげられたならと思う。

Ⅴ ピアノの旋律

 レから始める主旋律。それは、麗子のレ、そして、レノダのレ。
 ピアノのニ短調から、ヴァイオリンがニ長調から始まるその流れ。
 楽譜の音律が踊るように、愛を駆け巡る。
 麗子のルースター・レノダへの愛の詩は、カイルが奏でることで心のどこかで不自然なほどのぎこちなさを感じずにはいられなくて、彼は麗子が目蓋を閉じて聴く姿を見た。表面上はさすがというべきか、正確に、楽譜どおりに、美しく奏でているのだが、麗子とルースターの間の愛情を知らないカイルはそこまでの情緒にはまだ行き届くことなどできずに、時折悲しげな旋律が繊細に響き渡った。それごとに麗子は過去の悲しい恋、ルースターとの愛を思い出すのか、眉をかすかに顰めさせた。
 カイルが微かに麗子に心を寄せ始めていることなど、麗子は分かってはいないのだろう。それでもいいから、麗子の愛の詩を完成させてあげたい。いや、完成されたそれを、形を変えて自分のものにしなければならないのだ。それは重荷でもあったが、麗子を救う一つの手でもある。
 この曲はとても愛情に充ちた、楽しくも踊りだしたくなる、夢見心地の幻想曲だ。
 それだというのに、カイルの気持ちが入ると悲しげに聞こえてしまう。
 カイルが演奏を止めると、麗子がカイルを見た。
 麗子はカイルが疲れているのかと思った。そういえば、夜に覚醒した翌日はいつ眠るのだろうかと。
「多少無理があるかしら。あなたなりの観点で言って貰えればいいの。私はピアノの作曲家というわけでも無いし、元々がピアノとヴァイオリンのソリスト同士の作曲を演奏したことが無いから、不自然なところがあるなら言ってくれて構わないわ」
 一度、ヴァイオリンとともにピアノを奏でたのだが、やはりそれは美しいものだった。無理も無く、優雅な調べ。麗子らしくもあり、そこに加わる愛の軌跡。
 それをパイプオルガンでいかに表現をカイルらしくするか、それは難しいものだった。麗子と愛し合うことなどは出来ないのだから。
 カイルは金髪をかき上げ流すと、白い額に手を当てたまま言った。
「僕が弾くと、どうも単調が重くなってしまう」
「………」
 麗子は、きっとニ短調からへ長調に変えたいと言っているのだろう。そうすれば、カイルが奏でると悲しげに響いてしまうその音はエレジーから、どこか清らかさをもつ麗子の指示するとおりのファンタジアへと変わるから。
 麗子はどう伝えたらいいものか、それをしばし考えた。カイルだから悲しげな曲になってしまうのか、この音律はルースターが弾いてもそうなってしまう机上の舞いに過ぎなかったのか。夜のカイルの悲しみの欠片が残り、カイルの意識しないままに紡ぎだされたものなのだとしたら、この曲作りはカイルにとっては辛さを感じていることにも繋がるのだ。無理をさせたくは無いと思う自分がいる。
「楽譜を見る分には、やっぱり幻想的にして軽やかで、光りが見て取れるからとても楽しい、わくわくする、是非とも弾いてみたいものなんだ。それは間違いないんだ。幻想曲のもつ夜の雰囲気が、眩しく輝く満月に煌々と照らされて若草の草原で二人で踊っているような感じなんだから。それが、朝ぼらけの訪れとともに明星に照らされて、薔薇色の柔らかな朝陽に照らされて微笑む最後のパートなどは心迫るものがある感動曲だ」
 麗子が顔をあげ、カイルを見た。カイルはどうにか楽譜を理解しようと、その心を読み取ろうと必死に読んでいる。頭で繰り広げられる情景と、自分の指が奏でる音の雰囲気の差異にじれったさを感じながらも。
「あなた、私の思う曲の情景をそのままに言い当ててくれるのね」
 カイルは顔を上げた。麗子の目が潤んで、ソファからカイルを見ている。カイルは初めて顔を染めた。
「私、やっぱりあなたとなら作曲が出来ると思うの。この曲もそうよ」
 カイルは続けようとしたが、留めておいた。自分が奏でるのでは、二人がまるでその草原から冷たい河に足を浸し、手を繋ぎ合って冷めた月光の散らばるなかを沈んでいきそうな悲しみを感じるのだから。それが、カイルの叶わないと分かる恋の焦燥なのか、それとも……。カイルは目を閉じて首を振った。
「カイル」
「ああ、大丈夫だよ」
 カイルが感じたルースターへの微かな気概はやはりジェラシーで、このまま麗子を奪ってしまいたいという気持ちがカイル自身を苦しめた。まだルースターは麗子を愛しているのだ。
「時間はあるんだ。じっくり確かめ合って作っていこう」
「ええ……そうね」
 麗子は微笑んだ。
 カイルは自室で楽譜を前に、作曲をしていた。頭から流れるように浮かんだ旋律には、麗子が重なる。
 パイプオルガンで表現する麗子はカイルの前に現われた天使のようだった。愛により失った天の声を取り戻そうと涙する麗子の姿。それは荘厳なステンドグラスに照らされて心を一つ一つ明るいほうへと呼び戻そうとしている健気な姿が重なった。
 脳裏に走る指によって紡ぎだされる音楽。カイルは出来るだけ優しげな、崇高な調べを調節していく。
 麗子は一人、ヴァイオリンを奏でながら、脳裏に芸術歌曲を漂流させていた。
 愛の詩は、ロマンス幻想曲だ。旋律の整ったあとは詩を乗せる。その歌手はいなく、幻の歌になるのかもしれない。
 麗子は音の雰囲気を何度も耳から体に流れ込ませながら、歌曲を紡いだ。
 まるで苔むして、霧煙る深い森林を歩くように、不確かななかを言葉を紡ぎだしていく。月に面影を探すかのように。
「そうだわ……楽団にはコーラスがいない。けれど、加えたらもっと楽しいのではないかしら」
 麗子はふと思い、窓の外を見る。

