拳銃の嬰児
ちょっぴり退廃的でダークな、拳銃をめぐる男の思考。ガンの嬰児と読んでください。
「例えばだよ君」
安屋先輩は、イエス・キリストの生誕というオメデタイ日もどこか斜に構えていた。
「もし僕がガンを持っていると言ったらどうする」
夜も深まった深夜零時頃。正確にはすでにクリスマスかどうかも怪しい。俺は陳列棚の奥へ伸ばしていた腕を引いた。
「ガン?」
「拳銃のことだよ」
「ああ」
客足の途絶えた小売店内はいやに広闊としていた。思えば規模の小さな雑貨屋であって、商品棚とディスプレイ品とが軽い迷路を作り出しているような──足を進める通路のほうが狭い空間にあって広々として見えるというのもまったくおかしな話だが、天井の飾りもサンタの扮装セットもこの身にとっては痛切の対象でしかなかった。こうまで雑然としたところにがらんどうの印象を受けるのは、自分が天邪鬼だからか、いやそうではない、なにか視覚以外の要素が関係しているに違いないと考えていた折だった。
「つまり、僕は銃刀法違反をしていると。その場合どうするね、君」
襟足の丁寧に刈り上げられた、清潔感のある黒髪。クセの一つも見当たらないその頭が珍しく俺のほうを向いていた。ハナから計算し尽くされ、設計図どおりにどこそこの工場で製造されたのではないかと。そんな疑念を抱かせる端正な──それより機械的な四角い顔に、気を抜くと眉をひそめてしまいそうだった。彼の佇まいには一種独特の近寄りがたい“なにか”があって、俺はどうもそれが得意でなかった。街へ出て人間一つ一つの面容を見定めていったとすればまず“上出来”の部類に仕分けされるだろう安屋という三十路からは、それなのにどうしてだか色事の一つも聞いたことがない。彼自身がその手の関わりを忌避していると考えれば簡単だが、それだけで説明をつけるのは釈然としないものがある。とすれば自分が感じるのと同様、誰もが彼に対して心をざわつかせる“なにか”を感じるのだろう。俺はその持論を腑に落としていた。
オイルを差すことで動いていそうな生命感のない黒目が、返答を待っているようにこちらを見つめる。
「銃ですか。そりゃすごいっすね」
「いや、すごいっすねじゃなく。どうするのかと聞いているんだよ僕は」
メリークリスマスと書かれた金色プレートを無造作に外した俺は彼の視線から逃れるみたく、床の段ボールを見下ろした。
「とりあえず、通報ですかねえ」
ほう、と。今や完全に作業の手をとめた安屋先輩が陳列棚の向こうでエプロンのシワを伸ばす。
「本当に? 本当に通報しかすることはないのかい」
「どういうことですか」
棚が揺れたので頭上に赤い帽子が落ちてきた。片手で、自らの髪の毛ごと引っ掴む。うんざりした調子を隠しきれずに言って、それからすぐにもっと根本的なことを思った。この会話に意味などあるのか。
おそらく、ありはしないのである。
「そもそも、拳銃。持ってるんですか」
「うん」
「まさか」
ここまでくるといい加減愛想笑いもできないなと憮然として、俺は長いつま先立ちのために疲れたふくろはぎを休めた。
「やめてくださいよ」
こんな日に、こんな時間に、こんな状態で。よりによって冴えない居残りバイトの二人がそんなくだらない話はよしましょうと切り上げるつもりだった。
「嘘だと思うかい」
再びサンタクロースの飾りつけの撤去を始めながら、安屋先輩は尋ねる。どうやらこちらの内心が読めないらしい。鈍感か。
「思いますね」
「へえ、そうか」
薄気味悪い空気とともにそれだけ返して、彼はそれきり口をつぐんでしまった。拍子抜けである。手を動かす紺のエプロン姿をしばし半眼のままに眺め、俺はその場から離れた。人を落ち着かない気持ちにさせる男である。
