スコールの海を抜けて
わたしはおそらく、徹底的にひとりだったのだと思う。
何よりも一番よく理解しているつもりで、自己認識をもったときから、意識と共にあった自分の体と心。それらがどこにもいなくなってしまったから。
自分自身を失ってしまったから、戸惑っていた。
途方に暮れていた。
わたしのことを、わたし自身が一番持て余していた。持て余していた、という甘い怠惰なものではないかもしれない。世界で一番、馴染みのあったわたしの体、心が、めきめきと音を立てるように(実際は自分でも気が付かないくらい静かに、そしてじわじわと、極端に)変わっていくのに、ついていくことができなかったのだ。
足を踏みしめているこの大地で、天変地異が起きたほうが、わたしにはまだ順応が楽だったかもしれない。だって目の前で空と地面がひっくり返ったら、それはそれは驚くだろうが、しかしわたしには、はっきりと、目で、空と地面がひっくり返った様子がわかる。ほかの人が困っている様子を見ることができる。どうやって解決していっているのか、見ることができる。その解決法を事細かに真似すれば、事足りる。
だけど、今回の、妊娠、そして出産は、気が付かないうちに、わたし自身をとんでもないところまで、後戻りできない存在へ、変化させていた。
わたしは、波津子(はつこ)ではなく、ひとりの母親になった。
気が付いたらいつの間にか。否応がなく、わたしはわたしではなくなった。
◇
藍奈を産んでから、自分が眠っているのか、起きているのかわからない状態に、意識を持っていくことができるようになった。一瞬で眠ることも起きることもできる状態だ。闇の中にぼんやりと、わたしの体、指、足があるのを確認する。
もちろん、自分の体の存在を認識するために、こんなことができるようになったのではない。
泣き声を聞くためだ。
藍奈の、あの泣き声を。
耳をすます。冷蔵庫が低くうなる音、隣で夫が立てている寝息。それらにまじって、か細い泣き声は聞こえていないか。音がするか。音がしたら、それは泣き声なのか、それとも言葉と判断はできないけれど、藍奈なりの寝言なのか、大きすぎてため息のように聞こえる、彼女の寝息なのか。
ベッドに横たわりながら、じっと息をひそめて、安らかな寝息を確認できたら、わたしはふっと体から緊張を解く。ゆっくりと息を吐きだす。
はじめは、隣で寝ている夫を起こさないようにと今以上に藍奈の声に敏感になっていたし、私自身も物音を立てないように、極力注意をして動いていた。聞こえてきた藍奈の泣き声がほんのかすかな音量だったとしても、誰かに咎められるように感じた。
でも、そんなことは必要なかった。夫は、藍奈の泣き声で起きることは決してなかった。
羽根布団の柔らかい暖かさと、ぬくもりの中で、心地よい麗らかな春の泥沼の中に埋もれていくような感覚に陥りながら、意識から手を離そうとした、その時。
「あ……ああーん……ふああー……ああー……!」
とたんに意識が覚醒する。
泣き止みそうもない声に、諦めてするりとベッドから抜け出した。同じ部屋にあるベビーベッドのほうへ一歩一歩足を進める。素足だ。冷たい床に足を付けるたびに眠気が小さな泡となって爆ぜていくのを感じる。
明るさは、豆電球のオレンジ色の明かりだけだ。薄暗い中、体を真っ赤にして火を吐くように泣いている赤ん坊をそっと抱き上げる。熱いくらいの熱をもって、全力で泣いている。
ああ、ごめんね、と思う。
わたし、あなたが何を言っているのか、わからないのよ。
あなたを産んだのは確かにわたしで、わたしはあなたのたった一人の母親のはずなのだけれど、でも、あなたの伝えたいことがわからないの。
藍奈はわたしの腕の中で、顔を真っ赤にして、しわくちゃになって永遠と泣き続ける。
オムツを確認したあと、おっぱいを差し出してみても、違ったようで、当然のように嫌がられる。口元に乳首をもっていって、泣いて丸く開いている小さな口の中に入れてみるものの、顔を左右にふられ、拒絶されてしまった。
余計に泣き声はひどくなる。
乳首を刺激したせいで、小さな痛みと共に母乳がほとばしり始める。慌てて、授乳ブラを戻す。じんじんと痛みが続く。飲まれることのない母乳が痛みと共にパッドを湿らせていくのがわかる。
胸の痛みを紛らわすように、立ち上がって、藍奈を揺らす。揺らしてみても、歩き回ってみてもなかなか泣き止む気配は見せない。
時計を確認するのも嫌で(今が深夜だと否応なくわかってしまうから)わたしはただ、ひたすらひどく熱を持ち、そして叫び続ける命を抱いて、氷のような床の上を歩き続ける。
◇
藍奈が生まれたのは、とても寒い日だった。
翌日は雪が降るんじゃないかと言われていて、こんな寒い日に生まれてきたらどちらの両親も、病院まで駆け付けるのが大変だから、せめて天気の良い日に生まれてきてほしいね、と夫と話をしていたところだった。
正産期に入った直後の検診の帰り道だった。わたしはやっと仕事の休みが始まっていた。育休だ。夫は、わたしの運動に付き合ってくれて、徒歩で三十分くらいかかる病院までゆっくりと、妊婦のわたしのペースで一緒に歩いてくれていた。とても寒い日だったけれど、空はすごく澄んでいて、一面透明な水色の空は割れ物ように薄く感じた。
検診の結果から、お腹の子が女の子だということはわかっていた。夫はもうずいぶん前から恥ずかしがることもなく、藍奈、とわたしのお腹に語りかけていた。
そしてその夜、じわっとピンク色の血がでた。まさか、もうおしるし? 少し緊張が走るのを感じながら、おしるしについてスマートフォンで調べてみる。おしるしが出ても、まだ一週間くらいは生まれない場合もある、とあった。おしるしがすぐに出産に繋がるわけではないと知り、ほっと胸をなでおろす。
このとき、わたしはどうしてあれほど緊張したのか。
あのときは深く考えなかったけれど、今なら、わかる。おそらく、わたし自身が一番、何の覚悟もできていなかったのだ。
検索結果を見て、焦らずにのんびり、でも入院準備だけ最終チェックをしておこう……そんなつもりで、その夜は荷物チェックだけして、お風呂に入って眠りについた。
翌朝……まだ暗いうちに、わたしは腹痛で目が覚めた。今までに経験したことがない、痛み。
横で寝ている夫を揺り起こす。
陣痛が来たかもしれないと伝える。夫は明らかに驚いていて、飛び上がって朝の身支度をはじめた。わたしはその様子を片目で見つつ、ゆっくり起き上がって、ベッドから足を降ろして、数歩、歩いた。ひとまずトイレに行って、それからしっかりと陣痛タイマーで何分刻みの痛みなのか、間隔を測ろうと思っていた。
しかし、足を踏み出したそのとたん、足の間から大量の生ぬるい水がばしゃんっと流れ落ちた。破水をしたのだ。
着替えて戻ってきて、わたしの状況を見てさらに慌てふためく夫に、病院への電話をお願いした。わたしは予約してあった陣痛タクシーに連絡を入れる。
ドキドキで心臓が喉元まで飛び上がっているのを感じながら、夫とともにタクシーで病院へ向かった。破水だと正式に先生から言われ、そのまま入院手続きが済まされる。
その日は土曜日で、翌日は日曜日だったこともあり、夫はずっと陣痛に付き合ってくれた。丸一日痛みに苦しんで、翌日の日曜日……いや、日付としては、もう月曜日だ。月曜日の深夜一時頃、わたしは無事、初めての出産を終えたのだった。
あんなに寒い日だったのに、わたしは陣痛に苦しんでいる間中、夫に窓を開けてと頼んでいた。寒さは全く感じなかった。ただ、痛くて、ひたすらに痛くて、痛すぎて何度も嘔吐していた。覚えているのは、猛烈な痛みと、それから体が燃えるような暑さだった。
風を感じたかった。まるで無風で湿度と気温ばかり限りなく高い、熱帯雨林の中にいるような感覚がした。部屋の中が無風だと、痛みの熱さでドロドロに溶けてしまいそうだった。寒くない? と心配する夫に何度もキレながら、窓を閉めないで、開けていて、と痛みの間隔の合間に、歯と歯を縫うように言葉を絞り出していた。
