コッダカネリエ
ろだん 作
鴎文会 編
曰く、文芸とは秘密をかくしていなければならない。
曰く、文芸とは告白でなくてはならない。
秘密をかくしていればこそ物語はかがやく。いわばそれは、隠し味のスパイス。きらきらした文体の透明で不思議な物語に、空蝉からの逃避行に、秘密はひっそりと沈んでいる。
曰く、ならば文芸とは「秘密をかくした雨のプール」である。
夜の学校は、昼の学校とはまるで別物だ。
ほのかな灯りが照らしているせいか、何千年という時間の重みを成分として含有しているような、異様に生き生きとした空気が満ちる。それは、理科室のシーラカンスの模型がふわり空に泳ぎだしてもおかしくないような、幽霊、神様、「未知との遭遇」、冒険の気配、そんなものを予感させ、一人で歩けば一歩一歩に孤独とどこか浮足だつような心地が収束して、こころがまるで寂しい楽団のようになる。
ボーナスステージという言葉が似あうような、静寂の中に置かれた琥珀の宝石のような舞台。それが、夜の時間の学校だ。
だから普段は真面目で通っている私も、月に一度、宿直でこの夜の学校を散歩するのを密かな愉しみとしていた。懐中電灯を消せばほんとうの暗闇があらわれる不気味な廊下に、ドアを開けたその先に、もしかしたらそこに「未知との遭遇」が転がっていやしないかともう子供の心で歩いていくのだ。
その日も私は夜の校舎の冒険を満喫してから、一番最後に四号館の屋上にあるプールへと向かった。そこから星空を眺めてから帰るのが彼の毎回のルーティーンだったからだ。今晩は真夏の熱帯夜。外は晴れて満天の星空だった。
一個の船のような構造になっている四号館の螺旋階段を上り、屋上のプールに続く重い鉄の扉をゆっくり開く。こころおどる瞬間。しかし、外に踏み出した時、私は異変に気が付いた。
扉を開くと、しとしとと雨が降っていた。先ほどまで満天の星空であったのに。しかしそのことを考える間もなく、私は「未知」と「遭遇」した。
「未知」は、雨降るプールサイドに佇むひとりの少女であった。
この学校の夏の制服スカートブラウスを着て、胸元にひやりとひかる水色のリボンをしているその少女は、私に気づいてすっとこちらを振り返った。不思議なことに、雨の中、少女の体は全く濡れていなかった。淡い髪色のショートカットがふわり空を舞い、水色がかった不思議な色の瞳がこちらに向く。暗闇の中、その瞳は私のもつ懐中電灯の光を玉虫の羽のように反射して、夜の中にらんらんと発光した。その目のひかりを受けて、あたりの雨粒がひとつひとつに小さな稲妻が宿ったようにきらきらひかる。
どことなく人間味のない、お人形さんのような可愛い少女だった。
少女は言った。
「ボクの名前はコッダカネリエ。群生クラゲ型地球外生命体だ。探し物があってここに訪れた、一応この学校の卒業生だ。」
頭は混乱の渦に叩き込まれたが、少なくとも、コッダカネリエと名乗る人物が人間でないのは確かなようだった。私は、ぐるぐる回る頭で考える。
「コ、コッダカネリエ、さん、と言ったか」
「コッダカネリエだけでいいよ。コッダカネリエというのは母星の言葉で『足が三メートルさん』という意味だからそもそもさんに相当する言葉が含まれているし、そもそも川崎先生、ボクはあなたの数学の授業に受けたことがある。敬称も敬語もいらない」
コッダカネリエは水色の目をひからせながら淡々と言った。
「えっ、教えた?」
「問題集をやってきていなくて、数学の補習に毎回ひっかかっていた。この学校を卒業するにあたってボクに関わるすべての記憶を消去させていただいたので、先生は覚えていないだろうけど」
コッダカネリエはそこで言葉を切って、少し首を傾げ何かを考えた。
「そうだ、二〇一六年度の卒業アルバムを持ってきてくれたら、一時的にボクが卒業生であることを証明できる。この四号館の四一二教室にあるはずだよ」
私はすばやく引き返し、教卓にあった卒業アルバムを持ってきた。
「持ってきたが、屋根のあるところでないとアルバムが濡れてしまうぞ」
「その心配はない。この雨はレイヤーが実存の世界より一段階下の存在だから、あたっても濡れない」
コッダカネリエは意味のわからないことを口走ったと思うと、一瞬でプールサイドから私の目の前に移動し、私の手をつかんでまた一瞬でプールサイドに移動した。
「うぉっ!」
異様にひんやりしたやわらかい手の感触と、あまりの怪力に私は慄いたが、たしかに雨の感触は感じなかった。ただ、コッダカネリエの放つ水色の目のひかりを映してひかる雨粒が、ひとつひとつアクアマリンのように私をとりまいていた。色濃い真夏がみせる夜の魔法のようだ。
しとしとと、静かな雨音が冷たく心地よく耳に響いた。
