乙女は地獄で夢をみる

蓮見刈穂 作

おおきく西に傾いた、濃い卵黄色のまるまるとした朝日(・・)を背に、三人の可憐な少女が埃臭いスラムの大通りを闊歩していた。
ひとり、サロメ。
すらりとたおやか、白百合を思わせる立ち姿。ぱっちりとした碧玉の瞳が映えるよう、黒檀の髪を複雑に結い上げ、雪花石膏の肌へゆるりと流している。地軸の傾きに伴う苛烈な日差しにあって、惜しげもなくさらされた豊満な肢体には鴉色の薄絹を纏うのみ。
ひとり、シェヘラザード。
深い珈琲色を湛えた肌、金糸の髪。知啓を宿したまなざしは天蓋のようなふっくらとした瞼の下。先頭を歩くサロメの半歩後ろに伴う姿は姫に傅く従者を思わせる。肩から下げたナップザックは彼女の趣味である「読み聞かせ」のための五感効果(Five-Sences Effect)収集用。
ひとり、織姫(オリヒメ)
中東系の前者二人に比べ、かつて新宿と呼ばれたこの地によく馴染む極東アジアの面立ち。陽の光が絡んだ紺色の豊かな髪と同系色の瞳。サロメと打って変わって、分厚い対外活動用外套(コート)を何枚も重ね着。二人の後をおっかなびっくりついていく慎重肌。
文字通りに天地がひっくり返った【大変動】の落とし仔たち。
神の落書きめいた現実のために改変された非現実の子供たち。
科学技術の魔境より降臨した三者三様・千変万化の少女たち。
現在のシンジュク・スラムに交通網の要所として栄えた大都市の姿はない。【大変動】は太陽の巡りを変え、気候を変え、文明を変えた。わずかな文明の残滓も浮浪者たちに解体され、高層ビルの墓標ばかりが林立する吹き溜まりと化していた。
「ねえサロメ、帰ろうよ……先師に怒られるよ」
こわごわと口火を切ったのはしんがりを務める織姫であった。
彼女が厳重にまとっている対外活動用コートはたった一枚でも一時間の酸性雨(スコール)に耐えられる優れものだ。真空でも破けない織姫の真皮に比べれば紙の衣のようなものだが、心配性の彼女は常に厚着が止められない。織姫は黄土色の外套の合わせをぎゅうと握り、落ち着きなく周囲を見渡している。
「嫌、嫌、そんなの嫌よ!」
サロメは蕾のように慎まやかな鼻梁をつんと逸らせて答える。「せっかくシンジュクまで来たのに、モルガンの御付きだなんて、わたしはまっぴらなの。だってつまらない! だから御出掛けしたんじゃないの」
文明崩壊以前(プレ=フラクチュエイション)を思わせる古風で芝居掛かった物言いはサロメのお気に入りだ。彼女たちの名は環境に適応するための身体改造・精神調整を経たのち、さらに正気をもって生き残った個体にのみ付与されるが、サロメの名は難航したに違いない。マリー・アントワネット、あるいはエリザベート・バートリー。崩壊した文明に名を刻んだ高貴なる悪女は枚挙にいとまがない。あるいは愛らしさゆえにわがままのすべてをうやむやにした乙女とも。
「サロメの言うことももっともです」
シェヘラザードの同意に織姫は目を剥く。
「ちょっと、嘘でしょ」
「シンジュクは先の【大変動】で復興交通網から外されています。だからこそ旧日本屈指の貧民街が形成されている訳なのですけど。今回みたいな、機関の実地訓練遠征でもない限り、私たちだけで訪れるのは難しいでしょう。……まあ、サロメのようにわざわざ万神殿(パンテオン)を抜け出してまで行くのは、ちょっと強引ですが」
最後は苦笑交じりだった。サロメのような華のある美ではないが、シェヘラザードも他の個体と同様にジュブナイルの危うさ、愛らしさを備えている。手持ち無沙汰にバックパックの収感機器のつまみをいじる姿さえ様になっている。
「シェヘラザードの言う通り。だって、だって、きっと主役はモルガンだわ。わたしたちはあの子が踊っている後ろで彼女が粗相しないか見守るだけ。それじゃあ、シンジュクまで来た意味がないわ!」
サロメはもうじき正式に名を付される―――「一人前」と目される末妹の名を上げて不平を漏らす。今回のシンジュク遠征も、仮称モルガンの最終耐久試験のためのものだ。織姫たちも場所と時間は違えど【大変動】後の世界でも想定した稼働を示すかどうか試され、そして合格の印として正式な名称を授かった。
織姫としては末の妹がきちんと先師たちのお許しを貰ってから外出するのでもまったく問題はなかったが、サロメとしては納得しかねるらしい。
「シェヘラザードまでサロメに付くなんて……」
