センチメンタルに千鳥足

死のうと思った。
大抵無理だった。分かっていた。そもそもの話私のちっぽけな勇気ではせいぜい苦しまずに逝くにはどうすれば良いかをぼんやりと考えるので精一杯だった。死ぬ気なぞないのである。
それでも急に、「あっ、今なら死ねるのでは」と何の確証も保証もなく思いつくことはよくある。例えば23時の台所でコーヒーを飲んでいるときであったり、通勤路の狭い一本道に咲いている薔薇を横目に歩いているときであったり、湯船に浮いた一本の髪の毛を見つめているときであったりと、様々である。時間も関係なく。
そうして今のこの状況下で、どの道具を使うかとか、タイミングとかなんとかを考え、脳内で死に溺れている。もちろん実際の行動に移すことはない。死とはやはり自分にとって恐怖なのである。
包丁は。縄は。醤油の一気飲みなんかは。棘じゃ死なないのでは。溺れるのは。普段物事について深く頓着しないくせに、こういうときにはよく働く頭を滑稽だと思う。

そもそもなぜそんなことばかり考えるようになったのか。原因は自分の性格にあるのだろうと思っている。
昔から他人の言うことを聞けなかった。聞いたところでその通りに動くことは私にとって難関だった。不器用なのである。周囲の人間が一度や二度の挑戦で出来たことでも、私は何十回でも挑戦しなければ成功しない。さらに、一度でも怠けた場合の、腕の落ち具合まで人一倍である。
こうして、何か新しいことなども「自分がやっては失敗する」という考えが働き、失敗を恐れるようになる。失敗したことによる周りの冷たい視線が何よりも怖い。家事全般なども特にそうだ。「そんなもの初めからできるほうがおかしいよ」とよく宥められたものだ。ずるずる、失敗が怖いというのを理由に塞ぎ込んで生きている。自分のやりたいこと、できることしかやらない日々。もちろん他人への気遣いスキルなんぞ身につくわけもなかった。
これが災いしてか、自己中心的で利己的、無頓着で無神経などうしようもない塵芥になってしまったのが今の私である。いやこれが災いしたとかそういう問題ではないな。元からだろうか。三つ子の魂百までという言葉はこのことか。
自分で自分の性格に関してはよく分かっているつもりだ。だから治さなければならない。それもまた思うだけで、なにか努力しているのかと問われれば、全くしていないわけではないが治す気のある行動力ではないと言えよう。生憎、治さなければと思って過ごしてきたら18年が経過している。成長はあまり見られない。もう救いようもない。分かっていて何もしない、私という存在はまさに「駄目人間」の鏡であるわけだ。この文章を打っている時点で既に死にたい。
母親には迷惑をかけたし、気味悪がられた。「精神科に連れて行こう」とも言われた。
実際、これが病気であるならばどんなに楽だっただろうか。治る術があるならばどんなに嬉しかっただろうか。
「長女の癖にあんたはいくつになっても駄目や」と母親によく言われる。全くもってその通りだ。「そうやって他人に迷惑ばかりかけて生きていくんや」とも言われる。全くもってその通りだ。自分のことしか考えていないような人間に幸せなどやってこないし誰かを幸せになんていうのは到底無理なことであろう。それだって痛いほど分かっている。
分かっているのだけれど。

いつの間にか、「他人に迷惑をかけることも改善できない自分は死ぬべきでは?」と考えるようになる。兄弟は四人だ。家計のことも考えると、一人減るのは楽になるのでは。長女の癖に、そうだ、長女の癖に私はなんにもできていない。できていないのはやらないからか、やらないからできていないのか、そんなことも分からない。
それでも結局は生きていたいのだ。やりたいことがあるのだ。まだ死ねないのだ。嫌な人間だ、結局は自分のことしか考えられない、狡い人生だ。一人自己嫌悪に陥っていても何も解決することはない。時間が解決してくれるものならば全てを投げ出したい。
私が生きているよりもっと他の、普通の人生を歩む普通の人間が一生懸命生きている方が、世界にとっては有意義なことだろう。それでも私は私利私欲のため生きている。馬鹿みたいだなと自分で思いつつまたこれも考えるだけである。
だから脳内で、なんでもない、ありふれた日常の中に死を探している。ちっとも楽になんてならない。意味なんてない。
それでも私は、休む気もない気休めに身を委ねている。

センチメンタルに千鳥足

センチメンタルに千鳥足

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-16

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