忘れないで~思い出の共有~

 五堂摩耶と辻祐介は大学二年の時から付き合い始めた。同じサークルにいたから、よくみんなで遊びに行っていた。祐介はわりとクールでとっつきにくい印象があった。だから、あまり女の子には評判はよくなかった。だけど、勉強でわからないところがあれば、わかるまで教えてくれたし、重い荷物を持っていれば、何も言わずに代わりに持ってくれた。祐介はおせっかいで優しかった。摩耶はそんな彼がだんだん好きになり、付き合い始めてすぐに同棲した。
 大学を卒業し、会社勤めが始まる前に、近くの安いアパートで二人暮らしをする準備をした。だけど、準備が終わった後すぐに祐介は記憶喪失になった。車に轢(ひ)かれそうな少年を助けようとして、代わりに轢かれてしまったのだ。その時のショックで、記憶をなくしてしまった。医者の話によれば、ここ三年くらいの記憶がないらしい。記憶が治る確率は、万に一つの可能性だった。摩耶はその万に一つの可能性を信じて、一緒に暮らし始めた。祐介は毎日、何とか記憶を取り戻そうと必死になっていた。摩耶はそんな祐介をいつも温かく見守っていた。
 それから三年が経った、ある日の事だった。
 祐介と朝食の準備をしている時に、小さな悲鳴が聞えた。摩耶は振り向くと、祐介の左人差し指から血が流れ出ていた。リンゴを切る時に誤って、指も浅く切ったみたいだった。普段祐介はこんなミスはしないから、珍しかった。摩耶は祐介の人差し指を口に含み、舌で傷口を消毒した。ここには消毒液なんて物はないから、それの代わりだった。彼は何度か痛そうな顔をしていたが、声には出さなかった。摩耶は消毒を終えると、絆(ばん)創(そう)膏(こう)を貼った。
 祐介は一言「ありがとう」と言うと、絆創膏を貼った指を撫でていた。
傷口は、そこに菌が入らない限り、ほっといても自然に治る。他の病も、記憶喪失もこんな風に簡単に治って欲しかった。摩耶は自分自身が絆創膏になって、祐介の記憶の傷を癒してあげたい、そう思った。記憶を消毒して、その上から柔らかく包み込んであげたい。もし、そんなことができたら、祐介はきっとすぐに記憶を取り戻すだろう。だけど、そんなことはできるわけがない。摩耶は、祐介を居間に連れて行き、その場に座らせ、摩耶も隣に座った。そして、いきなり祐介に抱きついた。体の中に入って、記憶を消毒できないのなら、体の表面から消毒してあげたかった。
「どうしたんだ?」
 祐介はなだめるような声で聞いた。摩耶は何も答えずにただ強く抱きしめた。本当はこんな事をしても、祐介の記憶はもどるわけがない。そうわかっていても、どうしてもこうせずにいられなかった。せめて、温もりを伝えたかった。しばらく抱きついていた後、摩耶はそっと離れた。祐介は心配そうな顔をしていた。摩耶にとって、その様子はとても辛かったが、仕方がないと思った。そして、そんな顔を見ていたら自然に、「ごめん」と謝っていた。
「何か、辛い事でもあったのか?」
 摩耶は首を横に振った。どうして祐介の記憶が戻らないから、と言えるだろうか。そんなことを言えば、お互いに辛くなるだけだ。それに記憶喪失になったことについて、祐介は悪くはない。ただ、少年を助けようとしただけだ。だけど、時折思う。どうして、彼がこんな目に合ったのか。そして、あの時、少年があのまま車に轢かれていれば、祐介はこんな目に合わなかったのではないかと。だけど、そう考えているうちに、自分が嫌いになった。あの時、祐介が少年を助けなかったら、もっと辛い思いをしていたかもしれない。それに、祐介は助けたかったから助けたのだと思う。本来なら、そんな彼をもっと誇るべきなのかもしれない。それに祐介はここにちゃんといる。記憶はなくなってしまったけど、いつか戻るかもしれない。だけど、命は消えてしまったら二度と戻ってくる事はないのだ。
