*星空文庫

サイボーグの都落ち

ALTVENRY 作

  1. 1 社内の軋轢
  2. 2 江東区の10年
  3. 3 体調不良余波
  4. 4 逃げ道を探せ
  5. 5 引越という選択
  6. 6 始動
  7. 7 新生活

サイボーグシリーズの続きとなるものです。

今回は、サイボーグ的な側面は影を潜め、もっと現実的な世知辛い話かも知れません。
20年以上東京都民だったのですが、茨城県民になる話です。
お金の話も出てきます。

1 社内の軋轢

 2009年、2度の入院を乗り越え職場復帰を果たした。体調は万全とは言えないものの仕事をする上で支障があるとは思っていなかった。眼鏡販売に関しては、すでに20年続けてきた経験が自信を裏付けしていた。
 自覚症状はなかったが、立ち仕事に対し身体が自然に反応して、いくらかでも楽になれるような動作……例えば机や壁に寄りかかるということをしていたようだ。また出来れば座って出来るような整理仕事を好んで行っていたことは、自分ではたいしたことではないと思っていた。
 ところが企業というものは、そう甘くないのである。どんな仕事も職場内の人間関係のバランスの上で成り立っているものであって、多少は良い顔をしていないと仕事がやりにくいものである。ご機嫌を取れとまでは言いたくないが、常に後ろ指だけは刺されないようにしておかなければならない。
 そうはいっても人間である。人の好き嫌いはどうしても出てくる。私に好意的な人物との仕事はまったく問題ないが、私に何かしら敵対心を抱いていたり、好き嫌いはないにしても、パーフェクトな仕事を求めるようなエリート人間には、若者のような機敏な動きの取れない年配で、まして身障者というくくりの私に対する風当たりは強かった。
 先に書いたように、すぐに座ってしまうことをやたら攻撃的に宣揚する人間もいたりして、もっと楽に出来る仕事に転職した方が良いと言ったり、人事担当者に職場異動を提案する輩もいた。
 それでも何とか続けられたのは、直属上司が何かと庇ってくれたからで、今思い返すと本当にありがたいと感じる。
 直属上司は数人変わったが、特にKさんとSさんには感謝したい。Sさんは同世代だし、懐が深いせいか、誰からも頼られている。今でも某店の店長をされていると聞く。
 Kさんは一回り若い世代で、私が店長をしてた頃入社した、いわゆる後輩である。いつのまにか逆転して上司になっているが、彼の手腕は評価出来たし、残念ながら今は退職されてしまったようだ。でも彼のバイタリティを持ってすれば、どこへ行っても成功するだろう。
 取りあえず私は、そんな彼らの元で彼らの恩に報いるべく、質の良い仕事をしていく決意をし、もちろん金額も大事だが、客に喜ばれる接客を心がけていた。おかげさまで、常に上位の販売成績を上げることができた。
 思い返せば、1987年入社だから22年経っていた。迷走の20代半ば過ぎにミュージシャンとしての道を諦め、現実を見極めて探した仕事だった。
 それまでもアルバイトで接客らしきものは経験していたが、この眼鏡販売は本格的な接客業だった。5日間の本社研修、数ヶ月の店舗研修で最も学んだのは、眼鏡の知識、目の知識以上に接客マナーだったかもしれない。まあ20数年間の会社生活は、また別の機会に書かせていただこう。
 20数年間の中で店長だった事もあるが、サイボーグになる頃には、もうそういった役職は解かれ一介の販売員に過ぎなかった。所属店は上野で、先のS店長、K店長も上野店の歴代店長である。
 この頃住んでいたのが江東区森下のマンションだった。大江戸線で1本、両国、蔵前、新御徒町、上野御徒町と4つ目なので10分程度だから、かなり楽だ。ただし上野御徒町からは、結構歩く。そう、この上野御徒町というネーミングは最初どうかと思っていた。上野と御徒町の中間というならまだいいが、明らかに御徒町だ。JRの乗り換えがそうなのだ。

