成上がり信州転勤編

1年ちょいで、新潟から長野県への転勤。苦戦していた大学病院の立て直し、その後、バブル、仕事、プライベートで巻き起こる、多くのエピソードをまじえて、家を買ったり、営業所を新設したり、PTA会長になったり、日本のカルテの電子化の実験の仕事を手伝ったり、いろんなエピソード盛りだくさんのエピソードです。(カクヨム、小説家になろう、にも、載せています。)

第1話:信州、松本への転勤

 担当交代の方法について、具体的な検討をした。その結果、県境に
近い十日町市で、夕方の仕事を終えて、その日のうちに、長野県飯山市
へ入り、宿泊する事にした。翌日の朝、長野経由で松本へ、移動して
担当交代をする事にした。まだ若いからできる事で、なかなか仕事
を終えての移動で、強行軍である。四月初旬に、担当交代が始まり、
走行距離一万キロを超える月が増えてきた。話は変わるが、
5月の中旬になり、飯山で地元特産の根曲がり竹の季節になって、
よく行く居酒屋で、サバ缶と根曲がり竹の味噌汁味噌炒め甘辛煮が
出された。その中でも一番旨かったのは素焼きした根曲がり竹に、
信州味噌につけたものだった。トウモロコシの様に甘く、
えぐみがなく、しゃきっとした歯ごたえで最高に旨かった。

 信州でも、北信地方の、この地域だけしか、取れないようだった。
長野県は、一年先輩の南信担当の吉川君と、同期の北信地区担当
の清水君と、私の三人である。長野県での担当地区は松本市を
中心に上田、佐久と山間部を担当する事になった。

 最初、長野の冬は新潟に似ており安心した。
しかし、いくつか違う点もあった。新潟では、地下水をくみ上げて
、融雪パイプを通して流していたが、長野では、それは見られなかった。
 ファミレスや郊外レストランは、長野の方が多い気がした。
もちろん旨いそば屋が多かった。リンゴをはじめ、ぶどう、もも、
なし、など、果物がおいしかった。
 それに、高原や湖、観光地も多く、温泉も非常に良かった。
 
 また仕事面で、新潟と違う点は、よそ者に対して厳しい気した。
 それは、その後仕事をする上で、非常にやっかいな問題として、
のしかかってくる事になるのだった。考えてみると、新潟は長い間、
上杉家が治めており、戦も新潟県内では少なかった様だ。その為か
人を信用してくれる、やさしい気風があったように思える。

 対して長野県は川中島の戦いで御存知の通り越後の上杉と甲斐
の武田の激しい闘いが続き、よそ者を信用しない気質に、なった様だ。
うかつに、信用して、裏切られた歴史があるのではないかと推測する。

言い訳の様に、聞こえるかもしれないが、市場開拓に時間がかかる原因
の様に思えてしかたがない。また長野から、大学病院のある松本に、
移動する時に、感じた事ですが、筑北村から明科トンネル当たりで、
日本海側の気候から太平洋側の気候に変わる様な気がする。

それというのは冬場、長野方面から明科を過ぎると、寒いけれど
 雪が少なくなる。トンネルを過ぎると、そこは、雪国であった、
あの情景に似ているのである。

第2:松本の借家とバブル

 転勤のため松本での借家捜しを始めたが、なかなか大きい家が
見つからず困っていた。 三DK以上で倉庫があって,中信大学から
近い物件を希望していた。ここでは、二DKマンション迄の物件が、
多いとの事だった。弊社担当の不動産屋さんに、良い物件があれば
電話してくれる様に手配した。

 数日後、電話があり、酒屋さん息子さんの家で、息子さんが
マンションに移るので、貸家にしてもいいと言ってきたとの事だった。
  二階建て五LDK、築二十五年、屋内ガレージつきで家賃が、
月に十万円。今日午後三時に、その借家を見に行く事になった。

 そこへ着くと中信大学病院まで、徒歩十~十五分と理想的な場所で
家の大きさも十分である。翌日大家さんと面会して、挨拶し、
会社契約で、屋外の駐車場込みで月、十一万円で借りる契約を結んだ。

引越は一ヶ月後と言う事で決まった。ただ、ダイニングキッチンが北側で
、寒いのが難点だった。その他は問題なしだった。五月初め、八トン車一台
で引っ越してきた。家族はパジェロで、近くの温泉宿に泊まり、 
翌日、私と女房で荷物の搬入の指示をした。
 一日がかりで、家財の搬入が終わった。
 大型のファンヒーターを一台、買い込み、家へ持ってきたもらった。
大家さんが来てくれ、家の風呂トイレ、その他の使い方を教えてくれた。

 翌朝は、冷え込んで、朝起きてダイニングキッチンで、料理をはじめた
奥さんが、寒い寒いの連発だった。ファンヒーターをそばに、置いても、
足だけ熱いが、上半身が寒いと、厚手のセーターを着て、何とか、
寒さをしのぐ事ができた。昨晩も寒く、
 特に早朝は、新潟より確実に、寒い気がする。
 そこで翌日から、ファンヒーターを二台、女房の左右においてつける
ことにした。これで、やっと早く部屋全体が、暖まる様になった。

 しかし十二畳ほどの、ダイニングキッチンに、冬場は全員集合という
事に、なりそうだった。そこで、テレビも、ここに移動した。広い5LDKの
借家を借りた意味がない。寝室とダイニングキッチンで、ほとんど過ごす事に
なりそうだ。引越が完了して、小学校と、幼稚園の手配を終えた。

 家の近くの生活環境について、休日に、車で調べ回る事した。
 買い物であるが、信州ジャスコが、車で十分の所にあり一応、
 必要なものは手に入る。その他、近くの人にも聞くと、大黒屋という
、古くからの地元の大きな商店が、良いよと教えてくれた。
 野菜、果物、肉が、新鮮で近所では、定評がある事がわかった。
 近くの旅館でも、生鮮食料品は、ここで仕入れている位だった。
 実際にいってみると、車で十分弱。八百屋と肉屋は品数、量とも、
申し分なかった。早速手に入れて、料理をしてみたが、新鮮で、
品質も十分であり、今後も、ここに買いに行く事に決めた。

 寿司屋は、女鳥羽川の近くの、N寿司が評判が良く、食べに
行ったが、十分旨い。また女将と旦那の板長の物腰も柔らかで、
接待でも使えるので、利用することにした。
 中華は、南松本の四川乃華が、評判が良いので行って食べてみた。
 麻婆豆腐、エビの辛子炒め、担々麺も十分おいしかった。
 後で聞いた話だが、この店の板長が、日本の四川料理の父
「陳建民、TVで有名な、陳建一の実の父」の孫弟子だった様で、
それで、四川という名を、店の看板に使えたようだった。
 味は十分満足できるので、もちろん仕事でも使える。
 うまい、そば屋は、市内にいくつもあり、十分、恵まれていた。
 この頃は、日本のバブルの時期であり、証券会社のワリコー、
ワリチョーとか、また生命保険会社では一時払い養老保険とかが
有名だった。北島も、その好景気に乗り遅れまいとしたが、
北島家の預金は、株や土地に手を出せる程はない。
 全財産でも、やっと二千万円の大台を超えた程度だった。
 しかし勉強をかねて、時間のある時に、証券会社や生命保険会社で
、説明を聞いた。そこで、ある生命保険会社で、うちで任せてくれれば
、あなたに一番良い方法を考えるといわれ、その気になったのである。
 その営業マンの話によると、一時払い養老保険をかけて、五年超で
解約すると、節税になるので、その方法が良いと教えてくれた。
 具体的には、あなたの家族五人分と、両親二人分の、合計七人分の
口座を作り一口、百五十万円づつ、一時払い養老保険を掛けて欲しい
と言われた。それを五年超えた時点で、解約し支払いを受けのです。
 その後すぐ、再度、同じ契約をするんですと教えてくれた。
 そうする事により、十年で約二倍位になるでしょうと言われた。
 言われた様に、手続をして、この作戦を開始をした。
 これが見事に的中したのだった。

第3話:英会話教室での出来事

 春に松本に来て一年が過ぎて、やっと慣れた頃、中信大学で、
若手の君島先生が、英語で文献を書いたり、海外の学会の為に、
英語を習っているというのを小耳に挟んだ。北島も英語は好きで
小さい頃、牧師の息子と遊び回った記憶が思い出された。
 そこで、また英会話を習ってみたいと思い、駅前のGOSを
見に行った。若い人、特に女性が、多く華やかな感じだった。
 ビルも新しく景色も良かった。そのため早速、入学の資料を
もらった。その後、会社の仲間に週に一回、通う事を、打診したら、
至急の時に、連絡を取れるようにしてくれれば、良いですよと言われた。
そこで、来月から行く事した。仕事が比較的、暇な木曜日の夜、
七時から八時のコースにした。もし都合が悪い場合、その後、
三ヶ月以内に、振り替えも、可能で便利だった。

 最初に、クラスを分けのテストを受け、Aクラスに入る事に
なった。メンバーは五人で、銀行の勤めの女性(聖子さん)、
女子大生(さゆりさん)、元商社マンの(清水さん)と、
TOEIC大好き、三十代後半の主婦(牛島さん)と北島でした。
 最初は緊張して、しっかり勉強していたが、少し時間が達つと、
慣れてきたせいか、飲み会が多くなり、月一回位のペースで参加する様
にした。場所は、駅近くの料金の安い、地下の居酒屋が多かった。

 外人の先生は、特にお誘いした時に、たまに来る程度で、
お酒に弱いようだった。良く参加するのは、元商社マン(清水さん)
、女子銀行員さん(聖子さん)と私だった。新年会、忘年会、納涼会
、お花見、歓送迎会と、ほとんど毎週出かけて様になった。
 ある時の飲み会に、何と違うクラスの中信大学病院の君島先生が、
来る事になったのである。彼は、みんなに自己紹介し、会釈して、
席についた。私が彼に仕事の話は、内緒と、軽く耳打ちした。

 その店は、清水さんの知ってるスナックで、カラオケもあるし
少し踊れるスペースもあった。メンバーは女子大生以外は、全員来た。
 全員で五名、清水さんは、例によっていろんなうんちくを話ていた。
 すると牛島さんと、聖子さんは、流行歌を歌い始めた。
 最初はビールで乾杯、その後は、清水さんがウイスキー焼酎のボトルは、
キープしてあるから、飲み放題だと言ってくれた。私は清水さんに、
お礼を言って、ウイスキーを飲み始めた。

 そして仕事の関係で、今年から松本中心に、仕事するんですが、
素敵なママのいるスナックを紹介して欲しいと、話しかけた。

 彼に、業種を聞かれ、医薬品メーカーというと安っぽい所は、
だめだよね。ちょっと難しいねと言い、この店のママにでも
聞いてみたら、と言うことになった。
ママに、手が空いたら来て欲しいと伝えた。少しして、ママが来て
、ゆかりですと、挨拶してきた。さっきの話を清水さんがしてくれた。
安っぽくなくて、それでいて、同業者があまり来ない店ね。
 ちょと待ってと言い、ノートを持ってくるからと、言ってくれた。
 一番にぎやかな通りでは、同業者が多いからダメ。ちょっと離れて、
駅にも近く、タクシーも捕まる所、はるみちゃんの店が良いかもしれない
と言ってくれた。

 そして実務的な話になって、ツケ払いですかと聞かれ、現金かカード払い
というと、それならいいわと言い、早速電話してくれた。そして名刺を
渡しておいた。そんな話をしていると、君島先生が、ちゃっかりと、
聖子さんと牛島さんの席の間に、入り込んで、うれしそうに、
話し込んでるではありませんか。その後、君島先生が、イーグルスの
デスペラード、ホテル・カリフォルニア、ビートルズのレット・イットビー
、サイモントガーファンクルの曲を、立て続けに、歌いまくっていた。

 特に独身、女子銀行員の聖子さんは、その姿をうっとりと見ている
のがとてもほほえましかった。やがて、お開きになった時、ここのママが
、ちょっと待ってと言ったのである。少しすると、後は店の子に頼んだから
、紹介した店に、一緒に行こうと言う事になった。

 面白そうだから、私もついて行って良いかと清水さんが聞くので、
ええ、もちろんと答えた。タクシーで5分で、駅前と一番の繁華街の
中間の所の商店街の中に、その店、スナック中町はあった。

 ゆかりママが、今晩は、新しいお客さんを、連れてきたわよと
、私を紹介してくれた。お客さんは、一組だけで、離れた席で話する
事にした。私がジャパン製薬の北島ですと挨拶した。薬屋さんですか
と聞かれ、そうですと答えた。中信大学にも行ってるのと聞かれ、
ええと答えるとママが大学のA教授の奥さんと、お友達なのよと教えてくれた。

