電撃

作家でごはん! に以前投稿した作品です。

愛を与えられる者  ――木崎愛美


 空港に降り立つと日本特有のむっとした熱気が顔を包んだ。日本の夏は暑く湿気が多い。そんなことも忘れていたところだった。
 やはり夫に頼んでファーストクラスできてよかった。十分くつろげたので時差ぼけもない。
 夫の仕事のために渡仏したのが三年前。当時住んでいた家は売りに出してしまった。というのも、いつ帰ってくるかわからなかったからだ。今のところわたしたちは家なしということになる。とりあえず新居が見つかるまで夫の実家にお世話になる予定だ。
 夫は両親と妹の四人家族だ。妹の伊織さんは十九歳、予備校生。義父はたしか建設会社の社員で義母は専業主婦だったように思うが、三年も離れていたので今はどうなっているかわからない。義父は退職している可能性もある。
「こんにちはー」
 夫と手を繋いで家に入ると、わたしはテレビを見ている伊織さんにまとわりついた。
「伊織さんただいまー。やっぱり夏は暑いね! フランスの夏はすっごくすごしやすかったよ」
 伊織さんはややあきれたようにわたしを見た。
「おかえんなさい……愛美さん、相変わらず元気ね」
「だってフランスにいたときなんか、当たり前だけど日本語全然使わなかったんだもの。みんなフランス語だし、あたしもう少しで日本語忘れるところだったわ」
「あら、それはお兄ちゃんだって同じよ」
「でも秋也さんはなんか馴染んでたわよー。一人だけずるいよね、あ、おかあさん」
 義母がにこにこしながらお茶を運んできた。この女性は、いつもほくほくした顔でわたしたちの面倒をみてくれる。優しい穏やかな人である。
「愛美さん、疲れたろう。時差ぼけとかないかい?」
 ゴルフ帰りらしい義父が日焼けた顔でリビングに入ってきた。
「いいえ、時差ぼけは全然。おとうさん、いつまでになるかわからないけど、しばらくご厄介になります」
「いや、その話なんだけどね、こっちはずっといてくれてかまわないよ。なんなら増築して離れでも建てようかって、母さんとも話してたんだけどね。お前たちさえよければ」
 わたしは夫の顔をのぞきこんだが、彼は細々と荷物の整理をしていた。
「えーっと、秋也さんと話してみるわ」
「そう。そうしてくれるか」
 義父はなにやら満足そうにリビングを出て行った。
「愛美さん、嫌よね? 義理の親と同居なんてさ」
 わたしは大人ぶる伊織さんがおかしくて笑った。
「あたしは別にいいわ」
「あら、いい人ぶって。嫌なときは嫌ってちゃんと言わないと、お父さんってばすっかりその気になっちゃったわよ」
「ぜんっぜんかまわないわ。だってあたしこの家好きだもの。けっこう広いし、あったかいし、庭もあるし」
 ふうん、と納得していないように伊織さんは頬に手をあてた。
「それとも伊織さんは嫌? あたしたちがここにいるの」
 伊織さんはあわてたように手をふった。
「いいえ、私もいいのよ、全然。ただ愛美さんがどうかなって思っただけ――あ、お兄ちゃん。私も荷物の整理手伝う」
 伊織さんは立ちあがって段ボールをほどきにかかった。わたしも手伝おうとしたのだが、夫に「疲れているだろうから寝てなよ」と断られてしまった。
わたしは少しも疲れてなどいなかったし、義妹とはいえ他人に荷物を開けられたくなかった。しかし夫がそう言うので渋々二階の夫の部屋に行き、ベッドに横になった。
空港から電車を乗り継いで帰ってきたのですっかり夜になってしまった。本来ならもう寝る時間だが、ようやく日本に帰ってこられた興奮でなかなか寝付かれなかった。
 深夜、わたしが風呂も着替えもすませて寝ていたころ、一段落ついたのか夫があがってきた。
「おとうさんがね、同居しないかって言っていたわ」
「ああ、聞いたよ。ぼくとしてはまた前の家を買いたいんだけどね」
 そういえば前の家はどうなっているだろう。もしまた売りに出されていたら、もう一度買い戻したいと思った。
「あそこよかったよねー」
「そうだね。広いし、日当たりはいいし。あそこなら病院も学校も近いし、もし子供が産まれても育てやすいんじゃないかな」
「そうよね」
 わたしは夫の腕に頭をのせた。夫がわたしのほうに寝返りを打ち、指でボタンをはずそうとする。わたしはその指をとめると「めっ」と人差し指でバツをつくった。
「だめ。隣の部屋で伊織さんが寝てるでしょ」
 夫はちっと舌打ちをしそうな顔になると、軽く苦笑した。「早く家を見つけような」わたしはうなずいた。

 朝、起きてみるとすっかり朝食ができあがっていて、伊織さんと義父がパンをかじっていた。
「あ、おかあさん、おはよう」
「おはよう。愛美さん、もうちょっと寝ててよかったのに」
 義母は笑顔でコーヒーを出してくれる。わたしは怠惰にもソファに座って膝を抱えながらそれを飲んだ。
「お兄ちゃんはもう仕事に行ったの?」
 化粧をして、わたしよりもよほど大人っぽい伊織さんが聞いた。
「うん。お土産持って、ちょっと早めに行くって昨日言ってたよ」
「ふうん。愛美さんも早く着替えたら」
「伊織。いちいち口を出すんじゃない」
 義父が厳しい声を出した。伊織さんはそれから沈黙したまま皿を洗って出かけて行った。
 義父も会社に出かけていき、義母にパンを運んでもらってテレビを見ながらかじっていると、きれいに化粧をした義母がわたしの肩をたたいた。
「これから病院に行ってくるわ。それからお買い物してくるから」
「あ、買い物ならわたしが」
「いいのよ。愛美さんはゆっくりしていて」
 義母は優しい笑みを残して出かけた。わたしはこの広い家で一人になった。
 段ボールを潰しているとどうしようもなく退屈になってきて、ふと思いついて友達の家に電話をした。幼馴染の健ちゃんだ。
「よう、帰ったのか」
 健ちゃんは小さいころはやせっぽちで女の子のようだったが、今はすっかりたくましい男性になっている。時の流れには驚きいるばかりだ。
「で、どうだ。元気か?」
「んん、なーんか、退屈でさ」
「何言ってんだよ。お前のことだから、どうせ上げ膳据え膳で大事にされてんだろ」
 まあその通りだったのでわたしは黙り込んだ。
「贅沢だよお前は。まあ子供のころからそうだったか。おじさんたちが甘やかしすぎたんだな」
 わたしは父と母と兄の四人家族だ。兄とは十五歳年が離れている。両親は年をとってからできた子供だからなのか兄と比べてあきらかにわたしを甘やかした。兄も優しくて面倒見のよい性格だったので、家族全員から可愛がられたと思う、客観的に見ても。だがそんなことはわたしのせいではないし、よくある話なので責められる筋合いはないと思う。
「健ちゃんのほうはどうなの。夢つかんだの?」
 健ちゃんはデザイナーになって洋服をつくるのが夢だった。子供のころからずっと聞かされていた話だ。
「まあ、夢をつかんで、働いて、体壊したって感じかな。今は静養中なんだ」
 健ちゃんは乾いたように笑った。
「ふうん、そうなんだ。じゃあ今度遊ぼうね」
「お前、いいのかよ。人妻がそんなこと言って」
 健ちゃんが何を言っているのかわからず、わたしは首をかしげた。健ちゃんは幼馴染だ。夫も健ちゃんのことをよく知っている。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
「どうして?」
「まあいいさ。俺も暇だからさ、いつでも呼べよ」
 うん、とうなずいて通話を切った。他の友達はみんな家庭を持っているか仕事をしていて忙しいが、健ちゃんは呼んだらいつでもきてくれるから好きだ。
 子供のころ、女の子に嫌われていじめられることの多かったわたしはいつも健ちゃんに泣きついていた。高校生を卒業したあと何年か付き合ったが、結局わたしは健ちゃんと結婚せずに今の夫と出会って彼と結婚した。夫の包容力とまっすぐな性格にわたしはめろめろになったのだ。
 気を取り直して段ボールをつぶし、夫の部屋を掃除すると本格的にやることがなくなったのでベッドに横たわって昼寝をした。昼過ぎにお目当てのテレビがあったのだが、目を覚ますと伊織さんが帰宅していた。
「ああ、寝ちゃったわ。おかえりなさい」
「ただいま――ねえ愛美さん、家にいるんだから食器くらい片付けたら」
 伊織さんは険を含んだ言い方で朝食の食器を洗っていた。
「あ、うっかりしちゃった。そうだ伊織さん、今夜何食べる?」
「今夜? お母さんが用意しているわ。だってあなたたちの結婚記念のパーティーやるんだから」
 パーティー? 結婚記念日は明日だったはずだが。わたしの疑問に気付いたのか、伊織さんはくすっと笑った。
「明日はお父さんが仕事で遅いから、今日やるんだって。サプライズよ。私がしゃべったって言っちゃ嫌よ」
「わかったわ。驚いたふりするわよ」
 ちょうどそのとき夫が帰宅してきた気配がして、わたしは一目散に玄関に駆けて行った。
「おかえりなさーい!」
 わたしは夫に飛びつき、犬のように首にかじりついてキスをした。
「ただいま愛美。お腹減ったんじゃないか」
「うん、けっこう減ったかも。今晩はおいしいもの食べようね」
 夫はわたしの腰を抱いたまま階段をのぼって部屋に行くと、わたしを抱き上げてベッドに降ろした。
「だめだってば。伊織さんがいるのよ」
「わかってるけど、せめてキスくらい思いっきりしたいよ」
 わたしは夫の首を抱きよせて激しく口づけした。夫はわたしを息もできないくらいきつく抱きしめて押し倒した。
「家を見てきたんだ」
「前の家? どうだった?」
「売りに出されていたんだけどね、前よりも高くなっていたよ。前の住人が改築したみたいだ」
 多少高くてもわたしはあの家に住みたかった。思い出のある家なのだ。
 わたしの顔色を読んだのか、夫は優しくほほ笑んだ。
「買っちゃおうか」
 きっとわたしの顔はぱーっと輝いたことだろう。わたしは大きくうなずいて夫にかじりついた。

 結婚記念日のお祝いに、義父が可愛らしい子猫を買ってきた。フランスの家でも猫を飼っていたのだが、帰国するにあたって知り合いに譲ってしまっていたのだ。わたしは飛び上がってよろこんだ。可愛い三毛の子猫に、わたしはすぐさまミイさんと名付けた。子供のころ飼っていた三毛の名前だ。
「お前たち、結婚して何年になる?」
「五年だよ」
 義父の問いかけに夫が答えた。
「もう五年になるか。大したもんだな」
 義父はしみじみとビールを飲んでいる。
 たらふくご馳走を食べたあと、夫はわたしを誘って外に出た。聞けば有名なホテルを予約したという。
 夫は新鋭の画家である。渡仏していたのも絵の腕を磨くためだった。わたしは彼を昔から美しい風景画を描く天才だと思っていた。
 それからわたしたちはホテルのレストランでシャンパンを飲んだ。何度か続けて乾杯をし、酔ってきたころ夫はリボンのついた小包をわたしに渡した。
 はやる気持ちを押さえながら包みをあけると、小さなケースがあり、中にはダイアのついた華奢なつくりのネックレスが入っていた。わたしは感激して口を押さえた。みるみる目に涙が溜まっていく。
「ありがとう……素敵なプレゼント」
「気に行った?」
 夫は毎年、結婚記念日に何かしらプレゼントをしてくれる。どれも心のこもった素敵なものばかりで、くやしいけれどわたしはいつも泣かされている。
 わたしは夫に寄り掛かるようにして部屋に入った。最上階の夜景が素晴らしい部屋だ。シャワーをすませ、夫がバスルームから出てくるのを待っているあいだに、わたしは裸にキャミソール一枚と例のネックレスというかっこうで窓辺に座った。
 夫と知り合ったのは代々木公園の時計台の下。見計らったように雪が降り始めた幻想的な夜だった。あのとき以来、わたしはずっと夫に捕まえられている。守られて愛されている。こんなに幸せなことはない。
 夫と結婚してよかった、と毎日思っている。今まで生きてきて、わたしが本気で愛したのは今の夫だけだ。
 夫が髪を拭きながらバスルームから出てきたから、わたしは思い切り駆け寄って夫に飛びついた。夫はそのままわたしを抱いてベッドにおろし、キャミソールの紐をはずした。夫の指は細長く繊細で、わたしはその手が大好きだった。
 抑圧されていた反動で、夫はいつもよりも少し強引にわたしを抱いた。美しい指先。わたしは幸福を抱きしめて目を閉じた。