Ⅵ 愛と恋の間際

 麗子は朝陽を窓越しに透かして目を細め見ていた。窓枠に手を置き、まだ冷たいままの朝陽は指先を温めることこそはなくても、白く光らせた。そんな時は、ルースターの手のぬくもりを思い出す。『麗子の手は冷たいね。この指がヴァイオリンの弦を奏でて、そしてその紡がれる音は僕の心に癒しを与えてくれる。どれほど今までいろいろな冷たさに耐えてきたのだろうか』彼は麗子の手を引き寄せ温めながら呟いたのだった。麗子はその時、楽団でなんとかやっていき始めたばかりのころで、それなりに抱えた悩みを持つ日々だったので、そんな何気ないルースターの言葉に少しばかり涙が出そうになった。
 林の木々の上から、葉に光る縁取りを染みこませながら昇る朝陽。
 彼がピアノから肩越しに振り向いた笑顔が重なる。どこかつかみどころが無い夜闇のような人。それでも夜の闇から薄ら明るくなる頃に、共に見つめる朝陽のような人。そっと昇って来る朝陽のような人。
 それはいつしか昼のように影さえも認めないような現実を前にしては、諦めるほか無かった恋愛だった。
 窓辺から離れて、ソファの上の楽譜を手にする。
「………」
 同等に薄っすらと朝陽が差し込む楽譜。
 カイルの向けてくる瞳が、その楽譜に広がる陰影と、音符の羅列にありありと重なる。遠慮しがちな微笑みと、時々まっすぐと向けられる、貫いてくるような光る瞳。カールする髪から。
 ヴェール一枚先の麗子へ対する好意に気付いていないわけではなかった。ルースターの話をする度にカイルの表情が麗子を心配するように見てくることにも。いつまでも忘れたくは無いルースターとの愛を、いつかどちらかが本当に諦めなければならないことだなんて、まだ思えなかった。
 もう駆け落ちなんていうものをするような若さでもなく、責任の無さも許されぬ年齢になってしまった。大人になってしまったのだ。互いの地位が既に音楽世界にあり、ルースターはプロのピアニストとして一族の楽団にいる。独立やフリーになれる立場ではない。それを、東洋人は認められない嫁ぎ先なのなら、伝統を重んじるのだから諦めるのはしかたが無いとしか言えない。日本もそういった伝統を継ぐ厳しさを重んじる気質を持ち合わせているから納得することも出来た。ルースターも確かにはじめはそれを拒んだが、大人の領分をわきまえなければならないのだと分かっていた。
 それでも、あの朝陽の差し込んだ室内で寝台の上、二人ルースターと共に手を取り合っておぼろげに見つめた流れる光り。涙が止め処なく流れて、もう共にいられないのだと知った朝。麗子はおぼろげに言っていた。
『ルースター。私たち、誰も知らない国へ逃げちゃいましょう。日本でもない、ヨーロッパでもない、音楽やクラシックと関わりの無い田舎へ』
『麗子』
 ルースターは麗子の手が引き離され涙を拭いた指に唇を寄せて、涙の止まらない頬にも寄せた。
 ルースターは麗子を包括した。朝陽も見えなくなり、ただただ麗子の悲しい泣き声が続く。
 ルースターはいきなり麗子の手を引き上げ、そして言った。
『誰も知らない場所へ行こう』
 彼は決断すると寝台から立ち彼らの服を着て、トランクに一通りのものを詰めてから麗子の手を引いて朝陽が光る廊下を走り、玄関ホールに来て扉を開け走って行った。
『ルースターぼっちゃん。おはようございます』
『お二人でご旅行ですか?』
 ルースターも麗子もばっと立ち止まり、楽団の五人を見た。彼らは笑顔で二人を見て、車両から降り立ったところだった。皆が楽器のケースを持ち、なかにはルースターがお腹にいたころからの馴染みの演奏者もいる。ずっと一緒にやってきた。楽団の仲間であって理解者であり、ルースターを慕ってきてくれるし、親のように叱って来てくれた人々だった。
 麗子はルースターの手をぎゅっと握り、そして彼らに首を振った。横に。その手が震えていることをルースターは分かって強く握り返した。
『違うの。私がちょっと遠出をするから、見送りにきてくれたのよ』
 麗子が言い、そしてルースターの手を解いて離れて行った。
『じゃあ、ね……』
 痛切な表情を一瞬で隠し、麗子は一人、ヴァイオリンケースと旅行カバンを手に提げ颯爽と歩いていった。ルースターが追おうとすると、麗子は振り向かずに大またで歩きながら言った。
『見送り、ありがとう。急いでいるから、じゃあ』
 屋敷を背に私道を歩いていき、門を抜けて、通りを歩き馬車で広い市街地を走らせた。そのまま、麗子は泣きながら膝にうなだれた。
 ヴァイオリンよりも大切なルースターを手放した、その瞬間だった。