2 江東区の10年

 先に会社生活20数年と書いたが、その間私生活的にももちろんいろんな事があった。それに伴い引越も多々あったのだが、2009年の段階で江東区森下が9年目となり、それまでの杉並区堀ノ内8年を抜いてトップに躍り出た。
 杉並区堀ノ内は20代の頃で、入社した当時はここだった。そして生活のグレードアップを求めて調布、その後結婚して日野、訳あって中野、さらに訳あって……これは書かねばならないだろうか。離婚である。離婚して杉並高円寺、そして再婚して江東区森下になる。
 調布も、日野も、中野も、高円寺も短いと言えば短かったが、どれもが濃厚な日々と芳醇な想い出に溢れている。
 一人暮らしを極めたのが調布だった。最寄りの駅は仙川。初のフローリング、エアコン、出窓にロールスクリーン、お気に入りの遮光カーテン。それは貧困の20代に決別し、安定した生活を手に入れ、30代を迎えたご褒美のようなものだった。
 そんな生活が自信にも繋がったか、恋愛にも成功して32歳で結婚となった。新居探しは、調布、府中、国分寺辺りを探したが、予算内である、多摩川の先の日野……正確には豊田になった。そこでの新婚3年間の想い出は今思い返すと輝いていて眩しい。日野市役所に婚姻届を出しにいった。駅前のスーパーや居酒屋やカラオケが思いだされる。同じ駅前でも南側には何もなかった。
 そこから中野に行くのは、ある不幸があったからだが、自分で決めたわけでないせいか、何か鬱屈するものがあったかもしれない。とにかく何か新しい生活を模索した結果が一人暮らしで、それが高円寺だった。ちなみにこの高円寺のワンルームから中野のマンションまでは、歩いて20分くらいだった。
 最初は離婚を意図したわけでなく、一人になれる空間を探しただけだった。まあ結果、別居となり離婚となった。この辺りの話もほとぼりが冷めれば、書いてみたいとは思うが、今思い返しても、何か自分の心に針を刺している感じを覚えるので時間は必要だと思う。
 そんな闇を乗り越え、再婚に行き着くのである。もうすぐ40歳になろうとしていて、40代を一人で生きていくのが恐かったのかもしれない。それはもしかするとサイボーグの予感があったのかもしれない。手術は2007年、再婚は2000年だった。
 ちなみに江東区になったのは、再婚相手が住んでいたワンルームがそこにあったからで、たまたま駅に近い新築マンションのモデルルームを見に行ったことがきっかけとなった。
 金額が4200万だったが、正直再婚に浮かれていたことや、その感覚に麻痺していたせいか、月々一〇数万の35年ローンが、それほど苦に感じなかったのだ。確かに当時の年収でギリギリの生活だとは思っていた。根拠のない自信に支配されていたのかもしれない。
 計算が狂いはじめたのは、業界の不振による収入の激減だろうか。もちろん私自身の待遇の変化も関連している。高度成長期ではないから、収入が下がる事も当然計算すべきだったのだ。
 しかしながら、初のマンション購入、再婚というイベントをやってのけたのだ。さらに、高層マンション暮らしを楽しみ、旧深川地区という江戸文化を満喫していて、蓄えが減少していく事に目を塞いでいたに違いない。
 とはいえ、ここにいたからこその本郷の大学病院に行く事になったのだと思う。そう考えるとやはりサイボーグ化のために再婚し、なおかつ江東区森下に住居を構えたのではないかと思われるのである。