一時間は没頭していただろうか。
普通ならばこんなことはできないぞと思う。いかんせん俺は根が超のつくほど真面目な奴であって、小学校から高校、大学一年の十二月二十五日──今日である──まで無遅刻無欠席を保持し続けている、そこそこに希少価値の高い人間だった。大学になってから始めたこのチェーン雑貨店のアルバイトも、サボったことがない。安屋先輩と二人クリスマス一色に染まっていた店内を整理する役回りに抜擢されたのにも、きっとこの男なら面倒も断るまいという侮った見込みによるものなのだ。実際、それは正しい。店長は実にいい人物を起用した。誇るでもないが俺は頼むと言われたら断れない性分で、まして雑貨を扱うことが好きだった。だからこの大事な日に仕事を頼まれても特別不満だとか適当にすませようとか根性曲がりなことは考えつかないのだが、それでも焦りだけは心臓から胃の辺りまでをちりちり焼いていた。不運な男である。
新しく入荷した商品を飾り終えて、アピールするためのポップを貼っていた安屋先輩を手伝ったあと、ようやく木製の扉を押し開けて冷たい外へ出た。マフラーも手袋もない素肌に凍てつく風が入り込む。自然と丸くなった身体を急かして、俺は一キロ弱の帰路を歩き出した。アルバイトへ向かう途中で買っておいたささやかなショートケーキの入った紙箱と、プレゼントを入れた鞄。服と擦れないように気をつかいながらそれを左手に持ち替え、もう片方で携帯電話を取り出す。今年のクリスマスに、結局雪は降らなかった。寒さだけは一丁前に、無防備なこの身をさいなむ。特に感慨もなくそんなことを思いながら、思念はひたすらに呼び出し音の先へ向いていた。
市街地を抜けていく途中、耳元へ意識が集中していたせいかカップルの前で段差につまずいた。転倒はこらえたけれどもその分不恰好な体勢をさらしてしまって、くすくす。四つの目玉と忍び笑いが降りかかった。俺は徐々に赤面した。中々出ないな、なんてわざとらしく口内で呟いて一旦電話の呼び出しを切った。
自らの吐く断続的な白い息がその向こうに広がるネオンを薄く溶かして、それでも強烈に存在感のあるそれらに目がくらんだ。ショーウインドーの脇を通りしな、そこに並ぶケーキを横目に見ると、手元の箱が意識に上がる。あそこで買ったのは早計だったかなと。それがブティックならば鞄の中に入っているクリスマスプレゼントが気になり始める。ガラス越しに、この腕時計のほうが彼女には似合うのではないかと。ネガティブなことを考えてしまう自分がいた。苦い気持ちになるのをなんとか紛らわしながら首を引っ込めて、足を速めた。
住宅街に入ると、再び携帯を耳に当てる。慣れた機械音が虚しく響く。出ない。幾度か操作を繰り返してみるが、結果は同じである。応答しないのだ。それでも続ける。
ちょうど五回目にして、ようやく電子音が途絶えた。
『……寝てたんだけど』
待ちわびていた彼女の声はひどく怒気を孕んでいた。そんな言い方はないだろうと内心冷や汗をかきつつ、俺は街灯の下を通る。
「ああ……ごめん」
『それで、なに?』
蛍光灯を嫌った黒いコートが暗中に紛れる。数メートル先の灯りがまた俺を照らして昏冥へ送り出す。
「今から、会えないかな」
通話口の向こうで息を吸う音がした。そのあとに吐き出される拒絶が怖くて、意図せず口が早くなる。
「ほら。昨日、会えなかったから。お前用事があるって言ってただろ。でも、クリスマスプレゼント渡したいんだ。本当はイヴがよかったんだけど」
『いらないわよ』
思わず、え、なんて自然な疑問符がこぼれた。大きく予想を裏切って、今度は相手がまくし立てる番だった。