 A教授はテニスやゴルフがうまく、運動神経抜群なのよと、話してくれた。
 その奥さんも、テニスの国体選手だと教えてくれた。彼女も仲間で、
国体に出たとの事だった。でもママは、肘を痛めて、今は遊びで、
たまにやる程度との事だと言っていた。

 私が、実は、その科が、我が社にとって一番のお得意さんなのだ
とい言うと、それなら話は早いと、驚いていた。
 ただ中信大学病院の先生が来る事は、めったに来ないけどねと、
 笑っていた。ゆかりママが、何だそれで決まりね、
 北島さん、はるみママを宜しくね。ご贔屓にして、この店を使って
下さいねと笑っていた。はるみママは、ゆかりママに、お客さんを
紹介して本当にありがとうねと、お礼を言った。はるみママの話で、
最初、ここは競合店も少ないし、交通の便も悪くなく、人通りも多いので
、繁するかと思って店を始めたが人の流れが多い割に、お客さんが
少なかったとの事だった。
 駅前の居酒屋、スナックに流れたり、仕事の接待関係は、
会社の事務所の多い一番街の有名な店に集まって、お客さんが
少なくて、困まり果てていたとの事だった。

 この状態が、あと半年、一年したら、店をたたもうと
思っていたそうだ。それを聞いていた、清水さんが、地方の都市って
、封建的だからね、新しいエリアが、なかなか、繁盛しないんだ。

 それにしても、はるみママは、苦労したんだね。清水さんが、
私も、ここにも、今後、顔出すよと言っていた。ゆかりママは
、笑いながら、あまり、浮気しちゃ駄目よと言っていた。

 私が業績を伸ばして、この地に、営業所を設立したいと
思っているので宜しくと、はるみママに、挨拶した。
 彼女は、責任重大ね。私もできるだけ、協力するからねと。
 早速、会社名のボトルと、個人名のボトルとキープした。
 また近いうちに、会社のメンバーと一緒に飲みに来ますと告げて
、精算して帰った。その後、テニスを通じて、大学の先生と仲良くなり
、この店を何回も、使う事になるとは、想像できなかった。
人の出会いって、本当に大切なんだな。仕事は、相変わらず真面目に、やっていた。

第4話:後輩が一人増えた話

 週に二回は、中信大学病院の医局を訪問し、事務の女性に、たまに、
手土産を持参し、情報収集の活動を継続した。そこで、個々のお医者さんの
、個性、趣味、強み、弱みを、丹念に、手帳に書き込んで、一人一人に
食い込んでいく様に、活動した。

 私は昔、少しテニスをした経験があり、医局の吉田講師が、たまに
医局の若手や看護婦と、松本市内の屋内テニスコートで、テニスを
楽しんでいるという情報を得て、参加したいとを話すと、いいよとの
返事が返ってきた。ちょうど、コートを予約したり、メンバーの出欠を
取る人が、欲しいなーと思っていたので、大歓迎だと言われた。

 そこで週に一~二回、参加する様になった。そして、この夏に優秀な
後輩が、一人増員になる情報が入り、彼自身、少し楽になると感じ、
内心喜んでいた。夏に、待望の1年下の後輩の吉永君が、大阪から
赴任してきた。これで、信州南部の担当の一年先輩の吉川君と、
同期の長野担当の山下君、一年後輩の清水君の四人で全県を
担当するようになった。

 吉永君を北信地区と上田を担当してもらい、市場規模の大きい
長野市周辺を清水君に、担当してもらうことにした。
 もちろん、スナック中町のはるみママの店で、歓迎会を開いた。
 その席で、北島の方から、長野県に、数年後、営業所をもてる様に、
頑張っていこうと話し、全員で乾杯した。全員が、その意見に
賛同してくれ、はるみママも、頑張ってねと、言ってくれた。
 
 これは、あくまでも、個人的見解ですが、長野市など北信地区は
、新潟に近く、県内では、よそ者に対して比較的寛容で、商売がしやすい
と予想した。その予想通り、北信地区に、いち早く増員して、北信、
長野市内の業績が、長野全県の売上をリードしていった。

苦戦している、中信大学病院はじめ、松本、佐久を、私が、
担当する事にした。特に大学病院での、情報収集と、仲の良い先生
を一人でも多くするために、いろんなグループとつき合うようにした。

 北島がパソコンの事で個人的に急に親しくなった久光講師は北島と
同じ、NEC9801をメインに使っていた。彼は、医療にコンピューター
を利用する時代が、きっと来ると注目していた。
 北島も東京時代に、データベースというのが、患者管理に使える
と言う論文も知っており、その情報を、彼に、話すと、注目してくれ、
彼の部屋に出入りする様になった。論文のコピーを渡し、米国で有名に
なっていたデーターベースⅢの本も数冊、貸してさしあげた。

 すると彼は、それを読んで、これだ、これを利用していこうと
言う事になった。北島のデータベースⅢを使った、プログラムをみて、
すごいね。彼の、求めていたものは、これなんだよと。非常に喜んでくれた。

 医局全体でもカルテの電子化に動き出していて、その中心人物が久光講師だった。
 そして、十月に、会長を久光講師、事務局長を北島が担当する事で、
 中信大学メディカル・パソコン・クラブを設立した。
 参加ドクターは若手中心で五人で始まった。このサークルが我が社の
営業成績をグーンと伸ばしてくれる原動力になってくれるのだった

第5話:英会話のサリー先生との出会い。

 さて話は変わるが、GOS英会話教室に、十月から、新しい先生が
赴任してきた。カナダ出身のサリー先生は長身で細身の美人。
 数日後、彼女の歓迎会を近くの居酒屋で行った。活発でお酒も強く
、楽しいタイプだった。 調子にのって二次会に誘うと、ついてくる
と言うので、スナック中町へ行った。ゆかりママはびっくりして、
目を丸くして出迎えてくれた。二次会は清水さんとサリーと北島の
3人だけだった。サリーがアバが好きで何曲も歌ってくれた。

 声もきれいで上手かった。そしてかなり、打ち解けたのか
彼女の身の上話まで出てきたのである。彼女は、訳あって、
好きな男性と別れて、日本に来たという。
 もう少し詳しく聞いてみると、彼女の恋人は、185cm
100kg以上の大男で、悪い人ではないのだが、飲み過ぎると
、喧嘩をするのが、欠点だったようだった。
 ある日、地元のパブで、喧嘩をして、相手を入院するほど
、殴ってしまい、監獄送りになったとのことだった。
 これには、さすがに、びっくさせられた。

 ところがゆかりママが、その気持ちよくわかると言い出して、
意気投合してしまったのである。そして、また悩み事があったら、
北島さんに連れてきてもらってねと言った。サリーの連絡先まで、
聞いていた。また辛い事が、あれば電話していいよと言った。

 そしてゆかりママの英語が、上手なのに、驚かされた。
 何でもゆかりママが、昔、横浜で、米軍の若者と仲良くなって、
結婚を夢見たが、その彼が、米国に帰ってから、戻らなくなり、
音信不通となった苦い経験をしたと話してくれた。
 その時の辛い経験が、サリーの気持ちに共鳴したのだ。
 その後、サリーは、ゆかりママと、さしで、長々と話していた。
 サリーは、よっぽどうれしかったのか、最後は、ママーと連呼して、
泥酔してしまった。仕方なく、北島と清水さんでタクシーで、彼女を、
アパートまで送った。北島が、彼女を、肩に担いで、清水さんが、
鍵を開け、ベッドの上に下ろして、帰ってくる羽目になった。

 翌日は、体調不良と言うことで、英会話学校を休んだそうです。
 十一月、十二月になり、急に寒くなった。今年も、大晦日を迎えて、
年が明けた。松本に赴任の1年目は、今年の臨時ボーナスも60万円、
報奨金も0万円と、通常ボーナスが80万円、給料が420万円、
出張+外勤手当が70万円、合計630万円にまで減ってしまった。
 売上が落ちると、収入が減る悲哀を感じるのだった。
 ただ、悔しさと共に、来年こそ、長野県を売上を増やすぞ、
ファイトがみなぎる北島だった。

第6話:長岡の友人が遊びにきた。

 今年の新年は、近くの神社に、家族で、初詣をした。長女は、
スキーがうまくなります様にと、祈ったそうだ。
 奥さんは、北島の交通安全と、家族の安全を祈った様だ。
 北島は仕事が、うまくいくことを祈った。昨年、県内の営業担当者が
、全員、初出勤の日に、長野の善光寺で、初詣をしたが、今後、恒例行事に
する事にした。各自に、連絡し十時に、善光寺で待ち合わせ、お参りをし
、参道のそば屋で一杯飲みながら、今年の抱負を語りあった。
 若手は今年の目標達成と、特に指定した対象品の売上を伸ばしたいと
具体的だった。北島は営業成績コンクールで全国トップになって
東京支店長か営業本部長と、長野県チーム全員で上山田温泉で
芸者さんつきの派手な宴会をする事を目標にしたいと会議をしめた。
 午後2時過ぎに、お開きにして流れ解散する事となった。

 北島は、善光寺前のうまい酒まんじゅうを、お土産に帰路についた。
 そして、今年も、営業活動開始となった。その後、得意先に、新年の挨拶を
、一通り、終えた。今年も、四月が過ぎ、五月になり、女鳥羽川沿いで
花見を楽しんだ。突然、運転中にポケベルがなった。あわてて、ひと目に
つきにくい場所の、公衆電話から指定の電話番号にかけた。

 すると新潟の送別会に来ていた栄子が出た。久しぶりといい、用件を
聞くと、今週金曜日、長野の善光寺に、友達と行くけれど、近くで会わないか
と言うことだった。長野駅近くの喫茶店に十時に待ち合わせた。
 意外にも一人だった。友人はと言うと二日前に来て今日別れて先に
長岡に帰ったとの事だった。北島が、今日は仕事だから少しつきあって
というと、わかったと答えてくれた。温泉や、高原へ行きたいと言った。
 そこで早速、営業車に乗って、上田に行く事にした。そこで、昼間、
レストランで彼女を、一時間ほど待たせ、仕事をしてきた。
 その後、菅平高原へ経由で、小布施へ、向かう予定にした。
 今晩は、湯田中温泉に泊まる予定にした。戻ってくると、

 彼女は、カメラを用意し、撮る気、満々だった。上田城を見て、
涼しい菅平高原をドライブして、小布施についた。葛飾北斎の天井絵で、
有名な岩松院や、葛飾北斎記念館を見学した。その後、桜井甘精堂で、
有名な、おこわセットを食べた。おこわは、栗の甘さと、もち米の固さが
絶妙で、非常においしい。同じお店の喫茶店で、モンブランと紅茶のセット
を楽しんだ。これには、彼女も、非常に喜んで、こんな、おいしい、
モンブランは初めてだと、この紅茶も合うねと上機嫌だった。

 その後、予約しておいた、湯田中温泉の歴史ある木造の宿へ向かった。
 チェックインを済ませ、石の露天風呂に、入りに行った。この宿は大きな風呂
が五つもあるから、何回も違うお風呂を楽しもうと、彼女に言った。
 楽しみだわとの反応だった。ゆっくりと風呂を楽しみ、帰ってきて、
ビールで乾杯した。これは、たとえ様のない旨さである。
 彼女の上気した顔が、やけに、色っぽく見えた。
 その夜は、ご想像の通り、久しぶりの逢瀬を楽しんだ。
 翌朝は、ぐっすり眠れたせいか、スッキリ目覚めた。
 朝食をいただき、外湯巡りに繰り出して、二ケ所ほど、回った。
 ゆっくり喫茶店で、お茶をして、お土産を買って昼頃に宿にもどり
チェックアウトを済ませた。彼女は喜んでくれ、本当は、もっと長く
、いたいんだけれど、あんまり迷惑かけちゃ、いけないから、
今日、帰るよと言った。本当にありがとうねといった。
 こんな楽しい一日は、生まれて、初めてといった後、大きな声で
泣き始めたではないか、北島は困って、ひと目も気にせず、彼女を、
ぎゅっと、抱きしめた。
 北島のスーツの腕が、彼女の涙で、濡れているのがわかった。
 早足で車に乗り豊野駅に向かって走り出した。 
 車中では彼女は最近、嫌なことばかり起こって、ふてくれていたと言った。
 これで、何とか、明日から立ち直って生きていくわと喜んでいた。
 満面の笑みを見せてくれた。もー来ないから安心してと言った。
 でも、北島さんが、転勤する時に、また、お別れに来ようかなと、
いたずらっぽく笑った。突然指切りしてと言うので、北島は、それに応じた。
でも、その時が来たら、絶対に、お別れするからと。また泣いた。

