未来へ

 小池恵は木下健一が教育実習生として、教室に入ってきたとき、心臓が飛び出そうになった。今年も、教育実習生が来るのはわかっていたが、まさか健一だとは思わなかった。彼とは実に三年ぶりの再会だった。
健一は昔、姉の小池春奈と付き合っていた。春奈姉さんはよく、大学を卒業したら同棲して、後に結婚するんだ、と嬉しそうに話していた。恵はそれを笑顔で聞いていたし、応援するね、とも言った。だけど、本当はとても憎らしかった。応援なんかしたくなかった。健一はいつも笑顔で優しかった。家に遊びに来たときには、たまに勉強も教えてくれたし、おもしろい話もたくさんしてくれた。恵はこんなお兄さんがいたらいいな、と思うと同時に、こういう男性……いや、健一と付き合いたいと思った。
だけど、恵には春奈姉さんの恋人を奪う気にはどうしてもなれなかった。二人はとても素敵だったし、いつか、自分もこんな風になりたいと思っていたからだった。そう思っていたのに、ある日突然、彼女は交通事故で他界してしまった。信号を無視して走ってきた車に轢かれてしまったのだ。恵はあまりにも突然の事すぎて、涙が出てこなかった。悲しいはずなのに、どうしても泣く事ができなかった。ひょっとしたら、今すぐにでも、春奈姉さんはベッドから起き上がるんじゃないだろうか、とさえ思えた。だけど、やっぱり彼女は二度と起き上がることはなかった。
 健一とは春奈姉さんの葬式以来、二度と会う事はなくなった。だけど、彼女のお墓にはよく行っていることだけはすぐにわかった。いつも誰かが新しい花を添えていたのだ。それが健一なのだということは、言うまでもなくわかったし、春奈姉さんのことを本当に愛していたのだと、心の底から理解した。
 恵は教壇の上に立っている、健一を見ていると、彼もこちらの存在に気付いたらしく、目を大きく見開いていた。だけど、すぐに、彼は視線をはずした。恵は、思わず駆け出してしまいそうになったが、ぐっと堪えた。
 健一は自己紹介を済ませた後、授業を始めた。恵は授業に集中しようと思ったが、全く頭の中に入ってこなかった。入ってくるものは、彼の顔や、動作ばかりだった。
 授業がすべて終了し、ホームルームが終わると、恵はしばらくしてから小会議室に向かった。昔から教育実習生にはこの部屋があてがわれているのだ。ドアを叩き、中に入ると、健一は静かに窓の向こうに沈んでいく、真っ赤な夕日を眺めていた。机は長方形に並べられていて、左端に腰掛けている。その様はまるで、恵がここに来る事を見透かしていたようにも見えた。健一は恵の方に顔を向けると、優しい笑みを浮かべた。その顔は、三年前まで春奈姉さんと付き合っていた彼の顔そのものだった。
「恵ちゃん。久しぶり」
「久しぶり」
 恵も軽く挨拶を交わすと、健一の隣の席に腰掛けた。
「今日は驚いたよ。まさか、恵ちゃんが僕の母校に通っているなんて」
「私も驚いたわ。それに、健一の姿を見た時、思わず健一って叫びそうになったもの」
「僕も叫びそうになった」
 二人はくすくすと笑った。
「それにしても、教師になろうとしていたなんて意外だわ。てっきり、普通にどこかに就職するものだと思っていたんだもの」
 健一は急に黙り込んでしまった。
 恵は一瞬、何か触れてはいけないものに触れてしまったような気がした。
それからしばらくの間、彼は一向に口を開こうとはせず、黙りこくっていた。ただ、時間だけが過ぎていく。恵はどうしたらいいのかわからず、ずっと黙っていた。
しばらくすると、健一は小さく息をつき、一言だけ言った。
「教師になるのは、春奈の夢だったんだ」
「えっ?」
 恵は健一のその言葉に驚いた。
「春奈はいつも言っていたよ。教師として生きていくんだって」
春奈姉さんの夢は、健一と結婚することだと思っていた。誰だって、あの嬉しそうに話す顔を見れば、そう思うに違いなかった。
そのことを話すと、健一は笑って言った。
「結婚もしたいって、言っていたよ。ほんと、欲張りなやつだった」
 そう言った後、健一は懐かしそうな笑みを浮かべた。そして、しばらくしてから、ゆっくりと今までの思い出を大事に紡ぎ取るかのようにして言った。
「だけど、僕はそんなあいつが好きだった」
その瞬間、恵はなぜか胸苦しさを覚えた。それは、健一の事を諦めた日以来のことだった。あの日から、恵は健一のことは必要以上に考えないようになったし、一つの思い出として、胸の中にしまっておいた。だけど、それが今、思い出ではなくなろうとしていた。
「どうしたんだ?顔が真っ赤だぞ?」
 健一は恵の顔を覗き込むようにして言った。
「なんでもないわ」
 ゆっくりと首を横に振りながら言った。
「ねえ、健一はまだ、春奈姉さんのことを愛しているの?」
 健一は突然の質問に、一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「どうだろう、わからないな。確かに僕は、春奈が他界した時、しばらくの間、何も手をつけられないくらいに、生きる希望を失った。だけど、時が経つにつれて、悲しみが少しずつ、薄れていくのがわかった」
 健一は一瞬、外の風景を眺めた。そして、そのまま話を続けた。
「ショックだったよ。あんなにも彼女の事を愛していたのに、このまま忘れていってしまうという事が。だから、僕は彼女の夢だった、教師になる夢を実現してやろうと思った。彼女がこの世に確かに存在していた、という事だけでも忘れないために」