愛を疑う者  ――木崎伊織


 お兄ちゃんたちがフランスから帰ってきて二週間がたった。私はお兄ちゃんたちはずっと実家に住むんだと思っていたけど、結局家を買ってそこに住むらしい。きっと愛美さんが旦那の家族と同居なんて嫌だと言ったんだろう。
 最近のお父さんはとても上機嫌だ。お父さんは若くて可愛い愛美さんが大好きで、いつもでれでれしている。
 愛美さんはお兄ちゃんよりも八つも年下で、猫のような目をしている。あの可愛らしい目をぱちぱちさせるだけでお兄ちゃんはうっとりした顔になる。付き合っているときもそうだったし、結婚して五年もたった今でもそうだ。
 深夜、お兄ちゃんが台所で水を飲んでいたので、後ろから忍び寄って「だーれだ」とやると、お兄ちゃんは怒った顔で私の手をはずした。
「まだ起きてたのか」
「ちょっとお酒飲みたくなっちゃって。そうだ、あのワイン飲もうよ」
 私がお兄ちゃんたちがフランス土産に買ってきた高価なワインを取り出そうとすると、お兄ちゃんがとめた。
「明日の夕食に出す」
「半分くらいいいじゃない」
「だめ」
 お兄ちゃんは私からワインを取り上げ、棚に戻すと、もう寝ろというように二階を指差した。しかし私はどうしても寝る気になれず、お兄ちゃんの隣に座って頬杖をついた。
 お兄ちゃんはビールを開けて私のほうにグラスを差し出した。お兄ちゃんが結婚する前はよくこうして夜にしゃべった。さすがにお酒は飲まなかったが、ミルクやココアをいれてささいなおしゃべりをしたものだ。たとえば友達の愚痴を言ったり、勉強を教えてもらったり。私はそういう時間がとても好きだった。
「まだ起きてたか」
 お兄ちゃんと同じことを言いながら、お父さんが台所に入ってきた。
「秋也、愛美さんは寝たか」
 お父さんが尋ねると、お兄ちゃんは静かにうなずいた。とても優しい顔をしている。
「それで、もう家は買ったのか?」
「まだ。今度愛美と一緒に見に行くんだ」
「そうか……父さん、お前たちがここで一緒に住めばいいと思ったんだけどな。でもお前ももういい年だし、やっぱり二人で暮らしたほうがいいのかもな」
「そりゃそうだよ」
 と、私は横から口をはさんだ。
「愛美さんのこと考えてみなよ。姑と小姑と一緒になんか暮らしたくないでしょ」
「失礼なことを言うな。愛美はそんなこと言ってない」
 お兄ちゃんは厳しい顔をして私を叱った。私はむっとして黙り込んだ。
「まあいいさ、秋也。愛美さんが別居したいって言うんなら、そうすればいい。父さん、お前が愛美さんと結婚できてよかったと思っているんだ。ほら、もう何年も前のことになるけど、お前、薫さんに婚約破棄されて、ずいぶん落ち込んでいたじゃないか。父さんそのとき、お前は誰とも結婚できないかもしれないって心配したんだよ。本当にかわれるものならかわってやりたいって思ったくらいだ。だから愛美さんみたいないい人がきてくれて、本当によかったと思っているんだ」
 お父さんの話が終わると、お兄ちゃんは照れたように下をむいてほほ笑んだ。お父さんは軽く笑ってお兄ちゃんの肩を叩いた。
「だからお前、愛美さんに感謝して、大事にしたほうがいい」
 私は正直言ってそこまで卑屈になる必要はないんじゃないかと思った。しかしお兄ちゃんが「わかっている」とうなずくので何も言えなかった。
 お父さんもお兄ちゃんも、愛美さんがいなければお兄ちゃんは誰とも結婚できなかったと言いたげだ。だがそれはお兄ちゃんに対してあまりにも失礼だと思う。お兄ちゃんは優しくて穏やかで、顔もかっこいい。むしろお兄ちゃんが愛美さんにはもったいないんじゃないかと思う。売れっ子の画家であるお兄ちゃんと違って、愛美さんはなんの才能もない、ただにこにこしているだけの脆弱な女性に見えるからだ。私は、ああいう甘え上手なタイプの女性はあまり好きではなかった。
 自分が彼女とは真逆のタイプだから嫉妬しているのかもしれない。が、私は何度生まれ変わってもああいう女性にはなりたくなかった。たとえお兄ちゃんがああいうタイプの女性が好きだったとしても。

 ついにお兄ちゃんたちが新居に引っ越した。お父さんもお母さんもせっせと手伝いをして、授業で忙しい私までかりだされたというのに、愛美さんといえばその様子をぼうっと見つめているだけだった。
 くたくたになっておおかたの片付けがすんだとき、ようやく愛美さんは立ちあがって私たちにお茶をいれた。
「もう海外には行かないでずっとここに住むんでしょ?」
 お兄ちゃんに問いかけると、お兄ちゃんは「そのつもりだ」と返事した。とてもうれしそうに見える。そんなに新居で私たちと離れて暮らすのが楽しいんだろうか?
「さあて伊織、帰るぞ」
 夕飯も食べていないのにお父さんが私の肩をつついた。
「ええー。こんなにがんばったのに、すぐ帰るなんて嫌よ。ねえ、ここに泊まってもいいでしょ?」
 精一杯明るくねだったのに、お兄ちゃんは困ったような顔で首をふった。
「ほら、お前がいたら迷惑だ。帰るぞ」
 私はお父さんに無理やり引っ張られて家に帰った。玄関先で振り返ると、愛美さんが小さく手を振っていた。お兄ちゃんはきっとこの晩愛美さんを抱くのだろう。あの優しい表情で、大きな手で、愛美さんと抱き合うのだ。気分が悪くなるとわかっているのに私はその様子を想像し続けた。

 先に結論を言ってしまおう。せっかく引っ越したのに一年もたたないうちにお兄ちゃんたちは戻ってきた。愛美さんが妊娠したのだ。
 普通の状態でも愛美さんはなんだか危なっかしい、生活力の乏しい人だった。お腹が大きくなったらお兄ちゃんの負担が大きいだろうと思い、私が帰ってくるように提案した。
 ひとつ驚いたことがある。妊娠して以降、愛美さんが女というよりは母の顔になったことだ。自分のものよりも子供のものを欲しがるようになった。妊娠というものは女性にとって一大転機なのだなと思ったくらい、愛美さんは育児本を買いあさって真剣な顔で勉強していた。
 どこか頼りなかった様子が一変し、家事もすすんでやるようになった。それはうちの家族に気を使っているというふうではなく、子供を育てやすいように巣作りをしているようだった。愛美さんは妊娠してから前よりもきれいになった印象だった。お兄ちゃんは愛美さんの変化を喜んでますます彼女を大切にした。
 こういうことがあった。
 家族でベビーベッドを買いに行ったとき、ふと愛美さんがショーウィンドーの前で足をとめた。可愛らしい特大のテディベアが飾られていたのだ。口には出さなかったが、愛美さんの顔は輝いていた。
「どうした愛美?」
「なんでもないの。行きましょう」
 愛美さんはお兄ちゃんと腕を組んで帰った。
 その晩、コンビニに行くと言ってお兄ちゃんは出て行き、例のテディベアを買ってきた。愛美さんの喜びようは私から見ると呆れかえるほどで、しきりに「どうしてあたしが欲しがってるってわかったの?」と繰り返した。
 どうしてあたしが欲しがってるってわかったの? 馬鹿じゃないだろうか。あんなに物欲しげな顔をしていたくせに。
 愛美さんはすべて計算しているのだ。計算ずくで、欲しいものをすべて手に入れる人なんだ。お兄ちゃんは得意げに「愛美のことはすべてわかる」と答えた。我が兄ながらその鈍感さに愕然とする。
愛美さんの妊娠が発覚してからうちは上へ下への大騒ぎだった。お兄ちゃんは自分は乗らないのに愛美さんに青い新車をプレゼントした。そのせいか愛美さんは妊娠中にも関わらず出歩くことが多くなった。それに関してお兄ちゃんがとがめることは一切ない。妻なのだから、せめてどこで、誰と会って、いつ帰るかくらいは伝えるべきじゃないのかと私は思うのだが。
 実を言うと、私は見たのだ。
 いつかの昼下がり、友達と買い物をしていると、オープンカフェで愛美さんが男とお茶を飲んでいた。かなり親しそうな雰囲気だった。その男は、たしか斎藤健一といって愛美さんと仲の良い男だったようだけど、いくらなんでも二人きりでお茶を飲むなんて普通ではない。私はいそいでお兄ちゃんにこのことを言いつけたけれど、お兄ちゃんは「彼は愛美の幼馴染だ。兄弟のように仲良くしてくれている」とまるで父親のような顔でほほ笑んだだけだった。
 お兄ちゃんは騙されているかもしれない。愛美さんは上手に浮気できるような器用な人には見えないけれど、愛美さんを信じ切っているお兄ちゃんを騙すことくらいできるだろう。
 私はもうお兄ちゃんが傷つくのを見たくなかった。お兄ちゃんは、恋をするたびに裏切られて傷ついていたように思うから。
 私はもう何があってもお兄ちゃんに近づく女性を信じないようにしている。別に愛美さんだけが気に入らないのではなく、女というものはすべてお兄ちゃんを傷つける生き物だと認識することにしたのだ。
 お兄ちゃんのことで一番ひどかった出来事は、やはり薫さんに婚約破棄されたことだろう。薫さんはお兄ちゃんの大学の同期で、二人は六年も付き合っていたのに結婚しなかった。薫さんの両親が結婚に反対したのだ。薫さんは両親を説得させるべきだったし、それが無理なら駆け落ちでもなんでもして一緒になればよかった。二人はもう大人で、それだけの力があったのだから。しかし、結局お兄ちゃんは振られた。薫さんは自分が住む環境の平穏とお兄ちゃんを天秤にかけ、お兄ちゃんを切り捨てたのだ。
 薫さんに捨てられてお兄ちゃんはずっと落ち込んでいた。私はお兄ちゃんのそんな顔を見たくなかった。その当時まだ子供で何もできなかった自分を恨んだくらいだ。
 実際、お兄ちゃんはかなり傷ついていた。人を信用できなくなっていたのだ。それから何人か付き合った人もいたけれど、お兄ちゃんはいつも適当に遊んでは別れた。優しくして数カ月すると別れるの繰り返し。きっとお兄ちゃんは失うことが怖くて愛を手に入れることを恐れていたのだろう。
 愛美さんもきっとそのうちの一人だと思っていた。だから最初のころは私も愛美さんに優しくした。どうせいつか捨てられる人だと思ったからだ。
 しかし愛美さんは今までの人とは違った。彼女は精神的に幼く女性というよりは女の子と言えるような人で、お兄ちゃんはまるで拾ってきた子猫を扱うように愛美さんを可愛がった。きれいなワンピースを買ってあげて、マンガに出てくるお嬢様のように愛美さんを飾り立てた。ママに叱られて気落ちしている女の子が、お人形の髪をなでて話しかけるように。だから私は十分に可愛がったら別れるつもりなんだろうと思っていた。あるいは、あの幼馴染の斎藤健一に譲る気かも。どちらにしろ長続きはしないだろう。
 だが私の予想ははずれてしまった。いつからかお兄ちゃんは愛美さんを子猫ではなく人間として扱うようになった。そのころお兄ちゃんは一人暮らしを始め、私にもくれなかった合鍵を愛美さんに渡していた。二人が抱き合うようにして買い物をする様子を私は何度も見た。警戒心の強いお兄ちゃんは今まで女性と寄り添って出歩くことなんてしなかったのに。
 そして二人はあっさりと結婚した。いったいどういう心理が働いてお兄ちゃんが愛美さんを選んだのかはわからない。あのどこかおっとりしたところがお兄ちゃんの傷を癒したのかもしれないし、座敷犬のように大人しくお兄ちゃんの帰りを待っているようなところが安心できたのかもしれない。
 愛美さんと結婚してお兄ちゃんは明るくなったし仕事にも精を出すようになったから、私は妹として愛美さんに感謝すべきかもしれない。
 だけどあの愛美さんだってお兄ちゃんを裏切らないとは限らない。実際よそで男と会っているし、お金目当てでお兄ちゃんに近づいた可能性もある。
私が愛美さんを悪くとりすぎているのはわかっている。たとえ非の打ちどころがないような女性でも(だけどそんな女性いるのか?)、私は気に入らず難癖をつけただろう。
 だから愛美さんが階段から落ちて危篤状態になったときも、私はお兄ちゃんほどのショックは受けなかった。ただ相変わらず不用心でまぬけな人だなと思っただけであった。


