残る爪痕 血脈の果て 中編 「知覚」

残る爪痕 血脈の果て 中編 「知覚」

「濃霧」
 濃霧の中、アラシュは一人だった。オルの上で揺すられていようともそれは全く変わらない。そして、今までも、これからも、変わらない。
彼が数日かけ、ノメイルの首都ソノスから遥々ノースまで訪ねた翌日の事だった。十月も下旬に入っている。オルの体熱を僅かに感じながらの道すがら、トースの外気は極地用正式装備越しに、彼の肌を刺した。使い勝手が良いから、何かと融通が利くからと軍服を選んだが、そのような理由だけで服を選ぶべきではなかったと自身の判断を胸の内で叱責する。
身の凍えるような寒さの中、しかし瞬きの間の数瞬を除けば意思に反して目に入る、鬱蒼と茂る常緑林はあらゆる気候からも隔離されていた。豊満な緑で装い、濃霧と合わさって視界に立ちはだかる。限られた距離をいくら見通せど、判別出来るのは木々が水の粒子に落とす大小の直立した影ばかりだった。
足元を、歩行するオルの巨体越しに見下ろすと、自然界のトラバサミ原が大口を開けていた。これに足を持っていかれ、オルが転倒すれば、上に乗っている彼だって道連れになる。思い返せば、借りてから数日間、彼はこのオルを一度と名前で呼んだ事が無かった。それ所か名前を付けてすらいなかった。このオルのもどかしい程のたどたどしさはそれ故なのかもしれない。彼はオル貸しにも、名前を付けておかないと後々困る、と言い含められていた。結局今まで決めずじまいだったのだが、それがいけなかったらしい。名前を決めておけば良かったと後悔し、それに途方も無い諦めが混ざる。彼は今までモノに名前を付けた事が無かったのだ。
自分の現在地を風景から把握する事はほとんど出来ない。今までの過程からしか今の居場所を導き出す事は出来ないだろう。それを怠れば、均質に木々が延々と生え続けているこの森から出る事はおろか、歩を進める事すら危うくなる。果てには自身と森の境界線すら、紛れ、消えていってしまう。自分が森であり、森が自分であるように思えてくるのだ。そして今、自身が吸っている澱みの無い清澄な空気が森と自身の間の境界をじわじわと壊していくのを感じる。この、見もしない木々に吸われ、吐き出された空気には、全ての生物に普遍的に存在する汚れや醜さを含んで 存在しているのだろうか。だからこそ澱み無く清澄で、ヒトと同化出来るのだろうか。自問しても答えは出なかった。
 ここに留まってはいけない。自身の目的ばかりか存在すら見失う。
彼はオルの手綱を強引に引き、自身の気を無理矢理引き締めた。オルもそれに反応して速度を上げる。しかし依然果てしない普遍が彼の視界を通り過ぎていき、またやってきて、依然留まる。
最初の目的地まで、この孤独と忘我の交戦は止まないだろう、と彼は確信した。



「勧誘」
彼は左手に手綱を巻き付けながら、おもむろに右手を軍服のポケットに突っ込んだ。丹念に折り畳まれたきめの細かい紙の滑らかな感触が返ってくる。彼がこの深淵へと続く森に、半ば迷い込む原因が彼の手の中に握り締められていた。
本人曰く、「トース観光案内書」。
あるガゼルの少女と小一時間程和解の言葉を交わした帰りの事。トレラテと名乗る女側近に引き止められ、無理矢理これを渡されたのだった。
アラシュの父親であるミュールド=ニルシュト。その男に仕える側近のトレラテが、彼に何を渡すというのだろうか。疑惑に駆られ、手元に押し付けられたものに視線を向ける。
それは綴じられた一冊の本だった。しかも観光案内所と銘打ってある。
ふざけた話と一蹴する事も出来た。彼は前回の傭兵稼業で、借りていたオルを失うという莫大な損失を犯していたのだ。その損失分を直ぐに稼がないといけない。トースで二日も潰したくなかった。しかし紙面に目を走らす内に、自分でも奇妙な程に引き付けられるスポットを見つけた。
「トース内で暮らす唯一の人間の家」
彼は思わず口に出していた。そして彼の失言を、そばで窺っていたトレラテが聞き逃しはしなかった。
「それは知る人ぞ知る比較神話学者、スハイレル=クラルムントの住まいでございます」
『知る人ぞ知る』とだけあって、教養の無い彼が一度とも耳にした事の無い名前だった。そもそも『比較神話学』という学問すら全くの初耳である。
「現在彼はガゼル神話について重点的に調べており、この案内書にある署名を提示すれば彼と会談する事が出来ます」
その署名というのがミュールドのサインだった。
「ミュールド=ニルシュト氏は彼のスポンサーなのです」
取り繕った様子がありありと見える口調で、主より少し年を取って見える女側近は間髪入れず喋り続ける。
理由は未だ不明瞭だが、彼をこの「観光」に行かせるという意思は本当のように見えた。
女側近がいくら肩書きについて述べようと、彼はスハイレル=クラルムントの人となりを垣間見る事は出来なかった。しかし彼は決断した。
女側近の、彼には無用な喋りを遮り、明日会いに出発すると返事しておいた。そのときのトレラテの表情を彼は見逃さなかった。安堵と後悔。その原因を図る事はできなかったが、何かの前兆を感じた。今でもその表情が頭の片隅に陣取り、疑問を投げ掛けていた。
これはミュールドの引き金ではないか、と。
元々ミュールドは彼とは全く別の価値観で動いていた。腹の中など窺い知る事も出来ない。
この不可解な冊子も、策略の一端なのかもしれない。しかしトースの森を散策してもあの男の利益になるとは全く思えなかった。



「女中」
予め書斎に運んでおいた数匹のカワラバトがクルル、クルル、と声を上げる。彼らは伝書鳩であり、寧ろ送る側なのだが。
トレラテは、慣れた手つきで机の引き出しから数本の筒を取り出す。鳩に結わえ付けるための小さく薄い桐製の通信筒である。その中に一つずつ、署名入りの小さく折りたたまれた手紙を入れる。横で彼女の主、ミュールドが綴った手紙である。最後に、通信筒に付いている上下のバンドを伝書鳩の足に巻き付け、開かれた窓から一羽ずつ放つ。
主には毎日数通の手紙が来る。送り主は州主であったり、贔屓にしている武具商であったりする。内容も彼が治める州の内情に関するものであったり、趣味の天文学に関するものだったりする。そして全てに何らかの返信をする。それが、父ノスタリオール=ニルシュトより州主を引き継いでから二十五年間もの間、彼が一日と欠かさなかった習慣である。そして、それを伝書鳩に繋いで放すのがミュールド=ニルシュトの側近たるトレラテの習慣でもあった。
今日の手紙はいつもより少なめで、たった二通だった。
一通目はライク州の気象台からだった。
通年通りならノメイルの南を北西に向かって吹く風が、今年は寒冷化の影響でアンスル、ノース、レイク、ライクを通過する西北西の風になっています。その風に乗って旅行トカゲが前述の州の低空を通過するので、城に被害が及ばないよう、老婆心ながら対策を打つことをお勧めします。
寒冷化は何かと問題を起こす。作物は取れないし、病で倒れる者も増える。そして今度は旅行トカゲのルート変更。
主の返信には情報を伝えた事に対する感謝の気持ちが綴られていた。
二通目はガロレイド=シルドヴァイエル将軍から。
ネーズル王国の外交官が優秀な傭兵を至急、募集している。多額の仲介料が紹介者に払われるので、誰か知っていたらオルス港まで行かせてはどうか。期間は三日後まで。
そういえば、昨日ノース城を訪ねた青年は傭兵だと聞いた。主はトースからノースに戻った青年に一声を掛けさえすれば良い。それだけで青年にも主にも金が入る。期間についても、明日までにノースを出ればぎりぎり明々後日にオルス港に着く事が出来る。将軍の依頼をわざわざ断ろうとはしないだろうと思いながら主の返信を見ると、彼は将軍に謝罪の言葉を述べていた。何故だろうか。断る理由は無い筈なのに。