『今何時だと思ってるの? 迷惑考えたらどうなの。今から会おうとか……クリスマスプレゼント? 今さらなによ。私ね、ちょっと前から思ってたけど、あんたと合わないみたい。バイトばっかりでろくにデートしてくれないし。だいたいクリスマスも終わってるわよ。そうじゃなくても、こんな時間にこれから会おうなんて電話してくる神経が分からないわよ。ていうかさ、なんとなく察してよ。クリスマスイヴに用事があるっていう時点で気づきなさいよ。先客があったの。分かった? じゃあね』
おやすみ。その一連はまさに、立て板に水であった。のべつまくなしであった。
うん、おやすみ。俺はとうとう、そう返すしかできなかったのだ。
半ば放心して、急に脱力して、俺は寒いのにも構わずしばし軟体動物にでもなってしまったかのように佇んでいた。それでいて顔面だけはブロンズ像にでもなったようだった。安物のガラス玉に取って替えられたのか動かせない焦点は、瀟洒な家の棟瓦に集中していた。けれどそれが物質上のなにであるのかも、おさおさ頭に入ってこなかった。
気温のせいだけではない寒気に、心臓までも凍ってしまったみたいだった。酔ってもいないのにたどたどしく、右、左と上の空で唱えながら脚を動かす。そうしているうちにだんだんと脳味噌が熱を帯びてきた。巡るのは、歯に衣着せぬ女の物言いである。なに、こんな時間に電話してくる神経が分からないだって。お前だって昼夜関係なく仕事中だろうが寝ていようが寂しいとか会いたいとか電話してきたくせに。そういえばいつか、もうだいぶ前のことになるけれど、彼女からかかってきた深夜の電話に出られなかったら怒られた。それも、なんとなく喋りたかったという動機の深夜電話であった。自分を棚に上げておいて、なんて奴だろう。心の中だけで吐き捨ててみるが不毛である。それより許せないのはほかにあるのだ。なに、バイトばっかりでろくにデートしてくれないだって。俺が勉強する間も惜しんで毎日毎日バイトに明け暮れていたのは、誰のためだと思っているのか。ブランド好きな彼女のためを想ってこそだったのに。だってそうだ、安アパートで一人暮らしの貧乏学生が、休日返上で汗水流して小遣い稼ぎしないでどうやって“こんなもの”が買える。折れないよう気をつかいながら鞄の中に仕舞ってある品のよい紙袋を、俺はすぐさま手に取ってコンクリートの上に叩きつけたくなった。金に余りのある人間ならやってやれるのだろう──少なくともそう確信するくらいの激情はあった──けれど、俺の貧乏性にはとても、そんな芸当不可能だったのだ。そのことへの自己嫌悪がなおさら身にこたえた。
そうこうしているとアパートである。生産性皆無の思考をそのままに、俺は足を引きずって階段を昇った。
途中、まさか管理人が起きていないかとひやひやした。夕方ごろに帰ってきた昨日は、たまたま出かけようとしている管理人と鉢合わせて、クリスマスイヴだというのに独り身かと不憫がられてしまった。今、彼女と別れたばかりの不景気な顔を見られたら今度こそ一巻の終いである。
さすがに就寝していたのだろう。管理人はおろかアパートの住居者の誰とも顔を合わせることはなかった。
二階の一番奥の扉を引っ掴んで開けると、荒々しく鍵をかけて靴を脱いだ。それから二分ばかし無意味にその場で立ちすくんで、ようようリビングへ入る。電気を点ける気にもなれず、暗いまま。気分も同じく暗いまま。ショートケーキが二つ詰めてある四角い箱と鞄をカーペットの上へ落とす。というよりは、落ちた。