赤ちゃんを産み終えて、分娩台で少し休んで、それからさっきまで陣痛と戦っていた病室に戻ったとき、部屋の寒さに愕然とした。
ベッドは綺麗に整えられていたが、空気の入れ替えのつもりだったのだろうか、窓はわたしが出て行った時と同じ幅で開いていた。そのせいで、部屋が冷凍庫のように寒くなっていた。さっきまであれほど暑いと感じていた、空間なのに。寒すぎてピリピリと頬が痛かった。
藍奈がお腹の中にいたからだ、と疲れ切った体で窓を閉め、ぴんと張って清潔な匂いがするシーツが敷かれているベッドにもぐりこみながら、考えた。
藍奈を初めて分娩台の上で抱いたとき、すべてがとても小さくて、とても軽かったのに、本当に暖かかった。汗だくのわたしよりも、はるかに高い体温だった。
藍奈が一生懸命頑張って、お腹の外に出ようとしていたからだ。あんなに体温の高い子が、必死で頑張っていたから、きっともっとお腹の中で熱くなっていたんだ。
命のかたまりの藍奈が、わたしのお腹の中で全力でもがいていたから、わたしは極度に暑く感じて背中や額から汗が止まらなかったのだ。
この結論がわたしにはすごく腑に落ちて、満足しながら、眠りへと意識をすぐに手放していったのを覚えている。
わたしが藍奈を出産した病院は、翌日からもう完全母子同室だった。陣痛中は夫にずっとそばについてほしかったこともあって、個室の部屋をお願いしていたが、産んだ後は、四人部屋に移った。一人部屋だと、やはり、ある程度高い金額になってくるからだ。それに、四人部屋のほうがママ友もできて、寂しくない、とスマートフォンで見た先輩ママの声一覧には書いてあった。
実際四人部屋にしてみて、確かに孤独感はなかった。しかし、ママ友を作るほどの余裕もなかった。誰もがなかった。
みな、生まれたての命に手を焼いていた。産み落としたのは自分であるはずなのに、自分の中から出てきたはずなのに、新しい生命との付き合い方と、あるいは自分の体と心の変化と戦っていた。
ひょうひょうとして笑顔を絶やさないのは、助産師さんや看護婦さんだけだった。
新米ママたちにとって、赤ちゃんとお母さんたちの間を飛びまわり、上手に吸えるように赤ちゃんの頭の角度を調節してくれたり、適温にしたミルクを哺乳瓶に入れて差し出したりしてくれる彼女らは、まさに、天使に見えたと思う。少なくとも、わたしには彼女らこそが天使だった。
産前によく聞いていた、自分が産んだ、生まれたての赤ん坊が天使に見えるという話。いったいそれは本当の話なのだろうかと疑ったほどだった。
確かに可愛い。腕の中でまだ細い手足を懸命に動かし、大きすぎる肌着に覆われている小さな赤ちゃんは、とても弱々しく、庇護する対象で、そして、可愛いのだと思う。
しかし、だ。はっきり言う。わたしは、藍奈を世界中のすべてと比べて、可愛さにおいてはその頂点に君臨する生き物だ、とにもかくにも可愛いと、その時は全く思えなかった。
清らかな天使になど、見えなかった。
初めて分娩台の上で藍奈を抱いたときの感想と変わらなかった。
なんて小さくて、か弱くて、ひどく熱を持った生き物なのだろうと。
わたしが全力で守らなければならない生き物だった。そして、世界中でおそらくどの動植物よりも、命そのものの生き物なのだ。
初産での入院生活は五日間だった。円座が欠かせないほかは、わたしはいたって元気だった。あれほどの痛みも、もう産んだ翌日には忘れていた。
ただ、疲労だけが蓄積していくのを感じていた。
とにかく、眠る時間がないのだ。
そして、それは今も、変わらない。
藍奈はよく泣く子だ。
◇
退院後、一週間ほどは実家にいたが、どうしても、家に戻りたくなった。実家には一か月いる予定だったけれど、早々に切り上げて家に帰ることにした。
もともと、夫と二人で暮らしていた家は、もう五年になる。お互いに、それぞれの仕事や、二人の趣味である旅行で忙しく、実家には盆暮れしか戻っていなかった。実家で母親にあれやこれやとしてもらうよりも、夫二人で暮らして勝手がわかった家で生活するほうが、ずいぶんと楽だと思うようになっていた。
予定より早いけれど、帰りたい。
夫に相談すると、できる限りはサポートするから、それでいいなら、と言ってくれた。そうして、藍奈と夫と、三人での暮らしが始まった。
だいたいが、今日のように、夜眠れないまま朝を迎えた。
藍奈は夜明けとともに少しずつ眠りに落ちていく。油断して、眠る気配を見せてすぐにベビーベッドに置くと、一からやり直しだ。ベビーベッドの敷布団が藍奈の背中に触れたとたん、藍奈は唐突な痛みに襲われたかのように泣き出すのだ。
辛抱強く、寝息が深くなったことを確認して、そうっとベビーベッドに戻す。さっと掛布団をかけて、藍奈を温める。まだ背中に回してある腕は抜かない。藍奈の体温が布団にいきわたり始めたのを確認してから、これまたそうっと腕を引き抜く。
成功。
ふう、と息を吐いた。そして、またいつ藍奈が泣き出しても気が付くように、ドアを開けっぱなしにして、そっと台所へ向かう。夫とわたしの朝ごはんを作らないとならない。平日の料理はわたしの担当だった。今までは、朝の洗濯もわたしの担当だったのだが、藍奈が生まれてからは、洗濯物を干してくれるのは夫になった。わたしは洗濯機のスイッチをピッと押すだけで良い。
出産前は、平日も休日も朝ごはんは必ず一緒に食べ、平日の夜ごはんも可能な限り、一緒に食べることにしていた。今はというと、夜ごはんは別々だ。夫は夜はどうしても仕事の終わる時間がまちまちで、そして、全体として遅くまで仕事が終わらないことが多かった。帰ってくる時刻が毎日違う夫の帰りに合わせて、二人分、作り置きしていたおかずを温めなおしたりして、食事の支度をするのは、藍奈がいる状況ではわたしにはかなりの負担だった。だから、家に戻ってきて夫と生活するようになってからすぐに、夜ごはんは先に食べてしまうことを打診した。
夫の帰り時刻もあるが、そもそも藍奈がいるから、いつご飯をまともに食べられるのかわからないのだ。夜、わたし一人で食べられるときに早々に食べてしまって、あとは藍奈の泣きに付き合いながら、眠れるときに眠っている生活だった。
カーテンを開け、部屋の中に日の光が集まるようにしてから、台所に立つ。
朝ごはんといっても、毎日それほど手の込んだものを作っているわけではない。出産してからはさらに料理には手を抜いた。だいたいが、焼くだけ、切るだけ、盛り付けるだけの料理とも呼べないようなものだ。
台所に出しっぱなしにしてあるトースターの中にパンを入れる。大きめのお皿には卵料理……今日はオムレツだ……と、サラダ、それに季節の果物を盛りつける。ヨーグルトもお気に入りの器によそう。あとは、ジャムとバターを出して、コーヒーをいれれば、それでおしまい。
夫を起こしに行く。
「朝だよ……あれ、起きてる」
寝起きが悪いほうではないけれど、起こさないと目を覚まさない夫が、めずらしく目を覚ましていた。そして、藍奈のことを抱っこしていた。
「ごめんね、泣いてた? 気が付かなった」
「ううん、泣いてはいないよ。僕がなんとなく起きただけ……で、起き上がったら、藍奈と目があって。泣きそうになったから、抱っこした」
にこにこと夫に報告される。
わたしはほんの少しうんざりする。布団の上のままで藍奈を手でぽんぽんすれば、もしかしたら泣かずに再び眠ったかもしれない。そうすれば、わたしは平穏に座って朝ごはんを食べることができたかもしれない。
しかし今、藍奈は無表情で夫の腕の中で目を大きく開いている。
夫にそっくりな二重の目だ。
ため息を胸の奥底に押し込んで、藍奈を受け取る。
「ありがとう。じゃあ、着替えて朝ごはんにしよ」
「うん」
夫が支度をしている間、藍奈を抱きながら食卓の椅子に座る。おっぱいを差し出してみると、大人しくくわえこんだ。
