それ以来知らない
安田という奴がいた。小、中学校と9年もの間、同じクラスだった。それでいて一度も話したことはない。というのも、安田がいじめられていたからだ。
安田は馬鹿だった。そう誰もが断言出来るほど、極端に勉強ができない。何もせずとも七割は取れそうな小学校のテストでは常に一桁を守っていた。ある意味、才能ではないだろうか。そして中学生になっても、自分の名前を漢字で書けなかった。狙っているのかと疑わざるを得ない。
運動も上に同じだ。身体能力云々はいわずもがな、普段の動作からしてなにかがおかしい。他人とは関節や骨組みからして造りが違うのだろうか。常々不思議に思う。かといって、身体に障害をもっている訳ではないらしいのだが、どうしてこれほどまでに周囲と差があるのか。皆が皆、疑問に思っていた事だろう。
安田いじりは修学旅行を以てして激化した。〈貧乏人〉というレッテルが追加された為だ。一人だけ、修学旅行に来なかったのである。怪我でもない病気でもない、家庭の〈やむを得ない事情〉のせいだ。以前から臭いだの、常に同じ服だのと言われてきたが、ここにきて裏付けられた。
そうした理由から、可哀想なことに安田に友達はいない。近寄るだけでその人までも冷やかされるのではどうしようもない。教室では常に孤立していながら、それでも学校を休むことはなかった。
直接的に安田をいじめていたのは数人である。それも暴力ではなく、からかいなどの静かなもの。他は、関わるまいと知らぬ振りだ。安田なんてここにはいない、といった様相。私もその中の一人であるが、興味はあった。安田とは、一体どういう人物なのか。理由はわからないのだが、妙に気になってしまうのである。しかし、話しかけることは、自殺するも同じだ。
結局、自分は何事も無く卒業式を迎えた。これで安田と関わる機会はなくなる。そう思った。それは春先すぐに覆った。
まだ慣れない高校への道のりの、その途中で立ち寄ったコンビニ。「いらっしゃいませー」なんて響いた明るい声の持ち主がまさかあの安田であるなんぞ、気が付くはずもない。
レジに立ったときだ。あ、と間の抜けた声が出て、次に後悔が押し寄せる。安田は顔色を変えて俯いていた。お互いに気付いている。話しかけなければ気まずい空気か。悩んだ末に、問いかける。
「…バイト?」
見ればわかる。我ながら、馬鹿馬鹿しい。返事は返らない。無視されたまま立ち去るのは、なんだか悔しい。
「大変だね。高校は?」
これまた馬鹿馬鹿しい質問だ。ただ、返事くらいくれても良いのではないだろうか。安田は俯いたまま、黙り込んでいる。さながら、蛇に睨まれたなんとやら、である。こちらは敵意を向けているつもりはないのに。
レジ打ちを終えても、安田は何も言わなかった。画面に出ている金額を自分で確認するしかない。後ろに客が立ったのを見て、小銭を探す手が焦る。もう、安田に返答を期待してはいけないと、目も合わさずに店を後にした。今後も安田とは顔を合わせても、話をすることは不可能なのだろう。大股歩きで高校へ向かった。
数日後に、ふらりと再びあのコンビニに寄ってしまう。この前とは時間帯が違うと思い、油断した。その日もレジには安田が立っていた。しかし私には関係ない。既にただの客と、店員である。目を上げず、知らぬ振りを決め込めばいいのだ。そこに安田なんていない。コンビニの店員がいるだけだ。
「高校、行ってない。」
突然、聞こえた。ただの店員が、何を言い出すのか。私の他に客はいなかった。安田と私の間に、とんでも無いほど遠い時差が生じているらしい。買う気もないのに手にとって見ていたガムを、渋々レジまで持っていく。
「初めてだね、話すの。」
私が無意識に返した言葉を、安田はおでこで受け取った。この間と同じだ。長い沈黙の時間が勿体なくて、すぐさま代金を取り出す。
「話したくなかった。」
さて、空耳だろうか。確かに今、負の言葉を浴びせられた気がする。私は財布から目が離せなかった。早く、お釣りを返して欲しい。
唐突に、安田のあの明るい声が響いた。客が来たらしい。遂に耐えられず、私は足早に店を後にした。
お釣りと共に頂いた、最後の言葉が耳に張り付いて離れなかった。
「あなたが一番嫌い。」
確かに、あの安田がそう言った。
私は、嫌われたことがない。もちろん人の本心なんぞは知った事ではないが、誰かに煙たがられていたという記憶はない。友達も比較的に多い方だったと思う。私たちは常に平和だった。それは、安田という存在がいたからなのかもしれない。教室の黒ずんだ空気を、全て安田が吸い込んでいたのかもしれない。いつも隅っこで、教室の汚れを処理していた安田は、自分とはまるで正反対の存在のように思えた。
私は、安田に興味を持っていたのではない。ただ、好奇の目で見ていたのだ。テレビドラマを見ているかのように、楽しんでいた。安田はそれを知っていたのだろうか。自分自身が気付いていなかった事を、あの馬鹿な安田が見抜いていたのだろうか。それが、直接的に痛めつけるよりも質が悪いとでも言いたいのだろうか。
私は、おそらく「みんなに好かれている」自分が誰よりも大好きだった。そして初めて私のことを嫌った人間が、憎くて憎くてしかたがなかった。
それ以来知らない
高校当時、何を思ってこの話を書いたかは知らんが、語り手がより嫌いな人間に仕上がるよう力を注いでいたような気がする。