「細工」 
目前が濃霧から岩に変わった。最初の目的地に着いたようだ。しかし依然視界を占める乳白色は変わらなかった。青みがかってすら見える岩肌はこの場において迷彩色を為している。方位磁針が一度でも狂っていたら、詳細な行程が示されていなかったら、決してここを見つける事はかなわなかっただろう。気付かず素通りしてしまうか、見当違いの場所を探索してしまうか。その何れかになっていた。
目を凝らすと、この岩で唯一この風景から浮きだっているものが見えた。表面に付着した幾本もの黒い筋。恐らく腐敗した血液。ここで繰り返された惨状が容易に想像できた。
再び案内書を取り出す。この先は王族の砦。入り口は重々しく隙間の無い一枚の岩で厳重に守られている。案内書によると、岩は口伝でしか伝えられる事の無い手順に従わないと退かす事が出来ないようだ。しかし彼は五歳の頃にあの男の前から姿を消している。だから今まで手順を教えられた事が無かった。
その教えずじまいだった筈の手順がこの案内書の中に記載されている。この事も彼がこの案内書に抱く疑問の一端だった。
しかし幾ら思案しようとも、彼は答えを見つけられなかった。元より見つかる事を期待すらしていなかった。結局、彼にニルシュト家の人間の考えている事など理解しようが無いし、彼自身、理解しようとも思わなかったのだ。彼自身がニルシュト家の末裔ではあるが、彼はそれを努めて考えないように、思い出さないようにしていたのであった。
それに、当ての無い思案よりも本来の目的である観光に今は徹するべきであろう。それにここはただの観光場所ではない。
彼は案内書に目を移し、手順をなぞる。
まず、岩付近の地面を三十センチほど掘らなくてはいけない。彼は事前に手順を確認し、ノース内の武器店で見付けたシャベルを持参していた。鍬としても使えるようにと考案された物で、柄と刃の取り付け部分が回転し、折り畳みが出来る優れものである。彼は早速組み立てた。そして朧気な視界の中、岩の下にそれを振り下ろした。シャベルの先が濃霧を切るのを視認する。このとき彼は土にシャベルが食い込む感触が返ってくるのを予想していた。しかし帰ってきたのはシャベルが弾かれる感触。それに遅れて硬いもの同士が打ち合う音も伝わってきた。何度も試したが、反応は変わらない。不思議に思って振り下ろした先に屈み込むと、原因が判った。砂利や小石が魚の小骨のように混じり、シャベルの進行を妨害していたのだ。それに土は土で、長年の岩の重量で固められている。この地盤は掘るのに向いていなかったのである。
本当にこの行為に意味はあるのだろうか。
霧の篭もる森の中で一人、大して掘れもしない地盤にシャベルを突き立てている事の意味を彼は疑った。しかし直ぐに、掘らなくてはならない、という半ば使命感にも似た感情に駆られた。
彼にはトースから逃げる直前の記憶が無い。記憶が残っていないのは、少年だった彼の精神には受け入れがたい何かを知ってしまったので、それを抑圧し、忘却してしまったのではないか。そして、その受け入れがたい何かというのは、ニルシュト家の血筋に関する事柄ではないか。彼はそう予想していたのである。
ニルシュト家。その血筋には何か、常の理では説明出来ないようなものが潜んでいるのではないか。
呪い。古来の者が唱えるそのようなものと、あるいは似通っているのかもしれない。それを無意識に察知し、幼年の時、逃げたのかもしれない。
彼はこの奥に今まで謎に包まれていたニルシュト家の起源が隠されていると踏んでいた。今まで自身の出生について知らないままにしてきたが、ダクラという少女に出会ってから、彼はそのスタンスを変えようと思った。過去を忘れる事で縁を切ったつもりになっていたが、ただ避けるだけではいつまでもニルシュト家の影が彼を見逃さないという不安が彼を蝕むようになっていたのだ。
疑問を頭から消し去り、彼は再びシャベルを振るった。シャベルを地面に突き立てるのをやめ、少しずつ、小石を掬いながら地面を削るような掘り方に変える。すると、少しずつながら着実に穴が深くなっていった。
そのようにして掘っていくと、シャベルの先が小石以外の硬い物に当たる音がした。穴のヘリを左手で掴み、音の在り処に屈み込む。周辺の土を右手で掻き出すと、明らかに人工物と判る、手の平ほどの大きさの半円形が岩の下に張り付いた形で覗いて見えた。彼はその半円形を掴み、反ねじ回りに回す。すると彼の期待通りに半円形は外れた。半円形の後には奥と手前の二方向に可動な一本の棒が取り付けられてあった。その棒にはD型の持ち手がある。半円形はレバーを覆うための物だったのだ。彼は半円形を穴の外に置き、持ち手に手をかける。しかし奥にも手前にも動かさず、持ち手をねじ周りに回転させた。それが案内書に書かれてあった手順である。
耳元で数多の歯車が金属音を奏でる。下から仰ぐ目の前で、慄然と佇んでいた岩が荘厳な音を立てて左にスライドした。岩が半ばほどまで移動すると、奥でまた別の岩が右にスライドしているのが見える。入り口の上部に目を転じると、そこには手前の岩を押し出す機構があった。その機構は倒れた岩を戻すためのワイヤーで手前の岩と繋がっている。
レバーを動かせば岩は手前に倒れる。しかしその先には別の壁があるから依然洞窟には入れない。
レバーを回せば岩は二枚とも横にずれる。
D型の持ち手が付いたレバーを見れば動かしてしまう。これはその心理を逆手に取ったブービートラップだったのだ。趣味は悪いが、効果は抜群と思われる。何よりも岩肌に付着した血液が果敢な挑戦者達の凄惨な成れの果てを雄弁に物語っていた。
ここで命を失った多くの挑戦者を偲びつつ、アラシュは洞窟の中に入っていく。年中温度の変わらない洞窟の空気がアラシュの体を包み込んだ。



「回顧」
黄昏が近づいてきた頃合いだろうか。主が外出の用意を始めた。
「支度をするから席を外してくれ。あと、頑丈で細長い、そうだな、掌二つ分の箱を頼む。中に綿でも詰めてくれ。少々繊細なモノを入れるからな」
トレラテは主に一礼し、控えの間に移った。主は着替えの際に人目が入るのを極端に嫌う。二十五年前からだった。
とにかく、主人の望み通りの箱を探さないといけない。トレラテは土蔵へ向かった。控えの間が面している廊下を端まで行き、階段で一階まで降りる。途中ヤタ鳥の照り焼きの匂いがした。下女中が調理する夕食である。主は嫌がりそうだと思ったが、そのまま下へ下る。何故主が鳥料理を嫌うのかは分からないが、だからといって好き嫌いは良くない。たまには厭でも食べさせるべきなのだ。
一階に着き、中庭に出る。中庭では主が昔好きだった柊が傾きかけた陽に茜色に照らされていた。その隣に城壁に匹敵する程頑丈な土蔵がある。日用品は城内の収納スペースに納まっているが、書物や用途の限られたものは土蔵に入れてあるのだった。上女中として、トレラテは土蔵の鍵を持っていた。それを懐から取り出し、錠前に差し込む。かなり昔からある土蔵なので錆びてはいるが、役割を果たす事に支障が出る程老朽化した訳では無い。幾度か力を込めると、錠が開いた。重厚な扉を押し、中に入る。
土蔵は書物に付着する黴の臭いで満たされていた。鼻を片手で押さえながら容器の棚に移動する。容器は嵩張るので蔵の空間を大きく占有しており、容易く見つかった。その中から様々な箱を取り出しては、戻す、を繰り返す。
単純な作業を続けている内に主人の要望に沿えるような箱が見つかった。木製の、小さくて細長い箱。長さは掌二つ分。中には既に綿が詰めてある。トレラテにはこの箱を二十五年前にも見た覚えがあった。
二十五年前。トレラテはその日の事を一度たりとも忘れた事は無い。ミュールドが『豹変した』日の事を。

