レジスタンス合唱部

呑天 作

 街灯の心細い光がまぶた越しに差し込んで来て、半分寝ぼけながら私は重たいカーテンに手を伸ばした。車特有の細かな振動に睡魔を引き出された体は、必要最低限の動きで目的を達成すると、また固いシートに沈み込む。
 今日は職場を定時に飛び出して、そのまま真っ直ぐ高速バスに飛び込んでしまった。具体的な不安があったわけではないのかもしれない。しかし、どこか胸につかえている一物が、私の呼吸を妨げていたのに耐えきれなくなったのだ。

 よく考えてみると、定時で帰った記憶がなかった。
 新人が配属されることは本来ありえないと言われている部署に採用され、いざ行ってみると初日から戦力に数えられた。同期たちがのんびりとお辞儀の練習をしている頃、私は研修なしのお辞儀を謝罪の場で実践することとなっていたのだ。何度も恨めしく思いつつもやりがいを感じているのは事実だった。仕事は向いていると思うし、先輩方は尊敬できる人たちだった。私をこの部署に採用するという前代未聞の選択を、先輩方に後悔させたくない一心で踏みとどまっていたと言っても過言ではない。
 それでも、疲れるものは疲れるのだ。この日の私は驚くほどに疲弊しきっていた。そして、「逃げたい」という無意識な欲求が、私に帰り支度をさせていた。そんな私の様子を見て、部署がにわかに活気づく。
「え、珍しい。まさかの定時?」
「武田さん、今日何かあるの?」
「デートでも行くのか?」
「楽しんできてね!」
 皆が口々に好きなことを言ってくるのに対し、否定も肯定もせず、曖昧な笑顔で席を立った。ロッカルームでバカみたいなパンプスを脱ぎ、コンビニ買い出し専用と化していた蛍光黄色のクロックスを手に取った。スーツも脱ぎ捨てて、泊まり込み用に常備してあるポロシャツとチノパンを身につけると、近所に買い出しに来たずぼらな大学生にしか見えなくなる。黒革のバッグがあんまり不釣り合いになったので、財布と携帯だけ抜いてスーツと一緒にロッカーに押し込んだ。
「武田さん」
 小汚い格好でそそくさと職員通路を急いでいると、後ろから少し焦った声が追いかけてきた。
「あ、城内さん。お疲れさまです」
「お疲れ。そんな格好もするんですね」
 ちぐはぐした私の格好を見てニッコリと笑っているのは、一個上の先輩だ。
 先輩の部署は同じ室内にあり、やっている仕事同じとあって、うちの部署と非常に仲が良かった。時々違う部署だということを忘れてしまうほどに。
「武田さんが定時上がりだなんて珍しいから、びっくりしました」
「そうですか? さすがの武田もたまには定時に帰りたくもなりますよ? おなか、すいたし」
 悲しい顔をしてお腹を押さえてみると、くしゃり、と相好を崩して先輩は笑った。この先輩の間合いが、私はどうも苦手だ。いくら話していても会話の切れ目があるように感じないし、ダラダラと話が繋がるせいで変な空気感が生まれている。その空気をどこか好ましく思ってしまうことが、一番いけない気がしている。
「これ、足しにはならないだろうけど」
 スーツのポケットから飴玉を出した笑顔はどう見ても善意の塊で、無邪気にわからないふりをして好意を受け取る自分が、まるで悪いことをしているように感じた。
「どうもありがとうございます。お仕事頑張ってください」
 私が小さな袋を受け取ったのを見て、先輩は満足気に来た道を引き上げていく。
「武田がデート行くって噂になってたからさ、心配で追いかけてきたんじゃね、あいつ」
 いつの間にか近くで見ていたらしい同期が、横に並んでじっとりと城内の背中を見つめていた。
「ま、この格好見たらデートだとは思えないっしょ。健気な男だよね」
「やっぱ?」
「あんたも覚悟決めな。あいつ、かわいそーじゃん。逃げ回ってばかりもいられないんだから」
「わかってる」
 飴玉の小さな袋をチノパンのポケットに突っ込んだ。逃げてるわけじゃない。これは逃避行じゃなくて失踪なのだ。

「ご乗車ありがとうございました」
 無愛想な運転手に目礼してバスを降りると、初秋の金木犀が染みるほど香った。
「久しぶりやね、みいちゃん」
「ご無沙汰しております。お世話になります」
 ここは大学生の時分、地震の影響で土砂崩れのあった地区だ。当時の瓦礫撤去のボランティアに参加させてもらった時、泊めていただいたのがこの吉本さんのおばあちゃんのお宅、というわけだ。
「いきなりびっくりしたわ。電話がかかってきたと思ったら、仕事辞めたい〜助けて〜って」
「言葉のままの意味ですけどね」
「逃げてきたん?」
「まあ、そんなとこですかね」
「しっかり頑張らんと…まあ、みいちゃんのことやから、頑張っとるとは思うんやけどね」
「ありがとうございます。でもこうして逃げてきちゃいました」
「すぐに帰らなきゃいけないんとちがう?」
「さてね、どうでしょう」
「全く、しょうがないねえ」
 呆れたように笑いながらもどこか嬉しそうに笑うおばあちゃんは、到底八〇歳には見えない。てきぱきと私のためにお茶を入れると、自分は腰を下ろさずに出かける準備をしている。
「え、おばあちゃん。どこに行くんです?」
「お歌の時間なんよ」
「歌?」
「そうよお、今ね、みんなでお歌を歌ってるの。みいちゃんも来る?」
「みんな?」
「そう。この村のみんな」
 ニッコリと笑うおばあちゃんに連れられて、私も慌てて立ち上がった。

