テオドール
2016年11月23日の第二十三回文学フリマ東京にて発行した、BL掌編小説まとめ本のweb再録です。
初めて作って頒布した本でした。最後のは、無料配布のペーパーです。
アリアドネは眠らない Ariadne doesn’t sleep.
目玉をくれと言うので、僕はふたつともすっかり彼に差し出してしまった。
礼のひとつくらいあったっていいのになにも言われなかった。代わりにこのプリンをもらったから、礼のつもりなのだろう。
「ねえ、なんで僕の?」
新調された代替の目玉を、僕はくるりと回す。以前はもっと海のような青をしていたのが、燃える赤になった。サファイアもルビーも見たことはないけれど、そういう宝石の色をしていると言った仲間がいた。以来、鏡を覗くたびに僕は、それまで知らなかった爆ぜる何かを見つけている。
彼が目玉を欲しがった訳を訊けば、
「きれいだったから」
さらりと悪びれずに言う。僕だって目玉くらい、こんないくらでも替えのきくパーツくらいどうだっていい。ただそう言われては、何も考えず二つ返事で渡したのが惜しい気持ちも湧いてくるというもので。それが人間の心理というもので。
「あんたに、そんな情緒が残ってるかよ」
予想よりも中身のない理由に僕はどことなくいらだちを感じ、プリンを一口すくった。苦いカラメルが舌に絡む。卵の濃い味がゆらりと溶けた。
そんな思いをプリンごと体内にとどめる僕に対して、彼は何も言わず目を閉じてほほえんだだけだった。流れる銀髪は水のようで美しく、それがはらりとターコイズブルーのセーターから一房滑り落ちるのを見た。
彼も僕も、どこかのコミックみたいに簡単に人間をやめた。彼についてはどう代償を被ったか知らないが、僕は記憶が狂った。彼の名前も素性も何も、まったく覚えることができなくなった。親しげに会話をしておきながら、それはほとんど彼がそういう態度でいてそうさせているために、僕は状況に順応してしまうだけ。そしてこのわがままな記憶障害は、この男のことに限られている。他の人、物事、それら一切に何ら問題はない。数学Ⅲだろうが統計学だろうが、新しい知識はどんどん増やせた。だからこそ、何かがおかしい。けれどどうにもしようがない。
この男に両の目玉をあげたのがちょうど一週間前、それに関しては記憶がきちんとある。今日は彼が家へプリンを持ってきたのだ。それが同一の人物であることも理解できた。僕の記憶上はこれが二回目で、けれど、あげた日からは一週間も経っている。その間、もしかしたら彼に「なぜ僕の目玉をくれと言ったのか」といつか、あるいは今日、同じ質問を繰り返したかもしれない。さらに、質問を繰り返したかと尋ねたこともあるのかもしれない。けれど僕は、最も知りたいことはどうしても恐ろしくて訊けないでいた。
僕はあんたの知り合いだったの?
たった一言訊けばいい。そうしたら美しい男は、どう言うだろう。
口を開きかけては閉じた。プリンを一生懸命食べるふりをした。僕は、彼に会いたいと思っている。それが意味するところの結論がひとつだけであることも、僕は知っている。だからこそ訊けない。少なくとも今の僕にとって、彼はたった二度の邂逅しか経ていない他人だというのに? 愚かだ。実に愚かだ。
男のコーヒーカップとソーサーが響かせた硬い音で、僕は現実を認識した。人を前にして、まさか寝ていたなんてことはないはずだ。
なんの感情が宿っているか判らない顔で、目の前の男はほんの少し首を傾けて僕を見ていた。
一週間前、この男に目玉をあげてしまった。研究員からの許可はすんなりと下り、すぐにスペアの目玉が嵌め込まれた。気持ち程度だけれど以前よりも視力がよくなったように感じるのと色が変わったこと以外、僕の身体に変化はなかった。
男もおそらく改造されたうちの一人だ。けれど、それ以外の情報も男が目玉を欲した理由も、僕はまったく知らなかった。今朝プリンを持ってきた後、今どうして一緒にいて、向かい合ってお茶などしているのかさえ。
「あの、なんで僕の」
「好きだよ」
男は小さなテーブルの向かいから身を乗り出す。唇にあたたかい息が触れる。コーヒーの香り。頬に添えられた手が異様に冷たい。
「……なんで」
嫌悪も抱かない自分は、やっぱり頭がどうかしている。驚きもしなかったのだ。まるでそうなるのが当たり前とでもいうような僕の反応に、僕自身が混乱していた。機構がおかしくなっているのかもしれない。早く研究員に診てもらったほうがいい。
「きみはどうせ覚えないからね。ここで俺が何をしても許されるだろう?」
彼の長い指が耳朶に触れ、耳の後ろへ。すぐに離れる。その指をふと目で追ってしまう。
「……っ、」
くすぐったさと、それと違う感覚が残り、触れられた耳に手をやった。
僕が彼を覚えないことを知っているのだ。ということは、僕は何かしらのよくないことをやらかしたに決まっている。でも彼を見ていたら、そんな自分でさえ知らないことなどどうでもよくなって、あと少しだけ触れてくれやしないかと期待までした。冷たい指が熱く思えた。愚かだ。実に愚かだ。
男は気品に満ちた動きで身を引くと、コーヒーを一口飲んだ。僕もまた一口、プリンを口に含む。苦くて甘い。僕はすっかり、この状況になんの疑問も抱かなくなっている。