朝から冷たい雨が降っていた。引く気配も見せない。
主は当時、州主の跡継ぎとして学問に励んでいた。民俗学、ノメイル史、地政学、気象学、生物学。州を治める者として恥ずかしくない程度の学問を修めようと彼は必死だった。私はその傍で彼の補佐をする。
机の横から覗き込むと、主の横顔にはまだ少年のような幼さが残っていた。私にとって傍にいるミュールド=ニルシュトは主であるが、同時に弟のようでもあった。
主が十歳の時、私は彼の上女中になった。奉公を始めた当時の私は十五歳。上女中は主の身の回りの世話や接客をする者。ヒーラッフル家の娘として、結婚前の礼儀作法や家事の見習いとしての奉公である。今では主が二十四歳、私は二十九歳になってしまった。既にどこかに嫁ぎ、女中の任を辞している筈だった。
しかし私はどこにも嫁がず、主ミュールド=ニルシュトの女中を続けた。それは私が二十の時、家督メッケルン=ヒーラッフルがノメイルの国籍だけでなく貿易先であるネーズル王国の国籍も取得していた事がノメイル政府に露見し、家督を相続する前にノメイル国籍を喪失したからである。これは事実上のヒーラッフル家滅亡であった。私は良家の娘として嫁ぐ事は永遠に無くなったのである。その知らせは城内で受けたが、私は別段悲観してはいなかった。別にヒーラッフル家が滅亡しようとも家内の者は誰一人として死ぬ訳ではない。家族はただ裕福な生活を手放すだけなのである。家督メッケルンの処罰もノメイルへの追放だけだった。今まで多額の納税をしてきたメッケルンを厳しく処罰する事は出来なかったのだろう。それに元より私は誰にも嫁ぐつもりは無く、今の生活に満足していたのだった。
広々とした書斎を万年筆の紙面を擦る音が占拠していた。快い音は途切れる事無く続く。私は嵩張る書籍を出し入れしながら、ペン先と紙の奏でる音に聞き入っていた。
筆記の音が破られたのは日が傾き始めた時分。
小さいながら荘厳なノックの音がしたのだった。
「どうぞ」
 若かりし日の主は訪問者の入室を促す。
「どうだ。学問の方は」
 訪問者は主の父。ノスタリオール=ニルシュトだった。痩身痩躯の老体を質素なノース民族装束に包んでいる。少し左胸の辺りが膨らんでいるが、何か内ポケットに詰め込んでいるのだろうか。
「ええ。トレラテの手助けもあって、はかどりました」
 息子の肯定的な返事に、ノスタリオールは口元を緩める。
「そうか」
 呟いた後、彼は何かを逡巡する素振りを見せたが、直ぐに毅然さを取り戻した。
「トレラテ。席を外してくれ」
 ノスタリオールが命令した。彼が息子と二人きりでの会談を望むのはいつもの事だった。さして疑問に思わず控えの間に移動する。
 しかし退き際、私は異変を察知した。何か不穏なものを感じるのだ。女の第六感というものではなかった。寧ろ防衛本能に近い部分が刺激される。
 今日のノスタリオールは変だ。
 どこが違うのだろうか。今までのノスタリオールに関する記憶と照合する。
 彼の服装だ。
 今までは例外無く襟の高い服を着ていたのに、今日着ている民族衣装は襟が低いのだ。
それに微かな臭い。
腐臭。内臓を晒した鳩に群がる蠅。蛆。何故かそのような情景が思い起こされた。
控えの間と書斎を繋ぐドアに急いで、しかし可能な限り静かに駆け寄る。蝶番の軋みに注意しながらドアを僅かに開け、書斎を覗き見た。
机に向かう主の後ろでノスタリオールは勉強を見てやっていた。ドアからは二人の背中しか見えないが、異変は無いようである。寧ろ仲睦まじく感じるぐらいだった。
取り越し苦労だったか。安堵してドアを閉めようとした時、ノスタリオールの動きに変化があった。彼の左肘が横に張り出され、右肘は大きく曲がり、左右に動く。襟の左端が上下した。襟の動きがしばらく続くと、今度は両肘が左右対称に揺れる。左の内ポケットから何かを取り出し、その何かを胸の前で弄っているのだと分かった。しばらくして、左腕が垂れる。手には木製の細長い箱。中身が気になったが、きっと未だ下ろされていない右手にあるのだろう。それをどうするのだろうか。当ても無く考えている間に、目の前で彼は奇怪な挙動をとった。
右膝を主が座る椅子の背凭れに寄せると、そのまま重心を前に傾け、背凭れを押し出したのだ。主の腹は机の縁に叩き付けられ、椅子と机の板挟みになる。当然主は身動きが取れない。
ノスタリオールの上体がもがこうとする主に覆い被さり、声を上げようとする口は箱を持ったままの左腕で塞ぐ。主の動きは完全に固定されてしまった。突然の恐怖感に襲われて戦慄く主の首筋に、ノスタリオールは肩の動きで右手を押し付ける。
悲痛な絶叫がノスタリオールの腕から漏れる。しかし彼の声を聞きつける者はいなかった。彼を押さえ込むノスタリオールと、ドアの後ろに立つトレラテ以外は。そしてトレラテは、ただ立ち竦んでいた。ノスタリオールの背から放たれる執念が、人ならぬ異臭、父親ならぬ行動が、トレラテから主を守ろうという思考を奪っていた。
何も出来ないまま、時は過ぎてゆく。いつの間にか書斎は静寂で包まれていった。ノスタリオールは上体を主から離し、束縛を解く。しかし主は今まで自身を拘束したノスタリオールに対して全く反抗しない。ただノスタリオールに振り返り、自身の両手を凝視しただけだった。
「ミュールド」
 反応の希薄な主に、ノスタリオールは語りかける。主は焦点の定まらない視点をノスタリオールに向けた。
「お前はニルシュト家の家督となる資格を得た。そして今、お前に家督を引き継がせよう。晴れてお前はノースの州主となるのだ」
落ちる雫の冷たさは増しても、雨が降り止む事は無かった。