しかし、またすぐに泣き出す。むせて咳き込みながら、涙している。
「泣かれたって……。おっぱいの出る量まで調節なんてできないよ。頑張って飲んでよー……」
つぶやき、タオルでぐっと乳首を抑え込んで水鉄砲のような勢いを抑える。腕の中で藍奈はまた火がついたように泣いている。
「あれ? 波津子、藍奈また泣いちゃったの?」
「うん……むせちゃって」
「そっか~。あ、昨日ちょっと調べたら、しぼってからあげるといいって書いてあったよ?」
「……うん、そうだね」
寝不足でぼんやりする頭でうなずく。一日何度も数えきれないほど母乳をあげる。そのつど毎回しぼるのか。そんな面倒なことをしないとならないのか……。
さらに気が重たくなったところで、コーヒーメーカーのピッという鋭い音が藍奈の泣き声の合間をぬって聞こえた。
立ち上がりかけたところで、夫が手で制してコーヒーをいれてきてくれる。
わたしも夫もコーヒーがかなり好きなほうだ。朝の一杯だけは、コーヒーを飲んでも良いことにしていた。あとはすべて麦茶やルイボスティーなどカフェインレスのものにしている。
苦味のある熱いコーヒーをすする。ちょっとだけ、頭のかすみが取れる。
少し落ち着いて泣き止んだ藍奈は、わたしのすぐ横に置かれたハイローチェアの中で静かに天井を見上げている。私の右手はマグカップを握っていて、左手はひたすら休むことなくハイローチェアを押している。
「あ、波津子、実は、来週月曜、急に北海道のお客さんのところに行かないといけなくなって……一晩家を空ける、と思う。月曜の夜は北海道で泊まって、そのまま仕事に行って、火曜の夜は早めに家に帰るから」
「あ、そうなんだ。じゃあ、土日は簡単に出張の荷造りしないとね」
わたしの言葉に夫は申し訳なさそうにうなずいた。
「本当に、ごめん。波津子が大変なときなのに」
「別に、平気だよ。大丈夫。最近はお風呂もわたし一人で入れられるようになってきたし。でも……じゃあ、次の土日のお風呂は、二日間ともお願いしようかな。いつもは土日どっちかだけだけど」
「おーけー。あ、あと、じゃあ、波津子は北海道のお土産、何がいいか考えておいて」
わたしは笑顔でうなずく。
夫はわたしの好物をわかっているから、言わなくても好みのものを買ってきてくれるだろうけれど。お土産を何にするか、選ぶ楽しみができたことに少しだけホクホクする。
わたしにとって、この朝の時間が本当に自分を取り戻せる時間だった。
わたしと会話をしてくれる人、言葉を使って意思疎通をすること、当たり前のこの行為が、これほど自分を保つうえで大切なことだったのか、藍奈と二人きりの時間を過ごすようになってから、わかるようになった。
言葉を発して、わたしの思いを伝える。わたしの思いの中にいるわたし自身が、わたしの言葉で外へ出ていく。
言葉となったわたしの存在は、目の前の他者へ存在を知らせに行く。他者とは基本的には夫で。
当たり前だけれど夫はしっかりと、わたしの存在を認め、わたしの言葉を受け入れて、そしてわたしに、言葉を返してくれる。
わたしは一人ではないと教えてくれる。
腕の中に藍奈を抱いて、藍奈と一緒に夫を送り出す。玄関の扉が閉まっていく。完全に閉まると、オートロックの鍵がかかる。
カチャリという小さな音が、こぎれいにしてある玄関に響いた。
藍奈とわたし、二人きりの世界が、再び一寸の隙もなく、構築される。
◇
藍奈は泣き虫だ。
赤ちゃんは泣くもの、そうとわかっていても、こんなに泣くものだとは思わなかった。藍奈の機嫌が悪い日……それはだいたい、天気が悪い日……は、本当に、わたしは一日中胸をさらけ出している気がする。
常にすすり泣きながら吸い付いていて、少しでも口から乳首を離すと再び声をからして泣き叫ぶ日もあれば、吸うことも拒否、眠るのも嫌、オムツも問題ない、縦抱っこのときだけ泣くのをやめて、目に涙をためて、口をへの字にして、一点を見つめているときもある。
毎日、藍奈は違うことを要求していた。
縦抱っこの日、オムツがちょっとでも濡れていたら許せない日、ゆらゆら歩き回って揺られていたい日、ひたすらおっぱいをしゃぶっていたい日。
ただ、藍奈の表現方法は泣くことしかないから、結局のところ、毎日彼女はずっと、その小さな体であらんかぎりに泣いているのだった。
どうしてこんなに泣くんだろう、と、何度、座って膝の上にのせた藍奈を片手で支えながら抱っこして、反対の手でスマートフォンをいじって検索したか、わからない。
赤ちゃん、一か月、泣き止まない、という検索履歴のおびただしい数。
とりあえず、調べてわかったのは、赤ちゃんは泣く生き物だということ。あまり泣かない赤ちゃんもいるけれど、よく泣く赤ちゃんも当然いて、いろいろな赤ちゃんがいる、ということだった。
どの文章にも末尾に、赤ちゃんにはいろいろな赤ちゃんがいて、個人差がある、と何かの言い訳のように書かれている。
要はそれは、やるだけやったら、あとは、自分でその時その時の泣き止ませ方を探してなんとかしましょう、ということだった。
夫を送り出した後、わたしはたいてい大慌てで、毎日しなければならない家事を済ませた。台所へ行き、お昼ご飯に食べるおにぎりを握り、それから作り置きしておける夕飯を作ってしまう。買い物は週末に夫に行ってもらっているから、材料はすべて冷蔵庫にそろっている。
夕飯の支度をしてしまったあとは、簡単に掃除をする。わたしは、床に髪の毛が落ちているのが許せないタイプで、夫には掃除は毎日しなくてもいいと言われていたが、どうにも我慢できなかった。
もちろん、その間に藍奈は泣くこともある。運よくハイローチェアで揺られて騙されてくれているときもあるが。
泣き続けてしまうときは、そのつど、藍奈をあやしに行った。
どこかに、泣き続けてもお母さんが来てくれなかった子は、やがて泣かなくなる、と書いてあった。サイレントベイビーというらしい。そういう子はとても楽に思えるが、実際は、いくら泣いてもお母さんは来てくれないという経験が刷り込まれてしまい、大きくなったとき、とても自己肯定感の低い子どもになってしまうらしい。
ぞくっとした。
藍奈をそんなふうにしてはならない、そうなってしまったらわたしの責任だ。母親はわたしなのだから。
わたし自身、自分には自己肯定感がしっかりとあるとは、口が裂けても言えなかった。藍奈にはもっとおおらかに、自分を好きになってもらいたい、自信をもってもらいたい。
だから、藍奈がちょっとでも泣けば、なるべく早く、藍奈の元へ行くようにした。
当然、すべての作業が細切れになる。集中して始めから終わりまで、初めから終わりまで通しで何かをできるほうが少なかった。いつもは十分もかからずできるはずの、お味噌汁をつくるという行為に、一時間かかってしまうこともあった。
全部において、藍奈を優先しなければならなかった。
だって、藍奈は赤ちゃんなのだ。まだ首さえ座ってない、自分一人でできることと言えば、呼吸と、排せつと、泣くことだけなのだ。
わたしが藍奈を生かさなければならない。
責任感というほど立派なものではない、ただの重圧感から、わたしは藍奈の世話をしていた。
だからやることをすべてし終わったあとは、疲れ切った体をできるだけ回復させたくて、睡眠不足を少しでも解消したくて、基本的にはずっとベッドに横になっていた。
藍奈も一緒にベッドに入っていた。ダブルベッドの上にバスタオルを折りたたんでおいて、そこに藍奈を寝かせる。ベビーベッドにおいても泣くのが目に見えていたし、ベッドからベビーベッドまで、疲れ切った体でたった数歩でも歩いていくということが面倒くさかった。
マンションは共働きだったこともあって、駅近の少し家賃の高いところに住んでいた。高層マンションの十五階。寝室にはベッドだけが置いてあった。今は藍奈のベビーベッドと、オムツやおしりふきなどのストック、タオルやガーゼが小さなカラーボックスにちょうどよく収まっている。