3 体調不良余波

 これを書いている2012年現在、大手術を含めた2回の入院以降、入院はしていない。それでも2009年1月退院以来、定期的に通院はしているし、実は、時々サイボーグ化が原因かどうかは不明だが予期せぬ事が起こる。
 2009年最初に襲った波は、腱鞘炎である。今まで経験した事がない痛みだ。心臓手術との因果関係は見当たらない。森下では行きつけの整形外科があって、そこで週一回低周波治療などを受けたりした。
 また自分でもフェルビナクの入った痛み止めを買ったり、テーピングをして固定したり、腱鞘炎予防マウスなどを購入した。
 多分、それまで使っていたマウスの動きが悪く、それも原因の一つになっていたのだと思ったのだ。単純にマウスを買い替えるだけでも効果はあったかもしれないが、腱鞘炎予防マウスならなお良いだろうと思って購入した。通常のマウスは手のひらを覆いかぶせるような体勢だが、このマウスは手のひらを机上面に対し垂直に置くので、左右というよりは上下スナップを使ってポイントを左右に動かすというわけだ。
 これが功を奏したかどうかは不明だが、いつのまにか腱鞘炎は消えていた。春夏に悩んでいた記憶はあるが、秋口にはけろっとしていたような気がする。原因が不明だけに何かをきっかけに再発する可能性は否めない。
 実は心臓より先に、問題を露見した箇所があって、それが原因の可能性もあった。それは首なのだ。心臓手術の1年前の2006年、なかなか肩こりが治らないので、過去に行った事のない整形外科に初めて行った。先に書いたところだ。
 ちょっとアーティストを思わせるドクターは、私の話を聞くや否や、
「それは頸椎症性根神経症である!」
そう、言い放った。
 彼の勧めで8月には、初めてMRIを体験する事になる。ちなみに健康診断に引っかかって循環器科に通い始めるのが、その翌月だった。心臓という大問題の前に一旦は、首の問題を棚上げすることになるのだった。
 2007年心臓、2008年血管腫という問題を取りあえずクリアしてきて、ここに来て、首にある問題が、諸悪の根源になっている可能性は否定出来なかった。ドクターも2回目の首のMRIを示唆してきた。MRIは体内にある金属が問題となるが、私の心臓の人工弁はまったく問題ではなかった。
 MRIの結果はおかげさまで前回以上に悪化をしているわけではなかったが、状況は相変わらず頸椎の1部が神経を圧迫しているのであり、ショルダーバッグのような片側に重みがかかるようなものは使わない方が良かった。だからこの頃は、ウェストバッグのようなタイプを使うようになっていた。
 そして首の頸椎を保護するためにそこに筋肉がつくような首の運動をするようになった。思えば20代の頃、どんなに酔いつぶれて、どんな格好で寝ても身体が痛くなるなんて事は感じた事がなかった。もちろん肉体が若かったのは間違いがないが、その当時にそんな事をしてこなければ、あとで苦労する事はなかったのかもしれない。

4 逃げ道を探せ

 そんなわけで2009年、退院以来、仕事での圧迫、腱鞘炎などの問題が襲いかかってきたわけだが、ここに来て精神的にそれ以上の問題がのしかかってきたのだった。マンションのローンである。2010年から利息分が多くなるので、今以上に厳しいのだ。いや厳しいなんてレベルじゃなく、払えなくなるのは目に見えていた。
 この問題を解決すべく、最初にイメージしたのは収入アップである。ちなみに2005年にカラーコーディネーターの資格を取ったのも手当が増えるからであった。今の職場から、現状以上収入が増える可能性はなかった。ならばサイドビジネスかと思うが、体力的に問題があった。
 そこで思い切って転職しようという方向を考えた。現状よりも収入がアップ出来るに越した事はないが、取りあえず退職金をローンにあてがう事が出来るかもしれないと考えたのだった。最初に転職斡旋サイトに登録し、疑似面接のような機会を作っていただきアドバイスをいただいたりした。
 思えば、転職願望というものは常に頭の片隅にあったと思われる。それを最初に感じたのは、1995年に某店の店長になった時だった。多分自分の能力を思うとそれ以上上り詰める事は不可能だと思ったのだろう。ところが店長職というものは、結構やりがいがあったり、たいへんだったりして、いろんな事で没頭してしまい、自分の行き先を考える余裕など失ってしまったのだろう。
 そして1999年に店長を降りた時こそ、転職を考えるべきだったのだが、この頃は1998年に購入したコンピューターiーMacに夢中になっていて、金銭的に綱渡りをする余裕がなかった。コンピューターを極めるにしても時期尚早だった。
 その後頑張って2002年に初級シスアドに合格するも、再婚して35年ローンを組んだ後だったから、何も出来なかった。会社内でもまだ管理職としての立場も残していたので、再び重職である某店の副店長になっていて、転職はまたも遠のいていったのだった。
 そして2009年、やっと転職を考えるタイミングに遭遇することになった。転職斡旋サイトのアドバイスで思い知ったことは、2002年に取得したシスアドが、多分何の役にも立たないだろうこと、もし収入ダウンを望まないのなら、技術系でなく今と同じ接客業が、最も能力を活かせるであろうことなど、確かに言われてなるほどと思う事しきりだった。
 とにかく接客が活かせる仕事をいくつかピックアップしてもらうも書類選考で弾かれてしまう。面接になど到底到達しない。最初は結構な件数に安心したが、とにかく数だけ並べておいて、ただの見せかけだけだったのかもしれない。
 転職熱が冷めるように、腱鞘炎が消えていった秋口、また別のローン返済手段を思いついたのだった。それが引越だった。