二十年前の記憶が朧気かつ鮮明に思い出された。
多くの物事がとんとん拍子に、不可思議に動動き出したのはその日の直後だった。
翌日。ノスタリオール=ニルシュトはニルシュト家家督、ノース州主としての権利を全て主に引き継ぐことを書に記し、一家内に公言する。その日主は襟の高い服を着ていた。以降も例外なく服の襟は高かった。あの日以前ノスタリオールのようでもあった。
二日後。主は従兄妹(といえど祖先はニルシュト家と大差無い)ネソリア=ウェルヴァウセルを伴侶に迎え入れる。それまで『近親である』という至極真っ当な理由で避けていたし、相手側も同じだった筈なのに。あの日を境に両者の意識は変わってしまった。
十ヵ月後。主とネソリアの間に男児が生まれ、ネソリアは亡くなる。生まれた子供は後にアーリュエンと名付けられ、五歳という幼年で逃走した。
一年後。ノスタリオールは自害する。理由は不明のまま今に至っていた。
唐突に探究心が頭をもたげ、今手にしている箱を詳らかに観察する。箱そのものは強度も耐耗性も高い欅の心材を削り出した物に、刻み組み接ぎなどあらゆる手を尽くして補強がされていた。問題は中の綿である。元々白い綿の中央部分が褐色に汚れていた。鼻から片手を外して臭いを嗅ぐと、あの時のノスタリオールの腐臭がした。間違いない。やはりこれは二十五年前に彼が使った木箱だ。
汚れの奥に何か黒い物が入っているのを見つけた。
元々入っていた物の破片だろうか。
疑問に思い、綿を指で開く。そこにあったのはカラカラに乾いた夥しい数の芋虫の屍骸だった。



「直線」
入り口からの光が届かなくなり、闇の手が間近に迫っていた。後ろに背負った背嚢から携帯型のアセチレンランプを取り出す。スクリューバルブを緩め、水滴を炭化カルシウムの塊に落とした。直に容器が反応で仄かに暖かくなり、容器に充満したアセチレンが火口から漏れるスースーという音が聞こえた。ランプを左手に移し、開いた右手でマッチを擦り、火口に近づける。穏やかに炎が現れ、火口の手前に取り付けられた反射鏡で前方が満遍なく照らされた。これで光源の心配は要らないだろう。
左手にランプを掲げたまま、洞窟を奥へと進んでいった。一口に洞窟といっても、ここは人口の空間だった。道は曲がる事無く真っ直ぐ続いており、排水の為か入り口側からは少し上り坂になっている。しかしその道を囲う壁面は人口とも自然物とも判別がつかないような奇怪な形状をしていた。数多の多角形のみが不規則に織り成す凹凸だけで構成されているのである。まるでこの世の物とは思えない程に鋭利な物体を用いてカッティングを施したようだった。その形状が光源を反射し、道の先以外から無数の光る目で監視されているような緊張感が背筋を走った。
恒常的な気温と容器から放たれる熱で、外の寒気に晒されていた時とは対照的に暖かい。寧ろ暑く感じる。空いていた右手の手袋を口で押さえて外し、ランプを右手に移して左手も同じようにする。ついでに被っていた帽子も脱ぐ。脱いだ衣類は無造作に外套のポケットに突っ込んでおく。すると暑苦しさは一通り消え去った。
どれほど経った頃だろうか、音の反響が遅れて帰ってくるようになった。どうやら開けた空間に出たようだ。しかも中央部分に向かって傾斜している。空間にあるくぼみの中程まで移動し、辺りをランプでつぶさに照らす。
今彼がいるのは背丈の六倍ほどもありそうな空間で、大まかには円形だった。今までの道と同じく多面体のみで構成されていたが、ここの構成は秩序だっている。宝飾店に並ぶダイヤモンドのような形状。いわゆるブリリアントカットいう研磨方式だろうか。
空間そのものの形状にも目を見張るものがありながら、その壁面には更に異様な物体があった。
蔦のように壁面を伝う十本の直線。全ての直線は同じ長さで、背丈の二倍ほど。五本ずつが一点で交わり、一対の手のようにも見える。二つの交点には金属光沢を放つ輪があった。直線はそれで束ねられているのだろう。
外套の右ポケットから案内書を取り出す。王族の砦についてのページを開くが、そこには記述は無い。ただ『爪。詳しい事はハイルドに聞いて下さい。』とだけあった。要は他人任せという事である。
専門的な知識は無いが、その場に佇み、自身の目で『爪』を観察する。
全ての直線は空間の上に向かっていくにつれて細くなっている。定間隔に節があり、そこだけが出っ張っている。それぞれの直線の節の数を数える。九本の直線には節が四つあるが、残った一本は他より若干短く、節が三つしかなかった。どうやら先端部分が欠落しているらしい。何故だろうか。気になるが、この疑問はハイルドに聞くまで考えるのはよそう。『下手の考え、休むが似たり』である。
もう少し分かる事は無いか。二本の輪に目を転じると、そこに何かが彫られてあるのが見えた。しかし彫りが薄く、この場からは詳しく見る事が出来ない。
アラシュは足を踏み出した。遠くて見えない。ならば、近付けば見える。当たり前だ。彼が二つの輪の内の一つに近付いたのは当然の行いだった。
しかし彼が人丈分程進んだ途端、目の前に制止が入った。
頭上から一閃が振り下ろされる。思わず仰け反る。弛緩していた危機感が絶叫を上げる。暗転する視界。
気が付くと彼は後ろに倒れていた。心臓がバクバクと脈打ち、体中を冷や汗が伝う。
視線の先、そう遠くない場所。一本の爪が反射したランプの光から浮き出されていた。その切っ先は彼を微塵も外さない。これがアラシュに向かって振り下ろされたのだと理解するまでに幾程か経った。
視界の左側が赤い時雨で汚れた。
額が切られたという事に気が付いた。
爪に殺意があるのだろうか。信じられなかった。
爪に殺意がある。受け入れた。少なくとも、彼に危害を加えたのが爪であることを。
彼はそのまま動かなかった。動いていない間なら、爪は動かなかったから。
次に彼は姿勢を維持しながら、呼吸が止まっていた事を気付き、口を開ける。暖かい空気が体の奥、隅々まで届く。直ぐにそれを吐き出す。それを繰り返す内に頭に血が巡るようになってきた。思考も晴れてくる。
改めて爪を見る。爪は節で曲がっていた。輪に固定されたままである。そして、彼が今壁から背丈二つ分離れている事に気付いた。爪は今以上彼に近づけないのである。
分かってみれば、彼は対応が不可能な程に追い込まれている訳ではなかった。ただ後退すれば良い。実際にそうやり、爪の切っ先から五歩ぶん離れた。爪は蛇のように俊敏で底知れない。だが、あの輪の束縛から逃れる事は出来ないのだった。
可笑しかった。滑稽だった。愉快だった。緊張はやってきた時と同じ位に突拍子も無く去ってしまう。去ってしまった後の空白は場違いな程の高揚感に乗っ取られる。
洞窟を揺るがしそうな大声で、彼は笑った。はらわたが避けるそうな程笑った。
空白に現実感が戻ってくるまで、彼はただ笑っていた。



「疑念」
主の部屋に戻った時、彼の支度は既に終わっていた。
 結局トレラテはあの木箱に不吉なものを感じ、別の木箱に綿を詰め込んだ。
「何故この木箱なんだ。もっと適切な物があっただろうに」
 主が私の選択を咎める。
「あのような黴臭い蔵ではそれ程長く探し物をする事は出来ません」
 トレラテは咄嗟に弁明した。
「どうかそれで我慢して頂けますか」
 彼女が謝罪を述べると、主は渋々ながらも了承した。
「なら仕方が無い。これから我輩は出かけるから、後は自由にしてよい」
 いつも通りに言って、主は背を翻す。
 いつも通りなら、トレラテも理由も聞かず、無言で主を見送っていた。それで全く問題無かった。しかし今日は違う。今日の外出には何か重要な意味がある筈だった。
「ご主人様。つかぬ事をお聞きしますが、今日の外出はいかなる用事で」
 トレラテは勇気を振り絞って主の背に問い掛けた。今までに無い行為だったので、声が少し擦れてしまった。
「なに、アーリュエンはまだトースにいる筈だろう。そいつにまた会いに行くだけだ。昨日では駄目だったからな」
普通の理由に思えた。確かに十九年前に失踪した息子がまだ近くにいるのだから、会いたいと思うのは父親として当然の心情だろう。別段何かを危惧する必要は無いように思えた。まだ頭に何か引っ掛かっているような気もしたが、無視した。
何ら疑問も持たず、トレラテは城の前まで主を見送った。
主が地平線に消えた時、トレラテは頭に引っかかっていた何かを思い出した。
 今、アーリュエンは二十四歳である事。
 主が豹変したのは二十五年前の、丁度今日である事。