ちらりと男を窺うと、目が合った。頬が熱い。
「あの……名前、なんていうの」
なんという今さらな問いだろうか。こちらこそキスより先にあるべきコミュニケーションだった。彼はやわらかに笑うだけで、答えてくれなかった。
「秘密」
「なんで」
「きみがいつか思い出しちゃうかもしれないから」
「なに、思い出すって」
彼はまたも答えなかった。
コーヒーカップを持つ彼の指を見ていたら、頭がぐらりぐらりと揺れ始めた。眠い、夢か、走馬灯のように数々の画が回転する。目線を上げてみても、彼の顔が見えない。目が回る。なにを思っているだろう。突然向かいの人間が揺れ始めて。ほんのかすか、彼の言葉の断片を聞いた。頭が痛い。ああ、けれど忘れてしまった。なんだったかな。
からんっ、とスプーンを床に落とし、目が覚めた。いや、寝ていたわけではない。考え事をしていたと思う。
目の前のプリンがほとんどなくなっている。ぼんやりしていて気が付かなかったようだけれど、僕はだいぶ食べていたのだ。スプーンをシャツの袖で拭って、カラメルの海をスプーンでさらった。
「おいしい?」
向かいに座る男とはいつから一緒にいたのか、うまく思い出せなかった。プリンを今朝届けに来てから、その後は。
「ん」
考えるのが億劫になり、僕は残り少ないプリンの陸地を崩していった。
彼がなめらかな髪を片手でふわりと払う。思わず見とれてしまって、慌てて目を逸らした。心臓がちくりと痛い。伏せた目を上げられない。脈拍が速く、僕は汗をかいた。愚かだ。実に愚かだ。
ろくに考えずに目玉を差し出してから、彼と会うのは二度目である。しかし僕は彼のことをまったく覚えていられないから、これが二度目ということしか記憶にはない。しかし二度だなんてことは、あり得ない。でなければ僕は、自分のこの反応に説明をつけられない。たった一度の邂逅で、それを楽しみにしていて、苦しいなんて。また会いたいなんて。そんなはずがない。必ずもっと前が、一度の前があったはずだ。絶対にあった。
そんなふうに思う僕を、彼はきっと気が付いていないだろう。食べ終えて目を上げると、男は僕を見ていた。
彼が僕の目玉を欲しがった理由を、いまだ教えてもらえていなかった。一週間前からずっと、訊こう訊こうと思っていたのだった。けれどもしかしたら聞いているのだろうか。一週間もあったのだから。それすらも思い出せない。
「なんで僕の?」
男は静かに、コーヒーを飲み干したように見えた。
まるで僕は恋をしているように、彼の喉仏が上下するのを見ては、答えを待っている。
フォルテピアノの幻 Phantoms of fortepianos
調律が終わるのを待って、貴樹は晴彦を外へ連れ出した。どこへ行こうとも何をしようとも考えていなかった。
夕の赤に金髪が揺らめいた。朗らかな額は光を反射し、晴彦はまぶしそうに目を細めて遠くを仰いだ。この先の森か、空か、貴樹も同じほうを向いたが、見るものはまるで違っている気がした。
「自分でも分かるんだ」風の音を継いで晴彦は言った。「俺はだめだ」
貴樹は足を止めなかった。晴彦もするりと長く伸びた脚を、水を分けるように進めていく。
川は傍らで、昨日の雨など忘れたかのように静かに下っていた。
「今日はえらく時間がかかったんだね」
貴樹が足下の石を蹴ると、地に着く直前に隣の靴が勢いよく蹴り飛ばした。丸い石はぽんぽんと転がり、川縁の草の中へ消えた。
「合いにくいんだよ。いや、いくらやっても合わない。もう、たぶん」
貴樹は自分の、短くて曲がった内股ぎみの脚を見下ろした。靴下はゆるんでずり落ち、革靴には泥がはねる。どう見てもどうあがいても、晴彦とは違った。貴樹が美しくなる日はこれから先も永遠にやってこない。
しかし貴樹は、美しい晴彦にある嫉妬の色を知っている。澄んでいる碧が暗くにごり、うつろに貴樹を見つめ返すのだ。美貌と引き換えに晴彦の持つものは何もなかった。ここでは、貴樹以上に晴彦に価値はなかった。
「なあ。どっちがいいかな。俺みたいにばらされるのと、ここで静かに暮らしていくのは」
いつか晴彦は自嘲していた。確か、春だった。その頃からすでに晴彦は自身の末路を想像していた。実際は、知らぬだけではるかに前から悟っていたのかもしれない。貴樹を羨望しながら蔑み、皮肉げに笑う。百年でもそうしているかと思うほど、晴彦は僻みになじんでいた。貴樹は答えなかった。晴彦が求める答えを言える自信がなかったし、哀れな彼をそれ以上傷つけたくなかったのだ。
「……大丈夫だよ」
薔薇の香りがむせかえるあの庭園は息苦しく、めまいがした。不快感を覚えるたびに花の世話なんて向いていない、引き受けるのではなかったと思う。それに飽きた頃になっても貴樹はまだ水をやることをかさなかった。
強い香りに当てられたか、不意にくらりと身体が傾き、思わず触れた棘が指を刺す。声を上げると、晴彦は振り返った。
「大丈夫?」
貴樹は返事もしないで指を舐めた。あまりに小さい傷からはたいした鉄の味もせず、むしろ甘く舌を刺激した。晴彦はその様子をじっと見ていた。濡れた指先と、厚ぼったい唇からのぞく舌とを。貴樹は碧い瞳のほの暗さを、愛さずにはいられなかった。