 食事を終えた後、祐介と海に出かけた。そこは初めてデートに行ったところだった。もう何回も一緒に行っているが、祐介は何一つ思い出す気配はなかった。もちろん、祐介には初めてデートに行ったところだとは、言っていない。彼自身に思い出して欲しかったからだ。何度も言いたくなった事はあったが、我慢していた。他にもテーマパークや映画館や山にも何度か一緒に行ったが、結局何一つ思い出すことはなかった。もうどこへ連れて行っても同じかな、と何度も考えた事があった。だけど、ひょっとしたら、ほんの些細な事でも思い出してくれるかもしれない、摩耶はそんな小さな希望を抱いて、月に一度どこかに出かけていた。
 海に着くと、摩耶は辺りを見渡した。さすがに十月ともなると、ほとんど人はいなかった。摩耶はどちらかというと、こういう静かな海のほうが好きだった。人がたくさんいる海は、落ち着かないから苦手だった。
紺色の海は地平線の向こうまで広がっており、緩やかに波打っていた。砂浜は太陽の光を浴びて、目映い光を放っている。浅瀬のずっと先には、ごつごつとした岩がいくつかあった。空は透き通るように青くて、所々にある雲は、ゆっくり流れていた。大きく息を吸うと、潮の香りが体中に広がった。摩耶と祐介は素足になり、砂浜をゆっくりと散歩した。一歩一歩歩くたびに、程よく足の裏全体が刺激され、心地いい暖かさが足の裏に伝わってきた。
祐介の横顔を覗くと、とても清々しい顔をしていた。ここに来てよかった、摩耶はそう思った。こんなにも気持ちよさそうな彼を見たのは久しぶりだった。横顔をじっと見詰めていると、その視線に気付いたのか、祐介はこちらに顔を向けた。
「なんだ?」
「ううん。なんでもない」
 摩耶は急いで顔を正面に向けた。
「ねぇ、祐介は海って好き?」
 祐介は少し考えた後、言った。
「好き、かな。小波(さざなみ)の音とかさ、聞いていたらなんだか心が落ち着く」
 摩耶は「ふーん」と小さく頷いた。
「それに、最近はここに来る度になんだか懐かしい匂いがする」
「懐かしい匂いって?」
「わからない。だけど、ここには他の海にはない懐かしい匂いがする」
 摩耶は少し嬉しく思った。祐介からそんなことを聞いたのは初めてだった。ほんの僅かだけど、前進できたような気がした。
「どうしたんだよ、そんなにニコニコして」
 祐介は顔を近づけながら言った。
「ううん。何でもない」
「何でもないなら、どうして視線を逸らすんだ?」
「本当に何でもないから」
 摩耶は思い切り首を横に振りながら言ったが、祐介は何だか腑に落ちないという顔をしていた。しかし、これ以上訊いても埒(らち)があかないと思ったのか、それ以上は何も訊いてこなかった。
 それから、摩耶と祐介はしばらくの間砂浜で遊んだ。鬼ごっこをしたり、砂山を作ったりした。子供っぽい遊びだったけど、摩耶は十分に楽しかったし、何だか本当に子供に戻ったような気さえした。あと、これで祐介の記憶が戻っていれば、きっと、もっと楽しかっただろう。
 日が少し西に傾きかけた頃、摩耶と祐介はスーパーに寄って、アパートに帰る事にした。今から買い物をして帰れば、ちょうど晩御飯の時間になる。
 摩耶と祐介は来た道と違う道で帰ることにした。そっちの方がスーパーに近いからだ。ここからスーパーまでだいぶあるが、話しながら向かっていたら、意外にもすぐに見えてきた。摩耶は急ぎ足でスーパーに向かおうとした時、ふと横を見ると、花屋があった。そういえば、ここ数年、花屋に行っていなかった。祐介に少し寄り道をしてもいいかと聞くと、二つ返事で了承してくれた。
