よければ一緒に

みやこ 作


「もしもし」
 電話の向こうは誰かなんてすぐわかる。
「大丈夫だよ……そんなに毎日電話しないでよ。大丈夫だから。なんとかやっていってるし」
 薄暗くて段ボールばかりの部屋の中、受話器を肩で挟む。手で持ったら震えるのがわかってしまっているから。
「うん、うん……知ってる、大丈夫……ごめん、もう寝たいんだよ。うん、寝てない……だから朝に電話するのやめてって言ったでしょ」
 受話器の向こうと自分の体に悪いかと思ったけど致し方ない。布団までたどり着く気力もなく、そのまま床で眠りに転がり落ちた。

「う、うーん」
 体のあちこちからぽきぽきという音がする。腰が痛い。
 寝ても眠い、時間帯の問題かな、そう思ってカーテンを開けると外はどんよりと曇っていた。あわてて頭の中で買い物の予定を次の日へとずらす。
とはいえしたいことも、することも、ない。今日はもうこのままぼんやりと過ごしたい。それに何時だかわからないのに何かをするのも不毛な気もするし……そう考えてまた床に倒れこんでしばらくすると、ふと外から声が聞こえた。
「うーん、歌……?」
 耳をそばだてて一気に目が覚める。聞き覚えのある歌。当時何回も何回も聞いて、歌詞カードが擦り切れて、それでも狂ったように聞き続けたあの歌。誰が、どうして。
 慌てて窓際に向かったけれど、もうそこには誰もいなかった。時計も見る。ぎりぎり夕方の滑り込み。今日は朝から電話が来たから金曜日、の、はず。もしかしたら、また、きっと。

 あれから一週間、夕方になると、ふと気づいたら無意識のうちに窓の外ばかりを見ていたらしい。らしい、というのは周りに人がいるときにそう言われてしまったからであって、一人で家にいるときはきっともっと見てしまっているんだろうなあ、とその時に内心頭を抱えたものだった。
 なんとか夕方に家に駆けこんだ。着替えて、洗濯物を片付けている間も自分が落ち着かないのがわかる。少しの期待と諦めが混ぜこぜになって吐く息が短い。そして、その時はやってきた。
 メロディーはしっかりしているけど、うろ覚えの自分にもわかるくらい歌詞がうろ覚えなのがわかる。ただ、窓越しでもわかるのは歌声の主。歌詞がわからなくても立ち止まることなく、ただがんがんと進んでいく彼女を見て、思わず息をのんだ。
 一瞬だけ、彼女が目の前で立ち止まる。ふっ、と肩の力が抜かれていくのが見て取れて、思わずカーテンの陰に隠れて息をひそめる。夕日に照らされた横顔の、動く口元から音がこぼれ出ていくその瞬間を、どれくらいの時間、みつめていただろうか。

「最近楽しそうだね、何かあった?」
 思わず聞き返す。
「だってすぐ帰っちゃうようになったしさ、午後の会議終わると急にそわそわするようになったし、時計何度も見るし、特に週末。デートでもしてるの?」
 してないです、いないです、大きくかぶりをふって作業に戻る。嘘はついてない。でも年齢はきっと同じくらいで、たまにぶら下げる薄い袋から覗くのは四角いお弁当のパッケージ。金曜日以外にもふらふらと同じような時間に通るけど、だからと言って毎日歌うわけではない。何日も何日も通りかかって、やっと金曜日に声が聞けたときの嬉しさといったら!
「ほら、またにやついてる」
 つくづく自分は顔に出るらしい。もう一度大きくかぶりを振った。

 いつもより遅くなってしまった、そう思いながら慌てて日が落ち切った家路を急ぐ。今日はどうだろう、最近間違えないようになった歌詞、今日は ちゃんと全部あうだろうか、今までつっかかっていたあそこはきちんと歌えるようになってるのか。気づくと頭の中でずっと彼女と彼女の歌の事を考えていた。
 だから、すぐ前から彼女の歌が聞こえた時、迂闊にも慌てて駆け寄ってしまったのだった。走る靴音で歌うのを止めた彼女は、そのまま足早に歩きだす。それでも自分の足は止まらなかった。
「ねえ、ねえ、ねえってば」
 止めようと思わず声が出る。
「聞かせてよ、続き。もっと歌ってよ」
 彼女が立ち止まる。
「だいたいうちの前通る時歌ってるでしょ。いつも聞いてるよ、だから、そのさ、」
 言葉にならない言葉。もうちょっときちんと頭が働けばよかった。でも今日は遅くまで頭使ってたんだ、どうか許して、どうか、どうか届いて。
しかし振り向くことなく、彼女は首を横に振って、そのまま自分の家の次にある信号を渡って夜の中へと消えていった。