「ボクの存在が記された書類には卒業の際すべて強制洗脳をかけ、そこにあるボクの名前や写真を見ても認識できないようにしたけど、一時的に洗脳をとけば、ほら」
そう言って、コッダカネリエは二〇一六年度の卒業アルバムの一ページを指し示した。それは、部活ごとのメンバーで撮られたページの、文芸同好会の写真だった。確かに中央に不気味な招き猫を手にもって座っているのはコッダカネリエだ。子供らしい顔立ち、ショートカットの髪型、やや低めの身長、ふわふわしたやわらかそうな感じがコッダカネリエそっくりの、けれど目の色などごく普通の地球人に見える少女がそこにいた。
「ボクは会長だったんだ。信じてもらえた?」
私は一応頷いた。コッダカネリエは小さく笑うと、ぱたん、と卒業アルバムを閉じた。もう二度とそこには彼女を見出すことはできないんだろうな、私は思った。
「……文芸同好会のところにぐらい残っておいてやればよかったのに」
「何を言っているんだ先生。卒業アルバムを晒すことほど最悪なことはない。今回は必要上仕方なく見せたが、この国では犯罪を犯しかつ当人がSNSなど公共に自撮りを載せていなかった際、卒業アルバムの自分史上割と最悪な写真がメディアに晒されることもあるというからね。立派な犯罪抑止力だよ」
コッダカネリエはぶるぶるぶるっと震えた。体のそれぞれのパーツが独自の意思を持って身震いするような不自然な感じだった。
「それじゃあコッダカネリエはここに何をしにきたんだ? 探し物と言っていたが、それは何だ? そしてどうして俺に卒業アルバムまで見せた?」
私が尋ねると、コッダカネリエははっとして目をぴかりと黄色く光らせ、それからふくふく笑った。
「しまった。忘れてたね。それはとても長い話になる」
しかし、コッダカネリエは話し始めた。
ボクがこの地球に来て、人間として暮らし始めたのは、ひとえに人間の眼球を収集したかったからだ。体の中で唯一瑞々しく、輝きを放つパーツ、「眼球」。もともとボクは、透明なものが好きだった。水とか、ガラスとか、クラゲとか。それらのものと眼球は向こう側が透けて見えなくても透明感がある。肌色不透明だらけの体の中でこれほど輝いて綺麗な部分がほかにあるかな?思えば生まれついた時からボクは透明なものを愛するようにできてたんだね。
眼球がほしいって言うのは良心的だと思うんだ。本当は人間にくっついたままどうにかしたいんだけど、そうすると向こうも痛いでしょ?証拠隠滅にころさなきゃならなくなるし。
眼球の話をしているときのコッダカネリエはこれまでになく幸福そうな顔をしていた。サイコパス、その五文字がどうしても頭をよぎる。小さくてふわふわしたゆるキャラのような感じに騙されそうになるが、この少女はやはり人間ではなくて、その表情も「感情」も所詮人間のそれをうまく模倣しているに過ぎないことを感じさせる。
思わずぞっとした私の表情を読んだのか、コッダカネリエは愉しそうに、冗談か本心かわからない口調で言った。
「先生のお目目も好きだよ。虹彩の色が深いから目が死んでるように見えるけどよく見るとゼラチンみたいな透明感がある。コレクションの引き締め役にしたい。」
話が逸れた。要するにボクは地球にやってきて、こっそり人間の眼球を集めつつこの学校に入学した。それで、中学一年生の時に友達ができたんだけど、結局その子とは高校三年生まで腐れ縁だった。
その子のおかげで結構人間擬態の完成度が結構高められたと思うよ。おかしいことをするとすぐツッコミが入るから。目玉がほしい目玉がほしいって言ってたらあっという間に宇宙人だってことがばれちゃったけど、その子も相当頭のおかしい子だったから大丈夫だった。その子とは同じ文芸同好会に入っていてね、ボクが二〇一五年度文芸同好会長をしている時彼女は二〇一五年度図書委員長だった。まあなんで仲良くなったかもよくわからない感じなんだけど、なぜかいつも一緒にいたよ。
本題はここからなんだけど、高校三年生の時、何かの企画で可愛い後輩ちゃんに「文芸とは?」っていうのを一文で表せって言われたんだ。二人でファミレスでドリンクバーのドリンク片手にふざけながら五時間考えて、結局その子が出した答えがね、
「文芸とは『秘密をかくした雨のプール』である」
雨のプールサイドに佇んだコッダカネリエは密やかにため息をつくと、その綺麗な水色がかった瞳でまっすぐこちらを見た。その瞳は揺れていた。雨粒がプールサイドの水面を無数の王冠みたいに逆立てていた。
ざあざあと雨の音が強くなった。
「それが、その子と会った最後だった」