「学者」
 哄笑が収まったアラシュは一先ず額の傷を止め、洞窟を後にした。出掛けに入り口のレバーを反ねじ回しに回すと、岩は二枚とも横にスライドして入り口を封じた。これでこの洞窟は王族内部の者が再び訪れるまで砦を守り続けるだろう。
 アラシュは洞窟内の事は一先ず忘れ、道を急いだ。陽が既に没していたからだ。今までと同じく慎重に、かつ着実にオルを進める。
 幸い二番目で最後の観光地「スハイレル=クラルムントの家」は洞窟からさほど離れておらず、直ぐに着いた。それはこぢんまりとした山小屋だった。円錐型の屋根から煙突が突き出し、暖炉でも炊いているのか、その煙突は黒煙を吐き出していた。一応ガゼル文化の建築技法に則っているようには見える。
人ならぬ身体能力を持つガゼルにとって建築の基本理念は先ず丈夫さなのである。住み心地やデザインも、丈夫さの二の次という事になっている。ガゼルにとって全ての物質は人間が体感する以上に脆い。人間の住むような建築物では普通に生活するのも大変なのであろう。
 アラシュは堅牢に石が詰まれた山小屋へ近付き、どっしりとしたドアにノックする。少し経つと、重厚感溢れる音を響かせながら、これもまた石を削り出して作られたドアが内側から開かれた。やっと肩が入る程度の幅でドアは止まる。どうやら蝶番が馬鹿になっているようだった。そこから白髪交じりの男が顔を出す。男はアラシュを見るなり、目を大きく見開いた。そのなりのまま、何も言わない。ただアラシュの顔を凝視し続ける。
 男の驚き方にアラシュも混乱してしまうが、相手がどのような反応をしようと、彼には男と会談するという目的があった。それに外は寒いので中に入りたいという基本的な欲求も彼を動かした。ポケットから案内書を取り出し、父の署名を提示する。
 すると相手は合点したようで、アラシュを小屋に招き入れた。
「どうぞお入り下さい」
そういって男はアラシュに背を向けた。背後で男が呟いたのを彼は聞き逃さなかった。
「ミュールド。このような形で俺とアラシュを会わせるとは」

居間には中央に向かい合った二つのソファ、その間に円卓、壁沿いに本棚があるだけだった。少し狭いが暖炉の効きが良く、凍えていた四肢が直ぐに温められる。
「私はただの神話学者だ。各国の神話について話す事しか出来ない。その私にわざわざ会いに着た貴方は何者であるのか、教えて頂きたい」
 スハイレル=クラルムントは謙虚な話し方をする男だった。姿勢も全く歪みがなく、厭味も無い。極めて自然体だった。自身の『学者』という肩書きについても無闇に持ち上げる事はせず、あくまで対等の立場で語ろうとしていた。
「私はアラシュ=マーセナル。雇われ兵です」
 アラシュもスハイレルの気持ちに応えようと、可能な限り丁寧に返答する。
「ではアラシュ殿。貴殿は私と何を話しにいらっしゃった。わざわざこのトースの辺境まで」
 男に来訪の理由を尋ねられる。答えを用意していた訳では無いが、既に腹の中は決まっていた。
「私はただ、王族について、ひいては自身について知りたいのです。王族はいかにして現れ、自分はその流れのどこにいるのか」
 アラシュの言い分を聞き、男はただ「そうか」と漏らした。そしてゆっくり、諭すように語り始めた。
「アラシュ殿。少しその事は忘れてみないか。王族の歴史は長く、そして深い。彼らは神話と共にあったのだから、至極当然のことだ。そしてそれは一人の人間に負えるような話ではない。
貴殿のような境界線上に立つ者は特にそうだ。
私のようにただ紙と向き合う者は、貴殿より更に頼りない。
私などを頼ったところで何も変わらない。しかし貴殿はまだ変えられる。変われる。選択肢がある。諦めるという選択肢と、無謀に関わり続けるという選択肢が。
さあ。貴殿はどちらを選ぶか」
スハイレルの思慮深さには感嘆の念を抱いたが、アラシュの心は既に決まっていた。
「私は、王族の過去を紐解く事を望みます。たとえそれが苦難に満ちたものであろうとも」
 アラシュの返答に、男はまた「そうか」と呟いた。
「貴殿の志が代わらないのであれば、私は貴殿に私の持てる全てを託そう。神話を紐解く事しか私には出来ないが、それでも良いか」
 アラシュは静かに肯定した。
「はい。神話について、教えて下さい」

 世界各国には様々な形態の様々な神話がある。しかし全ての神話には多くの共通点がある。その一つが、全ての神話には必ず神器と強大な怪物が登場する事だ。
強大な怪物は神器で倒され、神器は強大な怪物から生まれる。全ての神話には多かれ少なかれこのパターンがある。
例えば、ノメイルでは九首の龍と剣、トースでは山嵐と爪、トスキールでは蜂と槍、ネーズルでは鳥と盾、と言った具合だ。

二重の円を中心に二対の翼、下から二本の直線が延び、交差する。これはホーキョク、カカミ、爪に共通して刻まれている紋章だ。ホーキョクの紋章は少々歪だが、一応同じものと見なせるのでここも同列に語る事にする。またこの紋章は、海外で神器と評されているものにも、些か変形はしているものの、刻まれている。全ての神器には何か、製造時点で共通項があったに違いない。もしかしたら銘のようなものなのかもしれないが、断定は出来ない。

全ての神話に共通する要素だけしか持っていない神話。それがガゼル神話だ。逆に言えば、ガゼル神話は全ての神話の根源、言わばパクリ元に一番近いものと思われる。そのガゼル神話には合計五つの神器があると書かれている。これは明らかに世界各国の神話に登場する神器の総数よりも遥かに少ない。仮にノメイル神話の三種の神器が本当ならば(実際ホーキョクとカカミの存在は確認されている)、爪と合わせて四つ。後一つしか神器が無い事になる。しかし具体的な名前や形状が紹介されているのは『爪』という神器だけで、他の三つの神器についてはその存在が示唆されている事しか分からない。