鮮明に思い出された植物の芳香を振り払う。川縁の土の匂いを感じた。雨のしみこんで湿った匂いだ。
「僕は、ここで死ぬ」
唐突に、考えてすらいなかった言葉がこぼれ落ちる。だが焦るには遅すぎた。
「どういう意味」
険を含んだ春彦の声に貴樹はたじろぎ、形の悪い足の一歩が自然と小さくなる。
「僕……僕は、ここで死ぬ。春彦はここでは死ねない。晴彦は、もうここにはいられない。昨日、聞いたよ、ひびが入ったって。もう直せもしないし、絶対に音も合わない、だからもう、処分されるしかないよね。でも僕は、ここで、死ぬ。春彦とは違って、それでもいつかは死ぬ。だから同じだよ。どっちだって」
いつかの返答のようだと貴樹は思った。いつだって思いは口をつき、思考を置き去りにするから何も言えない。晴彦は怒ったに違いない。貴樹はそれを皮膚で感じた。ぴりぴりと空気が火花をはらんでいた。そして、次の言葉を予測する。
それならお前が俺でよかったじゃないか。
「それなら、お前が俺じゃなくて、よかった」
貴樹は目を見開き、歩くのをやめた。晴彦もまた、川を向いた。
日はまだ暮れない。とぷとぷと水が音を立て、跳ね返る光は常に分散し続けた。
「……違うだろ、」
貴樹のいびつな指先がぴくりと動いた。
とぐろを巻いて黒々と沈んだ感情を抱きながら、平然と晴彦は嘘をつく。自分は瑕疵なく清らかであると、鮮やかに嘘をつく。
かっと頭に血が上った。
夕陽に背を向けて振り向いた晴彦が、巨大な未知の化け物の影を作る。影は貴樹を飲み込んで膨張し、笑った。
「ああ。違うよ、貴樹。嘘、嘘」
白い膝が歌うように曲げられる。その直後、まっすぐに貴樹へ向かった衝撃が腹を突き抜けた。視界がとんでもない場所へと揺れる。
「うぶ、ぇっ……!」
踏ん張ることのないまま、貴樹は無様に後ろへ転がった。胃から何か上がってきそうな予感に目をつむるも砂が入り込み、痛みから開けずにはいられない。眼前には、白の靴下から伸びる、細くなめらかな素肌があった。うっすらと産毛が輝いて、それがずっと上まで続いている。それより先は赤い太陽が幕をかけた。
晴彦は見上げていた貴樹の首元へさらに足先を寄せた。貴樹が引きつった息をのむと、晴彦はもう片方の脚で再び貴樹の腹を蹴った。今度は腹より下部に入り、貴樹は半ば叫ぶように唸って身体を折った。目はもう開けなかった。そばに晴彦の息遣いを感じていた。
「俺はお前のことなんか、本当に、憎いんだ。なんでお前があんないい先生の元にいられるんだ。俺のほうがよっぽど、お前より使えるに決まっているのに、誰も選ばなかった。誰も大事になんかしなかった。汚いお前が選ばれた。いつだってそうだった。最初っから、最後まで」
不意に腹の奥から熱さがこみ上げ、貴樹は身体を起こすと吐いた。昼に食べた肉が消化されずに手の甲に落下した。咳をすれば、唾液が糸を引いて伝った。喉が焼けるように痛み、涙がにじむ。
だが泣いたのは、晴彦だった。貴樹の吐瀉物を避けもせずに膝をつき、曲がった指にほっそりとした手を重ねる。
「お前なんか、早く壊れてつぶされてしまえばいい」
液体を地面ごと引っかくように、晴彦は貴樹の両手をつかんだ。ぽたりぽたりと涙が落ちては雫になって浮く。うつむいた表情はうかがえなかった。貴樹は想像する。光の屈折するガラス玉、あるいは頭蓋に埋め込まれた宝石。濡れそぼった金の縁。そういったもの。これから消えるもの。
あの春の日は当番で、暇そうにしていた晴彦を庭園に誘った。暗さを深めた瞳が答えを返さない貴樹を閉じこめようとするのに、逆らう気はなかった。晴彦は貴樹のけがをした指をとると、丸く血のにじみ始めた人差し指を圧した。
「俺の血は赤くないのかもしれない」
晴彦はさらに力を強めて、膨れ上がる血の球を眺めていた。
「痛いよ」
「だろうな」
晴彦は手を離すが、血は貴樹の指の上を流れていった。貴樹は指を下に向け、重力のままに落ちる血で、晴彦の手の甲を引っかいて線の跡を残した。
「ほら、晴彦の血だって赤い」
そして貴樹だけがかすかな音を聞いた。晴彦のさして発達していない聴覚では到底知るはずもない、些細だが軋んで割れる音だった。みしりみしりと拡がった。
「そうだといいけど」
晴彦は浮き上がった傷を見ながらうれしそうに撫でた。
庭園に満ちていた湿気と花の濃い香りは溶解し合い、肌にまとわりつく嫌悪は募る。傷ついた指がかすかに痛みを訴えてきた。
冷たく吹いた風に貴樹が我に返ると、いよいよ陽が傾きはじめて空は紺になった。
「いつ行くの」
貴樹は汚れた口元を袖で拭った。
「明日」
晴彦は答えた。
袖口から、薔薇の匂いなどするはずもなかった。
テオドールⅠ TheodorⅠ
恥ずかしながら、僕はあれが恋だと思っていたんです。今にして思えば、本当に恋かどうかという点は、あまり重要ではなかった。ある種の逃避だったのでしょう。彼と僕が何らかの特別な関係性の中にあって、現実を直視せずに済むような形でさえあれば、名前は別になんでも構わなかったんです。僕は少なくとも、それを恋と思っていたから、キスをするとか手を繋ぐとか、些細なことにも飛び上がるように喜んでいました。顔に出さないよう努めながら、彼が気が付かないかと期待していました。本当に恥ずかしいことです。でもあまりそんなことを言ったら、彼が哀れかもしれません。彼は僕と同じように、あれを恋と勘違いしていました。