二〇一五年度の図書委員長って言った時に、先生はもうぴんと来ただろうね。彼女は高校三年生の十一月四日、澄み切った秋晴れの日に、四号館の屋上から墜落したんだ。リリエンタールの人力飛行機みたいに。……夢の重さと釣り合いがとれなくなったのか。まあ、文学少女なんて曖昧な生き物、 よく墜落するものだから、ボクは気にしないよ。屋上の錆びた金網に寄りかかってしまったみたいで、それが自殺なのか事故なのか、周りの人間には結局わからなかったんだ。何も考えてなかったっていうのが本当のところなんじゃないかっていうのがボクの思うところ。
ただ、あの子が死んで、葬式で友人代表のスピーチをしたら、骨が焼かれてけむりになっちゃって、ボクのところには彼女が最後に言った『秘密をかくした雨のプール』という言葉だけが残ったってわけ。
「だから、雨のプール」
私が呟くと、コッダカネリエはこくりと頷いた。
「ボクはね、ひとりの文学少女の秘密を探しに来たんだ。このプールは彼女の幻影。先生には、まあ結果的にだけど、それを見届けてほしい。」
そう言うと、コッダカネリエはバレリーナのようにくるりと回った。夏服スカートがふわりと宙を舞った。
「小学校の水泳の授業の時、先生はやらなかった? 色とりどりの宝石を模した似非・ラウンド・ブリリアントカットの石をプールの底にばら撒いて、底に潜っていくつとれるか競うやつ。息を止めて子供たちみんなでプールの底に潜って。水泳の授業が終わった午後はずっとつめたさと塩素の匂いが残ってて、窓から吹いてくる夏の風が気持ちよかった。彼女はそんなことを言っていた」
気が付くと、雨が降り注ぎ波立つプールの底にいろんな色の小さな石がたくさん沈んでいるのが、擦り硝子越しに見るようにボンヤリ見えた。さっきまではなかったのに。
「どうして、秘密をひろいにきたんだ?」
「どうして?」
コッダカネリエはふくふく笑ったかと思うと、ぷうとタコみたいに頬を膨らまして怒った顔をしてみせた。
「あいつ、死んだあとだったら眼球貰ってもいいでしょって言ったら、いいよって言ったのに、約束破りやがったの。頭から落ちた。だからあいつが死んでからずっとむしゃくしゃしてるの! だから秘密ぐらい貰ってから母星にかえる!」
コッダカネリエの声は屋上に反響した。それに、単純に知りたいから、とコッダカネリエは小さな声でつけたした。くるりとプールに向き直ったその顔は見えなかった。
「じゃあ、いくよ」
コッダカネリエは小さく言うと両手を飛行機のように広げ、ぽちゃん、雨のプールの中に飛び込んだ。水の中で髪がやわらかく揺れる。と思うと、水中で稲妻のようなひかりがパッチ―ン!と走って、コッダカネリエの体が数十匹のクラゲのような生き物に変化し、プールのあちこちへ散った。そういえばコッダカネリエは自分のことを「群生クラゲ型地球外生命体」と呼んでいたな、と思い出す。
海蛍のようにほのかにひかるクラゲが、赤、青、黄、緑、水色、黄緑、紫、白、色とりどりの偽宝石の沈む水色のプールでふよふよと何かを探している。それは、幻想的な風景だった。クラゲのひかりのおかげで、雨のプール全体が水色にひかっているように見える。それは、コッダカネリエの瞳の色によく似ていた。
五分ぐらいすると、コッダカネリエのクラゲたちはプールの中央に集結して、ぱっともとの少女型に戻り、こちらへ泳いできた。
「あった」
ざざーっと水をモップのように滴らせながらプールサイドに上がり、髪の毛の水を払ってからもう一度、コッダカネリエは言った。
「あった」
そして彼女は握っていた手のひらをゆっくり開いた。
赤いひかりの閃光が、指の間からとろりと零れ落ちる。
赤いひかりの粒がその白い顔に、あたりに、ぱっと弾けた。
それはきっと甘く、つめたく、酸っぱいストロベリーの味。
それは大きく赤い、うつくしい宝石だった。
それはほんもののひかりだった。
「透明だ。透明できれいだ。」
コッダカネリエは満足そうに言った。
「なあ、コッダカネリエお前は……」
「なあに先生?」
もしかして、お前がその子を突き落としたんじゃないのか?……言葉にすることはなかった。赤くひかるうつくしい宝石を手のひらにのせ、赤い宝石のひかりを映して、その目は何とも言えない色彩をたたえていた。その瞳は魔的だった。
そしてその表情は、幸福そうで、けれど、どんな写真にも写せないような色を含んでいた。
「先生、ボクは今、とてもうれしい。たくさんの偽物の中から、本物をみつけられた。他のことは何にもできなかったけれど、ボクは運がとてもいい」
コッダカネリエは目を閉じて、赤い宝石に頬を寄せた。
プールの水か、それとも涙か。水滴が、あとからあとからやわらかな頬を伝って、赤いひかりを映しては夜へと消えていった。
「これでいい」
コッダカネリエはちいさくちいさく呟いた。
ほんとうに、ほんとうの、秘密は、雨のプールの底に沈んだまま……。
コッダカネリエ