 てっきりご近所の老人ホームにでも行くのかと思っていたが、連れてこられたのは夜の高校の体育館だった。
そこには一五人程度の人が集まって、ダラダラとお酒を酌み交わしながら談笑していた。
「こんばんは」
「おう、みいちゃんじゃな! 久しぶりやのう」
「ご無沙汰しております。歌を歌ってるっておばあちゃんに聞いたんで、ついてきてみました」
「そうよ、歌をみんなで歌うとるんよ」
 集まっている人たちの言葉が一段と熱気を帯びる。
「これはね、レジスタンスいうやつや」
「レジスタンス?」
「抵抗しとるんよ。来年から、この地区にあるたった四校の公立高校が全て休校になるから」
「全て? じゃあどうやって高校に通うんです?」
「おらんのよ、高校生」
「そんな……一人も?」
「土砂崩れの時に、この地区はしばらく立ち入り禁止地区になったろう?若いもんはみんな都会に避難していった。都会に出るためにこの田舎で苦労するもんやけど、それが最初っから都会に出られたら…なあ?帰ってくるわけないよなあ」
「そんな……」
「来年から立ち入り禁止が解除される地区もあるんに…高校は、事実上全て廃校や。この町は死んでしもうたんよ」
「死んでなんぞおらん!」
 突如、雷鳴のような怒号が体育館を揺らした。
「あ、先生」
「油売っとらんと、練習せんか」
 それは、小柄な老人だった。杖をつきながらも、しっかりとした足取りで近づいてくる。
「あのお爺さん、歌の先生なんですか?」
「いんや。あれは、校長先生じゃあ」
「あっ……」
「この合唱部の部長でありながら、顧問の先生でもある。そして、校長先生でもある…この村に唯一残った学校の先生じゃ」
「そうだったんですね」
 しんみりとした視線に気がついたのか、ぎょろりと校長先生はこちらに視線を向けてくる。
「おい、若いの。お前も歌え」
「はい、わかりました。何を歌ってるんです?私、わかりますかね…蛍の光とか仰げば尊しですか?」
「そんな小洒落たの歌うわけなかろう。校歌じゃ、校歌」
 ピアノの伴奏がいきなり始まって、私は弾かれたように視線を壇上へ向けた。弾いているのは吉村のおばあちゃんだった。
「ここに集まってるのは、全員卒業生じゃあ。みんな、廃校になるのが口惜しゅうてたまらんのじゃ」
「そうそう、何かできることはないかって考えている時に、校長先生がこの部活を作ってくれたんじゃ」
 一人、また一人とコーラスに参加していく。酔っ払って調子はずれのおじさんも、恥ずかしがっているおばさんも、瞳を潤ませているお爺さんも、みんな懐かしそうに校歌を口ずさんでいた。
「人間は転んだら起き上がらんといけん」
 校長先生は杖でささくれ立った木目を強かに小突いた。しっかりと足を踏ん張って、前を向いて、大きな声を出す。
「誰にも聞いてもらえんかったとしても、校歌を歌い続けんといけん。意味がなかったとしても、続けんといけんことがある。杖と一緒じゃ。自分の足で立ち上がるために、前に踏み出すために、効率が悪かろうと手放せんのよ」
 合唱部の練習はそれから一時間ほどで解散になった。その間、私はぼんやりと校歌を聞きながら、校長先生の言葉を反芻していた。私はどうやったら同じように歌えるようになるのかを考えていた。

 翌朝、私は別れを惜しむおばあちゃんと駅のホームにまで来ていた。
「急に来たくせに、帰るのも急ですみません」
「こっちこそお構いも出来んでごめんなあ…お仕事頑張るんよ。けど、辛くなったらいつでも来てええからね」
「本当にありがとうございました」
 深々と礼をする私に、おばあちゃんは泣きながら風呂敷の包みを渡してくれた。
「ちょうどお昼の出発やけんね、席に着いたらあったかいうちに食べり」
「わあ、嬉しい。実は、おなか、すいてたんです」
 悲しい顔をしてお腹を押さえてみると、まあまあ、と目を丸くしておばあちゃんは笑った。カラッとしている。こんな間合いで話すのが、今の私にはきっとちょうど良いのだ。
「あとこれ、先生から」
「生徒手帳?」
「余ってるんだと。直接渡しゃあいいものを、きっと照れてるんよ」
「ふふ、そっかあ」
「歌ってほしいって言えんかったの、許してあげんさいね」
 生徒手帳の表紙のすぐ裏には、楽譜付で校歌が載っている。あとでピアノのアプリでもインストールして、音を確認しよう。そう思っているうちに、別れを告げるベルがけたたましくホームに鳴り響いた。
「それじゃあ、また」
「お元気で」
 ご当地ゆかりのオルゴール曲に合わせて、滑るように電車が走り出した。小さくなっていくおばあちゃんの姿を見送りながら、チノパンのポケットにしまいこまれていた飴を引っ張り出して、口に放り込んだ。東京に帰ったら、きちんと全てに向き合おう。そう決めた。
そうしたらきっと、私も大きな声で校歌を歌えるようになるはずだから。

レジスタンス合唱部

レジスタンス合唱部

2016年11月発行「清澄」収録作品。日々の仕事に倦んだ新社会人・武田は、大学時代のツテを頼って片田舎へと逃避行を敢行するが……

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-18

Copyrighted
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