愛に殉ずる者  ――斎藤健一


 愛美。俺はお前が好きだ。
 お前がまだちっちゃくて、三つ編みをしていて、いじめられて泣いていたときから好きだった。
 クラスの子に靴を隠されたお前をおんぶして家に連れて帰ったときから、お前が好きだった。
 今さらこんなこと、いちいち言わなくてもわかっているよな。
 お前を守れるのは俺しかいないんだって思っていた。お前をずっと幸せにするって思っていた。でもお前は木崎さんを選んだね。それでも俺はお前が好きだ。きっと一生、ずっと好きだと思う。
 卒業って映画を知っているか? ダスティン・ホフマンの代表作。青春映画の名作だ。俺は卒業にあやかって結婚式の日にお前を奪いに行こうか、なんて妄想をした。笑えるよな。あれは映画だから感動できたけど、実際にやったらただの馬鹿だ。俺は歯を噛んでお前が楽しそうに木崎さんと付き合っているのを見ていた。
 木崎さんは俺の辛い気持ちをわかっていた。木崎さんはお前に内緒で長い手紙をくれた。せっかくだから同封するよ。お前にも読んでほしい。

木崎秋也の手紙

 斎藤くん、こんにちは。木崎です。
 いきなりこんな手紙を出した。びっくりさせたのならすまない。一度君と話したいと思っていたんだ。ちょっと妙な書き出しで変な話を始めるけれど、最後まで読んでくれるとうれしい。
 実を言うと、ぼくは電車が嫌いだ。
 がたんごとんという音が心地よくて眠ってしまうと愛美は言っていたが、ぼくにはわからない。ただ不規則な振動が体に伝わってくるだけだ。
 もう何年も前の話になるが、ぼくは駆け落ちをしようとして駅のホームにいた。
 人混みは嫌いだからホームの端に立ってかばんを抱えていた。ぼくは後ろを人が通っていくのが怖いんだ。いきなり人が出てきたように思えてびっくりする。
 ぼくはじっと階段をみながら待っていた。当時付き合っていた彼女の親に結婚を反対され、どうしようもなくなっていた。その日の前日に彼女は家を飛び出してきて、ぼくに『駆け落ちしよう。どこか遠くで二人だけで暮らそう』と言った。
 それは彼女の(女性の?)特有のヒステリーに思えたけどぼくは快諾した。そうする以外に方法がないように思えたんだ。
 彼女は親が仕事に行ったすきを見計らって荷物をとりにいった。ぼくはかばんに着替えを詰め込んで駅にきた。夜の六時に――十八時に駅のホームで、と待ち合わせをして、彼女は家に帰った。
 ぼくはいろいろと考えながら彼女を待った。住所もないわけありのカップル。はたしてアパートや家を借りられるんだろうか? 仕事は見つかるだろうか? 貧しい画家をしているぼくにお金はほとんどない。彼女はいくら持っているだろう?
ぼくは彼女を待っているあいだに手紙を書いた。もし仕事が見つからなかったら、父に世話になるしかない。不詳な息子で申し訳ないが、仕事が見つかるまで仕送りをしてほしいという内容の手紙だった。長い旅になるだろうし、たどり着いた先で住所を記載して投函しようと思った。
やがて十八時になり、乗る予定だった新幹線が出発した。
彼女はこない。どこかでぼくを待っているんじゃないかと思い、ホームの端から端まで歩いたが彼女はいなかった。ぼくは手帳を見てみた。たしかに十八時に、この駅のこのホームでと書いてある。夜の六時にと彼女は言ったけど、ぼくの間違いで、朝の六時のことだったのだろうか? いや、そんなはずはない。
両親に見つかってしまったのかとも思った。しかし彼女はもう大人だ、どんなに反対されても振り切ってここまでたどり着けるはずだ。何か事故にでもあったのだろうか、なぜこないのだろう。
やがて二十三時になり、最後の新幹線が出てもぼくはホームでじっとしていた。いつまでも立ち尽くすぼくを見て駅員は不審そうな目をした。
ぼくはベンチに腰をおろして手を握った。彼女は必ずくる。必ずくると言ったし、固く抱き合って約束したのだから。
ぼくは終電が終わり、駅員にホームから追い出されても駅の前の道に座り込んで彼女を待った。すでに深夜をすぎ、浮浪者が段ボールを敷いて寝る準備をしていた。
 朝日が昇り新聞配達の青年が自転車でかけていく様子を見つめた。人々が集まってきて、早起きの高校生と一緒に例のホームに入り、またベンチに座って時計をにらんだ。もはや彼女を信じているのではなかった。自分が何を待っているのかもわからず、ぼくはその場を一歩も動かずにその日の終電が終わるまで座っていた。
 翌日、寝不足の目で彼女がバイトをしているデパートに行くと、普段とかわらない様子で彼女が働いていた。
 笑顔でお客さんに話しかけている彼女をぼくはしばらく見ていた。彼女もぼくに気づき、なんともいえないやるせなさそうな目をしながら近づいてきたが、ぼくは目を合わせなかった。彼女はまっすぐ前を見ながら歩き、ぼくのわきを通ってどこかへ行った。彼女もまたぼくに話しかけなかった。彼女はぼくの目の前から消えた。ぼくはその後二度と彼女が働くデパートに行くことはなかった。
 そのままぼくは今の画廊に雇われ、絵を描く仕事に就いた。彼女がぼくの目の前に現れることもなかった。いつだったか、彼女がお見合いをして結婚したと風の噂で聞いて、それっきりになった。

 君にこんな話をしても不快にさせるだけかもしれない。
 ぼくはこの一件で深く傷つき、もう二度と人を愛すことはないだろうと思った。なぜ彼女が現れなかったのか、それはもういい。彼女に裏切られたことに関して、ぼくはもうさほど気にしていない。
 ぼくはその瞬間まで人を信じていた。駆け落ちの約束をしたのに、彼女がそれをすっぽかして平然と働いているところを見るまで、ぼくはきっと彼女がきてくれると思っていた。しかし彼女はこなかった。ぼくは人を信じるのが怖くなった。
 心を閉ざし、誰も受け入れないようにすれば傷つくことはなかった。何を言われても「やれやれ」と首をふっておけばよかったんだ。ぼくはあのころより年をとって自分を守る方法を見つけていた。ぼくはそれで十分幸せだった。仕事もあるし、人間だから寂しいときもあったが、思い出に浸っていれば暖かかった。
 正直に言うと、ぼくにとって人っていうのはただ口をぱくぱくさせて身振り手振りをしているだけの生き物だった。しゃべらない猫や犬のほうがまだぼくに近いと思い込んでいた。彼らはぼくに話しかけないから心を許せるんだ。
 ぼくにとって愛美は拾ってきた猫だった。ぼくは自分が思っているより傷ついていた。人を愛することが怖くて、信じることができなくておびえていたんだ。
 ぼくは臆病だった。愛美はぼくを傷つけることのない人だった。というのも、ぼくは愛美を信用していなかったから。十分に可愛がったら、またどこかに捨てに行こうと思っていた。君に譲ってもいいと思っていた。
 待って。もう少し先まで読んでくれ、これから弁解する。
 ぼくは愛美が可愛かった。ごろごろとぼくに甘えてなついてきたからだ。しかしそれは愛ではなかった。ぼくは人を愛さないと決めていたんだ。
 あるとき、愛美はぼくの家で泣いた。ぼくが例の彼女からもらったプレゼントを大事にとっていたからだ。
 その涙を見たとき、なぜかな、ぼくは愛美が可愛い子猫ではなく人間だったと気づいた。愛美はぼくと同じく深く傷ついた人間だった。動物が傷ついたとき、傷を舐めあって眠る話を知っているかな? ぼくは傷を癒すために愛美を抱いて眠っていた。
 愛美を愛し始めたとき、ぼくは初めて愛美を理解しようとした。
 愛美はぼくの態度を冷めていると受け取ったのだろう。実際ぼくは冷めた人間だったし、子供のころから打ちのめされることが多かったから、人との距離を測るのがうまくなったんだ。
 愛美が家を出て行ってしまって、ぼくは一人になった。ぼくは最初から一人だったから寂しくないと思った。実際、最初の二週間くらいは寂しくなかった。だけど寝室に愛美がおいていったマスカラをみつけたとき、どうしようもないほど寂しくなった。愛美が鏡にむかって必死に短いまつげを長くしようとしている姿が浮かんできて、ぼくは家を飛び出して愛美を探した。
 あちこち探したけど見つからなかった。二日間、ほぼ徹夜で探した。愛美のアパートにも行ったし、遠出して彼女の実家にも行った。心当たりをすべて探したけど愛美は見つからなかった。愛美が若い男友達の家に転がり込んでいたからだ。――君のところだよ。
 二か月たって愛美は突然ぼくの家にやってきて、中絶するから金をかしてほしいと言った。「あなたの子供ではない。でもお金がない。健ちゃんには言っていない」と。
 ぼくは産んでほしいと言った。自分の子供だと思って大切にするから産んでほしい。
 しかし、愛美はぼくが寝ているあいだに、ぼくの預金通帳を持って消えた。
 ぼくは再び押しつぶされそうになった。愛した人に二度も裏切られた。ぼくは傷ついた心を抱えてさまよった。新しい子猫を拾ってくる余裕もなかった。
 正直に言ってしまおう。ぼくはあのとき、寝室の柱にくぎを打って、縄をかけて首を釣ろうとしていた。
 だけど手頃な縄を買ってこようとして、なかなか見つからずそのままにしてあった。死ぬのはいつでもできるから、せめてそれまでに愛美の絵を描こうと思った。そして描きあがったら死ぬことに決めたんだ。
 愛美のことだけを思って描いた。眠らなくても平気だった。少しも辛くなかった。きっと死ぬことに決めたからだ。
 夢中で描いて背景に差し掛かったとき、オレンジの絵具を切らしていたことに気付いた。ぼくはふらつく頭を抱えて外に買いに出た。そのときだよ、愛美が君とバイクに乗って走っていくのを見たのは。
 ぼくは全速力で走った。でも途中で貧血をおこして倒れこんだ。土下座をするように地面に額をついて、ぼくは泣いた。駆け落ちをすっぽかされたときも泣かなかったのに、とめどもなく涙があふれた。何が悲しくて泣いているのか、自分でもさっぱりわからなかった。愛美を失ったのが悲しいのか、いい加減な思いで彼女と付き合ったことを後悔しているのか、とにかくいろんな想いがごちゃ混ぜになってぼくは泣いた。
 散々泣いて顔をあげると、車道をはさんで向こう側に愛美が立っていた。
「ごめんなさい」
 愛美はそう言った。
「こっちへおいでよ」
 ぼくがそう誘うと、愛美は泣いた。泣きながら横断歩道を渡ってこちらにきて、ぼくの前に座って地面に手をついて泣いた。
 それからぼくらは手を繋いで家に帰り、抱き合って眠った。
 このあたりに関しては、ほとんど記憶違いはないはずだ。正直に言うとぼくは愛美の裏切りに打ちのめされた。やっぱり人を愛するのは辛い。初めて今までの人生を回想してみて、ぼくは傷ついてばかりいると思った。
愛美がぼくを受け入れてくれたとき、ぼくは生きていく価値のある人間なんだと気付いた。ぼくの中にあった劣等感を愛美が溶かしてくれた。
 ぼくらにとって一番辛かった出来事を書いた。ここまで読んでくれてありがとう。
 今ちょっと読み返してみて、あまりの長さに戸惑ってしまった。こんなだらだらとした長文、読んでいる君も辛いはずだ。
 どうしてぼくがこんなつまらない手紙を出したのかというと、君が愛美のことをとても好きで、愛美を心配しているからだ。ぼくらは明日結婚する。今までずっと君は愛美を守ってきた。愛美が辛いときにはそばにいてくれたし、大切にしてくれた。ぼくは君に感謝している。
 君に自分の弱い部分を紹介した。ぼくはこういう、あまり人に自慢できるような人間じゃないし、君のように若く快活でもない。ぼくにできるのは愛美を大切にすること、一生懸命働くことだけだ。
 長い前置きだったね。本題に入ろう。
 ぼくは愛美と寝た君を恨んでいない。嫉妬もしていない。ただ感謝しているだけだ。
 愛美は君を信頼している。結婚してからも愛美が君を頼ることがあるかもしれない。ぼくが相談にのれないとき、君が愛美を助けてくれるとありがたい。
 これは一種の協定契約のつもりだ。ぼくは愛美を愛している。君も愛美を愛している。
 君にも愛美を守って大切にしてもらいたい。
 斎藤くん。こんなことを言いだすぼくを身勝手だと思うか? ぼくをエゴイストだと思うか?