大人のベッドのすぐ横の壁は一面の大きな窓。ベッドに横たわり、カーテンを開けて横を見ると、手を伸ばせば届きそうな場所に空と雲があった。はるか下には、ミニチュアの世界に住むおもちゃのような大きさの人が歩いている。
産後一か月経っていないから、まだわたしは外を出歩くことができない。当然、藍奈も一か月検診がまだなので、外へ連れていくことができない。
ひやりと冷たい一面の窓の向こうで、わたしが藍奈を産む前と同じように、世界が何一つ変わらずに歯車を立てて動いていることが、不思議だった。
わたしはここで、藍奈と何をしているんだろう。
唐突に、そんな疑問が浮かぶこともあった。
何って、育児をしているのだ。藍奈のことをお世話している。
だって、藍奈はまだ一人じゃ何もできないから。
窓の向こうの世界が、まるで別世界のように見える。ほんの一か月ちょっと前まで、わたしもあのビルの中で動く小さな人形のような大勢の人の一員だったのだ。
仕事を任され、仕事をこなし、仕事が評価され、業務が動き、お金をもらっていた。
ずっとそうして働いてきたはずなのに、その頃の記憶が夢のようにあやふやで、跡形もなくその事実は消えてしまったかのように感じる。
ちょうど、夢から目が覚めたあと、その夢の世界が、どこにも存在していないかのように。
横になりながら、空に手を伸ばした。冷たいガラスにぴたりと指先が吸い付く。
藍奈と、この二人きりのお城でずっと過ごしていく。
それは指先に触れた窓ガラスの冷たさと同じくらいさみしいことで、一面の晴れ渡った水色の空と同じくらい、幸せなことかもしれなかった。
横で眠っている藍奈を見て、そう思った。
◇
やっと土日がやってきた。
わたしは、平日よりも断然、休日のほうが好きだった。
やることは変わらない。むしろ、夫がいるから、昼間藍奈が眠っている間、眠っているわけにもいかないし、頼まれたわけではないけれど、ついくせで夫の分のコーヒーを淹れてあげたり、お菓子を出したりしてしまう。体力的には一人よりも夫がいるほうがつらいのかもしれない。
でも、夫が家にいてくれれば、会話ができる。おしゃべりができる。
笑い声が家の中に響くときもある。
土日の時間の経ち方は大体毎週同じだった。土曜日、午前中には夫が、わたしが書いた一週間分の献立に必要な食材を購入しにスーパーに行く。その間、わたしは藍奈のお世話をしつつ、掃除をする。土曜のお昼から、夫が朝ごはん以外、だいたいすべて作ってくれる。掃除も、日曜日は分担して一緒に行ってくれる。
もともと、共働きだったから、産後の家事の分担はとても楽だった。夫も生活をするためにどんな家事が必要なのかは理解していたし、わたしが担当していた分、自分が担当していた分とちゃんと把握している。藍奈が生まれてからは、わたしの担当していた家事を少し彼のほうにもっていき、あとは育児の部分の担当を分ければいいだけだった。
藍奈を産む前は、それですべてうまくいくと思っていた。
週末の土曜日。なかなか平穏な一日だった。夫は買い物でわたしの好物のみたらし団子を買ってきてくれたし、藍奈も昼間はぐずることなくよく眠ってくれた。平穏に、何事もなく一日が過ぎた。
しかし、夜中、みんなが寝静まった時間になると、やっぱりぐずぐずと夜泣きをした。
そして日曜になり、土曜の睡眠不足が祟ってきたのかもしれない。夫が作ってくれた昼ご飯のやきそばを食べながら、わたしは、どこから湧き上がっているのかわからないイライラを募らせていた。
土曜の夜中のぐずりを、藍奈はまだ引きずっていた。寝つきが悪い。眠りが浅い。いい加減眠いはずなのに、藍奈は寝ない。
寝ないということは、少しでも藍奈の気に入るようにできなければ、すぐに泣いてしまうということだ。
今日は抱っこさえされていれば満足、逆に言えば、一時も抱っこされないときがあってはならないようで、朝からずっと小さな体がわたしの腕の中におさまっている。
重い。痛い。いい加減、藍奈の重みで腕がじんわりとしびれてきていた。
「じゃあ、あとはやっておくから、波津子は藍奈を抱っこして座ってのんびりしててよ」
「うん……ありがとう」
この言葉のやり取りが、朝から何度夫との会話で交わされたのかわからない。
食べ終わったお皿も、全部夫が片してくれた。食後のノンカフェインのお茶もいれてくれる。
そこまでしてくれる夫。育児に協力的で優しい夫なのに、最後のたった一言、のんびりしててよというそんな小さな一言を流せず思考の中にとめてしまって、モヤモヤしている自分がいる。
モヤモヤというそんな優しいものではない。ひっかかった言葉は、そのまま、ささくれだった心から、大出血を引き起こしてしまいそうだった。
指先の小さなささくれ。これ以上引っ張ったら、絶対に血がにじむ。赤い血液がとめどなく流れ出て、痛い思いをする。わかっているのに、ひっかかった言葉を皮切りに、とめどなくあふれそうになる。
考えてみれば、どうしてわたしはずっと藍奈を抱いているのだろう。
抱くのは夫にだってできる。
いや、だって、夫はわたしの代わりに家事をしてくれているではないか。
だから、わたしが藍奈を抱くのは当然なのだ。だって藍奈の母親はわたしだから。
でも、夫だって藍奈のたった一人の父親ではないか。
終わらない藍奈の泣きに付き合っているのは、もう十分じゃないか。わたしだって、一つの作業を集中して初めから終わりまでやり遂げることがしたい。
掃除でも料理でも何でもいい。別のことがしたい。
いや、それは誰でもできることだ。わたしでなくても。藍奈のことは、わたしじゃないとできないことだから、わたしがやらなければならないのだ。
本当にそうなのかな。だって、わたしは藍奈を泣き止ますことができてなんて、ない。
わたしは、藍奈が泣き止むまで、ひたすらに付き合っているだけだ。
いつも、藍奈のことを考えている。
藍奈が眠っているときも、ちゃんと眠っているのかな、上を向いているかな、毛布が口や鼻を覆っていないかな、と気にかかるし、すべての手を尽くしても藍奈が泣きやまない時は、永遠と、どうして泣いているのだろう、どうしてわたしは藍奈を泣き止ませてあげることができないのだろう、藍奈のことを産んだのはわたしであるはずなのに、と、どうしてよいかわからず、途方に暮れた。
しかし、夫は違った。
藍奈が眠っていれば、全く気にかけず自分の好きなこと(好きなテレビ番組を見て大声で笑ったり、テレビゲームをし始めたり、スマホで漫画を読んでいたり)をしていた。
お風呂もそうだ。
藍奈を上手にお風呂に入れてくれる。
しかしそれでおしまい。
お風呂から出た藍奈を受け取って、バスタオルで拭って、おへそを消毒して、ボディクリームを塗りこんで短肌着を着せ、コンビ肌着を着せ、ロンパースを着せ、スタイを付けるのは全部わたしの役割なのだった。
夫は自分のやることをやったら、おしまい、機嫌よくビールなんかを飲み始める。
妊娠前に買った、わたし専用のノンアルコールのビールが冷蔵庫に数本ストックされていたが、わたしは飲む気になれず、一本も本数は減っていなかった。
いつまた藍奈が泣き出すかわからない、いつ藍奈がわたしを呼ぶかわからない、そんな状況で自分のための時間を作り出す気持ちになれなかった。
ほら、波津子もちょっとはゆっくりしたら? テレビでも見ようよ。
夫が誘ってくれる。うなずいて笑顔でソファーに座っている夫の横に行くが、そういうときでも必ず、ソファーの真横にハイローチェアを置いた。藍奈が泣いたときに、すぐに対応できるように。
夫はやることをやってくれている。わかっている。
好きなテレビを見て、ゲームをして、ビールを飲んで、何が悪いのか。
考えても全くわからなかった。
しかし、どうしても、夫のそれらの行為すべてが気にかかるのだ。