手持ち無沙汰に留守電ボタンなんか押してみる。小うるさい母からだった。メリークリスマスのあいさつから始まって、独特の気だるい口調とお節介がいたずらに流れてくる。最後に、今月ちょっと出費多いけどどうかしたの、大丈夫かと。嫌なことを言っていきやがる。その金食ったのはあの女だ。金輪際、頭に浮かべたくない派手な化粧の馬面が脳を占める。満身創痍、息子の気持ちも知らないで。これ以上ないくらい余計なお世話だ。とか、親の心子知らずな八つ当たり。くだらないのでぴーぴー鳴っている電話を無視してベッドへ入った。頭から毛布を被った。それは今年に母が新しく送ってくれたもので、涙が出るほど暖かい。とんだ皮肉だった。
暗澹たる心頭に、安屋先輩の薄情な顔と話の内容が──拳銃という単語が妙にこびりついていた。
いつ以来だろう、と俺は色あせて見える天井に回顧した。ミノムシのようにこうやって、蒲団から頭だけを覗かせて、惰眠をむさぼる。実に久しぶりであった。これまでいかに自分が規則正しい毎日を送っていたのか、目の前になにかしらの物証でもって突きつけられた気分だ。
起きたくないのだった。
どうしても体に力が入らないのだった。まるで五月病か夏バテである。ただ天井に走る規則性のあるくぼみを追うのだ。まったく時間の空費。
やがて、俺は上半身を起こした。枕元の携帯を取り上げてバイト先へかける。一体なにをするのかと自身でもその行動原理を理解していなかったのだから、自らの口から『今日は休みます』という含意の一文が飛び出した時はいたく心臓が跳ねた。驚くくらい自然に、いろいろな呵責も意に返さず俺は──確かに俺であろう男は、バイトを休んだ。その瞬間まさに、俺は自分が自分でなくなったように感じた。なにかから解放されたようにも思えたけれど、そこに大した清々しさはなかった。
通話を終える。携帯を触っていると、どうしてだか指は彼女のメールアドレスを表示させた。気がついたら眺めていたのだ。はたと自覚して頭を掻きむしる。手の中の携帯を放りやった。往生際が悪い。女々しい奴め。
気分を変えようと、俺はベッドから這い出した。服を着たままなにもせず床に就いていたので、ひとまずシャワーを浴びる。どうせカラスの行水。楽な格好に着替え、再びリビングへ戻ってきた。さて、また何秒かそこに立ちすくみ、もしかしたら何分だったかもしれない。
あてもなく部屋をさまよった眼が、ふと片隅の裁縫箱を見つけた。それは俺の唯一の趣味だった。俗にいう小物作りというやつで、ポーチやらストラップやらを工作するのだ。ほとんど無意識的に、俺は手軽なサイズの箱を開けていた。
中学時代。部活でも勉強でも思い通りにいかないことがごまんと増えて、それでもすべてを投げ出して反抗する勇気がなかった小心者の自分に、やれこの男どうしてやろうと背中を向けていた。当時、どっぷり思春期に浸かってすさんだ心を癒してくれたのが、雨宿りのつもりで偶然入った雑貨店だった。そこには心地よい無法地帯が広がっていた。棚に並ぶ、いかにも手作りの風情あるアクセサリーとぬいぐるみは、無条件に俺を安らぎへ案内してくれた。雑貨屋のアルバイトを選んだのも、そのためである。ああ、と。そこで自ずと、俺の眉が曇った。そういえばこの趣味も、彼女には馬鹿にされたっけ。男のくせにとのなんの根拠もない罵倒を、自分はまだ忘れていなかった。あの時は無理に笑っておいたけれど。
箱を掻き回す手に触れたのは、作りかけのミニテディベアだった。嫌気が差す。完成したらきっと彼女にあげるつもりだった。見ると、片目だけが足りない。箱には材料であるボタンが用意されていた。あとは針と糸で縫いつけるだけなのだ。それだけでクマは『贈りもの』と呼ばれるにふさわしい姿になるのに、それを完成させることから逃げようとしている自分がいたのは月並みである。“あったはずの”受け取り手に胸を痛めながら、譲る相手をなくしたプレゼントを仕上げるか。そんな精神力、持ち合わせているはずもない。やめようと決めた俺は、再び無気力に絡め取られた。