木崎秋也

 愛美。これが届いたのはお前たちの結婚式の前日だった。
 俺は木崎さんをエゴイストだとは思わない。彼をエゴイストだというのなら、この世界の人間はすべてエゴイストになってしまう。
 一瞬、俺は木崎さんに馬鹿にされていると思った。結婚したお前をこれからも守ってほしいだなんて、あんまり人を馬鹿にしている。だけど別にそれでもいいと俺は思った。
 旦那の公認でお前のそばにいられるのなら、お前を想っていられるのなら、それでもよかったんだ。だから俺はあちこちを飛び回らなければいけないデザイナーの仕事を辞めた。知り合いに見合いをすすめても首を縦にふらなかった。何かあったときすぐお前のところに駆けつけるためだ。
 木崎さんはああいう人で、なかなかお前の話を聞くことが難しいかもしれない。ちょっとした愚痴くらいなら俺がかわりに聞ければいいと思った。
帰国してすぐお前は俺に電話をかけてきた。俺は喜び勇んでお前に会いに行った。たわいもない話をして、一日が退屈だっていうお前の愚痴を聞いて、それだけで俺は幸せだった。
 俺はお前のためなら命を投げ出す覚悟がある。だから木崎さんはそんな俺をお前の守護者として選んだ。お前のためならなんでもする俺を切り捨てるのはお前にとって得策ではないと踏んだのだろう。自分でいうのもなんだけど、彼はいい決断をした。
 なあ愛美。俺は見たんだ、お前が突き落とされるところを。
 あの日、俺はお腹の大きなお前がよろよろと買い物袋を抱えて歩いていくのを見た。手をかそうと急いで歩道橋をのぼり、お前に声をかけようとしたとき、背の高い痩せた女性がお前の後ろに立ち、お前に手をかすようなふりをして、お前を突き飛ばした。
 その女性が木崎さんと同じ画廊に勤める虹谷薫という人だと知ったのは、お前が入院したあとのことだ。
 しかも虹谷薫は木崎さんを捨てた元婚約者だった。俺は知らなかったけれど、木崎さんは虹谷薫を同業者として雇い入れていた。いったいどういうつもりで彼がそんなことをしたのかわからないけれど、木崎さんはお前を差し置いて昔の女とよろしくやるような人ではないし、このことはお前の了解を得たと説明してくれたから、きっと虹谷薫とはなんでもないのだろう。俺はそのことは疑っていない。
 なあ、愛美。お前はいつ目覚めるんだ?
 子供が流産してしまって、お前も眠ったままで、木崎さんはすっかりまいってしまっている。
 俺は虹谷薫がお前にしたことを警察には言っていない。虹谷薫はあんなことをしたのに悪びれもせずお前を見舞い、お前に話しかけていた。
 愛美。さぞ悔しいだろう。お前をいじめるものを俺は許さない。お前が目覚めて、この手紙を読んでいるころ、虹谷薫は死んでいる。俺が殺す。お前を突き落としたあの女を、俺が奈落の底に突き落とす。
 それが、お前を守れなかった俺にできる精一杯の罪滅ぼしだ。


愛を乞う者  ――虹谷薫


 木崎と再会したのは去年の夏だった。大学時代の仲間が同窓会を開いたのだ。
 正直に言うと私は期待していた。もう一度木崎に会える。自ら心を離してしまった彼に会ってあのときのことを謝ることができる。
 離婚して地元に戻ってきて以来、ずっと木崎に会いたいと思っていた。だが勇気がなくて彼が開いた個展に通うことはできなかった。雑誌に載った彼の絵を見ただけだ。
 建物や風景した描いたことのなかった彼だが、雑誌に受賞作だと紹介されていたのは優しくほほ笑む女性の姿だった。紹介文を読むと木崎の妻をモデルにしたという。木崎の妻――彼は結婚していたのだ。色白で若い女性だ。可愛らしくはにかんでいる。
 木崎の結婚にショックを受ける資格は私にはないだろう。私のほうこそ木崎を捨てて結婚したのだから。あのころは若くて保守的だった。すべてを捨てて彼と一緒になることもできたのに私はそうしなかった。あのあと何度後悔したことか。
 同窓会の夜、私はきれいに化粧をしてレストランにむかった。木崎は同級生に囲まれてはいたが、全員と距離をおいて話には加わらずただ笑っているだけだった。懐かしかった。彼は若いころからそうだったから。
 彼は孤独な人間だった。誰にも心を開こうとしなかった。この私でさえ、彼の心の扉の前でずっと躊躇していたのだ。彼との駆け落ちに行かなかった理由もそこにある。私は木崎が駅で待っている様子を見ていた。声をかけようかとも思った。だが結局踵を返して家に戻った。後日、木崎が私の勤めるデパートまでやってきた。私は木崎の横を通り過ぎたが、木崎は私を無視した。ただ立ちすくんでいただけだった。
 私は絶望した。たとえ世界を敵に回しても私を奪い去ってほしかった。だが彼は何もしなかった。
 同窓会で木崎は私をちらりと見るとはっとした顔をした。私は今度こそ彼とちゃんと向き合おうと決めていた。笑顔をつくって木崎の前の席に座り「雑誌を見たわ」と話しかけた。
「ああ、雑誌見たのか。ありがとう」
 木崎はほほ笑んだ。笑ったときに目元による優しそうなしわが私は好きだった。相変わらず美しい切れ長の目をしている。
「もう何年もたつけど、あなたかわってないわね」
「君もかわっていないよ。ぼくの話すことがわかる?」
「ええ、わかるわ。そんなに簡単には忘れないもの」
 それから私たちは近況を話し合った。
 やはり彼は結婚していた。愛美という八歳も若い女性なのだという。若い奥さんなんて大変じゃないの、と冗談まじりに言うと、彼は「でも楽しいよ」と言葉の通り楽しそうに笑った。
 私はその涼しい笑顔に打ちのめされた。若い妻のことを思う彼は本当に爽やかな美しい顔をしていた。彼のことを想い、彼を忘れられなかったのは私だけだったのだ。
 それでもまだ、私は木崎を信じようとしていた。
 同窓会が終わったあと、私は雑誌に載っていた木崎の画廊にファックスを出した。今度ゆっくり話してみたいという内容だった。彼はのってこないかもしれないと思ったが丁寧な返事をくれた。私はそれに元気づけられて待ち合わせの喫茶店にむかった。
 私はその場で仕事を紹介してほしいと頼んだ。夫と離婚し、仕事を探しているのは本当だった。木崎の画廊が美大を出ている人を募集していると同級生に聞かされていたから、私を雇ってくれるかもしれないと思った。
 が、木崎は心当たりを探してみるとは言ったが、君と一緒に働きたいとは言ってくれなかった。思いきって「あなたの画廊は?」と尋ねてみたが、彼はいい顔はせずに困ったように固まってしまった。
「どうして? 昔の恋人だからって、一緒に働けないってことはないでしょう?」
「妻が気にするかもしれない」
 木崎はしばらく考えていたが、思い立ったように顔をあげた。
「とりあえずは画廊の経営者に相談してみる。君を雇い入れる権利はぼくにはないから。そのあとで妻と話し合うよ」
「――つまり、あなたの奥さんが拒否したら、私とは一緒に働かないってことね?」
 彼はそうだ、とうなずいた。
 私は彼に幻滅した。美しくミステリアスな天才はもういない。目の前にいるのは若い妻に遠慮する三十代の男性だった。
 ふつふつと怒りがわいてきて私は席を立った。私にはそういう短気なところがある。彼はそんな私をやれやれという表情で見ていた。追いかけてくれるかもしれないと思いながら歩いたが、彼は追いかけてきてくれなかった。屈辱的な気持ちで家に帰り、できるだけ感情を抑えて仕事の件をお願いしますというファックスを出した。
 次の朝、木崎からファックスが届いた。画廊にきてほしいという内容だった。
 やはり木崎は私のことを真剣に考えていてくれた。私を助けようとしてくれた。私はスーツを着て画廊に出向いた。
 画廊に行くと経営者の松田さんという女性が奥に通してくれた。その後木崎が入ってきて、私を画廊に雇うことが決まったと告げた。
「奥さんがうんと言ったのね」
「うん。気にするかもしれないと思ったけど、案外あっさりしていたよ」
 そうなのか。私は拍子抜けした気分だった。
 だが正直なところうれしかった。木崎と一緒に働くことができる。彼とやり直せるかもしれない。あのとき約束をすっぽかした私を木崎は一度も責めなかった。それどころか優しく迎え入れてくれた。
「ありがとう。感謝するわ」
 私は木崎の手を握った。大きくて華奢な彼の手。だがその手には銀色の結婚指輪がはめられていた。シンプルな銀色の指輪。それは彼の指に似合っていた。

 意を決して木崎を家に誘った。昔はうちに誘うなんていつものことだったのに、つい緊張して声が震えた。彼は突然の誘いに躊躇したような表情を浮かべ、しばらく考えてから「妻と一緒に行くよ」と返事した。
 決死の誘い文句だったのに奥さんを同伴させるなんて……。私と奥さんを対面させるなんて悪趣味だと思ったが、断る理由はなかったのでそれでいいと伝えた。
 その夜、私はご馳走をつくって木崎夫婦を迎え入れた。
 愛美さんは絵で見るより妖艶な感じがした。胸元が開いたワンピースを着ていたからだろうか。腰まで届く緑の黒髪、透き通るような白い肌をしていて、猫のような大きな目をきらきらさせて木崎の腕をしっかりと握っていた。
「こんにちは。きれいなお部屋ですね」
 愛美さんは浮いているような軽やかな足取りで部屋に入ってきた。そこにいるだけで周りがぱっと明るくなるような、不思議な雰囲気のある女性だ。
 木崎は部屋にあるクッションを集めてソファにおき、細かく位置を調節してから彼女を座らせた。ソファに座った愛美さんは無意識になのか、お腹に手をおいて柔らかい笑みを浮かべた。
「愛美さん、あなた赤ちゃんがいるの?」
 そう問いかけると、愛美さんはくすぐったそうに笑って木崎と目を合わせた。
「五か月です」
 私は目の前が暗くなっていく感じを覚えた。木崎の妻は彼の子供を孕んでいた。幸福な顔で私をあざ笑いにきたのだ。
「そうなの……大変な時期ね」
「ええ。でも、秋也さんがいろいろ気遣ってくれるんです。それに今は家族と暮らしていまして、みんなよくしてくれて」
「そう。木崎くん、幸せそうね。安心したわ」
 木崎は静かな顔でうなずいた。
 台所で料理の準備をしながらリビングの二人を盗み見た。寄り添って笑いあう彼らは夫婦というよりもほほ笑ましいカップルといえた。
 晩餐のあいだ、愛美さんは気を使って私にいろいろと話をふってくれた。木崎はあまり話に加わらず愛美さんのほうをむいてばかりで、私とは一度も目を合わせなかった。