 健一はうっすらと目を閉じ、天井を仰いだ。恵は健一をじっと見つめていた。今、彼は暗闇の中で一体何を見ているのだろうか。もし、それが春奈姉さんとのことを思い出しているのだとしたら、あまりにもかわいそうすぎる。
 恵は意を決すると、健一に気付かれないようにして、席を立った。そして、彼の頬を優しく包み込み、自分の唇を彼のそれに重ねた。健一は一瞬驚いたのか、目を開けた。しかし、すぐにまた目を閉じた。恵はそれを確認すると、目を閉じて、唇に神経の全てを集中させた。健一の唇からは、レモンのような味はせず、悲しい味がした。だけど、とても温かかった。
 恵は健一から唇を離すと、彼の顔を見つめた。彼は先ほどのような驚いた顔をしておらず、平静な顔をしていた。健一はなぜキスをしたのか、訊いてこなかった。ただ、恵が話すのを待っているように見えた。恵は椅子に腰掛け、軽く息を吸って、言った。
「知ってた?私、春奈姉さんと健一が付き合っているときから、ずっとあなたの事が好きだったのよ」
 健一はきっと驚くだろうと思ったが、予想に反して、彼は眉をぴくりとも動かさなかった。それは逆に恵を驚かせた。
「僕も、春奈も薄々気付いていた」
 健一はとても言いにくそうにして言った。
 その言葉を聞いた瞬間、恵は言葉も忘れるくらいに驚いた。今までずっと、二人に悟られないようにと、ひたむきに隠してきた。そして、それは二人には気付かれずにすんだと、思っていたのだ。だけど、それはとんだお門違いだった。それどころか、彼らも気付かれないよう、恵と接してきていたのだ。それがわかった今、何だか自分が惨めに思えてきた。
 しかし、それが逆に恵を吹っ切らせた。心の中にあったわだかまりが、氷のように溶けていった。そして、気が付くと、勝手に口が動いていた。
「だったら、お願い。春奈姉さんの事は忘れて、私だけを見て」
 自分でも、ずいぶん勝手なことを言っているな、と思った。だけど、例え、健一に何と言われたとしても、自分の気持ちだけははっきりと言いたかった。
恵は、しっかりと健一の目を見ながら、返事を待った。すると、彼は小さな声で言った。
「やっぱり、姉妹だな。あいつも僕に告白する時、いきなりキスしてきたよ」
 それは恵にとって全く予想していない、答えだった。ひょっとしたら、はぐらかされるのではないかと思った。
「もし、恵ちゃんが春奈だったとしたら、僕にどうして欲しいと思う?」
 健一は恵の目をしっかりと見つめながら訊いた。恵は少し戸惑ったが、右人差し指を口元にやって、ゆっくりと考えることにした。だけど、どれだけ考えてみても、ある一つの解答しか見つからなかった。それは、なんだかありきたりな台詞のように思えたけれど、誰だって、好きな人のためならこう答えると思う。
「いつまでも過去に縛られていないで、一歩でもいいから未来へ進んで欲しい」
恵は春奈姉さんの顔を思い浮かべながら答えた。
「春奈もきっと、そう言っていただろうな」
 健一は恵から視線をはずしながら言った。そして、ゆっくりと立ち上がり、窓ガラスの方へとゆっくりと歩いていった。さっきまで、真っ赤な夕日が辺りを照らしていていたのに、いつの間にか辺りは暗くなっていた。健一は窓ガラスを空けると、部屋の中に生暖かい風が入ってきた。恵も立ち上がると、健一の隣に立った。彼は首を上に反らして、空を眺めていた。恵も同じように空を眺めると、丸い月が浮かんでいた。
恵はただ、無心になって月を見ていると、健一は小さな声で言った。
「しばらくの間、時間をくれないだろうか?」
「えっ?」
 恵は、健一に視線を向けた。
「気持ちを整理したいんだ。今までの事やこれからの事を」
 健一は窓を閉めながら言った。
「わかった。それまで、待っているわ」
 恵は少しの間考えてから、背中を向けながら言った。
「ありがとう」
 恵はその言葉を背中で受け止めたまま、鞄を持って小会議室を後にした。
それから、恵は健一の気持ちが整理するまでずっと待ち続ける事にした。一年でも二年でも待ち続ける覚悟はあった。人の心が整理されるには、それ位時間は必要だと思っているからだ。だけど、健一は意外にもすぐに答えを持ってきた。それは、教育実習も終わりに近づいてきたある日の事だった。
健一は小会議室で恵に会うなり、いきなりこう言った。
「来週の日曜日、ドライブに行かないか?」
 健一は恵の目をしっかりと見つめていた。その目は、この間までとは違って、過去を見てはいなかった。だけど、恵にはわかっていた。彼の心の中には、まだ春奈姉さんが住んでいるという事が。そして、彼女はこれから先、永遠に居なくなる事がないと。なぜなら、恵の中にも春奈姉さんが、これからもずっと住んでいるからだった。だから、もはやそんなことはどうでもよかった。
「どこへ連れて行ってくれるの?」
 恵は、健一に見せる、初めての満面の笑顔で訊いたのだった。

未来へ

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更新日
登録日
2017-12-11

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