これが、神話学者スハイレル=クラルムントの最後の講義だった。
「最後に、一つ聞いても良いですか」
 思わず疑問に思ったことを聞く。
「何だね」
 それはスハイレル自身の事だった。
「貴方は何故ミュールド=ニルシュトの世話になり、このトースで暮らしているのか」
「そんなことか。これはくだらない男のくだらない話だ。比較神話学者と名乗っただろう。昔は神話収集の為なら戦場にも出向く程に、男は学問に没頭していた。しかし三十年前に発表した論文がノメイル政府に有害と見なされ、追放を言い渡された。そこで男は追放先にトースを選んだ。ノメイルでの追放の仕方は、猶予を与えた後で全ての州に指名手配するというものだった。今は違うが、当時はそうだった。だから男は浅はかにも思った。人間に統治されていないトースに移り住んでも法には触れない。それにトースには未だ収集した事の無い多くの神話が眠っていると。
男はノース城に駆け込み、ノスタリオール=ニルシュトに対して、ニルシュト家がガゼルの王族であることを仄めかした。二百年前のトース条約締結は人間側の立会人であるモルタイン=ニルシュトがガゼルの中の長でないと成立し得ないという事を根拠にして、だ。男は事実を口外しないこと、ニルシュト家にあるガゼル神話やその他の資料を分析する事を条件に、自分のスポンサーになってくれないかと持ち掛け、以外にも快諾された。
以後、五年間ほど男は城内で学問を続けた。時折ミュールドの家庭教師をする事もあったが、それを除けば自室に篭もって資料と格闘していた。男はその暮らしに満足していたが、ある日転機が訪れた。ミュールドに紹介されて、週に一度ノース城を訪れるネソリア嬢と会話するようになったのだ。男とネソリア嬢は直ぐに仲良くなり、会う毎に親密さを深めていった。男は幸せだった。
しかし、男の幸福は長くは続かなかった。ネソリア嬢は彼女が嫌っていた男の伴侶になり、その翌年の出産直後に亡くなった。元より永遠に続く幸福など無いのは当然だったか、終焉はあまりに唐突だった。
男はあまりのショックで、城にいること自体が耐えられなくなり、城から離れたこの小屋で研究を続けた。彼は研究をしている間だけあらゆる煩悩を忘れる事が出来た。結局、研究は男の逃げ道でしかなかった。先ほどまで話していたことも、本棚に詰まれた論文も、彼にとってはただの気紛れの副産物だった。
さあ。これで話は終わりだ。夜も深いし、今夜はここに泊まりなさい。気兼ねはいらない。私の話に付き合ってくれたお礼と思ってくれれば良い
あと、スハイレル=クラルムンドは論文を書くための、いわゆるペンネームだ。本名はハイルド=ドカルノセレムル。何と呼んでも構わない。一応ミュールドには名前を呼び捨てされているから、その方が違和感が無い」
最初から最後まで冷静に物語った男の目は、深淵を湛えていた。



「芋虫」
あのような事を、他ならないアラシュの前で話しても良かったのだろうか。彼に関する部分は全て省いたが、薄々彼はそれが自分に関する事であると感じ取っていたのかもしれない。
ハイルドは一人、居間の椅子に身を委ねていた。アラシュには複数ある空き部屋の一つをあてがっておいてある。再び、三十年の間そうであったように、居間は静寂に包まれたていた。しかし来訪者の痕跡は遍在している。
振る舞わられた料理の皿。
玄関に揃えられた(やったのは彼だが)泥だらけの靴。
 全てが今日の出来事を物語っていた。しかしその経緯は未だ分からずじまいだ。
 何故アラシュはここを訪れたのか。彼の所在を知るのはミュールドだけだが、アラシュはそのミュールドを遠ざけていた筈。第一、アラシュがニルシュト家との縁を切った原因がそれなのである。
 もしくは、何か時期的な要因が二人を再会させたのか。一ヶ月前にガロレイドが組織した部隊がトースに侵入し、撤退した。その部隊には傭兵が一人いたと聞く。もしもそれがアラシュだとしたら、ミュールドは部隊名簿からアラシュの足取りを辿ったのか。未だに疑問は残るがそれ以外の説は思い付かなかった。
 少し肌寒くなってきた。間にあったソファ越しに暖炉に目を遣る。火の勢いが弱まっていた。どうやら溜まった灰を長時間取り除き忘れていたようだ。話に没頭していた事に初めて気付く。彼は暖炉の横に立て掛けてあった火掻き棒を手に取り、灰を取り除こうと先端を灰に沈めた。しかし先端は二センチ程埋まるだけですぐ底に当たる。灰が局地的に固まっているのだろうか。周囲を掻き回すが、どこも積もっている灰は薄い。違うようだ。原因が分からないまま灰を掻き回し続ける。
 火掻き棒越しに、場違いな弾力が伝わった。ハイルドは息を呑む。灰の中に見慣れない物がいる。ずんぐりと太い芋虫だった。首には太い毛髪の様な黒い刺が生えている。頭と尻にそれぞれ嘴、針状の突起が突き出ている。それが胴をうねらせながら移動していた。先端が当たるとその先から青い液体がこぼれ、すぐに凝固する。ハイルドは気味が悪くなった。灰とまとめて芋虫を慎重に取り除こうとする。しかしその行為は新たな闖入者に遮られた。
 また芋虫である。上から落ちてきて、火掻き棒の上、彼の手から拳一つと離れていないところだ。驚愕の余り火掻き棒を手から落とす。それは灰に落ち、土煙が上がった。少し気管に入り込み、思わず咳き込む。彼は暖炉から後ずさった。
何かが起こっている。あの暖炉で。しかし何が。
 わざわざ現地まで赴いて神話を蒐集してきた現物主義の血が差沸いたのだろうか。この目で確認しないといけない。言いようの無い好奇心は恐怖心を凌駕し、ハイルドを焦がした。
 少しずつ暖炉に近寄る。二匹の芋虫が嫌でも目に入り込んだ。そして彼は気付く。火が消えているのは芋虫がその上を歩いた部分なのである。そして芋虫は火を消すとほんのり夕日色に染まる。
まるで火を喰らっているかのように。
暖炉に手が届く所まで来た。どうしようか迷う。上から落ちてきたのだから、上を覗くしかない。しかし狭い暖炉に頭を突っ込む事は躊躇われた。何かないか。辺りを見回す。
視界の隅に小さなスタンドの付いた鏡を見付けた。これだ。彼はそれを手に取る。斜めに傾けながら暖炉の中に入れた。鏡に反射した光が彼の目に飛び込む。
居間の天井、暖炉の縁、そして、
煙突に這いつくばる、無数の芋虫。彼の目と、下を向いたその歪な目が合う。その複眼に自身が無数に写っている気がした。
 彼は急激に後ずさった。背中を傍のソファに叩きつける。はずみで鏡を落とした。それは幾筋にも割れ、小さな破片となった。天井に下がったランプの光は八方に散る。
 ドアがノックされた。ハイルドは腰を上げ、ドアに向かう。暖炉は消えているが、そこは我慢してもらおう。そもそもこんな夜遅くに訪ねる方が悪い。
 それにしても、今日は客が多い。
 彼は閂を外し、ドアを開けた。ドアは肩幅余りしか開かない。一ヶ月程前から蝶番が馬鹿になってしまったのだ。実生活に支障がないので、そのままにしている。
「やあ、研究の進み具合はどうだい」
 ミュールドだった。ミュールドと会うのは何十年ぶりだろうか。ハイルドの知っているミュールドとは違い、今彼は首筋を隠していない。
「お久しぶりです」
 再会の挨拶を口にしながら、頭を下げる。視界が自然に下を向き、ミュールドの足下が目に入った。
 一体何度目だ。芋虫が玄関に向かって前進していた。何匹も、である。
 ハイルドはミュールドに、何か得体の知れない物を感じていた。アラシュの来訪にせよ、芋虫の事にせよ、不自然なことが立て続けに起こり過ぎていた。
「中に入れてくれ。火が消えていようと、いくらかは外より暖かいだろう」
「ええ、まあ」
 言いながら振り返ると、丁度最後の灯火が芋虫に喰われていた。暖炉はドアに遮られ、外からの死角にある。ハイルドはミュールドの言動に悪寒を覚えた。しかし彼は指示に従った。脇に退いて、狭い入り口を開ける。ミュールドは肩を傾け、山小屋に入った。
「やはり消えていたか」
 居間に入ると、ミュールドはさも当然そうに発言した。更に違和感が増大する。
「椅子に座ってくつろいでいて下さい。お茶を入れてきます」
 ハイルドは一番ドアから遠い席を示し、足早に台所へ下がる。振り帰り際、ミュールドのズボンの下から芋虫が床に落ちた。
「そういえば、アラシュは来ていやしないか」
 背を向けるといきなり、質問された。思わず立ち止まる。ハイルドは、自身でも意外な事に、パトロンに真実を打ち明けようか迷った。明らかに今日のミュールドは変だ。ズボンに芋虫を忍ばせるなど正気の沙汰では無い。
 そのミュールドはアラシュに一体何の用があるのだろうか。見た限り、アラシュはミュールドに懐柔された様子は無い。きっとミュールドの来訪はアラシュにとって不都合に違いない。
何より、ハイルドはアラシュをミュールドに会わせたくなかった。
「いいえ。来てはいませんが」
「そうか」
 声が震えていないか心配だったが、どうやら切り抜けたようだ。
 ハイルドは茶を用意しながら、数々の違和感を検証した。
アラシュの来訪。これは想定外ではあるが、問題では無い。
アラシュに続くかのような、ミュールドの突然の来訪。一体どのような目的なのかは分からないが、ズボンの下から芋虫を落とす時点で異常かつ危険である。
蔓延る芋虫。特徴は首の棘、尻の針、頭の嘴と見られる突起である。世界各国で見かけるが、本来あまり海や人家に近寄らないはずだ。それが我先にとこの小屋に押しかけている。
待て。棘、針、嘴を持つ芋虫を落とす男。これはガゼル神話に登場する王家の始祖の事ではないか。始祖は彼のみが適合できる「爪」を使い、王族の砦を巨岩の内側から削りだした。彼はそこで餓死を遂げている。彼が生前に残した子孫の内、娘は後の王族となり、息子は人間の世界に人間として溶け込んだ。それは娘が「爪」と適合できないながらも、始祖に準ずる身体能力、交感神経を有しており、息子にはそのどちらも無く、知能と道具を扱う技能以外の全ての能力が人間の範疇に漏れないものだったからである。
これは王族の起源に言及する神話だが、同時に今ではどこにでもいる芋虫の発祥を物語ってもいる。その中に、始祖が巨岩を削りに行く道中を後で確認すると、そこには今まで見た事も無い芋虫が、丁度始祖の辿った道筋をなぞる様に蠢いていたという記述があるのだ。
問題はそのときの始祖の精神状態だ。彼は見かけた人間を全て惨殺したと記録されている。もし現在ミュールドがそのときの始祖と似たような精神状態にあるならば、ハイルドとアラシュは非常に危うい状況に立たされている事になる。いつミュールドが襲ってきてもおかしくないのだ。
ハイルドは決心した。己の保身は二の次だ。今はアラシュだけでも逃がさなくてはならない。
しかしこの状況でどうやって。アラシュにあてがった寝室は二階、丁度台所の上にある。二階への階段は居間から続いている。従ってミュールドに察知されずに二階に行く事はできない。無論大声を出すのも慎まなければならない。
恐らく寝ているであろうアラシュを起こし、どこか遠い所、例えばオルス港まで逃げるように伝える方法。それを考えあぐねていると、調理台に置かれたゴムの実が目に付いた。
台所と二階の客間は同じ場所に窓がある。その向かいには大木が立っている。台所の窓は縦横二十センチ程、だが、客間のそれは十分に人が通り抜けられる大きさだ。起こされたアラシュに窓から下りるよう手振りで指示すれば良い。
それ以前に、物を正確に投げる事が出来るかわからないが。
我ながら子供染みた考えとは思いながらも、試しにやってみる気になった。この方法なら居間を通らなくて済む。傭兵であるアラシュなら手荒に起こされても大声を挙げる様な不注意はしないだろう。幸い窓はベッドの枕付近にある。窓を通り抜けた実で彼が目を覚まさないはずが無い。
仮にもうまくいけば、不都合は何も無い。駄目で元々。失敗したらまた別の案を探そうと頭の隅で考えながら、ハイルドはゴムの実を仰角大きめに、大木に向かって投げつけた。
期せずして、大木に反射した実は吸い込まれるように客間の窓に入った。