 一時間くらいで、豊野駅に近くなり、お昼も近くなったので、近くのそば屋に
、車を止めて、昼食をとる事にした。彼女が、ここのそば、硬いねと言った。

 店の人が、うちの店は、富倉のそば、なんだよと言った。富倉そばは、
山牛蒡の繊維をつなぎに、使った色の濃いそばで、それで硬く感じるんだよ
と教えてくれた。でも、旨いだろう、と言って、説明してくれた。
 北島が信州に旨いものなしと言うが、そんな事はないんだよと言い、
実は、地区ごとに、いっぱいあるんだ。でも、宣伝が下手だから、全国には
、あまり知られてないんだと言った
 地元の人は、格好をつけて、宣伝しなくても、黙って食えば、わかるんだよ
と思うのか、派手に、宣伝しないのさ。頑固者が多いだけさと、おどけて言った。

 いよいよ別れの時がきた。彼女が、別れがつらいから、見送らなくて良いよと
言ったが、そう言う訳にはいかないと、はねのけた。
 列車が見えて彼女が乗り込んだ窓を開けて大きく大きく、ちぎれんばかりに
、手をふった。また、やはり、大粒の涙が、あふれていた。
 その光景を見ていると、思わず、北島の目にも、涙が浮かび、あふれ出すではないか。
 もう、恥ずかしさんなんか、忘れ、列車の姿が見えなくなるまで、手を振って、
見送った。未だに、雪をかぶった、北信五岳(飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山)
が、この別れを見届けてくれたかのかもしれないと、心の中で思う北島だった。

第7話:レ線写真をコンピュターに取り込む実験とMACパソコン使い放題

 中信大学を含め大学系の病院でも中信大メディカル・パソコン
クラブのメンバーが増え売上に大きく貢献してくれる様になり、
全県的に業績が伸びてきた。パソコンのフロッピーディスクを
久光先生に渡して欲しいという要請を多くの先生から受ける
様になった。学会発表の用のスライドを見てもらいチェック
してもらうらしい。
 仕事面で、この年は植えた種が芽を出し花開きつつある良い年
であり順調に売上もついてきた。その後、久光先生からの電話で大至急
、教授に会って欲しいのとの連絡があり急いで医局へ行った。

 教授に、お会いしお話を聞く事になった。その内容は白黒の
レントゲン写真は十二階調(黒白の濃淡程度が非常に細かい)
であり、その微妙が違いを医者は見分けて骨折している場所と
程度を見るというのだ。
 それをパソコンにデータとして取り込む事ができるかという質問だった。
もし、それができれば非常に役立つし画像データベースとしてぜひ使いたい
と言った。早速調べてきますとお答えして失礼した。

 NEC、富士通に問い合わせてみたが、できないとの回答。
 パソコンの販売会社に聞くと理論的には可能ですが多くのメモリー
が必要であり高額になると言い、取り込むとしても、そんな高性能スキャナー
は日本にはないのではないかと言っていた。どうしても試してみたいと言うと
心当たりのある所に聞いてみると約束してくれた。

 待つこと一時間。IVMが興味を示してきたと言うのだ。もし成功した場合
その結果を会社の宣伝に使わせてくれるなら実験しに行くとの返事だった。
 翌日、この話を教授に伝えたところ宣伝許可の話は承知したと言った。
 教授の空いてる日を聞いて、再度、直接を話してみますと伝え失礼した。
 IVMと打ち合わせをして翌月十日の夜七時から実験をする事になった。
 当日は大型トラック一台と、クレーン車一台と、乗用車一台で、
IVMの社員が五人で医局にやってきた。
 廊下を、大きな台車にのせた大型スキャナー(画像取込装置)と
大型パソコンとハードディスク装置とモニターを持ってきた。
 医局は広いが機械を操作するのに五人とデータベース研究会の五人と
教授の十一人が入るといっぱいだった。

 早速レントゲン写真を取り込む事を開始、最初に機械の電源を
入れて五分待ち安定したのを確認してイメージスキャナ
(画像取込装置)の上にレントゲン写真をのせスタートボタンを
押した。独特の音を立てて少しずつ光が動くのが見え、一枚を
取り込むのに五分、メモリーに画像データをため込み、次に、
そのデータをハードディスクに書き込む。
 メモリへの取り込みとハードディスクへの書き込みに約十分かかった。
その画像を二十四インチのモニターに映し出すと見事にレントゲン写真が
映し出された。どよめきと、ため息がまじった声が医局内にひびいた。
 それを教授が見始め、画像が暗いからモニターの明るさを上げる様にとの
指示がでて係員が調節した。その画像をじっくりと見始めてから数分して
教授が百点満点中、七十点かなとの評価を下した。
 もう一つ解像度が欲しいと言うのだ。骨折している所は完全にわかる、
しかし折れた程度が今一つ分かり難いと言った。
この結果に、この会社の担当者は七十点なら、もう少し改善できれば
使えると理解して良いのですねと言った。
教授に伝えると全くその通りだと答えた。もう一歩といったところだね
との答えに彼は満足した様であった。教授から、ところで、この装置、
全体でいくらするのかとの質問がでて担当者から、この装置は市販品
でないので値段はつけられませんが一億円以上はするでしょうねと
言っ。教授が高いな、もっと安くしてよと言った。
 またデモ用に一台置いて欲しいと言い始めた。

 会社に帰って相談するという事になったが後日の連絡で、この機械は試作機で
企業秘密が詰まっているので置いておけないとの連絡が入った。
 その会場に関係者以外の男が数人いたのを不気味に思った。多分、日本の
大手メーカーであろう事は想像できた。その後アップルから正式回答で当社では
、そういう目的でマックを開発したのではないので積極的に協力できないという
返事だった。つまりマックとしては大きなメモリーを買って試してみるのは
自由なので自分でやって欲しいという事だ。

 二年半後、マック・クアドラで白黒のレントゲン写真を取り込みデータベース化
できる様になった。価格はソフト込、一台五百万円と以前より随分安くなった。
 この医局では、このセットを一台購入し設置して医局員が自由に使える様にした。
 その後、時代の流れと共にマックの時代がやってきた。パワーポイント(スライド関連ソフト)、
パワースウェーション(スライド作成ソフト)、フォトショップ(スライド関連ソフト)、
ファイルメーカー(カード型データーベース)、ロータス123(表集計計算ソフト)
などのソフトの使い方を勉強していった。ただ日本語ワープロソフトは日本製のパソコン
の一太郎の方が日本語変換の正確さで勝っていた。

 北島も先生方の中古パソコンを買ったり、また新入医局員に、また中古で
売ったりして、いろんなパソコンを使うことができた。
 MAC・SE30、LCⅢ、LC475、クアドラ800など数多くの
パソコンを自由に使えた。また日本で最初のCDをメインに使うFMタウンズ
(富士通)も印象的。今から考えても北島にとって夢の様な時期だった。
 ただ1台でワープロ、スライド関連、データベースソフトで満足させる
マシンはなく日本製のパソコンとスライド用パソコンのマックの二台持ちの
先生が多かった。医局にマック・クアドラとNEC9801が、一台づつ置いてあり、
 医局員がいつでも使えるようにしてあった。ソフトの不具合やアップデート、
メンテナンス管理を久光先生が行っており業者の手を借りる場合は北島の方で
連絡して修理の手配をした。そう言う意味ではパソコンの創世記に中信大学では医学、
医療の電子化について先進的だったと思っている。医局で少しづつ人間関係が
できてきて徐々にであるが情報が増えていった。
 そして先生の移動時に情報を赴任先の担当者に渡せる様になってきた。
 こうする事によって実績も飛躍的に向上してきた。特に仲の良くなった先生の
移動先には担当者同行で挨拶回りを欠かさずに行う様にした。
 波及効果が出始めて県内の売上も一年目がプラス十%、二年目がプラス十五%と
伸びて、念願の営業実績で表彰の栄誉を得る事ができた。六月お祝いに松本郊外の
温泉で一泊で慰労会を営業所全員で開いた。

 長く苦戦していた南信の吉川君も涙を流して喜んでくれたのは感動的だった。
 吉川君が負け犬では終われない、これからですね。またもう一度、全国一を
取り営業所を作りましょうと檄が飛んだ。
 その晩の、お酒のうまさは、今でも忘れられない。松本赴任二年目は、
社内の等級が一つ上がり課長になった。 臨時ボーナスも百二十万円、
報奨金が三十万円と、通常ボーナスが百万円、給料が四百五十万円、
出張+外勤手当が百万円、合計八百万円と過去最高。
 こうなったら年収一千万円突破を目標して頑張ろうと心に誓う北島だった。

第8話:八ヶ岳が見える家の誘惑

 夏になり、小学校の長女の友達のお母さんが、SKSハウスの人で、素敵な分譲住宅が、
八ヶ岳の麓に完成したので、是非、見に来ないかと、招待状を持って来たのである。
 買う買わないは、別に、見学者を捜してると言っていた。
 招待状もらったので、家族全員で週末に出かける事にした。
 そこは、白樺湖や車山高原、蓼科高原へも、すぐ行ける所にあり、近くには、
高級別荘地が数多くある場所だった。 
 諏訪湖、七年に一度御柱祭で有名な諏訪大社がある。茅野駅には、
岡島百貨店(2018年現在、既にない。)もあった。
 更に下諏訪、上諏訪の温泉も、いくらでもあり北島にとっては、
まさに理想郷に映った。富裕層でもない、北島が、あたかも、金持ちに
なった様な、錯覚におちいる始末だった。
 高速で松本から、茅野インターチェンジで降りて十五分くらいの所で
、自宅から、四十五分程度だった。九月初旬で、八ヶ岳がくっきりと
見え、確かに、絶景である。
 市内のジャスコまで十分で、生活に支障はない様だった。
 値段も三千~三千七百万円、もちろん、ローンも通常通り、
使えると言うことだった。家の中も見学して見たが、モダンで、
素敵だった。女房は、いいねの連発だった。
 少し検討するからと言うので、資料までもらってきた。
 資料を見て、女房は、七割方、買いたい方へ傾いた。
 そこで、帰って、近くに住む、友人に相談すると、馬鹿だな、
冬に、もう一度、見に行けと言われたのだった。
 あそこは高原で、マイナス十五度、年によっては、マイナス二十度
になり、生活するには、大変だと言った。
 学校も、僻地であり、子供達を田舎の学校に入れるのか?と言われた。 
 彼の忠告で、我に返り、十一月に、再度、見学する事にした。
 小学校の場所と通学路などを見ると、やはり、友人の忠告の通り、
田舎の学校で、農家の子どもばかりだった。
 通学路は、ほとんどが田んぼのあぜ道で学校まで二十分程かかると
言う事で奥さんも、あきらめ顔になった。その戸建て住宅は、
三週間で、全て完売したのだった。なんともいえない挫折感というか
悔しさが、残ったのは、いつわらざる気持ちだった。
 しかし、その一~二年後、新聞に、その住宅の売り物件の広告が
、新聞のチラシに、でかでかと出ているではありませんか・・
 都会育ちの、ぼんくら頭の、北島は、不動産屋さんの甘い罠に、
すぐはまってしまいそうで、危なかったのである。
 その点、頼れるのは、地元の友人のアドバイスだった。
その後も、何かあるごとに、その友人に相談する、北島だった。