 

Ⅶ ヴァイオリンの旋律

 蒼い月の光りが、静かに伸びてきてカイルの白い指を照らし始めた。シーツを染め上げ、まるで生気を感じられない手が海底の砂上に静かに横たわる彫刻のようである。
「………」
 カイルはふっと、意識が覚醒を迎えて薄氷のような瞼から瞳が覗いた。
 音が……聴こえる。とてもこの世のものとは思えない旋律。悲しげで、今にも壊れそうで、凍えたような音を紡ぐのが誰なのか。
「誰だ……」
 カイルは眉根を寄せ頭痛が引くまで、それを聴いていた。聴いていると、その旋律が心の底に同調するようだ。微かな葉と葉の揺れるような音さえも敏感になるこの時間。ただ心にその雫のような旋律だけが降りてくる。そしてぽっと心に灯火をつけてくるような。
「ヴァイオリンか……」
 行って支えてあげたいその灯火は体内から腕、そして指の先にまで染み渡り、駆り立てられる。
 まるで、誰か大切な人を失って静かにむせび泣くかのような音。一本一本の絹糸を手繰り寄せて紡ぐのに、その端からはらはらと、どんどん影のように散って行ってしまうのを紡ぎ続けるような。
 カイルは目を覚まし、ベッドから上がった。ひんやりと冷たい石の床がカイルの体を足元からだんだんと冷まし、感覚をはっきりとさせていく。
「一体誰なんだ。この美しい旋律は」
 月光に波のようにカイルの影が流れていくさまは、音も無くゆっくりと蒼い空を泳ぐ魚影が床に映るかのようだ。
 廊下を歩き、辺りを見回す、いつでも、いつの間にかいるあのパイプオルガンの部屋では無い。頭痛はなりを潜めていた。
 ただ、今はこのヴァイオリンの音色に導かれ、廊下を歩き音の正体を探し歩いていた。カイルの背にする柱時計は十二時四十五分。それを背に歩き、影に染まる。
「………」
 カイルはハッとして、ドアの先の女を見た。
 図書室横、音楽室のドアだった。
 その美しい女は哀しみに頬を濡らしながらヴァイオリンを奏でていた。無我夢中、いや、五里夢中という言葉が似合うような、どこを探っても見つからないものを探し続けるような心が締め付けられる旋律。
「あの女は、確かこの前の」
 カイルは嫌な記憶を振り払うように、一瞬襲った頭痛を頭を振り追いだした。今はあまり、不思議にパイプオルガンを奏でる気は起きずに、ただ彼女のヴァイオリンを聴いていたかった。
 それがカイルの荒んだ心を癒した。だが、何故泣いているのか? この前は、顔をのぞき観てきた。オルガンを奏でていたら突然現れた女だった。綺麗だったが、その瞳は揺れていた。まるでカイルを月食に蝕まれていく中世の不可思議現象の月を見上げるものかのように。
 その女は、まるで糸が切れたかのようにヴァイオリンを顎元から離し、そしてソファに崩れ泣いた。
「ルースター……!!」
 女、麗子はヴァイオリンを持つ手を震わせて涙をぼろぼろ流した。
 カイルは歩いていた。泣きそぼる彼女の横に行くと、辺りを見てスツールに置かれた肩掛けを見てそれを持って行った。
「おい」
 はっとして麗子は顔を上げ、瞬きをしてカイルを見た。ただただ、麗子の肩掛けを差し出してきている。目はいつものカイルではない、やんちゃな小学生の男の子のような顔立ちをして口をきゅっと結び、目を半開きにさせて、ぐいっと肩掛けを差し出している。シャツもそのまま出して髪も綺麗に整えずに奔放にサラサラさせていた。あのもう一人の、不安げで怒りを抱え、そして心を犯され纏わり着く闇を崩し打破したがっているカイル。
「………」
 麗子は肩掛けを見てからカイルは見上げ、微笑んだ。
「どうもありがとう」
「こんな夜中に女がこんな寒い音楽室にいるな。早く眠っていい夢でも見てろ」
 麗子は「ふっ、」と、不器用ながら優しいままのカイルに微笑んでから優しい眼差しでカイルを見上げた。
「あなた、今日はパイプオルガン弾かないのね」
 カイルは涙で濡れているのにそんなことも忘れたのか女がカイル自身のことを聞いてくるので、スツールに腰掛けた。
「別に頭痛もなければ」
 麗子はそんなカイルを見て、そこまで歩いた。何かあったのだろうか。辛いことが。