 誓って私は愛美さんを殺そうとしたわけではない。あれは事故だった。私はひどく落ち込んでいて、自分でも何をしているのかわからない状態だったのだ。
 出勤すると木崎はソファに横たわって眠っていた。愛美さんが臨月に入り、あまり動けないので細々とした世話をやっているといつだったか語っていた。かわいそうに、夜眠る暇もないのだろう。
 私は木崎にタオルケットをかけてやり、彼の顎に触れ、頬をなでた。彼は年をとってもきれいなままだ。何もかわっていない。
 自分を抑えられなくなり、私は木崎の唇に自分の唇を重ねた。一瞬で思い出が蘇る。懐かしいあのころの記憶。楽しかった二人。そのとき木崎がぐいっと私の首に手をまわした。見ると彼はまだ夢の中だった。
 はっと木崎は目を覚まし、私を突き飛ばして立ちあがった。
「何をしているんだ!」
 木崎は激昂していた。眉間に深くしわをよせている。
「ねえ、木崎くん。今度またうちへこない? 愛美さんは抜きで、二人っきりで――愛美さん妊娠中でしょ? だったら――」
「君は何を言っている? ぼくは君が仕事を探していると言ったからここを紹介した。君とぼくは同業者だ。それ以上の関係は一切ない」
「だけどあなた、あなた、私を雇ってくれたっていうことは」
「ぼくの話を聞いていないのか? それ以上の関係は一切ないと言った。君を雇ったのは妻がそうしてやれと言ったからだ。妻は職のない君を気遣っていた。妻がそう言わなければ君を雇うことはなかった」
 ショックだった。私は愕然とした。
「うそよ」
「うそではない」
「そんな――じゃああなた、どうして私がファックスしたとき、会いにきてくれたの? 同窓会の次の日のことよ。あなた私に会いにきてくれたわ」
「妻が会いに行けと言ったからだ。断り続けたら君が意地になって連絡してくるかもしれないと言っていた。だが、今思えば会いに行かなければよかったよ」
 私は言葉を失った。運命的な再会だと思った。そこに愛が芽生えると思った。しかしすべては愛美さんが助言したことだったのだ。
「こんなことが続くようなら君にはこの画廊を辞めてもらう。ぼくは家庭を壊したくない。大切な家庭なんだ」
 木崎はそれだけ伝えると部屋を出て行った。眩暈さえ覚えるような彼の美しい指先が残像として私の脳内に残り続けた。
 私は茫然として街を歩いた。誰かにあれほど冷たく扱われたことはなかった。
 あまりにひどい。これは私が彼を捨てた復讐だろうか。彼を裏切った罪なのだろうか。
 心を無にして歩き続け、歩道橋の上でふと妊婦が目に入ったので顔をあげた。愛美さんだった。
「あ、薫さん」
 愛美さんはほっとした顔になった。見れば荷物を抱えている。
「ちょっとお買いものをしていたんですけど……」
 にこにこしている。私はそのとき気付いた。愛美さんは産まれたときからあらゆる人に守られてきたのだろう。彼女は与えられることが当たり前として生きてきたのだ。きっと愛美さんは私が手をかしてくれるものだろうと思っている。もし私が無視したとしても、他の誰かがすぐさま駆けつけてくれる。彼女はそういう星の下に産まれたのだから。
 私はにこやかに彼女が持っていた買い物袋を手に取った。
「なあに? ああ、子供服ね。こっちはおむつかしら」
「そうなんです。散歩していたのに、ちょっと買いすぎちゃった。だめなんですよ、通りかかるたびに何か買ってしまって」
 実に幸福そうな顔をしている。
 幸福な人間は傲慢だ。私が彼女の夫によってどれほど打ちのめされ、傷ついているか気づきもしない。
「さあ、こっちへ」
 愛美さんはありがとう、と言いながら買い物袋を私によこした。まるで悪びれるふうもない。愛美さんの手が私の手にちょっと触れた。
 そんなつもりではなかった。ちょっと驚かせたかっただけだった。この世の誰もがあなたに好意を持つわけではない、あなたを嫌う人間もいると、そう伝えたいだけだった。
 ふと我に返ったとき、愛美さんは悲鳴をあげて階段から落ちて行った。そのときだ、
「愛美――――!!」
 獣のようなものすごい声で若い男性が私を突き飛ばして駆けて行った。あれは誰なんだろう? その男は愛美さんを抱き起し、ものすごい形相で私を睨んだ。痩せた狼のような鋭い目の男だった。私はぼんやりとその様子を見ていた。ようやく体中に悪寒が走ったのは、その日の深夜であった。

 愛美さんが私を画廊に雇ってもいいと言ったのは私など心配するにあたらないと判断したからであろう。木崎の心ははなから私のそばになどなかった。
 病院にきた木崎は愛美さんの上に覆いかぶさって泣いた。彼は今まで見たことのないほど切ない、悲痛な顔をしていた。木崎の腕の中で愛美さんは何事かつぶやいたが、聞きとることはできなかった。私は病院をあとにして家に帰った。
 愛美さんは流産するだろうか。あんなに激しく落ちたのだからただでは済まないだろう。
 私は何かの罪になるんだろうか? あの男、斎藤というらしいが、あの男はたしかに私を見た。愛美さんを抱き起して救急車を呼んだのも彼だ。彼が警察に言えば私は逮捕される。
 逮捕されるのは別にいい。罪を犯したことを否定はしない。
 だが木崎――木崎くん。彼に私の罪が知れたら、どんな仕打ちを受けるだろう?
 彼に憎まれるくらいなら極刑にされたほうがましだ。彼は私をののしるだろうか。恨むだろうか。あの日、駆け落ちの約束を破った私を彼はさぞ恨んだことだろう。今回私が行ったことはその比ではない。
 罪の重さに一人で耐えられるか?
 震えながら一日をすごし、二日がたち――
 画廊に行くと、松田さんが頭を抱えていた。
「木崎くんの奥さんが入院しちゃったでしょ。木崎くんが付きっきりなのよ。困ったわ」
「お見舞い、どうします?」
「そうね、もう少し落ち着いてから」
 私は淡々と話せる自分に驚いていた。
 そうして一カ月ものあいだ、私は淡々と仕事をした。
 あの斎藤という男、私を通報しなかったのだ。あるいは私が突き飛ばしたところをはっきりと見ていなかったのかもしれない。
 ではこのまま一生罪を隠して生きていけるのだろうか。この私にその勇気があるのか。
 壁が四方から迫ってくるような息苦しさを感じる。私は愛美さんを殺すつもりはなかった。ちょっと驚かせるだけでよかった。あとで「冗談、冗談」と笑えるような、軽い脅しのつもりで背中を押したのだ。

 うそをつけ! この人殺し!

 松田さんに頼まれて、私は花束を抱えて愛美さんを見舞った。
 愛美さんはまだ眠り続けているらしい。病室に入ると陰険な顔の木崎の妹がいた。妹は私を見るなり露骨に顔をしかめた。
 木崎の妹、伊織は相変わらず陰鬱な顔をしていた。私が木崎と付き合っているころ、伊織は私に対して何度も嫌がらせをしてきた。子供の嫌がらせなどなんとも思わなかったので無視をしていたが、あの暗い顔と声で話しかけられるたびにぞっとしたものだ。
「愛美さん、まだ悪いの?」
 できるだけ優しく話しかけると、伊織は消え入りそうな声で「はい」と答えた。
「木崎くんはどうしたの?」
「家に、愛美さんの着替えをとりに」
 ぼそぼそと話す様子は子供のころから何もかわっていないようだ。可哀想な木崎の妹。彼女が実の兄である木崎に気があることはわかっている。が、木崎は妹のことを妹としか思っていない。ストーカーのように自分と恋人に付きまとってくる、うっとうしい妹。「まいっているんだ」と学生時代にも何度かこぼしていた。
 ベッドに横たわる愛美さんは眠れる森の美女のようだった。天使のような真っ白いパジャマを着ていて、不謹慎だが美しかった。
「こんにちは、愛美さん」
 私は静かに話しかけた。安らかな寝顔。このまま目を開きそうだ。
 愛美さんが目覚めたら私はどうなるだろう? 事故のショックで記憶喪失にでもなっていてくれたらいいのにと思う。
「ねえ薫さん、いっこ聞いていい?」
 伊織さんが私の耳元でささやいた。ぞっとして鳥肌がたつ。私はこの娘が心底嫌いだった。
「何かしら?」
「どうして愛美さんを突き落としたの?」
 どきっとした。心臓がとまりそうだった。
 この娘、なんと言った?
 なぜこの娘が知っている? 斎藤か。あの男、やはりしゃべっていたのか。
「なんのことからしら?」
「とぼけるつもり? あなたのこと、お兄ちゃんは許さないわよ」
 私は愕然として病室を飛び出した。
 知っていた! 木崎くんが私のしたことを知っていた!
 もう終わりだ。すべてさらされていたのだ。でもなぜ私のもとに警察がこないのだろう? 木崎は私を見逃すつもりなんだろうか。あるいは……あるいは、自らの手で罰を下すつもりなのか。
 だとすれば、木崎が私を罰しようとするのなら、私はもう生きていけない。

 この人殺し! この人殺し!

 画廊に戻るとトイレに入って吐いた。胃の中のものをすべて吐いた。言いようもない恐怖と焦りが込みあがってくる。
 かりかりという音がして振りかえると、木崎が画廊の壁を指でひっかきながら歩いていた。
「木崎くん……」
「今日、病院にきてくれたんだって?」
 木崎は湖水のように落ち着いた表情をしていた。
「愛美さん、いつ目覚めるの?」
「わからない。植物状態だ」
「永遠に目覚めないってことはないわよね? いつか、いつか目が覚めて、また前みたいに一緒に夕食でも――」
「そんなことを聞いてどうするんだ?」
「え?」
「そんなことを聞いてどうする?」
 木崎は静かな顔で繰り返した。
 全身の肌が粟立った。
 私はまだ木崎のことが好きなのだ。一度は別れてしまったけれど、本当に後悔した。あのあと木崎がすべてを捨てて私をさらってくれると期待していたが、木崎はそれをしなかった。私は木崎を憎んだ。でも愛していた。とてもとても愛していた。そして今も愛している。
 だがしかし――木崎は、私のことを、愛していない。
「もうそんなこと、君には関係ない」
 木崎はそっと私を抱きしめた。
 そのときだ。脳天を貫くような衝撃が走ったのは。
 なんだこれは!? 耳を塞ぎたくなるような鈍い――頭ががんがんする。私は耳を塞ごうとしたが、木崎は力強く私を抱きしめている。振りほどけない!
 私は死に物狂いで暴れた。意識が遠のいていく。地震のときの重低音のような、だがそれよりも数百倍もひどい音。音。音。音の集合体。凶器だ。死んでしまう!
 助けて、助けて、助けて。

 死ね! この人殺し!

 違う! 私は人殺しじゃない!