停滞の中巡るのは、ただただつまらない思索である。嫌なことばかりなのだ、このごろ。なんとはなしに離脱したい願望の蔓延っていた生活の中に、とうとう決定的な事件である。思うに俺という人間は。元より排他的な厭世家なのだと思うのだ。
他人が気に入らなくて、両足で立つこの地が恨めしくて、けれど真に憎むべきは自分自身で。どことなく胸が詰まっていつだって無呼吸症のように苦しくて。嫌だ嫌だと頭を振りどおして悲鳴を上げて、時には涙をこぼして四肢を動かしている。眉間にシワのいよいよ深まった顔面は赤く。どうせ自分に降りかかる唾を真上に飛ばしては、自業自得の汚れに納得いかぬとまた吐き捨てる悪循環。自分ではなにもできないから、誰かの施しを待って停滞する。矮小な自己を主張する術を、それしか持ち合わせていないのだ。究極、正確な感情表現などできていないのだ。自身でも分からなくなったそれは、いっそ際限ない逃避の産物に近かった。もしくは無形の渇望に近かった。まるで生まれたばかりの赤児である。
遮二無二だ。必死だ。だからなんだというのだろう。盲目だ。死に物狂いだ。しかるに無意味なのだ。どうにかしたいのに、どうにもできない。嘆いた身をやくやく襲ったのは、拳銃という呪縛だった。安屋先輩はそれを持っているのだろう。あれは冷やかしなどでなかった。なぜか堅固な信憑があった。今日も彼はいるだろうか。
拳銃か。あの凶器にこんなにも感じ入っているのは如何にしよう。銃器とはそれが禁止されている国において当然ながら、圧倒的なアドバンテージを示す。もしも拳銃という、人を牽制するための──鈍器やらナイフとは一線を画した鉄の武器を手にできたなら、それを持って見渡す世界はどんなものだろう。
俺は心を決めた。
着替えもせず上着を羽織る。だらしない格好を引きずって、俺は欠勤を伝えたはずのバイト先へ趣いた。
安屋先輩は休憩中だった。
「どうしたんだい、君。今日は休みのはずじゃなかったか」
従業員ルームに入った俺を見るなり、体調でも悪かったのかと尋ねる。耳には入ってきたが、それに答える必要性を見いだせなかった。妄執に囚われた俺は一秒も置かず切り出した。
「昨日の、話……」
ぶしつけな俺に彼が眉根を寄せる。
「なんだね」
「拳銃。持ってるんですよね」
ああ、と安屋先輩は心得顔をした。やはり本当に持っていたのだ。
「見たい。見せてください」
返事をする間を与えず押した俺に、彼の瞳が怪訝な色を持った。視線を逸らさない俺を見定めるようにしばらく眺めてから、やがて淡白に頷く。
「いいよ」
席を立ってロッカーのほうを向いた彼がポケットから鍵を取り出し、穴に差し込んだ。よもやこの場にあるとは思わなかったが、携帯しているならば好都合ではないか。荷物を手探りする背中に、俺はふとどうやって手に入れたのだと問いかけた。高身長のために身を少し屈ませて、安屋先輩が答える。
「ネットだよ。今時なんだって手に入る。大したものだ」
再び体をこちらへ戻した彼の右手には、黒光りする鉄の塊が握られていた。
本物だ、小銃だと俺の脳が騒ぐ。
それが精巧な偽物なのではないかとは、奇妙なことに疑わなかった。そのくせ現実味のない光景に気持ちは浮遊していた。だって拳銃である。
両手にそれをもてあそびながら、先輩が片目を閉じた。
「衝動というものは、誰にでもあるものだろう? 君」