織姫は、万神殿を出てから何度目かの後悔を露骨に表した。好奇心旺盛で奔放なサロメはまだしも、メンバー屈指の論理機構を内蔵したシェヘラザードがいるから安心してしまったのが間違いだった。
最も小柄なシェヘラザードは確かに理知的であり、論理機構―――脳以外の部位に内蔵された生体思考部品とも高いシンクロ率を誇っている。だが、彼女は名が示す通り「語り部」を特徴としている。表向きはサロメの悪癖を論理で裏付けているように見えるが、その実シェヘラザードは自身の知識欲に屈しただけなのだ。普段の外出なら持参しない、大事な宝物である収感機器をわざわざ持ちだしているのがいい証拠だ。外界から吸収した知覚・味覚・触覚・嗅覚・聴覚は万神殿のレクリエーション室で生の質感にコンバートされ、彼女の語りを飾る演出となる。
「ねえ、ねえ、織姫。そんなに辛いのなら帰ってもいいのよ?」
「そうですよ。道は覚えていらっしゃいますよね? もしお忘れでしたら途中まで付き添いますよ」
足を止めた二人が振り返る。無垢なサロメはあくまで他意などなく、明晰なシェヘラザードは単純な親切心から。
意識あるときから共に過ごした友人であり、家族であり、世界唯一の仲間だ。悪意などないと知りつつも、織姫は「うっ」とうめいてぎこちなく左右を見渡す。
薄々気づいてはいたのだが、三人はシンジュク・スラムのド真ん中にある大通りにさしかかっていた。劣化した鉄筋と帆布で組まれたバラックの群れが見渡す限りは延々と続いている。苛烈な直射日光で彩度の陰った有り様はさながらモザイクアートのようだ。濃厚な朝日を浴びて、複雑怪奇な迷路とその影から伺う数多の目が浮かび上がる。
かつては天の恵みとうたわれた太陽は【大変動】の歪みに伴って人類の最も身近な脅威と化した。万神殿の娘と違い、外界の脅威に耐えうる真皮構造も受容器制限も持たない只人にとって、太陽が西に居座る朝のうちは対外活動用コートを持ってしても長い間の活動は困難だ。
織姫を凝視する只人たちの視線は刃物のように鋭い。住処に踏み入られた怒りと警戒、そして天の光に晒されてなお悠々と闊歩する異形なる少女たちへの嫉妬と恐怖。数十の対なす眼光が、織姫の胸中では万倍にも膨れ上がるような錯覚に化ける。
彼らが三人に襲い掛からない理由はひとえに万神殿の処理のおかげだった。旧文明の伝説を冠した娘たちは、一見非力な子供に見えてその実とんでもない機能(きょういく)が大小さまざまに仕込まれている。美意識の粋を集めた容姿はそのひとつだ。真空空間でも活動できるニューエイジが、三人もいる。下手に突けば街が吹っ飛んでもおかしくない。だから手を出さない。だから、怨嗟混じりの目線でなじるだけ。
織姫にとって只人なんて怖くない。先師の言う通り、頭では分かっているつもりだ。
でもひとりで帰るのは怖い。
織姫は頭を抱えたくなる思いで咳払いを打った。
「………………別に、いい」
「そう、そう、そうこなくっちゃ!」
破顔したサロメが、上等なシリコンを思わせる白くほっそりした手を織姫のそれに絡める。
「貴方がいなくちゃ冒険は始まらないわ、織姫!」
「う、うん……ありがと」
万華鏡のようにくるくると表情を変え、そしてそのどれもがとびきりチャーミングなサロメに面と向かって褒められると、慣れていても照れる。
ちなみに、サロメの脱走はこれで今週二度目だ。本来であれば万神殿からの脱走は高重力負荷装置にて薬液付与による体感一週間の謹慎が言い渡されるそれなりに重い罪であるが、サロメはモルタルで虚無を固めたような謹慎室から毎度けろりとした顔で出てくる。さらに遅くとも一週間以内、早ければ七十二時間以内に再度の脱走を試みる。
先師たちが自意識の封印を含めた更なる厳罰を下さない理由ははっきりしている。彼女が万神殿始まって以来の「才女」であり、また才覚とは別に彼女の奔放で愛嬌のある性格を愛しているのだ。先師だけでなく、姉妹のように育った少女たちももちろん。
「ね、ね、あちらから面白そうな匂いがするの。いいでしょう? ついてきてくれるでしょう?」
サロメが織姫の手を取ったまま、華奢な身体からに反する驚くような力強さでずんずんと東へ歩いていく。「ちょ、ちょっと」
「まあまあ。サロメの嗅覚は本物ですよ、織姫。形而上下に関わらず面白そうなものにはいつもサロメが一番乗りですから」
「分かってるけど……」
織姫の言外ににじみだした好奇の色には本人も気づいていない。
サロメに手を引かれている間、織姫は物言わぬ呪詛の視線を不思議と忘れることができた。