 渾身の力で木崎を突き飛ばし、床に倒れこんで吐いた。先ほども吐いたからもう胃に何も残っていない。緑っぽい胃液を吐きだした。
 肩で息をしながら顔をあげると、木崎が素早く部屋を出ていくところだった。
 木崎はステレオを抱きかかえるようにして去って行った。
 あのステレオ……あれであの音を出していたのか? モスキートーンという若者だけに聞こえる不快な音があると聞いたことがある。木崎はそういう類の、人に何らかの害を与える音で私を殺そうとした?
 ああ、頭が痛い。涙がとめどもなく溢れてくる。
 あれほど愛し合った私を――。
 絶望が体中を包んでいく。木崎は私を許さない。彼はまた私を殺そうとするだろうか? それともこれは、単なる脅しのつもりなのか?
 私はただ木崎に愛されたかった。若いころできなかったことを、彼にしてあげようと思っただけだ。そのせいで愛美さんを傷つけはしたが、殺そうと思ったわけではない。その代償がこれとは、あまりにもひどい。
 無意識のうちに、私は別れた元夫に電話をしていた。
「どうしたんだ」
 元夫はあきらかに迷惑そうな声だった。
「私……私、殺されそうになったの。木崎という男よ。私が昔付き合っていた男。あいつは私を殺そうとしたの」
 恐怖を吐きだすように私は元夫に木崎にされたことを話した。
「待て、薫。君は何を言っているんだ? その木崎という男が、ステレオで音を流して君を殺そうとした?」
「そうよ! ステレオの音を聞いているうちに、ものすごい悪寒が走って、頭が割れるように痛くなって……すごい吐き気だった。本当に死んでしまうかと思ったわ。私は殺されかけたのよ。あの男はまた私を殺そうとするわ」
「だから、ちょっと待ってくれ。たしかにそういう低周波のような、人の脳に衝撃を与える音というものが存在しているということは何かの本で読んだことがある。しかしそんなもので人が死ぬなんて聞いたことがないし、だいたいそんな音を部屋で流したらその木崎って男も無事ではすまないじゃないか。それとも何か? そいつが高性能な耳栓でもつけていたとでもいうのか?」
「木崎は耳が聞こえないのよ!」
 私は叫んだ。元夫が息を呑んだのがわかった。
「木崎は聴覚障害者なの! まったく耳が聞こえないのよ! だからあの音を聞いても無事だったんだわ!」
 興奮したからだろうか、話している途中で激しい頭痛が襲ってきて、私は床に手をついて荒い息を繰り返した。
「おい、大丈夫か? おい!」
 元夫が遠くで叫んでいたが、それも耳鳴りにまぎれて聞こえなくなった。


愛さない者 ――木崎秋也


 斎藤健一に装置を渡すと、彼は不安そうな顔で「どうですか?」と聞いてきた。
 ぼくはポケットからメモ帳を取り出して『薫は生きている』と書いた。メモを見た斎藤はあからさまにがっかりした顔をした。
 聴覚障害者のぼくを利用したこの作戦はなかなかだと思ったが、ぼくは最初からあんなもので人が殺せるとは思っていなかった。せいぜい頭痛を引き起こすくらいだろう。それに女とはいえ死に物狂いで暴れる人間を抑えつけようと思ったらそれこそ殺すつもりで抑えないといけないし、音を流している途中、耳が聞こえないぼくまでひどい頭痛がしてきて中断せざるをえなかった。
 だがまあいいだろう。薫はかなりのショックを受けていたようだから、あのまま衝動的に自殺でもするかもしれない。薫にはそういうヒステリックなところがあった。できれば絶望して自殺してほしい。
 こんなことを祈っているぼくは鬼かもしれない。だがぼくの妻を突き落とした薫は鬼以上の悪魔だ。
 あのステレオに似た装置は斎藤健一が処分してくれるだろう。そもそもあの妙な装置を持ってきたのも彼だった。いったいどこで手に入れたのか。
 結婚する際、ぼくは愛美に斎藤と縁を切ってくれるように頼んだ。当然のことだろう。愛美は斎藤の子供を妊娠中絶しているのだ。だけど愛美はどうしても斎藤を切り捨ててしまいたくないと言った。斎藤は子供のころから兄のように自分を守ってくれた人で、一番辛いときにもそばにいてくれた。感謝しているからこのまま友人関係を続けさせてほしいと手をついて頼んできた。ぼくは全面的に愛美を信用している。渋々だったが了承し、結婚前夜に長ったらしい手紙を斎藤に送った。一字一字にぼくの思いを込めてしたためたのであんなに長くなってしまった。斎藤に愛美に対するぼくの気持ちを知ってほしかった。牽制の意味もあった。
 付き合ってみると斎藤は親切でなかなかいい男だった。渡仏する際の引っ越しも手伝ってくれたし、愛美が呼ぶとわざわざフランスまできてくれて何かと気遣ってくれた。
 愛美と斎藤は本当の兄弟のようで見ていてほほ笑ましかった。ぼくは少しずつ斎藤を認めるようになっていた。
斎藤はぼくと同じく愛美を愛しているが、愛美が選んだのはぼくだ。ふらふらと遊び回っていた卑怯なぼくを、彼女は選んで結婚してくれた。ぼくはその対価として心をこめて愛美に尽くした。
 愛美との生活は楽しかった。幸せだった。仕事は順調にいっていたし、家族関係も良好。愛美はぼくの両親に気に入られて上機嫌だった。伊織だけは渋い顔をしていたが、それはいつものことだから問題ではない。
 妊娠してから愛美はますます美しくたくましくなった。ぼくは産まれてくる子供のことを思って胸を熱くした。できれば愛美によく似た可愛い女の子がいい。検診で胎児が女の子だと聞かされてから、ぼくは有頂天になった。
 そんななかで薫がぼくの目の前に現れたときは正直まいった。ぼくは薫の裏切りはもうなんとも思っていなかったが、薫のヒステリックで偽善的な性格を思い出してやっかいなことになると感じていた。
 愛美に相談したところ、とりあえず薫には優しくしておいたほうがいいとのことだった。考えてみれば当たり前のことだ。薫を突き放してもますます意地になるだけだろう。愛美はぼくがかいつまんで説明しただけだったのに薫の性格をきちんと把握していた。
 薫はいろいろなやり方でぼくに迫ってきたが、ぼくは相手をしなかった。愛美には優しくしろと言われていたものの、正直別れた女になんて会いたくもなかった。ぼくはもう薫と付き合っていたころのぼくではなかったのだから。
「薫さんを突き放しちゃだめよ」
 愛美は何度もぼくにそう言った。薫は突き放したらストーカーのようになって手に負えなくなるからと。
 だけどぼくは別にストーカーになってもいいんじゃないかと思っていた。ストーカーになれば正当に訴えることができる。だが愛美はそれは最善策ではないと踏んでいた。ぼくは愛美に従うべきだったのだが、どうしてもできなかった。
 薫に家にこないかと誘われたとき、はっきり言って吐き気がした。薫はぼくと寝たいと言っているのだ。どの口が言うのかと呆れかえった。
 愛美は一人で行ったほうがいいと言ったが、無理に頼んで同行してもらった。愛美が妊娠していることを知ったら薫が諦めるかもしれないと期待してもいた。
食事のあいだ、薫はずっと憮然としていた。せっかく愛美がいろいろと話しかけているというのに返事もしなかった。ぼくは薫のそんな態度に腹を立てて一言も話しかけなかった。
 食事会以降、薫はますますやっきになってぼくに誘いをかけてきた。妊娠中の愛美を連れて行ったのは逆効果だったのだ。ぼくたちは愛美が妊娠しているとはいえまったくセックスをしていないわけじゃなかったし、ぼくは愛美以外の女とはセックスする気にもなれなかったのだが、そんなことを薫に言っても仕方ない。ぼくはやんわりと断っていたが、だんだん苛立ちを隠せなくなっていた。
 そしてあの日、薫は眠っていたぼくにキスをした。愛美ではない唇の感触に気持ちが悪くなって目覚めると、薫がうっとりと目を閉じていた。ぼくは思わず薫を突き飛ばし、感情のままに薫をなじり、あまつさえ言ってはならない言葉を言ってしまった。
「ぼくは家庭を壊したくない。大切な家庭なんだ」
 こんなことを言えば薫が愛美を恨むことはわかっていたのに。ぼくは馬鹿だった。愛美の言うことを守ってさえいればあんな事件は起こらなかった。すべてはぼくの責任なのだ。
 ぼくが愛美をあんな姿にしてしまった。後悔と自分への怒りで夜も眠れない。
 たとえば斎藤健一なら。あのまっすぐな男なら愛美の言葉に逆らわなかっただろう。ぼくもそうだと自負していたのに、ぼくは愛美に逆らってしまった。もし愛美が斎藤と結婚していたら愛美は階段から落ちずにすんだだろう。ぼくは毎晩そんなことを思った。ぼくと結婚したばっかりに愛美は――
 愛美は昏睡状態に入るまえ、ぼくの腕の中でつぶやいた。
「どうした愛美? どうした?」
 斎藤は愛美の顔をのぞきこんで何度もそう言っていた。斎藤は愛美の言葉がわからなかったのだろう。だがぼくにはわかった。話読(口語)というのだが、耳の聞こえないぼくは手話と一緒に読唇術のようなものも勉強した。愛美の唇の動きはすべておぼえてしまっている。
「あ、い、つ、を、こ、ろ、し、て」
 愛美はたしかにそう言った。
 あいつを殺して。愛美は甘えるように、ミルクをねだるようにぼくにそう言った。
 大切な子供を殺した殺人鬼。愛美は薫を許さないだろう。そして、それはぼくも同じだった。
 今度こそぼくは愛美の言葉に従う。忠実に実行する。虹谷薫は殺してやろう。だがぼくが手を下すわけにはいかない。愛美もそれは望まないだろう。
 愛美が目覚めたとき、ぼくがいないと寂しいだろう。
「俺があの女を殺しますよ」
 一途な愛美の守護神、斎藤健一はそう言った。失うもののない斎藤はこの仕事に適役だ。薫は斎藤が殺すだろう。
「あの音が失敗したのなら、仕方ないですね。俺が殺します」
 斎藤はそう言って病院を出て行った。
 罪悪感にさいなまれたけれど彼に任せる以外に方法がなかった。ぼくは愛美のそばを離れたくない。
 愛美はいずれ目覚めるだろう。なんとなくだが確信がある。愛美は必ず目覚める。一年かかるか二年かかるかはわからないが、愛美は再び目を覚ます。そのときには必ずそばにいたい。そして、今度こそぼくが愛美を守る。