5 引越という選択

 2000年10月に江東区森下に住みはじめた。再婚である。マンション購入である。後先を考えない無謀な決断の中にも多少の良いわけがある。
 とにかく場所が良かった。駅直結だ。高層階で東京タワーも見える。隅田川まで散歩の距離だし、頑張れば人形町や門前仲町まで足を伸ばせる。
 ハンバーグのおいしい店や老舗の居酒屋、元祖カレーパンの店、お気に入りのラーメン屋、ランチのマレーカレーがおいしい喫茶店等々街も良かったと思う。
 実は将来的に売却という事を考えなくもなかったのだ。この年の12月に大江戸線が開業する情報も掴んでいて、その乗換駅としての森下の価値はかなり上がるだろうと践んでいたからだ。
 ところが、発展したといえる状況でない。住みはじめた頃、我々がよく利用していたモスバーガーが途中なんと撤退してしまった。跡地はペットショップとなった。そうするとコーヒーを飲んで待ち合わせしようなんていう場所はドトールコーヒーくらいしかない。
 もちろん先にあげたマレーカレーのおいしい喫茶店もあるが、コーヒーはそこそこの値段だ。まあ商談とか大事な人との待ちあわせなら良いだろう。珈琲館跡地の喫茶店もまたしかりで、やや高めの感が否めない。ファミレスくらいあっても良さそうだが、となりの菊川のスカイラークか清澄白河のデニーズまで行かなければならない。
 だいたい交差点の角が、居酒屋、弁当屋、ケーキ屋と当マンションというのはどうだろう。ちなみに当マンションの下は眼科だ。
 大江戸線の開業とは別に資産価値を高めるような要因が登場してくれて本当に助かった。それがスカイツリーの建設だった。工事に入ってしばらくすると当マンションの当部屋からも少しずつ高くなっていく様子が見て取れた。
 さて、ここ数年所属店の上野から応援という形で松戸や柏の店舗で働く事もあったのだが、2005年からは新御徒町からつくばエクスプレス(以下TX)を利用した。それ以前だといったん上野御徒町まで行って、山手線に乗り換え、上野か日暮里で常磐線に乗り換えるわけだが、TXを使うと乗り換えがすべて屋内でスムーズなのだ。
 多分大江戸線同様新しいものが好きなのだと思う。そういえば大江戸線が開通したことで、1本で行ける六本木にヒルズやミッドタウンを見に行ったり、麻布十番でお祭りを堪能したことなどを思い出した。
 このTX、始発は秋葉原で終点つくばまで45分という。踏切を設けず、必ず高架か地下を走ることで最高速度130キロを出せるらしい。つくばというと1985年につくば博があったことくらいしかしらない。とにかくそこは茨城県なのだ。
 茨城といえば、納豆、方言というイメージは小さい頃からあったが、生まれが千葉のせいか、それほどは気にならない。両県を隔てる利根川には何かしら引きつけられるものがある。
 ミーハーではあるが、2004年公開の映画「下妻物語」にあまりにも感動して、さらにイメージアップとなった。ブロンズ立像としては世界最大の牛久大仏もここで知った。そして主演の深田恭子を見直すきっかけにもなった。監督中島哲也を知ったのもこの作品からで、後の「嫌われ松子の一生」にも通じる大胆できめの細かい演出を評価する。
 ネットで同じ系列のマンションをこのTX沿線沿いで探すとみどり野という駅に物件があった。終点つくば駅の3つ手前の駅で住所ではつくば市である。一つ秋葉原よりのみらい平はつくばみらい市、もう一つ手前の守谷は守谷市で、そこまでが茨城県であった。要は利根川を越えて茨城県に入ると2000万円台で森下以上の物件がごろごろしていた。