 第9話:サリー先生との別れのキス

  今年の営業所の忘年会は、しづかで、一次会をして、二次会を、
スナック中町で、ゆかりママの所で行う事になった。
ここまでは、例年通りたっだのだが、そこへ珍客が現れたのだ。
 その珍客とは、英会話教室のサリー先生だった。
 何でも、今年いっぱいで、カナダに帰るというので、その挨拶に来たと言うのである。 
 それを知ったゆかりママが、気を利かして、呼んだようだ。
 そして、北島が会社の仲間に、彼女を簡単に、紹介した。
 しんみりとした送別会にしたくないので、陽気に、飲んで、歌って大宴会となった。
 また、いつもの様に、サリーは、かなり飲んで、上機嫌だった。
 ついに北島の事を、英会話学校での、ニックネーム、ミスター・ノーと呼び始めたのだ。
 英会話教室で、サリー先生が、生徒に、意見を聞くと、日本人の生徒は、
Yesと最初に言ってから、話し始めるの人が多かった。 
 北島は、つむじ曲がりで、最初にNoと言ってから、話を始めるので、ついたあだ名が、
「ミスター・ノー」なのである。
 彼女の北島への第一印象は奇妙な日本のサラリーマンだと映ったらしい。
 しかし、親しくになるにつれ、率直にものを言う頼れる、お兄さんになったそうだ。
 そして彼女が、祖国、カナダに帰る理由を聞くと、彼女の恋人が監獄から
出所してくるからだと言うのである。詳しく聞くと、喧嘩で、けがさせた相手が
、よく調べてみたところ、お尋ね者で、更に、相手の方が先に殴ってきたと
言う事も判明したと言うのである。
 彼女の恋人の懲役五年が、一年に短縮されたと言う事らしい。
 彼女は、ちょっと前まで中国人、韓国人、日本人の区別もできない様
なカナダ人だったそうです。しかし日本に来て日本が先進国である理由が
、日本人と接して良くわかっとの言うのだった。
 勤勉で人に優しい、いい人ばかりだったと言ってくれた。 
 彼女の最後のスピーチは、とても面白かった。
 北島は、グラマーな、女性がタイプで、サリーは、タイプじゃないと言った事を
いつまでも根に持っていたようだ。 
 この話は、みんなに受けた様で、彼女は自分のスピーチが受けたと思い、大はしゃぎだった。
 タクシーで、サリーを送って、帰ろうとした時、彼女が運転手にちょっと待ってと言い、
かがんで、もたれかかるようにして、北島をハグしてながら、キスをしたのである。
 その時のキスの味は、一生忘れないだろう。そんな思い出と共に、新年を迎えた。
 今年も善光寺参りで、仕事始めとなった。それぞれ、お参りをした。
 その後、昼食をとりながら、今期は、昨日までの実績で、全国二位の伸び率である事を報告した。
 あと一歩で、トップになれるので、頑張っていこうと、言うと、みんな、やる気満々だった。
 中信大学でも、学会のスライドつくりに、MACが、大活躍していた。
 質問も多く、手際よく、多くの先生に、教えて差し上げた、返ってくる反応も良く、
また頑張って使うからねと、笑って答えてくれる先生が多くなったのが心強かった。
 大学も、派遣病院も、売上は順調だった。

第10話:スキー旅行と松本に家を買う話。

 仕事ばかりでなく、家族サービスしてよと、長女が、言ってきたのである。
 また長女が、白馬とか、すごいスキー場につれてってと、せがんできたのである。
 売り上げも好調なので、家族サービスで、今週末、白馬へ、スキーに行く事にした。
 その日は、朝6時過ぎに出発して、松本市街地を抜けて、豊科、安曇野に入った。
 左に、神々しい北アルプスの山並みを眺めながら、走って行った。ここ安曇野は、
大王わさび農場、穂高神社、道祖神で有名であり、毎年、出かけていた。
 それに、私の大好きなお酒、大雪渓のふるさとでもある。水清く、りんご
、そばも旨い、良い所なのである。やがて大町を過ぎ、
仁科三湖(木崎湖、中綱湖、青木湖)を見ながら、走った。
 二十分ほどで、白馬さのさかスキー場についた。そして青木湖を
眼下に見るコースで、何回も何回も滑った。パラダイスダウンヒルは
、青木湖に吸い込まれていくような感じで、長く、素晴らしいコースだった。
 ここで長女がスキーの腕を上げれば、いつかは、白馬八方、栂池、
岩岳の本格的なスキー場に挑戦できるようになるかもしれい。
 長女は、バンバン滑っていて、スピードにも、かなり慣れてきた。
超速の進歩である。 

 奥さんは相変わらず、次女、長男と一緒に、ソリをしていた。 
景色が良いので、気分は良かった。昼食をとって、帰りは、混雑するのを
避ける為に、二時過ぎに出発する事にした。案の定、二時頃は、まだ、
それ程混んでいなかった。それでも、家に着いたのは五時だった。 
 帰って、長女が、今度は栂池のロープウェイで一番上まで上がって、
四キロのスキーコースを一番下まで滑りたいと、勝手な事を言っていた。
しかし、もしかすると滑れる様になるかもしれないと思った。
 機会があれば、連れて行ってあげたいと、思う北島だった。
 そして、二月で、売上コンクールで、ついに、伸び率トップとなった。
 あと一ヶ月、トップで逃げ切れば、支店長の接待と、営業所立ち上げが現実となる。
 いつのまにか、信心深くない私も、この時は、近くの神社に、願をかけに行った位だ。 
 その甲斐あってか、ついに、伸び率、全国トップを手にしたのだった。
松本に赴任の3年目は、伸び率日本一になり今年の臨時ボーナスも160万円、
報奨金が50万円と、通常ボーナスが110万円、給料が500万円、
出張+外勤手当が120万円、合計940万円と(社宅、暖房費別)
過去最高だった。もう少しで、年収1000万円

あのSKSハウスの女房の友人が、また、北島家を訪ねてき、松本の農協さんが
、大規模に農地を宅地化した分譲地で、県外の人でも買える良い物件が
出たので是非、見に来てと言った。奥さんが乗り気で今週末に見学する事にした。
 そこは、松本市南部の郊外で、大学病院まで、車で二十分程度のかかる所である。
 松本市南部は、最近開発が進んでいる地域で中華料理の旨い四川乃華は、
南松本駅の近くである。家の中を見ると、豪華で吹き抜けの玄関に、シャンデリア
、六LDKで、お風呂は四人も入れる大型浴槽。一階は大型の二重サッシが二カ所
、リビング・ダイニングは南向きで、広々、十六畳リビングとと八畳の和室、
大きなウオークイン・クローゼット、作り付けの大型靴箱、大型の押し入れと、
十分収納施設も備えている。二階はバルコニー他に、三つの洋室がある。
土地は百坪強だった。総額五千万円を、何回かの交渉で、四千三百万円まで
値下げに応じてくれた。

 実は、後でわかった事だが、一年近く買い手がつかなくて、県外の人でも
買える様になった物件であったのである。今度は、農協で、頭金と、支払いの
話になり急に雲行きが怪しくなった。勤務先、年齢、役職と年収など、
具体的な話となった。その時、まず会社のことを聞いてきた。
 上場してない事を話すと、そうですかと、暗い返事がかえってきた。
 あなたの、ご出身はと聞かれ、東京ですと答えると、県外ですか・・ 
 では、頭金は、半分以上お持ちですか? 質問、攻めにあったのだった。
 頭金は一千万円くらい、では、どうですかと言うと、笑いながら、
そりゃー無理だと。他県の人に、そんな大金を融資してくれる銀行は
ないよと言うのである。ところで、担当者が、あなたと、奥さんの両親は
、何をしてるのと聞くので、女房の父が、会社を経営していると答えると、
担当者の顔が、急に明るくなるではないか、それ後もっと早く言ってよ
、という始末だった。電話番号聞かれ、確認された。あれだけ嫌な顔
していたのが、上機嫌にかわり、商談成立となったのだった。
 私から担当者に、詳細を聞くと、大丈夫ですの一言だった。無事、購入となった。
 その後、銀行でローンの相談、もし、あなただけなら、一千万円までしか貸せません。
 ご両親(女房)が保証人なら、五千万円まで貸せると言いだしたのである。
 心の中で激怒する北島だった。
 これで松本に、あこがれの戸建てのマイホームを手に入れたのだった。

 しかし、その後、冬将軍との闘いや、凍結、湿気との対決が、待ち構えている事を、
想像できない程、夢ごこちの北島だった。
 この冬、松本の厳しい冬将軍の攻撃が、容赦なく、半年も、続くのだった。
 灯油の消費量が、半端な量でなく、厳寒期は、五百リットルの屋外タンクを
満タンにしても、一ヶ月持たず、補充する有様だった。 
 冬場の暖房手当が、月に七万円では、足らないのである。
 家の庭には、巨大な、霜柱がびっしりと、立っているのだった。
 その中でも一番大変だったのが、ファンヒーターへの、給油だった。
 外に出て、凍える手で、屋外タンクのコックを、まわして給油するのである。

第11話:松本営業所が出来る話

 会社からの電話で、今年の三月に、もう一つの念願であった
松本営業所設立の許可が下りた。どこに相談するか迷ったが、
地元の農協の家を買った担当者から、情報を聞く事にした。
 松本では、地元の銀行が、一流企業を選んで銀行の持ちビルに
入居させる場合が多い。そこが、一番格上だと教えてくれた。
 調べてもらった所、一室、空きが出そうとの情報をもらった。
 早速、その銀行へ出向くと会社名を聞かれ上場の件を聞かれ、
けんもほろろに断られてしまった。そこで、農協の担当者に連絡すると
、部長同行で、掛け合ってくれるとの返事だった。

三人で、再度、銀行を訪ねた。農協の部長が、口火を切り、ここにいる
北島君は、松本に赴任して四年で、業績を上げて会社に認められて
営業所を設立許可された。そんな将来性のある会社を応援するのが、
君たち地方銀行だろと、言い、切ってくれた。 
 部長が、彼は一軒家の分譲地の住宅を最近買ったと伝えてくれた。
 その時に、会社の事を調べたが、堅実な中堅の製薬企業だと言ってくれた。
 優良企業でも、上場してない会社は、いくらでもあるよ。
そんな事も知らないのかと、銀行の担当者にいってくれた。
ちょっと待って下さい、銀行の上司に聞いてみますと言うのだった。
二十分後、銀行の上司があらわれ、調べましたよ、わかりました。
 入居して下さいと、言ってきたのである。

 将来性のある中堅企業を応援するのは、銀行の使命ですからと、
手続き書類を、お渡ししますから、提出して下さいと言われた。
地方の農協って、力がある事を思い知らされた。
 農協の方々に、お礼を言って、お別れした。 

 引っ越して、近くの小学校と、保育園に、入学、入園の手続きを取った。
 女房が、私も、ローン返済のため、働かかなきゃ大変でしょと
言うことになり、近くの工場団地の大手電機メーカーの工場の
下請けの会社に就職した。朝八時に、私が一番下の息子を保育園に送り
、すぐその後、小学校の娘と、女房が、家を出る。また夕方、小学校の娘が
、交代制で一番下の息子を保育園に自転車で迎えに行く生活が始まった。
 四~五月の桜のシーズンになって、朝の霜がなくなると、若葉が芽を
出す五月中旬と、良いシーズンが始まる。女房も働いて数ヶ月たって
何人が友人もできた様で楽しく働いている様だった。

 そんなある日、その友人の一人が、プルーンの木をあげるから、
取りに来てと言って下さったので、早速女房と出かけた。
 そして、一メーターのプルーンの木をもらって、庭の真ん中に植えた
、すぐ大きくなるから言われていたが、一年後には、二~三メートルになった。
 ただ、虫が葉っぱにつくので、専用の薬剤で消毒したりと手がかかった。
 この木は、強い木で数年で二階まで届く位大きくなるとの話だった。
 植えてから二年目には、バケツいっぱいの、プルーンが採れた。
うちの女性達が大好きで、腹一杯、食べていた。食べきれないと、
近所におっそ分けをした。

 第12話:上山田温泉で芸者をあげる

 夏が過ぎ、九月の下旬に東京の支店長から松本営業所開設の
祝賀会をするから用意する様にといわれ、当地に詳しい長野担当
の山下君に上山田温泉での宴会の席と宿を予約してもらった。
 当日、四時過ぎに支店長が、お見えになり、ゆっくりと、
温泉につかっていただいた。夜六時から、念願の祝賀会が始まった。
 松本営業所の四人と、支店長の五人で芸者さん五人がついて
もらい、宴会が始まった。乾杯で、今夜は、無礼講という事で
、みんな盛り上がった。
 芸者さんの歌や、踊りが披露され、みんな喜んでくれた。
そのうちに、宴会がお開きになり、カラオケに行く人や温泉に
入る人、芸者さんともっと遊ぶ人にわかれ、楽しんだ。
 その後、山下君が支店長のお供をして、面倒を見てくれていた。
 後日談だが、支店長が、もっと芸者さんと遊びたいというので
山下君が一晩中つきあってくれる芸者さんの事を思い出し手配した。

 そして、無粋だからという事で二人きりにした様だった。
 翌日、支店長が、眠い目をこすりながら、起きてきた。
 楽しんでいただきましたかと、私が聞くと、良かったよ、との事だった。
 噂が、耳に入るほど、昨晩は、大活躍したようで、満面、笑みで、上機嫌だった。
 つき合ってくれた芸者さんが、あんなお強い人の接待は、大変でしたわと、
笑いながら京都弁で、山下君に、話したとの様である。
 支払いはと言うと、支店長に伺うと、会社の方に請求書まわしてと言っておられた。
 詳しく聞くのは失礼と思い、お礼だけを述べた。
 その後、山下君の耳に、支店長の武勇伝が伝わった様で、
偉くなる人は、元気でスタミナ抜群なんですねと言った。