ああ、彼の名前ですか。テオドールといいます。周りは、テオ……というより、彼自身がテオと名乗っていたので、本名のほうを知る人のほうが少なかったと思います。僕になぜ正しい名前を告げたのかは知りませんが。
僕も彼も、同じような時期に恋ではないのだと悟りました。やや僕のほうが早かったかもしれません。でも言い出したのはテオでした。驚かなかった僕を見てむしろ彼が驚いていましたが、納得はすぐにできたようでした。分かっていたんだな、とテオは言いました。僕はうなずきました。そのときテオはどうしてか、僕を見て悲しそうな顔をしたんです。悲しそうな、が正しかったかは自信がありません。まだ僕たちが同室になって数日しか経たない日に、差出人不明の手紙を受け取ったのですが、その手紙を奪いとったテオが見せた表情と同じでした。差出人不明と今しがた申し上げましたが、母でしょう。ええ、確かに母です。森の奥のこんな閉鎖された学校に追いやるというのは、普通ではありませんから、テオは同情からそんなような顔をしたのかもしれません。いずれにせよ、いつもの明るく突き抜ける空色の瞳が感情次第でゆがむのは、嫌いではありませんでした。
かくして、僕たちの思い込みで舞い上がった十七の頃は、終わったんです。
たいした話でなくてすみませんでした。もう何年も前の話です。あの学校は昨年潰れたと聞きました。それは、そうですよね。環境はきっとすばらしかったですが、理念はもう時代に会いませんからね。
テオのその後ですか。僕も知らないんです、何も。
僕が高熱を出して寝込んだ冬、みていてくれたことは覚えています。ばかみたいに心配そうな顔をして、ほんとうに、らしくなかった。いつもみたいにもっと生意気で挑んでくるような、僕を見定めるような目をしていて欲しかった。僕はそういう彼が好きだったんです。ああ、これは少し嘘です。恋ではなかった。でも友だちとも違う気がしますから、一個体として好ましい……とでも言いましょうか。普段王様のようにえらそうにしているくせに、あのときは見るからに元気がなくて。それで、最後です。テオは僕の額に手をやって言ったんです。おやすみ、みちる、と。妙にやさしかったので、覚えています。僕が回復した頃、同室者の形跡はありませんでした。置き手紙や何らかのサインさえね。教師もテオの不在を普通のことみたいにして毎日過ごすので、僕は幽霊と一緒に暮らしていたのではないかとさえ思いました。まあ、さすがにそれはありませんでした。しばらくして噂が流れたんです。テオは家に帰ったらしいって。尾ひれも羽もつかないような、ただただ簡潔な噂でした。
僕が話せるのは、ここまでです。ひとりごともそろそろ飽きました。架空のインタビュアー、あなたはどうか、タブロイド紙にいい記事でも書いてください。
そしてテオ。きみはほんとうに意地悪で、性格が悪くて、僕は大嫌いだった。でも僕の名前はちゃんと呼んでくれて、うれしかったから。ずっと、お礼とか、なんだろう、もっと言いたいこととか、伝えようと思っていたのに。土の中じゃさすがのきみも、耳は聞こえないだろうね。
きみはゆく You will go.
姉ちゃん、おれは男が好きなんだ。
耳まで赤くして必死に泣きそうに言うものだから、へえそうかいと聞き流すこともできなかった。弟のそれまで溜め込んでいた緊張や不安や恐怖がどうっと流れ出てわたしを押し流す。連れて来なよ。どこの誰とも聞いていないのに、思わず口に出ていた。はっと顔を上げ、いつかね。恥ずかしそうに弟は笑った。
玄関先で、弟と弟より二十センチも身長の高そうな学ランの少年が並んで立っているのを見て、去年の伏線を回収した。あのときと同じように弟は恥ずかしそうに笑って、今度は、友だちを連れてきたと嘘を言った。中間テストの勉強をしようと思って。学ランは、えらく顔の整った十七歳だった。髪は短く肌は弟より日に焼けて、スポーツでもやっているに違いない。おじゃましますとわたしに微笑んだ。所作のひとつひとつが整っている。うっかりぼんやりしたところを、姉ちゃんあとでお茶持ってきて、と容赦のない弟の声が刺した。
好きなのかと問えば、そうだと答える。
学ランの名前は、立岡未紀人というらしい。バレーボール部で、女子からの人気もある。勉強はあまりできない。
付き合っているのかと問えば、そんなんじゃないと首を振る。
父不在の食卓には、弟の炊いた米とわたしの作ったぶりの照り焼き、三日前から作り置きのポテトサラダ、卵と豆腐と玉ねぎの味噌汁を並べた。弟は米を小さく箸でつまみ、口に入れる。ゆっくりそしゃくする口元は、わたしの質問に答えながら幸せそうで、しかし何かを言いたげに戸惑っていた。
でも。弟は食べものを飲みこむと、黙り込んだ。でもね。ためらいがちに言葉は切られる。わたしは不格好なほどに大きすぎる芋を半分に砕く。
キスした。姉ちゃん。
わっといきなり弟が泣き出した。どうしようどうしよう、と目元をこすりながら声が漏れる。わたしは砕いた芋と弟とを見比べた。
夜がこない A night doesn’t come.