 それきり、彼女の歌声をきくことはなくなった。相変わらず同じような時間に通りすぎこそするものの、家の前で明らかに歩調が早められてしまっているのがわかる。忙しさにもかられて、いつしか早く帰ることを、彼女の姿を見ることを諦めるようになった。

 激しい音でふと目が覚めると、外はひどく雨が降っていた。今日が休みでよかったな、そう思いつつぐしょぬれになりかけていた洗濯物を取り込む。開け放した窓の向こうから、彼女が見えた。慌てて雨がふりこむのもお構いなしに、勢いよく窓を開けた。今まで見なかった時間、見なかった表情。いやでも心臓がはやる。
「……歌うの、やめたの」
「うるさい!」
 雨の音よりも強く強く、彼女の言葉が響く。明らかに不機嫌な顔で、彼女はこう続けた。
「ご飯食べたいから、帰りたいんだけど」
「うちにもあるよ」
 思わず言ってから、失敗したと一瞬で思った。彼女がますます不機嫌な顔になっていくのがわかる。
「引き止めないでよ、そんなことで」
 古そうなスニーカーのままで、彼女は揺れる傘の下が濡れるのもお構いなしに、いつもの方向へと走って消えていった。

 あれから、彼女とは時間帯が合わなくなった。彼女の生活時間がずれたかどうかはわからないけど、ともかくこっちの仕事が増えたのだ。仕事が増えることはもちろん嬉しいし、その分ここでの暮らしが少しずつ豊かになっていくはずなのに、値下げ札付きの晩ごはんが入ったレジ袋を提げて夜へと駆け抜けていくトラックに抜かされながら夜道を歩いていくと、空腹感以外のからっぽな気持ちが湧き上がってきて仕方なかった。

「あー……」
 新しく届いた段ボールの箱の中から、まだ白い新聞があれよあれよと掘り出されてくる。気持ちはわかるけど、確かに箱は異様に軽かったけど、まさか全部がこれだとは。もう少し別の心配をしてほしい。とはいえ相変わらずこっちから連絡を入れる気もないからきっと、電話口で時事問題についてわかってるな、と判断されるまでこの新手の仕送りはきっと続くのだろう。
 ため息を一つついて、今日は休みの日、改めて確認して、寒い手をすり合わせながら図書館へと向かった。

 昼間の図書館は年齢層が高い。特に新聞コーナーなんてなおさらで、新聞を読みに来たはずなのに足を踏み入れるのを迷うほどだ。
とりあえず今日の朝刊を手に取って、ぎりぎりコーナーの隅の隅、通路側のソファに腰を落ち着ける。
「……なにしてるの」
 数回ほどページをめくったところで声がかかった。
「うち、新聞とってないから」
 顔は上げない。
「真面目かよ」
 鼻で笑われる。
「新聞あるの」
「ないけどテレビあるから。ちっこいのが」
「真面目かよ」
 同じ言葉で返す。
「真面目じゃないよ……大抵ニュースの時間に間に合ってないし」
 そう言って、さびしそうに笑う。疲れたのか、手に数冊の本を抱えたままで、いつの間にかクッション席の隣に腰かけていた。
「すごいよね、こないだテレビで見たときはデビューしたてでかわいかった子たちがさ、テレビみらんなくなってるうちにどんどん階段昇っていって、遠くまで行っちゃって」
 そういって、ためらいながら言葉を続けるのを、ひいきの球団が連敗を止めた試合を読みながら聞いていく。
「やっぱりさ、歌って神様に愛された人しかできないんだよ」
 思わず顔を上げる。
「なんで。だからやめたの」
 彼女は答えない。
「あの歌さ……、転調する前に高いところでしばらく歌うじゃん。その歌い方がオリジナルと違ってて好きなんだけど」
 一週間も前のテレビ欄に目をやりながら言う。
「……!」
 柔らかいクッションが勢いよく動いて、あやうく新聞を取り落す。
「その話、詳しく聞かせてもらっていい?」