「いつでも言って。まだ出会ったばかりだけれど」
 カイルは首を振ってから麗子を見た。
「あんた、なんで泣いてたんだ?」
 麗子はそこで頬を撫で、涙を拭った。
「なんでもないのよ。心配しないで」
「馬鹿だな。それじゃあ俺だって何も言わない」
 カイルが「ふんっ」と顔を背け、麗子が笑った。
「ねえ。あなたいつもオルガンを弾いているの?」
 カイルは頷いた。
「頭に浮かんだのだけだけどな。そんなことより、さっきの」
 ヴァイオリンを見てカイルは麗子を見た。麗子はソファの上に立てかけられたヴァイオリンを見て、悲しげに微笑んだ。
「ごめんなさいね。時間も忘れていたみたい。もう時計も深夜も一時を指している」
「なんだかあんたのヴァイオリン聴いてたら頭痛が引いたんだ。さっきみたいのは弾けなんて言わないけど、聴かせてくれないか。何か」
 カイルはヴァイオリン曲はあまり知らない。音楽室の棚のヴァイオリンと題名の書かれた楽譜集の背表紙が視線の先にあり、適当に選んだ。
「パルティータ第2番 BWV1004 第5曲 シャコンヌ___弾いてくれ」
 麗子は静かにカイルを見つめ、そしてしばらくしてから頷き、ヴァイオリンを持ち構えて奏ではじめた。
 それは、とても悲しげで静かな旋律だった。本当はもっとアップテンポなものでも所望して、女の気持ちを明るくしてやりたかったがこの<パルティータ第2番 BWV1004 第5曲>という曲も心にそっと触れてくるかのようで、いつの間にかカイルは目を閉じて聞き入っていた。
「優しい音色だ」
 カイルは呟き、瞼を開き麗子を見た。目を閉じて奏でる麗子はまるで、ああ、花に似ている。とカイルは思った。月夜に白く浮かぶ百合の花のように凛としてしなやかな腕を操り、そしてエレガントな髪を揺らしながら、時々美しい瞼を開き揺れる弦を見つめる。
 感情的になりすぎずに、感傷的にもなりすぎない、ただこの曲の意味も分からなくてもだんだんと癒しの音色になっていく。先ほどの涙は、百合の落とす透明な液体のように落ちたようにあともない。
 潤うままの瞳がまた閉ざされて、奏で続ける。
 麗子も奏でている内に、いつの間にか心はシャコンヌのなかにとりこまれるように包まれていた。
 そして、いつの間にかその曲は<ショパン 夜想曲 第2番>の優雅な流れに漂っていた。
 心で泣くかのような先ほどの麗子の泣きながら奏でていた<夜想曲20番ハ長調>とはまた違う。
 麗子は夜想曲2番を奏で終えると、ヴァイオリンをそっと顎から離してカイルを見た。
「あんた、名前は? 素敵な音色だった」
「私は、麗子」
 「麗子」と、カイルは反芻して考え込むようにヴァイオリンを見つめた。
「ルースターっていうのがあんたを泣かせるのか」
「違うわ。ルースターは別れた恋人。もう逢うことは叶わないの」
「寂しくて奏でていたんだな……」
 カイルは視線を落とした。
「私の悲しみなどは、あなたの苦しみに比べたらなんということは無いのかもしれない」
「何を言っているんだ?」
 ヴァイオリンを見つめていた麗子はカイルを見た。
「人の悲しみに差なんか無い。誰の悲しみも同じぐらいに深いんだ。怒りも、憎しみも、それが苦しみとなって心を締め付けるのなら、もう誰もその心に何の差など無い。苦しみが癒える速度も違う。そして誰も理解などされない苦しみを一人抱えるものもいる。どんな小さな悲しみだろうがどこに差があるっていうんだ」
 麗子はカイルを見て、微笑んでいた。やはりこの子は優しい子だ。カイルはいつの彼も、今の傷ついているカイルはそれほどに。
「麗子が悲しいなら、俺も悲しい。個人の悲しみなんて、何を言おうが他の人間になんか理解できないんだ」
「ありがとう」
 カイルは感謝された意味が分からなくて首を横に振った。
「別にありがとうなんて言われること何もしてない」
「あなたは正直な人だわ」
 深夜も冷え込み始め、麗子は肩掛けをかけて引き寄せた。
「いつか、カイルの苦しみも癒されたらいいのに」
 麗子は呟き、そっぽを向くカイルのいじけた子供のような横顔を見つめた。