それは非常識にもほどがあるわけだが、俺はドアを開けた。
「葛西さん、いる?」
インターホン越しの声に、聞き覚えがあったので。
「……なんで、こんな時間に」
誰もが同じことを言うに決まっていることを、午前一時に俺も言った。やや見下ろす位置に、友人の妹。制服だった。会うのはいつぶりだか覚えていないほどだが、見た目は変わっていなかった。髪は伸びたような気もするし、あるいは大人っぽくなったとも言えるかもしれない。俺はそういう女の変化には疎いので、事細かに観察するのはここまででやめておく。
夜の風が、するりとドアからベランダへ吹き抜けた。夕方雨が降ったせいか、暑くはなかった。湿った空気の中に鈴虫の鳴く声がする。
「家出」彼女は俺を見上げて簡潔に告げ、少し首をかしげた。「葛西さんは変わったね」
「そうかな」
「老けたよ」
妹はくすくす笑った。美人の笑い方だった。涙袋が浮く。口元にやった手の爪は整えられていたが、それ自体は白っぽく、美しくなかった。
そういえばこいつの名前を思い出せない。俺は焦り始める。ミカとかエリとか、そんなような。珍しくはなかったはず。なんだっけ。聞こうにも、ここまで自然に会話をしてしまうともう手遅れのようで、尋ねるのはあきらめた。
「今夜だけでいいから」
俺が黙ったのを雑談の反応に困ったと察したらしく、妹はすぐに本題を切り出した。
「当たり前だろ。……入れば」
「いいの?」
ドアを内側から広く開けてやると、妹は狭いところへ身体を滑り込ませるようにして玄関に足を着地させた。小さな靴だった。俺の乱雑に壁に寄せた二足(仕事のと普段の汚いスニーカー)とは、なんだか種類の違う生き物に思えた。
下駄箱がやけに場所を取る玄関口で、妹とすれ違うようにして俺は後ろ手に鍵を閉めた。しゃがんで靴を脱ぎ始めた妹の背中に、部屋へ戻りながら問う。
「で、何しに来たんだ」
口にしてから気付く、さっき同じことを聞いたかもしれない。答えは、家出だ。いや、この質問で知りたいのはそこではない、家出の理由だ。家出をして何をしに来たか、またなんのために家出をしに来たか。そうだこれだ。俺は都合よくすり替えていくのがうまい。
だが都合がいいのはここまでで、この妹の名前はまるで出てこない。気にし始めると果てしない。
「兄さん、男とセックスしてるから」
玄関と居間とは一枚扉を隔てており、開けっ放しの向こうから、妹は言った。
分かりにくい質問の処理をきちんとできてくれたことに、俺はうっすらと感動を覚えた。答えはともかく。
「あ、そ……。親は」
足音が近づいて、声は鮮明に感じられる距離になる。
「今一緒に住んでない。兄さんとふたり」
俺の狭いワンルームは、ベッドとローテーブルと本棚でめいっぱいだった。本がとにかく多すぎるのだ。場所がなくなればそのたびに売ってきたが、それでも溜まるものは溜まる。賑やかしにともらいもののテレビを部屋の隅に置いたが、埃を被ったまま鎮座している。金剛力士像的な貫禄さえある。
妹は俺が開いたままにしていたノートパソコンをのぞき込み、
「葛西さんは何かしてたの?」
と尋ねた。画面は消えていたので、そこには妹の顔が写るだけだった。
「別に。音楽聴いてた」
通りすがりの俺が一瞬画面に登場。妹はちらりと振り返ると画面を閉じて、本棚の中身を観察し始めた。
一方の俺は、ベッドに腰掛けて妹を観察する。長い髪を耳にかける仕草は、彼女の兄とそっくりだった。かけてからしばらく首に手をやっていて、すとんと下ろす。特に意味はないらしい動作だが、兄ばかり見て育つとこんな妹になるのだろうか。それとも兄がなにか、教えたのだろうか。ろくでもない兄は、妹をちゃんと可愛がっただろうか。
「好きなの?」
なぜかぎくりとした。音楽が好きなのかと訊いたのだろうと俺は推測したが、本を眺めながら言うので、
「まあ」
と、どうとでもとれる返事をした。
二年生か三年生かは知らないが、高校生らしい短いチェック柄のスカートから白い脚がまっすぐに伸びている。お世辞にも女らしい色気があるとは言えなかった。枝のようだ。丸みがない。そんな名前のモデルが、英語の教科書に載っていたのをふと思い出す。
不意に妹がくるっと振り向く。スカートも伴って回った。そして俺をまっすぐに見つめてくる。
「なに」
「あと一時間したら帰るから」
「は? いや、さすがに危なくない。朝までいれば」
午前一時過ぎなどという深夜に女の子をひとりで外でふらつかせるほど、気遣いのできない人間ではない。これで犯罪にでも遭われたら、寝覚めも最悪だ。何より俺の底に沈殿したやさしさが許さない。
「男の部屋に一晩いろっていうの?」
「いろっていうか……そのつもりで来たんじゃないわけ。帰りたくないんだろ。今夜だけってさっき」
「いてほしいならキスのひとつでもしてよ」