 おごるから、と目の前にカップのコーヒーがことりと置かれる。
「これであってたっけ」
 きっと、とうなずくのを確認してから彼女は目の前に腰かける。
「砂糖は……」
 向こうだ、と慌てて立ち上がる彼女を前に呼びかける。
「いやいいよ、いらないから」
「私がいるの」
 椅子と机の間にぽっかり空間が空いたまま、彼女は店の奥へと消えていく。目の前に置かれたコーヒーを飲むか飲まないか逡巡しながらじっと見つめていると、椅子を引く音がして慌てて顔を上げた。
「飲んでてよかったのに」
 座った彼女は細長い砂糖の袋をぴりぴりと破り、スプーンの上に砂糖を載せて深いコーヒーの底に沈めていった。
「でさ、さっきの話だけど」
 ぐるぐるとスプーンを回しながら彼女が切りだす。
「転調する前のところ……、って、ここだよね」
 いつの間にか取り出したノートを開いて歌詞の部分を指でさす。
「この前の、ここからここー、がどうなんだっけ」
 幅の広い罫にゆったりと書かれた歌詞をなぞっていく。
「ええと、そこからそこが、元の人の歌い方と違ってて、その歌い方がその……合ってて、好きっていう、それだけの」
 こんなたどたどしい言葉一つでコーヒー代と引き換え、だなんてことを申し訳なく思う。それでも彼女は笑顔で聞いていた。
「他は?」
「他は、って」
「毎日聞いてたんでしょ、私の歌」
「時間が合えばね」
 嘘をついた。最初は時間が合えば、だったのが、気づいたら彼女の歌に時間を無理してでも合わせていった。
「ふうん……で、他は?」
「他は、って」
 ぐるりと一回りした会話。
「他に、だから……私の歌で、ここをこうしたらいい、とかさ、ここもうちょっとこうなるんじゃないか、とかさ、その……」
 カップを口元に運ぶ手がわずかに震えているのを見てしまって、思わず視線をそらす。何を欲しているんだろう。考えて、考えて、自分の中から言葉を絞り出す。
「……好きだよ」
 激しい音がして目の前にカップが置かれる。ちゃぷん、と液体が揺れる音がした。
「違う、そんなんじゃない、そんなんじゃないの!」
 大きくかぶりを振った後、彼女は言葉を続けた。
「色んな人から感想をもらうのね、すごく怖いから、あんな時間に歌ってたのよ。でもね、その……いいかなって思って……だめ……?」
 茶色い水面に向かって溶けてゆく彼女の言葉をじっと見る。
「いいけど……最近歌ってないからさ、忘れちゃったよ」
 あ、と彼女が顔を上げる。
「そうね、そうだったね……じゃあいいや……」
「どうして」
「私、歌うのやめちゃったじゃない」
「また歌えばいいのに」
「どうしてそう簡単に言うの? 私はさ、」
「神様に愛されてない、っていうんだ」
 彼女は小さく頷く。
「一緒に歌う仲間もいないし、聞いてくれる人だっていないのに。ひとりぼっちで歌なんか、続けられるわけなかったし、きっと、これからも」
「ここにいるのに」
「……だから、そんなんじゃないってば」
 うつむいたままで、消えいりそうな声。
「聞くの、楽しかったのに。……歌うの、好きでしょ」
 ゆっくりと彼女が顔を上げる。
「また聞かせてよ。いつでもいいから」
 外からチャイムの音が聞こえて立ち上がる。時間なんだ、そう言って、机の上から二人分のコーヒー代を置いて荷物を引き取った。

 ここに来てから初めての、もしくは二度目の春がやってきた。よくわからなかった木が気づいたらひとつ、またひとつと淡いつぼみをつけ始めてから、ようやくここには桜の木が多いのだと知った。彼女とは相変わらず時間が合わないけど、時々街中で、人ごみの中で見かけることがある。とはいえ雑踏を踏み分けていく勇気もなくて、部屋のカレンダーにだけ丸印が溜まっていくばかりだった。