なるほど犯罪者の言いわけを喋くるらしい。俺は冷ややかに蛍光灯の光を反射する鉄を目で追った。
「ええ」
「それを抑圧するために道徳心というやつがあるのは、僕も知っているんだがね」
安屋先輩は平生に比べて饒舌だった。
「人間、自分の意思だけじゃどうにもならないことはある。なぜならそうなるべくして生まれたのだろうからね」
自制できない衝動というものがあり、自制できない人間というやつがいる。卵が先か鶏が先か。強い衝動があるから過ちを犯すのか、弱い人間がいるから倒錯するのか。
「──いけないだろう。僕は」
銃口がこちらを捉えていた。唇だけで酷薄そうな笑みを浮かべて、安屋先輩は引き金に指をかけていた。やる気なのだ、と。彼の行動を予想し、理解するのにはそう時間を要さなかった。
「人を……」
男の親指が動く。撃鉄の下がる音がやけに大きく耳に入った。
「殺したいですか」
それが彼の持つ衝動だろうか。気づけば俺は恐怖に震えていた。
どこかで共鳴を覚えている自分とは、一体何者だろうかと。
俺は寸時、獣になったみたいだった。
映画館で聞くのとそんなに変わらないじゃないか。破砕音と震動は同時だった。経験したことのない硝煙のにおいが鼻を刺して、足元で小気味いい音。床に落ちた薬莢だった。初めて見た空の弾薬。その上に汗がしたたった。
安屋先輩の体が、ずるずる、血の痕を引きずってロッカーにもたれ座る。
鼠色に、紅いのが擦れて、世界が停止した。
思いのほか虚弱だった彼に、それでも引っかかれた俺の首筋が濡れていた。触れると指先は紅かった。
人が死んだ。
もとい殺したのだ。
銃声は店内にも届いたに決まっていた。人は来るだろうか。隠蔽という単語が沸いたけれど、生憎とその時間も知恵もない。もうじき殺人現場の発覚である。
俺はドアを蹴り開けて飛び出した。
廊下ですれ違った店長がちょっと待てと叫んだのを背中で聞いて、店を出る。発狂しそうな頭が──もしくは既成した頭が好き勝手おもんぱかった。先に撃とうとしていたのは相手なのだ。こいつは正当防衛にならないか。逃げてしまったからもう手遅れか。少しは“こういった勉強”をしておけばよかった。後悔じみた文句が生み出されていたのはわずかな間だった。
あの嫌な惨痛に取り憑かれたという表現が適当だろうと思われた。自身の無能さと、理想とのギャップと、一切合切への恨みを噛み締めて。安屋先輩が先に動いただけのことで、最初から自分は彼に襲いかかる魂胆だったのだ。殺すことは想定外だったけれど、本当にさきの所業は罪なのだろうかと咀嚼して、自分は悪くなかったと独断した。あらゆるものごとを考慮して、しょうがなかったと思い込んだ。反してどうしたらそんな結論に収束するのだとせせら笑う自分がいたのを、無視できなかった。俺の中には確固たる根拠があったけれど、周人にとってそんなものないに等しいことは分かっていた。
家に帰っては逃げ場がないと、狡猾な男は必死になって知恵を絞った。人のいるところは避けなければと一心に思い、静まり返っている神社へもぐり込む。場当たり的だが、そこはわざと人目につかないよう建立したのではないかと疑う、ちんけな神社である。ひとまず身を隠すことができると考えた。人を殺した直後神様の前に参上するのは気が引けたが、仕方がない。
本殿の後ろに丸くなって、そのうちに暗くなった。今ごろ安屋先輩はどうなっているだろうかと考えると心臓がそれじゃないような音を立てるので、俺の思念は途方もないところへ旅をした。
十秒を巡らせる。もう何回数えたか分からない。銃声が耳の奥で何度もリフレインして参った。それに重なるようにして救急車とパトカーのサイレンがずっと鳴っていた。