Ⅷ 恋と愛の狭間

 カイルは眩しくて、頭痛で目を覚ました。そこは明るくて、嫌になるほど眩しいほどだった。
「うう……、」
 辺りを見回すと、そこは満遍なく明るい室内で、眩い何かが揺れている。窓の外に。何だろう? とてもそれは美しい。
 夜に目覚めて、それで麗子という美しい女に出会った。ヴァイオリンを聴いて、それで眠ったのだ。それで目を覚ましたらこんなにも眩しい。
 窓まで歩き、外を見た。どこにも暗い場所などが無く、明るい。色のある世界。緑、水色、白、黒、茶色、それらで出来上がっていた。
 昼だ。
「麗子は」
 見回すが、やはり麗子は音楽室で別れたのだ。
 ここはあの壊れた教会では無い。
 昼も知らなかった教会。あの嫌いな奴がいた場所。
 あの音が外れて壊れたパイプオルガンは無い。さび付いたパイプに、所々見当たらない鍵盤、崩れた壁は月光が落ちるところに床に草が生えていた。
 今に全て緑に埋め尽くしたい、それがいいのだ。全てが壁もパイプオルガンも鍵盤も長椅子も祭壇も草にまみれさせて苔むさせてしまえばいい。
 あの緑の揺れる外のように。明るければあんなに眩い緑だったのだなんて思わなかった。崩れた壁から見える夜の木々も、月光に照らされる以上に緑の草も。
 何も夜が見えなくなるほど緑で埋め尽くされて、今に鳥が落とした木の実から木になって、しだいにあの場所ごと大きな木に気おされてそして木だけが残る場所になればいい。深く蔦が這い蔓が蔓延ればいい。教会は跡形もなく崩れて。
 揺れる木々のどこにでも陽が差し込んで、小鳥たちが駆け巡る。
 そして、あの麗子の奏でた優しい音色が包み込めば良いんだ。
 カイルは麗子の美しい顔立ちを思い出して、初めての気持ちに気付いた。
 カイルは窓枠に手を掛けていたのを肩越しに振り向いた。
 歩いていく。パイプオルガンの部屋に来ていた。明るいときに見るパイプオルガン。
 その椅子にカイルは座り、脳裏に廻る旋律を奏でる。
 それは、なんだろうか。頭にあった、今までに奏でたことが無いはずのメロディだが、知っている。何故だろうか。分からないが、奏でていた。麗子の顔が浮かぶ。涙を流しヴァイオリンを弾いていた女。その彼女が微笑んだときにマッチする旋律に思えて、カイルは不思議とリラックスしていた。
「面白い旋律だ」
 カイルが奏で終わると、パイプを見上げた。
 これを麗子のヴァイオリンとともに奏でられる気がする。自分らしくはない旋律だが、知っている気がした。
「カイル」
「………」
 振り返ると、そこには麗子がいた。麗子は歩いてきてカイルからオルガンの鍵盤を見つめる。そして微笑んだ。
「ありがとう。あなた、こんなに素敵にアレンジして弾いてくれただなんて」
「アレンジ?」
 カイルが眉を顰めて首をかしげ、何のことなのか分からなかったが向き直った。
「あんた、変な人だな」
「え?」
「俺の前によく現れるし、昨日は泣いてたし、ありがとうって言ってくるし」
「あなたは……」
「この曲知ってるのか? 麗子が好みそうだもんな」
「私が作曲したの。昨夜言っていたルースターの」
 振り返って見上げると、カイルは立ち上がった。
