崖地の神

火の爆ぜる、ちらちらとした粒が音もなく瞼の上を舞っている。網目模様が眼下の奥に渦巻き、時折形を変えるそれは、一度たりとも止まることなく動く。明るいことを指し示す色が差し込んで、そこでようやく下から景色が流れ込んできた。
紺の天球が辺り一帯を覆い、針の先で穴をあけたような星が脆弱に輝いていた。すう、と息を吸い込むと薄刃のごとく鋭い空気が肺いっぱいに溜まる。手をすり合わせても効果はほとんど無い、じわり指先が気休めのように温まるだけで、肩や爪先は冷えていく一方だった。数刻前に焚いた火は消えかかり、かろうじて這いつくばっているに過ぎない。
この場所が人間の命を拭い去るほどに冷え切っていくのは時間の問題だった。かといって備えは残されていない。ふかふかとした毛皮も分厚い鎧も、用意されていない。あるのは、この火と薄布で繕われた服と、手足をきつく縛る縄だけだ。
手首に現れた赤い痕は消える気配もない。動かし続ければ皮膚が裂けて血が滲むだろう。動かせるだけの感覚はもう無かったが。
呼吸の隙間に、甘い香りが混じった。かすかな、香ばしい蜜の匂いだ。
それがどういうことか、理解する前に唇が吊り上がる。
実際に見たものがいないのに、さも真実のように残ってきた一つの伝承。口から口へと、声を潜めて語り継がれた言葉。
捧げられるものは、死ぬ間際になると甘い幸福を得る。殉ずる命へのせめてもの慰みとして、神が崖への風に乗せて賜るのだ、と。
しかし今、その香りが心底疎ましく、吐き気を催すほどだった。
この崖には神などいない。ここにあるのは、暗い紺の天球と雪、氷、吹きすさぶ風だけだ。手足を縛られ、身動きも取れず無様に死んでいく一人の人間があるだけだ。
神が生贄を欲するのではない。勝手に差し出され、殺された人間が、何も知らないものたちに神として祀られるだけなのだ。この甘ったるい、醜い香りとともに。
そして彼らは平穏を得る。命を差し出して束の間授かった偶然を。何が起こるのだろう。雨が降るだろうか、豊かな実りであろうか、身の回りの人間の安全であろうか。そのどれでも、自分自身が殺される理由には足るとは思えなかった。
口から吐き出された空気は声にはならず、ただ乾いた音が響くのみだった。
これからも彼らは祀り続ける。そして祈り続ける。名も知らない、中身さえ知らないものを。ただの気休めを。
底の見えない暗闇が目の前に広がっている。落ちれば終わりのない崖だ。神が棲むと伝える崖だ。閉じた瞼の奥に、わずかな火に照らされた背中が浮かぶ。今の自分とまったく同じ服、同じ背格好、同じ髪。その背中は、ふいに縛られた手足を奇妙に動かして雪の上を這うと、暗闇の中に消えた。
わかっている。もう何度も行ってきたことだ。
ひりひりと痛む手と膝を地面に立たせ、引きずるようにして這う。凍るような雪のはずだが、感じるだけの力はもうない。
頭が宙にぶら下がる。重さに従って血が上り始める。手を突き出し、少しずつ前に這いだし、ひと呼吸ののち、強く地面を蹴る。
降下する暗闇の中で、神になるのだ。

(2017/09/28)

崖地の神

崖地の神

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-15

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