カラスがこちらをじっと見て、俺はやっと立ち上がった。
手のひらの黒い鉄に目を落とす。急いで上着の内ポケットにねじり込んだ。深呼吸をした俺は走り出す。なんだか、これですべてを一掃できる気がしたのだ。
あの女のマンションには灯りがついていた。財布から、処分できなかったここの合鍵を抜き取る。扉を開いた先の玄関にあったのは女物の靴だけでなくて。迷って、俺は土足のまま部屋へ入った。
彼女はリビングのソファにいた。横には知らない男がいて、二人同じような顔でこちらの侵入を迎えた。めまいがする。
なんなの、と顔筋肉を引きつらせた女が詰問した。なんだお前と彼も続いた。
内ポケットに鉄の感触を確かめながら、俺は彼女だけを見た。
「好きだ」
「私、嫌いよ」
「じゃあ死ぬ」
「あっそ──」
リハーサルでもしていたように、俺は銃をこめかみに当てた。息を詰めた彼女がソファに座った格好のまま体を退ける。なんだお前と、先ほどとまったく同じことを、けれどずいぶんひどいうろたえようで言った男が、腰を上げた。
逡巡あった。その間に銃口が“どちら”を向いたのか、俺にはとうとう分からなかった。
ただやけに遠くで、引き金を引いた音がした。
「おい、君」
大きな手が俺の視界を阻んだ。
サンタの帽子を被った安屋先輩のどんぐり眼が、徐々に明瞭な輪郭を持った。ピントを合わせた俺に、心持ち彼は不機嫌である。
「無視はいけない。いくら僕のことが好きでなかろうとね」
はあと返したら、安屋先輩は『好きじゃない』を否定しないことに苦笑した。
「それで。どうするね、君」
頭から赤い帽子を外した彼が尋ねる。
「僕が拳銃を持っていたとしたら」
まだ質問に答えていなかったのだ。俺は夢から覚めたような心持ちだった。白昼夢でも見ていたのか。白昼でもないから俺は立ったまま寝ていたのかもしれない。そう疑うほど完成度の高い妄想だった。タチの悪い特技である。
棚越しにこちらを見ている安屋先輩を脇にやって、思い立った俺は携帯を確認した。不在着信に留守電にメールの表示がこれでもかと踊る。すべて彼女からだった。救いがたい男に、俺は一人でに笑っていた。この凡人は唯一、被害妄想だけは特出して激しいらしい。
向かいから、業を煮やした空気が伝わった。
「室岡くん、君ね」
「バイトやめますよ」
すかさず返す。束の間黙って、それがやっとのこと吐かれた自分の質問への答えだと気づいたらしい安屋先輩は、へえそうかいとやっぱり薄ら寒い情調で言った。
不可抗力で携帯へ視線が動く。決意した俺はエプロンの紐をほどいた。商品棚とダンボールを見限って場を離れようとした体に、低い声が追いすがる。
「ちょっと、帰るのかい」
察したらしい安屋先輩は責める口調だった。
「いけないだろう、君」
「この埋め合わせは、またしますから」
足だけをとめて返した俺に、ふむと彼は唸った。いくばくもなく、必ずだからねと慈悲深い言葉が返ってきた。
「あと拳銃ですけどね」
振り向くと安屋先輩の奥に姿見がある。紺の従業員エプロンをぶら下げた痩せ男。映っている奴を抹消してやりたいとも思うがそこは自分という人間である。ほかの誰でもないのだ。
「そんなの憧れないですよ。俺、もう大人ですから」
先輩の面食らった顔つきに、初めて遭遇した。それから再び首を前方へ戻した俺の背面で起きた、ささやかな笑声にも。こちらを馬鹿にしての笑いかもしれなかった。どっちでもいいけどねと心胸で強がれた俺には、空想を現実にできる度胸もなにもないのだ。
通話ボタンを押して、携帯を耳元に添えた。電子音が女の声に変わったのは四秒後である。
拳銃の嬰児