 斎藤健一が調べてきたところによると、虹谷薫は別れた夫に助けを求めたが断られたらしい。
「木崎を殺して!」
 とまあ、そんなことを頼んだのだろうと想像できる。
斎藤は薫が愛美を突き飛ばした次の日に画廊と薫の自宅に盗聴器をつけたのだという。まったくその行動の早さには脱帽した。斎藤はぼくよりもずっと行動的な人間だ。
 それにしても薫にはある種の憐みを感じる。別れた元夫に恥ずかしげもなく助けを求めるなんて、その思考回路には呆れを通り越して恐れ入るばかりだ。
 だけどぼくも昔はこういう女が好きだった。甘えるばかりで自分では何もできない、弱っちい女の子。若いころは可愛く感じたものだ。ぼくは子供のころから耳のことで散々からかわれ、いじめられてきたから、自分よりも弱いものが好きだったのだ。
 弱い女の子でいられるのは若く可愛いうちだけだということに薫は気づかなかった。科をつくって誘惑すれば男が思い通りになると勘違いしていたようだが、その原因はぼくにもある。ぼくは学生時代に薫を甘やかしすぎたようだ。薫は一人娘で両親に大切にされて育ったから、大学でもお嬢様のように振る舞っていた。ぼくはついついそれに乗せられて薫のわがままにつきあってしまった。ぼくはどうもそういうタイプの女の子を好きになってしまうのだ。
 だから薫は両親にぼくの耳のことで結婚を反対されたとき、ぼくがすべてどうにでもしてくれると思っていたのだろう。ぼくが薫の両親を説得させることができないと知ると駆け落ちを持ちかけた。ぼくは従ったが薫はこなかった。薫は今まで生活してきた状態のままぼくを手に入れたかったのだ。だが世間はそう甘くはなかった。
 今思うと薫の思い込んだら他のことが一切目に入らないところは学生時代にも片鱗を見せていたが、あきらかに今のほうがひどくなっていた。きっと結婚してからずっと専業主婦だったのだろう。薫は一度も社会に出ずに生きてきた。だから社会の厳しさを知らず、この世にはどうしようもないことがあるということすら学ばなかったのだ。
惜しみなく愛を与えられて育った愛美でさえ生きていくうえで諦めなければいけないこともあると知っていたのに、薫はそれを知らなかった。いや、知っていたけど認めたくなかった? 泣いて騒げば欲しいものが手に入るなどと思い込んでいる女ほど醜い生き物はない。
 ぼくは斎藤にファックスを出した。
『斎藤くん。モジリアーニの悲しむ裸婦という作品を知っているか? 裸婦の苦しんでいる表情が妻を思い起こさせる。かわいそうな愛美のためにも一度見てやってくれ。愛美はあの絵が好きだった ――木崎』
 しばらくするとファックスが届いた。
『明日美術館に見に行きます。愛美によろしくお伝えください。木崎さん、お体に気をつけて ――斎藤』
 斎藤はぼくの意図を汲んだ。斎藤は明日薫を殺しに行く。
 薫が殺されれば当然ぼくのところにも警察がくるだろう。
ぼくが薫を襲ったことを薫の元夫が証言するかもしれない。だがぼくは逮捕されない。起訴することも難しいだろう。何一つ証拠がないのだ。取調べを受ける必要はあるだろうけど……そういえば、ぼくのような聴覚障害者はどうやって取り調べを受けるのだろう? ボランティアで手話ができる人間を連れてくるのだろうか? いやいや、取調べというのは完全な密室で行われ、第三者の介入は許されないはずだ。では筆談での取調べとなるのか。なんだか面倒なことになりそうだ。こういう例をとってみても社会というのは健常者のことだけを考えてつくられていると実感する。

 病院に戻り、愛美のそばでリンゴをむいていると斎藤が現れた。斎藤は鋭い眼薫の青年だったが今日は穏やかな目をしている。覚悟を決めた男の瞳というものはこんなに美しいものなのかと驚いた。
「愛美はどうですか」
 斎藤は愛美の顔をのぞきこんだ。
『今日は顔色がいいみたいだ。すぐにでも目覚めそうだ』
 ぼくはそう書いたメモを渡した。
 斎藤はそのメモをじっと見ると悲壮なしわを眉間によせた。斎藤は愛美を守れなかった自分を激しく悔いている。愛美は斎藤の目の前で落ちていったという。
「これを」
 斎藤はサイドテーブルに手紙をおいて病室を出て行った。最後の挨拶のつもりだろうか。
 封筒の表側には木崎愛美様、裏側に斎藤健一と書いてある。中を読んでみると寡黙な彼らしく自分の言葉は簡潔に綴られていて読みやすかった。添えられていたぼくの手紙のほうが長々ととりとめがなくて恥ずかしくなったほどだ。
 封筒をサイドテーブルに戻そうとしたとき封筒に張り付いていた一枚の便せんがひらっと落ちた。拾い上げてみると木崎さんへという書き出しの手紙だった。

  斎藤健一の手紙

 木崎さん。俺は殺人罪で警察に捕まります。あのステレオに似せた装置は完璧に処分したので安心してください。虹谷薫の自宅と画廊に仕掛けた盗聴器はすでに回収して捨てました。
 殺人犯が愛美のそばにいてはまずいので、俺はもう二度とお二人の前には現れません。
 俺は愛美が結婚して幸せに暮らしているのを見ていて幸せでした。木崎さんのことは尊敬しています。木崎さんは俺よりもずっと愛美に似合っている。
 木崎さん。愛美には止められたけど、最後にどうしても言いたいことがあります。愛美に対して献身的な木崎さんにこれ以上隠すことはできません。
 木崎さんの手紙で愛美が「中絶するから金をかしてほしい」と言ったと書いてありましたが、あれは愛美のうそです。俺はあのとき愛美には指一本触れていません。愛美は妊娠していませんでした。どうして愛美がそんなうそをついたのかわからない。でもきっと愛美は木崎さんのことが好きで、どうしようもなくてそんなうそをついたんだと思います。
 愛美のことを許してやってください。それだけが俺の願いです。
斎藤健一

 ぼくはこの手紙に少なからずショックを受けた。
 愛美のあの告白がうそだったなんて。ぼくの心をえぐり取ったあの出来事がすべて狂言だった。なぜか? ドラマティックな展開を演出するためだろうか。傷ついたぼくは愛美によって癒された。そうして二人の愛は深まっていったのだ。愛美の意図がぼくを嫉妬心によって奮い立たせようというものだったとしたら、彼女は成功した。
 斎藤が書いたとおり、愛美はぼくが好きでどうしようもなくてうそをついたのだろう。あのときのぼくは自暴自棄で怠惰などうしようもない男だった。愛美がぼくを救ってくれたのだ。たとえうそだったとしても、ぼくらはそのうそによって結ばれた。ぼくはそんなうそをついた愛美の苦しい胸の内を思って切なくなった。
「愛美。斎藤健一が薫を殺してくれるよ」
 ぼくは愛美の顔の上で手を動かした。だがわかるわけない――声で呼びかければ愛美は聞こえるかもしれないが。
 ぼくは声を出すのが怖い。
 ぼくは小学から高校までろうの専門学校に通っていた。読話にしても発音にしても技術的な面でろう学校だけではとても足りなかったからだ。ぼくは母音と子音の区別がほとんどつかなかった。たとえば『おかあさん』と言おうとしても『おああさん』になってしまうのだ。
 周りの子はみんな上手に発音できるようになって、先生が何を言っているのかもわかるのにぼくだけさっぱりだった。母はそんなぼくにいらだってぼくは毎日のように殴られた。ぼくは明らかに普通の子より劣っていた。きっともともと人の話していることに興味がないからだ。
 両親はぼくのことで毎日口論し、妹は部屋に閉じこもって出てこなくなった。そんな状態だったからぼくは話すことをやめた。声を出さなくなれば母はますます怒ってぼくを打ったが、ぼくが高校に入るころにはさすがにあきらめた。ケンカの種もなくなり、家族に平和が戻った。
 ぼくが人に対して壁をつくるようになったのはこのあたりに原因がある。どうして目は閉じられるのに耳は閉じられないんだろう。まったくの無音を経験したことのある人間がこの世に何人いる? ぼくは孤独だった。
 ぼくの孤独を解放してくれたのが愛美だ。ぼくは愛美がいなければ生きていけない。ぼくはこうして愛美のそばで、愛美が目覚めるまで絵を描いて暮らすつもりだ。愛美の笑顔を待ちわびながら。

 快晴。冬。偶然にも午前零時ちょうどだった。今でも覚えている。
 愛美の隣で絵を描いていると、松田が病室に突然駆け込んできて手話をつけずに怒鳴った。
「あなた、絵なんて描いてる場合じゃないわよ!」
 ぼくは笑ってしまった。絵を描かないでどうやって愛美の入院費を抽出すればいいんだ。ぼくは今のところ売れっ子の画家だが億万長者というわけではない。
「落ち着けよ」
「落ち着いてなんていられないわ! さっきまで警察がきていて……木崎くん、聞いて。虹谷薫さんが亡くなったの」
 松田は真っ青な顔でそういう手話をした。
 ぼくはふうんという感想しか出てこなかったが、表面上は驚いたふりをしておいた。こういうときぼくのような人間は声を出す必要がないから得だ。たいていの人は何か余計なことを口走って疑われるのだから。
 警察にばれるのはもう少し時間がかかるんじゃないかと思ったが、意外に早く露呈したものだ。斎藤が自首でもしたのだろうか。
「ぼくも今から画廊に行くよ」
 画材を片付けていると、松田は震えながらぼくの腕をつかんだ。
「薫さんは自宅で亡くなったの。殺されたのよ。あの男の人と一緒に死んでたって……ああ、あの人、名前なんていったかな。あなたたちの結婚式にきていたわ。髪の毛の短い、ハンサムだけど少し怖そうな感じの」
 斎藤だ。ぼくは目を丸くした。
 斎藤健一だ。斎藤が薫と一緒に死んだのだ。
 気を抜くと叫んでしまいそうだった。一緒に死んでいたということは、斎藤は薫と刺し違えたのだ。なんという男だろう。斎藤は愛美のために命をかけた。ぼくは心の中で愛美のかわりに斎藤に詫びた。
「木崎くん」
「なんだ?」
 ぼくは人生で最高の演技力でもって松田の肩を引き寄せた。驚愕しているけれども落ち着かなければと自分に言い聞かせているような顔をしたつもりだ。ぼくは耳さえ聞こえていれば俳優になれたかもしれないな、なんて自画自賛した。
「あの男の人も殺されたのよ」
「そうなのか」
「大変なことになったわ。殺人鬼がいるのよ。どうして薫さんを狙ったのかしら……それにあの男の人だって、なぜ薫さんの家にいたの? どうして二人は殺されたの? わからないことだらけだわ」
 どうにも事情がよく飲み込めない。
 斎藤は薫と刺し違えたのではないかもしれない。薫が殺されたのは間違いないが、斎藤も第三者によって殺されたのではないだろうか。だがもしそうなら、誰が斎藤健一を殺したんだ?

「警部補の小木です。木崎さん、初めまして」
 画廊につくなり若い男性がいきなり手話でそう話しかけてきたのでぼくは仰天した。
 小木と名乗った男性は警察手帳を見せながら軽くほほ笑んで「娘が難聴なので、少し手話できます。ですが難しいことはわかりませんので、筆談もさせてください」と手話でやった。ぼくは面食らったままうなずいた。
「木崎さんは虹谷薫さんの学生時代の同級生だったと聞きましたが」
 小木の手話はゆっくりしていたので、ぼくもゆっくりと答えた。
「そうです。美大生時代の同期です」
「かなり仲がよかったのですか?」
「付き合っていました。婚約していました。ですが、わかれました」
 小木が指を二本立てて左右にふった。「何?」という手話だ。ぼくはポケットからメモを取り出して書いた。
「婚約していたけどわかれました。耳のことで、むこうの両親に反対されました」
 このあたりのことは隠しても意味がない。小木はメモを見るとうなずいた。
「斎藤健一さんともお知り合いらしいですが」
「斎藤くんはぼくの妻の幼馴染でした。結婚後もよくしてくれました」
「どうして二人は一緒に殺されていたんでしょうね?」
 小木の質問にぼくは沈黙した。
 刺し違えたのではないですか? と聞きたいが聞ける雰囲気ではなかった。とりあえずぼくは何も知らないふうを装った。
「斎藤さんと虹谷さんがお知り合いってことはありますか?」
「ないと思っていましたけど。わかりません」
 ぼくは曖昧な返事をした。
 小木は首をかしげ、何かをメモに書く。
「斎藤さんは木崎さんの奥様の幼馴染。虹谷さんは木崎さんの元婚約者で、同じ画廊に勤めていた。二人を繋いでいたのはあなたですか」
 ぼくは首をふった。こういうことは聞かれるだろうと思っていた。下手な言い訳をしても立場が危うくなるだけなのだ。
 小木はぼくが何も話さないので、今度は手話をやった。
「お二人の死亡時刻は昨日の二十二時ごろです。何をされていましたか?」
「病院にいました。入院中の妻に付き添っていました」
「あ、奥さん。ご病気なんですか?」
「階段から落ちて頭を打って以来、寝たきりなんです」
 小木は「失礼しました」と頭を下げた。
 ぼくは疑われているのだろう。だがぼくのアリバイは鉄壁だ。ぼくが愛美につきっきりなのは本当なのだから。
 それから小木は他の刑事を伴って松田のほうに話を聞きに行って、ぼくはひとまず解放された。これからもいろいろと聞かれるだろうが、この件に関してぼくが疑われることはもうないだろう。ぼくは本当に何もしていないのだから。
 あの刑事たちは薫の元夫のもとへも行くだろう。元夫はぼくが薫を襲ったことをしゃべるだろうか。もしそうならぼくへの疑いは濃くなるだろう。でもぼくは安全だ。
 斎藤には悪いことをした。斎藤は両親を失っているし親戚もいないと愛美が言っていた。斎藤は天涯孤独なのだ。彼の弔いはぼくが取り計らってやろうと思った。斎藤の遺体には手をついて詫びなければならない。
ぼくもまた、いずれ罰を受けるだろう。
 虹谷薫も斎藤健一もぼくが殺したようなものだ。ぼくは自分の手を汚さずに罪を犯した。愛美に誓った愛が罪になったのだ。
 ぼくは再び病室に戻った。安らかに愛美が眠っている。可愛い愛美、このまま眠り続けているのも、彼女にとっては一つの安らぎにはならないだろうか?
 きっと愛美は可愛い夢を見ていることだろう。ぼくはその夢を一緒に見ることはできないけれど、愛美の夢を想像しながらこうして一緒に暮らしていくのもいい。ぼくは今のこうした状況でも十分に幸せだった。
「お兄ちゃん」
 いつの間に入ってきたのか、突然伊織がぼくの肩を叩いた。
「お兄ちゃん」
 伊織は笑みを浮かべてぼくを抱きしめ、そっとぼくの胸に額をあてた。