 そう言う話は、広がりやすいので、もちろん、口止めしておいた。
松本に赴任の四年目は、松本営業所を開設し
、売上も3年連続10%以上と絶好調だった。今年の臨時ボーナスも
170万円、報奨金が30万円と、通常ボーナスが120万円、
給料が550万円、出張+外勤手当が140万円、合計1010万円
と(社宅、暖房費別)ついに、念願の1000万円を超えた。
 北島が、プロの営業マンとして、やっと、認められたのだと思うと
、数々の苦労が走馬燈のように、頭の中を駆け巡るのだった。
 思えば、身重の身体で、転勤して、1週間出張で、家に帰れない日々を
、愚痴もこぼさず、子供の病院、幼稚園、買い物、炊事、洗濯をして
、家を守った、奥さんの給料も、この中に、入っているんだと、思うと
、自然とあついものが、こみ上げてくる北島だった。

第13話:中信MPC、冬の研修会 

 そんなある日、中信大学病院の久光講師から電話が入った。
 先月の学会で、四国の先生から、臨床データの効果判定に
データベースⅢを使う方法を、是非、教えて欲しい、話してきた
というのである。ついては、白馬あたりで、泊まり込みで、
研修会を開いて欲しいとの事だった。
  四国の先生方は、勉強会の後に、スキーと、温泉も楽しみたい
と言った。総勢は、中信大二人と私、四国の先生が三人の合計六人。
  至急、手配して欲しいと要請を受けた。以前、家族と行った、
白馬さのさかスキー場が、頭に浮かび、連絡し、予約できた。
  年末の十二月二十六日から二十八日の二泊三日である。
  当日早く大学へ行き機材をパジェロに乗せて久光先生と
佐藤先生の三人で出かけた。十時に着き、宿に入り、大広間に
、パソコンセットを設営した。
 四国の先生たちは午後三時過ぎに着くとの連絡が入り昼食をとって
勉強会の進行の仕方やリハーサルをした。温泉に入り一休みしていた頃
、四国からの3人の先生が到着した。A温泉病院の泉先生、
葉山先生、寺田先生の三人だった。
 まず泉先生が、北島たちの作成した、データベース・データから
、どんな、事がわかるのか、見解を聞きたいとの事だった。
 早速、データフロッピーをもらい、ディスプレイに表示した。
 久光先生が、データベースⅢのデータに不備がないことを確認し
、知りたい所の項目で並べ替えをして見せた。
 対象となるデータだけを抜き出して更に他のいくつかの項目でデータ
を並べ換え泉先生の希望するデータ整理ができた。彼らは、喜んだのと
、いとも簡単に、やってのけたので、驚いていた。
 その後、大きなデータベースから必要とするデータを分離する為の
プログラムなどを実際につくって見せた。そのプログラムを
、フロッピーにして、是非欲しいとの要望で、渡すことにした。
 夕食は、売店で買ってきて、食べる間も惜しんで話は続いた。
 参考になる本の紹介や、中信大学でのデータベースの利用状況なども紹介した。
 十二時過ぎまで、勉強会は続いたが、流れ解散となった。
 翌朝は十時から動き出した、朝食後、スキーをしたいと言う事であり
、私と、若手の佐藤先生が、四国の先生方に、スキーの基本を教えた。
最初はゲレンデを歩く事から始めた。転ばないで歩けるようになった人は
、佐藤先生が、プルークボーゲンを教えて、なかなかできない先生を、
私が、指導した。昼食後も、四国の先生方は夢中になってスキーをしていた。
 その中の、二人は、リフトに乗って、初心者コースを、プルークボーゲン
で、滑り降りてきた。そして残りの先生も、プルークボーゲンが
できるようになり、初日のスキーレッスンを終えた。
 宿にもどり、早めの夕食をとり、昨晩の続きをはじめた。
 データベースの基本的な使い方は、理解した様で、私たちが持参した
デモデータを使い、久光先生が、練習問題を出して、四国の先生方に、
考えてもらった。理解が早く、すぐにマスターしていった。
 持参したデータベースの参考書を是非、譲って欲しいとの要望だったので、
売って、差し上げた。夜も更けて、勉強会はお開きになり、宴会となった。
 中信大学は、パソコンの使い方では、すごいレベルですねと驚いていた。
 久光先生が、私に気を遣い、彼が、いろんな、資料や、デモデータを
もっていて、利用させてもらい、ここまで、来たんだと行ってくれた。
 翌日は、吹雪模様だったので四国の先生方は、十時過ぎに、宿を後にした。
 私と久光先生がパジェロで、最寄りの駅まで、お送りした。泉先生から、
また教えてもらい事があったら、メールしますから、宜しくと言っていた。
 本当に、喜んでくれた様で帰り際に駅で、私たちを交代でハグしてくれた。
(男どおしのハグって、微妙・・)
 久光先生から中信病院でも勉強会を計画した方が良いかもしれないという話が出た。
 早速、先生方の時間のある夏休みとか冬休みで調整してみるから、
その時は北野君、手伝ってくれよと、もちろん快諾した。また十二月三十一日
の除夜の鐘が鳴り年があけて、また新年となった。
 また今年も元日に、初詣をした。
 初出勤の日、恒例の善光寺参りで、昨年の年収は、全員が過去最高だった
ようで、喜んでいた。また、松本に営業所ができて、今年は仕事を頑張るぞ
と士気が上がっていたの言うまでもない。
 今年は、昨年以上に大学病院や、派遣病院でも、我が社の営業マンと先生方の
関係は密になり、業績も順調に推移していった。久光先生から、夏休みに、
諏訪で、中信メディカル・パソコンクラブの勉強会をしたいとの話があり、
八月の、お盆過ぎ、二泊三日で、計画したいとの事だった。そこで早めに予定日
の前後も含めて五泊分、三部屋予約して欲しいとの事であり早速手配した。
 ちょっと格落ちの旅館だが、何とか予約が取れた。
四国の先生も行きたいと、連絡があったとの事だった。
 中信大学から、若手中心に勉強したいとの話があり、
総十~十五名くらいになりそうだとの話だった。

第14話:地区PTA会長就任

 降ってわいた様な、話が舞い込んできた。今年は娘の通う
小学校のPTA会長選挙だ。今年は北島の娘の通っている小学校の
PTA会長を選出する年なのだ。この地域は地元の人が多く大きな
敷地の家が多い。昔からの商売人とか近くの工場の取締役
とか豪農の人が多い。
 
 しかし高齢者が多く彼らの子供達は、便利な松本駅前
のマンションに移り住んでるケースが多く毎年PTA会長の
選出に苦労している様だった。そして地区会長が六十才以下の
いる家をくまなく訪問して回るのだった。
 朝早く電話が鳴り地区会長が訪問したいのだが、あいてる日を
知らせてくれと言われ、今週日曜と言った。
 北島家も娘二人が通っていたので訪ねてきた。正直に営業で
県内を飛び回っているので忙しくてPTA会長はできないと答えた。
 その二週間後また町会長が別の役員さん二人を連れてやってきた。
 高齢者と商売人が多くサラリーマンが少ないので協力して欲しい
というのだった。小学校の娘がお父さん何やってると先生に聞かれ、
薬の営業マンをして、近いうちに営業所を作りたいみたいだと
言ったそうだ。それで営業マンをやっていることが知れた様だった。
 その話のうまいところを生かしてぜひともPTA会長を
やってくれとの言うのだ。北島が忙しくて出られない時は、
どうするのか聞くと優秀な副会長として農家の奥さんで
看護婦をしてる人をお願いしてるから、どうしても北島さんが
出られない時には替わりに彼女に出てもらうと言うのだ。
 北島が県外のよそものなので、まずいでしょと言うと、
かえって、しがらみがないから良いんですよと言ってきた。
 とにかく女房と相談してから答えると一週間考えさせて
くれと言った。しかし何か、断る大きな理由が見つからず、
やむなく承知せざるを得なくなった。
 期日の一週間後、地区会長がPTA副会長候補の好子さんを
連れてやってきた。コーヒーと紅茶を出して話し合いをした。
断りの話をしていた時に好子さんがコーヒーが好きな様で
これサイフォン出入れてるのとか議題と全く関係ない事を言う
のでサイフォンは味がうすくなるので濃くでるドリップを
使ってると言うと、おいしいわねと言っていた。
 だんだん話が本論からはずれて行くのをまずいと思いながらも
、ついつい、のせられてしまった。紅茶は変わった味ですね
と言うので、これは「アールグレイ」ですと答えた。

 紅茶ってダージリンって思ってたわと、どおりで、知らない
味がするのねと笑っていた。でも、おいしいわねと喜んでくれた。
次に話は変わり家を見せてと言われた。

 一階は畳部屋が十畳一部屋だけで、ほか全部フローリング
なのねと言ってきた。もし良かったら他も見せてと興味ありげに
言うので女房に案内させて地区会長と話を進めた。
 しかし二階の洋室四部屋、一階大きな風呂で歓声があがったりして
話をする様な気分ではなくなった。最終的に北島が会合に
出席できない時は、あらかじめ言っておけば副会長が代わり
に出ると言う事で次期PTA会長を承諾した。
 その後も好子さんは完全に住宅展示場見学みたいにシャンデリア
や吹き抜けで歓声をあげていた。でも業務用の大型ファンヒータ三台と
普通のファンヒーター二台では冬場の灯油代が大変ねとか、
こたつは、ないのかとか全く関係のない話に終始していた。

 最後は一階の二重サッシを見てすごいけど重くて手が痛く
なりそうと全く余計なお世話だ。だた彼女は家の見学会に
きたみたいに、はしゃいでいるのを見て微笑ましかった。

 好子さんが最後に医療関係の営業さんって、みんな、
やりてなんだからPTA会長だって、簡単にこなせるわよと
意味ありげに、ほほえんでいた。

 五月下旬、小学校のPTA総会が開かれたシナリオ通り
の進行とお話をして無事やり終えた。校長、教頭からは
指示された事を必要があれば各地区に出向いて小学校の
父母に指示を徹底させて下さいとい言われた。

 副会長の好子さんからは半年後の十月に松本市のPTA総会
がありますので、それが一番大切な行事です。
 松本のPTA総会でも、お決まりの事を話せば良いだけです。
 決して出過ぎた真似はしないで行きましょうねと
副会長から念を押された。

第15話:真夏の夜

 今度、長野で開業の学会があるんで、あなたも来てよと言われた。日程を聞いた後、
仕事になりそうだから、行きますと答えた。今年の5月初旬、PTA副会長の看護婦、
好子さんから誘われた、長野市での学会へ出かけた。実際に、学会の会場で講演を
聴いてみると医療関係の学会というよりも病院と開業医の連絡網とか救急体制の問題と、
その対策とか医療システムの演題が多かった。
 そう言う点では、学会と言うより毎年一回の開業医の慰安会みたいなものだ。
 そのため顔見知りの人には全く会わなかった。約束の長野駅の近くの集合場所へ行った。
彼女は、やっぱり来てくれたのねと笑っていた。既に十人前後の仲間が集合していた。
 男女半々位で四十代前後の医者と思しきめんめんだった。
 好子さんに北島の素性を言ったのと誰にも聞こえない様に小声でささやいた。
 バカ言うわけないでしょ。歌のうまい面白い人がいるから連れてくるって看護婦仲間に
言っただけよと言った。タクシーに分乗して権藤に繰り出した。まずはスナックに集合した。
 幸いにも知らない店で安心した。例によって好子さんが、あんたは今日は盛り上げ役に
徹してと、また北島の言う通りにしてねと、いたずらっぽく不敵な笑みを浮かべた。
 いつもの様子とは、ちょっと違うと感じた。のりの良い洋楽から入って参加した
 看護婦達も積極的に歌いだした。演歌や洋楽、歌謡曲と、いろんな歌がとびだした。
 北島はジュリーの熱唱や、たまに、スローな洋楽、いつもの通り、大うけだった。
 ただ何故か、そんなにワイン、ビールや、ウイスキーを飲んで知る人が少ないのが、
 ちょっと不思議であった。二時間後、数グループに分かれ、お開きになった。 

