最後のアダムとイブ

 街に原因不明の謎のウィルスが発生したのは、つい三週間ほど前だった。最初にこのウィルスに感染したのは堂島摩耶の家の近くに住んでいる男性だった。ニュースで見たから間違いない。それから、あっという間に人々の体に侵食していった。
初期の段階では体の先端部分に黒い斑点ができ、最後には体中、顔中にできる。そして、高熱を発して死んでいく。この間、わずか十日間くらい。そのため、最初の一週間は助けを求める人たちの声でいっぱいだったが、時が経つに連れて、街は静かになっていった。
 摩耶は変わり果てた街を散策していた。死体がそこら中に散乱していて、腐敗臭が漂っていた。つい一月くらい前まで、この街はまだ生きていたと、一体誰が想像できるだろうか。誰が見たって、もう何年も前から死に絶えていたように見えるはずだ。少なからず、摩耶にはそう見えた。
もうすぐ、この人たちの仲間入りをするのかと思うと、自然と涙が出そうになる。なにか最期にしておきたい事はないか、と考えたが、特に何も思いつかなかった。思いついたとしても、できそうにもなかった。電気もガスも水道も、政府が止めてしまった。ましてや、誰もいない。そんな状況で何ができるというのだろうか。街が生きていた頃が懐かしく感じられた。
 摩耶はふと、足を止めた。昨日の風景と何かが違う。記憶の糸を手繰り寄せながら、辺りをじっくりと見渡した。すると、あることに気が付いた。コンビニのドアが開いている。昨日、晩御飯の調達のためにこのコンビニに来た。その時、確かにドアを閉めたはずなのに、なぜかドアが開いていた。摩耶は他に生存者がいるかもしれないと思い、馳せる思いでコンビニに向かった。
中に入ると、摩耶は一瞬、目をギョッとさせた。空のお弁当箱がそこら中に散乱していた。その中心には一人の青年がいた。青年は茶髪で、獣のような目つきでコンビニ弁当に喰らいついていた。本能のままに食べている、もしくはやけ食い。人生最期の晩餐。そのどれもが、この青年にはぴったりな具合に当てはまっていた。身体はわりかし大きくてがっちりしているが、細身だ。一体この身体のどこにこんなにもたくさんのお弁当が入るのか不思議でたまらなかった。
摩耶はしばらくの間青年を見ていると、視線に気が付いたのか、青年は箸を止めた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「ゾンビ?幽霊?人間?」
 摩耶はちゃんと足が地に付いているところを見せながら言った。
「人間、だけど」
 そう言うと同時に、青年の手からお弁当が滑り落ちた。そして、歓喜の声をあげた。
 摩耶も同じように歓喜の声をあげた。まさか、再び生きている人間に会えるとは思ってもみなかった。死ぬまでずっと、一人きりかと思っていた。
「私は堂島摩耶。十八歳。あなたの名前は?」
「俺は、辻祐介。同じく十八歳。よろしく」
 摩耶は祐介の隣に座った。お弁当の棚からから揚げ弁当を取った。そして、祐介がまるで昔からの友人であったかのように、親しげに話し掛けた。
「ねぇ、祐介君はわりと元気そうだけど、ウィルスは?私はまだ腕だけ」
 摩耶は割り箸を割りながら聞いた。
「俺も腕だけ。死ぬ時期は同じくらいだな」
 その言葉を聞いて、摩耶は安心した。どちらかが先に死んでしまうというのはイヤだった。もう、独りぼっちはたくさんだった。
 摩耶は祐介とずっと話しこんだ。今食べているお弁当の話や本の話、ドラマの話、ファッションの話。内容なんてどうでも良かった。話すことで、まだ生きているんだ、という実感が湧いてくる。活力にもなる。それに、今はどんな話の内容でも楽しく感じられた。お弁当をつつきながら話せば、祐介と初めてのピクニックに出かけたような気さえしてくる。例えそれが、こんなコンビニの中ででもだ。
 気が付くと、さっきまで頭上にあった太陽は、もう西に傾きかけていた。摩耶は立ち上がると、大きく背伸びをしながら祐介に尋ねた。
「ねぇ、私の家、この近くなんだ。一緒に住まない?」
 祐介は一瞬、驚いた顔をした。
「いいのか?」
「一人より、二人のほうが安心できるからね。それに、もう、一人はイヤだから」
 祐介はニ・三度小さく頷くと、立ち上がった。そして、一緒にコンビニを出て行った。
 もう数時間もすると、摩耶の一番嫌いな時が訪れる。今までは当たり前のように点いていた明かりも、今では街灯すらも点いていない。どこまでも広がる闇の世界。毎夜、もう二度と夜が明けることはないのではないだろうか、と考えてしまう。
家に着くと、摩耶は祐介を招きいれた。まだ夕方だというのに、家の中はわりと暗かった。もう少ししたら真っ暗になるだろう。