6 始動

 取りあえず仕事は辞めない方向で、引越で何とかしよう。そう決めて物件探しの旅に出た。もちろんTXだ。TXの唯一の欠点は乗車料金だろう。最近はパスモやスイカで乗る事が多いから意識しないかと思いきや、改札で拒否されチャージしたことで、素直に高いと思った。新御徒町からみどり野が950円だった。
 マンションでは販売センターのような場所に受付を設けていて、コーヒーなどをいただきながら、耐震設計と免震設計の違いなどを詳しく聞いた。親切なんだろうが、諄いぐらいの説明に辟易した。結局説明が長引いて、実際部屋を見る時は日が落ちて暗くなっていた。朝一番で行ったわけではないが、入った時は2時か3時だったような気がするんだが……。
 この日を境にして、TXに拘らず、他の物件にも目を配っていたが、実際興味があるのはTXの物件で、なおかつ思い切り利根川を越え茨城にしようと漠然と考えた。
 みどり野で決まりそうな雰囲気の中、研究学園駅と守谷駅の物件にも興味がわきはじめ、近い方からということで守谷に下車する。
 前回のみどり野と違い、駅にフードコートがあった。みどり野は、茨城では当たり前のスーパーカスミと同じく茨城ではどこにでもあるファミレスココスしか主立ったものはなかった。今はもう少し開けたかもしれないが、2009年当時はそんなものだった。
 守谷駅のフードコートに感動しつつ、現地の販売センターに赴いた。そして話を聞いているうちに何となく気に入ってしまったようだった。一つには守谷という駅、フードコートもそうだが、守谷発、守谷着の列車があるということ。また住み良い街ランキングがあって、ここ数年常にトップ10内に入っていること。
 さらには充実した商業施設があること。現在はイオンタウンに名前が変わったロックシティは、100以上の店舗を収容した1大ショッピングモールである。またインテリア、エクテリア、DIYに特化したジョイフル本田も大きな存在感を放っている。
 販売センターでの説明、物件の内覧を終え、説明のあったロックシティに足を運んだ。駅に直結しているわけではないが、駅から徒歩10分強でたどり着いた。いわゆるショッピングモールだが、充実した店舗群に満足感を感じた。フードコートもそこそこの広さで、ゆったりした気分を味わえた。そこで遅い昼食を済ませ帰路についたわけだが、帰る前にみどり野にお断りの電話を入れた。
 守谷の物件がT不動産だったので、系列の江東区の支店に連絡を入れてくれた。これで森下のマンションを売却して守谷のマンションを手に入れるという、私が勝手に名づけたもりもりプロジェクトが動き出したわけである。
 森下担当の営業マンはかなりやり手の方で、彼のご指導のもと、とにかく荷物を減らす工夫、部屋をきれいに見せる工夫を施し、いつ内覧希望者が訪れてもいいように努力した。
 とにかく荷物を減らして部屋を広く見せるために、南柏のおばさん宅に一時荷物を宅配で送って預かってもらった。段ボールにして15箱くらいはあったと思う。
 洗面等の水回りの掃除を念入りにし、切れている電球やわざと暗くしているような照明まで、とにかくフルに付けて明るく見えるようにした。
 まあ、そういった努力が功を奏したかどうか、まあもともと先に書いたようにこの森下のマンションは良い物件なのだ。私に財力がもっとあれば、当然手渡したくないくらいの物件だった。まあ10年も住んだからもういいか、という気持ちもあった。
 内覧は数組あったが、二組目のIT企業に勤めるやり手の若者が、えらく気に入ってくれて3800万円で売れた。10年経ったが、400万円しか下がっていない。やはりいい物件なのだ。
 ちなみに10年住んでローンの残額は3500万円ほどだったので、少しながら余裕が生まれた。守谷の物件の頭金に少し入れ、残りは10年ぶりのマイカー復活に利用した。