 好子さんが、手招きして他四人と三台のタクシーに分乗して町中から郊外へ向かった。
 豪華そうなホテルの前に車が止まった。彼女が、ここからは静かに北島から離れちゃ
だめよと言った。静かについていくとエレベータで最上階、わゆるペントハウスの大きな
スイートルームだ。そこには三つの部屋があり、それぞれ大きなダブルのベッド置いてあった。
みんな何も言わず、その部屋のテーブルの上にトランプが置いてあり一人づつ、
引いていった。北島はハートのキングだった。その後小さな声で、好子さんが
同じマークのキングとクイーンがペアになる様に言った。そしてペアができて全員、
大きなリビングに集まり好きな飲み物を選び飲んで徐々に各部屋に消えていった。

 北島の相手は四十代で、ちょっと太めで、メガネの上品そうな方だった。
何も言わず、ベッドに入っり北島は、もう既に準備OK。
 上品そうな彼女はメガネをはずすと予想以上の美人だ。もう既に戦闘態だったが
更に、いきり立たせるのに時間はかからなかった。
 その後、北島がリードして少し休んで今度は、彼女が信じられない様な激しさで
挑みかかってきた。その激しさと言ったら、その上品な顔からは想像できない程だった。
 一時間位で営みを終えて、またリビングに集まり別のカードを引いた。
 同じカップルにならない様になっており次は細身の背の高い女性であった。
 体が柔らかい様で、いろんなスタイルのプレーを楽しんだ。北島の知らないプレー
に興奮して何回も何回も挑戦できた。そして筋肉質なためか、その圧力の強さには
我慢できずいってしまった。三番目はグラマーであるが、足の細い外人の様な
スタイルの女性、彼女の上半身よる誘惑にはグラマー好きの北島には、
こたえられなかった。さすがに疲れの残る身体が奇跡の復活を遂げた。

 下半身もいいが、やはり胸の谷間に、おぼれるのも好きだなと、
ずっと、むにゅむにゅしていたが彼女の興味は下半身に向かっていた。

 北島は何とか要求に応えられたものの最後は幸福感と虚脱感と、激しい疲れに
襲わた。 おもわず心の中で「アンビリーバブル・信じられないと」とつぶやいた。
 十二時過ぎにホテルを出て、また何食わぬ顔をして飲みなおした。

 北島は、これが、開業医と看護婦の秘密のパーティーってやつかと想像した。
 その後、それぞれのホテルへ戻った。長野は封建的な古い町と思っていたが、
の様な出来事だった。 もちろん絶対に口外はしないが
ファンタスティックな一夜だった。 え、これって、「真夏の夜の夢」??? 

第16話:中信MPCの夏の研修会

 中信メディカルパソコンクラブは最近、充実してきて先生から、いろんな要請を受けた。特に多いのがデータベースⅢの
プログラムを作成方法についてだった。患者さんのデータベースを作りそれを分析するためのプログラムをデータベースⅢ
でつくりたがっていた。それによって手術の方法によって、どの方法が一番効果的だとか、どの薬剤が一番効果があるか、
などがわかるのだ。若手のDrも興味を持ってきて、八月の中信大学メディカルパソコンクラブの研修会に大学から
北島を含めて十人、四国から三人が、総勢十三人の参加と増えてき。いよいよ暑くなり夏を迎えた。
 今年の中信大学メディカルパソコンクラブの夏の研修会は八月十八日から二十日と決まり、その日を迎えた。
 もちろん夏で暑いが諏訪湖を渡る風は、さわやかな避暑地の夏って感じだった。八月十八日、朝、北島と久光先生と
若手の佐藤先生の三人で機材をパジェロにのせて十時に大学を出発して十一時過ぎに会場の旅館についた。
 もう既に中信大学の六人が着いており広間で会場の設営を手伝ってもらった。四国の先生方は午後一時過ぎに
到着予定と電話が入った。昼には残りの大学からの参加メンバーもそろった。一時頃、四国の先生方、三人が到着し早速、
近くの食堂で再会を祝して生ビールで乾杯した。そこで昼食を済ませ三時から研修会を開始した。
 まず四国の先生方からオペレーションプログラム付きのデータベースの活用例を発表してもらった。
 たった九ヶ月で超速の進歩を遂げていた。もう既に中信大学のレベルと肩を並べる位でだ。質疑応答を含め二時間、
活発な意見交換を行い、中信大学からは各研究班で、データベースの応用例を発表した。更に、それを東京で開かれた学会
の総会で発表した時の反応も話してくれた。最近、のデータベースの臨床治験への応用が注目されはじめていた。
 そのためか医局に頻繁に他大学から質問が入る様になり面倒なのでメールで送ってくれる様にした。
 北島がマックのカード型データベースのファイルメーカーの紹介をした。これはデータベースⅢの様に文字データだけ
でなく画像データも扱えるのが特長。充実した研修会だったので気がついたら夜も十時過ぎていたので研修会は、
お開きにして懇親会の大宴会となった。信州の旨い酒「大雪渓」「真澄」「七笑」、新潟の「八海山」「雪中梅」
「越乃寒梅」を持参して飲みまくった。やはり有名な酒からドンドン空いていった。
 十二時過ぎになり流れ解散。翌日は午前中に四国の先生を諏訪湖の遊覧船に、ご招待し中信大の先生と歓談した。
 昼食をとり午後三時から研修会を始めた。最初に北島が発表した。テーマは新しい試み最初に画像データ
(レントゲン写真や患者さんの写真、部位の写真)も取り扱えるマック用ソフト、ファイルメーカーという
データベースソフトを使ったデータベース管理の実例を発表した。ただ問題点としてデータベースⅢの様に、
簡単にプログラムを組めない事やリレーショナル・データベースとしての完成度が今ひとつである事なども話した。
 次にマック用ソフトのロータス123(表集計計算ソフト)を使ってデータベースを瞬時に並べ替え一つの
大きなデータベースから次々に自分の思い通りの形に加工したデータベースファイルをつくると言う操作をして見せた。
 やはり、すごいねとは言うが、どう応用して良いかわからない様だった。次に四国の泉先生がデータベースⅢの
データつくりから、オペレーションソフトをつくる方法を具体的に自分のデータで実践して見せた。
 これは、みんなに好評で質問の嵐だった。考えてみれば中信大の先生がデータベースⅢを頑張って勉強してくれれば
必ずマスターできるはず。それは泉先生が、たった八ヶ月でマスターできた事で証明された。
 デモデータベースのフロッピーが欲しいと言う先生が多く北島が隣でせっせとプログラム付きのデータベースの
フロッピーディスクをコピーして欲しい先生方に渡して回った。そして十時過ぎに終了した。
 今回の研修会の総括を久光先生からしてもらった。四国の先生方の超速の進歩や中信大学の若手の積極的な参加に
感謝すると共に、これが医学の進歩に役立つ事を期待して研修会の終了の乾杯をした。また今晩も流れ解散となった。
 帰りの車の中で久光先生が北島に感謝するよと真面目な顔でいうので思わず笑ってしまった。

17話:松本市PTA総会で司会を務める。

 松本市PTA総会について、書く事にする。今年の秋、周りの山々
が紅葉に染まる頃、郊外のY小学校で松本市のPTA総会が行われた。
 各学校のPTA会長、副会長、市のPTA役員、総勢六十人程度だった。
 まず、分科会に別れ、それぞれ、討論形式で、議題について、
話し合いを持った。北島の振り分けられた教室では、三人の
PTA会長が、分担して運営する事となった。我がグループは、
飯田さん(下越歯科大出身の歯医者さん)、下島さん(不動産屋の社長)
と私の3人だった。担当決めが、はじまり、最初に下島さんが、
私が書記をしますと言い、飯田さんが、僕は話し下手なので、
庶務全班をやりますという言ったのである。

 下島さんが、あなたは話がうまそうだから司会と議事進行を
して下さいと言ってきたのだった。話し合いで決めると言うより
、もう既に、シナリオは、できていた様だった。

 特に、北島は、司会をするのに、抵抗はなかったので了解した。
北島がわかりましたと言うと、二人は、良かったと笑っていた、
司会って難しいだよね、頼むねと、飯田さんが言った。

 後の雑用は全部、やるから、指示して下さいと言ってくれた。
 そこで、会議で、意見を述べる人の所へ、マイクを持っていく事や
、必要な備品を用意する事などをお願いした。必要資料、用具を集め
、確認した後、分科会が始まった。まず、会議の進行役の紹介から
、始まって、司会の挨拶を終え、会議が始まった。議題が決まって
いたので、それに、沿って、話し始めた。最初は交通安全指導の方法
と問題点など、意見出て、それを書記の下島さんが書いていった。

 中には、父母同士のいがみ合いなど、関係ない話もあったので、
やんわりと個人間で話し合って下さいと、しりぞけた。次に教師に
対する意見(好き嫌いとか、化粧とか、言い方かきついとか、
子どもが泣いて帰ってきたとか・・)ほとんど、たわいのない事ばかりで
、その都度、適当に処理した。終わりの方で、転勤者からの意見として
小学校が閉鎖的で考えが古く現代の流れについて行けてないと言う、
過激な意見も出てきた。内心そう通りと思ったが、そんな事は、
おくびにも出さず個人的に思う事があれば、やはり、各々の先生と
調整する事が肝心ではないかと本心ではない玉虫色の発言を連発して
煙に巻いた。九十分の時間で、丁度終了する事ができた。

 北島は、うまくできたと内心思った。提出資料を作成し、
本部に、提出して、無事、終了した。その晩に、打ち上げで、飯田さん
と下島さんと北島と、その地区の女性副会長3人の合計六人で、
下島さんの行きつけのスナックへ、くり出した。まずは皆で乾杯、
飯田さんが私にうまい司会で滞りなく進行できて良かったと言ってくれた。

 下島さんも変な意見もかなりあったが、うまく交わしてくれて上手な
司会だったよとほめられた。うちの副会長の好子さんが、うちの会長は
、できる営業マンですからねと、冗談をとばすと、他の地区の副会長が
、いい男だし、羨ましいわと、笑っていた。そして、下島さんが、口火を切って
、懐メロの、歌謡曲を歌い始めた。ムードのある曲で歌い込んでる感じがあり
上手だった。続いて飯田さんが、意外にも、ビートルズが好きな様で
レットイットビーを歌い出した。そして私が、サイモンとガーファンクルを
、歌うと、飯田さんに、うけていた。副会長さんからは、日本の曲が聴きたいと
。そこで、がらっと変わって、ジュリーの勝手にしやがれを、私が歌うと、
嘘みたいに、彼女たちがのってきた。そうすると、彼女たちが、なんと、
キャンディーズ、ピンクレディーを歌いだした。北島も、ジュリーの時の
過ぎゆくままにとか、邦楽で、今夜はいくことにした。

 この人たちは堅い人た達だと思っていたが、羽目が外れると、
のりが、いいのに驚かされた。好子さんが、木綿のハンカチーフを歌って
、うけた。そこで、北島も、フォーク「我がよき友よ」を歌った。
 その後、好子さんが、横須賀ストーリーを色っぽく歌ったのには、
非常に驚かされた。日頃、几帳面そうで、神経質そうなのだが、人は表と裏が
あるというのは、もしかしたら、こういう事をいうのかもしれない。
十二時が近づき、お開きとなった。男性二千円、女性千円でOKと、
 下島さんが言っていた。まさか領収書を経費で、落とすんじゃないのと、
黄色い声がとんだ。領収書もらってないし、第一、経費で落とすなら、
全部おごるよと笑っていた。タクシーで、好子さんと相乗りして帰った。

第18話:東京ディズニーランドへ行く。

 また、話は、変わって、家庭サービスの話を書くことにする。
 実は、最近、車をパジェロ(ディーゼルターボ)から、
 デリカ・スペースギア(ガゾリン車)替えたのである。

 理由は二つ、一つ目は、ディーゼル特有の黒い煙が、
気になってきた事。二つ目は、子供達が大きくなって、パジェロが
、狭く感じられるようになった為である。

 そしてデリカ・スペース・ギアでの、今回が、初めての、
長距離ドライブである。かねてから、東京ディズニーランドに行って
みたいと長女の提案で実現したのである。土曜の朝6時に家を出て、
一路、東京ディスニーランドへ、おにぎりと、お茶を持参して、
車で出発した。途中のサービスエリアで、トイレ休憩をはさみながり
、余裕を持ったドライブだった。その後、東京に入る頃から徐々に
車が混み出してきた。首都高は、いつも、のろのろ運転だった。
 十一時前に、無事、東京ディズニーランドの駐車場に着いた。