グルグルと回り続ける思考をとめようと、わたしはぐっと力をこめて目を閉じた。CDのオルゴールの音色に耳をそばだてた。
これ以上何かがあふれて出てこないように、わたしは考えるのをやめた。
夫がどれだけ育児に協力的か、わたしはどれほど恵まれているのか、夫に感謝すべきなのか、誰のおかげで生活できているのか、お金を稼いできてくれているのは誰なのか、自分のことを戒めるように、考えて、傷口を抑え込もうとすればするほど、ささくれを思いっきり引っ張ってしまいたい衝動に駆られるからだ。
音楽を変えよう。
藍奈を抱っこしながら、モーツァルトの曲をオルゴールで奏でていたCDを取り出した。
このCDは赤ちゃんがよく眠れると評判のものだ。藍奈の夜泣きがひどくあまりにつらかったときに、片手でいじっていたスマートフォンで開いていたサイトで見つけ、すがるような思いでぽちっと、買ってしまったものだった。が、効果はというと、わたしが眠たくなってしまうばかりで、藍奈には一切効いていないようだった。
ブックシェルフからラフマニノフのCDを取り出して、プレイヤーに入れる。ソファーに深く沈み込んで、ラフマニノフのピアノ協奏曲に目を閉じて耳を傾ける。
楽器はピアノ以外まともに引けなかった。ピアノも、そこまでうまくなる前にやめてしまった。自分は聴くほうが好きだと気が付いたからだ。
「あれ、CD変えたの」
「うん……藍奈にはあのCD効果ないみたいだし。わたしが聴きたいのを聴くことにしたの」
「いいね、ラフマニノフ、久しぶりだなあ」
洗い物を終えて戻ってきた夫が、ソファーの横に座る。手にはホットコーヒーの入った分厚いマグカップがある。
コーヒーの香ばしい匂いに癒される。本当は、その苦味を口の中で味わえば、もっとリラックスできるのだけれど。
ふっと鼻から息をはいて、もう一度、音に意識を集中させる。
ラフマニノフは久しぶりだ。いや、久しぶりどころの話ではない。すべてにおいて、藍奈を優先せず、自分の好きなものを優先したのは、産後初めてのことかもしれなかった。
そうだ、わたしはラフマニノフが好きだった。
ピアノの音色が好きだ。
オーケストラの多種多様な楽器の音色が重なるのもいい。
クラシックを聴くと、ほかのどんな音楽よりも抽象的で、包み込むように体にメロディがストーリーをもって染み込んでくる感覚を覚える。
それが、わたしは大好きだ。
夫と出会う前は、ひとりでよく、クラシックのコンサートを聴きに行ったし、夫と出会ってからは、夫も生演奏が好きだから、二人でよく聴きに行った。映画を見に行くことと同じような感覚で、コンサート会場に足を踏み入れた。
はっと瞳を開く。
腕の中で眠っている藍奈を見つめる。
藍奈は、気が付けばうつらうつら、目を閉じ始めていた。時たま、びくっと体を震わせ、そのせいで目をぱちっと開けることはあるが、すぐまた眠りの中に落ちそうになっている。ようやっと、眠る気になったらしい。
「もう、生演奏を聴きにいくのは無理なんだね」
こらえきれず、ポロリと口を出た。それから、自分の発言に驚いて口をぎゅっと閉じた。
今の、なんだか藍奈が邪魔みたいな言い方。
違うそうじゃなくて、そういうことを言いたかったんじゃなくって。
うまく言葉がまとまらないまま、黙り込んでいると、夫ののんびりした声が先に響いた。
「そうだなあ、次、波津子が聞きにいけるようになるのは、藍奈がだいぶ大きくなってからだろうなあ……あ、でも、ファミリーコンサートみたいなのって、確かやっているよね。赤ちゃん連れの人専用のクラシックコンサート、とかさ。そういうのに行ったらいいんじゃないかな」
夫の言葉に、そうだね、とあいまいな笑みを浮かべてうなずいた。
それから、また、目を閉じる。
音楽に集中しているふりをした。
本当は別のことでいっぱいで、ラフマニノフの繊細で優しく、荘厳な音の重なりに集中するなんて、もはや無理だった。
夫は当然のように、わたしと、藍奈と自分、三人でいく生演奏のコンサートを想定していた。
わたしは?
わたしは、わたし一人だけのことを、考えていた。
藍奈が安からな寝息を立て始めている。
わたしの腕の中で、それこそ、人から見たら天使の寝顔というやつだろう、気持ちよさそうに眠っている。
相変わらず、藍奈は体温の高い子だ。触れている腕が熱くなって汗ばむほどの体温をもって、ふわりと柔らかく、すべてをわたしに預けてきている。
その重みと熱さに、潰れてはならないと思った。どうしてこれほど無防備に、何の疑問ももたずわたしに体を預けてくれるのか、不可思議なことと思わないように、きゅっと藍奈を抱きしめた。
わたしは、藍奈の母親だ。
◇
子どもがほしいと望んだのは、わたしもだったし、夫もだった。気が付けば結婚して二年が経過していた。特に子どもができないようにと気を付けていたわけではない。
そういえば、赤ちゃん、なかなか来ないね……。
そう気が付いたのが、結婚して二年目だった。仕事にのめりこんでいたせいで、そんなに月日が経っていたことに気が付かなかったのだ。
二人でもう一度よく話し合い、わたしの年齢も、もう二十七歳。三十歳目前だから、もう少し、子どもを授かれるよう、積極的にいろいろなことに気を付けて、試してみよう、頑張ってみようという結論になった。
わたしは排卵検査薬というものを試すようになったし、なるべく夏でも体を冷やさないように気を付けるようになった。常備茶も麦茶はやめて、体を温めるというルイボスティーを飲むようになった。
そのおかげか、無事妊娠し、藍奈が生まれた。
妊娠がわかったとき、わたしは確かに嬉しかったはずだ。夫の喜んだ顔、わたしの両親や、夫の両親が嬉しそうな顔をしてくれたのも、喜びに感じた。
しかし、妊婦になってみて初めて、あれほどふくふくとして幸せを全身から発しているように見えた妊婦が、実は決して、幸福感だけをまとっている存在ではないということを、身をもって知った。
今まで腰痛になど悩まされたことがなかったのに、腰痛で、体を起こすのがつらくなった。足をつることも経験したことがなかったはずなのに、朝起きるたびに足がつった。
トイレも近くなり、夜ぐっすり眠れることもなくなった。
ひたすら吐いていた苦しい悪阻の時が終わったあとも、着々と大きくなるお腹や子宮のせいか、常に気持ち悪さ、圧迫感、息のしづらさがなくなることはなかった。
もともと体力があるほうではないからか、普通の速度で歩くとすぐに動悸息切れがして、体を自由に動かすこと、自分のテンポで歩くこともできなかった。
体の不調もだけれど、精神的な不調も相当だった。すぐに涙が出る。落ち込んでしまう。いつもは何ともないようなことが、引っかかり、夫に当たってしまう。
お腹が大きくなることは、赤ちゃんがすくすくと育ってくれている証なのに、足や腕、お尻にも今まで見たこともないような余分な脂肪がついていくことに、どうしようもない不安に駆られた。
当然、夫は変わらず、いや今まで以上にわたしを大切に扱ってくれた。何も不安要素はないはずだった。
いや、そうだ。夫に不安を感じていたのではなくて、自分自身に一番、動揺していたのだ。刻一刻と見たこともない体に変化していく自分の体が、怖かった。
そして、臨月に入り、破水、出産。
切迫早産や、重度悪阻など、もっと大変な妊娠期間を経て、出産する人だってたくさんいる。それに比べたら、わたしはなんと緩やかで幸せをかみしめることができる妊婦生活、マタニティライフだったのだろう、と思う。
しかし、思い返してみても、自分が、妊娠前、自分自身が思い描いていたような、こみ上げる幸福感を日々お腹が大きくなるにつれて感じている、幸せな妊婦だったとは、到底思えなかった。
赤ちゃんがほしいと思った。夫との子どもがほしいと願った。
だけど、たぶん、わたしはいい年をした大人なのに、妊娠による一つ一つの自分の変化を、母親になる喜びとして嬉々としてそのたびに味わい、受け入れることができなかったのだ。