7 新生活

 2009年暮れにすべての計画が決定し、実際に履行されるのは、翌年となった。どちらの物件も同じ不動産会社なので、森下売却と守谷購入は平行して行われた。
 その最も山場となったのは、1月下旬某日。江東区葛西に森下購入者のホームバンクがあった。彼の口座から私のホームバンクに3800万円を振り込む手続き、これが第1弾。
 それを確認して、錦糸町に移動。そこには私のホームバンクがあって、そこで振込された金額をもって、私のローンの完済手続きをとる。これが第2弾。
 間違いなく完済された証明書を、今度は守谷で新しく購入するためにローンをお願いする新たな銀行の担当者にFAXをする、という第3弾。これを朝から夕方までに何とかこなした。額が大きいと手続きが結構面倒くさいというのが率直な感想だ。
 この日のために守谷にも何度も足を運んでいた。ホームバンクは正確には蒲田の支店なのだが、比較的近隣の錦糸町の店舗で行えるように調整もしていおいた。
 さて、それからが本格的な荷造りで、2月2日の引越予定日まで段ボールとガムテープとの格闘が始まった。数ヶ月前に段ボール15箱を叔母の家に預かってもらっているのが嘘のように荷造りが進まない。前日などほぼ徹夜での作業となった。
 前日2月1日は都内にも雪が降って数センチ積もるという予報だった。徹夜覚悟のため夕飯に想い出のラーメン屋に顔を出した。雪の中を数分を家内と一緒に歩いた。
 翌日朝8時には、引越業者がやってきた。徹夜したにもかかわらず、キッチン周りがまだだった。出来ているところから業者は、荷物を降ろしてゆく。その間に死にものぐるいで台所のものを段ボールに詰めてゆく。人間追いつめられると、何とかなるものだと思った。
 守谷には、我々よりも引越業者が先に来ていた。販売センターの方で鍵の受け取り手続きをしてきて、業者にねぎらいの言葉をかけながら新居のドアを開ける。荷物が次々と運び入れられるのを時折場所を指示しながら見ていた。これをまた自分たちでひもといていくのかと思うとちょっと憂鬱になった。
 それでも懸念していた照明の取り付けも上手く行き、翌日には予定通り守谷市役所に足を運んで住所変更を済ませた。守谷市内を循環するもこバスにゆられ、かなり自然の残された守谷も見ながら、最後にはやはりロックシティをのぞいた。
 もこバスに揺られながらマイカーの必要性を十分に感じていた。まあ守谷に来た時には既に頭にあったのだが……。
 森下で4200万円のマンションを購入し、35年のローンを計画した時に、それまでもっていたヴィッツを処分せざるを得なかった。それから10年は、地下鉄直結マンションだけに、車の必要性も感じなかったが、こころのどこかに寂しさがあった。
 さあマイカーを買うならどこが良いだろう。これも大体決めていて、昔からトヨタばっかりだから変えてみようという意識もあった。マツダのデミオに興味がわいて、正月には門前仲町近くの販売店に下見に行っていた。
 守谷で、販売店を検索すると守谷店と取手店があった。守谷店といっても守谷駅でなく、常総線の一駅先の新守谷だった。取手店もやはり常総線の戸頭という守谷からは2つ先の駅だった。
 ただし取手警察署に免許の住所変更に行こうと思っていたので、戸頭に途中下車する計画した。まあ軽く試乗出来ればいいなあと思っていた。
 それにしても関東鉄道常総線は、このとき初めて乗ったのだが、2両編成のまさしく田舎の電車で、動力もディーゼルだから電車と言わず気動車というらしい。戸頭の駅舎もこざっぱりした田舎の駅だった。
 国道294号線沿いに店舗はあった。担当のM氏に試乗を申し入れると意外な提案があった。
「取手警察署で免許の住所変更なら、どうですか?この車で行かれては?」
 私の頭では試乗というのが、敷地内の狭いところと思っていたのでびっくりだった。正直言うと10年運転してなかったので、いきなりそんな距離と思ったが、確かに車で行けば便利だ。都内とは違うから、何とかなるだろうし……。
 きっと試乗に慣れた人なら普通のレベルの話で、わざとそんな私用で使うような人もいるのかもしれないが、私にはこの提案が斬新で親切なイメージに捉えられた。これが出会いだと思った。
 滞りなく用事を済ます事が出来て、この担当者と後日相談することになった。とにかく10年ぶり出し、年も取ってきたことを考慮しバックモニターを付けてもらった。後はナビとアイポッド接続キットも付けた。
 納車は、ちょうど引越して1ヶ月後だった。そこからいろんなドラマが始まるのだ。牛久大仏、あみアウトレットモール、霞ヶ浦、つくば山、下妻イオン、古河、大洗海岸、ひたち海浜公園、竜神大吊橋、袋田の滝など、茨城県の観光名所を次々と尋ねていった。
 
 その翌年、3月11日東日本大震災が起こる。その時もこのデミオがあることが、我々夫婦にとって救いになった。まあ、茨城に越して1年は、すべての出来事が輝いていて、楽しい想い出がたくさん出来たのだ。
 ありがとう茨城。
 ありがとう守谷。
 
以上

『サイボーグの都落ち』

 金銭のやり取りなどは、もっと複雑だったのですが、ざっくりと表現しました。ローンの仕組みも何だか訳が分かんなかったりします。
最初の物件などは、銀行と住宅金融公庫の2カ所からのローンでしたし、大金のやり取りの合間を縫って、登記簿の問題で司法書士の方も同席してますし、すべて書き込むだけの私の理解力もなく、簡単な内容になってます。
とにかくたいへんな想いをして引越を敢行し、新天地で楽しい想い出をたくさん作ることが出来ました。

『サイボーグの都落ち』 ALTVENRY 作

40代のサラリーマンが直面する仕事での挫折。ローン地獄からの脱却。まして私は2007年に心臓手術を施したサイボーグだ。身体の心配もしなくてはならない。江東区に10年暮らし、新天地を求めて茨城県守谷市へ……。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 冒険
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2012-09-02
Copyrighted

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