*星空文庫

優秀な先輩

野崎くるす 作

 青年は頭を抱えた。入社三日目で右も左もわからずに、親しくできる友人も上司もいない。
 これはどうしたらいいのだろう、パソコンのキーボードを叩きながら考える。なにがわからないのかもわからない。
「よう、新人。どうだい、調子は?」
 青年の丸まった背中を叩くのは、余裕の笑みを浮かべた中年男だった。
「あ、おはようございます」
 青年は顔を上げ会釈をした。中年男からは香水だろうか、それとも整髪料だろうか、甘い香りが漂ってくる。
「大変そうだな」
「はい、もうなにがなんだか」
「うちには慣れそうかい?」
「あ、その、がんばります」
 この不況だ。せっかく大学を出ても職にありつけないという人も多い。それに比べたら、この程度はどうってことはない。
 中年男は青年の机に寄りかかり、手にしたカップに口をつけた。その仕種が、身にまとった仕立てのいいスーツに似合っていた。
「あの、これはどうしたらいいのでしょう?」
「ん?」
 青年がパソコンを指差すと、中年男はそこに並んだ小さな数字に視線をやった。
「ああ、これね、これは……」
 中年男はすっきりとした顎をなぞる。そこには大人の余裕のようなものがみなぎっている。
 青年が中年男の言葉を待っていると、隣の席の女が「それならこうすればいいのよ」と割って入った。
「あ、これでいいんですか……?」
「そうそう、それでいいのよ」
 女は小さく頷くと、くるりと椅子を回し、忙しなくキーボードを叩く作業へと戻っていった。
 中年男はふむと頷き、「まあ、がんばれ。こういうのは慣れたもんがちだから」といい残し去っていった。
「あ、ありがとうございます」
 青年は女に礼を述べた。青年とほとんど年齢の変わらない女は、まるでロボットのように作業をこなしてゆく。その凛とした横顔に、青年は淡い恋心を抱いていた。
「別にいいわよ。あの人のいう通り、こんなのは慣れたもんがちだから」
 女には愛想がなく、そっけない。けれど青年が困っていると、いつもなにかしらの助言をくれる。
 自分もいずれは彼女のようになれるのだろうか。青年はそんな自分の姿を妄想した。
「ま、あの人のことはあてにしないことね」
 女はずいぶんとひどいことをいう。それも自分の倍ほども生きている人に向かってだ。
 青年はなにもいえず、ただその先を待つことしかできない。案外に女の性格は荒いのかもしれない。
「あの人、ああ見えて、あなたの二日前にきた人だから。仕事なんてこれっぽちも知らないのよ。前の仕事は芸能事務所のスカウトマンだったとかいう話だけど、それだって本当かどうかも怪しいところよ」
 女は手をとめカップを手に取り、色の薄い唇を縁につける。とくんと喉仏が上下する。
 やはり青年はなにもいえない。女は「仕事を覚える気もないみたい。それでも態度だけはあんな感じ」といい、初めて青年に笑顔を見せた。
「ま、芸能関係にいたっていうのは本当かもね」
 女は伸びをし、湯気の立ちのぼるカップを手にした。コーヒーのいい香りが、青年の鼻腔をくすぐった。
 女の「あの軽薄さなんて、一朝一夕には無理だろうから」という言葉がオフィスに溶け込んでいった。
 振り返れば、ロマン・スグレーの姿が見えた。青年と同じ日に入社した同僚と話していた。

「よう、新人。どうだい、調子は?」

 中年男の余裕に満ちた言葉が聞こえてきた。
 女は姿勢よく、コーヒーを啜った。

「ま、こんなんは慣れたもんがちよ」

 青年はその言葉だけを反芻し、自分もすぐに慣れなければと考える。ああなってしまってはいけない、と戒めながら。

『優秀な先輩』

『優秀な先輩』 野崎くるす 作

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-12-07
Copyrighted

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