妊娠してもギリギリまで仕事をしていた。
体調不良と精神不安に常に悩まされながら、目の前の業務をこれまで通りこなしていた。いつも通りの日常……少し自分のコンディションの悪い中での日常、をこなしていたら、気が付けば臨月前になり、産前の育休がはじまっていた。わたしはあと一か月もしないうちに母親になることになっていた。
藍奈を産み終えた瞬間、母親になったその瞬間は、なぜだか涙が止まらなかった。
生まれた藍奈を初めて抱いた感覚を、昨日のことのように思い出せる。
感動なのか、喜びなのか、全くわからない涙で頬がびしょびしょに濡れていた。
わたしの、汗でべったりの体の上にそっと置かれた藍奈。命の重さと反比例した体重の軽さに驚愕した。体全体を使って呼吸をしていた。皮膚のすぐ下に速く動き続ける熱い心臓があった。
泣き声は、そのまま命の声だった。
とにかく、守らなければならない。この子を大きくしないといけない。
藍奈を産んだ、たった一人の母親は、わたしなのだから。
藍奈が生まれた瞬間、わたしは、わたしの生きる世界、そしてわたし自身が、グルリと変化したことが生理的にわかったのかもしれない。それに衝撃を受けて、わたしはあれほど涙をとめどなく流し続けていたのかもしれない。
あの瞬間、藍奈は誕生して、わたしと同じ空気を吸い始め、わたしもまた、今までとは違う生き物として、生まれたのだ。
あの未明のとてつもなく寒い夜は、後戻りできない世界とわたし、それに、藍奈が生まれた瞬間だった。
◇
外がまぶしくて、目が覚めた。
わたしはベビーベッドにもたれかかるようにしていた。気が付けば眠ってしまっていたらしい。ベビーベッドの柵の間から、藍奈の眠っているベッドの中に右手を差し入れている。藍奈は両手をあげて、バンザイの格好で眠っていた。深く寝入っている証だ。
時計を見ると、わたしがいつも起きる時間よりも、一時間ほど遅かった。今日は夫が出張に行く日でよかったと思った。普通に出社する日だったら、今頃大慌てで準備をしなければならなかった。
ヒーターと床暖をつけに、リビングに行く。そのまま、朝ごはんの支度を始める。それから、洗濯機を回しに行く。今日は洗濯物も干さなければ。
冷蔵庫を開け、ベーコンが一番先に目に入ったから、今朝はベーコンエッグとサラダにすることにした。
サラダの準備をしたら、手際よく食事をするテーブルの上を片し布巾で拭いてランチョンマットを敷いた。
パンはわたしが食べたがっていた、近所のパン屋さんのマフィンだ。夫は土日の買い出しの時に忘れずに買ってきてくれていた。トースターの中にマフィンを置き、それから、バターとジャム、ヨーグルト用のハチミツもテーブルの上に並べる。
後はベーコンエッグを焼き、コーヒーメーカーのスイッチを押すだけ、というところで、洗濯機がメロディを奏でた。洗濯物が終わったらしい。
ここまで、藍奈はまったく泣く気配がない。
めずらしいな、と思いながら、ベランダに出て手早く洗濯物を干した。
外の風にあたりながら洗濯物を干すのは、ずいぶんと久しぶりだった。
「……さむい」
厳しい風の冷たさに、ひとり言がもれた。
冬晴れした空の下の、新鮮な冷たい朝の空気は、昨日までの空気を一掃し、外の空気を新しく満ちたものにしてくれているように感じた。常に寝不足で霞がかっていた、重い頭の中までクリアにしてくれるようだった。
すごく寒いけれど、気持ちがいい。
いつも窓の向こうの世界として眺めているだけだったけれど、たまにはこうやって、外の冷たい空気を思いっきり吸い込むのもいいものだ。だって、こんなに気持ちがいい。
干したばかりの洗濯物からは、いつものお気に入りの柔軟剤の匂いがする。
空は雲一つない、白や灰色に似た薄い水色だ。少しでも鋭利なもので突けば簡単に軽そうな音を立てて割れそうな薄い水色の一枚の大きなガラスに見える。
ぼうっと空を見上げる。次に静まり返った町を見下ろす。キンと冷えた風が前髪をすいた。
そのとき、風の音に隙間を縫って、かすかに泣き声が聞こえた気がした。
「ふあ……っああーん、うわああああん」
はっとして、踵を返して部屋の中に戻った。
寝室に入り、ベビーベッドを見下ろす。
しかし、藍奈はさっきと全く同じ格好で眠りこけていた。
……そら、みみ?
苦笑いをしてしまう。ついに外に出ていても藍奈の泣き声の空耳を聞くようになってしまった。わたしはいつも、藍奈の泣き声をいろいろな場所からかき集めて、拾い上げようとしているみたいだ。
寝室に来たついでだから、夫のことを起こす。出張で家を出る時間が遅いにしても、そろそろ起きてもいい時間だ。
相変わらず、夜泣きに一切気が付かず、眠り始めたら自分が起きる時刻までぐっすり眠ることができる夫だ。
しかし、今日は最近のわたしより、優しく夫を起こすことができた。
窓の外の世界は、すべて冷たく新しいものに切り替わっていた。空は出来上がったばかり、新品の透き通った水色のガラスのようだったし、吹き渡る風は遠く知らない世界から初めてここへやってきた空気の大きなかたまりだった。自然と、わたし自身もリセットできたような気がする。
今日、夫が出て行ってしまったら、その時から明日の夕方まで、わたしは藍奈と二人きりの世界にいることになる。でもきっと大丈夫。今朝みたいに、朝ごはんの支度をして、その間に洗濯機を回して、メロディが鳴ったら洗濯物を干せばいい。掃除だって適当でいい。藍奈の眠っている時に一つずつやれることをやれば、平気。
不思議な安心感とやる気を抱きながら、わたしはもう一度、今度は少し強めに夫を揺り動かす。
◇
様子がおかしくなり始めたのは、その日の夜十一時くらいからだった。
六時ごろに夜ごはんを食べ終え、寝る前すべてのことを終えたわたしは、藍奈をダブルベッドの横に置いて、夜八時には早めに布団の中にもぐりこんでいた。
ダブルベッドで夫がいない今日は、かなりスペースがある。昼間いつもそうしているように、夫がいない今晩は、バスタオルを敷いて、藍奈を横に寝かせてみることにしたのだ。
藍奈の息遣いが近くに感じられるから、泣いたときにすぐに気が付くし、おむつ替えも抱き上げるのも、簡単にできる。
横にいてあげるからか、藍奈の寝つきも良かった。
ほんの数時間前はそうだったはずなのに、今、藍奈は泣き止まない。藍奈が泣き止まないのはまあ、いつものことだとしても、一つ困ったことが起きていた。わたしの右胸が、気が付けば熱と痛みをもっていたのだ。
調べてみると、これがどうやら乳腺炎、らしい。
でも、ひどくなるとカチコチに硬くなり、自分でしぼることもできなくなる、という。痛いには痛いが、自分で胸を絞れないほどではない気がする。
乳腺炎とまではいかないけれど、なりかけているのかもしれない。
そういえば、眠る前、藍奈に授乳するとき、無意識のうちに左ばかりあげていたかもしれない。右胸を最後にあげてから、かなり時間が空いている。ベッドにもぐりこんでから、添い寝していたからか藍奈もめずらしくよく眠ってくれて、三時間が経っていた。その間、わたしも完全に眠っていたから、右胸の中で母乳がたまりにたまって、硬く張ってしまったようだ。
どうすればよいのか対処法を調べると、ひたすら、たまっているほうを赤ちゃんに吸ってもらうのが良いらしい。
そうとわかってからは、藍奈に右胸を飲んでもらおうとするが、藍奈は体の向きが嫌なのか、それともたまりすぎた母乳の味が不味いのか、右胸からは飲もうとしてくれない。
「お願い、飲んで……」
右胸の痛みに耐えながら、藍奈の口に右の乳首をくわえさせるが、藍奈は全力で嫌がって、まるでこのままでは死んでしまうとでもいうような声で泣き叫んだ。
時計を見る。もう深夜一時半だ。わたしがかたくなに右を飲ませようとしているから、藍奈はもうかなりの時間、母乳を飲んでいない。
お腹、減っているでしょう? だから泣いているんでしょう?