 前日までの疲れがたたったせいか、目が覚めると時計はお世辞にもおはようの挨拶が言えない時間を示していた。
 ぼんやりとした頭で朝ご飯を済ませ、そのままなんとなく、穏やかな空に誘われて外に出る。
 家から少し歩くといわゆる土手やら広場やらがあるのは越してきたときから知っていた。時たまボールとバットを持って向かうこんがりとした少年や、ラケットを持って嬉々として向かう小さな女の子たちとすれ違う。そんなとき、見覚えのある形の人の影を見つけた。
「久しぶり」
 最後に会って話した時よりも少しだけ穏やかな表情で、ゆるりと佇む彼女へと向かう。
「ちゃんと生きてたんだ、ここで」
「うん」
 ちゃんと生きてるの見てたよ、その先に続く言葉は喉元で止めた。
「いつもカーテン閉まってるんだもん、引っ越したかと思ったよ」
 少しだけつまらなそうに言いながら、こちらへと向かう。合流した足は、ゆるゆると同じ歩幅で広場へと進んでいく。
「最近ねえ、道路のほかに歌う場所みつけたんだけど、君が聞いてくれないのがさみしくて。でも仕方ないねえ」
 彼女の生活時間もやはりあれからずれるようになったらしく、新しい時間はまだまだ人が多くて歌えないのよ、と困ったように笑う。「今日は久しぶりに外で歌いたいなーって思って。でもいつもと同じように歌ったんじゃつまんないかなーって」
 広場について、彼女は楽しそうに、嬉しそうに中央へと駆けていく。青い空の下、貸し切りのステージ。
「……じゃあ、一緒に歌うのは?」
 彼女がこちらを見やる。軽い気持ちで言ったつもりだったのに、彼女の勢いを見ると引き下がれない。後の言葉なんてもちろん用意していない。じゃあ、どうすれば。
「……いくよ、いち、にー、」
 慌てて大手を振って、カウントを取って「彼女のいつもの歌」を歌う。最初はただ聞いたことある曲だったのが、彼女のお陰で歌詞を、音の動きを覚えていって、だんだんと、なんとなくその歌が持つ広がりが、彼女がその歌が好きな理由がわかりはじめた、ような気がしている。
「うまいねえ」
 入るタイミングを見失ったのか、それともなにか別の理由があったのか、結局一人で彼女の前で、「彼女の歌」を歌いきってしまった。
「歌、やってたの?」
「ううん」
 首を横に振る。
「君こそ歌、はじめたらいいのに」
 さびしいような、うらやましいような顔で笑われる。きっと彼女からすると、自分の方が「神様に愛されてる」気がするのだろう。
「一緒に歌って、楽しかったら考える」
 ふと思いついて、いたずらっぽく言ってみる。それでよければ、そう一言添えて。
「…………!」
 一瞬息を呑んで、びっくりして、それでもその後彼女は笑って、胸に手を当てて歌い始めた。
 今まででいちばんに弾む声、遠く遠くへと広がっていく声。慌てて後を追いかける。先にいっていた彼女が気づいてこちらへ笑う。「音で会話しあう」、なんて、音楽雑誌をめくれば簡単に一冊に一回はきっと見つかるだろう言葉を、実際にやっているからこそ、自分の体で今、深く、深く感じている。
 
「疲れたねえ」
 言いながら地面に背中を預ける。
「でもね、楽しかったよ、私は」
 どうやら彼女も自分と同じ姿勢を取っているらしく、声が地面を伝わってくる。
「……どう、自分は神様に愛されてるって、思う?」
 心地よい疲れに目をつぶったとき、質問がふってきた。
「わからない、わからないけど……少なくともさ、神様は歌を愛してるよ。歌と、歌を愛してる人と、その歌を歌う人を」
 空を見ながら言ったから、彼女の表情は分からない。ただわかるのは、空がさっきよりも青く、高く、周りの木々が美しく映えていることだけだった。

よければ一緒に

よければ一緒に

2016年11月発行「清澄」収録作品。退屈な「私」の日常に混ざり込んだ彼女の歌。「私」はいつしかその魅力に追いつきたいと感じはじめーーー

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-18

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