 チケットを買い、入園した。入ると、乳母車の長男の所へ、
ミッキーが、寄ってきて、手を振るが、子供は、あまり興味なさそうな
反応に、ミッキーが顔を近づけてきたとたん、泣き出した。
 びっくりした様で、ミッキーは立ち去った。その後大きくなっても
、ディズニーのキャラクターには、興味がない様子だった。

 その代わり、娘たちが、代わる代わる、ポーズを取って、写真に
収まった。彼女たちは、早足で、自分の興味のある、魅惑のチキルーム
や、ゴーカートへ行き、楽しんだ。なかでも、園内を走る乗り物や
、ショーが好きで、ジャングルクルーズ、トゥモローランド行きの
スカイウェイ(ロープウェイ)、ウエスタンリバー鉄道、スターツアーズ
、キャプテンEOで喜んでいた。当時は、まだ現在、
みたいに混んではいなかった。

 三時頃に一度、サンルートホテルにチェックインして昼寝をして
、四時半頃、またディズニーランドへ夜のパレードを見る為に出かけた。
 夕食は、いくつかさがして、ハウスのカレー・レストランに決めた。
 ポップコーンも買い込んで、暗くなるのを待った。ついに、
エレクトリカル・パレードを見ることができた。確かに素晴らしい。
 娘たちは、彼女たちが、お姫様になった様な気分で、うっとりと見ていた。
 北島が、素晴らしい豪華なパレードに、目が釘付けになったのは言う
までもない。その後転勤してもできるだけ、来たいと、心に誓った。
 終了後ホテルに帰り、今日のいろんな話で興奮して、なかなか、
寝付けなかった。その為か翌日は、八時過ぎに起き、朝食をとり、
チェックアウトして十時頃から、ディズニーランドに入り、長女は、
北島とゴーカートに夢中で、奥さんと小さなお子さんは、
安全なロープウェイ、ウエスタンリバー鉄道に乗ったり、ショーを
見たりしていた。昼食後、一時過ぎに松本へ向け、出発した。
 帰りの車中は、疲れのせいか、子どもたちは熟睡していた。
 その為、サービスエリアも二回立ち寄っただけで五時過ぎに自宅へつき
、風呂に入り、デイズニーランドの話で盛り上がった。この晩も、
子供達は、車中での熟睡のせいもあって、遅くまで起きていた。
 大人の方が、先に寝てしまった。

第19話:長岡の友人との別れ。

 五月の中旬、電話で、東京支店長から、東京支店の多摩営業所(立川)
に転勤先が決まったと連絡が入った。ふとその時、栄子が、
前に転勤の時は、連絡して欲しいと言った事を思い出した。

 そこで長岡の栄子に電話して、転勤の話をしたら、八月の休みに
、行くと連絡してきた。八月二十日にこちらへ来ると伝えてきた。
 また、以前の別れた豊野駅で、昼十二時に待ち合わせた。
今回は、一人だけで来るという。三年ぶりに会ったが、
多少、肉付きが良くなった程度で、ひと目でわかった。

 車でドライブ中、今回は、長岡から、友人に、十日町まで
、送ってもらって、そこから、飯山線で来たと言っていた。
 その為、意外と早く着いたと言っていた。飯山線のすぐ横を
、ずっと信濃川(長野県に入り千曲川名が変わる)と併走しており
、景色が非常にきれいで、長野県に入ると、田園風景が広がり、
違った、美しさが会ったとの事だった。二時間程度で着き、
意外に早いので驚いたと話してくれた。

 今日は長野に行かずに湯田中、志賀高原、万座温泉、嬬恋、
軽井沢へ行こうと言う事にした。横手山の山頂の雲上レストランで
、コーヒーと、ボルシチとパンをいただいた。パンの旨い事と
いったら、例えようもない。「筆舌に尽くせない、おいしさ」
というのは、こういう事を言うんだろうなと、思った位だ。
 また標高二千三百メートルとあって、吹く風も涼しいを通り
越して、寒いくらいだ。今晩は、天下の名湯、草津温泉に
宿を予約しておいた。明るいうちに、ついて、ゆっくり部屋
で食事をした。温泉につかり、つもる話をいろいろ聞かされた。

 お見合いさせられた話や、新しい会社での出来事など女性は
、とにかく、良くしゃべる。ビールを飲みながら、途中で買った
野沢菜をつまみに、それを聞いていた。

 そして、その晩は久しぶりに、逢瀬を楽しんだ。前より、
グラマーになったねと言うと、三十過ぎたら、急に、肉がついて
きたと言っていた。その方が僕には、良いだけれどねと笑った。
腰のはりや、胸も一回り大きくなり、一段と、色気が増した。
疲れ切った身体が、また息を吹き返さずに、いられなかった。

 久しぶりの、逢瀬に、何回も、営みを、重ねて、十分に、
満足した夜だった。翌日も良く晴れた日で、朝の涼しいうちに、
散歩した。歩きなが、北島さんがいなくなったら、も、誰か、
いい人見つけて、さっさと結婚しちゃおっと、いたずらっぽい目で
笑った。そうだな三十代になったんだから、早いほうが良い
かもねと言うと、ほんとに意地悪なんだからと、軽くこちらを睨んだ。

 今日は、嬬恋高原、鬼押し出しを通り、軽井沢へ行った。
 そこでゆっくりし、喫茶店で休み、磯部を抜けて、高崎へ行く
という計画を立てた。翌日は旧軽井沢など、名所は、かなり混雑して
いて落ち着かないので、早々に軽井沢を後にし妙義山を見ながら
予定より早めに、予約しておいた高崎のビジネスホテルについた。

 午後4時過ぎに、到着した。今夜は、最後の夜なのでスナックで
思いっきり、歌おうという事で夜の町にくり出した。
 町の中は意外に、すいており、いろんな歌をデュエットした。
 また他の人の歌で、踊り続けた。酔いもまわりはじめ早めに
ホテルに帰った。帰って、ソファーに座りながら、最初にであった時
の話や、長岡のホテルでの、最初の逢瀬の思い出を語り合った。

 彼女が、栄子と北島をきっと、神様が会わせてくれたんだよ。
そー、そーに違いないと、酔って、言ってるのか、本心で言ってるのか
、わからないが、真剣なまなざしで、話し続けた。でもね、後悔なんて
、ちっともしてないよ。むしろ感謝してるくらいさ。
 だってこんな経験、そんなに誰もが、できることじゃないしね。
 そして、あと腐れなく、さっぱりと、きれいに・・と言うと、
また、大声で泣きだした。大声出すなよと、北島が言うと、ごめん、
でも、泣きたいんだよ。今夜は、とっても、泣きたいんだよと、
北島に抱きついてきた。泣きながら、しっかりと最後になるであろう逢瀬を
、十分に楽しむ事になったのである。 そして、知らぬ間に、
お互い、爆睡してしまった。翌朝、彼女は、さっぱりとした顔で北島さん
、こんな栄子に、つき合ってくれて、ほんとにありがとう。
 栄子は、これから普通の主婦になって、脇目もふらずに生きていくよ、
約束すると言い、また例の、指切りげんまんをした。だって、こんな楽しい
、思い出をつくってくれたんだもんと、さばさばした感じで、きっぱりと言った。
 栄子は、今日は本当に送らなくていいからと北島に告げて、今回は、
駅まで一人で歩いて行くからと言った。
 北島は、何か、送ってこないでと振り切られたような気がして、
そのまま黙ってうつむいた。
 彼女が別れ際に、深々と、頭を下げ、いろいろ、お世話になりました。
 それでは、お元気でと、言って、早足で、部屋を出て行った。
 なんか、むなしさというか、おかしさというか、
妙に、爽やかな、気がする北島だった。

第20話:松本のマイホームを売る話

 東京に転勤となれば松本の家を売っていかねばならないと女房と話し合った。女房から会社の友人一人が最近、
宝くじか何か大きな賞金が入って今の借家を引っ越して近くのアパートに住んでる娘夫婦と孫三人と同居する
大きな家を欲しがってると言う話を聞いた。そしてその友人は何回か北島家にも遊びに来ていた。
 そして、こんな立派な家いいねと言っていた。そこで、翌日、女房がその友達にもし北島の家を売るとしたら買う気あると
聞いたところ、もちろん買いたいと言ったそうだ。北島は、その話を聞いて北島家の売却の話を進める事にした。
 早速その友達を家に招待して、お話を聞く事にした。その週の日曜日に北島の奥さんが友人を連れてきて単刀直入に
転勤になるので、この家を売却するつもりだと切り出した。これを聞いて彼女は、やっと仲良くなれたのに別れるのは
残念だと言い、それで、おいくらで、お売りになるつもりなのですかと言ってきた。
 四千八百万円では、どうかと思っていますと答えた。欲しいと思ってはいるのですが彼女一人では交渉できないので
親戚の人が銀行で働いているから相談してみると言うの。翌日の晩、電話が入り今週の日曜に親戚の銀行員と
二人で相談に伺いたいと言うので了解した。その銀行員が家の中を拝見させてから、お話すると言う事で良いですかと
聞くので、もちろんとですと答えた。まず一階、次に二階、次に玄関周り庭と庭に建てた自転車の屋根付き駐輪場と
物置と一体になった大きめの倉庫、庭用の水道と外の電源、水道などを見せて回った。
 銀行員は、さすがにSKSハウスの住宅だ。うまく造ってありますねと言っていた。大家族向きで彼女には、うってつけかも
しれませんねと言った。築五年たってる割には、きれいですねと言われた。その後、珈琲を飲みながら実務的な話になった。
銀行員の方から仲介業者を通すと売り手三%、買い手三%の売買手数料がかかりますと言った。そこで誰か不動産業者を
知りませんかと北島に言ってきた。市内に不動産屋を経営してる友人がいますとい言うと、その人に安く仲介してもらう様に
頼んで下さいと言われたので快く了解した。北島が四千八百万円で結構ですと言うと、もう少し安くしていただけませんかと
言ってきた。なんとかOKしたいが北島の友人の不動産屋さんや女房と相談して結論出したいからと伝えた。来週の日曜日
までに結論出すと言う事で了解してもらった。その週の日曜日、女房の友人と親戚の銀行員がきて話し合った。
 北島は女房の友人に、つかぬ事をお伺いしますが、お手持ちのお金はいかほどなんですかと聞いた。何故、そんなことを
聞くのですかというので北島が売買の交渉すると言っても、あまりかけ離れた値段は出せないので、あらかじめ知って
おきたいと思ったんですと答えた。すると五千万円弱と言うのだった。それなら交渉になりますと言った。
 そして北島が買い値は四千六百万円、その後、駐車場と外構、庭の自転車の屋根付き駐輪場と物置と一体になった
 大きめの倉庫、庭と駐車場の水道と電気の工事含めて五百万円で合計五千百万円と言った。銀行員が四千二百万円では
どうですかと言った。北島は四千五百万円以下は厳しいと答え、実は大学病院のある先生が四千六百万円なら買っても
良いといっているんですよと言った。次に女房の友人が間をとって四千四百万円にして下さいませんかと言ってきた。
 そこで女房と相談するふりをして。ちょっと待ってと言い、ひそひそ話をした。すると銀行員が四千四百万円で
お願いしますと頭を下げたのだった。北島こう言うのに弱いので、わかりましたのと言った。
 女房の友人が良かったと言い、彼女が、やっと人並みの生活化できる子どもや孫とも一緒に住める夢の様だと喜んでくれた。
思わず北島にも抱きつきそうになってきたので握手をして、その場をやりすごした。翌日の夜、PTAで知り合った市内の
不動産屋の社長とあって事の顛末を話した。売買の件は了解したと。手数料は費用は、いらないから北島さんのおごりで
仲間を呼んでスナックで飲んで歌って盛り上がりましょうと言たのである。その費用だけは払ってという条件で無料にすると
言ってくれた。もちろん了解した。不動産屋さんが必要書類は、また電話で連絡するとの事だった。その後家の売買の話をすると、
あなたは、さすが営業マン、良い条件で売りましたねと言い出した。今そんな高い家なんて、めったに売れませんよ。
 転勤族で家を持ったが売れなくて借家にして困っている人が実は多いんですよ。どんな良い家でも家賃は十から十二万円で、
税金や維持管理費用は持ち主負担でありローン返済が厳しいという話が多い様だ。その点、北島さんは本当についてるね。
 彼は笑いながら四千万円で築六年の家を、もしお客さんから売って欲しいと言われたら、まず無理と言いますね。
 せいぜい三千万円前半が売れる最高金額でしょうねと言っていた。三日後には必要書類が全てそろった。
 北島の友人の不動産屋、女房の友人と親戚の銀行員が同席し北島と不動産屋の四人で売買契約の手続きをはじめた。
 最初に不動産屋さんが書類の説明をして、その条件で良いか売り主(北島)と買い主(女房の友人)に最終確認を
とってきた。両者が了解し、それぞれ、ハンコを押した。次に正式には数万円の印紙代が、かかりますが無駄だから
両者了解の上なら貼らなくても大丈夫だと言ったので了解した。そして無事、契約が成立した。振込先の銀行口座を
教えて終了。彼女の親戚の人が転勤して住まいが決まったら北島さんの連絡先を必ず伝えて下さいねと言われ、もちろんです
と了解した。もし何かあったら困りますからと親戚の銀行員が笑って話した。そして転勤も決まり家も売れて心配ごとを
かかえずに、すっきりとした気持ちで転勤できると喜んだ。早速、翌日、銀行から多額の入金があったと連絡があった。
 これで家の売却の件は無事完了。松本赴任の八年目は毎年、伸び率10%以上で当初の売上がついに倍増した。
 いままで過去にない大記録だった。この記録を一番喜んでくれたのが入社時に大阪本社で面接した社長だった。
 なんと直接、松本営業所に電話をして北島に、おめでとうと言ってくれた。そして社長のポケットマネーで松本営業所
の全員を4泊6日ハワイ旅行へ招待すると言った。まさに今までの松本での営業活動が花開いた瞬間だった。
 新入の時、横浜で所長がポケットマネーでホノルルで祝賀会を開いたのを思い出した。それと同じ事を北島は企画した。
 この時もホノルルのレストランで祝賀会の時、事務の女の子も含め営業所全員で乾杯をして喜びを分かちあったのだ。
 こんな素晴らしい経験を二度もできて北島は運命という神様に祈らずにはいられなかった。この年、
業績も認められ社内等級が一つあがり最年少で副部長となった。更に、この年の臨時ボーナス二百万円、
特別報奨金百万円と通常ボーナス百五十万円、給料六百万円、出張+外勤手当が百五十万円、合計一千二百万円
となり全国の営業所長の最高額。長野に来て八年もちろん頑張って大学病院を中心に人脈や仲間作りをして
中信大学メディカルパソコン研究会も立ち上げた。これら全て順調に動いたおかげで達成できた記録。
 所員には厳しい注文をつけた時もあり、衝突もあったが、最終的には所員一丸となってなしえた記録だ。
 北島は多分この出来事をは一生の誇りとして決して忘れる事はないだろう。