藍奈の泣き声はもはや超音波のようになっていて、うあああああ、うあああああ、と新生児特有の音と振動をもってこだましている。
しまいには、乳首を近づけるだけで体全体を振り絞って出したような、ぎゃあああという声を発するようになってしまった。
もう、わけがわからなくなっている。
いったん、落ち着かせようと、藍奈を抱き上げて、寝室の床を歩き回る。抱き上げた瞬間、右腕を持ちあげただけで、脇のあたりに痛みが走った。
「っつ……」
痛みで目をぎゅっと閉じる。
痛みをこらえながら、歩き回っても膝を屈伸させて上下に揺らしてみても、藍奈は顔を真っ赤にして、体を火照らせ汗をにじませて、力の限り泣いている。
当然だ、藍奈は今、抱っこじゃなくて、おっぱいを求めているのだから。
もう、いったん、諦めて、左胸から母乳をあげてしまおう……。
ベッドに腰かけて、左胸を差し出す。藍奈はフガフガ言いながら、右胸をあれほど嫌がっていたのが嘘のように、左胸に吸い付いた、が、左胸もそれなりにはたまっていたから、母乳の出の勢いがよかったらしい。
藍奈はすぐにガホっと咳き込み、口を離した。思いっきりむせたようで、ひえーっと変な音が小さな体から聞こえてくる。
「あ、待って」
慌てて、タオルで胸をおさえるが、うまくいかず、パジャマがびしょぬれになる。授乳ブラを直そうとしたが、とたんに藍奈が苦しそうに咳き込むから、ブラはそのままに急いで小さな背中を何度もさする。
首が座っていない藍奈の小さな頭が危なっかしく揺れる。
そうと思えば、思いっきりのけぞって、体をピンと張って、より一層にひときわ大きな声を上げた。うわあああああああ、うわああああああ、と力強い泣き声がほかに物音ひとつしていない部屋の中を響き渡る。藍奈、と呼びかけるわたしの声が完全に藍奈の泣き声にかき消され飲み込まれてしまう。
だめだ、このままじゃ。
「藍奈、ごめんね、ちょっと待ってね、今しぼるから」
抱いていた藍奈をそっとベッドの上において、大きめのタオルで右胸を覆ってから、ぎゅっと指で押し込んだ。硬い、しこりのようなものがある。それをぐりぐりともみほぐすように押し込む。
痛みのあまり、目を開けていられなかった。ぎゅっと閉じた目から涙がつたう。
産んだ後も、まだこんなに痛いことが残っていたなんて。
歯を食いしばりながら絞り続けていると、少しずつ、普段の柔らかさが戻ってきた。タオルはもうしぼれるほどびちょびちょだ。新しいタオルにかえて、今度は左胸を少ししぼる。それからまた、右胸をぐいぐい押して柔らかさを取り戻していく。
その間、藍奈はずっと泣いていた。
胸をぎゅうぎゅうと押して激痛に耐えていると、ようやく痛みがましになり、全体的に柔らかさが戻ってきた。藍奈を抱き上げる。縦抱っこで背中をとんとんとたたき続けると、少しずつ、藍奈の泣きが落ち着いてきた。
藍奈の泣き声が止み、体全体で呼吸を整え始めたところで、そっと右胸を差し出した。藍奈は抗うことに疲れたように、ぱくっと出されたものを口に入れた。そしてぐいぐいと力強く吸い始める。
おそるおそる右胸を触ると、もう、ふにゃふにゃのいつも通りの感触だった。藍奈の吸いの力強さに半ば感動しながら、今度は左胸を差し出す。こちらもまた、夢中で目を閉じて吸いついてくれる。
「ごめんね、もっと早くしぼってあげればよかったね、ごめん……」
小さな声で語りかけながら、母乳を吸う藍奈をぎゅっと抱きしめた。
吸ってしまえば、あれだけ泣いた後だから、藍奈は疲れてすぐに眠りについた。
しかし、両方の胸を吸って、すっと眠りに落ちた、と思ったのもつかの間だった。
わたしのすぐ横に寝かせると、びくっと体を震わせ思いっきり伸びをした。その瞬間、大きな音が響いた。藍奈の目が驚いたようにぱっちりと開く。
ああ、オムツを替えなければ……。
寝落ちしてくれたかと思ったのに。
藍奈はうんちで不快なオムツのせいで、再びみるみるうちに泣き顔になっていく。
「待ってね、今、オムツ替えてあげるから」
オムツを替えて、綺麗にする。それでも、藍奈は泣き止まない。いやいや、とぐずぐず泣き続けている。
一応、胸を差し出してみたが、首を左右に振って顔を思いっきりのけぞらせた。さっきあれほど母乳を吸っていたから、お腹いっぱいなのだ、当然の反応だ。
縦抱っこをして寝室をぐるぐると歩き回る。屈伸運動もしてみる。ハンモックで揺られるように横方向にゆらゆらと揺らしてみる。
いつもは少しずつ小さくなる泣き声が、まったく、小さくならない。
素足で冷たい床を歩いているから、つま先は氷のように冷たく、感覚がなかった。しかし、藍奈を抱いているからか、体全体が寒さでこごえるようなことはない。
腕の中で、うわあん、ふわああん、と泣き続ける藍奈を見つめる。
生まれたときとずっと同じ声質、聞き続けてきた泣き声。
小さな手、小さな足。目をぎゅっと閉じて、顔をしわくちゃにして涙を流す、泣き顔。
ここ何週間も、ずっと見続けてきた、涙をしぼりだす顔だ。
それなのに、わたしは藍奈が伝えたいことが、わからない。
「ごめんね、藍奈。ごめんね……。ねえ、泣かないで。ごめんね、お願いだから……」
わたしの意味のない言葉が、藍奈の泣き声にかき消されて、誰の耳に届くこともなく消えていく。
暗闇が、藍奈の泣き声だけで満たされていく。冷たい夜の静謐な空気は跡形もなく消えていた。
藍奈とわたしの二人だけのお城の中は、わたしの存在などほとんどないに等しかった。藍奈というたった一人の赤ん坊の存在によって、闇夜の熱帯雨林の中のような生命の息遣いと荒々しさが、泣き声にのって部屋中に波のようにうねりながら、広がっていった。
この子は、いったいどうしてこんなに泣くのだろう。
わたしは、どうしてこの子を泣き止ませることができないのだろう。
藍奈はなんて言っているんだろう。なにをしてほしいんだろう。
「ごめん……藍奈……」
わあああああん、ふあああああああん、と小さなこぶしをぎゅっと握りしめて泣き続ける藍奈。しかしわたしはもう、抱っこしているのも疲れてしまった。
そっと、ベッドの上に置いてみる。
当然、藍奈は泣いている。
泣き続ける藍奈を見下ろしていると、じわじわと、涙がにじみ出てきた。鼻の奥がつんと痛み、目の先が熱くなる。
藍奈の汗と涙で湿った空気に、わたしの涙が混じり始める。二つの涙のさざ波が交差しながら、部屋中にいきわたり、壁にぶつかり、揺らぎながら上へ下へ、右へ左へと、満ちていく。
わたしはどうしたらいいんだろう。
藍奈の母親のはずなのに、どうして藍奈を泣き止ますことができないんだろう。
ねえ藍奈、わたし、あなたがなんて言っているのか、本当にわからないの。
臨月前になってもギリギリまで働いていたから?