 見た目はあまり大きな店ではなかったが、中はこぢんまりとしていて、なかなか感じのいい店だった。最初に目に入ったのは、コスモスだった。赤やピンク、白と様々な色があった。次に目に入ったのはバラだった。これも赤やピンク色のバラがあった。他にもガーベラやリンドウ、スミレと他にもたくさんの花が置かれていた。
 摩耶は久しぶりに、部屋に花を飾るのもいいと思い、祐介と選ぶ事にした。声をかけようと振り返ると、祐介は別の花の種を見ていた。花に興味はなかったから、暇そうにしていると思っていたから意外だった。摩耶は祐介が一体、どんな花に興味を示したのか気になった。後ろから静かに近づき、そっと覗き込んだ。その瞬間、摩耶は一瞬小さな声で呟いた。
「忘れな草だ」
 それは、祐介の記憶がなくなる前に一緒に育てた、唯一の花であり、ある些細な約束をした花だった。植える時期はちょうど今ごろで、五月ごろに、花弁(はなびら)の先が五裂した小花をふさのかたちに開くのだ。花弁の色は最初淡紅色で、後にコバルト色になる。
花に全く興味のなかった祐介が、初めて興味を示した花だった。正確には、花自体よりも花言葉に興味を示したのだ。『私を忘れないで』、という花言葉に。
 祐介は忘れな草の種を見ていると、急に頭を抱え込んだ。そして、何かを小さな声で呟き始めた。摩耶は何とか聞き取ろうと、耳をそばだてた。しかし、あまりにも小さな声過ぎて、聞き取る事ができなかった。それでも、何とか聞き取ろうと、試みた。だけど、やっぱり聞き取る事ができなくて、諦めようとしたその時だった。祐介は突然大きな声をあげて、摩耶のほうに振り向いた。
「思い出した」
 摩耶が「何を?」と聞こうとした、その時だった。
突然、けたたましいクラクションの音があたりに鳴り響いた。摩耶は何事かと思い、道路側に振り向くと、そこには三年前と同じような光景が広がっていた。赤いボールを持った少女に目掛けて、乗用車が突っ込んできていたのだ。少女はあまりの恐怖からか、身動きがとれずにいた。
 摩耶は急いで店を飛び出し、少女を助けに行った。車は急ブレーキをかけていたが、とても少女の前で止まれそうな勢いではなかった。摩耶は少女を助けようと急いだ。
しかし、気が焦るばかりで、少女との距離は一向に縮まらなかった。それに、この距離だと、例え少女を救えたとしても、自分自身が車に轢かれるかもしれなかった。そしたら、祐介同様、記憶喪失や死亡する可能性だってあった。果たして、そこまでして少女を助ける義理があるのだろうか。
そう思ったときだった。突然、後ろから大きな声がした。
「走れ!絶対女の子は救える。だからもっと早く走れ!」
 後ろを振り向くと、祐介も全力で走りながら、掛け声を送っていた。そこにいたのは、紛れもなくあの日の祐介だった。自分の命も顧みずに少年を救った祐介だった。摩耶は頷くと、もっと全力で走り出した。祐介もいるのだ。少女は絶対に救うことが出切る。
摩耶は隣に、祐介が並んだのを感じた。
「同時に女の子を捕らえて、そのまま突っ切るぞ!」
「わかった!」
 摩耶は大きく頷いた。
 祐介と同時に腕を伸ばそうとした。その瞬間、摩耶は嫌な予感がした。振り向くと、車はもう目の前にあった。摩耶は世界がスローモーションで流れていくのを感じた。急ブレーキの音や地を蹴る音、脈打つ音が妙に大きく響いた。二十五年間の思い出が走馬灯のように駆け巡っていった。もう、間に合わないかもしれない。そう思いながらも、摩耶は大きく腕を伸ばした。
祐介と同時に少女を抱え、そのまま突っ切っていく。足を一歩、また一歩と大きく前に出した。
轢かれると思った次の瞬間、背中ぎりぎりを車が勢いよく通過していくのを感じた。
助かった。
