僕は文豪じゃない。

初めまして、お読み頂きありがとうございます。
本作品は、"僕と先輩"の短編集となっています。
どうぞ、楽しんで頂けたら幸いです。

「月が綺麗ですね」

「ねぇねぇ」

 もうすぐ下校時間を迎えようかという放課後。二人きりの狭い部室で、彼女は不意にそう話しかけてきた。

「何ですか?」
「夏目漱石ってさ、"I love you."を"月が綺麗ですね"って訳したそうじゃん」

 にまにまと音がしそうな彼女の笑顔は、何やら企んでいる様にも見えた。まずい、こういう時の彼女は頗る面倒臭い。

「それが何か?」
「うん。だから、さ。君だったらどう訳す?」

 挑戦的な視線が、僕を捉えて逃がさない。曖昧な答えは許さないぞ、とその瞳は語っていた。
 そうだ、これは彼女からの挑戦状なのだ。この部活の長として、新入部員の僕を試しているのだ。

 ──なんて、そう思っていた時期も確かにあった。

「普通に、"愛してるよ"…じゃあ、駄目なんですよね?」
「いやぁ?君が本当にそう口説くなら、それでも良いんじゃない?」

 肩を竦め、欧米人の様に両手を左右に挙げると、彼女は面白そうに頬杖を付いた。現に楽しんでいるのだ、この人は。常日頃、他人を小馬鹿にしながら息をしている、そういう人間なのだ。

「でも、そんなんじゃあ文芸部員として及第点は挙げられないなぁ」
「…解りました、真剣に考えますよ」

 キーボードから手を離し、僕は背中を背凭れへ押し付けた。"I love you."。歯が浮く様な台詞だ。これ程僕から縁遠く、これから先も関わりあいにならなそうな言葉も無いだろう。

「君は、人を好きになった事が無いの?」
「無いですね」
「うわぁ、本当に冷めてるね、君は」

 それは致命的だよ、と彼女は椅子ごとくるくる回った。

「愛でも何でもいい。他に興味を持つ事は、創造の上で大いに役に立つ。君が創るモノは、すなわち君自身の写し身でもあるからね」

 回る身体を追うようにして、彼女の肩ほどで切り揃えられた黒髪が弧を描く。対して、彼女は天井、そのどこか一点だけを見つめていた。

「…だとしたら。作品が自分自身の投影であるとしたら、それこそ他人は関係無いんじゃ?」
「違うね、君一人にそんな魅力ある訳が無いじゃないか。自惚れるのが早いぞ、新人君」

 次第に遅くなる彼女の動きに、こっちが目が回りそうになる。気分が沈んでいくのは、きっとそのせいに違いない。

「皆、誰かの模範だよ。真似ているんだ、息の吐き方すらも」

 生まれながらの天才じゃなければね、と彼女は付け足す。丁度、こちらを真正面に捉えるタイミングで椅子は回転を止め、僕と彼女の目が重なった。

「この際、はっきり言おう。君は文豪じゃない。天才でも無ければ、経験も無い。故に、君はあらゆるモノを取り込んでいかなければならない。取り込んで、魅力的な君を創っていかなければならないんだよ」

 夕陽が彼女を包み、その表情は影となって窺う事が出来ない。暫くの沈黙と、それを際立てる運動部の掛け声が、やけに長く感じた。

「…そんな難しい事言ってるから、新入部員が次々と辞めちゃうんですよ」
「失礼な、面と向かって会話してるのは君だけだよ」

 それはそれで部長としては失格だと思うのだが、それは言わないでおいた。

「で、話が大分脱線していたね。ほら、君はなんて口説くんだ?」
「あー…」

 目を逸らし、、泳がしてみても良い案は浮かばない。今の僕にはまだ、"I love you."は"愛してる"なのだ。
 早く、と急かす声に益々思考は空回りして、結局出した答えは。

「えー、と…保留で」
「却下」


 あまりに陳腐で、まるで僕みたいだった。

僕は文豪じゃない。

お読み頂きありがとうございました。
いかがでしたでしょうか?
不定期ではありますが、次回もお読み頂けたら、尚幸いです。

僕は文豪じゃない。

僕の部活には面倒くさい先輩がいる。 これは、その先輩と僕の雑談記録だ。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-10

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