「忌憶」
熟睡の最中にあった頭に、弾力のある拳大の物が当たった。
奇襲だろうか。アラシュは休眠から戦闘体勢に切り替えた。頭脳は瞬時に明晰になり、神経は張り詰める。物体の飛来してきた方向から離れ、ベッドの陰に身を潜める。気付かれないよう一切の音を立てずに五感を澄ませた。とりあえず半径二メートル以内に人の気配は無い。彼は警戒を緩めずに、今まで自身が横たわっていたベッドの上に目を遣る。そこには細い棒状の突起の付いた黒い球体がある。手榴弾のようだが、柔らかいベッドに着地して不発に終わったらしい。もし正常に起爆していたら生存は不可能だっただろう。僥倖だったと言う他は無い。しかしまだ危機が去ったという訳でも無い。手榴弾の不発を不審に思った敵が更なる攻撃を仕掛けてきてもおかしくは無いのだ。触発させないようベッドを回り込み、窓の傍らに張り付く。恐らく手榴弾を投げ込まれたのはこの窓だ。そこから外を覗く。物々しい部隊が配置されているようではないが、油断はできない。茂みや大木の陰、あるいは眼下に潜んでいるかもしれない。盲点となりやすい下の方に目を向けると、確かに怪しい物が見えた。小屋の窓から突き出された一本の手が下を指差している。その窓は人が通り抜けられる程に大きくないから、きっと仲間を屋内に誘導するための合図を発しているのだろうと彼は推測した。この部屋に直接人員を送り込もうとしているに違いない、と。
窓枠に手を掛け、そこから真下に飛び降りた。部隊がこの部屋に着くと彼に逃げ場は無くなる。残るは今彼が外を窺っているこの窓だけだったのだ。
姿勢を崩さぬよう両手で平衡を保ちながら、迫り来る衝撃に備えて膝に力を込める。
彼は音も無く着地した。体重を膝で殺し終えるとすぐに壁に張り付く。まずは指示を出している男から始末しよう。窓ににじり寄り、そこから突き出ている左腕を掴んで下に引く。その腕の上を滑るように手刀を、窓枠越しに露になる頚椎に打ち込む。しかしそれは阻まれた。相手が窓枠と首の間に右腕を差し込んでいたのだ。
「何をしている」
 窓枠越しに押し殺した、つい先ほど聞いたばかりの声が聞こえた。
 これはハイルドの声だ。
 何故だ。誰か、例えばミュールドに買収されたのか。それにアラシュが物音を立てないのは他の隊員に察知されないためだが、ハイルドには声を荒げない理由は無い。むしろ大声で仲間に助けを求めるのが自然だ。自分に敵対していると判断するにはあまりにも行動が不自然すぎた。
「何を誤解しているのかわからないが、私の言う事を一旦聞いて下さい」
 混乱している頭にハイルドの冷静な言葉が浴びせられる。それを聞いて、アラシュはハイルドを信用する気になった。先程起こった事の原因は未だわからないが、ハイルドはそれに関与していない。アラシュは掴んでいたハイルドの左手を離した。ハイルドは安堵に一息つくと、ゆっくり確実に話し出した。
「居間に貴殿を追う者がいます。私が彼を留めておきますので、その間にオルス港へ行って下さい。出来ればそこから海外へ逃れて下さい。彼も海外まで追ってくる事は出来ません」
 急に逃げ出せと指示され、アラシュは混乱した。特にハイルドの言動の中核にある『彼』というのが一番の謎である。それさえ分かれば対処法の意味も自ずと分かるだろう、という事でもある。
「『彼』というのは誰ですか」
 ハイルドは躊躇いがちに答えた。
「私の雇い主です」
ミュールド。紙だけ渡してアラシュをトースに行かせた男が、その深夜にわざわざ尋ねてくるのは全く利に適わない。しかし他ならぬハイルドが言うからには、そうなのだろう。アラシュは、自身でも不思議な事に、出会ってまだ数時間と経っていないハイルドに対して全幅の信頼を置いていた。それは彼の持つ誠実さと、ミュールド家との距離感に対する類似性が、彼に親近感を抱かせたからかもしれない。
 確かに来訪者がミュールドなら、海外へ逃げればガゼルに追跡される恐れは無い。州主は自身が統治する州から将軍の許可無く離れることができず、ましてや海外への許可は前例が無い。海外へ渡る事ができるのは登録済み傭兵だけであり、ガゼルが傭兵になる事などありえない。海外に行けばミュールドのみならず、ガゼル全般から逃れる事が出来るはずだ。
眼下を蠢くシルエットに気付く。窓枠に芋虫が止まっていた。アラシュに釣られてそれに目を遣ったハイルドは顔を原始的な恐怖に歪めて仰け反る。顔が窓枠から離れ、ハイルドの肩越しに台所内部が見えた。至る所に芋虫が這いつくばっている。小振りな流しや木製のまな板、湯気を立てているケトルの上にまでだ。ネーズルにもトスキールにもいる、人家には入らず、作物も食い荒らさない、ただの平凡で人畜無害な芋虫だ。しかし彼の記憶は、そのような位置づけをさせなかった。彼にとってそれは、原体験の引き金に吊り下げられたおもりでしかなかったのだ。
芋虫の大群が、彼の意識を蝕んだ。