「俺が一緒に弾いてやる。楽譜に起こしなおして、ヴァイオリンのパートも入るように」
 すると棚から楽譜を出し、ローテーブルに楽譜を広げ万年筆で驚くべき速さで書き始めた。まるで黒い塊や河のように音符が続き、かなり下手くそな字で何かいろいろ指示を書いている。ががっと筆圧が強すぎて楽譜が歪んだり、穴が開きかけたりして本人は凄い勢いなので麗子はただただ呆然と見ていた。
 筆記体ではなく、拙いアルファベットで書いているからいいものを、判別不能になるところだった。
 脳裏のどこかに残っていたのか、麗子の奏でたヴァイオリンパートも入れて、間合いを揃えていた。
「できた」
 バッとローテーブルから胴体毎上げて、すぐに移動してオルガン前に立つと、先ほどの旋律を奏で始めた。さらに流麗なアレンジも加わった状態である。
「これで弾いてみたらいい。これが愛の楽譜だ」
 カイルが楽譜を掲げて麗子も持った瞬間、まるでカイルの糸がふわっと緩んだようにソファに倒れて行った。
「カイル」
 カイルは目を閉じて、眠ったのかすーすー言っている。
「変わった子……」
 カイルはそのまま眠ってしまった。

Ⅸ パイプオルガンとヴァイオリン

 カイルはどこかの子供が書いたのか分からないが、めちゃくちゃに見える楽譜をルーペを使いながら一節一節直している。
 麗子はその横で紅茶を傾け、ソファで彼の作業を眺めていた。どうやら骨の折れる作業らしく、自分で書いた楽譜を自分で清書しなおしているカイルは時々頭を抱えている。
「まるでこれは夢のなかで書いた楽曲を思い出しながら紡ぐようなものだね。並べてみたらとても素晴らしい曲で、一見したら一面黒にしか見えない。全く、誰が書いたのやら」
 この古城主の姉妹がくすくす笑って見ている横で、カイルはしっかり指示書まで書いてから楽譜を整え、頷いた。
「出来たよ。これ、麗子が作曲したものだったんだね。アレンジが素敵だし、僕が奏でてもとても良い感じになると思う」
 麗子も楽譜を確認しながら、目で追って頷く。
「ええ。本当。朝方はとても驚いたわ」
 姉妹二人はソファから起き上がった。
「ね、早く聴かせて! 楽しみだわ。朝から気になっていたの」
 覚えている限りの曲をハミングで口ずさみながら二人の少女がホールでくるくる手を取り合いステップを踏むので、カイルも麗子も「よし」と立ち上がってそれぞれの楽器に構えて、楽譜を確認して頭に叩き込みながら確認しつつも奏でて行く。

『小フーガの囁き』

『小フーガの囁き』 ビターチョコレート 作

小さな楽団で第二ヴァイオリンをする織部麗子。そして普段は教会で働くパイプオルガン奏者のカイル・ホースナー。彼らはそれぞれの過去を抱えながらも次第に惹かれあっていき、楽団のために様々な作曲を通して心を通じ合っていく恋愛ストーリー。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-12-20
Copyrighted

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