「居間で適当にくつろいどいて」
 摩耶はそう言うと、台所に向かった。戸棚からマッチと蝋燭とスタンドを取り出した。夜になると、最近はいつもこれを使っている。懐中電灯もあるが、蝋燭の方が、情緒があっていい。
居間に行くと、祐介はテーブルの上に置いといた、家族写真を見ていた。それは、数ヶ月前に、北海道に旅行した際に撮った写真だった。写真の中には、父と母と兄、そして摩耶が写っていた。死ぬ時は、家族と一緒がいいと思って、ここに置いといた。自分だけが、誰にも看取られずに死んでいくなんて、どうしても、耐えられなかった。
祐介は、しばらくの間写真を眺めた後、言った。
「明日、どこか行かないか?」
「それって、デートの誘い?」
「まぁ、そんな感じ。摩耶といると楽しいし」
 摩耶は一瞬、どう答えようか迷ったが、すぐに答えは決まった。最期くらい、いい思い出を作ってもいいかもしれない。一人だったら、できない事はたくさんあるけど、二人ならできることはたくさんある。
 摩耶は二つ返事で答えた。
「本当はバイクで行きたいんだけど、この間壊れてしまったんだ」
 祐介は、頬を人差し指で掻きながら言った。その様子は、困っているようにも、恥ずかしがっているようにも見える。
「お兄ちゃんのバイク使ったらいいよ」
 摩耶がそう言うと、祐介は驚いた顔をした。
「いいのか?」
 摩耶は頷いた。蝋燭を三本、スタンドに置いた。マッチを擦り、蝋燭に火を灯した。
「昔ね、よくお兄ちゃんのバイクの後部席に乗せてもらっていたの。とっても速かった。私、バイクの事は良くわからないけど、お兄ちゃんの運転するバイクは好きだった。だから、もう一度くらい、お兄ちゃんのバイクに乗りたいなって、思っていたの」
 祐介は朗らかな顔をしていた。
「好きだったんだ。兄貴のこと」
 摩耶は頷いた。
あの時は楽しかったけど、今は今で楽しい。祐介と知り合う事ができたのだから。
「ごめんね。辛気臭い話をして」
「いや、俺、そう言う話好きだよ。心がなんだか暖かくなる」
 よかった、と摩耶は思った。ふつう、こんな辛気臭い話、誰も聞きたがらないだろう。
 それから、摩耶たちはまた朝までずっと色々な話に花を咲かせた。眠気なんか全く気にならないほど楽しかった。
 次第に夜がふけ、辺りが明るくなったのを確認すると、摩耶はバイクのキーを取りに行った。兄のバイクに乗るのは久しぶりだ。キーをギュッと握りしめた後、祐介に形見のキーを渡した。
「じゃあ、行くか」
 摩耶は頷いた。
 祐介はバイクを出し、キーを挿して、エンジンを吹かした。すると、勢いよく、煙とすごい爆発音が発した。どうやら、機嫌はいいみたいだ。摩耶は祐介が送ったサインを確認すると、ヘルメットを被り、祐介の後ろに乗った。祐介のお腹に手を回し、落ちないようにギュッと、思い切り抱きついた。
「事故らないでね」
「大丈夫だ」
 祐介が自身満々に答えると同時に、バイクは動き始めた。ゆっくりと動き始めたかと思うと、すぐに勢いよく走り始めた。すごい勢いで景色が移り変わっていく。さっきまで住宅街にいたかと思ったら、あっという間に商店街に着き、すぐに抜けていった。風が体全体にすごい勢いで体当たりしてくる。少しでも、腕の力を抜いたら、空高くに放り投げられそうなほど、強い風だった。流れていく風景を眺めていると、いつの間にか高速道路を走っていた。摩耶はさらにスピードが上がったのを感じた。高速道路は、このままどこまでも道が続いているのではないかと思えるほど長かった。一体、どこへ向かっているのかはわからなかったが、このままずっと走りつづけるのもいいかもしれない。それからしばらくの間、高速を走り続けていると、祐介は急にわき道にそれ始めた。はるか向こうの彼方には大きな山が聳え立って(そび)いた。
「ねえ、あの山に向かうの?」
 摩耶は大声で聞いた。
「ああ」
 祐介も大きな声で返事をした。
 摩耶は、何をしに行くのかを聞こうとしたが、あえて、何も聞かなかった。祐介には祐介の考えがあって、向かっているのだろう。
 山道はバイクや車が通れるような道だったが、あまり舗装されてはいなかった。石ころがそこら辺に散らばっていて、ぼこぼこしていた。そのため、宙に浮くたびにお尻を何度も強く打った。最初のうちは我慢していたが、次第にお尻が壊れるんじゃないかと思うほど、痛みが強くなってきた。摩耶はもう限界だと思い、祐介に抗議した。
「他に道ないの?」
「ない」
 祐介はあっさりと答えた。
「じゃあさ、歩いていこうよ。お尻が痛いよ」
「我慢しろ。もう少しだから」