何を言っているんだこいつは。
余裕を含んだ笑みが見下ろしてくる。
「軽々しく言うなよ」
「そういうときだけテーソーカンネン持ち出すの?」
「は? おまえな、」
子ども相手に腹も立たなかった。あきれてため息を吐くと勝ち誇った笑みを浮かべられたが、なんだか違う気がした。別にそれでもいいんだけど。
妹は身をかがめると、俺の膝の間に細い脚を差し込んできた。するりと布越しに肌の体温を感じる。ふわっと香るのはシャンプーだろうか、フローラル系の匂い。でも思い出すのは彼女じゃない、別の。
「いくじなし」
妹が耳元で不機嫌な声を上げた。さっきから、非難しかしてこない女だ。
「いや、意味わかんないんだけど」
「男の人って、みんなちんこに脳があるんだと思ってた」
失礼な侮蔑を投げかけて妹は俺から離れると、隣に腰掛けた。二人分の体重でベッドが沈み、スプリングが弾む。
「ばかじゃねえの。それはおまえの兄貴だよ」
「兄さん、葛西さんのこと好きなのに」
「一緒にすんな」
脚も細いが、手首も指も骨が浮き出て細かった。白魚などとはほど遠く、小学生男子のようだった。
そこから先に、しばらく会話はなかった。彼女ひとりを残して寝られるほど無神経でもなく、かといってどうすればいいか分からず、時計の音を聞いていた。俺に子守の経験はない。兄に電話をするという選択肢もあったが、いや、ない。もとからない。
妹が膝を抱えるためにもぞもぞ動き始めたので、あっさりと呪縛は解かれた。俺は壁まで下がって、だらしなく寄りかかる。見下ろせば、小さすぎる背中だった。
「あたしの周りにはホモばっかり。どいつもこいつも、あんたも」
「悪かったな」
「誰も好きになってくれない」
妹は突然振り向いて俺を睨んだ。
この後はもう、自然に身体が動いたと犯罪者めいた言い訳をするしかない。抱きしめた妹は見たとおりにやっぱり細くて柔らかさがなく、少し力を込めれば骨がぽきんぽきんとすべて折れそうだった。
「……そうやってやさしくするのがずるいって言ってんだよ。ひどいって言ってんの。人の気持ちもわかんない男。サイテー、死んじゃえ。ちんこもげろ」
「泣くなよ」
言ったら、妹は俺にしがみついて泣き出した。左肩が暖かくて冷たくて、妹が力の限り握りしめているTシャツは俺の皮膚まで巻き込んでいたので痛かった。
「明日になったら」妹は嗚咽の合間に呟いた。「明日になったら、帰る」
まだ妹の名前が思い出せなかった。エリでもない、ミカでもない。チカだったか。リサか。どれも違う。
「そうしな」
あきらめて天井を見上げた。ムンクの叫びなどない白いだけの天井。隅をクモが這っていた。もう長いこと同居している。俺の何もかもを見てきたはずだが、女に泣かれている場面はきっと初めてだ。泣き方まで似ているんだなとくだらない感傷が起きてきて、あえて女を意識しようとした。鼻水を拭いてこないだけまだよかった。
長い髪をすいてみると、さらにわんわん泣いた。罵詈雑言さえ飛び出してこない。そんなに不幸せなら、俺の妹になればよかったのに。不純で不毛な妄想がよぎった。あんな人間として終わった兄貴よりも、俺のほうが大事に扱えるに決まっている。現にこうして泣く場所を提供しているではないか。あいつのしないことを俺ならやれる。
妹はしばらくして泣きやんだが、静かにしていて俺から離れなかった。いつまでこうしているのか知らないが、そのまま眠ってしまいそうだ。そして朝になったら妹は起きてきて眠いとかお腹空いたとか言うのだろう。
シリアルと食パンと玉ねぎとじゃがいも、あとしめじ。これしかない。あ、もやしもあった。卵は切らしている。朝は食わせるとして、きっとこんなものでは文句を言われる。いくら妹でも、あの兄より食に無頓着な人間とは思えない。
俺はこのとき、あっと声を上げたいくらい唐突に思い出した。妹の名前だ。あの日、すべてが終わった日。朝食には、いやに気合を入れたフレンチトーストとくるみを散らした残り野菜のサラダとインスタントコーヒーを用意したのだ。
「なあ、……」
目をまん丸くして、彼女は顔を上げた。そうして、泣いてすっかり腫れた赤い目を細めると、俺を見た。もの言いたげな桃色の唇は、一度開いてやわらかく結ばれた。
マイ・プライベート・ワンダーランド My own private wonderland
いきなり吸ってむしろ詰まらせた息もそのままに、背から壁に激突した。完全に呼吸が止まったと思った。視界が暗転し、色とりどりに瞬いた。切った口の中が、血にまみれている。手の甲をなめてみたら、薄く色がついた。額を床につけてせき込むと、口から出たものもやはり赤かった。