◇ ◇ ◇

『はい、これで再拘束。今回は万神殿(こっち)がわざと逃がしたので謹慎は軽くしますが、シェヘラザードと織姫も同罪ですよ』
手首を固めた黒のハイチューブが先師の声で罪状を言い渡し、織姫はがっくりと肩を落とした。
「そ、そんなあ……」
『当然でしょう。フェロモン操作を含めたサロメの人心掌握術は確かに目を見張るものがありますが、あなたたちであれば抵抗するくらい容易い。抵抗しなかったなら同じだけの罰を与えます』
「でもぅ、断れなくって……」
「織姫、それはあなた自身の心の弱さです」
織姫のとき同様シェヘラザードとサロメの手首にも拘束用ハイチューブを巻きつけながら、仮称モルガンが口を挟んだ。意外にもあっさり抵抗を放棄したサロメと、これまた珍しく最後までだだをこねたシェヘラザードだが、どちらの腕にも幅五センチほどの黒紐が結わかれている。ハイチューブが肌に密着すれば、薄さ数ミリの裡から放たれる特殊な電気信号によって万神殿から授かった筋力はあっという間に霧散してしまう。
仮称モルガンは深い湖の川面をそのまま写し取ったかのような鮮やかなスカイブルーの前髪の下で油断ならない眼光を放つ。
「私に最も近い姉に当たるのでしょう? もっとしっかりして下さらねば困ります」
「う、ううぅ……」
織姫の力ないうめきに、モルガンの目力がふっと緩む。
「まあ、おかげで本テストが成立したのですから。今日のところは大目に見て差し上げます」
なんで初めてできた妹に許されなければならないのだろう、と織姫は内心嘆息した。
いままで末の妹だった織姫としては、次のナンバーには最新型の看板と一緒に鬱憤のたまった先輩風―――もとい姉らしい愛情も注いでやるつもりだったのだ。しかし、数ある候補生の中から真っ先に名乗りを上げたのは、よりにもよってモルガンだった。湖の魔女は一個体が軍小隊にも匹敵する乙女子を三人も捕縛したくせに、どこ吹く風でハイチューブ越しの先師に報告を上げている。
「あらかじめ、私の最終実験開催予定をPM(Pantheon Maiden)-03Aに通達。合わせてPM-05C・PM-06Bを同行メンバーとして選定するよう誘導。選定理由はいくつかありますが、大きい理由としては三者ともにSPSを感知できないため。SPSはPM-05Cの五感効果収集機に設置しました」
バッ、と振り返ったシェヘラザード(PM-05C)が後生大事に抱えていたナップザックを疑いの目でにらんだ。最後まで拘束にぐずっていたのはもう少し外界で素材を集めたかったためであろうが、まさか自身の宝物に魔の手が伸びていたことが信じられないのだろう。
『PM-07D、あなたの申告を受けてこちらでは万神殿中継地(キャンプ)の物理セキュリティを一部緩錠―――平たく言えばサロメ好みの抜け穴を設置しました』
「私の提案した最終実験は『スモールナンバー(姉妹機)の捕獲』。三人以上の既存個体にハイチューブを固定することで達成されます」
「つまり、私たちは最初からモルガンの手の上で踊らされていたと……?」
「ええ。特にあなたがいなければこの実験は成り立たちませんでした。感謝いたします、シェヘラザード。後で追認がてら語りに付き合って差し上げても結構ですよ」
モルガンの皮肉な賛辞でいよいよ心が折れたのか、シェヘラザードが力なく肩を落とした。
「ところで」三人の拘束具が連動していることを確認したモルガンが、最後の後始末とばかりに残りのひとりをじろりとねめつける。「いやに静かですね、サロメ。ぐうの音も出ませんか?」
PM-07D―――万神殿に戻れば正式にモルガンの名を付される末妹が、固有名を授かる以前からサロメを目の敵にしていたのは、万神殿の乙女子なら誰もが知るところだ。
【大崩壊】以前、万神殿が単なる生体工学研究室だった頃から数えても、サロメは類を見ない傑作であった。しかし一方で、論理機構の圧縮率と並行稼働割合ではシェヘラザードが最高値を記録している。1k(トン)を片手で持ちあげる織姫の筋力には、白百合のように華奢なサロメは当然劣る。
傑作と呼ばれつつ種々の技能では二番手、三番手に付けるサロメだが、これには初期の万神殿の製作方針が関与している。【大崩壊】直後、縋るべき記録と求めるべき指標を失った研究者が人造の乙女に対して請うたものは―――アウラ(aura)
オーラ、またはカリスマとでも呼ぶべき、具体を持たぬ天賦の才であった。