 摩耶の抗議も虚しく、祐介はそのままぐいぐいバイクを走らせて行った。しばらくすると、祐介の言った通り、だんだんと頂上らしきところが見えてきた。そして、一気に視野が開けたかと思うと、そこは丘になっていた。辺りにはすぐにでも横になりたくなるような芝生が敷き詰められていた。中心には大きな立派な木が立っていた。街とは違って、ここはまだ生きている。
 祐介はバイクをその辺に止めて降りた。摩耶もそれに習って降り、お尻を擦った。摩耶は祐介に非難の声を浴びせようと振り向いた瞬間、祐介は咳き込み始めた。摩耶は慌てて祐介の背中を擦った。
「大丈夫?」
 祐介は首を縦に振ったが、とても大丈夫そうではない。手には真っ赤な血がこびりついていた。摩耶は一瞬、祐介のほうが先に死ぬんじゃないだろうか、と直感した。祐介は、ポケットからティッシュを取り出し、手を拭った。そして、笑顔で言った。
「横になろう。ここから眺める空は最高なんだ」
 摩耶は頷いたが、祐介の事が心配だった。本当はどこまで進行しているのか訊きたかったが、どうしても訊くことができなかった。聞いたら最後、祐介はそのままいなくなってしまうんじゃないか、と思ってしまう。
 摩耶と祐介は一緒に横になり、空を仰いだ。空は驚くほど青かった。所々にある雲は様々な形をしていて、ゆっくり流れていた。息を吸えば、緑豊かな匂いが、体の隅々にまで行き渡った。祐介の言った通り、ここから眺める空は最高だった。空をこうやって、じっくりと眺めるのは本当に久しぶりだった。最近は、いつも迫りくる死に怯えていて、あまり空を眺めていなかった。それに、家から眺める空とは全然違って見える。なんだか空が掴めるんじゃないか、と思えてくる。
 次第に、太陽は少しずつ西に沈み、辺りを落ち葉色に染め始めた。そのまま夕日はゆっくりと沈んでいき、お月様とバトンタッチした。周りにはたくさんの星が散りばめられている。それはまるで、ジュエルボックスから零れ落ちた、宝石のように輝いていた。
 摩耶はずっと星を眺めていると、祐介は突然口を開いた。
「謝らないといけないことがあるんだ」
 摩耶は黙っていた。できれば聞きたくない。だけど、そんなことは言えなかった。
「本当は、ウィルスはもっと深くまで進行している。腕だけじゃない。体にまで進行している。気付いていたかもしれないけど」
 摩耶はしばらくの間黙っていた後、訊いた。
「どうして、ウソついたの?」
「摩耶が寂しそうな顔をしていたから、つい、ウソをついた。ごめん」
 もし、逆の立場なら摩耶もそう言っていたかもしれない。そう思うと何も言えなかった。
摩耶は覆い被さるようにして、祐介の瞳を覗き込んだ。祐介の瞳は、どこか遠いところを見ているような瞳だった。空よりももっと、もっと遠いどこかを。それはまるで、過去を懐かしんでいるような目にも見えた。
その時だった。祐介の目から涙が頬を伝って零れ落ちた。摩耶はなんだか見てはいけないものを見たような気がした。目を逸らし、祐介の横に寝た。それからしばらくすると、祐介は淡々と語り始めた。
「俺の夢は、イラストレーターになることだった。それ以外に夢は何もなかった。それ以外に幸せはないと思っていた。だけど、それは違っていた。幸せはいつもの日常の中にこそあった。そのことに、今気付いた」
「私も、こんな身体になってから気が付いた。皮肉なものだね」
 祐介は頷いた。
 なんでもない日常を生きていける。それはどんな事より幸せな事だ。夢や欲望が満たされるよりも、だ。それなのに、人はそれらが満たされる事でしか、幸せを感じる事ができない。
「ねぇ、祐介。今からでも遅くないよ。最期の幸せを掴もう。元気な人に負けないくらい精一杯生きよう」
 摩耶は祐介のほうに顔を向けていった。祐介は頷くと立ち上がった。そして、笑顔で言った。そこにはもう、涙はなかった。
「俺、摩耶のこと気に入った。もし、来世があるなら、また会おう」
「それは、なかなか難しい注文だね。だけど、ロマンがあっていい。また会おう」
 摩耶はゆっくりと立ち上がりながら言った。
 摩耶と祐介はバイクに乗り、街に戻った。
 この街に残された最後のアダムとイブ。幸せになるリンゴを食べようとしたせいで、楽園から追放され、地獄に突き落とされた。だけど、最後の最後まで幸せに生きようと固い結束を交わした。

最後のアダムとイブ

最後のアダムとイブ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-11

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