体調不良と片付けて、折り合いをつけて仕事を優先していたから?
新しい体の不調が出てくるたびに、お腹の中にいる藍奈の存在と対峙していなかったから?
こうなってしまった現状の、過去の原因を探し求めて、どんどん自分を責め立てる。
わたしはひとりぼっちだ、と、思った。
二十八年間、生きてきた自分自身は、どこにもいない。
わたしがよく知っているわたしは、母乳がでることはなかった、胸が硬く痛くなることもなかった、腰が痛くなることもなかった。
赤ん坊の泣き声の空耳をしょっちゅう聞くこともなかった。
お腹だけでなく、いたるところにあんなに余分な肉がつくこともなかった。
大好きなコーヒーを自分から避けることもしなかった。
生演奏を聴きにコンサートへ通うことを、我慢することもしなかった。
今のわたしは、全然知らないわたしだ。
わたしは誰なんだろう。
ここはどこなのだろう。
どうしてここにわたしはいるんだろう。
何もわからなくなった。子どもに戻ってしまったかのように、嗚咽を漏らして涙が流れる。
藍奈の泣き声がとまらない。そして、それは、わたしも。
藍奈の熱い大粒の涙が密林のスコールのように振り続けている。激しい涙の波とわたしの嗚咽の混じった涙の波がこの薄暗い部屋で追いかけっこを始めている。混ざり合って、溶け合って、生命の濃さを保ちながら、空気がより一層本物の海の湿度、しょっぱさと似たものとなっていく。
何を泣いているんだろう。
なんて情けないんだろう。
わたしは誰って、藍奈の母親に決まっている。世界中でたった一人の母親だ。
もう、母親になってしまったのだ。わたしはこの子が大人になるまで、なんとしてでも育てなければならない、守らなければならないのだ。それが、永遠と同じくらい、長い時間だとしても。
わたししか、いないのだ。
ベッドの上で体を硬直させて泣き続けていた藍奈を抱き上げる。
二人分の涙でいっぱいになった部屋の中は、冷たい灰水色をした果てしない海原だった。
そこにポツンと小さな船があるのだ。その船には、この海原の波を左右する命がのっている。藍奈だ。藍奈の中には、雷鳴がとどろき、大粒の雨が落ち、熱帯植物がお生い茂る密林がある。命のかたまりの、藍奈。
わたしと藍奈だけが、この船の乗員だ。
自分自身も全く知らない世界の海を、わたしは何よりも重たい命、藍奈を抱き続けながら、一人、オールを一生懸命にこぐ。
もう、船はとっくのとうに出てしまった。その船にわたしと藍奈は乗っている。わたしはこぎ続けるしかない。
行先もここがどこかもわからないが、藍奈を乗せて船出してしまった今、この船が冷たい海底に沈まぬように、波に飲み込まれて生命の熱さが掻き消えないように、こぎ進み続ける。
それしか、わたしには、手段がないのだ
はっとして目が覚めた。
部屋の中はもうすでに明るかった。朝の光が部屋いっぱいに満たされている。
真冬でこの明るさということは、いつも起きる時間よりだいぶ遅い時間になってしまっているようだった。
「あ、藍奈っ」
ぱっと体を起こし……そうになって、慌ててかたまった。藍奈の体の下にわたしの左腕が入っていたのだ。わたしはそのままの状態で、藍奈をじっくり観察する。
藍奈は、わたしの横ですうすうと深い寝息を立てていた。気が付かないうちに二人で眠ってしまっていたらしい。
ああ……よかった。
ほっと胸をなでおろす。藍奈の口や鼻を毛布や布団で覆ってしまうこともしていなかったし、自分の手や肩で藍奈の小さな体を踏んでしまうようなこともなかったようだ。
本当に、昨日あれだけ眠らずに永遠と泣いていたのが嘘だったかのように、藍奈は眠りに落ちていた。自分がどうやって藍奈を寝かしつけたのか、記憶にない。
目をこする。じんわりと熱を持っていた。目がひどく腫れていそうだ。
とりあえず、体を起こそうと思って、なるべくそうっと左腕を引き抜く。
目を覚ましてしまったらどうしよう。また泣かれるのが怖い……お願い、起きないで寝ていて……。
懸命に祈りながら、ゆっくりゆっくり、左腕を引き抜く。
引き抜いた、その直後、藍奈の体がびくっと動き両腕が動いた。
あ、泣く。
思わず、体がこわばる。固唾をのんで藍奈を見つめる。
起きた?
あ。
笑った。
藍奈は、目を細めて、口をにっこり逆三角の形にさせて、さも自然そうに、ふわりと笑みを浮かべた。
「藍奈……っ」
小さな声で素早く藍奈の名前をさけんだ。
その笑みは一瞬で、すぐに藍奈はいつもの寝顔に戻った。
生理的微笑だ。新生児の赤ちゃんに見られる笑み。特に嬉しい気持ちや楽しい気持ちがあるわけでなく、生理的に浮かべる微笑。
すぐにそうだとわかった。
わかったが、その笑みは、昨日あれほど泣いたわたしの目から再び涙をぽろっとこぼれさせた。
藍奈、笑った。
藍奈の笑顔を見て、初めて、そして唐突に、藍奈がこれまでずっと泣いてきた意味がわかった。
ああ、気が付かなくてごめんね。
藍奈はずっと、きっと、あの必死の泣き声で、たった一人のお母さんであるわたしのことを呼んでいたのだ。
体全体を使って声をとどろかせ、大粒の涙をスコールのように激しく降らし、生命を息づかせる熱さで、ひたすらに、懸命にお母さんと呼んでいたのだ。
藍奈が唯一できる、泣くという表現で、世界中の誰よりも、強く、わたしを求め、必要だと叫んでいた。
泣くことは、わたしに対する愛の表現だったのだ。
大好きだと、そんな言葉さえ知らないから。小さな体を揺らして、あらんかぎりの声で呼んでくれていたのだ。
ぽろりと一粒の涙が頬を転がり落ちた。つーと涙の通り道を残していく。
藍奈、わたしも、藍奈のことが大好きよ。
お母さんも、世界中で誰よりも一番あなたのことが好きで、大切。
胸の内でつぶやいた言葉は、誰にも聞こえることなく、わたしの中で静かに波紋とともに体中に満ちていった。
心からの自分のつぶやきに、胸がじんと痛んだ。
そして、痛みをかみしめながら、藍奈の寝顔をいつまでも眺めていた。
昨夜の交錯した涙の海原は、朝の陽の光と共に、透き通って消えていた。残ったのは、ちょっぴりしょっぱい涙の匂いだ。
藍奈の鼓動の振動とともに、薄青く透き通った空から降り注ぐまぶしい光が、窓ガラスを通って、部屋の中の空気の粒子、一粒一粒をと縫いつけられていく。あたたかい、空気の層が何層にも重なり合って、藍奈の体温の温かさが部屋中に満ちていく。
そのうち、涙の匂いも消えるだろう。
藍奈の、ほんのり母乳の匂いがする、甘く柔らかい吐息が部屋いっぱいに満ちるだろう。
藍奈、と胸の内で呼ぶ。寝顔を見つめながら、何度でも、呼ぶ。
いくらでも、どんな方法でも愛を伝えることができる。
わたしはこの子の、世界でたった一人の母親だから。
スコールの海を抜けて