人は、呼ぶ、この状況、リンチ。SVOCの順番は正しい。今おれは、生きてきた中で最高度の注目を浴びて世界の中心人物となっていた。全校生徒の前で壇上に上がる機会もなければ、リーダーとして指揮を執る経験もない。テストで百点を連発しまくって褒められもしない。だからきっと、哀れに思った誰かが輝ける場に引きずり出したに違いないのだ。ありがた迷惑だ。まあ、見てるのたった三人だけど。
頭の芯は冷静だった。蹴られた箇所が熱を持ち、神経を灼く勢いで脳に痛みを伝えてくる。何をしたわけでもないのに息が切れる。心臓は爆発する直前のようにうごめく。見上げようにも力が入らず、相手の臭そうな上履きとすり切れたズボンの裾がぼんやりと映るだけだった。
おれはまったく冷静だった。だから、このまま死ぬような気がした。嘲笑する三人が飽きるか、タイミングよく人が現れて間に入ってくれるかしない限り。
「誰も来ない」
知らない声がした。
金属製の音が大きく鳴る。屋上のドアだ。
もう一人いたとは知らなかった。ここまで引っ立てられてきたとき、おれの視界はほぼ隠されていたからだ。監視役か。加わるのか、眺めるのか。何か三人がそれぞれ話すのに、声が聞こえない。
「もういいよ」
聞こえないのに、知らない声だけやけに明瞭だった。そんなことがあるだろうか。カメラじゃあるまいし。おれの耳はピント合わせの機能までは搭載していない。
彼らのかかとが遠ざかる。暴力の時間は終わったらしい。次は何があるのだろうか。これが少年事件ならば、服を剥かれるか写真を撮られるか殺されるか、全部かだ。すでに傷害罪にはなっている。
もう一度、屋上のドアが音を立てる。耳の奥でざわざわしていた血液の沸騰が収まり、一気に静かになった空間でおれはうめいていた。痛いからではない。勝手にのどの奥から声が出てしまう。
「園条」
おれの名前を呼ぶ声に、似ているものを挙げるなら、水ようかん。おれの狂った脳裏にはふるんとしたそれが隊列をなしていた。そいつの声が脳に入り込んで、意味不明な像を形作っている。
「これは夢だから、覚めるよ。大丈夫」
なんの話か分からない。いや待った、そうか、夢か。夢の中で夢と言われてはいそうですかと、おれはうなずいた。
「大丈夫だよ」
ひやりとなめらかな、おそらく手が、おれの額から頬に滑らされる。こいつは誰なんだろう。誰だろう。
冷やし中華。食べたいなあ。
「あ」
「起きた」
ぎゅるんとドリルめいた回転音が響きそうな、首の回しっぷりだった。妙な方向を向いていた顔が三上を正面からとらえる。
「おまえだっけ?」
「なんの話?」
「冷やし中華、食べたいって言ってたの」
「言ってないけど」
三上はくすくす笑うと、箸を置いてマグカップを手に取った。コーンスープの湯気でメガネがくもる。くもりがすっかり後退しても、園条はまだ首をひねっていた。
テーブルには、正しい朝食が用意されている。それぞれの野菜サラダ、トースト、少し失敗して形の悪いベーコンエッグ、スープは各自好きなものを粉末で。それからマーマレードに、ホテルから持ち帰ってしまったマーガリン。三上は発ガン性物質があるからと言ってマーガリンを嫌っていたが、園条が好きなので、彼のために置いた。
「なんだっけ」
「さあ」
園条はよく唐突に眠りに落ちる。別になんらかの病気ではない。ただ、朝だからだ。
「水ようかんは?」
「知らないよ」
首をかしげる園条。三上はレタスと千切りの人参を箸の先でつまむ。
「夢だからって言ったの、誰だったかなあ」
卓上のごまドレッシングがなくなりそうなのを確認しながら、口へ運んだ。園条はまだうんうん言っている。
「どうだっていいじゃない。夢だから。もう覚めたんでしょ」
「覚めた! おれは起きた!」
行儀も悪く、大きく伸びをする。
三上は目を細めて、彼の首筋に残る指の跡と服の下のあざとをいとおしげに想像した。
テオドールⅡ Theodor Ⅱ
親父が俺を森の牢獄にぶち込む直前まで、ジギー・スターダストのことを考えていた。確かにもろもろへの憧れはあったが、窮屈な赤いリボンタイを一度でも締めればあきらめはついた。その程度に俺は大人びていると、そう確信していた。
学校へ入れられたら入れられたで、カタカナの名前と黒に相容れない髪と眼が、自分の所属をことあるごとに見失わせた。みちるは俺を同じように混乱させた。大人か子どもか分からなくなる。足下がぐらついて、築き上げた壁が脆く頼りない。俺はみちるが心底嫌いだった。