愛されない者 ――木崎伊織


 お兄ちゃん。愛しているわ。
ふふ、びっくりした?
 予備校? そんなのとっくの昔に退学したよ。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも愛美さんに夢中で私のことなんか気にしなかったから、気付かなかったんだね。
 働くつもりなんてないよ。私はこれから、愛美さんのかわりにお兄ちゃんの世話をしながら暮らすんだから。
 私ね、昔からずっとお兄ちゃんと二人で暮らしたいなって思ってたんだ。だってお兄ちゃんは子供のころから私を見守っていてくれてたじゃない。逆上がりを教えてくれたのも、いじめっこから守ってくれたのもお兄ちゃんだよ。お兄ちゃんと私はあんなに小さかったころから結ばれる運命だったんだよ。
 いろいろあったけど、こうしてお兄ちゃんが一人になってよかったな。お兄ちゃんももう気付いたよね? 薫さんよりも、愛美さんよりも、私が一番お兄ちゃんを幸せにできるってこと。
 私、前々から思ってたんだ。愛美さんなんて、お兄ちゃんには全然ふさわしくないよ。あんな人、たしかに可愛いけど、頭の中は狡賢くて陰険で最低な人だよ。愛美さんは斎藤健一の他にも男をたらしこんで、高校時代はやりたい放題やってたらしいよ。私、愛美さんの実家に行って、いろいろ調べてきたんだ。やんちゃがすぎて地元のレディースみたいな人たちに焼き入れられそうになったことがあるけど、斎藤と他の信者くんたちに守ってもらったんだって。
 愛美さんは何もできない弱い人じゃないんだよ。愛美さんはしたたかでとんでもない女だった。愛美さんにかしずく男はいくらでもいたんだよ。どうして愛美さんが他の男じゃなくてお兄ちゃんを選んだのかわからないけど、きっと経済的なこととか、耳が聞こえない人に対する好奇心とかなんだよ。愛美さんはお兄ちゃんを愛してなんかいないんだ。
 こんなこと言いたくないけど、お兄ちゃんだって愛美さんと結婚してなんだか変になったよ。お兄ちゃんたち、ミイさんって猫飼ってたじゃない。結婚記念日にお父さんがもってきた猫だよ。愛美さん、べたべたに可愛がっていたわ。
 愛美さん、妊娠がわかったとき、ミイさんを殺したでしょ。私が「ミイさんはどこ?」って聞いたら、あの人にこにこしながら「保健所に預けたわ」って言ったわ。私、本当に驚いてしばらく口がきけなかった。
 それもね、愛美さんが自分で保健所に持っていったわけじゃなくて、斎藤に持っていかせたんだよ。斎藤は愛美さんのご機嫌をとるためならなんでもやる男だよ。
 言ってくれればうちで預かったのに、どうして殺したりするの? お兄ちゃんもとめなかったどころか、そうしたほうがいいって言ったんでしょ? お兄ちゃん、あの斎藤って男と同じだよ。同じ愛美さんの盲信者なんだよ。
 可哀想に。お兄ちゃん、薫さんに捨てられて、愛美さんにいいように操られて、すっかり人がかわってしまった。これからは私がそばにいるから、きっとすぐに昔の優しかったお兄ちゃんに戻るよ。

 ふふふ。お兄ちゃん、びっくりしているね。私が手話もつけずにしゃべっているから、私の言うことがよくわからないんだ。でもちょっとはわかってるでしょ?
 いいの、やめて。今は手話なんか見たくない。
 私ね、お兄ちゃんがいないときを見計らってこの病室にきたことがあるの。愛美さんの点滴に洗剤を混ぜて殺してやろうと思っていたの。でもだめだった。お兄ちゃんのかわりに斎藤健一が座っていたんだもの。
 でもおかげで斎藤健一のほんのちょっとだけ可哀想な生い立ちを聞けたわ。斎藤の家は地元では有名なやくざの家だったの。子供のころからお父さんとその取り巻きのガラの悪い連中に殴りまわされて鍛えられたそうよ。だからお父さんが失踪して、お母さんが亡くなったときは安心したって言っていたわ。愛美さんも性悪女だけど、斎藤もとんでもない男よ。だって人を殺すことにもなんの躊躇もしないんだから。
 私、思うんだけどね、斎藤のお父さんって、失踪したんじゃなくて殺されたんじゃないかしら。誰にって、もちろん斎藤健一によ……うふふ、ちょっと妄想が飛躍しすぎたわね。でも斎藤はそれくらいしてもおかしくない男よ。
 ふふふ。
 私、本当は知っているのよ。お兄ちゃんと斎藤健一が共謀して薫さんを殺そうとしていたこと。
 愛美さんが入院してから、お兄ちゃんは斎藤とよく会うようになったでしょ。お兄ちゃんは斎藤のことを気に入らない様子だったのに、急激に仲良くなったわ。私はそれが気に入らなかった。おかしい? 男にまで嫉妬するなんて、おかしいと思ってるんでしょ?
 だけど一番おかしいのはお兄ちゃんたちよ。
 私が薫さんのマンションに行ったとき、斎藤健一はすでに薫さんを殺していたわ。斎藤は私が殺しを手伝ってあげるって言ったら、少しも疑わずに偽造した合鍵のスペアをくれた。あの男は行動的だけど頭が悪すぎるわね。お兄ちゃんも、もうちょっと考えて人選するべきだったのに。
 ふふ、ふふふ。
 私、誰にも言わないわ。お父さんにもお母さんにも言わない。だからお兄ちゃんも誰にも言っちゃ嫌よ。
 斎藤健一は私が殺したの。
 背中から刺したの。
 驚いた? お兄ちゃんの望みをはたしてあげたわ。お兄ちゃんの願いを叶えるのは、あの男じゃなくて私よ。お兄ちゃんをずっと慕ってきた私よ。
 お兄ちゃん。愛しているわ。

「それで?」
 とお兄ちゃんが聞いてきた。
「だから、私が虹谷薫を殺した斎藤健一を殺したっていう話よ。なんだったら、最初から手話で繰り返そうか?」
 手話をしようとあげた手をお兄ちゃんがとめた。
「お前が何を言っているかはわかった。それで、お前は斎藤くんを殺して、それからどうしたんだ?」
「どうしたって? その足でここにきたんだけど」
 お兄ちゃんはぎりぎりと歯を噛むと、額に手をあてた。
「馬鹿な。凶器はどうした? 指紋には気を配ったか? 目撃者がいるんじゃないか? 警察はお兄ちゃんを疑っているんだぞ。お前の犯行なんかすぐに露見する」
「お兄ちゃん、何言ってるの? 私を褒めてくれないの? お兄ちゃんは心の中で斎藤にも死んでほしいって思っていたんでしょ。私にはわかるわ。お兄ちゃんは斎藤が薫さんと刺し違えればいいと思っていた。私が望み通りにしてあげたんだよ」
「凶器は何だ? 答えろ」
「買った包丁だよ! 斎藤の体に刺さって抜けなかったから、そのままにしてきたよ」
「馬鹿か」
 お兄ちゃんは吐き捨てるようにそういう手話をすると、力なく椅子に座って愛美さんの手を握った。私はかっとなってお兄ちゃんの肩を殴った。
「お兄ちゃん! 私を褒めてくれないの? 私、お兄ちゃんに褒められると思って、お兄ちゃんが褒めてくれると思って――」
「もういい」
「え?」
「もういい。お前のそれは聞きあきた。お前はもっと頭のいいやつだと思っていたが、どうしようもない馬鹿だったな。帰れ」
「お兄ちゃん――」
「近々お前は逮捕されるだろう。帰ってその準備でもしておけ」
 私は全身の震えを覚えた。目の前にいるこの男性は誰だろう。私が愛した優しいお兄ちゃんではない。愛美さんが悪いんだ、愛美さんのそばにいるからお兄ちゃんがかわってしまった。
「お兄ちゃん、私と逃げて。遠いところで二人で暮らそうよ」
 お兄ちゃんはふっと笑った。
「斎藤くんに薫と刺し違えてほしいと思っていたのは事実だよ。お前は自分で言う通りお兄ちゃんのことをよくわかっているみたいだな。だけど、そこまでわかっていてどうしてお兄ちゃんの気持ちがわからないんだ?」
 私は「何?」と指を二本左右にふった。
「お前は子供のころからお兄ちゃんが好きだったよな」
「好きだったわ! ずっとずっと、小さいころから、お兄ちゃんのことしか見てなかった。お兄ちゃんだって私のこと好きって言ったじゃない。お兄ちゃんだって」
「お兄ちゃんは、お前のことは、好きじゃない」
 お兄ちゃんはゆっくりとした手話でそう言った。
 私は二、三歩後ずさった。
「うそよ」
「うそじゃない。妹だから相手をしてやっていたが、お前のような暗くて不愉快なやつは嫌いなくらいだ」
「そんな――お兄ちゃん、結婚式の前夜に私を抱いたじゃない。私を好きって言った。私、お兄ちゃんを信じてずっと待って……」
「ああ、あれか。あれは愛美がそうしてやれと言ったんだ。愛美は、お前みたいな女は一度抱いてやれば大人しくなって鬱陶しいことは言わなくなると言っていた」
 あまりのことに私が驚愕した。知らないあいだに涙が流れ落ちていた。
 愛美さん。すべては愛美さんの謀の中だったのか? 私は踊らされていたんだろうか。
「愛美さんが」
「愛美がいなければ、お前なんかとうの昔に縁を切っていた。愛美は夢見がちな女が大嫌いなんだ。だからわざとそばにおいて苦しむ姿を見ようとする。だけどそんな愛美のおかげでお前はお兄ちゃんと寝れたんだから、よかったな」
 すべての音が聞こえなくなった。お兄ちゃんと同じく聴覚障害者になってしまったのかと思うくらい、完璧な無音に包まれた。
 こんなときでもお兄ちゃんはかっこよくて愛おしかった。だけどお兄ちゃんは卑劣な人だった。何もかも愛美さんの言うことに従う、弱くてずるい男性だった。一人で何年も舞い上がっていた自分が恥ずかしい。お兄ちゃんのことが憎い。憎いけれど愛しい。私はどうしたらいいかわからなかった。
 リンゴを剥くためのナイフが目に入った。思わずそれを手に取った瞬間、愛美さんのまつ毛がぴくりと動いたのを見た。
「お前は最低の女だよ!」
 愛美さんをめがけてナイフを振り下ろそうとしたが、お兄ちゃんに殴られて吹っ飛んだ。私は血を流しながら、今度はお兄ちゃんめがけてナイフを振りかざした。

電撃

「告白」に影響されて書きました。ラストのほうがあまりうまくないかもしれません。

電撃

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-22

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著作権法内での利用のみを許可します。

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