第21話:北島の友人達との別れ。

 不動産屋の下島さんから土曜の夜に不動産屋さんの脇のスナックで飲み会をするとの連絡が入った。参加者は八人。そして、
その日がやってきた。バスで、そこへ行くと顔見知りの飯田さんPTA副会長の好子さんや友達が集まっていた。
 まず好子さんから北島が花束をもらい照れた。そして下島さんが北島君の送別会の開始宣言をし長めの挨拶をしてくれた。
実は飯田歯医者さんには車で二十分かかる所なのだが家族中で歯の治療してもらっていた。今日は気分も最高だし歌い
まくるぞと全員で乾杯をして歌が始まった。いつもは静かな人達だが、お酒が入ると人が変わった様に陽気になって
盛り上がる。こう言うのって好きだな。ほろ酔いで次々と、いろんな女の人とジルバやチークダンスや、いろんな踊りを
楽しんだ。また他のテーブルにいって陽気に話した。好子さんが北島に向かってPTAの時に、あんなに堅物の様に見えた
のに実際は全然違うのねと言うのだった。何せ営業マンは相手をその気にさせてナンボだからねと言うと会場は大爆笑となった。
更に彼女は続けて「彼は怪人20面相だ。ある時は営業マン、またある時はPTA会長、またある時はドンファンと
いろんな顔を持っている。果たして、どれが本当の顔なのかと、おどけて見せた。」
その話にさっき以上の大爆笑の渦となった。特に女性達に、おおいに受けた様だ。
 かなり酔ってきて、名刺をちょうだいと言われ配りまくった。営業所の所長さんなんだ、まー見えないねとか、
それぞれ勝手な事を言っていた。宴もたけなわになった後、少しづ帰って行った。今日は疲れたから帰りますと、
あっさり言って数人、残っていたが全員の勘定を済ませ下島さんのテーブルへ挨拶に行った。
 その時、下島さんが家が売れて本当に良かったねと言ってくれた。契約書には「この契約には、瑕疵条項はありません」
と記しておいたと言った。瑕疵条項をわかりやすく言うと売買が成立しても買い手保護のために購入した後、
予期せぬ欠点、欠陥が起きた場合、買い主が売り主に売買の無効、支払金の返還要求や損害賠償を請求できると言う事。
 だから何があっても北島君は安心だと笑っていた。タクシーで、その晩まっすぐに自宅へ戻った。
 女房は起きていて瑕疵条項の話をすると、へー、そうだったの不動産売買って怖いんですねと言い、びっくりしていた。
 金額が金額だから、いろいろ、あるんだよと言っておいた。すると女房が売り手に有利な契約書を書いてくれるなんて、
やり手の不動産屋で助かったわねと言った。その数日後、どこから聞いたのか長女の同級生のお母さんが家を訪ねてきて、
お宅のご主人、転勤なんですってねと言うなり、ここの家はどうするつもりですかと借家にするんですか、また、お売りに
なるんですかと聞いてきた。よく聞くと何と彼女のご主人はSK不動産の営業部長だというのだ。売却の時は、
お手伝いしますから是非ご相談下さいと、ご丁寧に挨拶してきた。そこで、もう売れましたというと、え、嘘でしょう。
 そんなに簡単に売れるはずはないと吐き捨てるように言った。そこでPTA会長の時、知り合った不動産屋さんに、
うまくやってもらったんですと、にこやかに答えると急に顔が曇りだして、やり手の人とは聞いてたけれど抜けめないん
ですねと軽く睨んだような目で、こちらを見て、帰って行った。また年も暮れれて、また新年がやってきた。
 約十年の松本での転勤生活に、ピリオドを打つ事ができた。最後の担当交代の挨拶では印象に残った出来事が三つあった。
 一つ目は大手医薬品・卸問屋の所長さんが、あなたの会社で、はじめて仲良しになれ、やっとパイプができたと思った
のにね非常に残念だと言った。もう少しいてくれたら、お互いに、もっと大きな商売ができたのにと言ってくれた。
 後任の担当者にも良く言っておいてくれと言われた。その際、これは信州の硯、木曽川の天然石から掘り出したもんだが、
 北島さんに記念品として送らせてもらうよと、上機嫌で手渡してくれた。二つ目は中信大学病院の医局の事務員さんとの
別れの時、北島さんの会社の前任の担当者は今まで医局事務員たちに、ちょっと会釈するだけで先生の居場所を聞くだけだった。
 しかし北島さんは、もっと深く来るたびに情報を取っていったね。そんな事は大手メーカーしか、やってないのに、
 たいしたもんだねと感心してくれていたそうだ。医局の事務員さんの、お茶飲み話になっていたと伝えられ、
自分の行動が的を得ていたんだと思い努力が報われた気がして、うれしかった。また旅行で松本に来た時は、ここへ
顔出しなさいよと笑って言ってくれた。女性は、よく見ているね、また敵に回すと、こんなに怖いものはない。味方に
できて本当に良かった。みなさん、お世話になりました。三つ目は東京出身で新しもの好きの久光講師。彼はパソコン
大好きな北島に興味を持ち、いろいろ、お互いに勉強し合った仲。久光先生は、ここでは珍しく純粋な人だった。
 別れ際に北島君は久光先生が信州に来て毎日毎日、仕事に追われて忙しい日々を過ごしていた時に来て、いろんな、
すごい事を提案してくれたり相談に乗ってくれたりして、本当にありがとう。おかげで、この大学は医療界に電子化の
先駆け的な病院になり最近では大きな企業や他の大学病院、医療機関から問い合わせが多く、世の中から注目される
様になった。久光先生がいつか、もし東京に戻って病院に就職したらぜひ来てくれよなと北島の手を固く握りしめてくれた。
 これには、さすがの北島も目頭が熱くなって思わず涙がこぼれてしまった。人と人のつながりの大切さをしみじみと
感じた出来事だった。

第22話:信州とのお別れの日。

 今年も九月となり、転勤する日が、近づいてきた。その週の週末に、
家族全員で、多摩に行き、借家を捜したが、三DKのマンションまでは
あるが、駅に近い、戸建ては、少なく、徒歩圏内では見つからなかった。
 駅から、車で十分程度の所に、築七年の四LDKの借家があり、
そこに決めた。バスで十五分、便数多く、駅まで行けばスーパーも、
何でもある所だった。不動屋さんで、契約して終了した。

 家賃は駐車場一台付きで月、十五万円、私の役職では月十万円まで、
補助金が出るので、実質、月、五万円の持ち出しとなる。
 小、中学校まで、徒歩十五分だった。
 
 数日後、ついに信州とお別れする日が、やってきた。
 松本駅から、特急あずさで、新宿に向かう電車の中、
 まず最初に目に飛び込んだは、雪をかぶった北アルプスの
勇姿である。思えば、仕事に、落ち込んでいるときも、いつも
、心を奮い立たせてくれた。凜として、神々しいまでの美しさは
、また、都会のビジネスの仕事場に向かう、企業戦士を熱く
送り出してくれるのには、十分すぎるほどの迫力だった。

 10分、過ぎると塩尻駅が見えた。ここから木曽方面に
、曲がりくねった国道十九号線を二時間ほどかけて
、通ったものだ。木曽の桧の臭いが、懐かしい。
 
 塩尻峠を越えると、岡谷、諏訪、右に、諏訪湖の優美な姿が
見えてくる。間欠泉センターは、日本で代表的な、天然の間欠泉で
、そこが、温泉施設になっていて、休日に、温泉を楽しんだものだ。
(現在、温泉施設は閉館して存在しません。)また数分後、
左手に蓼科、その奥に雄大な八ヶ岳があらわれてきた。

 夏の暑い日にドライブで車山高原、霧ヶ峰高原、美ヶ原高原の
山岳ドライブを楽しみ、美ヶ原を、涼しい数の中、散歩したのが
、懐かしい。小淵沢から山梨県に入り韮崎、甲府とつながる。

 一時間以上過ぎた頃に、やがて相模湖町が見えて神奈川県に入り
、続いて八王子あたりからマンション群が、建ち並び、都会の様子
となっていく。戦場に向かう、兵士の様な、武者震いを感じたのには
、北島自身、奇妙な感じがした。新宿に着いた。

 そこから、徒歩10分、我が社の東京支店である。そこで挨拶を
してまわった。顔見知りの女子社員は、やさしくお帰りなさいと言ってくれた。
 しかし営業の連中は、何とも言えない複雑な顔つきで、こちらを
見ていた。中には、いーよなー、成績の良い営業マンは、転勤でも、
わがままが言えてなどと、あからさまに、嫌みを言うものまでいた。
 多分これが、営業社員の本音なのかもしれない。
 めんどくさい相手が戻ってきた、また、大変だとでも言いたそうだった。

成上がり信州転勤編

成上がり信州転勤編

長野県に転勤後、毎朝、大学病院へ、人脈作り、パソコンの黎明期、医療のコンピュータ化の実験を大学内にパソコンクラブを作り、すすめていった。営業所開設、業績表彰。個人的な家の購入、PTA会長になった話、英会話教師との話など奇想天外なエピソード盛りだくさんの物語です。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-12-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第1話:信州、松本への転勤
  2. 第2:松本の借家とバブル
  3. 第3話:英会話教室での出来事
  4. 第4話:後輩が一人増えた話
  5. 第5話:英会話のサリー先生との出会い。
  6. 第6話:長岡の友人が遊びにきた。
  7. 第7話:レ線写真をコンピュターに取り込む実験とMACパソコン使い放題
  8. 第8話:八ヶ岳が見える家の誘惑
  9.  第9話:サリー先生との別れのキス
  10. 第10話:スキー旅行と松本に家を買う話。
  11. 第11話:松本営業所が出来る話
  12.  第12話:上山田温泉で芸者をあげる
  13. 第13話:中信MPC、冬の研修会 
  14. 第14話:地区PTA会長就任
  15. 第15話:真夏の夜
  16. 第16話:中信MPCの夏の研修会
  17. 17話:松本市PTA総会で司会を務める。
  18. 第18話:東京ディズニーランドへ行く。
  19. 第19話:長岡の友人との別れ。
  20. 第20話:松本のマイホームを売る話
  21. 第21話:北島の友人達との別れ。
  22. 第22話:信州とのお別れの日。