寮で同室になったのも偶然ではなかっただろう。あれは、問題児である俺と訳ありかつ新入りのみちるをかませて両方沈めてしまいたいという、双方の親の思惑だった。当然遠くにいる他人をコントロールするなんてうまくいくはずもなく、むしろ別の方向に転んだことにはおそらく誰も気が付かなかった。まるで癌だ。ステージは進行するが、医者は見逃して、俺たちはどうしようもない月世界の白昼夢のまっただ中に行き着いてしまった。これは俺の思い込みやうぬぼれではない。なにしろ、その事実を初めに言葉にしたのはみちるだ。俺は死んでも言うまいと固く決めていたのに、あの淫乱馬鹿は泣きながら言ったのだ。見下ろしながら最低の気分だった。苦しいのとうれしいのともっと別の欲が同時にあって、それらを吐き出しては互いになめ合う。それだけで、閉じ込められているという哀れな現実に対して、二人とも目を覚まさずに済んでいた。また俺は、そういった関係と感情を恋と定義づけた。
みちるよりも大人を演じていた俺は、本当はそれが恋などではないと悟るのが早かった。この期に及んで回りくどい言い方はよそう。どうせ読むのは一人しかいない。正しく言い直せばこうだ。つまり、俺はほんの子どもでみちるよりもずっと浅はかで、そのことをようやく知った。当時の俺にしてみればかなり衝撃的な自覚だったが、みちるにとってはそうではなかったのだろう。見通した顔をして俺を見たから。終わりはあっけないものだ。いつだって何だって。
タイミングがいいのか悪いのか、卒業する年になって、春を待たずに俺は学校を去った。その後のことは本当にまったく知らない。俺は国外へ飛ばされ、高度な教育と完璧な自由を得た。どういう事情があって日本にいられなくなったかは聞かされず、結局家政婦どもの立ち話で理由を耳にしたとき、俺は笑いが止まらなくなった。居場所も所属も、俺には最初からなかった。それ、おまえは知ってたんじゃないの?
ようやく大人の世界のほとぼりが冷めてシュニッツェルとポメスも食い飽きた頃、俺はレディ・スターダストのことを考えていた。みちるはいなかった。灰は灰に。事実を確認しようと、俺はわざわざ退職した教師を訪ねた。それで本人の代わりに遺されたリボンタイを手にした。経た年数なりに傷み、俺がかつてつけたひっかき傷もこの通り、そのままある。あのときのみちるも、怒りにあふれて泣いていた。俺は一度でもあいつを笑わせたことがあっただろうか。
そろそろ紙が足りないから、まとめるようなことをしたほうがいいかもしれない。読んだら燃やせと言おうと思ったが、そう思ったところからして俺はまともじゃない。だったらもう何を言っても誰かが許してくれるだろう。
俺は、おまえに会いたいんだ。そこを掘り返して、骨しかなくてもいいから。だって、言いたいことが、俺には死ぬほどたくさんあるのに。
フォール・イン・フォール(無配ペーパー)
来年の春、姉は結婚する。数ヶ月ぶりに帰った実家で数年ぶりにうれしい知らせだった。丸みを帯びたお腹が不思議でふと触れてみたら、あたたかいだけなのに泣けてきた。相変わらずよく泣くなあ、と姉はこの歳になってもまだおれを甘やかす。結局充血した目のまま家を出てきてしまったから、顔を伏せ、改札前で「もうすぐ着く」の立岡を待った。これもまた、数ヶ月ぶりのことだ。
秋斗の季節だね。十一月になると、毎年姉はおれに言う。手段が電話であろうとLINEであろうと関係なく。だからおれと姉の間だけは、世界が滅びに向かってもきっと変わらないのだ。なんてばかげてファンタジックな確信を、以前立岡にも話したことがある。家に招いたあの日だ。そういえば姉は立岡の肌色を理由に奴を運動部と決めつけていたが、バレーは室内競技だ。半分間違った認識を、おれは訂正しようか迷ってしそびれたままである。何年も前のことなのに、記憶は些末まではっきりしていた。
「ぴったりつながってんだよ、あの人とおまえって。見えるとこから見えないとこまで」
立岡はお茶を持ってきた姉を目線だけで見送ったあと、やけに詩的な返しをしてきた。振ったのは変な話だったから、てっきり困惑されるかと思っていたおれは吹き出しそうになった。一方の立岡はまじめな顔をして、シャーペンを器用に回していたのをぴたりとやめるとおれに向き直った。
「今までお姉さんの話しょっちゅう聞いてきて、あの人には絶対勝てないって思ってる。というかおまえたぶんシスコンだから、けど、でも、俺はお姉さんに勝ちたくて、だからこれは、なんていうかすごい卑怯かも……なんだけど、」
しどろもどろに至近距離、赤い顔。不健康に白いもやしの僕とは違う匂いがした。それから黒目の色素が薄かった。学ランを脱いだ首元にはほくろが二つあった。指は長くて細くて冷たかった。あとのことは忘れた。ほんとうにすっかり忘れた。そういうことに決めている。
今日は例年より気温が低いらしく、おれはマフラーに顔を半分埋めて息を吐いた。暖かくなっても、姉の苗字が和田じゃなくなっても、おれが誰を好きでも、誰がおれを好きでも、そういったすべてが変わらなければいいと思った。
「和田? 泣いてんの?」
濡れたイチョウを薄汚れた靴が踏んだ。おれはまだ、顔を上げられない。
テオドール