摩耶はそうわかった瞬間、ゆっくりと道路わきで足を止めた。祐介と一緒に少女を下ろし、座り込んだ。息が乱れていて、上手く呼吸をする事ができなかった。それでも、心臓は大きく、バクン!バクン!と脈打っていたし、外傷はどこにもなかった。改めて助かったのだという事がわかった。これは、奇跡的なことにも近かった。
少女は最初、ピクリとも動かなかったが、助かったのだとわかった瞬間、急に大きな声で泣き始めた。運転手は車から降りると、急いでこちらに向かってきた。二十歳くらいの若いお兄さんだった。お兄さんは、全員無事だった事がわかると、「よかった」と呟きながら、その場に座り込んだ。
祐介と摩耶は同時にピースを交わした。
それからしばらくした後、摩耶と祐介はお兄さんに説教をし、女の子を無事、家まで送り届けるよう言った。お兄さんは頷くと、少女を後部座席に乗せ、ゆっくりと走り出した。
車が見えなくなった後、祐介はゆっくりと立ち上がった。
「あの花屋もう一度寄ってもいいか?忘れな草の種を買いたいから」
 祐介は花屋を指差しながら言った。
「いいよ。それ買ったら、もう帰ろう。疲れちゃった」
 摩耶がそう言うと、祐介は頷いた。
摩耶は祐介が花屋から出てくるのを確認すると、一緒に帰路に着いた。
「今日は、疲れたね。早く帰って休もう」
 祐介は頷いた。そして、しばらくしてから言った。
「昔、摩耶と約束していた事あったよな?」
 しばらくの間考え込んだが、何の事かわからなかった。
「摩耶の事……忘れないって」
 一瞬、祐介が何と言ったのかわからなかった。
「ずっと忘れていた、ごめん。やっと思い出すことができた」
「いつ、思い出したの?」
「忘れな草を見ているときに、摩耶との約束を思い出して、記憶もあらかた戻ったんだ。その時はまだ曖昧だったけど。だけど、摩耶が、あの女の子を助けに行く姿を見て、その時に記憶が完全に甦ったんだ」
 摩耶は嬉しさのあまりなかなか言葉が出てこなかった。そして、精一杯搾り出した言葉は「本当?」だった。その問いに対し、祐介は自身満々の笑顔で大きく頷いた。
「今日行った海は、初めて摩耶とデートに行ったところだ。そして、初めてのキスをしたところだ」
 摩耶は深く、ゆっくり頷いた。
 大きく手を広げ、祐介を優しく抱きしめた。久しぶりの祐介との再会だった。
「おかえりなさい」
 摩耶は涙声で言った。
「ただいま」
 祐介も涙声だった。
 結局、祐介の記憶を戻す引き金になったのは、忘れな草という、本当に些細な、些細な思い出だった。だから、ひょっとしたら、今まで摩耶が色々なところに一緒に出かけていたのは、結果として無駄な努力だったかもしれない。だけどひょっとしたら、その引き金の元になっていたかもしれなかった。
 しかし、摩耶にとって、もはやそんなことはどうでもよかった。これからは祐介と新しい思い出も、昔の思い出も共有する事ができる。思い出の数が多ければ多いほど、絆がより深まる。些細な事かもしれないけど、摩耶にとってはそれが幸せだった。だけど、これからもこの幸せを維持していくには一つだけ問題があった。
「祐介、もうあまり無茶しないでね。また、記憶喪失になったらイヤだから」
「摩耶もな」
 互いにそう言うと、くすくすと笑い始めた。
 明日からの生活が楽しみだ。
 摩耶は胸を躍らせる思いで、祐介の手を取り、ゆっくりとアパートに帰っていった。

忘れないで~思い出の共有~

忘れないで~思い出の共有~

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-11

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