 せまいすきまに、ひかりがさしこんでいる。じょちゅうがぼくをよんでるみたいだけど、よくきこえない。
 いま、ぼくはちちうえのへやにあるようふくだんすのなか。たくさんのふくがはんがーにかけてあって、ちょっとあせくさい。
 いま、ぼくはじょちゅうとかくれんぼしている。じょちゅうがおにで、ぼくはかくれないといけない。
 おとがした。どあがひらくおとがした。だれかがはいってきた。どあがしまるおとがした。かぎがしまるおとがした。
 せまいすきまのまえに、はいってきたひとがたった。ちちうえだった。つかれたかおをしていた。ちちうえはたんすのとびらにてをかけて、ひらいた。
 ひかりがすごくつよくなった。ちちうえはかたてでたんすをかきまわした。ぼくはみつからないかとびくびくしたけど、おくのほうにいたのでちちうえにはみつからなかった。
 めあてのふくをみつけると、ちちうえはたんすのまえにあるつくえのうえにふくをおいて、きていたうわぎにてをかけた。そういえば、いままでちちうえがふくをぬいでいるのをみたことがなかった。
 ちちうえのくびすじがまるみえになった。そこにはくろいせん。ちがう、よくみると、
 せなかに、はんぶんうまった、いちれつの、いもむしだった。

「大丈夫ですか」
 ハイルドの呼び声がアラシュを現実に引き戻した。顔をまた窓枠に近づけている。一通り芋虫を払ったのであろう。
「はい。大丈夫です」
 大丈夫ではない。喉は灼熱の砂漠のように渇き、肌からは渓谷の滝のように汗が流れている。だが、無闇にハイルドを不安にさせる訳にはいかない。これはアラシュ自身の問題だ。他人の手を煩わせるような事では無い。
「確かに海外に逃げれば追っ手は来ないでしょうが、生憎今は手持ちが無いのです」
 アラシュは前回の仕事で、借りていたオルを駄目にしてしまってた。
「貿易船に乗せて貰えるかどうか」
 海を渡るには貿易船に乗せて貰うしか無いが、それには高い依頼料が必要なのだ。
「私も金銭の持ち合わせはありません。今の生活には使わないので。ただ」
 何か良い案があるのであろうか。
「現在トスキールとネーズルは兵をトルカセニレ島に集結させ、対帝国戦に備えております。かなりの大型戦が予想されますので、傭兵の募集もあるでしょう。オルス港に派遣船が停泊しているかもしれません。ただ、もしそうなら離港が近い筈です。急がないと間に合わないかもしれません」
 ソノスを離れて療養中だった所為であろうか、アラシュはその事を知らなかった。なるほど。海外派遣なら仕事も海外亡命も、むしろ報酬を得ながら達成する事が出来る。確かに申し分無い提案だった。出来過ぎた感もあるくらいだ。
「わかりました。貴方の提案に従います。オルを飛ばせば三日で行けますよ。ですが、良いのでしょか。ミュールドの足止めを御頼みして」
「茶を御出しするだけです。そこまで警戒なさる必要は無いですよ。貴殿は早く出発してください。これ以上話していては主が不審に思われます」
 確かに出発は早ければ早い程良い。ここでこれ以上話し合っても進展は望めないだろう。
「わかりました。貴方の助言に従います。本日はお世話になりました。またいつか会う時も、よろしくお願いします」
 アラシュはハイルドに惜別の言葉を告げた。
「ええ。私も貴殿にお目にかかるのを楽しみにしています」
 ハイルドの返答を背に、アラシュは裏の納屋に止めたオルを連れ出した。芋虫は小屋近辺に遍在している。心無しか、オルも怯えているようだ。
「すまないが、三日間、走り続けてもらうぞ」
 アラシュはオルの巨体に小さく声をかけ、それに跨がった。



「出航」
 一日八時間、合計二十四時間走り続け、アラシュとオルはオルスに到達した。
 アラシュは小高い丘の一つからノメイル唯一の貿易港を見渡す。海岸線は端正な弧を描き、それと水平線に縁取られた海は微かに欠けた月のように見えた。

 彼の立つ丘はそのままオルスを囲んでいた。この地形はオルスにおける運輸を少々不便にしているが、代わりに海岸線の防衛を容易にしている。上陸した敵軍を最小限の軍事力で足止めできるからだ。彼の背後には陸軍基地がある。そこから丘を挟んで港まで続いているのが海軍基地だ。
 眼下には来航者のための居留地があった。ノメイルでは、将軍家の許可を得た商人以外、オルスより内陸に入る事は禁じられている。大抵の取引は船上か居留地内で行われるのである。そしてそれを囲んでいるのは高い有刺鉄線付きの壁、その中央にある間隙は検問だ。そこで州の役人や著名な工房の仲介者は身辺と売り物を厳重に検査される。人身売買や芸術品の海外流出を防ぐ為だ。
 港にはいくつかの戦艦と商船が停泊していた。その中でも一際大きい戦艦はネーズル国旗を掲げている。これがハイルドの言っていた派遣船だろうか。
 その戦艦から、出港間近を告げる汽笛が鳴った。彼は急いでオルに飛び乗り、港を目指した。

 港に隣接している駅にオルを返却し、駆け足で戦艦に向かう。碇や舫綱は既に巻き上げられていた。
「私は傭兵です。船に乗せていただけないでしょうか」
 彼は声を張り上げる。その声に反応し、一人の男がタラップで振り返った。アラシュの姿を認めると、船員に指示を出し、タラップの収容を止める。
「そうか。この船は直に出発する。交渉は中でしよう」
 アラシュは彼に続いてタラップを上っていった。

残る爪痕 血脈の果て 中編 「知覚」

残る爪痕 血脈の果て 中編 「知覚」

ダクラの見舞いに来たアラシュはミュールドの勧めでトースにて神話学者ハイルドの家に赴く。しかしそれはミュールドの罠だった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-02

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著作権法内での利用のみを許可します。

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