然してサロメは誕生した。紀元前一世紀、ヘロディア王の娘として預言者ヨハネを殺めとった魔性の姫君は二千年を超えて再び現世に舞い戻った。
むしろサロメという完成形を見たからこそ、万神殿の先師たちは異なるスキルの先鋭化を追求した。結果として生まれた後続型こそが智慧のシェヘラザードであり、膂力の織姫であるのだ。
仮称モルガンの開発専任はサロメの熱心な崇拝者(フォロワー)であった。
彼/彼女は原点回帰を志し、神の御子の集う白亜の城に新たなファム・ファタールを顕現させようと試みた。現にPM-07Dは軽度な未来予測に匹敵する演算スキルを以って限りなくサロメに近しい人心掌握術を使い始めた。モルガン・ル・フェイ―――中世ブリタニアで語られた名高き魔女の仮称をいつしか付与されたのも無理からぬ話だ。
後継機である自分が越えなければならない壁。自身の最終試験に際し、わざわざサロメを選んだ理由には彼女の性能の高さと同時に対抗意識も根強いのだろう。
「あら」
しかし、当のサロメは婀娜をくゆらせて笑んだ。
「貴方、なにか勘違いしていないかしら?」
「勘違い……ですって」
モルガンの口角がひくりと引きつる。
「わたしは御付きが嫌なだけ。脇役が我慢できないだけ。ねえ、ねえ、最も新しい妹君? わたしという兎を追って必死に走ってくれたなんて、嬉しいわ!」
「――――――ッ!」
陶器めいて生気の薄かったモルガンの頬が一気に朱に染まる。咄嗟に、血相を変えたシェヘラザードが自身のハイチューブをモルガンの素肌に当てなければ、活性化した生体信号によって残りの不発弾が起動してしまうところだった。
モルガンは三姉妹を捕縛するためにスラム外縁に遠隔地雷を仕込んでいた。モルガンの身体から発される微弱信号によって彼女の意のままに大地を突き破る直径一メートルの火柱に織姫たちは翻弄され、結果的にハイチューブの拘束へ甘んじることとなった。
「モルガン!」
声を絞ったシェヘラザードの叱責にモルガンはぐっと唇を噛んでうつむいた。感情が高ぶってつい信号を打ってしまったのは自身の落ち度であると、他でもないモルガンが一番よく分かっている。口を開けばすべてが言い訳になる。悔しそうな顔にはそう書いてあった。
「サロメも、煽るのは控えめにしてあげてください」
「はぁい」
サロメは分かっているのかいないのか曖昧な返事をするとモルガンの後ろにぴったりとくっつき、「帰りましょう? 貴方のバースデーパーティも開かなきゃ」
脇をすり抜けてとっとと先を行かないのはサロメなりの気遣いなのだろう。モルガンはいかなる感情も読み取ることのできない仏頂面で目を細めると「そうね」と先頭を歩きだした。サロメがしずしずと追い、シェヘラザードも後に続く。
腕に絡んだ黒の手錠のおかげか、まるで処刑場に向かうかのような様相にも関わらずサロメには奇妙な気品があった。たぶん、生首を落とされたところでサロメの唇はひとりでに歌いだす。
最後尾に付いた織姫はふと後ろ髪を引かれる思いで人気のないスラムを振り返った。
モルガンが派手に散らした爆薬のおかげで脆いバラックは根こそぎ崩れ、【大崩壊】直後もかくやという無残な焦土と化していた。老人と思しき、逃げ遅れた男が骨組みの下で痛みにうめいていたが、いつの間にか静かになっていた。
織姫は胸にちくりと刺さる冷たい寂しさを感じた。
織姫とは比べ物にならないほど不完全で不安定な力で組みあげた住居。煤が吹いてははいるものの汚染の軽い動植物。わずかながらも立ち上がった文明の残滓。少女たちは己が気まぐれのために、わがままのために、証明のために、それらを微塵に吹き飛ばした。
(……ま、いっか。妹ができたと思えば安いもんだ)
それきり織姫は二度と振り返ることなく、先を行く三人の元へ駆けていった。罪悪感であったはずの氷の針は融けて永遠に形を失った。
既存のすべてを蹂躙する可憐な乙女たちが神々の住まう白亜の城へと帰っていく。

夕日は東に沈み、そしてまた当然のように西から登る。

乙女は地獄で夢をみる

乙女は地獄で夢をみる

2017年発行「清澄 VOL.2」収録。サロメ、シェヘラザード、織姫。文明が滅んだ世に在りて、超常にして可憐な乙女子たちによるささやかな脱走劇。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-18

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